スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&ひとつ目の疑問

2022-05-31 19:16:05 | 将棋
 昨日の第15期マイナビ女子オープン五番勝負第四局。
 西山朋佳女王の先手で三間飛車。すぐに自ら角を交換して,角交換型の相向飛車に進展しました。後手の里見香奈女流四冠から仕掛けていく将棋で,一旦はよくなったように思えるのですが,踏み込みを欠くところがあり,ここのところ西山女王が連続して採用している玉型が生きる展開に。
                                        
 第1図は先手玉の左側が広いのですでに有利。どのように攻めていくのかというところですが,一気に決めました。
 まず☗2二歩☖同飛で後手の飛車の位置を変えます。そして☗3一角の飛車取り。☖3二飛に☗6四桂と打つのが強烈な一手。☖6二玉は☗4一銀と打たれてしまうので☖同歩の一手ですが,☗同角成が詰めろとなり,大勢が決しました。
                                        
 この後,打った駒を取られるポカが出て投了となりましたが,第2図で将棋は決まっていますので,勝敗に影響したわけではありません。
 西山女王が勝って2勝2敗。第五局は来月13日に指される予定です。

 シュトラウスLeo Straussが抱いたであろう疑問のうち,最初のものについては,スピノザがどう考えるか分かりませんが,僕は強く否定しません。それは以下の事情によります。
 一般に,現実的に存在する人間が何事かをなすと仮定して,そのことをXと命名したとしましょう。このとき,もしXが,現実的に存在する人間にとってなし得ないことであるなら,つまりそれが現実的に存在する人間にとって不可能であるなら,そのことをXということ自体が無意味であるといえます。しかしそうでなく,それがどれほど困難なことであったとしても,現実的に存在する人間にとってなし得ることであるなら,つまり現実的に存在する人間にとって不可能なことではないなら,それをXということには意味があると僕は考えます。むしろこの場合,人間がなすそのことを,Xというべきであると考えられる場合は,そのことを積極的にXというべきであると僕は考えるのです。
 『人間における自由Man for Himself』でフロムErich Seligmann Frommは,多くの人びとにおいては良心の声がきわめて弱く,それを聞くことができないので,良心が働くこともないといっていて,それを良心の性質に帰していました。しかしこれは,現実的に存在する人間は良心の声を聞くことができず,したがって良心が働くということもないということを意味しているわけではありません。確かに良心というものの性質自体が,その声を聞いたり,またそれを聞くことによって良心が働いたりすることを,現実的に存在する人間に対して極度に困難にしているとフロムは考えているといえますが,だからといって良心の声を聞いてそれを働かせることが不可能だといっているわけではないからです。なので,もしフロムがそういう性質を有するもののことを良心というべきであると考えるなら,そうした性質のことを良心というべきであると僕は考えるのです。それが存在する人間にとって困難であるか容易であるかということと,それを良心というべきか否かということとに間には,何の関係もないと僕は思うからです。他面からいえば,だれでも容易にそれを聞き,それを働かせることができる性質を,良心といわなければならない理由はないからです。
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人間における自由&シュトラウスの疑問

2022-05-30 19:18:02 | 哲学
 『スピノザ〈触発の思考〉』の第1章で取り上げられているフロムErich Seligmann Frommの『人間における自由Man for Himself』を詳しく紹介しておきましょう。
                                   
 原題から分かるように,『人間における自由』というのは意訳です。フロムの最も有名な著書はおそらく『自由からの逃走Escape from Freedom』であって,その関連からこのような題名に訳されたものと思います。『自由からの逃走』が出版されたのは1941年で,この『人間における自由』は1947年。そしてフロム自身が,『人間における自由』は『自由からの逃走』の続編であるといっていますので,そんなにひどい意訳がされているというわけでもありません。
 『自由からの逃走』は,人間が,とくにフロムにとっての同時代人が,自由から逃避しようとしていることを分析しています。それに対して続編の『人間における自由』では,人間の自己実現のための規範と価値の問題が分析されています。そのために原題はそうなっているということでしょう。フロムはこの規範と価値を,人道主義的倫理といっています。
 この説明から理解できると思いますが,この書物は伝統的な社会心理学と,倫理学とを結びつけるような内容になっています。フロムは冒頭で5人のことばを引用しているのですが,その5人とは,仏陀,老子,プラトンPlato,旧約聖書の預言者のひとりであるホセアHosea,スピノザです。これらの人物は一般的には社会心理学という学問の対象となるわけではありません。あえてそうした先人のことばを冒頭に引用することで,フロムはこの著書でどのようなことをなそうとしているのかを示そうとしているといえるでしょうし,また自身の学究的な意欲がおおよそどのような方向にあるのかということを示しているともいえるでしょう。
 『自由からの逃走』の続編ですから,読むなら先に『自由からの逃走』を読んでおいた方がいいです。ただ,『自由からの逃走』でなされている探求が繰り返されている部分もありますので,倫理的側面だけに関心があるという場合は,こちらだけを読んでも十分に理解することはできるでしょう。

