ここまでに示してきたことを根拠に推測を進めれば,スぺイクは確かにスピノザのことを称えようとする動機を有してはいたものの,スピノザの日々の生活態度が品行方正であったこと,いい換えれば敬虔pietasであったことについてコレルスJohannes Colerusに証言するときには,それを大袈裟に語ることはあったとしても,作り話をするということはなかっただろうと思われます。たとえば僕はスぺイクが,あたかも自分の面前でスピノザはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの資金提供を辞退したというようにコレルスに語ったのだと思いますが,これは,資金提供を辞退したという事実に脚色を加えたものであって,実際にスピノザがそれを辞退したという点については疑う必要はないのだと解します。ただ,この種の脚色はほかの部分にも加えられている可能性は残りますから,この点についても,コレルスによる伝記を読む際には注意する必要はあると考えます。
スピノザが1669年暮れか1670年の初めにフォールブルフVoorburgからデン・ハーグに移り住んだとき,オランダ政治の実権はヨハン・デ・ウィットJan de Wittが握っていました。ですがその後,ウィットは失脚し,反動的勢力を支持する民衆によって虐殺されました。これにより政治権力は議会派から王党派へと移行したのです。そして1674年には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は禁書に指定されました。ですから1671年よりも1675年の方が,スピノザは自身の哲学思想をあからさまにすることに対して,より慎重になっていたと考えられます。つまり僕はスピノザがスぺイクHendrik van der Spyckの家に間借りすることになった時点でも,自身の哲学思想を語ることについてはたぶん慎重であったと思うのですが,そうした姿勢はスぺイクの家に住んでいる間により増進したのではないかと思うのです。
書簡四十六が送られたのは1671年11月で,これはすでにスピノザがスぺイクの家に住むようになってからのことです。つまりその時点でスピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのことを,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読むに値する人物,すなわち理性的に思索することができる人物であると認識していたことになります。ところが1675年にチルンハウスがシュラーGeorg Hermann Schullerを介してライプニッツに『エチカ』の草稿を読ませることの許可を求めたとき,スピノザはそれを許しませんでした。その理由は書簡七十二に示されていて,ドイツのフランクフルトで顧問官を務めていたライプニッツが,なぜチルンハウスが滞在していたパリにいるのか,納得することができないからとしています。同じ書簡の中でスピノザは,ライプニッツが確かに自由な精神を持ち合わせた人物であるということは肯定しているのですが,それでもなお,『エチカ』を読ませるのには時期尚早であると判断を下しているのです。
実際にはチルンハウスはその指令を守らず,少なくとも草稿の一部はライプニッツに読ませたか,詳しい内容を話したかのどちらかであると推定されます。ですがそうした歴史的事実は今は関係ありません。自由な精神をもっていることを認めている人物にさえ,『エチカ』の草稿を読ませようとはしなかったというスピノザの姿勢が重要です。
書簡四十六では,『神学・政治論』を送ることを提案しているので,スピノザは自身の思想を他者に教えることに慎重であったとは断定できないようにも思えます。その時点でもスピノザはライプニッツと会ったことすらなく,スぺイクと比較するなら,見知っていたスぺイク以上の他者であったという見方も不可能ではないからです。ですが,『神学・政治論』は公刊されていたものですから,別にスピノザが送らずともライプニッツは読めたでしょうし,そもそもその文面からは,すでにライプニッツがそれを読んでいるという可能性もスピノザは否定していません。ですからそれを送ることを提案したことよりも,『エチカ』の草稿を読ませることを認めなかったということの方が,スピノザの基本的な姿勢に合致するのではないかと僕は考えます。
もしスぺイクがリュカスJean Maximilien Lucasがしたように,スピノザの思想とキリスト教の教えとの融和性をコレルスJohannes Colerusに語ったとしても,コレルスはそれには反駁したし,そうした見解を認めることもなかったと思います。ですが実際にスぺイクとコレルスの間でそういうやり取りはなかっただろうと僕は推測します。スぺイクがスピノザの思想に詳しかったとは思わないからです。
