挑戦者・木村一基八段の連勝スタートで迎えた第50期王位戦七番勝負第三局。
深浦康市王位の先手で角換り相腰掛銀。ただよくある同型ではなくて先手が早めに▲8八玉と囲う形。深浦王位は渡辺明竜王戦で指したことがある形。それでいえば△4三銀上は定跡で,▲2五歩を待って,▲2五桂の余地を消してから後手から先攻。ただ,この戦型ですから先手も反撃し,当然のように攻め合いとなります。
これは角を打ち込んだ先手が香車を取って馬を作ったところ。ここから△7六歩▲同銀△6六桂に▲3五香の攻め合い。後手は△3四歩▲同香△同銀▲同飛としてから△7八桂成と取り,▲同玉に△7七桂▲同桂を入れて△2五角(第2図)。
この両取りが厳しかったようです。ほとんど変化の余地なく,あるとすれば△7六歩に▲6六銀ですがここには拠点は残せないでしょう。ただ,この局面は封じ手の段階では想定できるように思え,選んだということは先手はこれでいけるとみていたのだろうと思います。
第2図以下,▲2二歩成に△3三金と上がり,▲同飛成△同桂▲2三と△3二歩▲3三と△同歩▲2四金△3二香▲2五金(第3図)。
角は取り返しましたが金を引いては攻めが遅くなった感じで,ここでは先手がやり損ねているように思うのですがどうでしょうか。実戦,この後に少し謎の手順もあったのですが,後手が勝っています。
ということで木村一基八段がいずれも好内容で怒涛の3連勝。いよいよ初タイトルなるかが注目の第四局は8月4日と5日です,
僕は以前に「愛のために死ねますか」という設問は,それ自体が愚問であるといい,「自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて,生についての省察である」という『エチカ』第四部定理六七を紹介しました。それでいえば,この当時の僕は,はっきりと,しかもリアルなものとして自分の死を考えていたわけですから,自由の人ではなかったといい得るかもしれません。ただし,これをいうためには次の点に注意を払っておく必要があります。
スピノザは人間が思惟するということを,ふたつの類型に一応は分類していました。一応はというのは,スピノザ自身がその類型を必ずしも守っているとはいえないからです。しかしその類型によれば人間の精神の思惟は,受動的なものと能動的なもの,すなわち知覚と概念に分けられます。僕が思うに,ここでスピノザが思惟するといっているとき,これは概念を念頭に置いているのではないかと思います。というのは,死を知覚するということは,人間には避けられないと思うからです。
僕は自分の身体の状態の観念,つまり自分の身体の表象の観念に連結させることによって自分の死を想像していたのです。想像は表象の種類のひとつですから,これは概念と知覚に分類するならば知覚になります。ところで,人間が一般的に受動状態から逃れられないことはスピノザ自身が第四部定理四で認めています。よって人間が何かを知覚することは避けられません。しかし第一部公理三により,与えられた原因さえあれば結果は必然的に生じるのですから,ある人間の精神のうちに,死の表象をもたらすような観念が知覚されれば,この人間は必然的に死を知覚するでしょう。僕はこのようにして自分の死を想像した,それもかなりリアルなものとして想像したということになります。
深浦康市王位の先手で角換り相腰掛銀。ただよくある同型ではなくて先手が早めに▲8八玉と囲う形。深浦王位は渡辺明竜王戦で指したことがある形。それでいえば△4三銀上は定跡で,▲2五歩を待って,▲2五桂の余地を消してから後手から先攻。ただ,この戦型ですから先手も反撃し,当然のように攻め合いとなります。
これは角を打ち込んだ先手が香車を取って馬を作ったところ。ここから△7六歩▲同銀△6六桂に▲3五香の攻め合い。後手は△3四歩▲同香△同銀▲同飛としてから△7八桂成と取り,▲同玉に△7七桂▲同桂を入れて△2五角(第2図)。
この両取りが厳しかったようです。ほとんど変化の余地なく,あるとすれば△7六歩に▲6六銀ですがここには拠点は残せないでしょう。ただ,この局面は封じ手の段階では想定できるように思え,選んだということは先手はこれでいけるとみていたのだろうと思います。
第2図以下,▲2二歩成に△3三金と上がり,▲同飛成△同桂▲2三と△3二歩▲3三と△同歩▲2四金△3二香▲2五金(第3図)。
角は取り返しましたが金を引いては攻めが遅くなった感じで,ここでは先手がやり損ねているように思うのですがどうでしょうか。実戦,この後に少し謎の手順もあったのですが,後手が勝っています。
ということで木村一基八段がいずれも好内容で怒涛の3連勝。いよいよ初タイトルなるかが注目の第四局は8月4日と5日です,
僕は以前に「愛のために死ねますか」という設問は,それ自体が愚問であるといい,「自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて,生についての省察である」という『エチカ』第四部定理六七を紹介しました。それでいえば,この当時の僕は,はっきりと,しかもリアルなものとして自分の死を考えていたわけですから,自由の人ではなかったといい得るかもしれません。ただし,これをいうためには次の点に注意を払っておく必要があります。
スピノザは人間が思惟するということを,ふたつの類型に一応は分類していました。一応はというのは,スピノザ自身がその類型を必ずしも守っているとはいえないからです。しかしその類型によれば人間の精神の思惟は,受動的なものと能動的なもの,すなわち知覚と概念に分けられます。僕が思うに,ここでスピノザが思惟するといっているとき,これは概念を念頭に置いているのではないかと思います。というのは,死を知覚するということは,人間には避けられないと思うからです。
僕は自分の身体の状態の観念,つまり自分の身体の表象の観念に連結させることによって自分の死を想像していたのです。想像は表象の種類のひとつですから,これは概念と知覚に分類するならば知覚になります。ところで,人間が一般的に受動状態から逃れられないことはスピノザ自身が第四部定理四で認めています。よって人間が何かを知覚することは避けられません。しかし第一部公理三により,与えられた原因さえあれば結果は必然的に生じるのですから,ある人間の精神のうちに,死の表象をもたらすような観念が知覚されれば,この人間は必然的に死を知覚するでしょう。僕はこのようにして自分の死を想像した,それもかなりリアルなものとして想像したということになります。