スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&確実な説明

2024-11-19 19:15:39 | 将棋
 15日と16日に茨木市で指された第37期竜王戦七番勝負第四局。
 佐々木勇気八段の先手で角換わり相早繰銀。先手が腰掛銀に組み替えるという工夫を出し,後手の藤井聡太竜王が対応に時間を使う将棋になりました。
                       
 ここから先手は☗9三角と打ち☖9二飛に☗7五角成と馬を作りました。
 7筋の歩がなくなったので後手は☖7二歩の受け。先手は☗6四歩☖同歩と突き捨ててから☗9三歩。☖8二飛とさせておいて☗6四馬と取りました。
 後手は☖4二角と打ち☗4六馬に☖6四歩。
                       
 上の図は馬を作ることができ,駒損の回復も見込めるのですでに先手優勢かもしれません。下の図になって後手は角を使った上に自ら使いにくくしているのですが,受け止められれば悪くないという判断だったのだと思います。しかし下の図から桂馬を取った後で3筋の歩を突き捨て4五に銀を出る攻め筋があり,一方的な展開になりました。たぶん上の図から下の図の間に後手の形勢はかなり悪化しているので,☖4二角と打つのは拙く,☖5二金のような手で粘らなければいけなかったのではないでしょうか。
 佐々木八段が勝って2勝2敗。第五局は27日と28日に指される予定です。

 人間が現実的に存在しているということと,その人間が自己の有esseに固執しているということは,第三部定理七により同じ意味でなければなりません。つまり人間が現実的に存在していることと,その人間が自己の有に固執するperseverarepotentiaを発揮していることは同じことです。そしてこの自己の有に固執する力こそ,スピノザが自然権jus naturaeといっている力そのものなのですから,人間が現実的に存在しているということと,人間の自然権が働いているということは,同じ意味であると解さなければなりません。よってもし自然状態status naturalisにおいて人間が現実的に存在するなら,その人間には自然権が働いていることになるでしょう。ところが『国家論Tractatus Politicus』の当該部分では,自然状態においては個人の自然権はないも同然だとスピノザはいっています。だとするとここでないも同然である,あるいは同じことですが実質的に存在しているというよりも空想上の産物であるといわれているのは,自然権ではなくて自然状態の方であろうと吉田はいっています。吉田はこの種の自然状態のことを,特異で非現実的な想定だとしています。
 これでみれば分かるように,吉田もまた自然状態,これは『国家論』でスピノザがいっている自然状態であると同時に,ホッブズThomas Hobbesが共同社会状態status civilis以前の状態として規定している自然状態を含めてもよいと僕は解しますが,そうした自然状態は非現実的だ,つまり人間の歴史において現実的に存在した状態ではないと考えていることになります。つまり吉田も自然状態について,僕と同じような見解opinioを有していることになります。だから僕がこの部分からスピノザは自然状態を空想の産物あるいはそこまでいわなくても実在的有entia realiaではなく理性の有entia rationisにすぎないとみなしていると看取することは,牽強付会といわれる可能性が残るように,吉田の説もまた牽強付会なのであるといわれ得るといわなければならないことは僕も否定できません。しかし吉田の論述は,確かにこの部分からスピノザがないも同然といっているのは自然権であるけれども,実際の意味としてそういわれているのは自然状態の方であるということを,スピノザの思想から確実な仕方で説明していると僕には思えるのです。
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竜王戦&一冊の本

2024-11-02 19:09:51 | 将棋
 10月25日と26日に仁和寺で指された第37期竜王戦七番勝負第三局。
 藤井聡太竜王の先手で佐々木勇気八段のダイレクト向飛車。終盤まで優劣不明の熱局となりました。
                            
 ここで後手は☖9七飛と打ちました。それに対して☗5四角と打ったのが勝着に。
 これは☖7四金と取られて先手玉が危なそうなのですが,その瞬間に☗7二角成として,変化手順が多くて難解なのですが後手玉が詰むという仕組み。ということで☖8三銀と受けたのですが☗7五桂という追撃があり,先手の勝ちになりました。
 第1図では☖9八飛と王手をして☗7七王に☖9六飛成と香車を抜いておく順があったようで,これならまだ難解な局面が続くこととなったようです。
 藤井竜王が勝って2勝1敗。第四局は15日と16日に指される予定です。

 1670年4月3日付でファン・ローンJoanis van Loonは効き目が現れたと書いているのですが,その直後に,私はこの年齢になって思いがけず一冊の書物の父親となったという一文が付け加えられています。しかしこの文章は,物語の全体からすると意味不明といわざるを得ないでしょう。ローンは遅くとも1669年12月20日には書き始めている設定になっていますから,翌年の4月3日までには一定の量を書いていてもおかしくはありません。それが一冊の本に値する量になっていることも十分にあり得るでしょう。しかしローンは一冊の本を書く目的で書いている,あるいは書き始めたわけではなく,自身の病気から恢復するために書いているのです。ですから分量は一冊の本に匹敵するものになったかもしれませんが,その内容がそのまま発売できるものになっていたとは僕には思えないです。確かに書き続けているある時から,ひとつのまとまった物語になっていったということはあり得ますが,それは結果論であって,書き始めた当初から一冊の本というに相応しい内容のものであったというのは無理があると思うのです。したがって,むしろこの部分はそれを全訳したと主張しているヘンドリックHendrik Wilem van Loonが付け加えた可能性の方が高いように僕は思えます。
 ファン・ローンが何かを書き残していて,それをヘンドリックが発見したことは確実だと僕は思いますが,その書き残したものというのは起承転結があるようなまとまったものではなく,部分的なものにすぎず,その部分的なものを,ひとつのストーリーとして成立するようにヘンドリックがまとめたという可能性の方が僕は高いと思います。ですからそれをまとめるにあたっては多くの脚色が入っている筈で,各々の部分から歴史的事実の探求として参考になる残骸は含まれていると思いますが,そのまま史実であったと確定するのは無謀だと思います。『Βάτραχοι』でいえば,ローンはスピノザがディオニュソスDionȳsosの役を演じているところを見たことがあるか,そういう話をスピノザから聞かされたことは確定できると思いますが,実際にこのプロットの状況でスピノザがディオニュソスを演じたとはいいきれないのではないでしょうか。
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リコー杯女流王座戦&演出