画家の親方というのがどういう身分であったのかは分かりませんが,さらに家賃収入も得てほかの仕事もしていたのですから,経済的に余裕があったとまではいえないと思われます。その理由のひとつには,夫人との間に多くの子どもがいたということがあったでしょう。そうしたことからも,おそらくスぺイクは日々の生活に手一杯で,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』や『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』などを読むような時間的な余裕があったように思えません。スピノザがそれらの著者であるということを知らなかったという可能性は低いでしょうし,そうした著作のゆえにスピノザが批判の対象となっていたということは知っていたと思いますが,その哲学思想の内容を詳しく知っていたということはないと思うのです。ですからコレルスがそれについてどう把握していたのかということは関係なく,スぺイクがスピノザの哲学について何かを言及するということは,そもそも不可能であったと僕は判断します。
ただ,この点についてはスピノザの側からも検証する必要があります。もしスピノザが自主的に自身の哲学について話すようなことがあれば,スぺイクはその概略については知り得るでしょうし,さらに詳しいところまで知る機会を得るだろうからです。実際にスぺイク一家とスピノザの関係は良好なものであったと考えられますから,そうした機会が絶対になかったとまでは断定できないでしょう。
書簡四十六でスピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対し,もし『神学・政治論』をまだ入手していないのなら,それを送りますと書いています。スピノザはこの本の読者を,理性的に思索する人に限定したいと思っていました。ですからライプニッツはそれを読んでも構わない人物だとその時点では認識していたことになります。
僕はスぺイクHendrik van der Spyckの証言のすべてが虚飾に満ちたものであったとは考えません。スピノザが敬虔pietasであったということはリュカスJean Maximilien Lucasの伝記La vie et l'esprit de Mr.Benoit de Spinozaからも明らかで,確かにリュカスにもまた,スピノザを賛美する動機はあったでしょうが,ふたりが同じように同じ事柄を虚言によって賛美することは不可能であると思われるからです。なのでスピノザが敬虔な人物であった,他面からいえば生活上の無神論者ではなかったということは真実であったと考えます。
さらにいうと,リュカスがスピノザの敬虔さないしは品行方正さを称えるとき,それは主に金銭や地位に対する私心のなさが強調されます。スぺイクもそういう部分でスピノザを称える証言をしたと思われ,そうした記述がコレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中にも見られます。そしてたぶんこの点が,スぺイクがスピノザのことを尊敬した理由の大きな部分を占めると僕は思います。実際にスぺイクがスピノザに敬愛の情を有していたということを僕は肯定しますので,そうした部分に関しては,リュカスの場合にもスぺイクの場合にも誇張はあると解するのが安全かと思いますが,そのすべてが虚偽であるというようには解する必要はないのではないかと思います。少なくともそうでないと,スぺイクがスピノザに好意を抱く理由が欠けてしまいますし,リュカスにしても,単にスピノザの思想に共鳴したというだけで,スピノザの生活を全面的に賛美するとは考えにくいからです。リュカスもまたスぺイクと同様に,スピノザの日々の生活の多くを知っていたと思われるからです。
しかし,スぺイクがスピノザを賛美する文脈のうちには,リュカスがあまり多くを記述していない事柄があります。それが宗教すなわちキリスト教と関連する事柄です。リュカスがスピノザの聖書と理性の分離に関してどの程度まで理解していたかは分かりません。リュカスは伝記の最後の部分で,新約聖書のキリストの掟が人間を神Deusと隣人への愛amorに導くが,スピノザによればそれは理性ratioが人間に教えるものであるとしていて,これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の主張に同じです。ですが同時に理性がキリスト教を規定するともいっていて,これは違った見解opinioだといえるでしょう。
場合によってはコレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaよりリュカスJean Maximilien Lucasの伝記が信用に値するとフロイデンタールJacob Freudenthalが考える理由は,証言者としてのスぺイクHendrik van der Spyckが信用に値しないからでした。このゆえにフロイデンタールはコルトホルトSebastian KortholtやベールPierre Bayleにも疑念を抱いているのですが,僕はコレルスの伝記に焦点を絞ります。というのも僕が考えたいのは,スぺイク自身にあるからです。
『スピノザの生涯』を読んで,確かにフロイデンタールの見解に一理あると僕は思いました。ですがそのことは,コレルスの伝記の中に明確に誤りである事柄,すなわちスピノザがあたかもスぺイクの面前でシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの金銭の提供を辞退したことが記述されているからではありません。むしろスぺイクはスピノザに好意を抱いていた,あるいは敬愛の情をもっていたという点にあるのです。そうであるならスぺイクには,スピノザを実際よりも立派な人物として他者に語る動機が存在するといえます。つまり,リュカスの日記は僕にも必要以上にスピノザを賛美している部分があるように感じられ,それはリュカス自身が親スピノザという立場であったことが動機となったと思われるのですが,それと同じことが,スぺイクの場合にも該当する可能性があると僕は考えたのです。
