スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
19日に指された第32期倉敷藤花戦 三番勝負第一局。対戦成績は福間香奈倉敷藤花が30勝,伊藤沙恵女流四段が11勝。
振駒 で福間倉敷藤花の先手となり,5筋位取り中飛車。後手の伊藤女流四段が向飛車にして相振飛車 。先手が左玉から6筋の位も取るという力戦になりました。
ここで☖5三金と上がりました。先手の玉頭から攻めようという目論み。察知した先手は☗5八王 と引きました。
手の流れからは☖6四歩と突くのでなければならないのですが,それが無理ということで☖6一飛と回りました。ただそのために先に先手から☗8五歩と攻められ,苦戦を招きました。
図では☖2四歩と突いて2筋の突破を目指していくのがよかったようです。突破できるわけではないのですが,受けるためには先手は☗3六歩から桂馬を跳ねて☗2九飛と回らざるを得ず,8筋からの攻めを緩和できる上に角筋も通っていて,後手も戦えたようです。
福間倉敷藤花が先勝 。第二局は来月25日に指される予定です。
第三部諸感情の定義一三 の感情 affectusは,それ自体でみられるときは不安 metusと訳されるより恐怖metusと訳される方がよいので,畠中が恐怖という訳を選択していることにも一理あります。ただこの場合はとくに第三部諸感情の定義一三説明 でいわれていることに注意しなければならないのであって,この恐怖は単に希望の反対感情 であるばかりでなく,常に希望spesという感情とともに同じ人間の精神mens humanaのうちにあるのです。
僕が示した例でいえば,死の恐怖に怯えている人間の精神のうちに希望が同時に存在するというようには考えにくいのではないかと思います。しかし実際はそうではなく,死が不確かなものである以上はそこに希望が存在しているのです。これは,もし死が確実視されるものとして表象される場合は,その感情は恐怖,僕や吉田の訳でいえば不安といわれるのではなく,第三部諸感情の定義一五 の絶望desperatioに該当するということに注意すれば分かりやすいでしょう。不確かな死への恐怖に怯えている人間のうちには,希望,生きることへの希望が同時に存在しているのです。他面からいえば,人間は生きることへの希望を有しているから,死への恐怖に怯えることができるということになるのです。
これは僕が糖尿病を発症し,救急車で病院へ運ばれる前に自宅でほぼ寝たきりの状態になっていたときにもいったことですが,『悪霊 』のキリーロフ の自殺を例示したときにいったことを想起すればよく分かると思います。キリーロフの自殺はキリーロフ自身の人神思想 に由来しているのであり,その人神思想によれば,死の恐怖を克服した人間が神になることができるのです。キリーロフは自身が死への恐怖を克服した,すなわち神になることができる人間であるということを証明するために自殺したのです。しかしそれは,キリーロフの中に生きることへの希望がなかったということを意味するのであって,生への希望を失っている人間が自殺することは,是非は別として凡庸なことだと僕には思えます。自身が生きていくことへの希望をいっかな失ってしまっている人間が,どうして自分の死に怯えることができるでしょうか。
このように,恐怖は常に希望とともにあるのです。
17日に指された第14期女流王座戦 五番勝負第二局。
西山朋佳女流三冠が先手で居飛車を選択。後手の福間香奈女流王座のごきげん中飛車 で①-Aに。中盤で先手にうっかりがあり,大差になってしまう将棋でした。
先手が2三に銀を打ち,後手が4四の銀を引いた局面。先手の☗2三銀では☗1五銀と打つ方がよかったようです。
先手はここで☗4五銀と出ました。☗2三銀からの流れとしては当然なのですが後手に☖8四飛と回る返し技がありました。
☗3四銀引成 としたものの☖7六銀が炸裂。☗同歩☖8八角成☗同玉☖5五角で王手飛車が決まりました。
この順をうっかりしていたので☗2三銀だったので,事実上の敗着はそこにあったといえるでしょう。
福間女流王座が連勝 。第三局は来月5日に指される予定です。
僕が第三部諸感情の定義一三 で示されている感情 affectusを不安 metusと訳しているのはこのような理由です。一方,吉田も不安と訳しているわけですが,その理由は説明されていません。もっともこれは講義がベースとなっているわけで,講義の教科書として岩波文庫版の『エチカ』が使われているわけではありません。ですから聴講生が岩波文庫版では恐怖metusという訳が与えられているということを知っているということが前提となっていないので,吉田が講義の中でその理由を説明していないのは当然であって,むしろ説明した方が不自然だといわなければなりません。ただ,吉田が岩波文庫版の訳を知らないということはあり得ないですから,それと異なった訳を与えていることに理由がないということもないでしょう。そしてそれを推測すれば,僕が示したような理由とそう大きな差はないだろうと思われます。
一方,畠中は不安ではなく恐怖という訳を与えたわけですが,ラテン語の原語が日本語としてどのような意味に該当するのかということを別にしても,この感情に恐怖という訳を与えていることに理由がないわけではないと僕は考えています。というのも,僕が説明した不安という感情が『エチカ』で有しているような特別の事情というのを考慮せず,この感情をただこの感情して,つまり不確かな過去や未来と関係するような悲しみtristitiaとしてみた場合には,この感情は不安といわれなくもないのですが,恐怖といわれるのが常であるということができるからです。たとえば僕たちが不確かな未来に関する何らかの悲しみ,分かりやすいところで僕たちが死んでしまうということに関するような悲しみは,死への不安といっても成立しないことはないですが,死への恐怖といわれるのが常であるといえるでしょうし,この感情そのものに着目した場合には,その人間が自分の死に不安を感じているというより,自分の死に恐怖を感じているといった方が,ことばとしてはその人間の心情を正しく説明しているといえるでしょう。なのでこの感情は,その感情自体を注視する場合には不安と訳すよりも恐怖と訳した方が適切なのであって,畠中が何か過ちを犯しているというわけではありません。
15日と16日に摂津峡花の里温泉で指された第74期王将戦 七番勝負第四局。
藤井聡太王将の先手で角換わり相腰掛銀 。後手の永瀬拓矢九段が序盤の段階で新手を出し,中盤以降は先手が駒損で攻める展開。先手の攻めが繋がるかどうかが勝敗の最大のポイントとなりました。
ここで先手は☗3四銀 と打っていきました。☖3三歩と打たれれば☗2五銀と逃げるわけにはいかないでしょうから,思い切った一手。
☗5三香☖6二金☗4二銀☖3二玉☗5一銀不成☖4一香 ☗4二歩成☖同香☗4三歩と攻めを続けました。
ここで☖同香だと先手の攻めが繋がるのですが,☖5一飛と銀を取るのが絶妙の受け。これで☖6九銀と反撃する手が生じたため後手の勝ちになりました。上図以降の手順の中で,先手に誤算があったということでしょう。上図では☗4六香ないしは☗4七香と指すのがよく,それは先手に分がある戦いだったようです。
永瀬九段が勝って 1勝3敗。第五局は来月8日と9日に指される予定です。
神 Deusが個物 res singularisを現実的に存在させざるを得ないのは,そこに神の思惟作用が介在するからではありません。神は自己原因 causa suiですから,第一部定理一 にあるように,その本性essentiaに存在existentiamが含まれています。これは,存在する力 potentiaを本性に含んでいると読み替えることができます。実際にスピノザは第一部定理三四 で,神の力と神の本性を等置しています。そしてこの力が現実的に表現されるときは,個物が現実的に存在するという様式で表現されることになるのです。つまり画家が絵画を表現しないわけにはいかないというのと同じ意味で,神は個物を現実的に存在させないわけにはいかないのです。他面からいえば,第一部定理一六 にあるように,神は無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものを生じさせないわけにはいかないのです。
表現という観点からさらに注意を促しておけば,画家は絵画を描かないわけにはいかないとしても,物理的な面から描くことができなくなってしまうということはあり得ます。たとえば事故で腕をケガしてしまい,物理的に描くことができなくなるということはあり得るからです。しかし神にはそのような障害が生じることはありません。いい換えれば,画家には表現を阻害するような外的原因が発生する場合を否定するnegareことはできないのですが,神の場合はその表現を阻害するような外的原因が発生するということを考えなくてよいのであって,この表現が中断されるとか停止されるといったことを考えるconcipere必要はないのです。したがって存在する力の源泉としての神は,永遠aeternumから永遠にわたって表現するexprimereのであって,個物という様態modi,吉田の表現に倣えば個物モードの神を永遠から永遠にわたって表現するということになり,それは何らかの思惟作用によって表現する,つまり表現してもいいししなくてもいいが表現するとか,表現することもできるし表現しないこともできる中で表現するというわけではなく,表現せざるを得ないというような様式で表現するのです。
ドゥルーズは『スピノザと表現の問題 Spinoza et le problème de l'expression 』の中で,スピノザの哲学における表現という概念notioの特殊性および重要性を説いていますが,この部分の吉田の指摘はそれと同一のものと解してよいでしょう。
11日に有楽町朝日ホール で指された第18回朝日杯将棋オープン の決勝。近藤誠也八段と井田明宏五段は公式戦初対局。
振駒で井田五段の先手となり雁木。後手の近藤八段の矢倉という戦型に。中盤は互角の戦いが続きました。
ここで先手は☗5八銀と引きました。これは☖4六銀と打たれたら☗6七玉と逃げようという意図だったと思われますがすかさず☖7六歩と打たれ,一気に苦戦となってしまいました。
☖4六銀を牽制するのであれば☗5八玉と引いて後手玉方面に角を利かす方がよかったですし,この局面は☗7四角から攻め合っても相当にいい勝負であったようです。
近藤八段が勝って優勝。デビューから9年4か月で棋戦初優勝となりました。
このように考察を進めてくると,このことは以前に検討した,スピノザの哲学における神の観念 idea Deiの位置づけということと関連してくるように思われます。
スピノザはシュラー Georg Hermann Schullerに宛てた書簡六十四 において,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態は絶対に無限な知性intellectus,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態は運動motusと静止quiesで,延長の属性の間接無限様態は全宇宙の姿facies totius Universiであるといっています。これは書簡六十三 で,チルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausがシュラーを介して尋ねた質問への解答です。チルンハウスはそこで,両属性の直接無限様態と間接無限様態は何であるかと質問しているのですが,なぜかスピノザは思惟の属性の間接無限様態については解答していません。それがなぜなのかということを,河合徳治は『スピノザ哲学論攷 』の中で検討しています。
河合によれば,思惟の属性の間接無限様態は神の観念なのです。ただしそれは,神のうちにある神の観念なのであって,それを人間は認識するcognoscereことができません。なのでスピノザはそれが何であるかを示すことができなかったのです。
第一部定理二三 によれば,間接無限様態は永遠aeternumかつ無限infinitumでなければなりません。神のうちにある神の観念は確かにこの要件を満たしているといえます。なので現在は僕も河合説に傾いているのですが,このことは今は考慮しないで構いません。それが思惟の属性の間接無限様態であるか否かということを別としても,河合は神のうちには神の観念があって,しかしそれは人間には認識することができない観念であるとみているのは間違いないのであって,この点では基本的に僕と同じ考え方を有しているということになるでしょう。つまり第一部定義六 を余すところなく表現するexprimere十全な観念idea adaequataというのが存在するのであり,しかしそれを人間は認識することができないということは,僕に特有の考え方であるわけではないということになります。
