スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理六一&観点の相違

2025-02-09 15:01:25 | 哲学
 第四部定理六三系証明の過程では,第四部定理六一への訴求がみられます。これは次の定理Propositioです。
                       
 「理性から生ずる欲望は過度になることができない」。
 欲望cupiditasというのを一般的に理解するなら,それは第三部諸感情の定義一にあるように,現実的に存在する人間が何らかの仕方であることをなすように決定されると考えられる限りにおいて,人間の現実的本性actualis essentiaそのもののことです。よって理性ratioから欲望が生じる,いい換えれば第三部定理三により,働きをなすagere限りにおいて現実的に存在する人間のうちに欲望が生じるとすれば,第三部定義二により,現実的に存在する人間の本性natura humanaが,一般的な意味における人間の本性から十全に考えられる何らかの事柄をなすように決定されると考えられる限りで,その人間の現実的本性を意味することになります。要するにこの場合は,現実的に存在するある人間の本性と,一般的な人間の本性が一致します。
 そこでもしもこのような欲望が過度になり得るのだとしたら,一般的な意味での人間の本性がその人間の本性を超過するということを意味します。過度になるということと超過するということは同じことであるからです。したがってこれは,人間の本性がその本性によって決定されている力potentiaを超越した力を発揮するということを意味します。あるいは実在性realitasというのを力という観点からみた本性であるということに注意すれば,人間に一般の実在性を超過した実在性を人間が有するという意味になります。これらのことは明白に矛盾であるといえるでしょう。したがってもしも現実的に存在するある人間の欲望が,その人間の理性から生じた欲望であったとしたら,その欲望が過度になるということはあり得ないのです。
 これは他面からいえば,もしも僕たちの欲望が僕たちの受動passioによって決定されるなら,僕たちの欲望は僕たちの力を超過し得るということを意味します。僕たちはできもしないことを欲望することがありますが,それはすべて僕たちの理性から生じるのではなく,受動によって決定されているのです。

 Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されます。このこと自体は僕たちも十全に認識し得ることだと僕は考えます。僕たちには認識するcognoscereことができない属性が無限に多くあるということ自体は,僕たちにも十全に認識することができると僕は考えるconcipereからです。なので第一部定義六を,僕たちが十全に認識することができるということを,僕は肯定します。
 一方で,僕たちが認識することができるのは延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributum,より正確にいえば延長の属性に対応する思惟の属性だけです。なので僕たちが認識することができるのは,延長の属性において説明される限りでの神であり,また延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神であるということになります。そしてこの限りにおいて認識される神が,第一部定義六でいわれている神,無限に多くの属性によってその本性を構成されている神であるかといえば,そうではないと僕は考えます。このような仕方で絶対に無限な実在としての神を認識するためには,無限に多くの属性を認識することができる必要があり,それら各々の属性によって説明される限りでの神を認識することによって,第一部定義六に示されている神が十全に認識されると僕は考えるからです。いい換えればこのような仕方では,絶対に無限な実体substantiaとしての神を,僕たちは認識することできないと僕は考えるのです。
 このふたつのことは両立すると僕は考えています。僕たちは絶対に無限な実体としての神を,属性によって十全に認識することができないのだとしても,僕たちには認識することができない属性もあるのであり,かつそうした属性もまた神の本性を構成していると十全に認識すること自体は可能だと考えるからです。というのも,僕たちにとっては未知の属性は,延長の属性および延長の属性に対応する思惟の属性とは実在的にrealiter区別されるがゆえに,僕たちはそれを認識することができないということ,いわば僕たちにとってそれが未知となる原因causaを,僕たちは正しく認識することができるからです。
 両立はするのですが,このふたつの神の説明の仕方の間には,はっきり観点の相違があると僕は考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神と悪霊&色

2025-02-01 10:47:38 | 哲学
 汎神論と汎悪霊論は,スピノザの哲学が唯名論という特徴を有する以上,どちらであっても同じであり,したがって『生き抜くためのドストエフスキー入門』において佐藤が指摘していることは,スピノザの哲学に対しては成立しないと僕はいいました。しかしこの説明だけでは,なぜ成立していないのかということがよく分からないという人もいるだろうと僕は推測します。なのでここでは別の観点からこのことを説明していきます。
                           
 僕が施したような唯名論の観点からの説明に,どこか納得がいかないと感じる人がいるとすれば,それはたぶん,その人が神Deusに対してまた悪霊に対して,あらかじめ価値を有しているからです。ここでいう価値というのは善悪を意味します。つまり,神は善bonumであって悪霊は悪malumであるということを規定の事実であるように,意識的にであれ無意識的にであれ抱いていると,僕の説明は十分ではないと感じられることになります。すなわち,いくら汎神論と汎悪霊論が,絶対に無限な実体substantiaに対する命名の差異にすぎないとしても,汎神論から生じる世界は善なる世界で,汎悪霊論から生じる世界は悪なる世界になるであろうということになり,実際には大きな差異があると感じられるようになるからです。基本的に佐藤の指摘が文学評論としては成立するのは,この価値観を規準に語っているからなのです。
 スピノザの哲学では善も悪も事物の本性naturaに属するものではなく,それを認識するcognoscere人間の現実的本性actualis essentiaに依拠します。これは第四部定理八から明らかです。したがって神は本性の上で善であり,悪霊は本性の上で悪であるということは成立しません。むしろ神も悪霊も,ある人からすれば善だけれども別の人から見れば悪であるという場合がありますし,同じ人間が神ないし悪霊を,あるときは善とみなし別のときには悪とみなすということもあるのです。
 スピノザの哲学で神といわれるとき,それは善なるものを意味するわけではないし,悪なるものを意味するわけではありません。善悪に関しては中立だとみなす必要があります。神を悪霊といい換えても同じことが成立するので,汎神論と汎悪霊論は,スピノザの哲学では同じことになるのです。汎神論の世界は善なる世界というわけではありませんし,汎悪霊論の世界が悪なる世界というわけでもないのです。

 このことがネコにだけ妥当するわけではなく,たとえばイヌにも妥当しまたウマにも妥当するといったことは,とくに説明するまでもなく明白でしょう。したがってネコにはネコの実体substantiaがあるように,イヌにはイヌの実体があり,ウマにはウマの実体があるというように,それこそ無限に多くのinfinita実体があるということになるでしょう。第一部定理一六により,無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じるのですから,実体をこのような仕方で規定する限り,どうしてもこのような結論にならざるを得ないのです。
 以前に『ゲーテとスピノザ主義』について考察したときに,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheがいう原型というのがスピノザの哲学における実体に該当し,メタモルフォーゼが実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiに該当するという形式で,ゲーテの植物学とスピノザの哲学の関連性を説明したことがあります。このときの植物の原型を植物実体として理解すれば,これはここで考察している実体に即したような形で,といっても植物というのは,ネコやイヌ,ウマよりは広きにわたるといわなければなりませんが,論理構成上は同じものになっているといえます。単純にいえばこのような植物実体というものを想定することができるのであれば,動物実体というものも想定することができるようになる筈で,この場合も結局のところは第一部定理一六により,無限に多くの実体が存在するという結論にならざるを得ないからです。
 このように実体を規定した場合,この例で示したネコの色とか模様とか動きといったものは,それ自体で示すことができないので,実体とはなり得ません。たとえば黒という色は,ネコなりイヌなりウマなりの色を表すから意味をなすのであって,そうでなければ意味をなしません。模様とか動きといったものもそれと同様です。なのでこれは様態に該当するでしょう。実際に第一部定義五では,様態はほかのもののうちにあるといわれていて,そのほかのものというのをここでいっている実体に該当するとすれば,まさに色とか模様とか動きといったものは,ウマとかイヌとかネコのうちにあるといえることになるのであって,様態とはほかのもののうちにあることになるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡四十一&数と内在