2024-10-30 19:13:14 | 将棋
 23日に目白で指された第14期女流王座戦五番勝負第一局。対戦成績は福間香奈女流王座が43勝,西山朋佳女流三冠が37勝。NHK杯の予選を含んでいます。
 リコーの社長による振駒で福間女流王座の先手。先に向飛車に振ったのが後手の西山女流三冠で,後から福間女流王座も向飛車にしての相振飛車。後手が玉を左に戻すという力戦になりました。
                            
 ここで後手は☖6四歩と打ちました。これは☗6五桂と跳ねさせないという意味。先手は☗7五銀と銀を進出させました。
 桂馬が跳ねてくる手はなくなったので☖5三金と歩を払いました。先手は☗7四歩☖8二銀とへこませてから☗1五歩。
 後手はここから☖7六歩☗同飛に☖8七角と打ったのですが☗2六飛と回られました。
                            
 馬を作ることはできるのですが,働きに乏しくさほど効果的ではないため,大きな差がついてしまいました。感想戦では☖7六歩と打ったところで☖3五歩と取ればまだやれたとのことですので,それなら第1図で☖3五同歩と取るのがさらに有力だったのではないかと思います。
 福間女流王座が先勝。第二局は福間女流王座の休場が明けた後,来年の2月に指される予定です。

 『Βάτραχοι』の台本があったとは書かれていませんが,ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの写本が出てきたと書かれているくらいですから,書かれていなくてもその台本らしきものもヨットの中にあったかもしれません。むしろそうしたものが見つかったから,一行はそれを上演しようとなったという方が自然です。また,そうでなくとも『蛙』は有名な話ですから,一行の中にそれを詳しく知っている人がいて,その人が台本を書くからそれを上演してみようと提案したということもなくはないでしょう。不自然に感じることは否定しませんが,この点については問わないことにします。
 しかし,台本があれば上演することができるわけではありません。上演するとなれば演出が必要であって,その専門的知識を持った人が一行の中にいなかったとすれば,これを上演することなど不可能であったといわなければなりません。これは実際に僕たちが『蛙』に限らず何かを演じなければならないとなった場合を想定すれば明らかでしょう。つまり,このプロットの中で最も不自然に感じられるのはこの点なのです。確かに台本が本当にあったのかということも問わなければならないのですが,仮に台本があったとしても,それを実演するのにだれがどのように演者を指導したのかということは,より強く問われなければなりません。一行が『蛙』を本当に上演したのであれば,台本と演出のふたつは不可欠だからです。
 それでもこのことが史実であり得たということができるのは,スピノザは演劇を演出するやり方というのを知っていたと想定されるからです。スピノザはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenの下でラテン語を学び,後に助手的な役割を果たしていたということは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定した史実とされています。そしてエンデンのラテン語学校の授業では,演劇が採用されていました。つまりラテン語で劇を演じることでラテン語を習得するということが,教育の一環として行われていたのです。ですからまず,原語はギリシア語とはいえ,ラテン語に訳されたアリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙』がその教材のひとつであったかもしれませんから,スピノザはかつてそれを演じた経験があったかもしれません。
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新人王戦&上演

2024-10-28 18:58:32 | 将棋
 21日に指された第55回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 高田明浩五段の先手で角換わり相腰掛銀。後手の服部慎一郎六段が待機策を採用したので,序盤も中盤も長い将棋になりました。
                            
 先手が馬で飛車取りを掛け,後手が飛車を逃げるという手順が続いたところ。このまま千日手になると思って見ていましたが,先手が打開しました。
 ☗9二歩☖8一飛☗8三香☖3一飛☗7六歩というのがその手順。後手は☖同歩☗同銀☖7五歩☗同銀☖同金と最も素直に応じました。
                            
 9三に馬がいたのでこのように打開したのですから,この局面では☗同馬と取れなければいけません。しかしそれは☖7四歩で先手の攻めが頓挫します。よって☗6七桂と打ったのですが☖8六金☗同金☖7四桂と切り返され,後手の勝ちになりました。第2図では☗7九飛の方が難しく,それでもダメなら千日手にするほかなかったようです。
 連勝で服部六段が優勝。一昨年の新人王戦以来となる3度目の棋戦優勝。新人王戦は2度目の優勝となりました。

 船旅を企画して出港したのに,いくら突風があったとはいえ,2時間や3時間でマストが折れてしまったというのは,本当のことだったか疑わせるような要素になると思います。ただ文脈を検討してみると,この船はそれほど手入れが行き届いていなかったコンスタンティンConstantijin Huygensのヨットだったという可能性が高く,それならそうなってしまったということもあり得るでしょう。なのでこの部分は,史実であったとしてもおかしくないですし,そうではなくヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作であったとしても,著しく不自然であるとはいえないことになるでしょう。
 最後の晩に上演されたのがアリストファネスἈριστοφάνηςの『Βάτραχοι』です。ファン・ローンJoanis van Loonは我々はそれをフォンデルJoost van Voendelの作であるかのように上演したと書いています。このフォンデルというのは詩人でもありまた戯曲も多く書いた人物です。この船旅がされた時期には存命で,おそらく有名であったでしょうから,ローンがこの人の名前を出していることは不自然ではありません。同様に,ヘンドリックがローンが書いたものだという体での創作にこの名前を持ち出すのも不自然ではないといえるでしょう。それからローンは我々は上演したといっているのですから,一行の6人で上演したと解するのが自然でしょう。
 スピノザはロープで作ったとてつもなく大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。そしてその上演中に,ヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演したので,一行に招かれて『蛙』を見に来た村人たちが大笑いして足を踏み鳴らしたので,スピノザはアンコールに応えなければなりませんでした。これは実際に応えたという意味に理解できる文脈になっています。
 フォンデルの戯曲に『蛙』が実際にあったのかどうかは分かりません。ローンの記述ではフォンデルの作であるかのように上演したとなっているのですから,実際にそうした戯曲があるかないかは問わなくてよいでしょう。ただ,そうであるかのように上演したということは,フォンデルの戯曲が演劇として上演されるときに,どのような演出の下で上演されるのかということは,少なくともローンの念頭にはあったということでなければなりません。
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竜王戦&風習