同じような見方は,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も有していると僕は考えています。スピノザは第一部定理二一 を証明する中で,ひとつの例として思惟の中に神の観念が生じるという仮定を出しています。そのとき,畠中はこの神の観念の部分に注目するべき訳注を付しているのです。
5日と6日に立川で指された第74期王将戦 七番勝負第三局。
永瀬拓矢九段の先手で角換わり。先手の腰掛銀に対し後手の藤井聡太王将の右玉 という戦型になりました。
この将棋はAIの判断と人間的な判断の差が大きく出る一局でした。
後手はこの局面で☖3六歩 と打ちました。囲碁将棋チャンネルのAIによればこの手は疑問手。ここは☖5五歩が最善でそれなら互角。この手によって先手が60-40ほどのリードを奪っていると示しました。
そこから15手ほど進んで下図に。必然の進行ではありませんが,上図で後手が想定していた局面のひとつで,この順を最も深く読んでいたのではないかと推測します。ここまで進んでAIは先手が70-30に近いリードという判断。
ここで☗6二銀不成☖同金と捨てて☗5一飛と打つのがAI推奨の手順で,これがリードを保つ唯一の手段。ただこの手は人間には思い浮かび難い手で,実戦も時間を残していた先手はさほど時間を使わずに☗4四桂と取っています。しかしこの手だとAIは後手有利を示しました。
下図で☗6二銀不成は浮かびにくいので,後手もこの順に進めたわけですし,先手が逃したのは仕方がないと思います。なので上図での☖3六歩はむしろこの将棋の勝着といえるでしょう。その時点で下図まで読み,そこで☗4四桂なら後手玉が簡単には寄らないということまで読んでいた後手の読みが素晴らしかったと思います。
藤井王将が勝って3連勝 。第四局は15日と16日に指される予定です。
神 Deusがなければ延長の属性Extensionis attributumはあることも考えるconcipereこともできないということは明白であるとしても,延長の属性がなければ神はあることも考えることもできないということについては,いくらかの疑問をもたれる方がいらっしゃるかもしれません。たとえば思惟の属性Cogitationis attributumは神の本性essentiaを構成するのだから,思惟の属性があれば神はあることも考えることもできるので,別に延長の属性がなかったとしても,神はあることも考えることもできるというようにいうことができそうだからです。しかし実際はそうではありません。なぜそうではないのかということは,ふたつの観点から考えることができます。
まず第一点として,第一部定義六 により,神は無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成されるのでなければなりません。よって神があるためには,また神を十全に概念するconcipereためには,無限に多くの属性があるということを十全に概念する必要があるのであって,その無限に多くの属性のどれひとつが欠けても,神はあることも考えることもできないといわなければならないでしょう。そこでもしも延長の属性が神の本性を構成する無限に多くの属性のひとつであったとしたら,それがなければ無限に多くの属性によって本性を構成される神はあることも考えることもできないでしょう。したがって延長の属性がなければ,神はあることも考えることもできないという結論になるのです。
ただし,第二部公理五の意味 からして,僕たちが認識するcognoscereことができる属性は,思惟の属性と延長の属性だけである上に,第一部公理五 により,ある属性の認識 cognitioは他の属性の認識には依存しません。したがって,延長の属性によってありまた考えられる神というのは,無限に多くの属性によって本性を構成される神というよりも,延長の属性によって説明される限りでの神です。こう考えれば,延長の属性がなければ神があることも考えることもできないということは明白でしょう。延長の属性によって説明される限りでの神が,延長の属性なしにあることができるわけはないですし,考えることもできるわけもないからです。
このふたつは実は違った観点を有しているのではないかと僕は思っています。
高知市文化プラザかるぽーと で指された昨日の第50期棋王戦 五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋王が6勝,増田康宏八段が1勝。
振駒 で藤井棋王の先手となり角換わり 。後手の増田八段が早めに6筋の位を取ったので,腰掛銀になる前に先手から仕掛けていく将棋に。中盤は後手から攻めのタイミングを窺う展開になりましたので,作戦としては後手の方が成功していたように感じられました。
ここで後手は☖8七歩と垂らしました。先手は☗3九飛と寄りましたが,これが後手の想定にはなかったようです。
後手から狙いの攻め筋として,☖4四飛があります。☗同角☖同角で9九の香車を狙うというもの。また☖4四飛に☗同角と取らないなら,☖4七飛成~☖3八銀があります。ただ☗3九飛と寄られると,後者の筋は封じられている上に,前者の筋も☗3一飛という反撃筋を与えているため,この図ですぐに☖4四飛とするより後手の条件が悪くなっています。なので後手はその筋を指さずに受けに回ったのですが,実戦の変化は先手に分があるものでした。なので後手は図の局面かその前の段階で☖4四飛を決行しておかなければならなかっということになるでしょう。
藤井棋王が先勝 。第二局は22日に指される予定です。
第一部定義三 が実体substantiaの要件を構成するとするなら,実体であり得るものは,他に原因causaを依存して存在するものであってはなりませんし,それを認識するcognoscereために他に原因を依存するものであってはなりません。つまりそれ自身の原因がそれ自身でなければなりませんし,それを概念するconcipereために必要とするのもそれ自身の観念ideaだけでなければなりません。そしてこの要件を満たし得るのは神Deusだけです。なのでスピノザの哲学では,第一部定理一四 にあるように,実在する実体は神だけであるということになるのです。
ではこの考察で実体として仮定していたネコは何なのかということが問題になるでしょう。吉田の講義ではこれをスピノザの哲学とだけ関連させて説明していますので,ここではその点をもう少し詳しく説明していきます。