2025-01-28 10:14:31 | 哲学
 スピノザがフォールブルフVoorburgから出した最後の書簡として『スピノザ往復書簡集Epistolae』に収録されているのが書簡四十一で,1669年9月5日付でイエレスJarig Jellesに宛てて出されています。遺稿集Opera Posthumaにも掲載されました。原書簡は発見されていないのですが,スピノザとイエレスとの間の書簡は,宛先がはっきりしていないけれどもイエレス宛であろうと推測されている書簡八十四を除くと,オランダ語でやり取りされていたので,この書簡も原書簡はオランダ語であったと推定されます。他面からいうと,書簡八十四の原書簡がラテン語であったということは,もしかしたらこの書簡はイエレス宛ではなかった可能性もあると想定しておく必要があるでしょう。
                             
 この書簡はイエレスが最初は口頭で,後に書簡によって質問した事柄の解答になっています。ただしその書簡は遺稿集に掲載されていないので,具体的にどのようなものであったのかは不明です。もっともスピノザの解答から,水圧に関連するものであったのは間違いありません。この書簡に限らず,イエレスとスピノザの間の書簡は,スピノザからイエレスに宛てたものだけが遺稿集に掲載されていて,イエレスからの書簡は何も掲載されていません。そして後にイエレスからの書簡が発見されるということもなかったので,現行の『スピノザ往復書簡集』にもイエレスからスピノザへの書簡は掲載されていません。一般的にいってスピノザからの返信を遺稿集に掲載するのであれば,その返信の元になった書簡も掲載する方が分かりやすいでしょうから,こうした事情になったのは,編集者のひとりであったイエレス自身の意向が働いたからであったと思われます。
 内容は自然科学に関するもので,スピノザの思想とは一切の関連をもちませんからここでは詳細は省略します。ただスピノザ自身が科学実験を行っていたということは,この書簡から確定することができます。これはこれで意味あることでしょう。
 スピノザはこの後でハーグDen Haagに居を移します。書簡から確定できるのは,1669年9月にはスピノザはまだフォールブルフのダニエル・ティードマンの家に寄宿していたということだけです。

 このように考察すれば,このこともまた内在の哲学と深い関係を有していることが理解できると思います。もしある属性attributumとそれとは別の属性が,数によって区別することができるとすれば,ある属性の世界と別の属性の世界も数によって区別することができることになります。したがってある属性からは別の属性の世界が外部の世界であることになりますし,別の属性の方からある属性の世界は別の世界であることになります。つまりそれぞれの世界の外部に別の世界があるということになるでしょう。つまり自身の世界には外部があるということになるでしょう。しかし実際にはある属性と別の属性は数によって区別することができるわけではなく,各々が唯一の属性ですから,各々の属性の世界もまた唯一の世界ということになるでしょう。したがって唯一の世界の外部に別の世界があるということは不条理です。あるいは同じことですが,唯一の世界に外部があるということは不条理です。つまり数の区別distinguereがいかなる区別であるということと,外部があるかないかということは大いに関連しているのです。つまり数という概念notioと内在という概念の間には,一定の関連があるのです。そして僕たちはこうした論理構成の下に,僕たちの世界,いい換えれば物体的世界の外部に別の世界があるということを否定するnegareようになるのですし,同じことですがこの物体的世界の総体としての全宇宙の姿facies totius Universiには外部はないと確知するcerto scimusことができるようになるのです。
 僕が吉田のこの部分の考察からいっておきたかったのはこのことだったのですが,吉田の考察そのものはここで終わっているわけではありませんし,このままでは中途半端ですから,そちらを先に進めていきます。
 世界の外部がないとしても,世界の原因causa自体は求められなければなりません。これは第一部公理三から明白です。外部がない以上はその原因を外部に求めることはできないのですから,当然ながらそれは内部に求められることになります。世界は自己原因causa suiではありませんが,それが現に存在しているということ自体はだれにも否定することができません。これを両立させるスピノザの理論を,吉田は説明していきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰謬法&集落

2025-01-21 10:13:56 | 哲学
 スピノザは『エチカ』の第一部付録の中で,帰無智法は帰謬法とは異なるのだという主旨のことをいっています。スピノザがいっている帰無智法というのがいかなる方法を意味するのかということはすでに説明しましたから,ここで帰謬法というのがいかなる方法であるのかを説明しておきましょう。なお,スピノザ自身はそこで帰謬法がどのような方法であるのかを説明しているわけではありません。これは,帰謬法というのは一般的な方法であるのに対して,帰無智法というのはスピノザが命名したある方法のことを指すからです。つまり用語としていえば,帰謬法というのは一般的な用語ですが,帰無智法というのはスピノザがそこで使用した以外にはほぼ使われることがない用語です。
                       
 少なくとも哲学や数学,論理学などでは一般的用語ですが,僕は帰謬法という用語を使用したことはたぶんなかったと思います。当該部分で帰謬法と訳されているからここでも帰謬法といっただけであって,僕は基本的に背理法といいます。帰謬法と背理法はもしかしたら厳密には差異があるのかもしれませんが,僕は同じものと解しています。なので僕が背理法という用語を使っている場面は,それを帰謬法といい換えても成立すると僕は考えています。分かりやすい例をあげれば,スピノザは第一部定理一四証明で,Deusのほかに実体substantiaが存在するという仮定を与え,第一部定義四によってその実体の本性essentiamは何らかの属性attributumによって構成されるけれども,第一部定義六によって,神が無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成する以上は,仮定した実体の本性は神の本性を構成する属性と同一になる筈であり,これは第一部定理五に反するから,そのような実体は存在しないとし,実在する実体が神だけであると結論しています。このように,立てた仮定が不条理であるからそれは成立しないことを論証する方法methodusは背理法といわれ,それを帰謬法と同じ意味に僕は解しているということです。
 帰無智法は論証Demonstratioには何の役にも立ちません。他面からいえば帰無智法による論証は無効です。しかし帰謬法すなわち背理法は,論証の方法として有効なのです。