スぺイクに実際に取材したふたりのうち,セバスティアン・コルトホルトが書いたのは,父Christian Kortholtが書いた『三人の欺瞞者論De Tribus Impostoribus Magnis』の序文です。つまりその著書はスピノザを欺瞞者とみなしていることが明らかで,スピノザを批判しようという意図を有していることが明らかです。一方,コレルスはルター派の説教師であり,その説教を聞くためにスぺイクが出掛けることによってふたりは知り合いました。したがってコレルスはキリスト教を信仰していなかったスピノザのことを快くは思わないであろうということを,スぺイクは容易に推定できたでしょう。したがってそのふたりにスピノザのことを話す場合には,スピノザのことを美化して話したとしておかしくありません。それはスピノザのためでもありますし,自分のためにもなり得ます。すなわち無信仰のスピノザに5年半にもわたって部屋を貸していたことの弁明にもなり得るのです。
あとのふたり,すなわちセバスティアン・コルトホルトとコレルスJohannes Colerusには,ベールにみられるような個人的にして特殊な事情はなかったようです。なのでなぜふたりが,スピノザを思想的には無神論,つまり信仰fidesをもたない人であると認めているのに,その生活は敬虔pietasであったということを,客観的に記述することができたかはよく分かりません。とりわけコレルスは,ルター派の説教師としての立場から,スピノザがキリスト教を信仰していなかったことについて厳しく非難しています。そうであるならそのような批判を受けるべき存在であるスピノザが,品行方正に暮らしていたということを伝記として記述し,多くの人に読ませようとするのは,コレルスにとっては不都合な真実を不特定多数の人に知らせるようなものであったのではないかと思えます。なぜなら,それは自分の説教などは聞かずとも,敬虔な生活を送ることが可能であるということを伝えようとすることに等しいと思えるからです。
ただ,一点だけこのふたりに共通していることがあります。コルトホルトはドイツからオランダまで出掛けてスぺイクを取材したのです。一方,コレルスはドイツで説教師になった後,オランダに招聘されて,そこで生涯を終えました。つまりふたりともドイツ人であったのです。これに対してスピノザはマラーノすなわち人種的にはユダヤ人ですが,産まれ育ったのはオランダです。フェルトホイゼンLambert van Velthuysenはユトレヒトで産まれていて,これはフランス軍による占領前のことですから,オランダ人です。なのでドイツの文化とオランダの文化には,信仰心と生活との間の関係に対する考え方に相違があったというのは,可能性としては指摘できます。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもドイツ人でした。そしてライプニッツもまた,信仰心はなくても敬虔であることは可能であるという実例としてスピノザに言及しています。ライプニッツとスピノザが会見したのは一週間ほどだったと思われますので,ライプニッツがスピノザの生活をすべて知っていたとは思えませんが,考え方としてスピノザやフェルトホイゼンより,同じドイツ人のコルトホルトやコレルスに近かったのは間違いないでしょう。
本題からは外れてしまうのですが,直接的にであれ間接的にであれスぺイクHendrik van der Spyckへの取材を基に書いた3人には,それ以外の共通点があります。 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは書簡四十二の中で,自分はスピノザ,といってもこの書簡を書いた時点でのフェルトホイゼンには匿名で出版された『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者がだれであるか分かっていなかったので,単に著者となっていますが,その生活などは知りたくもないし興味もないと書いています。フェルトホイゼンにはスピノザが信仰fidesを否定しているように思えたので,無神論者とみなし,堕落した生活を送っている人間であると想定されたからです。それに対してスピノザは書簡四十三の中で,もしフェルトホイゼンがスピノザ自身の生活ぶりを知ったならば,自分のことを無神論者などとはみなさないであろうと応じています。スピノザは自分が無神論者であるとは思っておらず,むしろ敬虔pietasであるという自己認識を有していたのです。
このやり取りは,どちらの場合であれ,信仰をもたない,というのは事実上はキリスト教を信仰しないという意味ですが,そういう人間は敬虔であることはできず,必然的にnecessario無神論者となるということが一般的な認識cognitioであるとみなしている点で共通します。フェルトホイゼンはその認識を規準にスピノザの生活を推測したのですし,スピノザの方はそれが一般的な認識であるという前提の下に,その一般的認識が誤りerrorであるといっているからです。なので無神論者とは放埓な生活を送るものであり,その場合に神Deusとはキリスト教神学的な意味での神に限定されるというのが一般的な認識であったとこのブログでは推定しています。