まずこの種の実体に最も近い哲学上の概念として僕が思いつくのは,イデア ideaといわれるものです。イデア論はプラトンPlatoが主張した学説で,古い歴史を有します。簡単にいえば,この世界において実在的なものをイデアと称し,僕たちが知覚するpercipereものはイデアに似たものだとする考え方です。ネコの例でいえば,ネコというイデアが実在していて,僕たちは諸々のネコを知覚するけれど,それはすべてネコというイデアの似た姿を有しているからで,そのイデアの似姿をしているもののことを僕たちはすべからくネコと称するとする説です。このように考えれば,ネコという実体があって,個々のネコはその実体であるネコの変状affectio,すなわち様態modiであるというように解することができるでしょう。そしてこれはネコにだけ妥当するわけではなく,イヌであろうとウマであろうと妥当することになりますから,この種のイデア論は,確かにネコを,あるいはイヌそしてウマを,実体として規定しているとみることができると思います。
この種のイデア論は,イデアそのものの認識cognitioが真の認識であるということを結論として導かざるを得なくなるので,事物は一般的に認識される方がより明瞭判然と認識されることになります。この点はスピノザの考え方と正反対です。よってこの種のイデア論は,スピノザの哲学とはきわめて相性が悪いことになります。
一昨日と昨日,伏見稲荷大社 で指された第74期王将戦 七番勝負第二局。
藤井聡太王将の先手で永瀬拓矢九段の横歩取り 。実戦的には後手の方が指しやすい将棋であったように僕には思えました。
ここで先手が☗2四歩と打ったのですが,この手は後手の予想になかったようです。
☖同歩と取るのは当然で,☗同飛。そこで☖2二歩 と下から受けたのですが,この手が問題だったようです。
これはいずれ☗2三歩と打たれたら☗2二歩成を放置するわけにはいかないので☖同歩と取ることになるでしょう。ただ☖2二歩の局面ですぐに打つ必要は先手にはなく,いずれ好機に打てばよく,実戦はそのように進みました。
☖2二歩でなく☖2三歩だとそのようにはいかず,先手は☗同角成を決行するか,☗9二歩成☖同飛☗8四飛のように進めるかすぐに決めなくてはなりません。その分だけ後手に得があるので,ここは☖2三歩の方が優っていたことになりそうです。
藤井王将が連勝 。第三局は来月5日と6日に指される予定です。
第一部定理一四系一 では,神 Deusは唯一 であるといわれています。これを理解するときに重要なことは,この唯一というのは数を示すわけではないということです。つまりこれはふたつでもみっつでもなくてひとつであると解するのは危険なのであって,むしろ神は数によっては示すことはできないと解する方が安全なのです。なぜなら,これは『スピノザと表現の問題 Spinoza et le problème de l'expression 』でドゥルーズGille Deleuzeが強調していることですが,もしもあるものを数によって区別することができるのであれば,その区別distinguereは様態的区別であって実在的区別ではないからです。他面からいえば,実在的にrealiter区別されるものは,本来的には数によっては区別することができないのです。
ある属性attributumとそれと別の属性は実在的に区別されます。なので本来的にはこのある属性と別の属性はふたつの属性であるというのは,あまり好ましくないいい方なのです。むしろある属性は唯一の属性であり,別の属性もまた唯一の属性であると解する方が適切です。僕たちはことばの上ではこのようにある属性と別の属性を示すことはできますが,第一部公理五 によって,これらの属性の認識 cognitioにそれらの属性は関連しません。ある属性を認識するcognoscereことによって別の属性を認識することができるわけではありませんし,別の属性の方を認識することによってある属性の方を認識することができるようになるわけではないからです。
このことから理解できるのは,第一部定義六 により,神の本性essentiamは無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されるわけですが,この無限に多くのというのは数を示すわけではないということです。むしろ無限に多くの唯一の属性がある,あるいは同じことかもしれませんが,唯一の属性が無限に多くあると解する方が適切なのです。僕たちは延長の属性Extensionis attributumとその延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumだけを認識するので,その延長の属性と思惟の属性によって本性を構成される実体substantiaとして神を認識することになります。このことは延長の属性にだけ妥当するわけではなく,一般にXの属性の様態はXの属性とそれに対応する思惟の属性によって神を認識するのであって,そのような仕方で神は唯一であるという認識に最終的に至るのです。
一昨日と昨日,掛川城二の丸茶室 で指された第74期王将戦 七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王将が18勝,永瀬拓矢九段が7勝。千日手が2局あります。
掛川市長の振駒 で永瀬九段の先手となり相掛り 。後手の藤井王将の玉型の関係から先手が早々に1筋から仕掛け ,先手が歩を損する代償に後手の陣形を愚形にするという戦いになりました。
ここは先手にとって岐路の局面。実戦は☗7一角 と打ちましたが,☗1二角も有力手で,実戦の進行からするとそちらを選択するべきだったと思われます。というのはこの手には☖9二飛と逃げる手があり,これが後の☖9五角を見据えた逃げ場所になっていたからです。
この後,先手は5三で清算。後手が銀ではなく金の方を渡したので☗8二金から飛車金交換となり,下図の局面に進みました。
囲碁将棋チャンネルのAIによれば,この局面は☗6六飛と寄り,☖6四香が絶好にみえるのですが☗6五飛☖同香に☗4五桂と打てば先手に分がある戦いであったそうです。ただこれは非常に難解な手順なので,選べなかったとしても仕方がないように思えます。なので勝敗の帰路は上図の方にあったのではないでしょうか。
藤井王将が先勝 。第二局は25日と26日に指される予定です。
スピノザの哲学と主知主義の親和性は,以下の点にみられると僕は考えています。
