スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
先生と呼ぶ理由 ,戸棚 ,奥さんの呼びかけ 。これらのエントリーにおいては,石原千秋の『『こころ』大人になれなかった先生』を参考にしました。この本自体について簡単に紹介しておきます。
題名からも分かるように,これは『こころ』に特化した文芸評論です。ただし,同じように題名から想像できるように,とくに先生について書かれたものであるかといえば,必ずしもそうではありません。三部構成となっていますけれど,第一部は確かに先生についての記述ですが,第二部は私について,そして第三部は奥さんについての記述が多く含まれています。
石原は基本的に僕のいう作家論と作品論 では,作品論の方を重視します。この本も確かにその傾向が強く出ていて,『こころ』のテクストをどう解読するかということが中心のテーマです。そしてこの本は,石原が解読するための『こころ』のテクストが,そのまま掲載されています。つまり本全体の分量のうち,概ね4分の1くらいは,『こころ』のテクストです。このような手法を採用したことについて石原は,『こころ』に限らずもう漱石が読まれなくなっているということを身に染みて感じているからだとしています。ただ,僕はさすがにこれは親切すぎるというか,丁寧すぎるように感じました。そもそも漱石のテクストを知らない読者が,ここに掲載されている部分的なテクストを初めて読んだだけで,石原が論じていることを理解することができるというようには僕には思えなかったからです。
同じ石原の『反転する漱石 』に比べると,ずいぶん読みやすくなっています。これは石原が読者として高校生を想定しているためのようです。研究のレベルを落とすことなく読みやすい文体を作るということが石原のテーマで,それを最も徹底したのがこの本であると石原はいっています。成功しているのかどうかは,各々で判断するほかないでしょう。
「天文学者 De astronoom 」が描かれた1668年以前に,レーウェンフック Antoni von Leeuwenhookがレンズ の研磨に関わるスピノザの名声 を知り得たこと。それがマルタンJean-Clet Martinの推理を成立させる必須条件です。
『フェルメールとスピノザ Bréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza 』では,レーウェンフックはスピノザが磨いたレンズを用いて赤血球を発見したことになっています。これが史実で1668年以前の出来事であれば,それ以上の調査は不要です。しかし僕が有する資料では,史実であると確定できません。さらにマルタンは発見がいつのことであったかも明示していません。これでは推理の正しさを僕は証明することができません。ですからここでは別の探求をします。
まず,「豚のロケーション 」に示されているレーウェンフックの『ミクログラフィア』は,1664年に書かれたものです。したがってレーウェンフックはそれ以前に顕微鏡を使った研究を開始しています。なのでレーウェンフックに,1668年以前にスピノザを知る契機があり得たことは僕は認めます。
『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』書簡一は,オルデンブルク Heinrich Ordenburgが旅を終えてロンドンに帰ってすぐにスピノザに出したものです。日付は1661年8月16日付。このときスピノザはレインスブルフRijnsburgに住んでいました。
ファン・ローン Joanis van Loonは1660年にライデンLeidenでスピノザに会っています。それによればスピノザは1656年のおそらくパフォーマンス による追放の後,活動拠点 はアムステルダムにあったと僕は思いますが,アウデルケルク Awerkerkの近くに家を借り,光学を勉強しました。子どもの頃に,レンズを磨く手仕事を習得するため見習いに出された時期があり,当時から光学に興味を抱いていたため,本格的に勉強したとなっています。ただ,アムステルダムにスピノザを指導者と名乗る宗教家が現れ,それが本意でなかったので,アムステルダムから離れたレインスブルフに引越したというのが,スピノザがローンにした説明です。つまり1660年の時点でレインスブルフにいたことになります。
レインスブルフは宗教に関して独自の意見をもつことに寛容な地であったそうです。ローンはスピノザにとっては理想の地であったと書いています。
もしも人間的自由 が存在するとすれば,そこには能動的自由と受動的自由のふたつがあるというのが,僕のスピノザが人間についての自由libertasをいう場合の解釈です。まずそのうち,能動的自由について考えてみます。
第二部定理一三 は,人間の身体humanum corpusと精神mens humanaが同一個体 であることを意味します。第二部定理七 は,同一個体の秩序ordoが一致することを示します。したがって人間の能動 actioとは,身体の能動であり同時に精神の能動actio Mentisであることになります。よって,能動的自由について考察する場合,身体を対象に据えても精神を対象に据えても,得られる結論は同じことになります。そこでここでは精神の能動,すなわち理性 ratioについて考えます。この方が,能動的自由という場合のスピノザ哲学における概念notioがよく理解できると思うからです。
精神の能動といわれたとき,大抵は自由な意志voluntas liberaによって何事かを思惟することをイメージすると思います。とくにここでは能動的自由について考察するのですからなおさらでしょう。でもスピノザの哲学における能動的自由はそのような自由ではあり得ません。これは第一部定理三二 から明白です。スピノザはそのような意味での自由意志が存在することを認めていないからです。
第三部定義二 から,精神の能動とは,その精神が十全な原因causa adaequataとなって発生する思惟作用のことです。そしてその思惟作用は,ある精神が現実的に存在する限り,第二部定理九 の仕方で発生します。第二部定理四九 で,個々の観念ideaと個々の意志作用 volitioが同一視されていることからこれは明白です。ただそれが第二部定理九の仕方で説明されるとき,精神が十全な原因であるのなら,それは能動的自由とみなされるというだけのことです。
精神が自動機械 automa spiritualeであるということは,精神が受動的な場合にのみ妥当するのではありません。精神が能動的である場合にも同じように妥当するのです。いい換えれば,精神が十全な原因である場合にも,あくまでも機械的に,あるいは自動的に,そこから結果effectusが発生するのです。これが人間の能動的自由なのであり,それは意図的に選択できないし,拒絶もできないのです。
顕微鏡学者であったレーウェンフック Antoni von Leeuwenhookは,当時の自然科学者が全般的にそうであったように,実験用具を開発する技術者でもありました。つまりレーウェンフックは単に顕微鏡を用いて観察をしていたというわけではなく,顕微鏡の製作者でもあったのです。一説ではレーウェンフックは生涯で400を超える顕微鏡を製作したといわれています。そしてその一部は現存しています。
顕微鏡の性能のために最も重要なのは,ホイヘンス Christiaan Huygensの望遠鏡がそうであるように,レンズ です。つまりレーウェンフックは自らガラスを磨いてレンズを製作していたのです。レーウェンフックがフェルメールJohannes Vermeerにスピノザを紹介するための最低限の条件 を満たす要素,いい換えればレーウェンフックがスピノザという名前を知る契機になり得る最大のポイントはここにあると思われます。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizからの『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』書簡四十五は,ライプニッツのレンズ研磨あるいは光学に関する試論の論評をスピノザに依頼するという内容です。僕は,ライプニッツはスピノザの哲学に興味があったのであり,この書簡というのは,スピノザへの接近を図るための手段にすぎなかったと思っています。しかしこれが手段となり得たのは,スピノザがレンズ研磨の,あるいは光学の第一人者的地位にあるということが歴然とした事実であったからだと解するよりありません。そうでないとしたら,ライプニッツはもっと別の方法でスピノザとの接触を企てたであろうと思われるからです。ホイヘンスもケルクリング Dick Kerkrinkもスピノザの技術を称賛しているという点に鑑みても,この方面でのスピノザの名声は広くわたっていたと判断してよいものと思います。自身もレンズを製作していたレーウェンフックがそれを知ったという可能性は大いにあるといわなければならないでしょう。
ただし,マルタンJean-Clet Martinの推理に関連させるなら,ライプニッツからの書簡には重大な難点が含まれています。それはこの手紙の日付が1671年10月になっている点です。「天文学者 De astronoom 」は1668年に描かれています。それ以前に,フェルメールはレーウェンフックからスピノザを紹介されていなければなりません。
友好交流20周年の第36回サンタアニタトロフィー 。クラシカルノヴァが右前球節炎で出走取消となり15頭。
最内枠から押してトーセンアドミラルがハナへ。ソルテが2番手でがっちりとマーク。セイントメモリー,ケイアイレオーネ,ゴーディーの順で続き,その後ろにカキツバタロイヤルとムサシキングオーが併走。最初の800mは48秒7のミドルペース。
3コーナーを回るとソルテがトーセンアドミラルの外に並んでいき,一時的に後ろとの差が開きました。トーセンアドミラルは4コーナーまでで一杯になり,ソルテが単独の先頭に。追ってきたケイアイレオーネは手応えがよさそうに見えたのですが,思いのほか差を詰めるに至らず,ソルテの優勝。ケイアイレオーネが2馬身半差で2着。ケイアイレオーネの外から最後は差を詰めたカキツバタロイヤルが半馬身差で3着。
優勝したソルテ は先月の京成盃グランドマイラーズ に続き4連勝。南関東重賞は3連勝で5勝目。今日は斤量が増えていて,転入馬も含めて相手強化と課題はありましたが,克服しました。久々だったとはいえ2着馬は重賞2勝の強豪ですから,これを退けた点には価値があったのではないでしょうか。レース振りが安定していますから,大きく崩れることは考えにくく,この路線ではしばらく中心的存在であり続けるでしょう。適当なレースがあれば重賞にも挑戦してほしいところです。父はタイムパラドックス 。祖母のはとこに2003年の新潟ジャンプステークスを勝ったマルゴウィッシュ 。Sorteはイタリア語で運命。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手 は南関東重賞は京成盃グランドマイラーズ以来の制覇。サンタアニタトロフィーは初勝利。管理している大井の寺田新太郎調教師もサンタアニタトロフィー初勝利。
スピノザとライプニッツ の会見が史実として確定できるのは,ライプニッツがメモを残したからです。その中に,スピノザとデ・ウィット の関係の冒頭で示した,デ・ウィットの虐殺の後,それを非難する貼紙をしに行こうとしたが,大家によって止められたというスピノザの話があります。このことから分かるのは,スピノザとライプニッツの会見では,哲学的な話題だけが独占的に話されたわけではないということです。ライプニッツがいうように,何日間にわたって何度か話し合ったとすれば,それはむしろ自然なことであって,他愛のない世間話もあったと理解するのが妥当であると思います。だとしたら,ライプニッツが自身の行動についてスピノザに対して話したという可能性は否定できません。ライプニッツは直前にレーウェンフック を訪問しているのですから,そのことをスピノザに伝えたと仮定しても,極端に無理が生じるわけではないのです。
同じことが,ライプニッツとレーウェンフック の会見にもいえます。こちらの会見はそう長い時間であったわけではないようなので,スピノザの場合と同一視することはできません。しかしライプニッツが,自身のその後の行動の予定として,スピノザを訪問することをレーウェンフックに喋ったとして,それが極端に不自然であるということはできないでしょう。1676年の時点でこれをいうことは無意味ですが,こちらの場合の方が現在の論点としては重要です。
レーウェンフックがフェルメールに対してスピノザを紹介するとして,スピノザとレーウェンフックが会ったことがあるというのは絶対条件ではありません。同様に,スピノザがレーウェンフックのことを知っているということも絶対条件ではありません。レーウェンフックがスピノザのことさえ知っているならば,何らかの機会に,レーウェンフックがスピノザの名前をフェルメールとの会話の中で発することにより,フェルメールはスピノザを知ることになるからです。
要するに『フェルメールとスピノザ 』におけるマルタンの推理を成立させるための最低限の条件は,レーウェンフックがスピノザを知っていたという点にあります。
GⅠから中3日で開催された福井記念の決勝 。並びは早坂-大槻-明田の北日本,森川-柴崎の中部,脇本-稲垣-伊藤の近畿で岩津は単騎。
スタートを取った森川の前受け。3番手に早坂,6番手に脇本,最後尾に岩津で周回。結果的に岩津は近畿を追走のレースに終始しました。残り3周のバックの出口から脇本が上昇を開始。ホームでは早坂を牽制しつつ,バックでゆっくりと森川を叩いて打鐘。すぐに早坂が巻き返しに出て,ホームでは脇本を叩き返し,北日本ラインの先行に。後方になった森川はバックから発進したものの,稲垣に牽制されて出られず。脇本は最終コーナーの入口から発進。逃げた早坂,番手の大槻,捲り追い込みになった脇本の3人が折り重なるようにゴール。何とか前を捕えた脇本の優勝。8分の1車輪差の2着に大槻。半車輪差の3着に早坂。
優勝した福井の脇本雄太選手は昨年の福井記念 以来1年ぶりの記念競輪4勝目。福井記念は連覇で2勝目。ここは前を回った3人の中では力量上位と思われ,最有力と考えていました。ただしレースの内容では早坂に完敗で,かなり苦しい展開に。それを逆転したのは力がなせる業であったといえます。早坂も力をつけているのは確かでしょうが,もう少し内容面が充実していないと上位で戦っていくには厳しいのではないかという印象があります。期待している選手であるだけに,優勝しても少しばかりの不満が残りました。