 スピノザは第一部定理八備考二で,同一の本性essentiaを有する複数のものが存在するなら,そのものの本性には存在existentiaが含まれず,すなわち第一部定義一により自己原因causam suiではないので,それが存在するためにその外部に原因causaを有していなければならないという主旨のことをいっています。このことをスピノザは次のような例で説明しています。たとえば20人の人間が現実的に存在するとします。この20人はいずれも人間ですから,人間の本性natura humanaという同一の本性を有します。このとき,20人の人間が現実的に存在する,より正確にいえばひとりでも19人でも21人でも100人でもなく20人であるということは,人間の本性には含まれません。これは20人ではなく何人であっても同じであって,一般に人間の本性には何人の人間が存在するということは含まれていないのです。しかし第一部公理三により,結果effectusが存在するためにはその原因も存在するのでなければなりません。よって20人の人間が現実的に存在する場合は,その20人それぞれが外部に原因をもっていなければならないということになります。
 吉田はこれをさらに進めます。たとえばある山間部の集落に20人が現実的に存在すると仮定しましょう。このときこの20人はすべて,集落を設立した人びとの子孫であったとします。これでこの20人が現実的に存在する原因が明らかになったかといえば,そうではないと吉田はいいます。なぜなら,集落を設立したのも人間なのですから,その本性に存在が含まれていないということは,現実的に存在しているとされている20人と同じです。したがってその人たちもかつて現実的に存在するようになった原因を外部にもっていなければなりませんし,またこの集落が設立されたのであれば,その人たちが集落を設立した原因といったものもこの人たちの外部にあることになるでしょう。なので,特定の集落を抽出して,その集落にある一定数の人間が現実的に存在するということを説明するために,現に存在しているその人びとの存在するようになった原因だけを特定しても不十分であることになります。そうしたことはすべて人間の本性には含まれていないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡十九&自明

2025-01-18 10:08:15 | 哲学
 書簡十九は1665年1月5日付でスピノザからブレイエンベルフWillem van Blyenburgに出されたもので,ランゲ・ボーハールトという地名が記されています。これはおそらくシモン・ド・フリースの兄弟姉妹の家の地をより詳しく記したもので,書簡二十一と同様に,スヒーダムSchiedamから出されたものと考えて差し支えありません。スピノザはここにこれから3~4週間は滞在すると書いていますからこれは確実です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 ブレイエンベルフがスピノザに送った最初の書簡が書簡十八で,これはそれへの返信になります。前にもいったように,僕はスピノザとブレイエンベルフの間の書簡を詳しく分析するのは労が多いわりに益が少ないとみていますので,ここでもこの書簡の内容については触れません。ただ重要なのは,この書簡を書いたときにはスピノザがブレイエンベルフは自身と概ね意見opinioが一致しているとみていました。この書簡はそういう前提で書かれているのであって,スピノザがこの書簡で自身の思想の意を尽くそうと努力しているのは,そういう理由に依拠しています。
 ここでいう意見の一致というのは,後にスピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で示した,聖書は必ずしも真理veritasを明らかにするものではないということと関連します。つまりスピノザは,ブレイエンベルフと自身の間で,哲学上の結論の相違はあるかもしれないけれども,聖書に従えば真理を確実に知り得るというわけではないという点では一致しているとみていたわけです。
 『神学・政治論』では懐疑論者scepticiだけでなく独断論者dogmaticiも非難されています。スピノザがその考えをこの時点でも有していたかどうかははっきりとは分かりませんが,仮にこの時点でそう考えていたとすれば,スピノザはブレイエンベルフが独断論者であるかどうかは分からないけれども,少なくとも懐疑論者ではないと評価していたことになります。実際にはそれはスピノザの思い込みで,ブレイエンベルフは強硬な懐疑論者であったのですが,そのことにスピノザが気付いたのは,書簡二十を受け取ってからだったのです。

 吉田の議論が錯綜しているように僕にみえるのは,吉田がこのふたつを地続きで議論しているからです。吉田が地続きで議論することができたことには理由があることを僕は認めます。なぜなら吉田は,デカルトRené Descartesが「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という結論を出したときに,思うということはあるということだという暗黙の前提があって,その前提に基づく三段論法として結論したのに対して,スピノザがそれを読み替えて,これは単一命題であると解釈し直したと解しているからです。しかし,たとえその吉田の説が正しいものであったとしても,「我思うゆえに我あり」というときの思うということについては,デカルトに対して施した解釈と,スピノザに対して施すべき解釈の間に差異があるので,本来は別個に議論されるべき事柄であると解釈しておくのが安全であると僕は思います。よって僕は,吉田の講義は明らかに地続きになっていますが,実際はデカルトに関連する部分とスピノザに関連する部分は個別に考察されているという解釈を採用します。
 一方で,吉田がスピノザもデカルトと同じように,私は考えているということについては肯定しているというときに,第二部公理二に訴求しているという点はとても重要で,これは大いに参考になると思います。というのはこの公理Axiomaは,単に現実的に存在する人間は思惟するということだけをいっているのではなく,現実的に存在する人間が思惟するということを僕たちは知っているという意味も同時に含んでいるからです。これは取りも直さず,僕たちは僕たち自身が思惟していることを知っているという意味なのであって,このことが定理Propositioとして証明されているのではなく,公理として示されているということは,このことがそれ自体で明らかであるとスピノザが認めていたということを意味することになるのです。つまりデカルトは確実な事柄を追い求めてついに疑っている自分の精神mensが存在するということは疑い得ないという結論を出したのですが,スピノザも思惟している自分自身が存在することは疑い得ないといっているのであり,これは思惟している自分の精神が存在することは疑い得ないと読み替えられるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡二十一&創造

2025-01-12 12:08:31 | 哲学
 スピノザがスヒーダムSchiedamから出した書簡は2通残されていて,そのうちのひとつが書簡二十一です。ブレイエンベルフWillem van Blyenburgからの書簡二十の返信として送られたものであって,1665年1月28日付になっています。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 スピノザとブレイエンベルフとの間のやり取りは,スピノザの思想にブレイエンベルフが反論を繰り返すというもので,スピノザの思想を理解するためには有益な面がありますが,そうした思想というのはほかのものからも理解できるものがすべてです。ブレイエンベルフは反論のためにとても長い書簡を書いていて,スピノザはその反論に答えるためにやはり長文の返信を送っています。したがってそれぞれがとても長いものとなっているので,スピノザの考え方を知ろうという場合にも,時間的な労は多いのに得られる益はそれほどでもありません。ですから書簡の内容についてここで詳しく触れることはしません。そもそも最終的にはスピノザ自身がブレイエンベルフと議論をしても仕方がないと結論したので,文通の終了を提案したくらいですから,返信をするということ自体がスピノザにとっても時間の無駄にほかならなかったのだと思われます。
 ブレイエンベルフからの最初の書簡は書簡十八で,この書簡を読んだとき,スピノザはブレイエンベルフと自身の思想が一致していると思いました。だから書簡十九をこれもスヒーダムから送ったのです。ところがそれに対するブレイエンベルフからの書簡二十を読んで,そうではないことを悟りました。なのでその時点で文通が双方にとって無益であると理解したということがこの書簡の冒頭にすでに書かれています。
 両者の間にある相違について,根本的原理から導出される結論にあるのではなく,根本的原理そのものにあるとスピノザはいっています。たとえ証明Demonstratioの法則に照合して最も確実な証明であったとしても,それがブレイエンベルフやブレイエンベルフの知り合いの神学者が聖書に与えている見解opinioと異なれば,それはブレイエンベルフには通用しないからです。つまり神学者による聖書の解釈が真理veritasと思い込んでいる人には,哲学者がどんなに確実な真理を示しても受け入れられないということを,スピノザはよく心得ていたのです。