スピノザの哲学では,神 Deusの本性 naturaの必然性necessitasから無限に多くのinfinitaことが無限に多くの仕方で生じることになっています。これは第一部定理一六 にみられる考え方です。したがって,ある事柄が神の本性の必然性に即しているということであれば,その事柄はすべて必然的にnecessario生じるのです。これに対して,ある事柄が神の本性の必然性に反しているのであれば,その事柄が生じることはありません。このことが不変の法則として成立していることになります。
スピノザはこのことを神の完全性perfectioと関連付けて説明するのですが,これについては何度もいってきたことですからここでは繰り返しません。ただ,主意主義と主知主義,吉田の分類によれば神の全知および全能と関連させていえば,もし神がなし得ることのすべてをなすのであれば神は全能といえるが,なし得ることの一部しかなさない神は全能とはいえないというのがスピノザの考え方になるのです。よって,もし神が真理veritasを虚偽falsitasにすることができるのに,それをなさないというなら,神は全能であるといえないことになります。なので自由意志voluntas liberaによって神にはそれができるという立場を採用しなければならない主意主義とは,この点でもスピノザは訣別しているといえるでしょう。
一方でスピノザがいう全知というのは,神の本性の必然性に即した全知を意味するのであって,神の本性の必然性に反することまで含めたような全知ではありません。神の本性の必然性に反するようなことは何も生じないのですから,もしそうしたことが認識されるなら,いい換えればそうしたものの観念ideaがあるのなら,その観念は誤った観念idea falsa以外の何ものでもありません。つまり神が全知であるということは,神のうちには無限に多くの真の観念idea veraがあるということであり,同時に神のうちには一切の誤った観念はないということでもあるのです。よってもしも主知主義がこの点を肯定するaffirmareのであれば,つまり神は全知であるとはいっても,それは神が不条理な事柄を認識するcognoscereという意味ではないというのであれば,スピノザの思想は主知主義的だといえるでしょう。
24日に放映された第32回銀河戦 の決勝。対局日は9月27日で対戦成績は丸山忠久銀河が2勝,藤井聡太竜王・名人が1勝。
藤井竜王・名人の先手で丸山銀河の一手損角換り 1-Ⅰ。相腰掛銀の将棋になり,猛スピードで進みました。途中で互いに手損を繰り返したので,通常の角換り相腰掛銀でも出現する将棋に。
ここで先手は☗9一飛成と香車を取りました。これは☗4三香を狙った手ですが,その手自体がそれほど厳しくないので後手は☖8八歩と攻め合いに転じました。先手は☗同銀と取ったのですが☖4五角と打つ手が厳しく,後手の勝勢になりました。
図の局面で攻め合うのならすぐに☗4三角と打ち込んでしまうのがよかったようです。また☖8八歩には☗同金と取る方が粘れました。
丸山銀河が優勝。実際の対局日は後ですが,放映日の関係で今期の達人戦以来となる15回目の棋戦優勝。銀河戦は昨年 からの連覇で2度目の優勝となりました。
吉田によればステノ は最初の先駆的論考において,自身の地質学の研究と,聖書の記述をすり合わせるために苦心しているそうです。この論考が出版されたのは1669年で,このときにはステノはカトリックに改宗していたのは間違いありません。ステノは熱心なカトリックの信者でしたから,カトリック信者の立場からそのように苦心するのは,ステノとしては当然のことであったでしょう。
この当時,年数に関連する聖書の中の記述を合算すると,おおよそ天地創造から5700年ほどだとされていて,これは定説のようなものになっていました。そこでステノは先駆的論考の中で,地球の表面を覆っている地層が,5700年という時間のうちにできあがったことにしようとしています。
しかし5700年という年数に縛られたまま地層学の研究を継続していたら,その研究はすぐに行き詰まりを迎えていたことでしょう。地道に地層学の研究を続けていけば,地球の姿が5700年などという短い時間ではなく,もっと長大な時間をかけて成立したであろうということは,ステノにも分かってくる筈だからです。というか,吉田はすでに先駆的論考の中で聖書の記述に一致させようと苦心しているといっているのですから,そのことにはステノはすでに気付いていたとみてよいように僕には思えます。
聖書に記述されている時間については,至るところで破綻しているということは,『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』の中でスピノザが指摘しています。したがってスピノザは,地層学的な見地を何かもっていたというわけではないのですが,天地創造から5700年という説については否定していたことになります。もっともスピノザは,神Deusを永遠aeternumと考えているわけであって,自然Naturaが,とくに能産的自然Natura Naturansについては時間tempusには縛られない,いい換えれば持続するdurareものではないとみているので,天地が創造されたということ自体を否定しているとみるのが,この場合の解釈としては妥当でしょう。
それはともかく,ステノが地層学の研究を続けていれば,聖書の前提にしがみついて研究を断念するか,研究を尊重して聖書に限界を認めるかの,二者択一を迫られることになったでしょう。
昨日の第50期棋王戦 挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は増田康宏八段が1勝,斎藤明日斗五段が1勝。
振駒 で増田八段の先手。後手の斎藤五段が横歩取りを志向したと思われますが先手が早々に拒否したため,相居飛車の力戦形に進みました。
この局面が最も重要な分岐だったようです。
後手は☖2八銀不成として駒を取りにいきました。先手は☗2四歩で攻め合いに。これは☗2三歩成☖同玉☗2八飛と王手で銀を取る手を狙いとしているので受ける必要があり,☖2九銀成としました。ただそれでも☗2三歩成以下の攻めが厳しく,後手が非勢に陥りました。
ここでは☖6五歩と突く手があり,そう指されると先手は☗5八歩と受ける予定だったようです。これだと上述の変化のうち☗2八飛という手がなくなります。よって後手は実戦とは別の手順を模索することができ,それならまだ大変だったようです。