 健康であったとしても,たとえば暴飲暴食を繰り返すような人は,自己の有を維持することに努めているとはいわれ得ず,自己の有を維持することを放棄しているといわれなければなりません。ですからこのような人は,有徳的であるどころか,無力impotentiaで不徳の人であるといわれなければなりません。なので,第四部定理二〇は,身体的に健康な人間は有徳的であり,病人は無力であるといっているわけではありません。
 現実的に存在するある人間が,何らかの病原菌に感染して体調を崩すということ,つまり健康な身体corpusから病気の身体になるということは受動passioであって,それが無力であることは否定できません。ただこのような意味でいえば,第四部定理四系により,現実的に存在する人間はだれでも無力であるということの一部分でしかありません。他面からいえば,常に有徳的であるという人間は現実的に存在しないのです。このために,健康な人間には健康な人間のvirtusと無力があるのと同じように,病人には病人の徳と無力があるのであって,病人であるがゆえに無力であり,健康であるがゆえに有徳的であるということはありません。このことは,健康な人間であるAと,病人であるBを比較した場合にだけ成立するわけではなく,同一人物の間でも成立します。つまりある人間は,健康な状態であるときには有徳的であり,病気に罹患しているときには無力であるというわけではないのです。
 第四部定理二〇がなぜ成立するのかということと,スピノザがこの定理Propositioでどのようなことをいわんとしていたのかということは,これで理解することができたと思います。とはいえこれだけでは,おそらくシュトラウスLeo Straussが感じたのであろう疑問については,何も解消されないでしょう。なぜなら,たとえスピノザがいわんとしたことが上述したようなことであったとしても,これでは有徳的であるか無力であるかということは個人の資質に帰せられることになり,だれもが有徳であることを目指すことはできないかもしれませんし,仮にそれがだれにでも目指せるものであったとしても,各人が自己の有を維持することに努めるconariだけでは,社会的融和は達成できないかもしれないからです。
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東京優駿&維持と放棄

2022-05-29 19:54:58 | 中央競馬
 日本ダービーの第89回東京優駿
 ジャスティンロックは2馬身ほどの立ち遅れ。マテンロウオリオンはすぐに控えました。先手を奪ったのはデシエルトで前半は2馬身くらいのリード。2番手にアスクビクターモア。1馬身半差でビーアストニッシドとピースオブエイト。3馬身差でプラダリアとロードレゼル。7番手にセイウンハーデス。8番手にアスクワイルドモアとジャスティンパレス。10番手にマテンロウレオとオニャンコポンとダノンベルーガとジオグリフ。14番手にドウデュース。2馬身差でキラーアビリティ。2馬身差でイクイノックス。5馬身差でマテンロウオリオン。最後尾にジャスティンロックという隊列。最初の1000mは58秒9のミドルペース。
 道中で一旦はリードを広げたデシエルトでしたが直線の入口では再び2馬身ほどに。追っていたアスクビクターモアは手応えがよく,ほどなく先頭に立つと,馬場の外の方へ進路を取っていきました。そのさらに外から差し込んできたのはドウデュースとイクイノックスの2頭。2頭のうち先んじていたドウデュースが優勝。イクイノックスがクビ差で2着。アスクビクターモアが2馬身差の3着で,アスクビクターモアの内から追ってきたダノンベルーガがクビ差で4着。
                                   