パリでチルンハウス Ehrenfried Walther von TschirnhausはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに出会い,『エチカ』の草稿の内容を何らかの形で教え,レーウェンフック Antoni von Leeuwenhookの顕微鏡観察の発見に関するニュースも伝えたことになります。チルンハウスからスピノザへの書簡で『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』に収録されているのは,1676年6月23日付で,パリ発になっています。スピノザはこの後,11月にライプニッツの訪問を受け,翌年の2月に死んでいます。だからチルンハウスとスピノザは,この後は会っていない筈です。チルンハウスからスピノザへの書簡は,直接のものであれシュラーGeorg Hermann Schullerを介したものであれ,レーウェンフックには触れていません。なのでチルンハウスがスピノザにレーウェンフックに関して何かを教えたことはなかったと思います。ただ,ライプニッツにそのニュースを伝えたということは,何かそこに意味を見出したからだと思われます。機会があればスピノザに伝えたかもしれません。
一方,スピノザとライプニッツ が面会する直前に,ライプニッツがレーウェンフックを訪ねたことにも,何らかの意味があったかもしれません。というのもスピノザと会見する前のライプニッツの行動というのは,すでに示唆したように,その会見のための準備という意味合いが大きかったと思われるからです。ですからライプニッツが単に有名な人物であるからという理由だけでレーウェンフックに面会したということは考えづらいのです。僕は少なくとも,ライプニッツは何らかの哲学的意図があって,レーウェンフックにも会ったのだと思っています。ただしそれがスピノザの哲学に直接的に結び付くのかどうかは分かりません。宮廷人 であったライプニッツは,スピノザの哲学の中には自身が対決しなければならない部分があるということをすでに自覚していたと僕は理解します。レーウェンフックの発見は,その対決のための補助になるというようにライプニッツが考えたという可能性も否定できません。
ライプニッツはかなり短期間でレーウェンフックとスピノザの両者と会ったことになりますが,関係をとりもつ存在ではあり得ません。ただこの時間の近さに,まったく意味がないともいいきれません。
小橋建太 が三沢のパートナーになる以前,三沢と組んでいたのが川田利明です。三沢と同じ高校のレスリング部の1年後輩。三沢は1980年の国体で優勝していますが,川田も1981年の国体で優勝しました。1982年3月に三沢を追うように全日本プロレスに入団。10月にデビューしました。
プロレスラーとしての第一の転機は1987年のピンチ 。長州力 の離脱で天龍源一郎 がジャンボ・鶴田 と戦うようになったとき,天龍のチームに入りました。必然的に上のクラスで試合が組まれるようになりました。
第二の転機が翌1988年11月。天龍のパートナーだった阿修羅・原の解雇です。すぐ後の世界最強タッグ決定リーグ戦のパートナーがいなくなった天龍は,チームの一員から,キャリアの長かったサムソン・冬木ではなく川田の方を指名。このリーグ戦で奮戦することによって,川田の人気は一気に高まったと僕は思っています。
1990年4月,天龍が退社。退社直後の東京都体育館 での試合でタイガー・マスクと組み,試合中にマスクを脱がせました。ここから超世代軍の一員となり,小橋の台頭はありましたが,三沢の正パートナーは川田という時代が長く続いたというのが僕の理解です。
1992年に鶴田がセミリタイア。翌1993年4月からは超世代軍を離脱。ここで三沢の正パートナーが小橋となり,川田はそれまでは敵対していた田上明 と組むようになりました。これは正しい判断だったと僕は思っています。川田の魅力は上位の選手にぶつかっていくことで最も発揮されるのであり,鶴田が不在となったなら,三沢と戦うのが最良の選択であったと思うからです。
全日本でデビューしてトップクラスまでいった他の選手,鶴田,天龍,三沢,田上,小橋,秋山は,わりと早い段階から脚光を浴びていて,それほど長い下積み時代を送ってはいません。川田だけはそういう時代があり,特異な選手であったと思います。たぶん馬場は,川田がこのクラスまでいく選手であると思っていなかったのだろうと推測します。
シュラーからの『スピノザ往復書簡集 』書簡六十三,1675年7月25日付によれば,この時点でチルンハウス はイギリスにいます。ロバート・ボイル Robert Boyleとオルデンブルク Heinrich Ordenburgはスピノザに対して偏見を抱いていたけれども,チルンハウスが説得したという主旨のことが書かれています。この直前にスピノザとオルデンブルクの文通が再開されているので,確かにチルンハウスはオルデンブルクに会い,文通再開の仲介をしたものと思われます。ただし,ボイルとオルデンブルクが抱いていた偏見というのは,その両者からみれば偏見ではなかった筈です。スピノザとボイルそしてオルデンブルクは,哲学と神学の関係には,異なった見解を有していたからです。逆にいえばおそらくチルンハウスは,スピノザが示した『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』での哲学と神学の棲み分けに関して,スピノザと同じような見解を有していたのだと推測されます。
シュラーからの書簡七十,1675年11月14日付では,チルンハウスはパリにいます。ホイヘンス と会った報告が書かれています。スピノザはホイヘンスに『神学・政治論』を送ったらしく,ホイヘンスはそれを読んでいました。それでほかに何か出版物はないかと尋ねられたので,チルンハウスは『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』以外には知らないと答えたそうです。
この答えは嘘ではありません。実際にそれ以外には何も出版はされていないからです。しかしこのときにはチルンハウスは『エチカ』の草稿を入手し,携えていた筈ですから,それ以外の答え方もできたのです。しかしそれについては何も教えず,教えなかったことはスピノザを満足させるとチルンハウスは考えていました。
この書簡七十は,ライプニッツに草稿を見せることの許可を求める手紙です。なので僕は,ホイヘンスは草稿を読ませるには適した人物ではないけれど,ライプニッツは読ませる価値がある人物だと,チルンハウスは判断していたと解釈します。その場合,チルンハウスは個々の哲学的能力からそう判断したかもしれません。ただ,僕が推測したホイヘンスのスピノザ観 に似たようなものを、面会したチルンハウスが感受した可能性もあると思います。
レッシングGottfried Ephraim Lessingがスピノザを「死んだ犬 」といったことを不自然な表現であるとみなしたのはイルミヤフ・ヨベルYirmiyahu Yovelで,それは『スピノザ 異端の系譜Spinoza and Other Heretics : The Marrano of reason 』の中に見出せます。今さらという感じもありますが,この本の書評を掲載します。
まず総量が多いです。『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』もかなりの分量がありますが,たぶんこちらはそれ以上。ですからただすべてを読むというだけでもそれなりに大変な作業になります。
全体は二部の構成になっています。その構成は題名である異端の系譜と関係します。スチュアートMatthew Stewartの『宮廷人と異端者 The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World 』というタイトルからも分かるように,スピノザは基本的に異端者とみなされます。ここでヨベルが示しているその異端の系譜というのは,ひとつがスピノザという異端に達する系譜で,もうひとつがスピノザから,あるいはこの場合にはスピノザの思想からという方がより適切でしょうが,それに端を発する系譜です。
スピノザへと至る系譜のうち,ヨベルが最も重視するのは,スピノザの父がイベリア半島からオランダに逃れてきたユダヤ人であったという点です。このタイプのユダヤ人は,マラーノと称されていました。これはスペイン語で豚という語に関連しますので,蔑称であるといえるかもしれません。高山宏が「豚のロケーション 」という論文を書くとき,豚はマラーノを意識していたことになります。このマラーノの性質を抜きに,スピノザの思想,スピノザという人間は考えられないというのがヨベルの見解です。
スピノザから至る系譜では,幾人かの思想家のスピノザ哲学への取組が検討されています。カントImmanuel Kant,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegel,マルクスKarl Heinrich Marx,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche,フロイトSigmund Freudの5人には1章ずつが充てられ,ほかにハイネChristian Johann Heinrich HeineとヘスMoses HessとフォイエルバッハLudwig Andreas Feuerbachの3人がひとつの章でまとめて語られています。この3人はヘーゲルからマルクスへ繋ぐために必要だったというように僕は解しました。
読むのは大変ですが,参考になる部分というのが必ずやあるであろう一冊だといえます。
ライプニッツとレーウェンフック を最初に結び付けたチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは,ドイツ人貴族でしたが,1668年,たぶん数学を学ぶためにライデン大学に入学し,オランダに住むことになりました。1651年産れですから,17歳のときです。オランダが気に入ったようで,1672年にフランスがオランダに侵攻したとき,志願してオランダ軍の一員として戦いました。参戦前か参戦後かは分かりませんが,同じドイツ人でアムステルダムAmsterdamで開業していた医師のシュラーGeorg Hermann Schullerと出会ったと推測されます。ふたりが友人であったことは,シュラーからの『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』書簡七十から確定できます。シュラーはスピノザの信奉者でしたから,チルンハウスはシュラーを通してスピノザを知ったと思われます。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の草稿を読ませることを禁じた書簡七十二の内容から,僕はスピノザが草稿を読むことを許可した人物は,少なくとも1度はスピノザと面会していると考えています。チルンハウスがスピノザに送った最初の書簡五十七の内容は,それが書かれた1674年10月8日の時点で,チルンハウスが草稿を読んでいたことを強く窺わせます。ですから少なくともこれ以前に,スピノザとチルンハウスは1度は会っていると僕は考えます。
スピノザが書簡をやり取りした相手の中で,チルンハウスというのはなかなか有能な人物であったように思えます。なので,チルンハウスが草稿を読んで疑問を感じたならば,それほど時間を置かずに質問するのではないかと思います。したがって,チルンハウスが草稿を入手したのは,書簡五十七の直前,1674年の8月とか9月であったのではないかと僕は考えています。
チルンハウスの才能に関しては,面会してある程度の話をしたら,スピノザには理解することができたのではないかと僕には思えます。ですからチルンハウスが草稿を入手する以前にスピノザと面会したのが1度だけであった可能性もあると思います。草稿を入手するといっても,現在のように手軽にコピーできるわけではなく,すべてを書写する必要があるのですから,1度だけでも,十分な時間であったと思います。
奥さんに対する先生の秘密 が何であるかは分からないということの根拠として示した上十九のテクストには,少し気になる部分があります。それは奥さんが,先生と仲がよかったKが,卒業を目前にして急死したことを私に教えた後で,囁くような声で,Kが変死したと言っている部分です。
Kは自殺したのです。ところが奥さんは自殺したとは言わず変死したと言ったのです。言われる側からすれば,Kが自殺したと言われるのと変死したと言われるのとでは,受け止め方に違いが出るのではないかと思うのです。だとすると,奥さんは何らかの理由があって,Kは自殺したと言わずに,Kは変死したと言ったと解することも可能になってくると思われます。
その後で奥さんは,Kがなぜ死んだかは分からないと言い,おそらく先生も分かっていないという推測を続けています。もしもKが自殺したと奥さんが言ったのだとしたら,これを聞いた私は,Kの自殺 の理由が奥さんには分かっていないし,先生も分かっていないと奥さんは判断していると解するのは間違いありません。ところが,Kが変死したと言われた後でこう続けられた場合,私がKは自殺したと判断するとは限りません。もしかしたら変死した理由,すなわちその死因が分からないと解してしまう可能性も残るように思います。
続く上二十では私は事件の真相ということばを用いています。事件というからには変死を自殺と判断したように思えますが,執筆の時期 を考慮に入れれば,この部分は再構成と考えられなくもありません。真相を奥さんは詳しく知らない上に,知っていることのすべてを私には話せなかったとなっていますから,その時点で私がKは自殺したと確定できたかどうか不分明です。この部分は必要があったから書いたけれども,話があった当時はこの会話を重くみてなかったという告白もあるので,なおさらその可能性があるように思います。
Kが自殺したことを,私は先生の遺書を読んで初めて知ったという読解も,『こころ』では可能になっているのです。
『宮廷人と異端者 』では,レーウェンフック の顕微鏡による数々の発見が,ライプニッツの哲学,とりわけその中心を構成するモナドの概念に大きな影響を与えたことになっています。僕はライプニッツの哲学を探求することはしませんから,その点は考察しません。ただ,ライプニッツがレーウェンフックを知る契機の部分に興味深いところがあります。
スチュアートによれば,1676年3月か4月,ライプニッツがまだパリにいた頃のメモに,デルフト出身の男による顕微鏡を用いた信じ難い著作についての言及があるそうです。このデルフト出身者がレーウェンフックであることは間違いないでしょう。「豚のロケーション 」には,レーウェンフックによる『ミクログラフィア』という著作に関する言及があり,この本は1664年に出版されているので,年代に隔たりはありますが,信じ難い著作とはこの本のことかもしれません。
スチュアートによれば,このニュースをライプニッツにもたらしたのはチルンハウスであったそうです。チルンハウスは,おそらくスピノザの禁止を破り,ライプニッツに生存中は刊行できなかった『エチカ』の草稿を見せた人物です。あるいは見せていなかったとしても,実質的にその内容を教えた人物です。
チルンハウスがライプニッツに『エチカ』を見せてよいかを尋ねたのは,直接的ではなく,シュラーを介してでした。『スピノザ往復書簡集 』書簡七十がそれで,これは1675年11月14日付になっています。つまりライプニッツがレーウェンフックのニュースをチルンハウスに伝えられる以前に,チルンハウスは『エチカ』の草稿を所有していたことになります。書簡五十七が収録されているチルンハウスからスピノザに宛てた最初の書簡で,これは1674年10月8日付。内容はスピノザの哲学の自由意志の否定 に関連するもので,この時点ではチルンハウスは『エチカ』の内容を知っていたものと推測されます。
書簡七十へのスピノザの返信が1675年11月18日付の書簡七十二。ライプニッツは手紙を通して知っている人物だが,ライプニッツがパリで何をしているかが不明なので,見せないようにという主旨でした。
21日と22日に有馬温泉で指された第56期王位戦 七番勝負第二局。
羽生善治王位の先手で角換り 相腰掛銀。広瀬章人八段 は6筋の位を取ってから穴熊を目指しました。その瞬間に先手が4筋から仕掛ける将棋。僕は最近は多くの棋譜を調べていないので分からないのですが,6筋の位を取って穴熊にするという後手の作戦は狙いがよく理解できず,違和感がありました。
仕掛けが機敏ですでに先手が十分といえそう。なので5四の金を守るのもあると思うのですが,ヒモをつけつつ▲4三銀と打ち込んでいきました。
22日はその局面だけアクセスできたのですが,そのときは先手はここまでする必要があるのかなと思っていました。
△4三同歩▲同歩成△3一金▲4四金。ちょっと変化する余地はなさそうです。
手番を得た後手は△8六歩と反撃。▲同歩に△9五歩 と突きました。先手は放置して▲3四金。
これが▲2四歩からの攻めをみた厳しい手。一直線に攻め合っては勝てない後手は受けに回りましたが,先手玉を攻めるための十分な手数を稼ぐことはできませんでした。結局は第1図で▲4三銀と打っていくのが最も分かりやすい勝ち方であったということなのでしょう。
羽生王位が連勝 。第三局は来月5日と6日です。
ライプニッツはひと月ほどアムステルダムに滞在していたそうです。この後,スピノザに会うことになっていましたから,そのための下準備を兼ねていたものと推測します。フッデやシュラーといった人たちに会ったのは,その一環であったのかもしれません。
アムステルダムを発ったライプニッツは,まずデルフトに向い,レーウェンフック を訪問しました。そこで何が話し合われたのかは分かりません。この会見がライプニッツにとって実りあるものであったのかどうかも不分明です。
レーウェンフックというのは基本的に独学の人でした。なのでイギリス王立協会に観察記録を送付してはいたのですが,それはオランダ語で書かれていたようです。もしかしたらレーウェンフックは,母国語であるオランダ語以外には習得している言語がなかったのかもしれません。一方,ライプニッツはキャリアからして,オランダ語に堪能であったとは思えません。ですからふたりきりだと,コミュニケーションを図るのにも苦労を要した可能性はあります。ただ,ライプニッツがそうしたことをまったく知らないでレーウェンフックを訪問するということは考えにくいですから,意志の疎通がまったく図れなかったということはさすがにないであろうと想像します。
もしレーウェンフックが本当にオランダ語しかできなかったと仮定すると,このことはスピノザとの間でも問題になりそうです。スピノザはオランダ産まれでしたが,幼い頃は家庭ではポルトガル語,学校ではスペイン語そして進学後はヘブライ語だったので,オランダ語はよくできませんでした。ファン・ローン も,1656年,破門の直後にスピノザの傷を治療したとき,それ以前に会ったスピノザのオランダ語はあまりうまくなかったと書いています。ただしこれはまだスピノザが20代の頃の話ですから,年を重ねていくに連れ,多少は上達したでしょう。それでもスピノザはラテン語では書きましたがオランダ語では書かず,オランダ語にする場合には友人に翻訳を依頼していたのですから,ある程度のコミュニケーションを取れる程度にはなったかもしれませんが,得意な言語ではなかった筈です。
21日の第63期王座戦 挑戦者決定戦。対戦成績は佐藤天彦八段が5勝,豊島将之七段が7勝。
振駒で豊島七段の先手。横歩取りを拒否する指し方をしたところ,佐藤八段は三間飛車 に。
ここで先手はおとなしくせず,▲6五歩と伸ばしました。△7二銀▲4八銀としてから△3五歩。先手は▲5六歩と突きました。この手は問題であったかもしれません。
以下△3六歩▲同歩△同飛に▲6七銀 。後手は長考 して△6四歩と突き返しました。玉型は後手の方がしっかりしているので,すぐに戦いになっても構わないという考えであったと思います。
第2図では▲2二角成△同銀▲6四歩と指すのがよかったかと思います。実戦は単に▲6四同歩でした。
△8八角成▲同玉と後手の方から交換。△6六歩は狙い筋で▲同銀は仕方がないと思います。△6七角▲5八金右△5六角成で,歩を取りながら馬を作りました。
銀取りですから▲7七銀と引くのは当然と思えます。△5五馬で飛車取り。▲3七歩も仕方ないのでしょうが,先手玉が8八にいるため△7六飛と回ることができ後手は歩損を解消。▲7八金△7四飛と進みました。
馬を作られても歩得なら主張になり得ますが、第3図は駒の損得なし。▲6六角と打てば馬を消せますが,△6四飛と回る筋を警戒して打てませんでした。ここでは後手の作戦勝ちになっているように思います。
佐藤八段が挑戦者 に。タイトル戦初出場。第一局は9月2日です。
ライプニッツはこれまでに紹介してきた,スピノザと関係がある人物の多くと会っています。
『スピノザ往復書簡集 』に収録されているライプニッツからスピノザへの手紙の日付は1671年10月5日。フランクフルト発になっています。ライプニッツがパリに移ったのは次の年,1672年のことでした。パリではファン・デン・エンデン に会っています。また,この時点ではやはりパリに移っていたホイヘンス とも会っているようです。エンデンやホイヘンスと,ライプニッツがスピノザについて話したことがなかったとは考えにくいと僕は思います。
ライプニッツをパリに派遣したマインツ選帝侯の命により,ドイツに戻らなければならなくなったのは1676年。資金の提供の打ち切りを宣言されたためのようです。たぶんパリで別のパトロンを探し出せれば,ライプニッツはパリに残ったと僕は思うのですが,そうした人物が存在しなかったようで,ハノーファへ帰ることにしました。しかしライプニッツはパリからハノーファへと直行しませんでした。まず,ロンドンに行っています。ここではオルデンブルク とロバート・ボイル に会っているようです。ボイルはともかく,オルデンブルクとライプニッツとの間でも,スピノザに関する話が出なかったことはあり得ないと僕には思えます。
ロンドンから船でオランダに渡ったライプニッツは,まずアムステルダムで市長のフッデに会いました。このフッデもスピノザと書簡のやり取りをしていた人物です。スピノザはフッデには一目置いていたものと思われます。というのはスピノザからフッデに宛てた書簡三十六において,レンズ を磨くための新しい磨き皿を作るにあたってのアドバイスを求めているからです。スピノザはレンズ研磨の技術にはある程度の自身を持っていたと思われますから,アドバイスを求めたということは,フッデの技術をよほど信頼していたものと推測できます。ここでもスピノザのことが話題になったと思われます。
さらにライプニッツはドイツ人医師のシュラーとも会いました。これもスピノザと文通していた人物ですから,スピノザに関する話をしたことでしょう。
20日に弥彦競輪場 で行われた第24回寛仁親王牌の決勝 。並びは新田-渡辺-伏見-菊地の北日本,武田-神山の関東,脇本-金子-園田の西日本。
渡辺がスタートを取って新田の前受け。5番手に武田,7番手に脇本で周回。残り3周のバックから脇本が上昇の構えをみせると,武田も上昇。残り2周のホームの入口あたりで新田を叩いて前に。これを脇本が抑えにいくと武田は下げず,金子のインで番手戦。ちょうどコーナーに掛かるところでもあり,あっさりと武田が番手を奪取。バックで脇本がスピードアップしたので武田が2番手,金子は4番手に入り,新田が6番手の一列棒状で打鐘。このままの隊列でバックまで進み,ようやく新田が発進。しかし追いつく前に金子がコーナーに差し掛かるところから自力で捲り,さらに武田も番手から発進。脇本と武田の中を割った神山と武田が競るところ,武田と金子の間に進路を取った園田が突き抜けて優勝。4分の3車輪差の2着に武田。半車輪差の3着に神山。
優勝した福岡の園田匠選手は2010年11月に松阪記念 を優勝して以来,およそ4年8ヶ月ぶりのグレードレース制覇。ビッグは初優勝。武田があっさりと番手を奪い,下げた金子が自力を出し,直線の入口で進路がきれいに開いたための優勝ですが,さすがにこの結果は予想しにくかったです。脇本は先行意欲の高い選手で,先行はあり得ると思っていましたが,4人で結束した北日本がじっくりと構えたのは意外。まさか最終ホームで一列棒状の展開になるとは思ってもみませんでした。踏むタイミングがなかったのかもしれませんが,新田が少しばかり前の様子を窺い過ぎたのではないかと思います。
スピノザとボイル は直接的なやり取りがなかったですから,仮にロバート・ボイル がレーウェンフック を知っていたとしても,スピノザとの仲介者にはなり得ません。ただ,スピノザがボイルのような,この時代を代表する自然科学者のひとりと,オルデンブルク の通訳を交えてではあれ,議論をしていたことは,スピノザがレーウェンフックを知っていたとしてもおかしくはないと判断する材料とはなり得るでしょう。『スピノザ往復書簡集 』書簡二十六で,スピノザが顕微鏡による観察に関する書に言及している点も,同様にその材料になり得ると僕は考えます。
現代思想1987年9月号には,高山宏の「豚のロケーション」という論文が掲載されています。この論文は,同じ年に同じオランダで産まれた3人,すなわちスピノザとフェルメールとレーウェンフックの3人が成し遂げたことには,明らかに親和性があるということを示そうとしたものです。この論文では3人の出会いについては何も語られていません。ただ,僕が知る限りでは,ここでしようとしている考察に最も関連性が深いものです。また,『フェルメールとスピノザ 』で,マルタンがスピノザの哲学とフェルメールの絵画に親和性があると主張していることともこの論文は関連しているといえるでしょう。僕は絵画の鑑賞能力には欠けるので,ここでもその内容を評価することはできませんが,「豚のロケーション」が『フェルメールとスピノザ』の重要な参考資料になることは間違いないであろうと思います。
高山によれば,レーウェンフックが顕微鏡によって数多くの発見を明らかにしてから,ヨーロッパの多くの貴族がレーウェンフックの研究拠点であったデルフトを訪問するようになったそうです。あるいはコンスタンティン も,そうした貴族のひとりであった可能性があると僕は推測します。ただ,これはあくまでも僕の推測なのであり,コンスタンティンとスピノザが会ったことがあるのは確実視できますが,コンスタンティンとレーウェンフックについては,僕には確定できる材料はありません。しかし確実にこのふたりに会った著名人 が存在します。それがライプニッツです。
昨日の第5回習志野きらっとスプリント 。
カベルネフランとキョウエイロブストが逃げ争いを演じる展開。単独の3番手がルックスザットキル。ピンクストーン,サーモピレー,コアレスピューマの3頭が集団。サクラシャイニー,サトノタイガーと続きました。最初の400mは22秒9で,この距離としてはかなりハイペースだったといえます。
前2頭の争いは直線入口まで続きましたが,ルックスザットキルがあっさりと交わしていきました。馬群を割ったサクラシャイニー,外を回ったサトノタイガー,さらに外に出たサーモピレーの3頭が追いましたが追い付けず,ルックスザットキルが優勝。最後によく迫ったサトノタイガーが4分の3馬身差で2着。サーモピレーが半馬身差で3着。
優勝したルックスザットキル は先月の優駿スプリント に続き南関東重賞連勝。距離短縮は有利で,斤量の恩恵もありましたが,初めての遠征競馬で初の左回りをこなし,実力ある古馬を退けたのですから,価値ある勝利だったといえるでしょう。スプリント路線では地方競馬を代表する馬になれる可能性があると思います。
騎乗した大井の早田功駿騎手,管理している大井の中村護調教師 は習志野きらっとスプリント初勝利。
スピノザとロバート・ボイル Robert Boyleの論争のうち,哲学的観点から注意が必要なのは,スピノザはボイルの方法には否定的だったけれど,ボイルの哲学的見解を否定したわけではないという点です。自然現象一般が,法則によって説明可能であるという点では,スピノザもボイルも一致しています。
僕の考えでは,オルデンブルク Heinrich Ordenburgがスピノザの哲学をよく理解できなかったということにこれは関係します。たぶんそれが法則によって説明されるということを,自然現象いい換えれば物体に限ってスピノザは主張しているとオルデンブルクは判断したのだと思います。実際にはスピノザがいう自然は能産的自然 Natura Naturansと所産的自然 Natura Naturataのすべて,すなわち自然のうちに実在するあらゆるものに妥当します。だからスピノザの考えを推し進めていけば,たとえば聖書のうちに自然法則に合致しないこと,いわゆる奇跡miraculumが書かれているとすれば,それは真理に反するということになるでしょう。オルデンブルクはそこまでは考えてなく,たぶんボイルも同様で,スピノザは両者の考えのさらに先までいっていたことになります。スピノザがそこまでいっていることに,オルデンブルクはあるときまで気付かず,だからふたりの間で多くの書簡がやり取りされたのでしょう。
スピノザとボイルが直接的にやり取りしなかったのはたぶん言語の問題です。「スピノザと言語 」で示したように,英語はスピノザが使える言語ではありませんでした。ボイルはたぶんラテン語が不得手で,英語で書いていたのだと思います。『スピノザ往復書簡集 』書簡二十六のオルデンブルク宛で,ホイヘンス がボイルが出版した論文を持っていたのだけれど,英語で書かれていたから借りることができなかったという意味のことをスピノザがいっているからです。この後で,英語で書かれた顕微鏡の観察に関する書もあったといっていて,こちらはボイルの助手のフックが書いたものかもしれません。
オルデンブルクは,スピノザとボイルの間では,単なる仲介者というより,通訳であったことになります。ボイルの論文をオルデンブルクがラテン語に翻訳することにより,スピノザはその内容を知ることができたのでした。
半数以上の馬に勝つチャンスがありそうに思えた第19回マーキュリーカップ 。
先手を奪ったのはメイショウコロンボ。アイファーソング,テイエムダイパワー,トウショウフリークまでが先行集団。トウシンイーグル,サイモンロード,タイムズアローが集団で続き,その後ろにソリタリーキング。トーセンアレスとコミュニティ,ジョウノムサシとユーロビートで続きました。ミドルペースであったと思われます。
向正面でユーロビートが一気に進出してレースが動きました。一旦はユーロビートが前に出たかと思いますがメイショウコロンボが巻き返して先頭を奪い返し,この2頭が併走で3コーナーをカーブ。トウショウフリーク,タイムズアロー,テイエムダイパワー,ソリタリーキングの順になりました。直線入口あたりで外のユーロビートがまた前に出ると,ここからは独走。後続との差を広げる一方で6馬身差の圧勝。メイショウコロンボは一杯になり,トウショウフリークとタイムズアローが競り合いを繰り広げるところ,外からソリタリーキングが伸びてまとめて差して2着。競り合いはトウショウフリークに軍配が上がり,1馬身差で3着。タイムズアローはクビ差の4着。
優勝したユーロビート は昨年9月の東京記念 以来の勝利で重賞は初制覇。そのときにサミットストーンを降していましたから,このくらいのメンバーなら優勝候補の1頭と考えていました。盛岡は着差が大きくなりやすい競馬場ですが,それにしてもこれほどの差をつけたのは驚き。右回りもこなしますがよりよいのは左回りで,このくらいの距離があり,わりと大きめのコースに適性があるものと思われます。条件に注文がつくかもしれませんが,もう少し上のレベルで戦えそうです。父はスズカマンボ 。ビューチフルドリーマー 系アサマクイン の分枝。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手 ,管理している大井の渡辺和雄調教師はマーキュリーカップ初勝利。
コンスタンティン Constantijin Huygensはレーウェンフック Antoni von Leeuwenhookをイギリス王立協会のロバート・フックRobert Hookeに紹介したのですがこのフックが助手を務めていたのがロバート・ボイルRobert Boyleです。気体の体積と圧力に関するボイルの法則で現代にも名を残している人物です。
ボイルとスピノザは会ったことも直接的なやり取りをしたこともありません。しかし互いに互いのことを知っていたことは確定できます。オルデンブルク Heinrich Ordenburgを介在して,ふたりは議論をしているからです。
スピノザを訪問したオルデンブルクが,イギリスに戻ってからボイルとスピノザに議論をさせたのは,おそらく両者に共通の哲学的資質があると考えたためだと思われます。スピノザはともかく,自然科学者のボイルに対して哲学的資質を云々することは不思議に感じられるかもしれませんが,ボイルには確かに哲学があったように僕には思えます。端的にいえば,自然現象というものは何らかの法則に準じて発生するのであって,神秘的な現象というものはなく,そのことを証明するために,ボイルは実証的に科学実験を行ったと思われるふしがあるからです。つまりそうした自然現象だけを眼中に入れたならば,これは第一部公理三 に合致するといえるでしょう。この点ではオルデンブルクは間違っていなかったと僕は考えます。
スピノザとボイルの論争のうち,自然科学に関わる部分は僕には何も分からないので評価できません。一方,哲学的部分に関しては,スピノザはボイルの考え方には否定的でした。このことはスピノザの哲学が演繹法 を重視するということから説明できると僕は考えています。
たとえばXについて実験を行った結果effectusとして得られる真理veritasは,Xが原因causaとなって発生する真理だけです。いい換えればそれはX自身の真理あるいはX自身の本性essentiaを明らかにすることはありません。このことから一般的に,事物の本性を確実に認識するcognoscereためには,実証は役に立たず,理性 ratioによる推論が必要であるということが帰結するでしょう。これが演繹的方法です。個別の実証の集積という帰納的方法によっては,自然的原理あるいは事物の本性は解明できないというのがスピノザの考え方です。
⑪-1 の第2図。先手は手得になったので,☗7七銀とか☗3八金といった手も考えられると思います。ただ,通常の相掛りで後手が2枚の歩を持って駒組になることはありません。それが不満とみれば先手は後手が2筋に歩を打たないのを咎めにいくことになります。野月七段は棋士の中でも屈指の攻め将棋ですから,おそらく後者を選択するだろうと思ってテレビを視ていましたが,やはり☗3五歩☖同歩☗4六銀と指しました。
部分的にはよくありますが,後手の構えが変わっていますから,実戦例があったかどうかは分かりません。
後手は2筋に歩を打たなかったのですから,ここでも☖2三銀。☗3五銀に☖3四歩と打ち,☗2四歩のときに☖2五歩と打ち返しました。
これは取ると☖1四銀と逃げた手が飛車取りになるので☗2八飛。☖3五歩☗2三歩成☖同金と銀の交換に進みました。
駒の損得はありません。ただ後手の陣形はまとめるのに苦労しそうに思えました。
レーウェンフック Antoni von Leeuwenhookは自らの研究成果,すなわち顕微鏡による観察記録をイギリス王立協会に書き送っていました。彼を王立協会に紹介したのはホイヘンス Christiaan Huygensの父であるコンスタンティンConstantijin Huygensであったそうです。単にレーウェンフックの研究を知っていただけで紹介するとは僕には思えません。なのでコンスタンティンとレーウェンフックは少なくとも1度,僕の想像では何度か会ったことがあるのだと思います。
スピノザが「蛙 Βάτραχοι 」のディオニュソス Dionȳsosの役を演じたのは,旅の途中で船が故障したときの余興でした。この旅は,病から恢復したファン・ローン Joanis van Loonに気晴らしをさせる目的でコンスタンティンが企画したものでした。スピノザが参加したのはローンの知り合いであったのが最大の理由であったかもしれません。しかしもともとこの旅は何日間を掛ける予定でしたから,もしスピノザとコンスタンティンがさほど親しくないのであれば,ローンもスピノザを誘うことはなかったでしょう。ローンによればこのときの一行は全部で6人。つまりスピノザとコンスタンティンというのは,その程度の人数で共に何泊かの船旅に出掛ける関係にあったということです。これは親しい関係にあったと理解して間違いないと僕には思えます。
したがって,コンスタンティンというのは,スピノザともレーウェンフックとも,少なくとも各々の人となりを理解できる程度の関係は築いていたのだと僕は考えます。だとしたらコンスタンティンが,自身の親しいこのふたりの人物を引き会わせてみようと思ったとしても不思議ではないし,実際にそれを実行に移したとしても,それは驚くべきことではないように思えるのです。あるいはコンスタンティンがそこまでは考えなかったとしても,スピノザと会っているときにレーウェンフックのことを話題にするとか,逆にレーウェンフックと会っているときにスピノザのことを話題とするという程度のことはあり得るでしょう。
そもそもスピノザもオルデンブルク Heinrich Ordenburgを介することによってイギリス王立協会とは関係があったのです。もしコンスタンティンがそれを知っていれば、なおのことそのようにしたのではないかと僕には思えます。
人間風車 と同じように,一般的には一流レスラーとされているものの,馬場があまり高く評価していないレスラーに,仮面貴族ないしは千の顔をもつ男と称されるミル・マスカラスがいます。
『馬場伝説 』でのインタビューで馬場が語っているところによれば,馬場がマスカラスを評価していないのはそんなに強い選手ではなかったからです。馬場は超獣 と比較して随分と劣る実力だったと言っています。マスカラスはそう大きな選手ではありませんでしたから,馬場の評価には適わなかった部分も大きいのでしょう。日本プロレス時代には,マスカラスが国際プロレスのスカウトを受けて移籍するかもしれないという話があったので,それなら大切にすることはないと考え,やっつけてしまったことがあったというエピソードも加えています。マスカラスが一流の地位でいられたのは,過保護にされていたからだというのが馬場の全般的なマスカラス評だといえるでしょう。
全日本プロレスを旗揚げしてからも馬場はマスカラスを呼びました。これについては実力はなかったけれども見かけはよかったからだと馬場は語っています。でも,僕の考えでは,馬場はこの点に関しては,本音のすべてを語っていないと思います。
マスカラスは確かに実力的には一流クラスと差があったかもしれません。しかし集客力は間違いなくありました。少なくともブロディとマスカラスを比べて,どちらが客を呼べるレスラーであったかといえば,僕はマスカラスの方だったと思います。ですからレスラーとしての馬場はマスカラスを評価してなくても,プロモーターとしての馬場 はマスカラスを評価せざるを得なかったのではないかと思います。だから馬場はマスカラスを呼び続けたのだと僕は考えます。
マスカラスは日本テレビのプロレス中継にも協力的で,よく視聴者プレゼントをしていました。視聴率も取れる選手だったのではないかと思います。馬場と日本テレビ の関係から,あるいはマスカラスを来日させてほしいという日本テレビの要望もあったかもしれないと思います。
確たる資料は不在ですが,スピノザとレーウェンフック が,会う会わないは別に,歴史的条件と地理的条件 がこれだけマッチしていながら,互いが互いのことを知らなかったとは僕には想像できません。また,ふたりが会ったとしても僕は何の不思議も感じませんが,会わなかったとしたら,なぜ会わなかったのかという疑問が湧いてしまいます。それくらいふたりを結び付けそうな条件が揃っているように僕には思えるのです。
スピノザは,自然科学のうち,医学には特別の関心があったものと想定できます。スピノザの死後の蔵書には,当時の医学者が読むべきであるような書物はほとんどが含まれていたといいます。また,『スピノザ往復書簡集 』の書簡八,シモン・ド・フリースからスピノザに宛てられた手紙では,スピノザからフリースに対して,全医学をひとわたり学ぶようにという助言があったと確定できます。またスピノザがオルデンブルク に宛てた書簡三十二では,悪の何たるかを説明する主旨ではありますが,血液を構成する部分に関する言及もみられます。
レーウェンフックが顕微鏡学者という不思議な名称で呼ばれるのは,何でもかんでも片っ端から顕微鏡を使って覗いてみたからです。ただ,学者として何に最も貢献したのかといえば,それは間違いなく医学です。バクテリアを発見し,人の精液の構造を解明し,赤血球を発見したのはすべてレーウェンフックです。このように考えたならば,スピノザがレーウェンフックがなしたそれらの功績に関して,すべてを知っていたということはないにしても,何も知らなかったということはあり得ないように思うのです。そしてその一部でも知っていたとしたら,会いに行こうと思い立ったらたぶんそうすることができる相手であったのですから,それを実行に移したとしても不思議ではありません。もっともスピノザは自らそういうことをする人物ではなかったというのも僕が考えるスピノザ像で,会いには行かないという選択も,またスピノザらしいと思えます。いずれにしても,単にこの点だけで,スピノザがレーウェンフックという名前を知らなかったとは僕には想定しにくく思えます。
先生の秘密 が何であったのかを探るテクストとして,石原千秋の『『こころ』大人になれなかった先生』では,僕が示したのとは別の部分が指摘されています。
『こころ』は上十三と十四の間に亀裂があります。十三では先生と私が散歩をしながら話をするのですが,十四では先生の家でその話の続きをしている設定となっているからです。この設定の不自然さは,十四で先生の部屋で話している内容を,隣の部屋にいる奥さんに聞かせる必要があったためかもしれません。十四の冒頭ではもう家に戻っていると僕は判断しますが,十四の途中で帰ってきたと読解できなくもないことも認めます。
この会話の中で,先生は奥さんも信用しないのかと私に尋ねられ,自分自身を信用できないので他人のことも信用できないという主旨の答えをします。そしてそれは,考えた上でのことではなく,自分自身がやったことに裏打ちされたものだと説明します。
ここで隣の部屋の奥さんが先生を呼びます。先生は中座しますが,素早く戻ってきます。ここからかつて示した先生の忠告 へと続いていきます。
なぜ奥さんは呼び掛けたのか。私が書いているのですから真相は不明です。単に用事があったからかもしれません。でも,石原が読解しているように,隣の部屋でふたりの話を聞いていた奥さんが,先生が言ってはいけないことを言ってしまうのではないかと心配になり,たしなめるために先生を呼んだという可能性も否定はできません。奥さんが話を聞いていることは承知の上だったけれども,私はそれを忘れて質問してしまった,というように私は書いているからです。
石原の読解が正しければ,先生の秘密というのは錯綜したものであることになります。最終的に先生と私の間だけの,奥さんに対する秘密が存在することは間違いないと僕は思いますが,少なくともこの時点では,先生と奥さんだけが共有している私に対する秘密も存在しているということになるからです。
ファン・ローン またはメナセ・ベン・イスラエル を介することによって,スピノザとレンブラント には知り合う可能性がありました。これと同じ関係が,スピノザとフェルメールの間にも存在したなら,ふたりが知り合いであった蓋然性は高くなります。とりわけメナセのような,当事者自身が著名人 であるという場合には,その交友関係の広さから,ほかにも共通の知人が存在する可能性も増すことになります。いい換えればその分だけ,スピノザとフェルメールが知己 になる可能性も高くなるわけです。
『フェルメールとスピノザ 』でマルタンがこの推理をするとき,仲介者として取り上げているのは顕微鏡学者のレーウェンフックです。ルーヴェンフックと表記する方が適切であるかもしれませんが,大概はレーウェンフックで通っていますから,僕もそれに倣うことにします。
レーウェンフックが産まれたのは1932年。これはスピノザそしてフェルメールが誕生したのと同年です。つまりこの3人は同じ年齢です。誕生の地はフェルメールが住み,スピノザの終焉の地となったハーグに近いデルフトです。研究もそこで行いました。したがってレーウェンフックがスピノザとフェルメールの仲介者になり得る歴史的条件と地理的条件 は整っています。
レーウェンフックとフェルメールが親しかったことは疑問の余地がないと思われます。フェルメールが死んだとき,遺産管財人となったのがレーウェンフックであったからです。この事実は,フェルメールの生存中からふたりが親しかったことの証であると僕は考えます。それもただ普通に親しいというより以上の親密な関係があったものと想定してよいと思います。
一方,レーウェンフックとスピノザの間に何らかの関係があったということを証明するものはありません。僕はレーウェンフックに関連するものは,顕微鏡学関係も伝記に類するようなものも読んだことはありませんが,スピノザに関連する書物のうち僕が読んだものの中で,スピノザとレーウェンフックが知り合いだったと指摘しているものは皆無です。だれも指摘していないなら,確たる資料はないと判断してよいでしょう。