 スピノザの哲学では,第一部定理一四でいわれているように,Deusのほかには実体substantiaは存在しません。まずこの時点で,物体的実体substantia corporeaを想定しているデカルトRené Descartesの哲学とは異なることになります。次に,第一部定義六から分かるように,神は無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されます。属性は第一部定義四にあるように,実体の本性を構成するわけですから,神のほかには実体が存在しない以上,すべての属性は神の本性を構成することになります。
 そして第一部定理二一と第一部定理二二がいっていることは,直接無限様態および間接無限様態は,永遠aeternumでありかつ無限infinitumであるということです。したがって,神が存在するならば,神の本性を構成する無限に多くの属性の直接無限様態と間接無限様態が,やはり神が存在するのと同じように,永遠かつ無限なものとして存在することになるのです。
 神およびその属性が無限にして永遠であるといわれるのと,直接無限様態および間接無限様態が永遠にして無限であるといわれることの間には,厳密には相違があります。神や属性が永遠で無限といわれるのは,その本性によって無限であり永遠であるといわれるのです。これに対して直接無限様態と間接無限様態は,その本性によって無限であったり永遠であったりするのではありません。その原因causaによって永遠であるといわれまた無限であるといわれるのです。したがって,本性の上では,神およびその属性が先行し,直接無限様態と間接無限様態が後発するということになります。原因は結果effectusに対して本性の上で先立っていなければならないといえるからです。したがって,直接無限様態と間接無限様態も,同じように永遠かつ無限ですが,間接無限様態は直接無限様態を原因とすることになっていますから,直接無限様態は間接無限様態に対して,本性の上で先行しているといわれなければなりません。
 神が世界を創造するcreareというとき,神が原因であって世界が結果であるということを否定するnegareことはだれにもできないと僕は考えます。なので神は世界に対して本性の上で先行することになります。しかし僕の考えでいえば,この場合はこれだけでは十分とはいえないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡二十八&確実性の保証

2025-01-06 13:50:39 | 哲学
 書簡二十八は1665年6月にスピノザがバウメーステルJohannes BouwmeesterにフォールブルフVoorburgから送ったものです。遺稿集Opera Posthumaには掲載されていません。これは個人的な私信という意味合いが強かったからだと思われます。
                            
 冒頭部分では自分のことをバウメーステルが忘れてしまったのではないかとスピノザが疑っています。アムステルダムAmsterdamでバウメーステルから招待されていたので,フォールブルフに戻る前にお別れの挨拶をしようと思っていたけれども,その間にバウメーステルがハーグDen Haagに旅立ってしまったので会えなかったこと。ハーグからアムステルダムに戻る途中でフォールブルフのスピノザの家をバウメーステルが訪ねてくると思っていたのに訪ねなかったこと。そしてこうしたことについてバウメーステルが手紙を送ってこなかったことがその理由として列挙されています。
 この後で,バウメーステルは自身の才能について不信を抱いていているようだといっています。もし自身の手紙をだれかが読んで笑うようなことを心配しているなら,他人に見せるようなことはしないと約束しています。冒頭部分とこの部分はおそらく関連しています。バウメーステルはスピノザやその友人たちと比べて,自身の能力が劣っていると思っていたので,スピノザと接触することに自身を失っていたのでしょう。スピノザはそんなバウメーステルに対して,変わらぬ友情を示したのがこの書簡の内容です。
 赤バラの砂糖漬けを送ってほしいという依頼はこの書簡の中にみられます。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中に出てくる老いた鶏のスープというのは医療的な意味合いがあったのか単にスピノザの好物であったのかは分かりませんが,この赤バラの砂糖漬けは医療的な意味があり,この当時は肺カタルに効果があるとされていました。スピノザは肺の病が原因で死ぬことになるのですが,すでにこの時期には症状が出ていたということになります。

 考えている自分がいるということ,したがって考えている限りでの自分が存在するということを確実で疑い得ないこととしたデカルトRené Descartesは,そのことを基にして神Deusが存在するということを論証しました。なぜデカルトがこのことを論証しなければならなかったのかといえば,それは考えている自分自身の確実さと,自分自身が考えている世界を接続するためであったと吉田はいっています。それがデカルトの当初の目的finisであったかどうかはともかく,神の存在が論証されることによって,自分が考えている世界の確実性certitudoも論証されることになるということは間違いありません。すなわち,もし完全なものとしての神が存在するのであれば,自分が考えていること,あるいは自分の精神mensが認識している世界についても,その確実さを神が保証してくれるというわけです。
 吉田がいっている通り,デカルトのこの論証Demonstratioあるいは神による保証は,二段構えになっています。第一に,もしも神が人を騙すようなことがあれば,神は完全であるとはいえなくなります。よって神が自分を騙しているのではないか,いい換えれば自分が考えていることについて神が自分をペテンにかけているのではないかというような心配をする必要はありません。そして第二に,もしも自分が考えていることが完全であるのであれば,それは不完全である自分が産出したものではないのですから,完全な存在existentiaである神から産出されたものであるということになります。よってもしも自分が何かを完全に理解している,認識しているとしたら,それは何もないところから何かを認識している,たとえば空想しているとかいうわけではなくて,完全な存在である神から産出されたこの世界の真理veritasを神が産出したように,辿っているということになるのです。
 ここから分かるように,デカルトの哲学における神というのは,僕たちが世界を確実に知るということを,考えている僕たちに対して保証してくれる存在です。いい換えれば僕たちの確実性の根拠となる存在です。だからそれはなくてはならない存在であることになります。神が存在しないならば,僕たちはどんな事物に対しても確実であることができないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善悪の前提&精査

2024-12-17 19:13:19 | 哲学
 人間がDeusになってしまうのなら,それは人間にとっての完全性の喪失にほかならないのであり,このゆえにそれは悪malumであるとスピノザはいっているというようにフロムErich Seligmann Frommは『人間における自由Man for Himself』の中で解釈しています。このことを悪とフロムが結び付けているのは,第四部序言でスピノザがいっていることと関連します。すなわち,現実的に存在する人間が,人間の本性の型に近づく手段になるものが善bonumといわれ,それを妨げるものが悪といわれるのであれば,もし何らかのものが人間を神にする,すなわち人間の本性natura humanaを神の本性にするとしたら,それは人間を人間の本性の型に近付けるどころか,神の本性の型に近付けることによって人間の本性の型に近付けるのを妨げるのだから,そのものは悪であるということです。
                            
 この部分はこのように理解する限り,スピノザがいっていることと矛盾を来すものではありません。ただし当該部分のフロムの解釈には,いくらかの難点が残っているといえます。つまり上述したような僕の解釈とは異なった要素が組み込まれていると思われます。
 まず最初に,スピノザは単に現実的に存在する人間が人間の本性の型に近づくことが人間にとっての善であるといっているわけではなく,その人間が,人間の本性の型に近づくと確知するcerto scimusのであれば,それがその人間にとっての善であるといういい方をしています。これは第四部定理八でいわれていることに代表されるように,スピノザは善や悪というのはものの本性に属するものではなくて,各個人の認識cognitioに依存する概念notioであるとみていることと関係します。ここで確知するといわれているのは,十全に認識するcognoscereという意味を含みますから,もし人間が十全に認識するということを前提するなら,そしてたぶんフロムはここではこのことを前提しているのですが,何が善と認識され何が悪と認識されるのかということは各人の間で一致するでしょう。しかし実際には人間は事物を混乱して認識し,しかしそれが確実であると思い込むことはあるのであって,その場合では各人の間で何が善であり何が悪であるのかということの認識が異なります。そしてスピノザはそのこともまた前提しているのです。