 優勝したドウデュースは朝日杯フューチュリティステークス以来の勝利で大レース2勝目。3連勝で朝日杯フューチュリティステークスを勝った後,今年は連敗していましたが,2着と3着ですから大きく崩れていたわけではありません。とりわけ前走の皐月賞は,位置取りが悪くて負けた感がありましたので,巻き返しが可能な内容でした。このレースは逆にイクイノックスの位置取りが悪すぎた感がありますので,上位馬の能力の差はそれほど大きくなく,よきライバルとして戦い続けていくことになると思われます。父はハーツクライ。馬名の英語表記はDo Deuce。
 騎乗した武豊騎手は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇。第65回,66回,69回,72回,80回に続き9年ぶりの日本ダービー6勝目。管理している友道康夫調教師は大阪杯以来の大レース18勝目。第83回,85回に続き4年ぶりの日本ダービー3勝目。

 現実的に存在するどのようなものも,自己の有を維持することに努めるconariのであれば,おおよそものの現実的本性actualis essentiaには,そのものの有esseを破壊するものあるいはそのものの有の維持を放棄することは含まれることはできません。ですから,現実的に存在するあるものが,それ自身の有を破壊するとかそれ自身の有の維持を放棄するということが生じるとすれば,それはそのものの現実的本性を原因causaとして生じるのではなく,それ自身の外部の原因によって生じるのです。つまり,ある人間の身体humanum corpusの現実的有actuale esseが破壊されるとか,ある人間が自身の現実的有の維持を放棄するといったことは,その人間の現実的本性を十全な原因causa adaequataとして生じるのではなく,外部の物体corpusを原因として,その外部の物体が十全な原因であるにせよ部分的原因causa partialisであるにせよ,何らかの外部の物体が原因となって生じるのです。第三部定理四がいっているのはこのことだといえます。
 よって,現実的に存在する人間の身体がある病気に罹患するということは,外部の物体を原因として生じるので,そのこと自体はその人間の身体の受動passioを意味します。よってこのこと自体は第四部定義八により,無力impotentiaであるといわなければなりません。ただしそれは,何らかの病気に罹患するということ自体がそういわれるだけなのであって,病気に罹患している身体についてそのようにいわれるわけではないのです。なぜなら,第四部定理二〇は,自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力であるといっていますが,病気に罹患している身体が,自己の有を維持することを放棄しているとはいえないからです。そのようにいわれるのは,健康である身体が病気に罹患するということ自体には該当しますが,すでに病気に罹患している身体について,必ずしも妥当するとは限りません。むしろその病気に罹患している人間が,健康を回復するために能動的にある活動actioをなすならば,その活動はvirtusであるといわれるべきで,その人間の無力ではないということを,この定理Propositioはいっていると解するべきだからです。逆に,健康な身体は,それ自体では無力であるとはいえませんが,それだけで自己の有の維持に努めているとはいえません。
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最大の課題&健康と病気

2022-05-28 19:19:57 | 将棋トピック
 谷川の辞任が突然のことであったため,佐藤の新会長の就任も突然の事態ではあったものの,それは既定路線から外れるものではありませんでした。そのときに被害者であった三浦が,佐藤の就任を許容した,もっといえば好ましいこととも受け取れるような表現で発言したのも,谷川が辞任する決意を固めた時点で,おおよその流れが将棋連盟の中で決定していた,個々の棋士の胸の内で決定していたということを証しするひとつの事実であったのかもしれません。
                                        
 これ以降は現在まで佐藤が会長を続けているわけですが,河口が記したような棋士間での評価というのは,現在でもあまり変わっていないようです。今期の叡王戦の第一局について解説したコラムの中で勝又清和は,将棋連盟の現況は佐藤のおかげというようないい方をしていますし,先崎学も先日のtweetで,棋士一同が佐藤に感謝しているというようなことを呟いています。僕は将棋連盟の現況を佐藤ひとりのおかげであるということはできないだろうと思っていますし,とりわけ藤井聡太の出現という強い追い風なしにそれを語ることはできないだろうとも思っていますが,女流棋戦の増設スポンサーの増加はともかく,将棋会館の移転という長年にわたっての大きな課題に目途を立てたのですから,棋士の間での佐藤の評価が概ね変わっていないであろうことは,容易に推測できますし,むしろその評価が高まっていたとしてもおかしくはないだろうと思います。
 一方で,だから大きな課題が残っているとも思うのです。いうまでもなくそれは,佐藤の後継者はだれになるのかということです。米長から谷川,そして谷川から佐藤というのは,既定路線であったわけです。しかし佐藤の次の会長に関しては,既定といえるような路線が定まっているようには僕には思えないのです。もちろん佐藤は予定していたよりも早くに会長に就任したのですから,予定よりも長きにわたって会長を務めることになるのだろうと推測されます。とはいえ谷川の辞任が突然であったように,予期せぬことが起こる可能性は0ではないのです。早期に佐藤の後継者を育成するということがは,実は今の将棋連盟の最大の課題なのではないでしょうか。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で具体的に示されている例を用いるなら,理性ratioに従って神Deusを愛しまた隣人を愛する者は敬虔pietasです。これと同様に,聖書の教えに従って神を愛しまた隣人を愛する人も敬虔です。しかし,徳virtusという観点からみるならこうはいえません。理性に従って神を愛しまた隣人を愛する者は有徳的であることになりますが,聖書に従って神を愛しまた隣人を愛する者は,有徳的であるとはいわれ得ず,無力impotentiaであるといわれなければならないのです。
 なお,こうしたことをいうためには,現実的に存在する人間は,能動actioによっても受動passioによっても同じ行為をするに至る場合があるということが成立しなければなりません。これについては第四部定理五九を参照すれば十分でしょう。この定理Propositioは,現実的に存在する人間が能動によってなすすべての行動を,受動によってもなすことがあるということを示すものではありません。しかし,受動感情によって決定されるすべての行動は,理性に従っても決定され得るのであれば,少なくとも受動によっても能動によっても同じ行動に決定される場合があることは明白でしょう。そしてその場合に,その行動が能動によって決定されるのであれば有徳的であるといわれ,受動によって決定されている場合は無力であるといわれるのです。
 ふたつめの解釈上の注意点は以上になります。もうひとつありますので,そちらの説明に移ります。
 現実的に存在する人間の身体humanum corpusの状況について,第四部定理二〇は,身体が健康であるなら有徳的で,身体が何らかの病気に罹患しているなら無力であるといっているというように解する余地があると思います。何らかの病気に罹患している身体は,自己の有を維持することを放棄している身体であって,健康である身体は,それに対していえば自己の有を維持することに努めている身体であるとみることができるからです。ですがこの定理が示しているのはそのようなことではありません。つまりスピノザがここでそのようなことをいっているのではないという点に,解釈上の注意を要すると僕は考えています。
 第三部定理六により,現実的に存在するどのようなものも,自己の有を維持することには努めますsuo esse perseverare conatur。
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女流王位戦&徳と敬虔

2022-05-27 19:25:28 | 将棋
 25日に旧伊藤伝右衛門邸で指された第33期女流王位戦五番勝負第三局。
 西山朋佳白玲・女王の先手で三間飛車から向飛車。後手の里見香奈女流王位はなかなか態度を明確にせず,居飛車で居玉のまま仕掛けていく将棋になりました。
                                        
 第1図から先手は☗8五歩☖同歩と突き捨てて☗6五歩と取りました。☖同桂が角と金の両取りになってしまうのですが☗9五角が王手。☖4二王に☗6六金と逃げて大丈夫とみていたようです。
 しかしこれには☖5六歩☗同銀に☖4五銀と出る強手がありました。
                                        
 第2図となってしまうと大差で,あとは一方的に後手が攻め倒す将棋に。第1図で仕掛けていくのは無理で,もう少し慎重に駒組を進めなければいけなかったようです。
 里見女流王位が勝って2勝1敗。第四局は来月7日に指される予定です。