勝者組の増田八段が勝って挑戦者に 。プロ入りから10年2か月で初のタイトル戦出場を決めました。第一局は来年2月2日に指される予定です。
吉田が想定しているのは,ステノ Nicola Stenoはおとり捜査のような仕方でチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausからバチカン写本 を読ませてもらい,それがスピノザが書いたものだと思ったから,チルンハウスを問い詰め,チルンハウスがそうであると告白したということです。この想定は,おとり捜査という部分,すなわち吉田が発刊されたバチカン写本の解説から読み取っているところが正しいなら,見当外れの想定とはいえないと思われます。ですからたぶん読ませてもらったその部分だけで,ステノはその内容が危険思想,これはカトリックの立場からみたときの危険思想ですが,そうしたものが含まれていたということは分かったと思うのです。そうでないとそれがスピノザの手によるものだということに感づくことがあり得ないように思えますし,著者がだれであるかチルンハウスに問い詰める根拠にも欠けると思われるからです。
なのでステノは,その内容を精査するまでもなく,これは危険な書物であるというように異端審問機関に伝達することができたと僕は思います。それでもその内容を精査した上で提出したのは,ステノの性格を表しているのではないかと僕には思えます。つまりステノは,バチカン写本の全体の内容を精査しなければ,それを資料として異端審問所に届けることができないような人物だったのではないでしょうか。このことはもしかしたら,ステノが以前は科学者として実績をあげていたことと関係するかもしれません。いい換えれればステノはそれがカトリックにとって危険であるか否かということを精査するときにも,科学的思考をするようなタイプの人だったと思うのです。つまりそれくらいの理知性がステノにはあったのであって,精査した内容がどのようなものであるのかということ,つまりバチカン写本に書かれている内容を,完全にとはいわないまでも一定程度は理解することができたろうと思います。ステノがその内容を精査した上で異端審問所にバチカン写本を提出したということのうちから,僕はこうしたことが読み取れると考えています。
ステノはバチカン写本と自身で書いた上申書を付して提出したのですが,この上申書の方も同時に発見されています。
一昨日と昨日,指宿温泉で指された第37期竜王戦 七番勝負第六局。
佐々木勇気八段の先手で相掛り 。後手の藤井聡太竜王との研究合戦になったようで,ハイペースで指し手が進み,一昨日のうちに終盤の近くまで進みました。
先手が2三の角を成ったところ。狙いは☗8三香。☖6五銀と打てば受けとしては固いのですが,銀を使ってしまうと☖3八歩という後手からの唯一のといっていい攻め筋の迫力が消えてしまいます。ということで後手は☖7四歩と受けました。
ここは先手にふたつの手段があり,ひとつは☗7五桂。☖同歩でも銀が逃げても☗8三香が打てます。無視して攻め合ってくる手もありますので難解ですが,これはこれで先手にとっても有力な変化であったかもしれません。
実戦は☗5五桂 と反対側に打ちました。後手は☖5四銀 と逃げました。そこで☗9五角と打ったのですがこれが失着。☖8四歩と受けられて攻めが続きませんでした。
☗9四角のところでは☗7四馬とするべきでした。これには☖5五銀と桂馬を取るのが普通ですが☗8三香とわざとくっつけて飛車取りに打ちます。これだと☖7二飛と寄るほかないので☗9五角と王手に打つことができます。手筋は☖8四歩☗同角☖7三銀なのですが,そこで☗8二香成という妙手があって攻めが続くのです。この変化はむしろ先手が有望でした。
藤井竜王が勝って4勝2敗で防衛。第34期 ,35期 ,36期 に続く四連覇で4期目の竜王です。
自身がかつてスピノザと親しく交際し,現時点でも疎遠ではないということを明らかにしても,自身の立場には影響しないとステノ Nicola Stenoが考えることができたのは,そうしたことがカトリックの中で問題になることはないと考えたからです。そしてそのように考えることができたのは,カトリックの内部事情はそのようなものだとステノにはみえていたからでしょう。つまりこの部分からは,カトリックの当時の内部事情がどのようなものであったのかということ,少なくともステノにはそれがどのようにみえていたのかということを窺い知ることができるのです。
ステノはバチカン写本 を異端審問所に提出した後,イタリアを離れドイツに移って司祭としてカトリックの布教に務めました。これは実際にカトリックの内部において,ステノの書簡が問題視されなかったことを意味しています。ステノが司祭になったのがいつであったのかということについてはいくつかの説があり,書簡六十七の二 を書いた時点で司祭であった可能性が否定できません。もしそうであったのなら,ステノの書簡はステノが司祭の地位をはく奪されなければならないようなものではなかったということになるでしょう。逆にその時点ではステノは司祭ではなく,それよりも後に司祭になったのだとしたら,司祭になるにあたって書簡は何も影響しなかったということになります。つまりいずれにしてもステノの書簡がステノの立場に影響を与えたということはないのであって,これはステノの見通しが正しかったという意味でもありますが,それと同時に当時のローマカトリックはステノが見通した通りの状況であったという意味でもあります。つまり,司祭があるいは後に司祭になるであろう人が,スピノザとかつて支度し交際し,その後も疎遠な状況となっていたとしても,それが特に問題とはならないような状況に,このときのカトリックはあったわけです。
バチカン写本が提出されることによって,スピノザの遺稿集Opera Posthuma は禁書の扱いになりました。だからカトリックがスピノザの思想を問題視していたことは疑い得ません。なので『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』に示されている思想も問題視されていたと思われます。
一昨日と昨日,和歌山城ホール で指された第37期竜王戦 七番勝負第五局。
藤井聡太竜王の先手。後手の佐々木勇気八段がなかなか態度を明示しませんでしたが,雁木 になり,先手の早繰り銀。後手から攻めていく将棋になりました。
これは封じ手で,この手か☖4五角成の二者択一から選択された一手。先手は☗7九飛と逃げました。後手は☖4五角成でこれは銀取りなので先手は☗4六銀。今度は馬取りですから後手が☖4四馬と逃げました。今度は香取り。なので先手は☗7七銀と引きました。
後手はかなり歩を損していますが,その代償に馬を作ったという局面。これがどうかというところ。
ここから☖5四銀左☗3七桂☖8五桂と攻め合いに。銀取りなので先手は一旦は☗8八銀。後手は☖6五銀と繰り出しました。
ここから☗3四歩☖同馬☗1六角という順が厳しく,すでに後手が悪いようです。なので後手は先手が☗3七桂と跳ねてきたときに☖3六歩と打つ余地を残しておいた方が優りました。よって封じ手は☖4五角成の方がよかったということになるのではないでしょうか。
藤井竜王が勝って 3勝2敗。第六局は来月11日と12日に指される予定です。
チルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausについてもステノ Nicola Stenoについても,僕はその生い立ちのようなものを示しましたし,スピノザとの関係がどのようなものであったのかということも示しています。そしてそのときに,人物評も書きました。ただ吉田の評価は僕の評価と異なったところがあるので,ここでそれを示しておくことにします。人物評というのは立場によって当然ながら変化するものですから,僕の評価だけを示しておくのはある点では不平等であるともいえるからです。
もっとも吉田は,チルンハウスについてはそう多くを語っているわけではありません。そこで語られていることは,チルンハウスがスピノザの晩年の文通相手のひとりであったということと,スピノザが死んで半年ほどが経った後にローマに滞在していたとき,現地で近づいてきたステノに迂闊にもバチカン写本 を見せ,そのまま巻き上げられてしまったということです。吉田はチルンハウスはスピノザの文通の相手としては哲学的な鋭さでトップクラスの人物であったけれど,人間的にはよくいえばオープンで,悪くいえば警戒心に欠如していたと,この一件から評しています。
この吉田の評価の中には重要な点が含まれています。バチカン写本が出版されたときの解説の中には,チルンハウスはおとり捜査のような仕方でバチカン写本を巻き上げられたと書かれていると吉田はいっているわけですから,吉田の評価はこのことを前提としているわけです。したがっておとり捜査というのは,ステノがカトリックの信者であるということをチルンハウスが知っていたか知っていなかったということは別として,ローマを訪れたチルンハウスにステノが接近し,バチカン写本を読ませてもいい人物であるというようにチルンハウスに思い込ませたので,チルンハウスは実際にそうしたのであって,これも吉田のことばを借りていえば,その後に説教師であったステノが得意とする説得によって,チルンハウスがその説得に応じ,バチカン写本を巻き上げられたということになります。
これが解説にある内容なのか,吉田が創作した物語であるかは分かりません。ただ,説得の部分はおそらくといっているので,吉田の見解です。
24日に東京ビッグサイト で指された第45回将棋日本シリーズ の決勝。対戦成績は渡辺明九段が22勝,広瀬章人九段 が16勝。
抽選で選ばれた観客による振駒で広瀬九段の先手。角換わりを志向しましたが飛車先の歩を保留したので後手の渡辺九段が拒否。先手の腰掛銀に後手は雁木から右玉という戦型になりました。後手の模様がよい局面が続いていたと思われますが,先手も離されずについていったまま終盤戦に。
先手はここで☗7六玉と逃げて上部脱出を図りました。しかし☖7四銀☗同歩に☖4三角が厳しい王手となり,後手の勝ちに。
ここは☗8八玉と下に逃げる手があったようです。☖7七歩と打たれてしまうのですが☗7九金と逃げておき,☖9五歩の攻めに☗6九金と寄る手があったようです。これは先手の勝ちとはいえなさそうですが,かなり有望な変化であったように思われます。
渡辺九段が優勝。2019年の日本シリーズ 以来となる12回目の棋戦優勝。2014年 と2018年 も優勝していて日本シリーズは4度目の優勝となりました。
バチカン写本 の解説の中に,この写本を所持していた人物が,ローマでおとり捜査のような手口に引っ掛かり,写本を巻き上げられてしまい,巻き上げた人物が危険思想の書と判断して異端審問の機関に寄贈したということが書かれていると吉田はいっています。吉田は一言でまとめるとそういわれているという主旨の書き方をしているので,実際はもっと詳しく書かれているのだと推測されます。
『スピノザー読む人の肖像 』の考察で示しておいたように,元々の写本の所持者はチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausで,巻き上げたのはステノ Nicola Stenoです。僕はその当時にこれを考察したときに,この経緯がどういうものであったのかということを推測しました。というのも,チルンハウスが所持していたバチカン写本がステノの手に渡るというのは,チルンハウスが自主的にステノにそれを渡すという場合から,ステノが略奪するという場合まで,幅広いケースが考えられるからです。解説の中に,おとり捜査のようなやり口でステノがチルンハウスから巻き上げたと書いてあるなら,何らかの根拠があってそのように書かれていると解するのが妥当なので,たぶんそれが歴史的事実なのだと思うのですが,僕はそれを読んでいませんから,どのような根拠の下にそう書かれているのかを知りませんし,そもそも本当にそのように書かれているかということも分かりません。もしかしたら可能性のひとつとしてそのように書かれていて,講義にあたって吉田がその可能性を選択したということもないわけではないのです。そもそも,このことが明確に分かる根拠があるとすれば,自身がバチカン写本を手にした経緯についてステノが何かを書き残していて,それが発見されたということ以外に僕には思い浮かびません。しかし僕の調査ではそういう事実が出てきていませんので,このおとり捜査説というのは,ひとつの可能性,しかしきわめて高い可能性としてそうであったというように僕はここではいっておきます。
この事情についての推測もしてありますので,そのことはここでは繰り返しませんが,もしも考察するなら,考慮に入れなければならない事情についてはここでも改めていっておくことにします。
15日と16日に茨木市で指された第37期竜王戦 七番勝負第四局。
佐々木勇気八段の先手で角換わり相早繰銀。先手が腰掛銀に組み替える という工夫を出し,後手の藤井聡太竜王が対応に時間を使う将棋になりました。
ここから先手は☗9三角と打ち☖9二飛に☗7五角成と馬を作りました。
7筋の歩がなくなったので後手は☖7二歩の受け。先手は☗6四歩☖同歩と突き捨ててから☗9三歩。☖8二飛とさせておいて☗6四馬と取りました。
後手は☖4二角と打ち☗4六馬に☖6四歩。
上の図は馬を作ることができ,駒損の回復も見込めるのですでに先手優勢かもしれません。下の図になって後手は角を使った上に自ら使いにくくしているのですが,受け止められれば悪くないという判断だったのだと思います。しかし下の図から桂馬を取った後で3筋の歩を突き捨て4五に銀を出る攻め筋があり,一方的な展開になりました。たぶん上の図から下の図の間に後手の形勢はかなり悪化しているので,☖4二角と打つのは拙く,☖5二金のような手で粘らなければいけなかったのではないでしょうか。
佐々木八段が勝って 2勝2敗。第五局は27日と28日に指される予定です。
人間が現実的に存在しているということと,その人間が自己の有esseに固執しているということは,第三部定理七 により同じ意味でなければなりません。つまり人間が現実的に存在していることと,その人間が自己の有に固執するperseverare力 potentiaを発揮していることは同じことです。そしてこの自己の有に固執する力こそ,スピノザが自然権jus naturaeといっている力そのものなのですから,人間が現実的に存在しているということと,人間の自然権が働いているということは,同じ意味であると解さなければなりません。よってもし自然状態status naturalisにおいて人間が現実的に存在するなら,その人間には自然権が働いていることになるでしょう。ところが『国家論 Tractatus Politicus 』の当該部分では,自然状態においては個人の自然権はないも同然だとスピノザはいっています。だとするとここでないも同然である,あるいは同じことですが実質的に存在しているというよりも空想上の産物であるといわれているのは,自然権ではなくて自然状態の方であろうと吉田はいっています。吉田はこの種の自然状態のことを,特異で非現実的な想定だとしています。
これでみれば分かるように,吉田もまた自然状態,これは『国家論』でスピノザがいっている自然状態であると同時に,ホッブズThomas Hobbesが共同社会状態status civilis以前の状態として規定している自然状態を含めてもよいと僕は解しますが,そうした自然状態は非現実的だ,つまり人間の歴史において現実的に存在した状態ではないと考えていることになります。つまり吉田も自然状態について,僕と同じような見解opinioを有していることになります。だから僕がこの部分からスピノザは自然状態を空想の産物あるいはそこまでいわなくても実在的有entia realiaではなく理性の有entia rationisにすぎないとみなしていると看取することは,牽強付会といわれる可能性が残るように,吉田の説もまた牽強付会なのであるといわれ得るといわなければならないことは僕も否定できません。しかし吉田の論述は,確かにこの部分からスピノザがないも同然といっているのは自然権であるけれども,実際の意味としてそういわれているのは自然状態の方であるということを,スピノザの思想から確実な仕方で説明していると僕には思えるのです。
10月25日と26日に仁和寺 で指された第37期竜王戦 七番勝負第三局。
藤井聡太竜王の先手で佐々木勇気八段のダイレクト向飛車 。終盤まで優劣不明の熱局となりました。
ここで後手は☖9七飛と打ちました。それに対して☗5四角 と打ったのが勝着に。
これは☖7四金と取られて先手玉が危なそうなのですが,その瞬間に☗7二角成として,変化手順が多くて難解なのですが後手玉が詰むという仕組み。ということで☖8三銀と受けたのですが☗7五桂という追撃があり,先手の勝ちになりました。
第1図では☖9八飛と王手をして☗7七王に☖9六飛成と香車を抜いておく順があったようで,これならまだ難解な局面が続くこととなったようです。
藤井竜王が勝って 2勝1敗。第四局は15日と16日に指される予定です。
1670年4月3日付でファン・ローン Joanis van Loonは効き目が現れたと書いているのですが,その直後に,私はこの年齢になって思いがけず一冊の書物の父親となったという一文が付け加えられています。しかしこの文章は,物語の全体からすると意味不明といわざるを得ないでしょう。ローンは遅くとも1669年12月20日には書き始めている設定になっていますから,翌年の4月3日までには一定の量を書いていてもおかしくはありません。それが一冊の本に値する量になっていることも十分にあり得るでしょう。しかしローンは一冊の本を書く目的で書いている,あるいは書き始めたわけではなく,自身の病気から恢復するために書いているのです。ですから分量は一冊の本に匹敵するものになったかもしれませんが,その内容がそのまま発売できるものになっていたとは僕には思えないです。確かに書き続けているある時から,ひとつのまとまった物語になっていったということはあり得ますが,それは結果論であって,書き始めた当初から一冊の本というに相応しい内容のものであったというのは無理があると思うのです。したがって,むしろこの部分はそれを全訳したと主張しているヘンドリックHendrik Wilem van Loonが付け加えた可能性の方が高いように僕は思えます。
ファン・ローンが何かを書き残していて,それをヘンドリックが発見したことは確実だと僕は思いますが,その書き残したものというのは起承転結があるようなまとまったものではなく,部分的なものにすぎず,その部分的なものを,ひとつのストーリーとして成立するようにヘンドリックがまとめたという可能性の方が僕は高いと思います。ですからそれをまとめるにあたっては多くの脚色が入っている筈で,各々の部分から歴史的事実の探求として参考になる残骸は含まれていると思いますが,そのまま史実であったと確定するのは無謀だと思います。『蛙 Βάτραχοι 』でいえば,ローンはスピノザがディオニュソス Dionȳsosの役を演じているところを見たことがあるか,そういう話をスピノザから聞かされたことは確定できると思いますが,実際にこのプロットの状況でスピノザがディオニュソスを演じたとはいいきれないのではないでしょうか。