 カトリックに改宗していたステノNicola Stenoに対して自著として『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を贈ることは危険であると思ったから,スピノザはステノには献本をしなかったものと僕は考えます。ただ,ステノがそれをどういうルートであるかは定かではないですが入手したことは間違いないのであって,それを読んだということ自体は,書簡六十七の二から明らかだといっていいでしょう。この書簡の冒頭部分は,確かにステノが『神学・政治論』を読んだのでなければ書くことができなかったであろう内容を含んでいるからです。
 この『神学・政治論』は発売禁止の処分を受けています。これはその内容に危険な点が含まれていると判断されていたからです。当然ながらその危険な点というのは,キリスト教という宗教に関連する点なのであって,それが危険であるということはプロテスタントであろうとカトリックであろうと同様です。つまり『神学・政治論』はキリスト教にとっての危険な書物なのですから,カトリックにとっても,もちろんステノにとっても,危険な書物であったのは間違いないでしょう。
 こうしたことを鑑みれば,たぶんそれを読めばスピノザの手によるものであったと分かっていたであろうし,実際にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがステノに対して著者がスピノザであるということを明かしたバチカン写本は,とくに内容を精査せずとも異端審問所に提出する価値があったであろうと想定されます。しかし吉田が指摘しているように,ステノはその内容を精査した上で提出しているのです。このこと自体ははっきりとそう断定できるわけではないのですが,ステノがバチカン写本を入手した時期と,上申書を異端審問機関に提出した時期の期間を考えると,どうしてもステノはその内容を精査していたとしか考えられません。
 書簡六十七の二は,カトリックの立場からステノがスピノザを改心させようとする意図を明らかに含んでいます。だからスピノザが実際に改心したかもしれず,それを確認する必要があったから精査が必要であったということはできないわけではありません。しかしスピノザが改心するということをステノが本気で想定していたわけではないと僕には思えるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第四部定理六三系証明&家族の依頼

2024-12-07 19:19:55 | 哲学
 第四部定理六五証明にあたっては,第四部定理六三系が大きな役割を果たしています。『エチカ』における系Corollariumの中には,証明Demonstratioが付されていないものもあります。その場合は系はその定理Propositioからの帰結事項であるということになります。しかし第四部定理六三系については,スピノザは証明をしています。そこでスピノザがこの系をどのように証明しているのかということを詳しくみておきましょう。
                       
 まず理性ratioから生じる欲望cupiditasがどこから生じるのかといえば,それは能動的な喜びlaetitiaから生じるのです。欲望は大別すれば喜びを希求するか悲しみtristitiaを忌避するかのいずれかですが,理性から生じるといわれる限り,それが受動的な感情affectusから生じるということがあり得ないのはそれ自体で明らかであり,第三部定理五九によれば,能動的な喜び,いい換えれば理性から生じる喜びはあるので,その喜びから生じる欲望だけが,理性から生じる欲望であるといわれることになるのです。
 こうした喜びは過度にはなり得ません。というのは過度な喜びというのが十全な観念idea adaequataから生じるというのはそれ自体で矛盾ですから,理性から生じる喜びは常に適度な喜びであるということになります。『エチカ』にはこのことを示した定理がありますので,その定理についてはいずれ詳しく紹介します。
 いずれにせよ,理性から生じる喜びは,過度にはなり得ない喜びから生じるのであって,悲しみからは生じません。よってこれは第四部定理八により,善bonumの認識cognitioから生じることはあっても悪malumの認識から生じることはないのです。よって僕たちは,理性の導きに従っている限りでは,直接的に善に赴くことになりますし,直接的に善に赴くという限りで,つまり間接的に,悪を逃れるということになるのです。

 コンラート・ブルフがスピノザの知り合いであった可能性はかなり高いです。しかもスピノザはかつてコンラートに世話になった時期があったことも否定できません。したがってコンラートがアルベルトAlbert Burghに書簡を書いてほしいとスピノザに依頼したら,スピノザは無碍にそれを断ることはできなかったと想定できます。なので書簡七十六に書かれている若干の友人の中に,コンラートが含まれているという想定も,突飛なものであるとはいえないことになります。実際に岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集Epistolae』の訳者である畠中尚志は,この書簡は友人や家族からの懇願によって書かれたものであると解説しています。
 いずれにしてもスピノザはステノNicola Stenoには返信は書きませんでしたが,アルベルトには書きました。そしてこれは遺稿集Opera Posthumaに掲載されています。その関係で,アルベルトからスピノザに宛てられた書簡六十七は遺稿集に掲載されたのだけれども,ステノからの書簡六十七の二は遺稿集に掲載されなかったのではないかと僕は考えてきました。これはこれで一定の根拠にはなる解釈だと僕は今でも思っています。
 フッデJohann Huddeからスピノザに送られた書簡は遺稿集には掲載されず,スピノザからフッデへの返信だけが,フッデ宛ということを隠していたとはいえ掲載されました。このようになったのは,遺稿集の編集者たちのフッデに対する配慮によるものです。また,スピノザがマイエルLodewijk Meyerに宛てた書簡十二は遺稿集に掲載されましたが,そこに書かれているマイエルからの書簡は掲載されていません。これは編集者であったマイエルの意向によると推定され,実際に書簡十五は遺稿集にも掲載されませんでした。書簡十二というのは,無限なるものの本性についてという副題のついた有名な書簡であって,すでに友人たちの間では閲覧されていたものですから,さすがにこの書簡の遺稿集への掲載を見送るということはマイエルにもできなかったのだと思われます。
 これらは例外であって,基本的にスピノザが返信を出した書簡が遺稿集に掲載されたケースでは,その返信の基となった書簡も遺稿集に掲載されています。逆にいえばそれはスピノザ宛の書簡が掲載される条件なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第四部定理五六証明&スピノザの許可

2024-11-27 19:02:30 | 哲学
 第四部定理五六を証明しておきます。
                       
 第四部定理二二系により,virtusの第一にして唯一の基礎はコナトゥスconatusです。また,第四部定理二四により,理性ratioの導きに従うことを,自己の利益suum utilisを求める原理に基づいてなすことが,有徳的に働くagereということを意味します。これらを合わせると,徳の第一にして唯一の基礎は,理性に基づいたコナトゥスであるということになります。
 このゆえに,もしもある人間が現実的に存在していると仮定して,その人間が理性に基づく自身のコナトゥスあるいは理性に基づく自身の利益というものを何も知らないとしたら,その人間は徳の第一にして唯一の基礎を知らないというのと同じことです。逆に,その人間が理性の導きに従ったコナトゥスあるいは理性に基づく自身の利益を知っているとしたら,その人間は自分がそれを知っているということもまた知っていることになります。これは第二部定理四三から明らかであるといわなければなりません。よってその人間が,理性に基づくコナトゥスあるいは自己の利益を知らないというのは,まさにそれを知っていないということにほかならないので,現にその人間は徳の第一にして唯一の基礎を知らないということです。ですからこの人間は,一切の徳それ自体を知ることが最も少ない人間であるということになりますから,当然ながら有徳的に働くことが最も少ない人間であることになります。第四部定義八により,徳と力potentiamは同一ですから,この人間は最も無能力な人間であることになるでしょう。
 第四部定理五五でいわれているように,最大の高慢superbiaと最大の自卑abjectioは,自己に関する最大の無知です。すなわち自己の利益を知らないので,徳の第一にして唯一の基礎を知らないことになります。よって最大の高慢と最大の自卑は,精神mensの最大の無能力impotentiaを表示することになるのです。

 チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausはシュラーGeorg Hermann Schullerと知己になることによりスピノザとも面識を得たとされています。そのシュラーとチルンハウスの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。これは書簡七十から確証できます。シュラーはスピノザに宛てたこの書簡の中で,チルンハウスから3ヶ月も手紙が来なかったので,イギリスからフランスへ渡る間に何かよくないことが起こったのではないかと不安だったという主旨のことを書いています。これは3ヶ月にわたって書簡が途絶えると,シュラーがチルンハウスのことを心配してしまうくらい頻繁な書簡のやり取りがあったことを確定させます。
 途絶えていたチルンハウスからシュラーへの手紙は,パリに到着してからシュラーに送られました。シュラーはパリでのチルンハウスの様子をスピノザに伝えています。それによれば,スピノザから『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を送られたホイヘンスChristiaan Huygensにチルンハウスが会い,ホイヘンスがほかにスピノザが著した書物が出版されていないかをチルンハウスに尋ねたので,チルンハウスは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』以外に知らないと答えたと書かれています。
 この時点でチルンハウスは『エチカ』の草稿,すなわちバチカン写本を所持していたのですが,そのことをホイヘンスには伝えなかった,あるいは同じことですが秘匿したということを意味しています。一方でチルンハウスは,パリでライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとも会い,ライプニッツにはバチカン写本を読ませても構わないと判断したので,その許可をスピノザに求めていることもシュラーは伝えています。
 書簡七十二でスピノザはバチカン写本をライプニッツに閲覧させることを不許可としました。実際にライプニッツがそれを読んだかどうか,つまりチルンハウスがスピノザの指示を守ったのか否かは,研究者によって見解が分かれています。なので,僕はチルンハウスはその指示を守ったと考えていますが,ここでは指示を守らなかったかもしれないとしておきます。しかし,チルンハウスが少なくとも許可を得ようとしたことは事実なのであって,スピノザからの指示を待たずに独断でライプニッツにバチカン写本を見せなかったことは間違いないといえます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汎神論と汎悪霊論&ホッブズとの近似

2024-11-15 19:03:16 | 哲学
 『生き抜くためのドストエフスキー入門』で展開されている汎悪霊論は,文学評論としては成立しますがスピノザの哲学の理解としては不適切です。ここではなぜスピノザの哲学の理解としてこの論述が不適切であるのかを説明します。
                         
 スピノザの哲学は基本的に唯名論を採用しています。これはスピノザがことばと観念ideaは異なるものだと考えているからであって,ことばによって事物を理解することには重きを置かず,事物の十全な観念idea adaequataを形成することに重きを置いているからです。スピノザはことばによって事物を認識するcognoscereことは基本的に表象imaginatioであり,その観念は十全な観念ではなく混乱した観念idea inadaequataであるといいます。したがって神Deusとか悪霊といった語によってそれを表象するimaginariことには意味がありません。神の本性essentiaとは何か,悪霊の本性とは何かを理解するintelligereことが重要なのです。
 スピノザは第一部定義六で神を定義していますが,そこでは無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成される実体substantiamが神であるとされています。このとき,神というのは命名にすぎません。いい換えれば,あるものが神といわれるならばそれは無限に多くの属性によって本性を構成される実体でなければならないという観点からこう定義されているのではなく,無限に多くの属性によって本性を構成される実体があれば,それをスピノザは神というという観点からの定義Definitioなのです。したがって,無限に多くの属性によって本性を構成される実体が神といわれなければならない積極的な理由があるわけではありません。単にスピノザはそのようにいうというだけです。
 よってスピノザは,無限に多くの属性によって本性を構成される実体を悪霊というということもできたわけです。そしてこの場合はスピノザの哲学は汎神論ではなく汎悪霊論であるということになるでしょう。つまり汎神論であろうと汎悪霊論であろうと,スピノザの哲学の内実は変わるわけではありません。ただ神といっているところのものを悪霊といい換えるというだけにすぎないのです。

 社会契約説を軽視する,とくに『国家論Tractatus Politicus』にはそういう傾向が強いですから,そこでいわれている自然状態status naturalisが,現に存在したとされる状態であるのか,それとも架空の,いわば理性の有entia rationisのような概念上の状態であるのかということは,そこまで突き詰めて考える必要はないといえます。ですから,僕のように,自然状態は社会契約説によって国家Imperiumの成り立ちを説明するための概念上の状態であって,人類の歴史のうちでそのような状態は存在したことがないと理解するとしても,スピノザの政治論を正しく理解する上で大きな問題を齎すことはないでしょう。
 『国家論』の第二章第一五節の冒頭で,自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の自然権jus naturaeの下にあるといえるような状態のことを自然状態といった直後で,この自然状態においては各人の自然権は無に等しいという意味のことをスピノザはいっています。したがって,スピノザは自然状態においては,各人が他の圧迫を防ぎ得ないと考えているわけで,この点からみれば,各人が他の圧迫を防ぎ得ない状態のことを自然状態であるとスピノザは規定しているとみることもできるでしょう。この種の自然状態の概念notioは,ホッブズThomas Hobbesがいっている,万人の万人に対する戦争状態としての自然状態に近似しているといえます。実際に吉田も指摘している通り,スピノザは『国家論』において自然状態を規定しているわけではないのですから,その自然状態を,ホッブズが規定しているような自然状態のことであると理解することは可能なのであって,それをスピノザの哲学に基づいて規定すると,このようになるというように理解しても,それほど大きな間違いではないと思います。
 第四部公理でいわれているように,自然Naturaの中にはそれよりも有力で強大なものが存在しないような個物res singularisはありません。人間も個物ですからこのことが適用されます。したがって各人は単独で存在する限り,自身よりも有力で強大な他者が必ず存在することになります。よってこの状態では各人は他の圧迫から身を守ることは不可能だといえます。なのでスピノザが自然状態をそのような状態と規定することは,スピノザの哲学にも合致しているといえます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡八十三&著者

2024-10-12 19:11:55 | 哲学
 書簡八十二に対してスピノザは短めの返信を送っています。それが書簡八十三で,1676年7月15日付になっています。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 返信ですから当然ながら内容はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの質問に対する解答です。スピノザがいっていることは主に次のふたつです。
 ひとつは,延長Extensioの概念notioから事物の多様性が演繹的に証明されることはないということです。事物,この場合は延長の様態modiですから物体corpusですが,物体の多様性を演繹的に証明するためには単に延長の概念があればよいわけではありません。よってデカルトRené Descartesが物質を単に延長とだけ定義しているのは誤りだとスピノザはいっています。そこから物体の多様性を演繹的に導出するためには,延長を属性attributumとして,しかも永遠aeternumで無限なinfinitum属性として定義する必要があります。デカルトは物体的実体substantia corporeaを神Deusとは別の実体と定義し,スピノザは延長の属性Extensionis attributumを神の無限に多くのinfinita属性のひとつとして定義したわけですが,デカルトのような方法では物体の多様性を演繹的に証明することはできないのであって,スピノザのような方法を採用する必要があるのです。
 もうひとつは,ある事物の定義Definitioからひとつの特質proprietasだけが導かれるというチルンハウスの見解は,理性の有entia rationisの場合には当て嵌まるとしても,実在的有entia realiaの場合には当て嵌まらず,実在的有である事物の定義から,複数の特質が導かれることもあるということです。たとえば神を絶対に無限な実体と定義すれば,この定義から神が自己原因causa suiであることや神が必然的にnecessario存在するということ,あるいは神が唯一で不変であるということなど,神についての多くの特質が導かれることになります。こうしたことがすべての実在的有の定義に妥当することになるのです。

