1670年4月3日付でファン・ローンJoanis van Loonは効き目が現れたと書いているのですが,その直後に,私はこの年齢になって思いがけず一冊の書物の父親となったという一文が付け加えられています。しかしこの文章は,物語の全体からすると意味不明といわざるを得ないでしょう。ローンは遅くとも1669年12月20日には書き始めている設定になっていますから,翌年の4月3日までには一定の量を書いていてもおかしくはありません。それが一冊の本に値する量になっていることも十分にあり得るでしょう。しかしローンは一冊の本を書く目的で書いている,あるいは書き始めたわけではなく,自身の病気から恢復するために書いているのです。ですから分量は一冊の本に匹敵するものになったかもしれませんが,その内容がそのまま発売できるものになっていたとは僕には思えないです。確かに書き続けているある時から,ひとつのまとまった物語になっていったということはあり得ますが,それは結果論であって,書き始めた当初から一冊の本というに相応しい内容のものであったというのは無理があると思うのです。したがって,むしろこの部分はそれを全訳したと主張しているヘンドリックHendrik Wilem van Loonが付け加えた可能性の方が高いように僕は思えます。
ファン・ローンが何かを書き残していて,それをヘンドリックが発見したことは確実だと僕は思いますが,その書き残したものというのは起承転結があるようなまとまったものではなく,部分的なものにすぎず,その部分的なものを,ひとつのストーリーとして成立するようにヘンドリックがまとめたという可能性の方が僕は高いと思います。ですからそれをまとめるにあたっては多くの脚色が入っている筈で,各々の部分から歴史的事実の探求として参考になる残骸は含まれていると思いますが,そのまま史実であったと確定するのは無謀だと思います。『蛙Βάτραχοι』でいえば,ローンはスピノザがディオニュソスDionȳsosの役を演じているところを見たことがあるか,そういう話をスピノザから聞かされたことは確定できると思いますが,実際にこのプロットの状況でスピノザがディオニュソスを演じたとはいいきれないのではないでしょうか。
『蛙Βάτραχοι』の台本があったとは書かれていませんが,ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの写本が出てきたと書かれているくらいですから,書かれていなくてもその台本らしきものもヨットの中にあったかもしれません。むしろそうしたものが見つかったから,一行はそれを上演しようとなったという方が自然です。また,そうでなくとも『蛙』は有名な話ですから,一行の中にそれを詳しく知っている人がいて,その人が台本を書くからそれを上演してみようと提案したということもなくはないでしょう。不自然に感じることは否定しませんが,この点については問わないことにします。
しかし,台本があれば上演することができるわけではありません。上演するとなれば演出が必要であって,その専門的知識を持った人が一行の中にいなかったとすれば,これを上演することなど不可能であったといわなければなりません。これは実際に僕たちが『蛙』に限らず何かを演じなければならないとなった場合を想定すれば明らかでしょう。つまり,このプロットの中で最も不自然に感じられるのはこの点なのです。確かに台本が本当にあったのかということも問わなければならないのですが,仮に台本があったとしても,それを実演するのにだれがどのように演者を指導したのかということは,より強く問われなければなりません。一行が『蛙』を本当に上演したのであれば,台本と演出のふたつは不可欠だからです。
それでもこのことが史実であり得たということができるのは,スピノザは演劇を演出するやり方というのを知っていたと想定されるからです。スピノザはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenの下でラテン語を学び,後に助手的な役割を果たしていたということは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定した史実とされています。そしてエンデンのラテン語学校の授業では,演劇が採用されていました。つまりラテン語で劇を演じることでラテン語を習得するということが,教育の一環として行われていたのです。ですからまず,原語はギリシア語とはいえ,ラテン語に訳されたアリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙』がその教材のひとつであったかもしれませんから,スピノザはかつてそれを演じた経験があったかもしれません。
船旅を企画して出港したのに,いくら突風があったとはいえ,2時間や3時間でマストが折れてしまったというのは,本当のことだったか疑わせるような要素になると思います。ただ文脈を検討してみると,この船はそれほど手入れが行き届いていなかったコンスタンティンConstantijin Huygensのヨットだったという可能性が高く,それならそうなってしまったということもあり得るでしょう。なのでこの部分は,史実であったとしてもおかしくないですし,そうではなくヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作であったとしても,著しく不自然であるとはいえないことになるでしょう。
最後の晩に上演されたのがアリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙Βάτραχοι』です。ファン・ローンJoanis van Loonは我々はそれをフォンデルJoost van Voendelの作であるかのように上演したと書いています。このフォンデルというのは詩人でもありまた戯曲も多く書いた人物です。この船旅がされた時期には存命で,おそらく有名であったでしょうから,ローンがこの人の名前を出していることは不自然ではありません。同様に,ヘンドリックがローンが書いたものだという体での創作にこの名前を持ち出すのも不自然ではないといえるでしょう。それからローンは我々は上演したといっているのですから,一行の6人で上演したと解するのが自然でしょう。
スピノザはロープで作ったとてつもなく大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。そしてその上演中に,ヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演したので,一行に招かれて『蛙』を見に来た村人たちが大笑いして足を踏み鳴らしたので,スピノザはアンコールに応えなければなりませんでした。これは実際に応えたという意味に理解できる文脈になっています。
フォンデルの戯曲に『蛙』が実際にあったのかどうかは分かりません。ローンの記述ではフォンデルの作であるかのように上演したとなっているのですから,実際にそうした戯曲があるかないかは問わなくてよいでしょう。ただ,そうであるかのように上演したということは,フォンデルの戯曲が演劇として上演されるときに,どのような演出の下で上演されるのかということは,少なくともローンの念頭にはあったということでなければなりません。
さらに畠中は,この時期はスピノザに限らず,多くの人びとが思想的内容の手紙を書くことに用心していたのであって,そうした手紙を受け取ったら,直ちにそれを破る習慣だったという意味のことをいっています。そうしたことが確かにあったかもしれませんが,スピノザのこの時期の書簡が少ないことについてこれを該当させられるかということについてはやや疑問も感じます。これ以前にもこれ以後にも,思想的内容の手紙というのをスピノザは受け取ったり自身で書いたりしていて,それは残っているのです。この時期に書かれたものだけに用心する必要があって,過去のものには用心する必要がなかったという理由が僕にはよく分かりません。たとえばこの時期にスピノザが思想的内容の書簡を受け取って,用心のためにそれを残さずにすぐに捨てるのであれば,それ以前の同じような内容の書簡についても,それを保管しておくことには用心する必要があるからそれも捨てようとするのが自然ではないかと僕には思えるからです。
いずれにしても,船旅が実施されたと思われる時期には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』はすでに発刊されていたわけですから,その執筆に多忙であったからスピノザが船旅に出るのは不自然であるということはありません。一方でこの状況というのは,むしろスピノザに船旅に向かわせる意欲を高めるようなものだったように思われます。 ヨハン・デ・ウィットJan de Wittが民衆によって虐殺されたのは1672年のことですから,このときはまだ政治の実権を握っていました。しかしオランダの政治状況は騒乱の時代を迎えていたのは間違いありません。実際にクールバッハAdriaan Koerbachはこれより前,1668年には獄死しています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,共和主義者であったデ・ウィットは,民主主義的内容の『神学・政治論』に対して不快の念を表明したとあり,スピノザを取り巻く状況も安全なものとはいえなかったのです。なのでこの時期のスピノザにとって,政治的な意味での有力者と親しく交際することは,自身の身の安全のためにはプラスに働いたと思われます。スピノザ自身がそのような認識をもっていたとしてもおかしくはないのではないでしょうか。
『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡四十一が1669年9月5日付になっていて,これはフォールブルフVoorburgから出されています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死ぬ少し前のものです。次の書簡四十二はフェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の要約をオーステンスJacob Ostensに送ったもので,これは1671年1月24日付です。スピノザはオーステンスを介してこの手紙を読み,フェルトホイゼンに対する反論をオーステンスに送ったのですが,この書簡四十三には日付がありません。書簡四十四は1671年2月17日付でハーグDen Haagから送られています。現行の『スピノザ往復書簡集』は時系列で番号が付せられていますので,書簡四十三は書簡四十四より前で,書簡四十二への返信ですからそれより後です。なので1671年1月後半から2月中旬までに送られていたとみるべきでしょう。
これでみると分かるように,船旅が実施されたと考えられる1670年の書簡というのはありません。これは単に掲載するほどの書簡が存在しなかったからかもしれませんが,別の事情が考えられないわけでもありません。というのは書簡四十二と書簡四十三が『神学・政治論』に関係しているように,『神学・政治論』が発行されたのが1670年だったのです。スピノザが執筆していたのはフォールブルフに滞在していた頃です。というのも1670年の初めには発行されていますので,実際に執筆していたのはそれより前の筈だからです。スピノザはこの発行のタイミングでフォールブルフからハーグへ移ったのですが,この移住が出版と何らかの関係を有していたかもしれません。いずれにせよ匿名で発行されたわけですが,執筆者がスピノザであるということはすぐに噂として流布しましたので,スピノザが思想信条を明らかにするような書簡を書くことを控えていたという可能性があるのです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,『神学・政治論』と直接的に関係させているわけではありませんが,1667年3月から1671年1月までのスピノザが少ないことについて,当局の圧迫や監視を理由のひとつとして挙げています。そしてもうひとつの理由が,『神学・政治論』の執筆による多忙となっています。
それが脚色であるとすれば,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが意図したような脚色になっていないということは,それがヘンドリック自身による純然たる脚色ではないからだと僕は判断します。いい換えればヘンドリックは何らかの資料にはあたっているのであって,その資料にそうしたことが書かれているから,ヘンドリックもそのように書いたのだと判断します。そしてその資料というのは,ファン・ローンJoanis van Loonが書き残したものであったとしか考えられません。そもそも自身の9代前の先祖が書いたものだという設定でヘンドリックが何かを書くということ自体が不自然なのであって,実際にファン・ローンが書き残したものをヘンドリックが入手したから,ヘンドリックはそれを書こうとしたとする方が自然なのではないでしょうか。
ですから,ファン・ローンが何かを書いていた,それも『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の基になるものを書いていたことは間違いないと思います。ヘンドリックがそれを正しく全訳しているかどうかは分かりませんが,ヘンドリックが出版したものの中には,ファン・ローンが書いたものの残骸は間違いなく残っているのであって,ファン・ローンは出版する意図があってそれを書いているとは必ずしもいえませんから,読者に喜んでもらうような脚色を加える必要はありません。もちろんファン・ローンの記憶が確かであるとは断定できませんから,ファン・ローンが史実と異なったことを書いているという可能性は考慮しなければなりませんが,たとえばファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが船の模型をもってきたというようなことは,記憶として鮮明に残る筈なので,実際に書かれていてヘンドリックがそれを誤訳をしていない限り,そのことは実際にあった出来事だと判断していいように思えます。同様に,スピノザがロープで作ったかつらをかぶったというようなことも,記憶違いとして生じるようなことだとは思えませんから,それは同じ条件の下に実際にあったのではないかと思えます。
このことをさらに強化するために,『蛙Βάτραχοι』のプロットというのは,その大筋からして信憑性を疑わせるものとなっているけれども,それは真実であったとしてもおかしくはなかったということを示していきます。
最後のエピソードあるいはプロットは,1654年4月のものです。スピノザはまだユダヤ人共同体の一員で,破門宣告を受けていない時代のことです。
在宅していたファン・ローンJoanis van Loonに,下女が外国人の紳士が面会を求めていると告げました。下女はあの頭のおかしな人の仲間だろうと告げています。そのおかしな人がだれを意味しているか不明ですが,こうした来客がファン・ローンには頻繁にあったのでしょう。ローンは面会したのですが,その外国人紳士というのはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenです。
エンデンは小さな船の模型を抱えていたのですが,これは発明品でした。戦争用の船籍で,軽装備で砲火角度を高める工夫がされていました。ただ,ローンはこのようなことには関心がなかったので,海軍省にもっていくのがよいだろうと助言しました。ところがエンデンはすでに3人の海軍参事官にそれを見せていたのですが,それを吟味しようとすらしなかったとされています。
エンデンはこのアイデアを売りたかったのです。貧しい教師で,足が不自由な娘がひとりいるので,金が必要なのだと告げています。エンデンの娘はクララClara Maria van den Endenという名前で,後にケルクリングDick Kerkrinkと結婚しているのですが,確かに足が悪かったと伝えられています。そして,お門違いと思われるローンのところを訪問してこれを見せたのは,教え子のひとりからローンのことを聞いていて,助けてくれると思ったからだと言いました。この教え子というのはスピノザを意味するのですが,スピノザがエンデンに対してどのようにローンのことを伝え,その話のどの部分からエンデンがローンは自分を助けてくれるだろうと思ったのかはまったく書かれていないので不明です。
この後で,エンデンがいっている教え子がスピノザを意味することがローンにも分かりました。ローンはローンでスピノザから,エンデンは平凡な律法学者やタルムードの教師60人に匹敵すると聞かされていたそうです。なおこの部分でエンデンはスピノザのことを,ポルトガル出のユダヤ人,あるいは単にポルトガル人と表現しています。スピノザの父はポルトガル出身ですが,スピノザに対する表現としてはやや謎です。
『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中の,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して第二のアコスタになるのかと怒鳴ったとされる場面は,ファン・ローンJoanis van Loonが同席していたわけではありません。このときに同席していたのはジャン・ルイJean Louysという人物で,ルイがローンに手紙で伝えた内容です。そしてこのルイはオランダ人です。そのルイがこのように伝えているということは,ルイには第二のアコスタになりたいのかという意味が理解できたからです。つまりルイはウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの末路を知っていたのであり,この伝え方からしてそれはファン・ローンも知っているとルイは前提していたことになるでしょう。つまりダ・コスタの一件は,単にアムステルダムAmsterdamのユダヤ人だけに知られていたわけではなく,この当時の,少なくともアムステルダムに住んでいたオランダ人にも有名な出来事であったということになるでしょう。ですからこのことをスピノザが知らなかったということは考えられないのであり,たとえダ・コスタとスピノザの間に面識がなかったとしても,スピノザは間違いなくダ・コスタのことを知っていたということは断定していいと僕は思います。
ところで,吉田はこの後で『レンブラントの生涯と時代』について触れていて,その内容は後世の創作であると指摘しています。この点をみておきましょう。
『レンブラントの生涯と時代』は,ファン・ローンが書いたものとされていますが,ファン・ローンはこれを公にするつもりで書いたわけではありません。後に説明しますが,このことはその内容とも合致しています。したがってこの本はファン・ローンが出版したわけではありません。出版したのはヘンドリック・ウィレム・ファン・ローンHendrik Wilem van Loonという人物で,これはファン・ローンからみて9代後の子孫にあたります。ですから出版されたのは1930年になってからであり,ニューヨークで,英語で発刊されたのです。ローンはオランダ語ないしはラテン語で書いていたので,ヘンドリックがそのオランダ語,しかもスピノザの時代に使われていたオランダ語かラテン語を英訳したことになっています。そしてこのヘンドリックというのは作家です。
グツコウKarl Ferdinand Gutzkowの戯曲はあくまでも戯曲ですから,創作です。戯曲に書かれている会話がダ・コスタUriel Da Costaとスピノザとの間であったことはあり得ないのはもちろん,実際にスピノザとダ・コスタが顔見知りで,何らかの会話を交わすことがあったということでさえグツコウの創作であると解さなければなりません。とくにこの会話の中で,スピノザはアコスタすなわちダ・コスタのことを,オーハイムと呼びかけます。このオーハイムというのは古いドイツ語で,母親の兄弟,すなわち母方の伯父ないし叔父という意味があったそうです。つまりグツコウの戯曲の中では,ダ・コスタがスピノザの母の兄弟という設定になっています。スピノザの母はハンナですが,ダ・コスタがハンナの兄弟であったわけではありません。このことから最もよく理解できるように,これは完全な創作なのです。
しかし吉田が指摘しているように,ハンナとダ・コスタは,きょうだいではなかったとしても,ハンナの一族とダ・コスタの一族は,遠縁だけれども親戚関係にあったという説があります。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,少なくともハンナの一族もダ・コスタの一族も北ポルトガルから迫害を逃れてアムステルダムAmsterdamにやってきたのであって,ポルトガル時代まで遡ると,両一族に何らかの関係があったと考えられるといわれています。
さらにこれとは別の関係があります。スピノザの父であるミカエルは,アムステルダムのユダヤ人共同体において,理事会の役職についていたことがあったのですが,1637年から1638年にかけてはウリエルの弟であるアブラハムが同じ役職に就いています。さらにこのふたりは,1642年から1643年にかけては,ユダヤ人の学校の評議員を務めています。したがって,スピノザの父とダ・コスタの弟は,間違いなく知り合いであり,おそらく会話を交わすような間柄であったと思われます。
これらのことを踏まえれば,スピノザとダ・コスタの間に面識があったというグツコウの設定自体は,それほど不自然なものではないだろうと吉田はいっています。ウリエルとアブラハムが仲のよい兄弟だったかは分かりませんが,不自然でないのは確かでしょう。
スピノザはユダヤ教会から破門された後は,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人とは接触していなかったと思われます。ユダヤ人共同体でそのことが禁止されていましたし,スピノザからそれを望むということがあったとも思えないからです。したがって,スピノザとレベッカRebecca de Spinozaが最後に会ったのは,スピノザがユダヤ人共同体から追放される前であって,それ以降は接触していません。ですからそれ以降はスピノザはレベッカがどこで何をしているか知らなかったでしょうし,レベッカもスピノザがどこで何をしているのかは知らなかったと思うのです。もっとも,スピノザはオランダでは一定の知名度があったようですから,レベッカの方はスピノザのことを伝え聞くということがあったかもしれません。しかしスピノザがレベッカについて何かを知るということはまったくなかったでしょう。
なので,おそらくスペイクは,スピノザにレベッカという姉あるいは妹がいるということを知らなかったでしょうし,ダニエルDaniel Carcerisという甥がいるということはなおのこと知らなかっただろうと思います。よってスピノザが死んだということを,スペイクがレベッカなりダニエルなりに知らせるということはできなかったと思います。一方,スピノザが死んだときにはマイエルLodewijk MeyerかシュラーGeorg Hermann Schullerのどちらかがそれを見守ったのですから,スピノザの友人たちは早い段階でスピノザの死を知ることになったでしょう。そうした友人の中には,スピノザがまだ破門される前からの商人仲間であったイエレスJarig Jellesがいました。なのでイエレスはたぶんスピノザの親族と面識があり,少なくともスピノザと一緒に商店を経営していた弟のガブリエルのことは知っていたのではないかと思われます。それ以降も連絡を取り合っていたかは分かりませんが,スピノザが死んだということを伝えることくらいはできたと思います。とくにレベッカはスペイクの家に行ったのですから,単にスピノザが死んだということを知るだけではなく,スピノザがどこに住んでいたのかということまで知ったとしなければなりません。そうしたことから考えると,スピノザの知り合いからスピノザの死を伝えられた可能性が高いかもしれません。
ミリアムMiryam de Spinozaが結婚したのは1650年6月で,これは婚姻届が残っているので確実です。その相手がサムエル・カルケリスSamuel Carcerisであったことになります。そしてふたりの間にダニエルDaniel Carcerisという名の子が産まれたことになります。ところが吉田がいっているところによれば,ダニエルが産まれてすぐにミリアムは死んでしまったのです。よってサムエルはダニエルという幼子と残されることになりました。なのでダニエルは再婚したのですが,その再婚相手がレベッカRebecca de Spinozaだったのです。ですから,ダニエルの母はミリアムであって,戸籍上はそうなっているのでしょうが,レベッカとダニエルの関係は,叔母と甥というより,母と息子という関係に近かったと思われます。たぶんダニエルは実の母であるミリアムの記憶はまったくなかったと考えられますので,ダニエルとレベッカの結婚が,ミリアムが死んでからそれほど時を置いてのものでなかったとすれば,ダニエルにとってレベッカは,叔母というより実の母に近かったものと思われます。
前にもいったようにレベッカはこの後,キュラソー島に移住します。そのとき,ミカエルとベンヤミンという息子と一緒だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあります。つまり,再婚したサムエルとレベッカの間には子どもがありました。さらにハンナという娘もいたと確定的に記されています。たぶんハンナは結婚したので,キュラソー島には移住しなかったのでしょう。ところが共同相続人としてレベッカとともに名前が出ているのはダニエルだけで,ハンナ,ミカエル,ベンヤミンの名前はありません。ハンナがどうなったかは分かりませんが,ミカエルとベンヤミンはキュラソー島に移住したので,スピノザが死んだ時点で生きていたことは確実です。なのに共同相続人として名前がないのは,たぶん制度上のことだと思います。ダニエルはミリアムの子で,ミリアムはすでに死んでいたのでその子どもとして叔父の遺産の相続人にはなり得るのですが,レベッカは健在だったので,レベッカの子どもたちは共同相続人としての権利がなかったのでしょう。このように考えないと,共同相続人がふたりだけであったことの説明がつかないように思えます。