2024-10-25 18:58:21 | 将棋
 19日と20日に芦原温泉で指された第37期竜王戦七番勝負第二局。
 佐々木勇気八段の先手で矢倉。ただし1筋の位を取って右玉にするという将棋で,後手の藤井聡太竜王が対応に苦慮して時間を使うことになりました。
                            
 ここで☖8六角と取りましたが,これは問題の一手だったかもしれません。
 先手は☗6四歩☖7二銀とへこませてから☗8六角。☖同飛に☗7七桂とぶつけました。
 後手は☖9三角と王手をして☗6六角☖同角☗同銀と進めました。
                            
 第2図から☖8八歩成としましたが☗6八金と逃げられ,これは先手玉が遠い関係で6四の拠点が大きい先手が優勢です。
 第1図では後手の方から☖6四歩と打ってしまった方がよかったようです。また☖9三角の王手も余計だったようで,攻めるのであれば銀を引かせずにすぐに☖8八歩成とした方がよかったようです。
 佐々木八段が勝って1勝1敗。第三局は今日と明日です。

 さらに畠中は,この時期はスピノザに限らず,多くの人びとが思想的内容の手紙を書くことに用心していたのであって,そうした手紙を受け取ったら,直ちにそれを破る習慣だったという意味のことをいっています。そうしたことが確かにあったかもしれませんが,スピノザのこの時期の書簡が少ないことについてこれを該当させられるかということについてはやや疑問も感じます。これ以前にもこれ以後にも,思想的内容の手紙というのをスピノザは受け取ったり自身で書いたりしていて,それは残っているのです。この時期に書かれたものだけに用心する必要があって,過去のものには用心する必要がなかったという理由が僕にはよく分かりません。たとえばこの時期にスピノザが思想的内容の書簡を受け取って,用心のためにそれを残さずにすぐに捨てるのであれば,それ以前の同じような内容の書簡についても,それを保管しておくことには用心する必要があるからそれも捨てようとするのが自然ではないかと僕には思えるからです。
 いずれにしても,船旅が実施されたと思われる時期には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』はすでに発刊されていたわけですから,その執筆に多忙であったからスピノザが船旅に出るのは不自然であるということはありません。一方でこの状況というのは,むしろスピノザに船旅に向かわせる意欲を高めるようなものだったように思われます。
 ヨハン・デ・ウィットJan de Wittが民衆によって虐殺されたのは1672年のことですから,このときはまだ政治の実権を握っていました。しかしオランダの政治状況は騒乱の時代を迎えていたのは間違いありません。実際にクールバッハAdriaan Koerbachはこれより前,1668年には獄死しています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,共和主義者であったデ・ウィットは,民主主義的内容の『神学・政治論』に対して不快の念を表明したとあり,スピノザを取り巻く状況も安全なものとはいえなかったのです。なのでこの時期のスピノザにとって,政治的な意味での有力者と親しく交際することは,自身の身の安全のためにはプラスに働いたと思われます。スピノザ自身がそのような認識をもっていたとしてもおかしくはないのではないでしょうか。
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加古川青流戦&書簡

2024-10-24 19:14:46 | 将棋
 14日の午前に鶴林寺で指された第14回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 上野裕寿四段の先手で矢倉。後手の岡部怜央四段は中住い。この将棋は後手の攻めが決まって優勢になりました。
                            
 第1図は後手にとって岐路の局面。☖3八角成と飛車を取って☗8一角成に☖4三銀と受けに回るのが手堅く,それが最善だったようです。
 実戦は☖6七同角成と取りました。これでも後手の優勢なのですが,先手玉が一気に寄るわけではないので局面が複雑化することに。
 ☗6七同玉☖8七飛成は一本道。先手はそこで☗3六飛と成銀を取りました。
                            
 後手は☖5四角成から攻め合ってくると読んでいたようで,この手は読みになかったとのこと。☖7八銀から攻めていきましたが,これが王手は追う手の格言通りで先手玉を逃がすことになり逆転しました。第2図では☖4三金右と受けに回らなければいけませんでした。
 連勝で上野四段の優勝。昨年の新人王戦以来の2度目の棋戦優勝となりました。

 『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡四十一が1669年9月5日付になっていて,これはフォールブルフVoorburgから出されています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死ぬ少し前のものです。次の書簡四十二フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の要約をオーステンスJacob Ostensに送ったもので,これは1671年1月24日付です。スピノザはオーステンスを介してこの手紙を読み,フェルトホイゼンに対する反論をオーステンスに送ったのですが,この書簡四十三には日付がありません。書簡四十四は1671年2月17日付でハーグDen Haagから送られています。現行の『スピノザ往復書簡集』は時系列で番号が付せられていますので,書簡四十三は書簡四十四より前で,書簡四十二への返信ですからそれより後です。なので1671年1月後半から2月中旬までに送られていたとみるべきでしょう。
 これでみると分かるように,船旅が実施されたと考えられる1670年の書簡というのはありません。これは単に掲載するほどの書簡が存在しなかったからかもしれませんが,別の事情が考えられないわけでもありません。というのは書簡四十二と書簡四十三が『神学・政治論』に関係しているように,『神学・政治論』が発行されたのが1670年だったのです。スピノザが執筆していたのはフォールブルフに滞在していた頃です。というのも1670年の初めには発行されていますので,実際に執筆していたのはそれより前の筈だからです。スピノザはこの発行のタイミングでフォールブルフからハーグへ移ったのですが,この移住が出版と何らかの関係を有していたかもしれません。いずれにせよ匿名で発行されたわけですが,執筆者がスピノザであるということはすぐに噂として流布しましたので,スピノザが思想信条を明らかにするような書簡を書くことを控えていたという可能性があるのです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,『神学・政治論』と直接的に関係させているわけではありませんが,1667年3月から1671年1月までのスピノザが少ないことについて,当局の圧迫や監視を理由のひとつとして挙げています。そしてもうひとつの理由が,『神学・政治論』の執筆による多忙となっています。
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加古川青流戦&脚色