 吉田はこのような事情を考慮して,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』は職業作家が手の込んだフィクションとして世に問うた作品であって,歴史資料として勘違いされたのだといっています。
 僕はこの見解に同意しません。この本の中にはフィクションが多く含まれていることは事実だと思いますが,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが何らかの資料に当たっているのは間違いないと僕には思えます。なのでこの本の中には,資料としての価値がある部分が,断片的には含まれていると思います。というのも,吉田がいうように,この本が職業作家が書いたフィクションであるとすれば,その内容があまりに不自然であるからです。いい換えれば僕は,文学評論という立場から,この本の内容のすべてがフィクションであるというのは無理があると考えるのです。なぜ僕がそのように解するのかということはこれから説明していきますが,その前にいっておかなければならないことがあります。
 まず,ヘンドリックがいっているように,仮にこの本がファン・ローンJoanis van Loonが書いたものをヘンドリック自身が全訳したものであったとしても,この中にはフィクションが含まれていると考えなければなりません。先ほどもいったように,僕は文学評論の観点からこの著作物が完全なフィクションであるというのは無理があるといっているわけですから,そのことは著者がファン・ローンであろうとヘンドリックであろうと変わるところはないからです。一方で,この本を純粋な史実と解するのも無理があるのであって,このこともまた著者がだれであろうと同じです。なのでここでは『レンブラントの生涯と時代』の著者が,ファン・ローンであるかヘンドリックであるかということは問いません。どちらであったとしても結論は同じであって,資料としての価値がまったくないということはないのです。ただひとつ確実なのは,ヘンドリックが職業作家として『レンブラントの生涯と時代』を書いたとした場合は,おそらくファン・ローンが書いたものを何らかの仕方で参照したのであって,したがって著者がどちらの場合であったとしても,ファン・ローンが何も書き残していなかったということはあり得ません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰無智法&返却の目途

2024-09-28 19:54:00 | 哲学
 書簡七十五でスピノザは,奇蹟miraculumの上に宗教religioを築こうとする人びとが採用している方法は,帰無智法であるといっています。この帰無智法というのが具体的にどのような方法を意味するのかをみておきます。
                            
 帰無智法というのは文字通りに,ある事柄を証明するために,人の無知を基礎づけることをいいます。つまりある人が,自分にとって不明な事柄を証明するために,より不明瞭なことを基礎づけるとすれば,一般にそれは帰無智法といわれることになります。宗教の正当性について証明するために,あるいは神Deusの存在existentiaを証明するために,奇蹟を基礎づけるなら,すなわち奇蹟が現にあるから宗教は正当であるとか,奇蹟が起きるのだから神は存在するというなら,奇蹟という不明瞭な事柄によって宗教や神を証明しているから,それは帰無智法であるとスピノザはいっているのです。宗教,ここでいわれている宗教とはキリスト教を意味するのでキリスト教ですが,その正当性については『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で語られていますし,神の存在は『エチカ』で証明されていますから,帰無智法に基づかない証明がいかなるものであるのかはここでは詳しく説明しません。
 『エチカ』の第一部の付録では,こうした帰無智法がなぜ発生するのかということが説明されています。これは単純にいうと,神は自然Naturaを人間のために創造したと解することが起点となっています。ところが実際には自然は人間に対して利益を齎すだけではなく,多様な不利益をも与えます。これは単に自然が人間のために創造されたわけではないからというほかないのですが,そうして自然についての新しい原理を導入するよりも,諸々の自然災害を神が人に齎す理由を,自分自身の無知に帰することの方を選んだのです。これはそうする方が容易だったからです。要は諸々の自然災害は,人間には図り得ないような神の業によって生じるのだから,神の叡智を人は知り得ないという方法で解決したということです。
 スピノザはこのような帰無智法は,帰謬法とは異なるといっています。帰謬法についてはまた別に説明します。

 スペイクが依頼したのでなかったら,だれが何の目的でスピノザの遺産の目録を作らせたかが謎として残ります。したがって,実はスピノザが死んだ日に目録を作らせたのもスペイクで,しかしそれが不正確であることをスペイクが看取したので,改めて別の人に目録の作成を依頼したということだったかもしれません。
 仮に遺産目録を作成させたのがスペイクであったとすれば,その目的は葬儀費用の捻出であったと解するのが,『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』を読む限りは適切だと思います。前もっていっておいたように,21日に死んだスピノザの葬儀と埋葬が25日になったのは,葬儀費用の問題があったからだとフロイデンタールJacob Freudenthalはいっているからです。実際に葬儀も埋葬も行われたのですから,一時的にそれを行うだけの経済的余裕はスペイクにあったとみるのが妥当ですが,無償でそれを行うほど余裕があったわけではなく,立て替えた葬儀費用に関しては何らかの形で返却してもらう必要があったのでしょう。おそらくスペイクはスピノザの友人のことは知っていたかもしれませんが,スピノザの親族にだれがいるかは知らかったと思われます。したがって確実に立て替えた葬儀費用を返却してくれると思える人がスペイクにはいませんでした。だからスピノザの遺品を売却することによって,どの程度の売り上げが見込め,それで葬儀費用を賄うことができるかということをスペイクは知る必要があったということです。
 正確な目録が作成されたのは3月2日になってからでした。しかしスピノザの葬儀と埋葬はその前に行われています。これは遺体をあまり長く放置することができなかったという事由によるものかもしれませんが,フロイデンタールはこの間に立て替えた葬儀費用を返却してもらえる目途がスペイクに立ったからと説明しています。いうまでもなくこれは,リューウェルツJan Rieuwertszによる保証です。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,3月6日付の手紙でリューウェルツが保証したとなっていますが,確かにこの手紙は葬儀費用そのものを支払ったということを意味する内容になっていますから,それより前にリューウェルツがそれを保証していたということはあり得るでしょう。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡七十四&死の前日

2024-08-31 19:13:05 | 哲学
 書簡七十五は書簡七十四への返信です。書簡七十四は1675年12月16日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに出されたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 オルデンブルクはこの1ヶ月ほど前に書簡七十一を送っています。ただその書簡があまりに短かったために,スピノザは不満を抱きました。その不満を解消させるためにこの手紙が送られたという経緯になります。
 オルデンブルクが説明しているのは,スピノザの思想のどの部分が人びとの難点となっているかということです。それは,スピノザがすべての事象および行動の運命的な必然性necessitasを主張しているということです。オルデンブルクによればこれを容認してしまうと,すべての律法や徳virtusといった宗教religioの中枢が断ち切られ,報償や刑罰が無意味になってしまうのです。
 さらにオルデンブルクはスピノザにふたつの疑問を投げ掛けています。ひとつスピノザが奇蹟miraculumと無智を同じ意味に解しているように思われるけれどもそれはなぜかということです。これを質問するにあたってオルデンブルクはラザロの復活やイエスの復活を例として挙げ,こうしたことは神Deusの能力potentiaに帰することができるのだから,そうした奇蹟を信じることが無智と同じ意味であるはずがないという主旨の主張をしています。
 もうひとつは,神が人間の本性natura humanaを具有しているということをスピノザは否定しているけれども,それはなぜかというものです。ここでもオルデンブルクは聖書の文章を抽出し,神が人間の本性を具えているという意味をそれらの章句の中に見出し,それらの章句をスピノザはどう解するのかと質問しています。
 スピノザの哲学と関連させていえば,前者の質問は神と自然Naturaはそれほど異なったものではなく,自然法則はいたるところで同一であるということと関連します。奇蹟を自然法則を超越したものと解するなら,自然のうちに奇蹟が生じる余地はないことになります。後者の質問は,神からの人格の排除と関連します。神を人間のようなものと考えるのは,人間に特有の考え方といわなければならないのであり,この意味での優越性を人間は有していないのです。

 それではコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中身を検討していきましょう。せっかくの機会なので,スピノザが死ぬ前日の記述からみていきます。
 1677年2月22日,この日は土曜であったとコレルスJohannes Colerusは書いています。この日にスペイクは妻とふたりで教会に行き,牧師,というのはコレルスの前任者と思われますが,その牧師の予備の説教を聞きに行きました。帰宅したのは午後4時ごろで,コレルスが帰宅するとスピノザが自身の部屋から下りてきたとされています。スピノザの部屋のことをコレルスは表部屋の寝台と記述していますが,それが何を意味するかは僕にはよく分かりません。ただ,下りてきたといわれている以上,スピノザが間借りしていたのはスペイクの家の1階ではなかったということは確かでしょう。
 下りてきたスピノザは煙草をふかし,しばらくの間スペイクと話をしました。その中には午後にあった牧師の説教の話もあったと書かれています。この牧師はコルデスという名前ですが,コルデスは博学の上に誠実であったから,スピノザの尊敬を受けていて,スピノザもたまに説教を聞きに行くこともあったとスペイクはいっていますので,それが本当であればこのときに説教の内容が話題となっても不思議ではありません。ただ,前もっていっておいたように,スペイクにはスピノザのことをコレルスによく思ってもらいたいという気持ちを持つ十分な理由があり,このエピソードはコレルスにそう思わせる内容を有していますから,すべてが本当のことであったということはできないかもしれません。ただこの日にスピノザがスペイクと何らかの話をしたということについては疑う必要はないのではないかと思います。
 翌日は日曜だったのでルター教会では礼拝がありました。その礼拝にスペイクと妻が出かける前にスピノザはまた下りてきて,ふたりと話をしました。このときにスピノザはアムステルダムAmsterdamから医師を呼んでいて,この医師が年老いた鶏を調理してそのスープを昼食としてスピノザに摂らせるようにいいつけたので,スペイクはその通りにしたといっています。実際に調理したのは家人となっていますから,たぶんスペイクの妻だったでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡七十一&破門以後

2024-08-20 19:00:35 | 哲学
 書簡七十三は書簡七十一への返信として書かれました。書簡七十一は1675年11月15日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに送られたものです。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 スピノザはこの時点では完成していた『エチカ』を出版するつもりだったのですが,政治状況もあってそれが危機に瀕していました。そのことを書簡六十八でオルデンブルクに伝えていました。オルデンブルクは,スピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で読者に衝撃を与えている個所を緩和しようとしていると思っていて,そのことは結構だといっています。そしてスピノザの質問に答える形で,その衝撃を与えている個所を3点あげています。
 ひとつめは,スピノザが神Deusと自然Naturaを混同しているということです。
 ふたつめは,スピノザが奇蹟miraculumの価値と権威を否定しているということです。
 みっつめは,イエス・キリストの化肉と贖罪について,スピノザが自身の意見を秘匿しているということです。
 これらのことをオルデンブルクは,自身の意見としてではなく,人びとの意見として質問しているのが特徴です。ひとつ目については,きわめて多くの人びとの意見に従うのであれば,スピノザは神と自然を混同しているといっていて,オルデンブルクがそのように解しているとは必ずしも読めない書き方になっています。ふたつめについては,奇蹟の上にのみ神の啓示の確実性certitudoは築かれ得るとほとんどのキリスト教徒は信じているとなっていて,常識的に考えればほとんどのキリスト教徒のうちにオルデンブルクも入るでしょうが,オルデンブルクはそこには含まれないという読み方も可能です。みっつめについても,スピノザが自身の意見を秘していると人びとはいっているという書き方になっていて,それがオルデンブルク自身の意見であるとは明言されていません。
 これらは人びとの意見に乗じてオルデンブルクがスピノザを問い詰めようとしたからだとも考えられるでしょう。ただ一方で,オルデンブルクは『神学・政治論』を真剣に読んでいないか,あるいは読んでもはっきりと理解できなったがゆえに,このような仕方でしか書けなかったという可能性もあるでしょう。

 残るひとりの姉妹であるレベッカはどうでしょうか。
 スピノザは1656年7月にユダヤ教会から破門宣告を受けています。何度もいっているように,これは単にユダヤ教徒と認めないとか,教会への立ち入りを禁止するといった宗教的な意味だけをもつのではなく,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体からスピノザを追放するという意味でもありました。というより,後者の意味が強かったと考えて間違いありません。だからこの宣告を受け入れたスピノザは,そのときからはユダヤ人共同体から出ていったわけです。ただこれはスピノザだけが宣告されたものですから,スピノザの親族には無関係です。なのでこの時点でまだ生きていたスピノザの親族は,共同体に残ったのです。アムステルダムのユダヤ人はスピノザとの接触を禁じられていましたので,1656年7月以降は,スピノザとスピノザの親族との接触は一切なかったと解して間違いないでしょう。親族はスピノザとの接触を禁じられていましたし,スピノザの方でも接触しようというつもりはなかったと思われます。
 ところがレベッカは,スピノザの破門後の伝記の中に登場します。もっともそれはスピノザが死んだ後のことです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには次のようなことが書かれています。
 スピノザの死後,そのときにスピノザが住んでいた家の大家であったスペイクに,レベッカがスピノザの遺産の相続人であると申し出ました。そこでスペイクは,葬儀費用とスピノザが抱えていた借金の前払いをレベッカに依頼したのですが,レベッカはそれを断りました。そのためにスペイクは公証人に依頼して公正証書を作成し,正式な形でレベッカに費用の請求をしました。しかしレベッカは,支払いの前に遺産の剰余金があるかを知りたかったので,その請求には従わなかったのです。そこでスペイクは裁判所に訴え,スピノザの遺品を公売所で競売する権限をもらい,実際に競売にかけました。その売上金はその場でレベッカが差し押さえたのですが,剰余金は残ったとしても僅かだったので,遺産の相続を放棄したのです。
 コレルスの伝記はスペイクからの聞き取りですので,ある程度は信頼できるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする