第7期竜王戦2組2回戦より。

実はここまでの棋譜が不明なのですが,1筋の突き合いや後手の右銀の状況から,相掛りから先手が後手に横歩を取らせるべく再び2筋に歩を合わせたのだろうと思います。手数もその手順での僕の想定です。
ここで後手は実に157分も考え,☖8八角成を決行しました。
後手にとって最も都合のよい進展は,☗同銀☖3三角☗2一飛成☖8八角成☗同金☖同飛成。横歩取りである攻め筋で,部分的には☗3一龍☖同金☗3三角が王手龍取りとなっていけないのですが,この場合は先手が5八に玉を上がってしまっているので☖8八飛成は王手で,この反撃はありません。
実戦ですが,☖8八角成に☗同銀はこの一手。☖3三角に今度は先手が98分の長考で☗2一飛成。そして☖8八角成のときに☗6八角と打ちました。

☖7六飛と逃げるのは馬がタダですから論外。8筋に引いても馬を取られ,☖同飛成が今度は王手にならないので先述の反撃が効きます。仕方がないので☖2二馬と引いたのですが,☗3一龍☖同馬と取ってから☗8六角と飛車を取り,将棋も先手が勝ちました。
どうも第2図は先手の技が掛かっているようです。後手が横歩取りに誘導しようとしたのに対し,先手が拒否して☗5八玉と上がる手は,第60期王将戦挑戦者決定リーグ戦の最終局で指されています。これにも☖8八角成~☖3三角がありそうに思えるのですが,同じように☗6八角があるので成立するということなのかもしれません。
ここで,スピノザの哲学において,精神mensが事物を認識するという場合の,ふたつの分類を再確認しておくことは有益なことでしょう。僕がいっているのは第二部定義三説明における分類のことです。第二部定義三は,観念ideaの定義Definitioで,それがある概念conceptusであると示されているのですが,その直後にスピノザは以下のような説明を与えています。
「私は知覚というよりもむしろ概念という。その理由は知覚という言葉は精神が対象から働きを受けることを示すように見えるが,概念はこれに反して精神の能動を表現するように見えるからである(Dico potius conceptum, quam perceptionem, quia perceptionis nomen indicare videtur, Mentem ab objecto pati. At conceptus actionem Mentis exprimere videtur.)」。
ここではなぜ観念の定義が知覚でなくて概念でなければならないのかということは考慮する必要がありません。これに関してはこの定義自体をテーマとして設定したおりに詳しく分析してありますから,もしも興味があるという場合にはそちらをお読みください。今の考察で重要なのは,スピノザがここで知覚ではなく概念であるとわざわざ断っているように,精神による事物の認識cognitioには,精神が事物を知覚するという場合と,精神が事物を概念するという場合の,二通りがあるのだということです。現在は人間の精神mens humanaによる個物res singularisの認識にのみ限定して考察を進めているところですが,この説明は精神一般による事物の認識に適用されるのですから,人間の精神が何事かを認識するという場合にも適用されなければならないということはいうまでもないことでしょう。
ラテン語では知覚がperceptioで,ここでいわれる場合の概念はconceptusです。スピノザはこの説明では明らかにこの両者を使い分けているのですが,『エチカ』の全体を通していうならそのことが貫徹されているわけではないということは,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も指摘している通りです。ただし,ここではこのふたつに分けられた各々の認識の場合について,それぞれ考えていくことにします。というのは,少なくともスピノザが,事物を知覚するといわれるべき認識と,事物を概念するといわれるべき認識のふたつのタイプがあると考えていたことは間違いないので,人間の精神による事物の認識のあり方について考察するなら,やはりその双方を考えておく必要があるからです。

実はここまでの棋譜が不明なのですが,1筋の突き合いや後手の右銀の状況から,相掛りから先手が後手に横歩を取らせるべく再び2筋に歩を合わせたのだろうと思います。手数もその手順での僕の想定です。
ここで後手は実に157分も考え,☖8八角成を決行しました。
後手にとって最も都合のよい進展は,☗同銀☖3三角☗2一飛成☖8八角成☗同金☖同飛成。横歩取りである攻め筋で,部分的には☗3一龍☖同金☗3三角が王手龍取りとなっていけないのですが,この場合は先手が5八に玉を上がってしまっているので☖8八飛成は王手で,この反撃はありません。
実戦ですが,☖8八角成に☗同銀はこの一手。☖3三角に今度は先手が98分の長考で☗2一飛成。そして☖8八角成のときに☗6八角と打ちました。

☖7六飛と逃げるのは馬がタダですから論外。8筋に引いても馬を取られ,☖同飛成が今度は王手にならないので先述の反撃が効きます。仕方がないので☖2二馬と引いたのですが,☗3一龍☖同馬と取ってから☗8六角と飛車を取り,将棋も先手が勝ちました。
どうも第2図は先手の技が掛かっているようです。後手が横歩取りに誘導しようとしたのに対し,先手が拒否して☗5八玉と上がる手は,第60期王将戦挑戦者決定リーグ戦の最終局で指されています。これにも☖8八角成~☖3三角がありそうに思えるのですが,同じように☗6八角があるので成立するということなのかもしれません。
ここで,スピノザの哲学において,精神mensが事物を認識するという場合の,ふたつの分類を再確認しておくことは有益なことでしょう。僕がいっているのは第二部定義三説明における分類のことです。第二部定義三は,観念ideaの定義Definitioで,それがある概念conceptusであると示されているのですが,その直後にスピノザは以下のような説明を与えています。
「私は知覚というよりもむしろ概念という。その理由は知覚という言葉は精神が対象から働きを受けることを示すように見えるが,概念はこれに反して精神の能動を表現するように見えるからである(Dico potius conceptum, quam perceptionem, quia perceptionis nomen indicare videtur, Mentem ab objecto pati. At conceptus actionem Mentis exprimere videtur.)」。
ここではなぜ観念の定義が知覚でなくて概念でなければならないのかということは考慮する必要がありません。これに関してはこの定義自体をテーマとして設定したおりに詳しく分析してありますから,もしも興味があるという場合にはそちらをお読みください。今の考察で重要なのは,スピノザがここで知覚ではなく概念であるとわざわざ断っているように,精神による事物の認識cognitioには,精神が事物を知覚するという場合と,精神が事物を概念するという場合の,二通りがあるのだということです。現在は人間の精神mens humanaによる個物res singularisの認識にのみ限定して考察を進めているところですが,この説明は精神一般による事物の認識に適用されるのですから,人間の精神が何事かを認識するという場合にも適用されなければならないということはいうまでもないことでしょう。
ラテン語では知覚がperceptioで,ここでいわれる場合の概念はconceptusです。スピノザはこの説明では明らかにこの両者を使い分けているのですが,『エチカ』の全体を通していうならそのことが貫徹されているわけではないということは,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も指摘している通りです。ただし,ここではこのふたつに分けられた各々の認識の場合について,それぞれ考えていくことにします。というのは,少なくともスピノザが,事物を知覚するといわれるべき認識と,事物を概念するといわれるべき認識のふたつのタイプがあると考えていたことは間違いないので,人間の精神による事物の認識のあり方について考察するなら,やはりその双方を考えておく必要があるからです。