ところが,前述の3人は3人とも,そうした認識cognitioを共有していません。むしろ信仰心すなわちキリスト教の神に対する信仰を有していなくても,敬虔であることが可能であるということは,自明のことであるかのように認識しているのです。つまり信仰上の無神論と生活上の無神論の間には必然的な因果関係はないという点で一致しているのです。実際に3人はスピノザが思想上は無神論者であるとみなし,しかしその生活は敬虔なpiusものであったことを主張しています。
スピノザはスぺイクの家で最後の5年半を暮らしました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,その間のスピノザとスぺイク一家の関係は,和やかで親密であったようにみえるとされています。おそらくこれは事実で,僕の推測ではスぺイクはスピノザに対して好感を抱いていたし,好意をもって接したのです。だからスぺイクはスピノザの遺言めいた指示を守り,机をリューウェルツJan Rieuwertszが滞りなく入手できるように取り計らったのだと思います。
スピノザの葬儀の費用は,最終的にはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの遺族から提供を受け,リューウェルツが支払いました。コレルスJohannes Colerusの伝記には,リューウェルツがその費用を同封した手紙をスぺイクに送ったと記されています。ですがこの手紙は3月6日付です。スピノザが死んだのは2月21日で,葬儀は25日には終っていました。コレルスは懇願を受けたスぺイクが葬儀の世話をしたとだけ記述していますが,要するに費用は一時的にスぺイクが立て替えたのです。満員の乗合馬車が6台も出るほど大きな葬儀で,さらに埋葬後に近隣住民を自宅に招いてワインも振舞ったとされています。これは一宿主がその下宿人の葬儀に対して執り行うレベルの葬儀の規模を超越しているように思われます。僕がスぺイクはスピノザに好感を抱いていたと推測する根拠はこれです。少なくとも両者の関係が,単なる宿主と下宿人というものであったとは思われません。スぺイクはスピノザに好感をもっていたし,それは敬愛していたとか尊敬していたということばで表現するのが的確な感情であったと思うのです。
ではなぜスぺイクがスピノザに対してそこまでの感情を抱くに至ったかといえば,スぺイクがスピノザの日常生活を熟知していたからだと僕は思うのです。王党派の支持者であったコンスタンティン・ホイヘンスConstantijin Huygensは,王党派との結びつきが強かったカルヴァン派の牧師たちの非難には目もくれず,スピノザが自身の別荘に立ち寄ることを拒みませんでした。それはコンスタンティンがスピノザがどういう人間であるかをよく知っていたからだと僕は推測しました。コンスタンティンと同じことが,スぺイクにも当て嵌まると僕は考えるのです。
スピノザが死んだときの宿主であったヘンドリック・ファン・デル・スぺイクは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では画家の親方であったと記されています。親方というのが何を意味するかは僕は分かりません。主に室内装飾画を集中的に描き,肖像画を手掛けることもあったそうです。『人と思想 スピノザ』には,この時代のオランダでは部屋を飾るための一枚画は大いに必要で,そうした需要は中流所得の商人や農家にも及んでいたと書かれていますので,おそらくそういう絵を描いて生計を立てていたと思われます。ただ,スぺイクにとってはそれだけでは十分ではなく,ほかに家賃収入があり,さらに軍隊に奉仕する事務弁護士も務めていたようです。
妻はイダ・マルガレータ・ケッテルリンフ。あるエピソードとして紹介した夫人はこのケッテルリンフです。スピノザが住むようになったとき,ふたりの間に3人の子どもがありました。そしてスピノザが死ぬまでの5年半の間に,さらに4人の子どもが産まれています。おそらく一家全員,といっても幼い子どもをそこに含めていいかは微妙ですが,ルター派のプロテスタントであったものと推定されます。
スぺイクが死後のスピノザのために果たした役割は,かつて書いたように甚大です。スピノザはスぺイクに対し,もし自分が死んだときには,書簡も含む原稿の類のすべてを入れてある執筆用の机を,リューウェルツJan Rieuwertszに送るように依頼していました。スぺイクはその指示を忠実に守りました。このために『エチカ』も含む未発表,といっても何人かは知っていたでしょうが,公にはされることがなかった遺稿をリューウェルツは入手することができ,遺稿集Opera Posthumaを編纂し発刊することも可能になったのです。もしこのときスぺイクがスピノザの指示を無視していたなら,僕たちがスピノザが書いたものを今のような形で読むことは不可能だったのかもしれないのです。
ただ,スピノザはこの時代のオランダにおいては,激しく論難される存在でした。ルター派の説教師だったコレルスJohannes Colerusも,思想面では伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中でスピノザを厳しく批判しています。なぜスぺイクは指示を無視し,机を廃棄したりしなかったのでしょうか。