ホクトベガメモリアルの昨晩の第28回スパーキングレディーカップ。

先行争いも予期されたところでしたがわりと楽にボヌールバローズがハナに立ち,フーリッシュホビー,ヴィブラフォン,カラフルキューブの順で折り合いました。2馬身差でミチノアンジュ。6番手にライオットガール。7番手にミラクルティアラ。8番手にスピーディキックで9番手はキャリックアリードとドライゼ。2馬身差でアーテルアストレア。スノーパトロールは道中で離されていきました。前半の800mは49秒5のハイペース。
3コーナーからボヌールバローズ,フーリッシュホビー,ヴィブラフォンは雁行。直線の入口では捲り切ったヴィブラフォンが単独の先頭に立ちました。追ってきたのは後方に待機していた2頭で,大外がアーテルアストレア。馬群を捌いてヴィブラフォンとアーテルアストレアの間に進路を取ったのがキャリックアリード。ヴィブラフォンが脱落して2頭の優勝争いとなり,制した外のアーテルアストレアが優勝。キャリックアリードがクビ差で2着。ヴィブラフォンは1馬身半差で3着。外に出すタイミングがなくずっと内を回ったスピーディキックが1馬身半差の4着。スパートのタイミングを逸したライオットガールが2馬身半差で5着。
優勝したアーテルアストレアはクイーン賞以来の勝利で重賞3勝目。このレースは今年に入って重賞を勝っているアーテルアストレアとライオットガール,この2頭と勝ったり負けたりを繰り消しているキャリックアリードが3強。神奈川記念でキャリックアリードを負かし,今年はまだ1戦のヴィブラフォンが3強に続くという勢力図。スピーディキックも昨年のこのレースで2着になっていて,復調すれば勝負圏内という馬ですから,かなり順当な結果になったといえそうです。アーテルアストレアはこのように後方から差し脚を繰り出す方が持ち味が生き,また距離も1800mより長くなるよりは短くなった方がいいというタイプなのでしょう。上位勢は突き抜けた能力には欠けるもののいずれも安定勢力なので,今後も勝ったり負けたりを繰り返していくことになりそうです。父は2009年のきさらぎ賞と2010年のマイラーズカップを勝ったリーチザクラウンでその父がスペシャルウィーク。セレタ系ダイナエイコーンの分枝で母の2つ上の半兄に2018年のマーチステークスを勝ったセンチュリオン。Aterはラテン語で黒い。Astraeaはギリシア神話の女神。
騎乗した菱田裕二騎手と管理している橋口慎介調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。
僕の考えでいえば,社会契約論を用いて国家Imperiumの成り立ちを説明することには,ある種の限界が設定されています。それは自然権jus naturaeを放棄すると規定しても,自然権を放棄しないと規定しても,限界の地点や限界の種類に違いは出るかもしれませんが,どちらにしても限界点を迎えてしまうという意味です。ただし同時に,僕は次の点については認めます。
自然権というのは,現実的にある人間が存在するとき,その人間が有している力potentiaと同じ意味です。なのでこの自然権は自然法lex naturalisによって与えられているとみるべきであって,自然法が自然権を放棄するように人間に命じることはあり得ないと僕は考えます。よってこの点については,僕はホッブズThomas Hobbesの立場よりスピノザの立場に位置します。そしてこれはひとりの人間に与えられた力なので,ひとりの人間がもつ力という点での限界があります。ただ自然のうちには,ひとりの人間だけではなし得ないけれども,何人かの人間が協力すれば成し遂げられるという事象が存在します。そこでそのひとりの人間が他者と協力してそれをなすとすれば,その人間はより多くのことを成し遂げることができるといわなければなりません。それはその人間がその分だけ大きな力をもつという意味です。したがって力が自然権であるとすれば,この限りではその人間の自然権は拡大するのです。
このとき,ひとりの人間が他者と協力する場合に,前もって何らかの契約pactumが現にあると断定することはできないと僕は考えます。契約がある場合もあるでしょうが,契約なしに複数の人間がひとつの事柄をなすために協力するということはあり得るからです。ただ,その協力が実際に行われているという場合には,契約が履行されているとみることは可能なのであって,社会契約というのが,現にこのような仕方で契約が履行されている,つまり複数の人間がひとつの事柄に向かって協力しているという状態においてはあるということは,僕は否定しません。つまり,協力状態以前に一回性の社会契約があると認めると限界を迎えてしまうので,僕はそれがあるとはいいませんが,協力されている状態を社会契約の履行というなら,社会契約があるといえます。

