南関東重賞は大抵の場合は水曜に実施されますが,今週は今日が祝日ということで木曜に施行。古馬牝馬による第48回しらさぎ賞でした。
タッチブライトとキープザチェンジ,この2頭も逃げたかったようですが,チヨノドラゴンが強引にハナを奪って逃げました。この結果,最初の600mが35秒6というハイペースに。
チヨノドラゴンも先行争いを演じたほかの2頭は何とか振り切りましたが,直線に入るところでは早くも一杯。代わってこの3頭の後ろに位置していたジョーイロンデルが先頭に立つと,中団から内を捌いてきたテイエムヨカドーがこれに迫ります。しかし先に抜け出していたジョーイロンデルが追撃を振り切って優勝。テイエムヨカドーが2着。3着は外を回った2頭の争いとなりましたが,一歩先んじていたタカヒロチャームがハチマンダイボサツの強襲をきわどく凌ぎました。
優勝したジョーイロンデルはJRAデビューで2勝。一昨年の暮れに浦和に転入後は11戦して8勝をあげていました。あまりレベルの高いレースではありませんでしたので,今後も活躍できるかどうかはやや微妙なところがありますが,まだ底を見せていないというのも事実ではあります。父はクロフネ。
鞍上は大井の戸崎圭太騎手。先月の京浜盃以来の南関東重賞制覇で,一昨年,昨年とこのレースを制覇していますので三連覇となる3勝目。管理している浦和の小久保智調教師はこのレース初制覇です。
現実的に僕たちは尿意を感じたときに,むしろ排尿という運動motusをなすことを否定するような思惟の様態cogitandi modi,積極的にいい表わすならば排尿を我慢するような思惟の様態を形成することがあります。これは経験的に明らかと思いますので説明は不要でしょう。そしてこうしたことがあるからこそ,人間は失禁という排尿をなす場合が生じるわけです。
しかし現実的にそうした思惟の様態を形成するのですから,こうした思惟作用というものが,尿意のうちに自分の身体corpusに対して排尿という運動を肯定するような意志作用volitioがあるということと矛盾するものではないということについては,もう少し詳しく説明しておく必要があるかと思います。そこで,そうした排尿を我慢するような思惟の様態が,いかなる秩序ordoによって僕たちの精神mensのうちに生じてくるのかということを探求してみることにします。その結果として,この思惟作用が尿意とは別の事柄から生じてくると分かれば,これらふたつの思惟の様態,すなわち自分の身体に対して排尿という運動を肯定するような意志作用と,排尿という運動を我慢することを肯定するような意志作用が,同一の人間の精神のうちに,実際にその人間がそれを意識するのかどうかということは別としても,同時にあることができるということになり,したがってこの両者は矛盾するものではないということも証明できると思うからです。
僕たちは,大抵の場合は排尿という運動をトイレにおいてなします。もちろん実際にその運動をなす準備が整ったらという限定が厳密にいえば必要であるかもしれませんが,僕たちはトイレでは排尿を我慢するということをしません。別のいい方をするのならば,排尿という運動を我慢することを肯定するような思惟の様態は生じませんし,それまで生じていたと仮定するなら,消滅します。このこともおそらく経験的に明らかだといっていいでしょう。そこでまずこのときに,人間の精神mens humanaのうちにはどのようなことが生じているのかということが,『エチカ』によってどのような仕方で説明できるのかということを考えることを手始めとして,この問題に接近していくということにします。
タッチブライトとキープザチェンジ,この2頭も逃げたかったようですが,チヨノドラゴンが強引にハナを奪って逃げました。この結果,最初の600mが35秒6というハイペースに。
チヨノドラゴンも先行争いを演じたほかの2頭は何とか振り切りましたが,直線に入るところでは早くも一杯。代わってこの3頭の後ろに位置していたジョーイロンデルが先頭に立つと,中団から内を捌いてきたテイエムヨカドーがこれに迫ります。しかし先に抜け出していたジョーイロンデルが追撃を振り切って優勝。テイエムヨカドーが2着。3着は外を回った2頭の争いとなりましたが,一歩先んじていたタカヒロチャームがハチマンダイボサツの強襲をきわどく凌ぎました。
優勝したジョーイロンデルはJRAデビューで2勝。一昨年の暮れに浦和に転入後は11戦して8勝をあげていました。あまりレベルの高いレースではありませんでしたので,今後も活躍できるかどうかはやや微妙なところがありますが,まだ底を見せていないというのも事実ではあります。父はクロフネ。
鞍上は大井の戸崎圭太騎手。先月の京浜盃以来の南関東重賞制覇で,一昨年,昨年とこのレースを制覇していますので三連覇となる3勝目。管理している浦和の小久保智調教師はこのレース初制覇です。
現実的に僕たちは尿意を感じたときに,むしろ排尿という運動motusをなすことを否定するような思惟の様態cogitandi modi,積極的にいい表わすならば排尿を我慢するような思惟の様態を形成することがあります。これは経験的に明らかと思いますので説明は不要でしょう。そしてこうしたことがあるからこそ,人間は失禁という排尿をなす場合が生じるわけです。
しかし現実的にそうした思惟の様態を形成するのですから,こうした思惟作用というものが,尿意のうちに自分の身体corpusに対して排尿という運動を肯定するような意志作用volitioがあるということと矛盾するものではないということについては,もう少し詳しく説明しておく必要があるかと思います。そこで,そうした排尿を我慢するような思惟の様態が,いかなる秩序ordoによって僕たちの精神mensのうちに生じてくるのかということを探求してみることにします。その結果として,この思惟作用が尿意とは別の事柄から生じてくると分かれば,これらふたつの思惟の様態,すなわち自分の身体に対して排尿という運動を肯定するような意志作用と,排尿という運動を我慢することを肯定するような意志作用が,同一の人間の精神のうちに,実際にその人間がそれを意識するのかどうかということは別としても,同時にあることができるということになり,したがってこの両者は矛盾するものではないということも証明できると思うからです。
僕たちは,大抵の場合は排尿という運動をトイレにおいてなします。もちろん実際にその運動をなす準備が整ったらという限定が厳密にいえば必要であるかもしれませんが,僕たちはトイレでは排尿を我慢するということをしません。別のいい方をするのならば,排尿という運動を我慢することを肯定するような思惟の様態は生じませんし,それまで生じていたと仮定するなら,消滅します。このこともおそらく経験的に明らかだといっていいでしょう。そこでまずこのときに,人間の精神mens humanaのうちにはどのようなことが生じているのかということが,『エチカ』によってどのような仕方で説明できるのかということを考えることを手始めとして,この問題に接近していくということにします。