2024-10-22 19:11:42 | 将棋
 13日に鶴林寺で指された第14回加古川青流戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は岡部怜央四段が0勝,上野裕寿四段が2勝。
 加古川市長による振駒で岡部四段の先手となり角換り。先手の腰掛銀に後手の上野四段の早繰り銀。この将棋は中盤で千日手となりました。
 上野四段が先手になっての指し直し局は後手の岡部四段の一手損角換り1-Ⅱ。先手の早繰り銀に後手の腰掛銀に。この将棋は先手の端攻めが甘かったために後手が優勢になりました。
                            
 先手が金を打ったところ。先手が苦しいのですがこの局面では最善の粘り。しかし後手の読みにはなかったようです。
 ☖7七桂成と攻めていきました。☗同玉に☖5七馬ですが☗6四金と飛車を取られました。☖7五銀と上から押さえたところで☗3一銀。
                            
 これを☖同玉は☗7一飛,☖同金は☗7二飛で銀を抜かれ,駒が少ない後手に勝ち目はありません。なので☖1二王と逃げましたが☗2四桂からの追撃が厳しく先手の勝ちになりました。
 第1図から攻めていったのが敗着で,飛車を引いておけばまだ後手に分があったようです。
 上野四段が先勝。第二局は14日の午前に指されました。

 それが脚色であるとすれば,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが意図したような脚色になっていないということは,それがヘンドリック自身による純然たる脚色ではないからだと僕は判断します。いい換えればヘンドリックは何らかの資料にはあたっているのであって,その資料にそうしたことが書かれているから,ヘンドリックもそのように書いたのだと判断します。そしてその資料というのは,ファン・ローンJoanis van Loonが書き残したものであったとしか考えられません。そもそも自身の9代前の先祖が書いたものだという設定でヘンドリックが何かを書くということ自体が不自然なのであって,実際にファン・ローンが書き残したものをヘンドリックが入手したから,ヘンドリックはそれを書こうとしたとする方が自然なのではないでしょうか。
 ですから,ファン・ローンが何かを書いていた,それも『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の基になるものを書いていたことは間違いないと思います。ヘンドリックがそれを正しく全訳しているかどうかは分かりませんが,ヘンドリックが出版したものの中には,ファン・ローンが書いたものの残骸は間違いなく残っているのであって,ファン・ローンは出版する意図があってそれを書いているとは必ずしもいえませんから,読者に喜んでもらうような脚色を加える必要はありません。もちろんファン・ローンの記憶が確かであるとは断定できませんから,ファン・ローンが史実と異なったことを書いているという可能性は考慮しなければなりませんが,たとえばファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが船の模型をもってきたというようなことは,記憶として鮮明に残る筈なので,実際に書かれていてヘンドリックがそれを誤訳をしていない限り,そのことは実際にあった出来事だと判断していいように思えます。同様に,スピノザがロープで作ったかつらをかぶったというようなことも,記憶違いとして生じるようなことだとは思えませんから,それは同じ条件の下に実際にあったのではないかと思えます。
 このことをさらに強化するために,『Βάτραχοι』のプロットというのは,その大筋からして信憑性を疑わせるものとなっているけれども,それは真実であったとしてもおかしくはなかったということを示していきます。
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ヒューリック杯白玲戦&模型のプロット

2024-10-18 18:54:48 | 将棋
 12日に京都で指された第4期白玲戦七番勝負第四局。
 西山朋佳白玲の先手で角道オープン三間飛車。先手から角を交換して相向飛車の相振飛車になりました。先手の金無双に後手の銀冠から攻め合いになり,後手に分のある分かれに。先手が入玉も含みに粘る将棋。
                            
 ここは先手の入玉がなくなり,後手が優勢。☖6六歩と取り込みました。これは☗同銀なら銀が確実に入手できるので後で☖1八銀と打つことができるという意味だったのではないかと思います。
 銀は渡せないので先手は☗同金と取りました。後手はそこで☖2四桂と打ちましたが,角も銀も持っていないのでこの時点では先手玉が詰めろになっていません。☗7五金☖同銀で角を入手して☗6五角と王手。合駒が無効なので☖9三玉と逃げましたが☗9五歩と突かれました。
                            
 第2図となっては先手勝勢。後手は角を取らせたのが失敗で,第1図ですぐに☖2四桂と打っておくべきでした。
 西山白玲が勝って2勝2敗。第五局は19日に指される予定でしたが,里見女流五冠の体調不良により不戦敗。西山白玲の3勝2敗となっての第六局は26日に指される予定になっています。

 最後のエピソードあるいはプロットは,1654年4月のものです。スピノザはまだユダヤ人共同体の一員で,破門宣告を受けていない時代のことです。
 在宅していたファン・ローンJoanis van Loonに,下女が外国人の紳士が面会を求めていると告げました。下女はあの頭のおかしな人の仲間だろうと告げています。そのおかしな人がだれを意味しているか不明ですが,こうした来客がファン・ローンには頻繁にあったのでしょう。ローンは面会したのですが,その外国人紳士というのはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenです。
 エンデンは小さな船の模型を抱えていたのですが,これは発明品でした。戦争用の船籍で,軽装備で砲火角度を高める工夫がされていました。ただ,ローンはこのようなことには関心がなかったので,海軍省にもっていくのがよいだろうと助言しました。ところがエンデンはすでに3人の海軍参事官にそれを見せていたのですが,それを吟味しようとすらしなかったとされています。
 エンデンはこのアイデアを売りたかったのです。貧しい教師で,足が不自由な娘がひとりいるので,金が必要なのだと告げています。エンデンの娘はクララClara Maria van den Endenという名前で,後にケルクリングDick Kerkrinkと結婚しているのですが,確かに足が悪かったと伝えられています。そして,お門違いと思われるローンのところを訪問してこれを見せたのは,教え子のひとりからローンのことを聞いていて,助けてくれると思ったからだと言いました。この教え子というのはスピノザを意味するのですが,スピノザがエンデンに対してどのようにローンのことを伝え,その話のどの部分からエンデンがローンは自分を助けてくれるだろうと思ったのかはまったく書かれていないので不明です。
 この後で,エンデンがいっている教え子がスピノザを意味することがローンにも分かりました。ローンはローンでスピノザから,エンデンは平凡な律法学者やタルムードの教師60人に匹敵すると聞かされていたそうです。なおこの部分でエンデンはスピノザのことを,ポルトガル出のユダヤ人,あるいは単にポルトガル人と表現しています。スピノザの父はポルトガル出身ですが,スピノザに対する表現としてはやや謎です。
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竜王戦&ヘンドリック

2024-10-11 18:57:54 | 将棋
 5日と6日にセルリアンタワー能楽堂で指された第37期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太竜王が4勝,佐々木勇気八段が2勝。
 振駒で藤井竜王の先手となって角換わり相腰掛銀。8筋を交換した後手の佐々木八段に対して先手が歩を打って受けなかったことから本格的な戦いになりました。
                            
 第1図から後手が☖6六歩と打っていったことで最終盤に突入。☗7三歩成☖6七歩成☗同金☖6六歩☗6二と☖6七歩成☗4九王と一直線の攻め合いに。
 この局面で☗2五桂と打つ手が生じると負けになるので後手は☖2五桂と犠打を放ちました。☗同香なら先手から桂馬を打てなくなるので何とかなるという見立て。対して☗1七桂と打ったのが決め手。
                            
 ☗2五桂と跳ねられれば打ったのと同じこと。取られてももう1枚持っていますから打つことができます。鮮やかな決め手でした。
 藤井竜王が先勝。第二局は19日と20日に指される予定です。

 『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中の,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して第二のアコスタになるのかと怒鳴ったとされる場面は,ファン・ローンJoanis van Loonが同席していたわけではありません。このときに同席していたのはジャン・ルイJean Louysという人物で,ルイがローンに手紙で伝えた内容です。そしてこのルイはオランダ人です。そのルイがこのように伝えているということは,ルイには第二のアコスタになりたいのかという意味が理解できたからです。つまりルイはウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの末路を知っていたのであり,この伝え方からしてそれはファン・ローンも知っているとルイは前提していたことになるでしょう。つまりダ・コスタの一件は,単にアムステルダムAmsterdamのユダヤ人だけに知られていたわけではなく,この当時の,少なくともアムステルダムに住んでいたオランダ人にも有名な出来事であったということになるでしょう。ですからこのことをスピノザが知らなかったということは考えられないのであり,たとえダ・コスタとスピノザの間に面識がなかったとしても,スピノザは間違いなくダ・コスタのことを知っていたということは断定していいと僕は思います。
 ところで,吉田はこの後で『レンブラントの生涯と時代』について触れていて,その内容は後世の創作であると指摘しています。この点をみておきましょう。
 『レンブラントの生涯と時代』は,ファン・ローンが書いたものとされていますが,ファン・ローンはこれを公にするつもりで書いたわけではありません。後に説明しますが,このことはその内容とも合致しています。したがってこの本はファン・ローンが出版したわけではありません。出版したのはヘンドリック・ウィレム・ファン・ローンHendrik Wilem van Loonという人物で,これはファン・ローンからみて9代後の子孫にあたります。ですから出版されたのは1930年になってからであり,ニューヨークで,英語で発刊されたのです。ローンはオランダ語ないしはラテン語で書いていたので,ヘンドリックがそのオランダ語,しかもスピノザの時代に使われていたオランダ語かラテン語を英訳したことになっています。そしてこのヘンドリックというのは作家です。
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霧島酒造杯女流王将戦&グツコウの設定

2024-10-09 19:05:29 | 将棋
 5日に霧島ファクトリーガーデンで指された第46期女流王将戦三番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女流王将が34勝,福間香奈女流五冠が42勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
 霧島酒造の社長による振駒は歩が4枚で西山女流王将の先手となり四間飛車。後手の福間女流五冠が向飛車にしての相振飛車。先手の矢倉,後手の美濃という戦型でした。
                            
 後手が歩を垂らした局面。この手は先手の意表を衝いたようです。
 ここから☗8三歩成☖同銀☗同桂成☖同玉と清算したのですが,後の手順からすると先に☗7五角と上がっておいた方がよかったと思われます。その方が☗6四歩が厳しくなったからです。
 実戦のように進めたのなら☗4二銀と打つのがよかったようですがそこで☗7五角と出ました。後手は当然の☖5五飛。そこでまた☗6六角ならまだ難しかったのですが,それでは何をやっているか分かりません。よって☗6四歩と突きましたがここでは甘く,☖3六桂と王手をされて収拾がつかなくなりました。
                            
 福間女流五冠が先勝。第二局は15日に指される予定です。

 グツコウKarl Ferdinand Gutzkowの戯曲はあくまでも戯曲ですから,創作です。戯曲に書かれている会話がダ・コスタUriel Da Costaとスピノザとの間であったことはあり得ないのはもちろん,実際にスピノザとダ・コスタが顔見知りで,何らかの会話を交わすことがあったということでさえグツコウの創作であると解さなければなりません。とくにこの会話の中で,スピノザはアコスタすなわちダ・コスタのことを,オーハイムと呼びかけます。このオーハイムというのは古いドイツ語で,母親の兄弟,すなわち母方の伯父ないし叔父という意味があったそうです。つまりグツコウの戯曲の中では,ダ・コスタがスピノザの母の兄弟という設定になっています。スピノザの母はハンナですが,ダ・コスタがハンナの兄弟であったわけではありません。このことから最もよく理解できるように,これは完全な創作なのです。
 しかし吉田が指摘しているように,ハンナとダ・コスタは,きょうだいではなかったとしても,ハンナの一族とダ・コスタの一族は,遠縁だけれども親戚関係にあったという説があります。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,少なくともハンナの一族もダ・コスタの一族も北ポルトガルから迫害を逃れてアムステルダムAmsterdamにやってきたのであって,ポルトガル時代まで遡ると,両一族に何らかの関係があったと考えられるといわれています。
 さらにこれとは別の関係があります。スピノザの父であるミカエルは,アムステルダムのユダヤ人共同体において,理事会の役職についていたことがあったのですが,1637年から1638年にかけてはウリエルの弟であるアブラハムが同じ役職に就いています。さらにこのふたりは,1642年から1643年にかけては,ユダヤ人の学校の評議員を務めています。したがって,スピノザの父とダ・コスタの弟は,間違いなく知り合いであり,おそらく会話を交わすような間柄であったと思われます。
 これらのことを踏まえれば,スピノザとダ・コスタの間に面識があったというグツコウの設定自体は,それほど不自然なものではないだろうと吉田はいっています。ウリエルとアブラハムが仲のよい兄弟だったかは分かりませんが,不自然でないのは確かでしょう。
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新人王戦&スピノザとダ・コスタ

2024-10-08 19:09:11 | 将棋
 4日に指された第55回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は服部慎一郎六段が4勝,高田明浩五段が0勝。
 振駒で服部六段の先手となり矢倉。後手の高田五段が急戦に出て,攻め合いの将棋になりました。
                            
 ここで後手が☖2四歩と受けに回ったため☗4六桂と打たれ☖2三玉☗3五桂☖1二玉☗2四飛と攻められ先手の勝ちになりました。
 第1図は☖5九金と打って☗同銀に☖7八金と取れば☗同王☖8八金☗7七王☖7九飛成☗6六王のときに☖5四桂と打って詰みでした。実戦は4六に桂馬を打たれてしまったためにこの筋が消失しています。後手としては痛恨の一局になってしまいました。
 服部六段が先勝。第二局は21日に指される予定です。

 スピノザの親族およびスピノザの死およびその後の事柄についての探求はここまでとして,再び『スピノザ 人間の自由の哲学』に戻ります。次もまた史実に関わることです。
 『破門の哲学』の冒頭で,ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaが宣告された破門を解いてもらうための儀式をスピノザが見つめている場面が描かれています。この儀式が屈辱的なものであったために後にダ・コスタは自殺してしまうのですが,その場面をスピノザが見守っているという構図です。この儀式が行われたとき,スピノザはまだ子どもでしたが産まれてはいましたから,実際にそのようなことが起こったとしても,それを史実に反することだと断定することができるわけではありません。ただしこれは著者である清水の想像であって,確かにスピノザがその儀式の場にいたということを意味するのではありません。これが清水の想像であるということは,『破門の哲学』にも書かれているのであって,清水はそれが史実であったと主張しているのではありませんから,その点には留意してください。
 『スピノザ 人間の自由の哲学』の第二回の中で,その場にスピノザがいたかどうかはともかくとして,幼いスピノザとダ・コスタの間には,面識があったとしても不自然ではなかったということが書かれています。
 僕は知らなかったのですが,19世紀のドイツにカール・グツコウKarl Ferdinand Gutzkowという作家がいて,この人が『ウリエル・アコスタUriel Acosta』という戯曲を書いているそうです。なお,アコスタはダ・コスタの別名と考えてください。つまりこの戯曲の主人公はウリエル・ダ・コスタです。吉田はこの戯曲を読んだことがあるそうです。戯曲自体は実在のダ・コスタとはかけ離れた境遇のメロドラマに仕立て上げられていて,面白くはなかったそうですが,第五幕にバールーフ・スピノザという8歳の少年がアコスタと会話をする場面があり,ここは印象に残ったそうです。もちろんこれはスピノザのことです。この会話は,アコスタが自らの思想をスピノザに伝える,あるいはスピノザに託すというような内容になっていますが,8歳の少年に語るような内容とは僕には思えず,いかにも不自然な感じは受けました。
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王座戦&仮定

2024-10-01 19:08:09 | 将棋
 京都で指された昨日の第72期王座戦五番勝負第三局。
 永瀬拓矢九段の先手で角換わり。後手の藤井聡太王座が右玉に構える序盤戦でした。終盤は攻め合いとなり,先手に分がある戦いに。
                              
 この王手に対して☗9七歩と打って受けたため,☖7八銀で後手の逆転勝ちに。
 第1図の後手玉は詰めろになっています。☗7三銀☖9二王に☗9三歩と打つのがその手順。ところが9七に歩を打ってしまうと☗9三歩が二歩で打てないため,後手玉の詰めろが外れて逆転という仕組みです。
 将棋は相手玉を寄せてもその前に自玉が寄せられれてしまうと勝てません。ですから相手玉への攻めよりも自玉の安全度を優先するのがセオリーです。第1図で☗9七桂なら先手玉は詰まず,後手玉の詰めろも継続したので先手の勝ちだったのですが,部分的に先手玉の安全度だけを考えれば,☗9七桂より☗9七歩の方が安全です。棋士の習性が生んだ逆転という印象でした。
                             
 3連勝で藤井王座が防衛第71期からの連覇で2期目の王座獲得です。

 スチュアートMatthew Stewartは,シュラーGeorg Hermann Schullerが自分の役割を大きく見せるために,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して遺稿の買取りを打診したといっています。つまりシュラーは実際には遺稿をライプニッツに売却するような権限がなかったのだけれど,自分にはそういう力があるということをみせようとして,ライプニッツにそのような打診をしたということです。ライプニッツはこの打診に対してはっきりとした返事をしなかったのですが,その間にシュラーは遺稿集Opera Posthumaを出版するという方針になったということをライプニッツに伝えたので,フロイデンタールJacob Freudenthalはその点を重視して,編集者たちの間で方針の変更があったと解しているのです。僕はすでにいったように,この点はスチュアートの説に理があると考えますが,なぜシュラーがそのような打診をライプニッツにしたのかということは,よく分からないです。
 シュラーのライプニッツに対する打診が,編集者たちの総意であったと仮定してみましょう。この場合,編集者たちは適切な買い手を探さなければなりません。その中でライプニッツの名前が出て,ライプニッツと定期的に書簡のやり取りをしていたシュラーが,編集者たちを代表してライプニッツに対して遺稿の買取りを打診したということになります。
 後に編集者たちは方針を変更し,遺稿集を出版することになります。しかしもしも遺稿集の編集者たちが事前にライプニッツに対して遺稿集の買取りを打診していたのだとすれば,遺稿集を出版するにあたって,ライプニッツがどのような意向を有しているのかということも理解していたとするのが妥当です。シュラーは方針が転換されたということをライプニッツに伝えたのですから,その際の意向というのがライプニッツからシュラーに伝えられるでしょう。シュラーは遺稿集の編集者を代表してライプニッツとやり取りしているのですから,この意向というのが編集者たちの間で共有されることになります。
 ところがすでに説明したように,ライプニッツの意向というのが編集者たちの間で共有されていたという形跡がありません。それが共有されていたのなら,書簡四十五書簡四十六が遺稿集に掲載されなかった筈だからです。
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ヒューリック杯白玲戦&死の報知

2024-09-22 18:58:46 | 将棋
 奈良で指された昨日の第4期白玲戦七番勝負第三局。
 福間香奈女流五冠の先手。双方がなかなか態度を現しませんでしたが,後手の西山朋佳白玲が向飛車に。先手は居飛車を選択し,5筋位取りのような将棋。後手の振飛車穴熊を先手が抑え込みにいく将棋になりました。
                            
 先手が角の成り込みを狙った局面。飛車を寄って受けるのは☗5三歩成がありますから☖4五桂と角筋を通して受けました。☗同歩で先手の桂得に。
 後手は☖7四歩☗6六角と追ってから☖5四銀とぶつけました。ただこれは☗同銀☖同飛のときに☗5五銀と打たれ,☖5一飛と逃げたときに☗4四歩と取り込まれることに。
                            
 先手の狙いは抑え込みなので,駒損しても食い破ってしまえば戦えるのですが,これではかえって抑え込みが強まって桂馬を損しただけの後手が著しく不利になりました。☖7四歩のところで☖5四銀とすぐにぶつけるか,☖5四銀とぶつけたところで☖4五歩と取り込んでおくかしておかなければいけなかったようです。
 福間女流五冠が勝って2勝1敗。第四局は28日に指される予定です。

 スピノザはユダヤ教会から破門された後は,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人とは接触していなかったと思われます。ユダヤ人共同体でそのことが禁止されていましたし,スピノザからそれを望むということがあったとも思えないからです。したがって,スピノザとレベッカRebecca de Spinozaが最後に会ったのは,スピノザがユダヤ人共同体から追放される前であって,それ以降は接触していません。ですからそれ以降はスピノザはレベッカがどこで何をしているか知らなかったでしょうし,レベッカもスピノザがどこで何をしているのかは知らなかったと思うのです。もっとも,スピノザはオランダでは一定の知名度があったようですから,レベッカの方はスピノザのことを伝え聞くということがあったかもしれません。しかしスピノザがレベッカについて何かを知るということはまったくなかったでしょう。
 なので,おそらくスペイクは,スピノザにレベッカという姉あるいは妹がいるということを知らなかったでしょうし,ダニエルDaniel Carcerisという甥がいるということはなおのこと知らなかっただろうと思います。よってスピノザが死んだということを,スペイクがレベッカなりダニエルなりに知らせるということはできなかったと思います。一方,スピノザが死んだときにはマイエルLodewijk MeyerかシュラーGeorg Hermann Schullerのどちらかがそれを見守ったのですから,スピノザの友人たちは早い段階でスピノザの死を知ることになったでしょう。そうした友人の中には,スピノザがまだ破門される前からの商人仲間であったイエレスJarig Jellesがいました。なのでイエレスはたぶんスピノザの親族と面識があり,少なくともスピノザと一緒に商店を経営していた弟のガブリエルのことは知っていたのではないかと思われます。それ以降も連絡を取り合っていたかは分かりませんが,スピノザが死んだということを伝えることくらいはできたと思います。とくにレベッカはスペイクの家に行ったのですから,単にスピノザが死んだということを知るだけではなく,スピノザがどこに住んでいたのかということまで知ったとしなければなりません。そうしたことから考えると,スピノザの知り合いからスピノザの死を伝えられた可能性が高いかもしれません。
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王座戦&レベッカの子ども

2024-09-20 19:04:57 | 将棋
 18日に名古屋で指された第72期王座戦五番勝負第二局。
 藤井聡太王座の先手で角換わり相腰掛銀。定跡にある進展から桂馬と香車の交換になり,後手の永瀬拓矢九段が端を攻めにいったところで前例から外れました。
                            
 ここで先手は☗4六香と打ちました。このような反撃筋が先手からあるということは後手は知っていたようなのですが,この局面で打ってくるのは研究の範囲外であったようです。先手はここで銀を逃げるのは利かされとみて反撃に出たとのこと。
 後手の研究から外れていたのは☖7六桂が王手になるからでここは☗7七玉と逃げる一手。これで先手の銀損なのですが,互角の範囲内のようです。先手も研究の範囲外であったと思われますが,さすがの大局観でした。
 後手は☖8六歩☗同歩の突き捨てを入れてから☖4五歩☗同香☖5四銀として香車を取りにいきました。7筋が薄くなったので☗7四歩。
                            
 これで先手が優勢になっていました。なので後手は第1図から第2図に至る間で何か変化が必要だったことになります。
 藤井王座が連勝。第三局は30日に指される予定です。

 ミリアムMiryam de Spinozaが結婚したのは1650年6月で,これは婚姻届が残っているので確実です。その相手がサムエル・カルケリスSamuel Carcerisであったことになります。そしてふたりの間にダニエルDaniel Carcerisという名の子が産まれたことになります。ところが吉田がいっているところによれば,ダニエルが産まれてすぐにミリアムは死んでしまったのです。よってサムエルはダニエルという幼子と残されることになりました。なのでダニエルは再婚したのですが,その再婚相手がレベッカRebecca de Spinozaだったのです。ですから,ダニエルの母はミリアムであって,戸籍上はそうなっているのでしょうが,レベッカとダニエルの関係は,叔母と甥というより,母と息子という関係に近かったと思われます。たぶんダニエルは実の母であるミリアムの記憶はまったくなかったと考えられますので,ダニエルとレベッカの結婚が,ミリアムが死んでからそれほど時を置いてのものでなかったとすれば,ダニエルにとってレベッカは,叔母というより実の母に近かったものと思われます。
 前にもいったようにレベッカはこの後,キュラソー島に移住します。そのとき,ミカエルとベンヤミンという息子と一緒だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあります。つまり,再婚したサムエルとレベッカの間には子どもがありました。さらにハンナという娘もいたと確定的に記されています。たぶんハンナは結婚したので,キュラソー島には移住しなかったのでしょう。ところが共同相続人としてレベッカとともに名前が出ているのはダニエルだけで,ハンナ,ミカエル,ベンヤミンの名前はありません。ハンナがどうなったかは分かりませんが,ミカエルとベンヤミンはキュラソー島に移住したので,スピノザが死んだ時点で生きていたことは確実です。なのに共同相続人として名前がないのは,たぶん制度上のことだと思います。ダニエルはミリアムの子で,ミリアムはすでに死んでいたのでその子どもとして叔父の遺産の相続人にはなり得るのですが,レベッカは健在だったので,レベッカの子どもたちは共同相続人としての権利がなかったのでしょう。このように考えないと,共同相続人がふたりだけであったことの説明がつかないように思えます。
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霧島酒造杯女流王将戦&共同相続人

2024-09-19 19:25:47 | 将棋
 14日に放映された第46期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は8月13日。その時点での対戦成績は福間香奈女流五冠が28勝,伊藤沙恵女流四段が11勝。
 振駒で先手となった福間女流五冠の中飛車。伊藤女流四段が向飛車に振っての相振飛車になりましたが,先手が2筋に飛車を戻したので,先手の居飛車,後手の振飛車の対抗形に類似した将棋になりました。
                            
 後手はここで☖1三角と引きました。これには☗1五歩☖同歩☗同香とする手があります。
 もちろんそれは後手も承知の上。☖2四角と逃げて☗1一香成のときに☖1三飛と寄り,☗2一成香に☖1八飛成と進めました。
                            
 これは駒損でも飛車を成り込んで勝負ということ。ただこの局面は桂馬と香車を持った先手の☗9五歩からの端攻めが厳しく,あとは一方的に先手が攻め勝つ将棋になりました。飛車が成れるのは大きいとはいえ,駒損の方が大きかったことになります。このように勝負しなければならないのであれば,第1図のように進めたのが疑問だったということになるでしょう。
 福間女流五冠が挑戦者に。タイトルを失った第44期以来の三番勝負出場です。

 この部分は平板に解釈すればこのようになります。ただそこにスペイクの善意や悪意を介在させた解釈も可能です。スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszから肩代わりしていた葬儀費用は受け取ったけれども,遺産相続を主張するレベッカRebecca de Spinozaが現れたので,レベッカからもいくらかを受け取ろうとしたというようなことはあり得ないわけではないでしょう。同様に,遺産相続の権利を有さないリューウェルツが葬儀費用を出してくれたので,その権利を有するレベッカからそれを受け取り,その分をリューウェルツに返還しようとしたということも考えられるわけです。ただこの間の諸事情がどういったものであったのかということは不明なので,史実としては,レベッカはスペイクの家に現れて遺産を相続する権利を主張したけれども,葬儀費用や借金の支払いについては拒んだので,証書を基に請求されたということだけ確定することができるのです。
 この部分だけを読むと,レベッカだけがスピノザの遺産相続の権利を主張したように思えるのですが,実際にはそうではありません。前述した3月30日付の公正証書から明らかであるとコレルスJohannes Colerusが指摘しているのは,スピノザにはレベッカとミリアムMiryam de Spinozaというふたりの姉があって,ミリアムはサムエル・カリケリスSamuel Carcerisと結婚してダニエル・カリケリスDaniel Carcerisを産んで,このダニエルがスピノザの共同相続人であると申し出たということだからです。つまりスピノザの相続人であることを主張したのはレベッカだけではなく,レベッカとダニエルのふたりだったのであり,葬儀費用および借金の請求を受けたのもこのふたりだったのです。スペイクの家に現れたといわれているのはレベッカだけなので,それは本当にレベッカだけであったかもしれませんが,もしかしたらそのときにレベッカとダニエルのふたりでスペイクの家を訪れていたのかもしれません。
 レベッカがスピノザの姉であるか妹であるのかということについては,通説は姉であるけれども吉田は妹であると考えているということはすでに示しました。渡辺が訳した姉というのも,この定説に従ったものと考えられます。ミリアムはスピノザの姉で間違いなく,レベッカの姉でもあります。
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