先行争いも予期されたところでしたがわりと楽にボヌールバローズがハナに立ち,フーリッシュホビー,ヴィブラフォン,カラフルキューブの順で折り合いました。2馬身差でミチノアンジュ。6番手にライオットガール。7番手にミラクルティアラ。8番手にスピーディキックで9番手はキャリックアリードとドライゼ。2馬身差でアーテルアストレア。スノーパトロールは道中で離されていきました。前半の800mは49秒5のハイペース。
3コーナーからボヌールバローズ,フーリッシュホビー,ヴィブラフォンは雁行。直線の入口では捲り切ったヴィブラフォンが単独の先頭に立ちました。追ってきたのは後方に待機していた2頭で,大外がアーテルアストレア。馬群を捌いてヴィブラフォンとアーテルアストレアの間に進路を取ったのがキャリックアリード。ヴィブラフォンが脱落して2頭の優勝争いとなり,制した外のアーテルアストレアが優勝。キャリックアリードがクビ差で2着。ヴィブラフォンは1馬身半差で3着。外に出すタイミングがなくずっと内を回ったスピーディキックが1馬身半差の4着。スパートのタイミングを逸したライオットガールが2馬身半差で5着。
優勝したアーテルアストレアはクイーン賞以来の勝利で重賞3勝目。このレースは今年に入って重賞を勝っているアーテルアストレアとライオットガール,この2頭と勝ったり負けたりを繰り消しているキャリックアリードが3強。神奈川記念でキャリックアリードを負かし,今年はまだ1戦のヴィブラフォンが3強に続くという勢力図。スピーディキックも昨年のこのレースで2着になっていて,復調すれば勝負圏内という馬ですから,かなり順当な結果になったといえそうです。アーテルアストレアはこのように後方から差し脚を繰り出す方が持ち味が生き,また距離も1800mより長くなるよりは短くなった方がいいというタイプなのでしょう。上位勢は突き抜けた能力には欠けるもののいずれも安定勢力なので,今後も勝ったり負けたりを繰り返していくことになりそうです。父は2009年のきさらぎ賞と2010年のマイラーズカップを勝ったリーチザクラウンでその父がスペシャルウィーク。セレタ系ダイナエイコーンの分枝で母の2つ上の半兄に2018年のマーチステークスを勝ったセンチュリオン。Aterはラテン語で黒い。Astraeaはギリシア神話の女神。
騎乗した菱田裕二騎手と管理している橋口慎介調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。
僕の考えでいえば,社会契約論を用いて国家Imperiumの成り立ちを説明することには,ある種の限界が設定されています。それは自然権jus naturaeを放棄すると規定しても,自然権を放棄しないと規定しても,限界の地点や限界の種類に違いは出るかもしれませんが,どちらにしても限界点を迎えてしまうという意味です。ただし同時に,僕は次の点については認めます。
自然権というのは,現実的にある人間が存在するとき,その人間が有している力potentiaと同じ意味です。なのでこの自然権は自然法lex naturalisによって与えられているとみるべきであって,自然法が自然権を放棄するように人間に命じることはあり得ないと僕は考えます。よってこの点については,僕はホッブズThomas Hobbesの立場よりスピノザの立場に位置します。そしてこれはひとりの人間に与えられた力なので,ひとりの人間がもつ力という点での限界があります。ただ自然のうちには,ひとりの人間だけではなし得ないけれども,何人かの人間が協力すれば成し遂げられるという事象が存在します。そこでそのひとりの人間が他者と協力してそれをなすとすれば,その人間はより多くのことを成し遂げることができるといわなければなりません。それはその人間がその分だけ大きな力をもつという意味です。したがって力が自然権であるとすれば,この限りではその人間の自然権は拡大するのです。
このとき,ひとりの人間が他者と協力する場合に,前もって何らかの契約pactumが現にあると断定することはできないと僕は考えます。契約がある場合もあるでしょうが,契約なしに複数の人間がひとつの事柄をなすために協力するということはあり得るからです。ただ,その協力が実際に行われているという場合には,契約が履行されているとみることは可能なのであって,社会契約というのが,現にこのような仕方で契約が履行されている,つまり複数の人間がひとつの事柄に向かって協力しているという状態においてはあるということは,僕は否定しません。つまり,協力状態以前に一回性の社会契約があると認めると限界を迎えてしまうので,僕はそれがあるとはいいませんが,協力されている状態を社会契約の履行というなら,社会契約があるといえます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます