スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&悲しみの積極性

2022-04-30 19:15:08 | 将棋
 28日に神田明神で指された第7期叡王戦五番勝負第一局。公式戦の対戦成績は藤井聡太叡王が4勝,出口若武六段が1勝。これは出口六段が三段だった時の対戦が含まれています。
 不二家の社長による振駒で藤井叡王が先手となって相掛り。出口六段が歩得を重ねる積極的な作戦を採用。終盤の入口まで互角に進展しました。
                                        
 第1図で☖6七角と打ちましたが,これで均衡が破れました。先手は☗2四飛と回って☖2三歩に☗2六飛。後手はそこで☖3四歩と突いたのですが☗6四歩☖同歩☗7四歩が的確な攻めで先手がペースをつかみました。
                                        
 第1図ですぐに☖3四歩と突き☗同飛に☖2三角なら後手も均衡を保つことができたようです。どうも第1図に至るまでに後手は予定の変更があり,悲観していたようです。その判断の誤りが,正しい手順を選ぶのを難しくしてしまったのではないかと思います。
 藤井叡王が先勝。第二局は来月15日に指される予定です。

 悲しみtristitiaは必然的にnecessario受動passioですので,ここでは悲しみを例にして考えます。他面からいえば,悲しみの積極性について考えるということです。悲しみに積極的なものが含まれているということが証明できれば,残るふたつの基本感情affectus primariiである欲望cupiditasと喜びlaetitiaにも積極的なものが含まれていることは明白でしょう。
 悲しみは第三部諸感情の定義三により,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioです。実はこの定義Definitioそのものの中に,悲しみには積極的なものが含まれているということが含まれています。なぜならそれは,小なる完全性への移行であるとしても,完全性であることには違いないからです。
 スピノザの哲学では,完全性というのは実在性realitasと同じことを意味します。これは第二部定義六から明白です。つまりより小なる完全性への移行というのと,より小なる実在性への移行というのは同じことを意味します。そしてこの実在性というのは,potentiaという観点からみられるその事物の本性essentiaを意味します。つまり,現実的に存在するAの本性と,現実的に存在するAの実在性というのは,同じことを異なった観点からみているのにすぎません。したがって,実在性というのはある力のことを意味します。つまり,より小なる完全性へと移行したというのは,より小なる力へと移行したということを意味します。あるいは同じことですが,より小なる完全性であるとしてもそれは完全性であるということは,より小なる力であるとしてもそれは力であるという意味です。
 あるものが存在し得るとすればそれはそのものの力を意味します。それに対して存在し得ないとすれば,それはそのものの無能力impotentiaを意味します。このことはスピノザによる第一部定理一一第三の証明を導くときの前提条件なので,スピノザがこのことを認めていることは間違いありません。よって,どんなに小なる完全性あるいは小なる力であったとしても,それは積極的なあるものなのです。これは,存在し得るということは積極的なことであるといっているのと同じですから,とくに説明するまでもないでしょう。つまり,悲しみにはある積極的なものが含まれていることになるのです。いわば小なる積極性です。
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女流王位戦&積極性の意味

2022-04-29 18:59:27 | 将棋
 26日に塩田温泉で指された第33期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が16勝,西山朋佳白玲・女王が17勝。これは叡王戦およびNHK杯の成績を含んでいます。
 振駒で西山白玲・女王の先手となって三間飛車。里見女流王位も三間飛車に振っての相振飛車。中盤が非常に長い将棋で,均衡が保たれたまま終盤に。最後は先手が入玉できるか後手がそれを阻止するかという勝負になりました。
                                       
 この局面は感想戦で触れられてなく,先手の入玉がすでに決まったと両対局者はみていたようです。
 実戦は☗3四歩☖5六歩☗6六銀☖9六龍☗3三歩成と進んで先手が勝ちました。ただ本当は☗3四歩に☖2三金と打っておけば,先手も簡単には入玉できなかったかもしれません。
 ☗3四歩で☗2五玉もありそうですが,☖2三銀と打たれてこれも簡単ではないように思えます。第1図でもまだ難しいところがあったのではないでしょうか。いずれにしても大熱戦の名局でした。
 西山白玲・女王が先勝。第二局は来月11日に指される予定です。

 ここでは虚偽の積極性を,人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusに刺激されるafficiことによって,その外部の物体および自分の身体を表象するimaginariケースで考えるのがよいでしょう。このとき,外部の物体の表象像imaginesも自分の身体の表象像も,ともに混乱した観念idea inadaequataです。したがって,外部の物体の表象像は外部の物体の本性naturaを表現するexprimere観念ではありませんし,自分の身体の表象像は自分の身体の本性を表現する観念ではありません。しかし,外部の物体の表象像は,それを表象する人間の身体を刺激するafficere限りでその本性を含む観念であり,自分の身体の表象像は,外部の物体から刺激される限りで自分の身体の本性を含んでいる観念です。このように,各々の本性を含んでいるという点で,表象像は混乱した観念ではあってもある積極性を有している観念なのです。
 感情の総括的定義は,受動感情が混乱した観念であるといっていました。したがって,混乱した観念にある積極性が含まれているのであれば,受動感情にも積極性が含まれているのです。つまり,僕たちがある感情affectusを受動したときに生じる観念は,自分の身体の本性を十全に表現する観念ではないにしても,その感情を受動するaffici限りにおいて自分の身体の本性を含んでいる観念なのです。よってその受動感情には積極的なものが含まれているのです。たとえば現実的に存在するある人間が悲しみtristitiaを感じたとして,その観念は悲しんでいる自分の身体の本性を十全に表現する観念ではありません。いい換えればその悲しみの十全な観念idea adaequataではありません。しかし自分が悲しんでいる限りで自分の身体の本性を含んでいる観念ではあるのです。この意味において悲しみには悲しみの積極性というものがあるのであり,悲しみに限らず,すべての受動感情には受動感情の積極性があるといえるのです。
 感情の総括的定義は,感情についての限定的な定義Definitioです。今度は第三部定義三に従って,感情を単に観念としてではなく,精神mensのある状態と同時に身体のある状態を表示するものとして考えます。なおここでは受動感情の積極性を考えるのですから,能動的な感情については考える必要がありません。つまりその点は第三部定義三から除外して構いません。
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ヒューリック杯棋聖戦&受動感情の積極性

2022-04-28 19:16:05 | 将棋
 25日に指された第93期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明名人が19勝,永瀬拓矢王座が6勝。
 振駒で渡辺名人が先手となって矢倉。永瀬王座の急戦模様に,先手が早めに角で2筋の歩を交換。これに対応して後手が雁木に。後手が作戦勝ちを収めてそのまま押し切る将棋でした。
                                        
 第1図から☖6二金☗2五歩☖同歩☗同飛☖2四歩☗2八飛☖5二金と進みました。
                                        
 第1図と第2図は手番は異なりますが駒の配置は同一です。なのでまた☗2五歩と打てば最後の☖5二金が☖6二金となり,さらに☗2五歩と打つことによって千日手が見込めるようになります。実戦は☗9八香と上がって穴熊への組み替えを目指しましたがあまり芳しくありませんでした。先手としては第1図で作戦負けを受け入れて,千日手を視野に入れておかなければいけなかったようです。
 永瀬王座が勝って挑戦者に第87期以来となる6年ぶり2回目の棋聖戦五番勝負出場です。

 厳密にいえば受動感情の積極性は,すべての受動感情に成立する事柄です。ですからスピノザが絶対的に否定するような受動感情,高慢superbiaとか憎しみodiumといった感情affectusにも成立します。したがって,ある種の受動感情が人と人とを融和させるような作用をなすということを,この受動感情の積極性という観点だけで説明することができるわけではなく,それとは別の条件が必要とされます。『スピノザ〈触発の思考〉』ではその条件が示されています。ただしそのことは後回しにして,ここでは受動感情の積極性というのがどのような意味を有するのかということを先に考察します。これはこれでスピノザの哲学を理解するために重要な観点であるからです。
 僕はこのことはふたつの観点から説明できると考えています。まず最初に,感情を感情の総括定義として示されているような思惟作用として解してみましょう。この定義Definitioは感情については限定的な定義ではあるのですが,ここでは受動感情に限定して考察するわけですから,まずは受動感情だけをターゲットにしているこの定義を利用するのがよいと思います。
 この定義では,受動感情がある混乱した観念idea inadaequataであるといわれています。混乱した観念というのは,十全な観念idea adaequataが真理veritasを意味するのに対して虚偽falsitasを意味します。観念は必ず何かの観念,他面からいえば観念対象ideatumを有する思惟の様態cogitandi modiですから,その観念対象に対する個別の真理を意味するのが十全な観念ないしは真の観念idea veraであるのに対して,個別の虚偽を意味するのがその観念対象の混乱した観念あるいは誤った観念idea falsaであるというのが適切です。僕は真理というのは個別の真理の総体であり,かつそれは思惟の様態であると考えているという点には注意しておいてください。
 スピノザは混乱した観念は虚偽であるけれども,そこには積極的なあるものが含まれていると解しています。それは僕が虚偽の積極性といっていることです。たとえば第四部定理一では,誤った観念の積極性といういい回しがされています。そしてこの定理Propositioでいわれている意味,虚偽の発生も現在も,真理によっては妨害されないのは,虚偽がそれ自体である積極性を有しているからだといえるのです。
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〔ウクライナ避難民への支援〕しらさぎ賞&推奨の理由

2022-04-27 19:11:12 | 地方競馬
 名古屋から1頭,笠松から1頭が遠征してきた第60回しらさぎ賞。張田昂騎手は新型コロナウイルスの抗原検査で陽性反応が出たようで,アールロッソは町田騎手に変更。
 アイカプチーノは少しばかり躓いて1馬身の不利。内からアルコレーヌ,ダノンレジーナ,ブロンディーヴァの3頭が出ていき,枠なりに3番手までを占めました。4番手はミラバーグマンとルイドフィーネ。6番手にアールロッソ。7番手にウワサノシブコでここまでは一群。7馬身差でトーケンマッキー。9番手にグロリオーソとアイカプチーノ。11番手にシーアフェアリー。6馬身差の最後尾にナラという隊列。最初の600mは35秒6のハイペース。
 3コーナーを回るとダノンレジーナがアルコレーヌに並び掛けていき,直線の入口ではこの2頭が並んで先頭。アールロッソが3番手まで追い上げてきて,直線はこの3頭の争い。前の2頭の競り合いからはダノンレジーナが前に出ましたが,その外からアールロッソが差し切って優勝。ダノンレジーナが1馬身差で2着。逃げ粘ったアルコレーヌが1馬身差で3着。
 優勝したアールロッソは南関東重賞初制覇。デビューはJRAで2勝。昨年10月のレースを最後に南関東に転入。転入初戦は6着でしたが,その後は連勝。このレースは能力最上位のダノンレジーナを目標にレースができた上に,斤量差が3キロあったことによる勝利という見方ができます。現実にダノンレジーナを破ったことは評価しなければなりませんが,能力で上回っているとはいえないのではないでしょうか。転入初戦は1000mで負けていますので,純粋なスプリンターというのとは違うように思えます。父はサウスヴィグラスフロリースカップシラオキの分枝。
 騎乗した川崎の町田直希騎手は一昨年のしらさぎ賞以来となる南関東重賞13勝目。2年ぶりのしらさぎ賞2勝目。管理している船橋の山下貴之調教師は南関東重賞4勝目。しらさぎ賞は初勝利。

 もし良心の呵責conscientiae morsusを感じることによって,他人に害悪を加えることをやめるのであれば,その限りにおいてその両人は対立的であることはないでしょう。少なくとも実際に危害を加えるという場合と,害悪を与えることをしないという場合を比較すれば,後者に対して前者が対立的であることは明白ですから,この限りにおいて良心の呵責は人と人とが対立することを妨げる感情affectusである,あるいは同じことですが,人を敬虔pietasにさせる感情であるということになります。ですからこの限りにおいて,良心の呵責という感情は,スピノザによって推奨される感情であることになる筈です。
 もちろんこれらのことは,他人を愛するということが,必ずしも人と人とを対立的であることを妨げる感情であるわけではないという場合と同様に,良心の呵責は必然的にnecessario人を敬虔にさせる感情であるということを意味するのではありません。しかし愛amor,受動感情としての愛が,人を敬虔にさせるという場合はあるのであって,その限りにおいて愛は推奨されるというのと同じ意味で推奨されるのです。場合によっては人は,他人に対して危害を加えないことに良心の呵責を感じるという場合もあり得るのであって,その場合には良心の呵責は他人に対して害悪を与えることに向かわせる感情となるでしょう。その場合の良心の呵責が,スピノザによって推奨されるということはありません。むしろこの場合には,高慢superbiaや憎しみodiumといった感情が,スピノザによって全面的に否定されるのと同じ理由によって否定されることになります。ただ,高慢や憎しみが,必然的に人と人とを対立させる感情であるのに対していえば,良心の呵責は人と人とを対立させる場合もあるけれども,逆に人と人とが対立することを避けさせる場合もあるので,全面的に否定されることはなく,むしろその限りでは推奨されるということです。
                                        
 『スピノザ〈触発の思考〉』では,ある種の受動感情が人と人とが対立することを避けさせること,より積極的にいうならば,ある種の受動感情が人と人とが融和するように仕向けるようなことが生じるのかということが,受動感情の積極性とでもいうべき観点から説明されています。
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大楠賞争奪戦&僕の定義の場合

2022-04-26 19:02:08 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは桜井‐佐藤の北日本,吉田‐平原‐諸橋‐木暮の関東,稲川‐村上の近畿で大坪は単騎。
 佐藤がスタートを取りましたが,誘導との車間をなかなか詰めませんでした。この間にバックで稲川が上昇。誘導と佐藤の間に入って前受け。3番手に桜井,5番手に大坪,6番手に吉田という周回に。吉田は前との車間を少し開けたものの動きはなく,この隊列のまま誘導が退避して残り2周。打鐘が入って桜井が上昇。稲川と先行争いの形になり,これを制したのは稲川。桜井は脱落して佐藤が村上の後ろにスイッチ。バックに入ってようやく吉田が反撃開始。ただ捲ることはできず,いききれないとみたマークの平原が最終コーナーから自力で発進。直線で前をいく選手すべてを差し切って優勝。村上にスイッチした佐藤が稲川と村上の間に進路を取り,村上と接触して両選手は落車。それに巻き込まれて,平原マークから内に進路を取った諸橋と佐藤を追走するレースになった大坪も落車。落車とは無関係の大外から伸びた木暮が1車身半差で2着。逃げ粘った稲川が4分の3車輪差で3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は先月の大垣記念以来の優勝で記念競輪30勝目。武雄記念は初優勝。この開催は松浦が準決勝で敗退。このために関東ラインがかなり有利になりました。吉田はおそらくかまして先行するという作戦を立てていて,しかし先に桜井に発進されてしまったために,先行するタイミングを失ってしまったのだと思います。これでみれば完全に失敗に終わったレースで,実際に捲りは不発に終わったのですが,ある程度まではいってくれたので,平原は優勝することができました。吉田の捲りによいところで見切りをつけたのが平原の優勝の要因といえそうです。

 僕の見解opinioでは,良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとして定義するなら,自分がなしたあるいはなすであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitia,とするのが適切です。僕たちが良心の呵責を感じるという場合には,概ねこのような心理状態のことを意味しているといえるからです。そこでもしも良心の感情を,『エチカ』あるいはスピノザの哲学から離れて,ここに定義したような感情としてみた場合にも.この感情は推奨されるのかということを考えれば,やはりこれは推奨され得ると僕は解します。
 僕が定義した良心の呵責は,過去とも未来とも関係する感情です。自分がなしたことというのは過去のことですし,なすであろうことというのは未来と関係しますから,これはとくに説明するまでもないでしょう。このとき,これを過去とだけ関係づけるとすれば,それは確かに第三部諸感情の定義二七の類似感情であるといえます。そしてその後悔poenitentiaをスピノザは推奨しているのですから,この場合にスピノザが良心の呵責を推奨しないということはあり得ません。僕が『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』の良心の呵責については,それを良心の呵責ということも,畠中が良心の呵責と日本語に訳して構わないといっていることにも疑問をもっているということはすでにいったことですが,それが後悔の類似感情であるということは認めます。したがって『短論文』の良心の呵責が,スピノザによって肯定されることは疑い得ません。これと同じ理由で,僕が定義した良心の呵責が,過去と関連づけられる限りでは推奨されるということも,疑い得ないのです。
 一方,未来と関連づけられる場合にも,この良心の呵責は推奨され得ると僕は考えます。この場合に良心の呵責は,他人に対して害悪を加えることを回避するようにその良心の呵責を感じている人間を動かし得る感情であるからです。ある人間Aが現実的に存在しているとして,この人間Aが別の人間Bに対して,Bの害悪になるとAが確知していることをなそうとしているときに,Aがその加害,他面からいえばBの被害を表象して良心の呵責を感じたために,その行為をなすことを止めるということは,論理的にあり得ますし,現実的にもあり得るでしょう。
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『彼岸過迄』まで&見解の根拠

2022-04-25 19:14:22 | 歌・小説
 『彼岸過迄』は,いくつかの短編をまとめてひとつの作品とした実験作であり意欲作です。漱石がそのような小説を新聞小説として書いたのには,ある特別の事情が絡んでいました。
                                          
 漱石が朝日新聞に入社したのは1907年4月です。5月に大学教授と新聞屋には職業としての貴賤はないという主旨の入社の辞を寄せ,小説としては『虞美人草』を6月から掲載し始めました。1908年1月からの『坑夫』が2作目。9月からの『三四郎』が3作目で1909年6月から『それから』。さらに1910年3月から『門』の連載が始まりました。『彼岸過迄』はその次の長編連載小説ですが,開始になったのは1912年1月で,『門』との期間はかなり長くなっています。
 この間に漱石は胃潰瘍を発症。1910年8月から修善寺に療養に行きましたが,そこで大量の吐血をして生死の境をさまよいました。
 ここから分かるように,『彼岸過迄』というのは,漱石が大病から生還をしての最初の小説であったのです。しかもそういう事情がありましたから,その前の連載小説からの期間が長く,読者を待たせたという気持ちが漱石の中にもあったのです。漱石は新聞小説を掲載し始める前に予告をしていますが,『彼岸過迄』の事前予告の中ではそうした事情について触れられていて,久しぶりであるからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかあるといっています。
 さらに漱石は,自分の病気に対して寛容的に対処してくれた朝日新聞の社員たちや,自分が書いたものを読んでくれる読者の好意に報わなければならないという気持ちもあるといっています。もちろんこうしたことは,社交辞令といった一面がないとはいえないでしょう。ただ,こういった気持ちは表向きのものだけであって,漱石にそういう気持ちがまったくなかったということはあり得ないと思います。ですから漱石がこのときに『彼岸過迄』という実験的ともいえる意欲作の掲載に踏み切った理由として,『彼岸過迄』までの事情が影響したということは,可能性として否定できない事実だといえるでしょう。

 良心の呵責conscientiae morsusは悲しみtristitiaの一種であるがゆえに,人間のコナトゥスconatusに反する感情affectusであると同時に,非道徳的な感情でもあります。しかしそうした感情であっても,推奨される余地はあります。良心の呵責がどう解されるかは,良心の呵責が憐憫commiseratioや後悔poenitentiaや自己嫌悪humilitas,また不安metusといった一連の感情に属するのか,それとも憎しみodiumを代表とするような一連の感情に属するのかということを考える必要があります。前もっていっておいたように,僕はスピノザが良心の呵責を全面的に否定することはない,いい換えれば推奨するであろう,少なくとも推奨する場合があるだろうという見解opinioを有しています。つまり良心の呵責は,前述の分類でいえば前者に属するであろうという見解をもっています。ここからは僕がその見解を有している根拠を説明していきます。
 スピノザが第三部諸感情の定義一七の感情について,なぜそれを良心の呵責といったのかは不明です。というか,考察の対象としませんでした。ただスピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』を記していた時点では,良心の呵責を後悔の類似感情であると考えていたのです。そしてスピノザは後悔については『エチカ』でも推奨しています。厳密にいえば第四部定理五四備考は,害悪より利益を齎すといっているわけで,推奨しているというのはいい過ぎかもしれませんが,第四部定理四系から,現実的に存在する人間は働きを受けるpatiということが不可避なので,働きを受けるのならこの働きを受けるのがよいといっているに等しいといえます。
 第三部諸感情の定義一七の感情は,後悔,第三部諸感情の定義二七の感情の類似感情であるとはいえません。つまり『エチカ』では良心の呵責が後悔の類似感情であるとはいえません。しかしこの感情は希望spesおよび不安metusからの派生感情です。つまり,前もって希望と不安があるのでなければ,現実的に存在する人間は良心の呵責を感じることはない,というように『エチカ』では定義されているのです。そして不安と希望は『エチカ』では推奨されています。このことからも,良心の呵責は推奨される,少なくとも推奨され得ると解することができるのではないでしょうか。
 定義Definitioから離れた場合も考えます。
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後継者&推奨されない受動感情

2022-04-24 19:01:27 | 将棋トピック
 米長の死の要因となったのは前立腺癌でした。前立腺癌を罹患していること,そしてそのために放射線治療を受けているということは公表されていました。米長はそれでも会長職を続けたのですから,任期中は生きていられると思っていたのかもしれません。ただ,それほど多くの時間が自身に残されているわけではないということは理解していたでしょう。棋士たちを二分するようなことを,やや拙速とも思えるやり方で推進していったことには,そうした米長の感覚が影響していたのかもしれません。少なくとも谷川を理事にして自身の近くに置いたことと,米長が前立腺癌を罹患していたこととの間には,明らかに関係があったと僕は推測します。米長は自身の後継者,いい換えれば次期会長が必要であるということを,明確に意識していたのだと思います。
 谷川は本来であればもっと長きにわたって会長職を務める筈でした。だから後継者のことなどは考えていなかったでしょう。ただ谷川自身が佐藤を指名したように,もしも谷川がそれを考えていたとすれば,佐藤であったことになります。ただ佐藤が谷川と同じように理事になって谷川のそばで学ぶということがなかったのは,谷川にはすぐに後継者を育成しなければならない理由がなかったからにすぎなかったからだといえるでしょう。他面からいえば,何らかの理由で,自身が会長職にとどまることができないという意識が谷川のうちにあれば,その時点で佐藤は理事になっていたでしょう。
 米長は会長であった頃,棋士が公開の場でコンピューターソフトを相手に将棋を指すことを原則的に禁じました。これはそういう場で棋士が負けてしまうことのダメージを避けてしまうためであると同時に,コンピューターソフトと棋士との対局が,将棋連盟の利益になると米長が認識したからだったと思います。先に棋士が負けてしまうと利益にならなくなりかねませんから,このふたつの理由は連関しています。

 スピノザの哲学のうちでは,人間の現実的本性actualis essentiaに反し,かつ非道徳的であるような感情affectusであっても,スピノザによって推奨されている感情があるということは,ここまでの説明から理解することができました。スピノザは敬虔pietasであること,いい換えれば人と人とが対立的にならないことを推奨するのですから,スピノザはそのために有益であるような受動感情は,悲しみtristitiaでも推奨することになるのです。
                                   
 これに対して,スピノザがまったく推奨しない受動感情というのも存在します。ある種の受動感情は,必然的にnecessario人と人とを対立させる,いい換えれば人を敬虔であることをできなくします。あるいは同じことですが,人間が理性ratioに従っていたなら絶対に行動しないようなことに向かわせる一連の受動感情があるのです。当然ながらスピノザはそうした感情については推奨しません。第四部定理四系によって,そうした感情を禁じるということはないにしても,とくに避けるべき感情といわれることになります。
 その代表的なものが第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaです。この感情は喜びlaetitiaですから,人間の現実的本性には反しません。しかし定義Definitioから明白なように,観念ideaとしてみた場合は混乱した観念idea inadaequataであり,したがって現実的に存在する人間が高慢という感情を感じるときには,必然的に働きを受けています。よって非道徳的です。そしてこの高慢は第三部定理二六備考で狂気といわれています。つまりこの感情は,人間が理性に従って振る舞うのとは正反対の行動に向かわせるのです。また人と人とを対立させます。このことも高慢の定義から明らかなのでとくに説明するまでもないでしょう。そしてそれが理解できれば,スピノザがこの感情を徹底的に否定するのも当然だといえます。
 悲しみに属する感情のうちでスピノザがとくに否定的な評価を与えるのは,第三部諸感情の定義七の憎しみodiumに属する感情です。これをスピノザが推奨していないのは,第四部定理四五系二から理解することができるでしょう。また憎しみが人と人とを対立させるということは,第三部定理三九から明白であるといえます。ですから憎しみに属する一連の感情をスピノザが推奨しないのは当然です。
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マイナビ女子オープン&有用な受動

2022-04-23 18:54:03 | 将棋
 21日に甲府で指された第15期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 西山朋佳女王の先手で三間飛車から向飛車。後手の里見香奈女流四冠はなかなか態度を明らかにしませんでしたが,居玉のまま1三に香車を上がり,ダイレクトに1二に飛車を振るという,珍しい形の相振飛車。後手が1筋から仕掛ける将棋で,その後の先手の反撃に対応を誤ったために,先手がリードを奪いました。そのまま先手が押し切る将棋でしたが,実際は後手にもチャンスがある局面があったようです。
                                        
 第1図で先手は☗5三銀と打ったのですが,実際はこの手は危険だったようです。実戦は☖同銀☗同と☖6二金と進んで事なきを得ましたが,☖6二金の局園では☖4七香と王手をする手があり,これなら互角の勝負にはなっていたようです。
 ☖6二金の局面で☖4七香が有力なら,たぶん☗5三銀にすぐ☖4七香も有力。☗同金なら☖5三銀で後手が勝つでしょうから☗5九王ですが,そこで☖5三銀の方が,感想戦で示されている手順よりもさらに後手が得をしているように思います。
 西山女王が勝って1勝1敗。第三局は来月14日に指される予定です。

 憐憫commiseratioという感情affectusが,理性ratioに従う限りにおいては無用であるということの裏には,理性に従わない場合は有用であるという意味が含まれているように読解できます。第四部定理四系が示しているのは,人間は常に理性に従っていることはできないということです。このことは現実的に存在するすべての人間に妥当するので,どんな人間でも理性に従っていないときがあることになります。よって,もしその場合に憐憫が有用であるというなら,すべての人間にとって憐憫は有用であるということになります。
 このことは,第四部定理五〇の文言はそのように読解することができるということであって,実際にスピノザがそのように主張しているということを証しているわけではありません。ですが実際にスピノザはそのように考えています。そのことは第四部定理五〇備考から明白であるといっていいでしょう。憐憫という感情は悲しみtristitiaであるけれど,他人,というのはある人が憐憫を感じている他人のことですが,その他人を援助するようにその人を動かす感情であるとスピノザはみているのです。そして同時に,人は理性に従う限りでは,その人を援助するという行動をとるともスピノザは考えています。したがって,憐憫という感情によってその憐憫を感じている人に対して発生する行動は,理性によって,つまりたとえ憐憫を感じないとしてもその人に対してとる行動と,同一の行動であることになります。いい換えれば現実的に存在する人間は,憐憫という受動passioによって,理性による精神の能動actio Mentisと同じ態度なり振る舞いをするということになります。あるいはキリスト教的にいえば,人は憐憫を感じることによって,敬虔pietasであることができるのです。したがって憐憫という感情は有用であるということになるでしょう。
 ここでは憐憫を例としましたが,スピノザがこのような意味で肯定的に評価する受動感情,あるいは悲しみに属する感情は,憐憫だけであるというわけではありません。第四部定理五四備考では,自己嫌悪humilitasと後悔poenitentia,そして不安metusは,害悪より利益を齎すといわれていて,不安と表裏一体の喜びlaetitia,つまり必然的にnecessario受動である希望spesについても同様のことがいわれています。
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ブリリアントカップ&修正内容

2022-04-22 19:05:51 | 地方競馬
 昨晩の第5回ブリリアントカップ。横川騎手が19日の1レースのレース前に落馬し,全身を打撲したためにクロスケは笹川騎手に変更。
 逃げたのはノートウォージーで2番手にレッドフレイ。3番手のフィアットルクス,ハイランドピーク,タイサイまでの5頭が先行集団。2馬身差でセイカメテオポリスとロードゴラッソが好位を追走。5馬身差でノンコノユメ。9番手にゴールドホイヤー。10番手にジョエル。11番手にコパノジャッキー。12番手のクロスケとサルサレイアとトランセンデンスまでが中団。3馬身差でハセノパイロ。ノーブルサターンは大きく離されました。最初の800mは49秒0のミドルペース。
 3コーナーを回ると外からロードゴラッソが進出。直線の入口までに前をいく馬すべてを捲り切って先頭に。直線もそのまま抜け出す形で優勝。ロードゴラッソの外から追ってきたセイカメテオポリスが1馬身4分の3差で2着。レッドフレイとフィアットルクスの間から伸びてきたノンコノユメが2馬身差で3着。フィアットルクスがアタマ差の4着でハイランドピークの外から伸びたゴールドホイヤーがアタマ差の5着。
 優勝したロードゴラッソは一昨年の名古屋大賞典以来の勝利。南関東重賞は初制覇。重賞を2勝している馬ですから力量は上位なのですが,今年に入って南関東に転入後,前走のオープンでも勝てませんでしたので,ここでは厳しいのかなとみていました。これが転入後の4戦目で,ようやく馬場やレース形態などに慣れてきたというようにみることもできますが,このレースは嵌ったという印象もありますので,次からも同じように走れるという確信までは僕はもてませんでした。距離はもっと長い方がよさそうに思えます。父はハーツクライ。Golazoはスペイン語でゴール。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は京浜盃以来の南関東重賞54勝目。第3回以来2年ぶりのブリリアントカップ2勝目。管理している川崎の佐々木仁調教師は南関東重賞10勝目。ブリリアントカップは初勝利。

 ここまでの説明から分かるように,隣人を愛せという教えを,すべての他人を愛せという意味に解し,かつその教えを遵守して行動するとしても,敬虔pietasになることができるというわけではありません。あるいは同じことですが,理性ratioに従って行動するのと同じように行動することができるというわけではないのです。ですから,修正が必要なのであって,もしその聖書の教えを遵守することによって,敬虔になることができる,つまり理性に従っているのと同じように行動することができる限りにおいて,この教えは有用であるということができるのです。ただしそれは,この教えを遵守することによって,理性に従って行動するのと同じように行動することができる場合もあるわけですから,スピノザがひどく的外れなことをいっているわけではありません。
 現在の考察の中心である良心の呵責conscientiae morsusに戻せば,良心の呵責についてもこの修正と同じことが妥当します。つまりもしも良心の呵責を感じることによって,理性に従って行動するのと同じように行動することができるようになるのであれば,良心の呵責は推奨される感情affectusであることになります。悲しみtristitiaは現実的本性actualis essentiaからも道徳的観点からも否定されるのですが,それでも推奨され得る感情になるのです。なので,良心の呵責がそういう感情であるのかということを考えていかなければならないでしょう。
                                     
 スピノザはある種の悲しみについては,『エチカ』でもそれを肯定的に,もちろん全面的にではなく部分的にではありますが,肯定的に評価していると僕は解します。まずはその例をいくつかみてみましょう。
 かつて考察した第四部定理五〇は,憐憫commiseratioは理性に従う限りでは悪malumであり無用だといっています。憐憫は第三部諸感情の定義一八により,悲しみの一種です。したがって第四部定理八によって,悪であることになりますし,理性によって物事を認識するcognoscereのは精神の能動actio Mentisですから,悲しみである憐憫を感じることがありません。よって無用であるということにもなります。このうち,悪であるということは理性に従おうと従わなかろうと変わらないでしょうが,無用であるという点は変じてくるだろうと僕は考えます。
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東京スプリント&修正

2022-04-21 19:00:39 | 地方競馬
 昨晩の第33回東京スプリント
 ナガタブラックはいつものようにダッシュがつかず2馬身の不利。それでもこの馬としては出た方でしょう。ギシギシが先手を取りにいきましたが,内で譲らなかったカプリフレイバーの逃げに。2番手にギシギシで3番手にリュウノユキナ。4番手のサクセスエナジーとピンシャンとシャマルまでは一団で続きました。4馬身ほど開いてワールドリング。ルーチェドーロ,ハートプレイス,ヴァルラームの順でおよそ1馬身の間隔で追走し,この4頭が中団。2馬身差でヒロシゲゴールド。4馬身差でヒカリオーソ。4馬身差の最後尾にナガタブラックと,残りの3頭はばらばら。前半の600mは34秒8のミドルペース。
 3コーナーを回るとカプリフレイバー,ギシギシ,シャマルの3頭が雁行に。リュウノユキナが内を回って続きました。直線に入るとカプリフレイバーが一杯に。リュウノユキナは少し外に出てカプリフレイバーを避けるとギシギシの内へ。ここからは内からリュウノユキナ,ギシギシ,シャマルの3頭で後ろを離しての優勝争い。中のギシギシがやや遅れをとり,リュウノユキナとシャマルはほぼ並んでフィニッシュ。写真判定となって優勝は外のシャマル。リュウノユキナがハナ差で2着。ギシギシがクビ差で3着。
 優勝したシャマルは重賞初挑戦での優勝。ここまで7戦して4勝。前走は3勝クラスを5馬身差で圧勝していました。オープンでの相手関係は不明でしたが,それだけの圧勝をしているなら通用してもおかしくありませんので,優勝候補の1頭と位置付けていました。リュウノユキナはこの路線で安定した成績を残し続けている馬で,この馬と接戦を演じられるくらいでないと重賞を勝つのは困難です。オープン初挑戦で結果を出しましたので,今後も活躍を見込んでよいでしょう。父はスマートファルコン。母の父はアグネスデジタル。祖母の父はダンスインザダーク。Shamalはペルシャ湾岸地域に吹く砂塵を伴う強風。
 騎乗した川須栄彦騎手と管理している松下武士調教師は東京スプリント初勝利。

 たとえ隣人を愛せという教えを,態度や振る舞いに対する教えであると解するにしても,論理的飛躍があるのは間違いないと僕は思います。しかも,ひとつめの飛躍,つまり隣人というのがだれを意味するかという飛躍は,聖書の解釈に関係するのですから,許容の範囲内といえます。スピノザはキリスト教徒でなくとも敬虔pietasであることができるし,キリスト教徒であるからといって敬虔であるというわけではないといっていて,その主張に理があると認める限り,隣人というのをキリスト教徒と限定する必要はなく,一般にすべての他人と解釈することができるからです。しかしふたつめの飛躍は,スピノザの哲学そのものと関係しています。したがって許容の範囲のうちにあると見過ごすことはできず,修正が必要でしょう。
                                   
 第四部定理三五は,人間は理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で一致するといっています。ですからすべての人間が理性に従う限りでは,態度や振る舞いも一致することになるのであって,そのために各人が対立的になることはありません。こういう態度や振る舞いを,キリスト教的には敬虔というのだとスピノザはいっているのです。したがって,この場合の隣人を愛せという教えは,キリスト教徒を愛せという意味ではなく,すべての他人を愛せという意味でなければなりません。理性に従うことができるのがキリスト教徒だけであるわけではないからです。ただ仮にこの教えをそのように解するとしても,その教えを遵守することで,理性に従った態度や振る舞いと同一の態度や振る舞いをとることができるとは限りません。これは限定できないという意味であって,もちろん同一の態度なり振る舞いなりになることはあるのであって,その場合には隣人を愛せという教えに従うことも有効でしょう。しかしそうならない場合もあるのですから,隣人を愛せという教えを遵守することで,必ず敬虔であることができるというわけではないのです。この部分に修正が必要であると僕は考えます。
 現実的に存在する人間は,その意味をどう解するにせよ,隣人を愛せという教えを遵守することで,敬虔になれるわけではありません。そうなる場合があるだけです。
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感情の総括的定義説明&論理的飛躍

2022-04-20 19:30:02 | 哲学
 感情の総括的定義では,感情affectusとは,精神mensが自己の身体corpusあるいは身体の一部分について,以前より大きなまたは以前より小さな存在力を肯定するaffirmare混乱した観念idea inadaequataであるといわれていて,このことの意味が感情の総括的定義説明の中で説明されていました。しかしそれと同時に,感情とは,あるものの現在によって何らかのものをほかのものよりも多く思惟するように決定される混乱した観念であるともいわれています。いい換えれば,感情についてふたつの定義Definitioがされているのです。なぜふたつの定義が必要であったのかも,この説明の中で言及されています。
                                   
 「喜びおよび悲しみの本性のほかに,欲望の本性も表現しようとしたためであった」。
 スピノザは基本感情affectus primariiとして,喜びlaetitiaと悲しみtristitia,そして欲望cupiditasの三種類をあげています。このために,喜びと悲しみだけを定義すれば感情の定義として事足りるというわけではなく,欲望についても定義しなければならなかったのです。なので感情の総括的定義は,その前半部分では喜びと悲しみが,そして後半部分では欲望が定義されることになったのです。
 前もっていっておいたように,この定義は第三部定義三で定義されている感情よりは幅が狭く,身体とは関係せず,精神とだけ関係するような感情の定義であり,かつ精神の能動actio Mentisとも関係せずに精神の受動passioとだけ関係するような定義です。ですからこの定義における感情は,観念としてみた場合には混乱した観念であるということになっています。なので欲望に関連する部分で,精神があるものをほかのものよりも多く思惟するように決定されるといわれているとき,この思惟作用は受動であると解さなければなりません。もっともそれは,思惟作用に決定されるといわれていることから明白だとはいえるでしょう。ただそれは同時に,この思惟作用はものを十全に認識するcognoscere思惟作用ではなく,ものを混乱して認識する思惟作用であるという意味が含まれているのであり,その点は銘記しておくべきだと僕は考えます。

 隣人を愛せということが,キリスト教の教えのひとつであるということについては僕は同意します。ただそのときに,それを他人を愛せという意味に解してよいかということについては疑問をもちます。隣人という語には,隣人である人間と隣人でない人間がいるという意味が含まれているように思えるからです。少なくとも新約聖書で隣人といわれるとき,それをすべての他人というようには解せないと僕は思います。いい換えれば,キリスト教で隣人というのはイエスをキリストと認める人,つまりキリスト教徒をいうのであって,それ以外の人を愛せと教えているわけではないのだと僕は考えますし,少なくともこのような解釈も成立するのは間違いないと思います。
 スピノザは,キリスト教徒だけが敬虔pietasであるといっているのではありません。たとえ無宗教の人であろうと異教徒であろうと,敬虔であることはできるし,キリスト教徒だからといって敬虔であるわけではないといっています。したがって,この観点からいうなら,隣人を愛せという教えを,一般にすべての他人を愛せといっていると解しても問題はないでしょう。しかし新約聖書に基づいて解するなら,隣人を愛せということを,他人を愛せと等置するのは,論理的な飛躍があると思います。
 もうひとつの論理的飛躍は,ある人間が別の人間を愛する限りでは,人間は対立的ではないとしている点です。確かにその通りであるかもしれませんが,論理的には必ずしもそうとはいえません。なぜなら僕たちは受動passioによって人を愛するということがあるのであって,その限りでは第四部定理三四により,人間は対立的であり得るからです。実際に,AがBを愛しているとして,BがAを愛していない場合には,AとBは対立的であり得るでしょう。なので,人が他人を愛する限りで対立的ではないというなら,そこにはある論理的な飛躍があるといっていいでしょう。
 スピノザは敬虔であるということについては,感情affectusそのもののことをいうのではなく,振る舞いや態度についていうのです。だから隣人を愛せという教えについても,態度や振る舞いで示されるような愛amorについて言及していると解するべきです。
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スタセリタ&振る舞い

2022-04-19 19:10:33 | 血統
 桜花賞を勝ったスターズオンアースの母は,2013年にイギリスで産まれたサザンスターズです。そしてその母で,2006年にフランスで産まれたスタセリタという馬も,その前に輸入されています。日本での母系はこのスタセリタから始まっています。セリエンホルデとサロミナの7代母が,スタセリタの7代母にあたる同一牝系でファミリーナンバー16-c
                                        
 スタセリタはGⅠを6勝した名馬。サザンスターズが最初の産駒で,サザンスターズを生んだ後,種付けをされた状態で輸入されました。来日してから産んだのがソウルスターリング。2016年に阪神ジュベナイルフィリーズを勝ってJRA賞の最優秀2歳牝馬に選出されると,翌年はチューリップ賞とオークスを勝ち,JRA賞の最優秀3歳牝馬に選出されました。
 ソウルスターリングのふたつ下の全妹がシェーングランツ。この馬は2018年にアルテミスステークスを勝っています。
 サザンスターズはおそらくソウルスターリングの活躍があったため,最初から日本で繁殖生活をスタート。スターズオンアースは日本で2頭目の産駒となります。
 これだけ短期間で大レースの勝ち馬が2頭出ていますし,その2頭を含む重賞勝ち馬の3頭がいずれも牝馬ですから,日本でも牝系が発展していきそうです。現時点で気掛かりなのは,ソウルスターリングはオークスを勝った後,シェーングランツはアルテミスステークスを勝った後,いずれも勝てなかったように,やや早熟の傾向がみられること。その意味では世代を経たスターズオンアースが,これ以降どのくらい活躍することができるのかという点に,血統面から注目しています。

 第四部定理三五は,人間は理性ratioの導きに従う限りでは,本性naturaが一致するといっています。いい換えればこの限りにおいては人間が対立的であるということはありません。それがスピノザのいう敬虔pietasの意味なのですから,人間は理性に従う限りでは敬虔であるということになります。これはもちろん,キリスト教の信者であるかないかということとは関係ありません。キリスト教徒だけが理性の導きに従うことができるというわけではないからです。たとえキリスト教を信じていなくても,あるいは同じことですが,イエスをキリストとは認めていないとしても,人間は敬虔であるということができるのです。
 一方,スピノザが解するキリスト教の教えのふたつのうちのひとつは,隣人を愛せということでした。人は隣人を愛する限りでは対立的であることはありません。いい換えれば敬虔であることができます。したがって,この教えを遵守する限りでは,人間は敬虔であることができます。つまり,理性に従う人と同じように行動することになるでしょう。よって,理性に従って振る舞う場合と,聖書の教えを忠実に守って振る舞う場合は,その振る舞いの内容は一致します。前者は理性によって,つまり精神の能動actio Mentisによって敬虔であるのに対し,後者は聖書の教えによって,つまり聖書から働きを受けるpatiことによって敬虔であるのですが,振る舞いは一致するのです。つまり,現実的に存在する人間は,ある種の受動passioによって,能動的な人間,スピノザの哲学でいうところの自由の人homo liberと同じように振る舞うことができます。そしてこの限りにおいては,スピノザは受動的であること,本来的には非道徳的なことを,むしろ推奨するのです。
 これは今の考察とは無関係ですが,僕はここに示したスピノザの考え方については,論理的な飛躍が含まれているのではないかという疑いをもっています。しかもふたつの論理的な飛躍が含まれているのではないかと思っています。これはこれでスピノザの哲学の探求にとっては重要なことでしょうから,この機会に僕の疑念を説明しておきましょう。
 まずひとつは,スピノザがキリスト教の教えといっている,隣人を愛せという点です。
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桜花賞・海老澤清杯&敬虔

2022-04-18 18:57:17 | 競輪
 昨日の川崎記念の決勝。並びは吉田‐恩田の関東,郡司‐松谷の神奈川,小森‐東口の近畿,松浦‐小川の西国で守沢は単騎。
 東口がスタートを取って小森の前受け。3番手に松浦,5番手に守沢,6番手に郡司,8番手に吉田で周回。残り3周のバックを出ると郡司が上昇開始。吉田はそのまま続きました。ホームで郡司が小森を叩くとコーナーで吉田が動いてバックの入口では郡司の前に。引いた小森が発進して吉田を叩いて打鐘。このラインに続いた松浦が,内の吉田と3番手を併走。吉田ラインと松浦ラインの併走の後ろに守沢で守沢の後ろが郡司という隊列に。バックから郡司が発進。マークの松谷がすぐに離れてしまうくらいのスピードでしたが,小森マークの東口が番手捲りを敢行。松浦がそれに乗る形になりました。直線は東口,松浦に捲り追い込んできた郡司の争い。とくに松浦と郡司は大接戦となり写真判定になりましたが,同着でふたりの優勝。東口が1車輪差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は和歌山記念以来の優勝で記念競輪13勝目。川崎記念は2017年,2019年,2021年に優勝していて連覇で4勝目。昨年の全日本選抜競輪も当地で優勝しています。広島の松浦悠士選手は奈良記念以来の優勝で記念競輪15勝目。このレースは小森以外の3人の自力選手は記念競輪で優勝候補というレベルなので,展開がどうなるのかで結果が左右されると思っていました。吉田は結果的に松浦に内に封じ込められる形になって不発。松浦は位置はよかったのですが,あの段階での東口の番手捲りは想定していなかったのかもしれません。郡司は展開面は厳しかったですが,松浦に牽制されるようなレースにはなりませんでした。同着のふたりはライバルといっていい関係ですから,順当といえば順当な決着だったといえるでしょう。

 人間は理性ratioに従う限りでは対立的であることはありません。だから能動的であることはスピノザの哲学では道徳的に推奨されるといってもいいでしょう。つまりスピノザは,現実的に存在するある人間と別の人間が,対立的にならないということを,道徳の規準としているといえます。したがって,たとえ受動的であったとしても,人間が対立しないのであれば,それは推奨される余地があるのです。第四部定理三四は,人間は受動的である限りにおいては対立的であり得るといっていますが,これはそういう場合があるという意味であって,必ずそうなるというわけではないのです。では具体的にどういう場合には受動passioが推奨されるのかを,具体的に考えていきましょう。ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは良心の呵責conscientiae morsusすなわち疚しさの起源を原罪に求めていますので,まずはキリスト教との関係で考察します。
                                   
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,敬虔pietasであるとはどういうことかということが,ひとつの論点となっています。スピノザはそれを,思想としてではなく,現実的に存在する人間の振る舞いや態度から説明します。つまり新約聖書の教えを守って行動することが敬虔であるといっているのです。他面からいえば,たとえば教会に通うことが習慣になっていたとしても,日常生活の中で教えを守らない行動をする人は,敬虔であるとはいえないことになります。ここから分かるように,スピノザがいう敬虔というのは,宗教の信者,キリスト教の信者のことをいうのではありません。たとえ信心をもっていないとしても,あるいはキリスト教以外の宗教の信者であったとしても,敬虔な人間というのは存在しますし,逆にキリスト教徒だからといって直ちに敬虔であるとはいえないことになるのです。
 スピノザは新約聖書の教えというのはふたつしかないと解しています。ひとつは神Deusを愛することで,もうひとつは隣人を愛することです。つまり日常の行動の中で,神を愛しまた隣人を愛するように振る舞う人が敬虔なのであって,神と隣人を愛さない人,より積極的にいえば憎む人は,敬虔ではありません。人間と人間が対立的であるとは,キリスト教的にいえば,敬虔ではないということを意味するのです。
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皐月賞&先達と相違

2022-04-17 19:14:14 | 中央競馬
 第82回皐月賞
 アスクビクターモアの逃げになりました。向正面に入るあたりで3馬身くらいのリード。2番手にデシエルト。3番手にボーンディスウェイ。4番手にビーアストニッシドでこの3頭は一団。2馬身差でダノンベルーガとジオグリフとイクイノックス。1馬身差でキラーアビリティとダンテスヴューとサトノヘリオス。1馬身差でトーセンヴァンノとグランドラインとオニャンコポン。1馬身差でジャスティンロックとラーグルフ。1馬身差でドウデュースとジャスティンパレス。2馬身差でマテンロウレオが最後尾。前半の1000mは60秒2のスローペース。
 3コーナーでアスクビクターモアのリードは1馬身に。デシエルトが2番手で3番手に外からイクイノックスが上がってきて,道中はイクイノックスの内にいたジオグリフが外から追って4番手。ダノンベルーガも内を回って進出。直線は内からダノンベルーガ,アスクビクターモア,イクイノックス,ジオグリフの4頭が並び,そこから外の2頭が抜け出しての競り合いに。外のジオグリフが差し切って優勝。イクイノックスが1馬身差で2着。後方から外を回って追い込んできたドウデュースが1馬身4分の1差で3着。ダノンベルーガがクビ差の4着でアスクビクターモアがクビ差で5着。
 優勝したジオグリフは札幌2歳ステークス以来の勝利。重賞2勝目で大レース制覇。朝日杯フューチュリティステークスは明らかに距離が不足という内容で負け,今年は共同通信杯を使って2着。そのときはダノンベルーガに負けていましたが,ダノンベルーガは陣営が出走を迷っていましたので,逆転も十分あると思っていました。ただ2着馬は休養明けでしたし,ダノンベルーガもダービーの方が適性がありそうですから,ダービーも中心的存在というわけではなく,三強の一角という位置づけになるのではないかと思います。母の父はキングカメハメハ。6代母がレディチャッター。従姉に2019年のブリーダーズゴールドカップレディスプレリュード,2020年のエンプレス杯を勝ったアンデスクイーン。Geoglyphは地上絵。
 騎乗した福永祐一騎手はフェブラリーステークス以来の大レース43勝目。第80回以来2年ぶりの皐月賞2勝目。管理している木村哲也調教師は2018年のマイルチャンピオンシップ以来の大レース2勝目。

 もしスピノザが良心の呵責conscientiae morsusを全面的に否定しない,非道徳的であっても良心の呵責を感じることを禁止することはないという点を重視するなら,スピノザはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの先達であるということはできません。すでに示したように,ニーチェは良心の呵責の起源を原罪に求めているので,絶対的な意味であるいは全面的な意味で,良心の呵責を感じることを現実的に存在するすべての人びとに対して禁止するであろうと思われるからです。ただ,良心の呵責を道徳的なことではなく非道徳的なことであるとみる点ではスピノザとニーチェは一致しているのであり,かつそのような主張をする思想家はごく少数ですから,ニーチェがスピノザを自身の先達とみなしたことは,不思議なことではありませんし,仮にそのときにニーチェがスピノザの哲学を正しく理解していなかったとしても,ひどい誤りをニーチェが犯したということはできないと僕は考えます。
 ただ,僕の見解opinioでいえば,ニーチェとスピノザの相違は,ニーチェが良心の呵責を感じることを現実的に存在する人間に対して禁ずることを要求するのに対し,スピノザはそのようなことを要求することはない,それは不可能であるがゆえに要求することはないという点にのみ存するわけではありません。おそらくスピノザは,たとえそれが非道徳的なことであったとしても,良心の呵責を現実的に存在する人間が感じることを推奨する,少なくとも推奨する場合があるというように僕は考えているからです。もう少し一般的にいえば,ある種の非道徳的な事柄に関しては,スピノザは推奨する場合がある,というか現に推奨していると僕は解するからです。そしてこのことも第四部定理四系,現実的に存在する人間が働きを受けるpatiことから逃れることは不可能であるということと関係しているのです。
                                   
 これは現実的に存在する人間の振る舞いあるいは態度と関係します。スピノザは道徳的には能動actioを肯定しますから,人間が能動的に行動することは全面的に肯定します。たとえば理性ratioに従うことがそれで,その場合には第四部定理三五により,すべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致しますから,人間が対立的であることはないからです。
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農林水産省賞典中山グランドジャンプ&道徳的要求

2022-04-16 19:00:31 | 中央競馬
 第24回中山グランドジャンプ
 ケンホファヴァルトとビレッジイーグルが前に。ビレッジイーグルの逃げとなりマイネルプロンプトが2番手に。ケンホファヴァルトは3番手に下げ4番手にマイサンシャイン。5番手はサトノパシュートとオジュウチョウサン。3馬身差でキタノテイオウとマイネルレオーネ。最後尾にブラゾンダムールで1周目の正面を通過。大竹柵の手前ではビレッジイーグル,マイネルプロンプト,オジュウチョウサン,サトノパシュート,ケンホファヴァルト,マイネルレオーネ,ブラゾンダムール,マイサンシャイン,キタノテイオウの隊列で9頭が一団。大生垣の手前ではビレッジイーグル,マイネルプロンプトとケンホファヴァルトとオジュウチョウサン,ブラゾンダムール,サトノパシュート,マイサンシャインとマイネルレオーネ,キタノテイオウの順でまだ9頭が一団。
 向正面に入るとビレッジイーグル,ケンホファヴァルト,上昇してきたブラゾンダムール,オジュウチョウサン,マイネルレオーネとマイネルプロンプト,サトノパシュートの順になり,ここまでが圏内。3コーナーで外からブラゾンダムールが前の2頭を追い抜いて単独の先頭。それを追ってきたのがオジュウチョウサンで,直線はこの2頭の争いに。直線の障害を飛越してからオジュウチョウサンが前に出て優勝。3コーナー先頭のブラゾンダムールが1馬身4分の1差で2着。大外から一気に追い込んできたマイネルレオーネが半馬身差で3着。
 優勝したオジュウチョウサン中山大障害以来の勝利で大レース9勝目。第18回,19回,20回,21回,22回に続いて2年ぶりの中山グランドジャンプ6勝目。このレースはブラゾンダムール,ケンホファヴァルト,オジュウチョウサンの能力が上位。ケンホファヴァルトは自らのペースで走れないようなところがあって凡走しましたが,残る2頭での決着となりましたから,順当といっていいでしょう。もう11歳なのでいかに能力を維持していくかが重要ですが,これだけ長きにわたってトップクラスで走ることができる馬はそうそういません。近年の名馬の1頭だと思います。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。ひとつ上の全兄に2013年のラジオNIKKEI賞を勝ったケイアイチョウサン
 騎乗した石神深一騎手は中山大障害以来の大レース10勝目。第18回,19回,20回,21回,22回に続き2年ぶりの中山グランドジャンプ6勝目。管理している和田正一郎調教師は中山大障害以来の大レース9勝目。第18回,19回,20回,21回,22回に続いて2年ぶりの中山グランドジャンプ5勝目。

 スピノザの哲学の道徳的観点は,能動actioを肯定し受動passioを否定するものです。しかしそれは,現実的に存在する人間に対して,受動あるいは同じことですが働きを受けるpatiことを禁じるものではありません。悲しみtristitiaは必然的にnecessario受動であるから道徳的観点から否定され,良心の呵責conscientiae morsusは悲しみの一種であるから道徳的観点から否定されるので,受動そのものが禁じられない以上,悲しみを感じること,良心の呵責を感じることも,そのこと自体をスピノザが禁止することはありません。
                                    
 これは矛盾しているように思われるかもしれませんが,そうではありません。スピノザの道徳的観点が,その観点からすれば非道徳的であるとされることを,現実的に存在する人間に対して禁止しないことには,確たる理由があります。それは,第四部定理四系から理解できるように,スピノザは現実的に存在する人間が受動にあずからないでいることは不可能であると認めているからです。したがって,もしも現実的に存在する人間に対して働きを受けることを禁止するとすれば,それは不可能な事柄を要求しているに等しいことになります。たとえば人間の現実的本性actualis essentiaは,空を飛ぶpotentiaというのを有していません。だから現実的に存在する人間に対して,自身の力で空を飛ぶことを要求するとすれば,それは不可能なことを要求していることになります。ちょうどそれと同じように,人間に対して受動に隷属しないように要求することは,その人間に対して不可能なことを要求していることになるのです。だからスピノザは,道徳的観点からは受動は否定されるからといって,現実的に存在する人間に対して,働きを受けること,悲しみを感じること,良心の呵責を覚えるといったことを,禁ずることはないのです。もしもこの道徳的観点が現実的に存在する人間に対して何かを要求するとすれば,可能な限りでそれを回避することです。つまりできる限り働きを受けないようにすること,できる限り悲しみを感じないようにすること,そしてできる限り良心の呵責を感じないようにすることなのです。
 これだけでスピノザが良心の呵責を全面的には否定しないであろうことは明白であるといっていいでしょう。
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