大槻はゲーテJohann Wolfgang von Goetheの思想の研究家であるという点も考慮しておく必要があります。大槻が研究者として『若きウェルテルの悩み』の抜粋された一節にスピノザの汎神論の影響があるというとき,それは研究者としての大槻が,ゲーテがそうスピノザの汎神論を解釈したと主張している可能性が残るからです。この場合には,確かに大槻がいうようなスピノザ受容がゲーテにあったのだとしたら,大槻は何も誤ったことを主張しているわけではなく,ゲーテの受容の仕方に問題があっただけだということになるからです。さらにいうと,そもそもゲーテと大槻では汎神論がどのようなことを意味しているのかという解釈に差があることすら考えられます。たとえばゲーテは神学者がスピノザの哲学を無神論と結び付けるための否定的な意味で汎神論を解していて,しかし大槻はそのようなことは考慮に入れず,単にフラットな意味で汎神論といっているのかもしれないからです。
ですから,だれが過ちを犯しているのかということについては僕はあまり関心はありません。というより,だれも過ちを犯していないという可能性も排除することはありません。ただひとつだけ僕に確実であると思われるのは,『ゲーテとスピノザ主義』に抜粋されている『若きウェルテルの悩み』の一節は,スピノザの哲学とは相反する要素を有するであろうということです。なのでここからはこの点にだけ焦点を絞って,僕の考え方を説明していきます。
抜粋されている手紙の中にウェルテルの,自分の姿に似せてぼくらをつくった全能者の現存,ぼくらを永遠の歓喜のうちにやさしくささえ保っていてくれる万物の父のいぶきを感ずる,という一文があります。なお,僕は新潮文庫版の高橋義孝の訳をそのままここに抜粋しました。大槻はおそらく自分で訳していて,文章の意味は同じですが,この文章とは訳し方が異なっています。
この一文はスピノザの哲学とはまったく一致しません。これはふたつの観点からそういえます。ひとつは全能者すなわち神Deusがぼくらすなわち人間をつくったという観点で,これは神の観点です。もうひとつは人間が神に似せられてつくられたという人間の観点です。
『ゲーテとスピノザ主義』の第4章の2節で,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの小説である『若きウェルテルの悩み』が引用されています。大槻はこの小説の主人公の名前をヴェールターと表記していて,ドイツ語の読みとしてはそれが正しいと思われますが,僕はこの小説は学生の頃から『若きウェルテルの悩み』として知っているので,ここではウェルテルの方を用います。ウェルテルが書いた手紙を,ウェルテルの死後に別の人が編集したという体裁の小説です。
引用は多岐にわたっているのですが,その中のひとつに1771年5月10日,これは通算で2通目の手紙ですから小説でいえば冒頭に近い部分ですが,そこからの引用があります。その部分を引用した後で大槻は,ウェルテルが惑溺している自然の描写の中に,スピノザ的な汎神論が看取されるといっています。なお,論考の中ではこの自然というのがやや特殊な意味に用いられているのですが,この点は今は考慮の外に置きます。僕が考えたいのは,その引用部の中にスピノザの思想の影響があるのかどうかということだからです。
まず最初に確認しておかなければならないのは,スピノザの哲学が汎神論といわれるときに,スピノザの哲学はどのような意味で汎神論であるといい得るのかということと,それとは別にどのような意味から汎神論といわれるようになったのかということです。少なくともスピノザが生きていた時代に,他の思想家からスピノザの哲学が汎神論といわれるとき,そこには否定的なニュアンスが大でした。これはスピノザが神Deusを自然と同一視していること,いい換えれば必然的necessariusである筈の自然に神を貶めたということへの批判が込められた,神学的な視点が含まれていたといえるでしょう。第四部序言にみられるように,確かにスピノザの哲学のうちに,そういう批判を招く要素が含まれていたことは確かだと僕は考えます。 汎神論論争と名付けられているように,ゲーテの時代にもこの種の否定的意味が汎神論の中にあったことは確かだと思います。ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは神学的な観点からスピノザを批判する立場に回ったということからみても,そこに否定的意味があったことは確かではないでしょうか。
ここまではゲーテJohann Wolfgang von Goetheが実際にスピノザの哲学と関係しているかどうか不明だけれど,『ゲーテとスピノザ主義』の記述の中で,明らかにスピノザの哲学と関係がありそうなのにスピノザの名前が出てこない箇所について指摘してきました。今度はこれと逆のパターンであると僕には思われる箇所を説明していきます。つまり大槻の記述の中には,ゲーテの思想がスピノザの哲学の影響下にあるとされているけれども,僕にはそれはスピノザの哲学とは相容れないのではないかと考えられる箇所についてです。
どういう人が『ゲーテとスピノザ主義』を読むのかは僕には分かりません。ただ,もしゲーテの思想に関心があり,それを一定以上に知っているけれど,スピノザの哲学にはさほど詳しくないという人がこれを読む場合,ここまで指摘してきた箇所というのは,そこまで大きな問題にならないだろうと僕は思います。確かにそこでスピノザ主義との関連性を見落とすことにはなるかもしれませんが,実際にそこでゲーテがスピノザを意識していたのかどうかまでは分からないのですし,何より,スピノザの哲学について何らかの誤解を招くということはないからです。これは触れられていない事柄については誤りようがないですから当然でしょう。ですが,触れられているけれども実際には相容れない要素があるという場合には別で,この場合は部分的にスピノザの哲学について誤解してしまう可能性が残ります。そういう意味でいえば,これから述べていくことの方が重要であるといえるかもしれません。
まず最初にいっておきますが,僕は大槻がスピノザの哲学についてある誤解をしているということをいいたいのではありません。大槻の関心はゲーテがどのようにスピノザの哲学を受容したのかということなのであって,ゲーテによるスピノザ受容のうちにすでに何らかの誤りが含まれているのなら,いい換えればゲーテ自身が自分の思想の中のある部分についてそれはスピノザの哲学から影響を受けていると判断しているのであっても,それ自体が誤っているのなら,大槻はそれをそのまま研究対象にするであろうからです。この場合は大槻には何の責任もありません。
書簡七十の内容をもう少し詳しく説明しておきます。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからスピノザに宛てられたもので,やはり遺稿集Opera Posthumaには掲載されませんでした。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対するシュラーの配慮から生じたものだと思われます。
この書簡はまずチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの近況報告から始まっています。このときチルンハウスはイギリスからフランスに移動し,ホイヘンスChristiaan Huygensに会いました。ホイヘンスは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をスピノザから送ってもらったと言ったそうで,それが本当ならこの時点でもホイヘンスとスピノザの間にやり取りがあったことになります。ホイヘンスはそれからほかにスピノザの著書はないかと尋ね,チルンハウスは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』だけだと答えたそうです。チルンハウスは『エチカ』の草稿は持っていた筈ですが,ホイヘンスに対しては秘匿したことになります。僕が思うにホイヘンスがそのように尋ねたのは,哲学的関心よりも自然学,とくにレンズに対する関心からであったからでしょう。
その後にチルンハウスからの哲学的質問がありますが,これは意味が不明です。おそらくチルンハウスがここに示されているようなとんちんかんな質問をするとは思えないので,シュラーが伝える際に何らかの間違いを犯したものと思われます。
最後に,チルンハウスがパリでライプニッツに会ったことが伝えられています。チルンハウスはライプニッツは『エチカ』を読むのに相応しい人だから,その許可をスピノザに求めました。つまりチルンハウスはライプニッツをホイヘンスより高く評価したことになります。ただ,シュラーはライプニッツとも書簡のやり取りを交わしていたので,シュラーに対して直接的にライプニッツの希望が伝えられていた可能性も排除はできないと思われます。
この中に,ライプニッツは『神学・政治論』を高く評価していて,それに対してスピノザに書簡を送ったことがあると書かれています。したがって書簡四十五は光学に関することだけが書かれているのですから,これ以外にもライプニッツとスピノザの間で書簡のやり取りがあったことは確実でしょう。とくにこの部分が,シュラーがこの書簡を遺稿集に掲載できないと判断した理由だったと思われます。
厳密にいうなら,第三種の認識cognitio tertii generisによって個々の植物を認識し,それらの認識の共通部分から植物一般の認識をする思惟作用は,ある分析を伴っているという見方ができます。よってそれは本来的な意味では第三種の認識には属さないということも可能でしょう。ただ,第三種の認識が論証Demonstratioを必要としない認識である以上,このような分析というのはことば以上の価値をもつものではなく,思惟作用には含まれないと解することも可能で,僕はこのような仕方での植物一般の本性essentiaの認識というのも,第三種の認識に属すると解することも許されるであろうと考えます。とくに第五部定理二四の意味というのは,第三種の認識はある個物res singularisという様態的変状modificatioに様態化した神Deusを認識するということでした。それを様態的変状に様態化した神とみなす認識のあり方自体は,個々の植物が第三種の認識で認識されようと,植物一般が第三種の認識で認識されようと同じことであると僕は考えます。
したがって,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが第三種の認識によって植物の本性を認識したということは,あり得ないことではないと僕は考えます。そしてそのように認識された事柄について,ゲーテが「象徴的植物」と命名したという可能性も排除はしません。ただし,これは実際にゲーテがそう認識したということを意味するわけではありません。
実際にゲーテがどんなスケッチをしたのかということは僕には分かりません。ただ,ゲーテが植物の本性なるものを形として表現することが絶対にできなかったとまでは僕には断定できないです。僕は第三種の認識で認識された事柄をスケッチするということについては懐疑的ではありますが,実際に植物なるものが存在している以上は,その本性というものが認識され,その本性だけを表現するようなスケッチが存在したとしても,僕にはそれがそうであるといわれても単にそうであるのかどうかは分からないというだけであり,完全に否定することはできないからです。
このように,『ゲーテとスピノザ主義』のこの部分は,明らかにスピノザの哲学と無関係ではありません。ただ,実際にゲーテがスピノザの哲学と関係していたかは分からないというだけです。
僕たちが植物といっているものは,個々の植物を認識し,それら個々の植物に共通の性質を発見した上で,その共通の性質を有する物体corpusについて名付けられた名称である場合がほとんどでしょう。スピノザの哲学ではこのような名称は一般的名辞といわれます。こういう名辞による認識cognitioは記号による認識であり,第一種の認識cognitio primi generisです。ただし,このことをもって植物一般は第一種の認識によってしか認識することができないと結論するのは早計です。
第四部定理三五は,人間は理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で常に一致するといっています。これをいうためには,すべての人間の間で一致する本性が存在することを肯定しなければなりません。これを人間に一般の本性ということは不自然ではないでしょう。つまり人間に一般の本性は存在するといわねばなりません。すると同様に馬一般の本性も存在しなければならないでしょうし,猫に一般の本性も存在するといわなければならないでしょう。するとこれをさらに拡張することによって,それらに一般の本性を含む哺乳類の本性もやはり存在することになると思われます。哺乳類に一般の本性が存在するならそれは魚類や鳥類にも妥当しそうです。さらにそうした一般的本性のすべてを含む動物一般の本性というのもやはり存在するのではないでしょうか。
僕たちが馬とか猫とか哺乳類とか動物とかいう場合は,通常は一般的名辞であって,これは第一種の認識です。だからといってその本性が存在しないといわなければならないわけではないということは,人間の本性の例の場合から明白です。すると植物の場合にもこれと同じことが妥当しなければならないことになります。つまり,植物に一般の本性というのは存在するには存在すると考えておくべきだと僕は解します。したがって,それが現実的に存在するある人間によって,第三種の認識cognitio tertii generisによって認識されるという可能性については,それを排除する必要はないと僕は考えます。実際にゲーテJohann Wolfgang von Goetheが何を認識していたかとは別に,ゲーテにとってそれが可能であったということについては僕は排除しないということです。
ではそれはどのように認識され得るのでしょうか。
ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが実際に何を認識していたのかとは別に,クーンの指摘がゲーテはシラーとの会話において第三種の認識cognitio tertii generisについて何事かを語っていると読解することができる場合の,第三種の認識がどのような認識でなければならないのかを考えておきます。
第三種の認識によって直接的にあるいは直観的に認識されるのは,事物の本性essentiaの妥当な認識です。このとき,事物が個別的なものを意味しなければならないのであるとしたら,人間は植物の本性を一般的に第三種の認識によって認識することは不可能であると結論しなければなりません。というのは,植物一般の本性というのは,この意味においては個別的なものではあり得ないからです。この場合に第三種の認識によって認識し得るのは,あの植物,この植物というように分節することができる,個々の植物の本性でなければならないからです。しかしゲーテが認識していたのは,この意味で個別的な植物ではありません。なぜならゲーテのこの認識は,ゲーテがスケッチしてみせたという「象徴的植物」の認識と区別して理解することはできないからです。なので,ここで第三種の認識について何かが語られているのだとしても,それは植物一般の認識についてであると解しておく必要があります。
次に,『ゲーテとスピノザ主義』では,この「象徴的植物」の認識は,ゲーテの経験から見出されたとされています。この経験が何を意味するのかは不明ですが,たとえば個々の植物の認識から帰結するような植物の一般的な本性を意味するのであるとしたら,ここでは少なくとも推論が行われているのですし,大概の場合はこのような認識は知性intellectusによって秩序付けられてさえいない毀損した認識です。よってゲーテの経験がこれを意味するのであれば,これはどんなに見積もっても第二種の認識cognitio secundi generisであって,おそらくは第一種の認識cognitio primi generisです。いずれにせよ第三種の認識である可能性はないといっていいでしょう。
ただし,この経験というのがこのように解されなければならないというものではありません。少なくとも個別の植物については直観scientia intuitivaで認識することが可能なのであり,この直観が経験そのものかもしれないからです。