 Aという人間が現実的に存在して,このAがXという行為をなしたとします。そしてそのためにAが有徳的であるといわれ得ると仮定しましょう。同じようにBという人間が現実的に存在していて,BもXという行為をなしたと仮定します。このとき,BもAと同じように有徳的であるといわれ得るかといえば,必ずしもそうではありません。むしろBのなしたXという行為はBの無力impotentiaを示す,あるいは同じことですがBの不徳を表すという場合もあり得るのです。なぜなら,第四部定義八によれば,徳virtutemは現実的に存在する人間の力potentiam,いい換えれば能動actioのことを意味するのであって,働きを受けている限りでは人間が有徳的であるということはあり得ないからです。第四部定理二〇は,自己の利益を追求することと自己の利益を放棄することを比べて,前者が有徳的であり後者は無力であるといっているのですが,実際にそのことが意味しているのは,自己の利益を追求するということは人間の能動であり,自己の利益を放棄するとは人間の受動passioへの隷属であるということなのです。これがこの定理Propositioを解釈する上での注意点のふたつめになります。Aが能動的にXという行為をなすがゆえに有徳的であるといわれているのに対して,もしもBが働きを受けるpatiことによってXという行為をなしているなら,Bは有徳的であるとはいわれ得ず,むしろ無力であるとか不徳であるといわれなければならないのです。
 これは,少し前に考察した,スピノザは何をもって敬虔pietasといい,何をもって不敬虔impietasというのかということとの対比で考えれば分かりやすいでしょう。スピノザは敬虔と不敬虔については,態度や振る舞いすなわち行為によって分節するのです。したがって,Aが能動的にXという行為をなすなら,なされたその行為によってAは敬虔であるといわれます。一方,Bが働きを受けることによってXという行為をなした場合にも,Bは不敬虔とはいわれずに敬虔といわれるのです。人間が能動的になすすべての行為は敬虔であり,それと同じ行為は受動的になされても敬虔であるからです。しかしこの場合,Aは敬虔でありかつ有徳的ですが,Bは敬虔ではあっても有徳的ではないのです。
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デイリー盃大井記念&意志との関係

2022-05-26 19:11:06 | 地方競馬
 昨晩の第67回大井記念
 先手を奪ったのはメイショウワザシ。2番手がキタノオクトパスとフィアットルクスで4番手にロードゴラッソとランリョウオー。3馬身差でセイカメテオポリス。7番手にタイムフライヤー。8番手にミューチャリー。2馬身差でシュプレノンとアールスター。2馬身差でノンコノユメ。12番手にマースインディ。13番手にコパノジャッキー。14番手にコマビショウ。最後尾にノーブルサターンという隊列。前半の1000mは63秒1のスローペース。
 3コーナーからメイショウワザシにフィアットルクスが並び掛けていき,さらにコーナーで追い上げてきたランリョウオーの3頭が雁行となって直線。ここからランリョウオーが前に出ると,そのまま抜け出して優勝。大外から鋭く追い込んで差を詰めたノンコノユメが4分の3馬身差で2着。一旦は位置取りを下げたものの一番内から巻き返してきたキタノオクトパスが2馬身半差で3着。勝ち馬を追うように上がってきて,一旦は3番手になったその外のタイムフライヤーがアタマ差で4着。
 優勝したランリョウオーは昨年の雲取賞以来の南関東重賞2勝目。羽田盃で3着に入ってから故障で休養。昨年12月の復帰戦こそ大敗しましたが,今年はオープンを4回走って3勝。ここ2戦は連勝していました。その連勝中の2着馬が,このレースの3着馬ですから,概ね力を出し切っての優勝といえそうです。ミューチャリーは体重が大きく減った影響から力をまったく出せませんでしたので参考外ですが,ほかの馬に対しての現在の能力はこのくらいであるとみておくのがよいでしょう。距離は2000m前後がベストのようです。母の父はシンボリクリスエス。祖母がファビラスラフイン
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は若潮スプリント以来の南関東重賞25勝目。第60回以来7年ぶりの大井記念2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞54勝目。大井記念は初勝利。

 なぜスピノザがvirtusに関して第四部定理二〇のようなことをいうのかは理解することができたと思います。ただこの定理Propositioは,解釈上の注意をいくらか要していると僕は考えていますので,その点を先に指摘しておきます。
                                    
 まず,これは根本的なことなのですが,スピノザの哲学では意志voluntasというのは個々の意志作用volitioの総体のことを意味しています。そして個別の意志作用というのは何らかの絶対的な思惟Cogitatioを意味するのではなく,思惟の様態cogitandi modiを意味します。よってそうした意志作用は,だれがそれを意志するのかということとは関係なく,第二部定理四八の様式で知性intellectusのうちに発生します。したがって,ある人間が現実的に存在していたとして,その人間が有徳であるということ,あるいは同じことですが能動的であることを肯定するaffirmareような意志作用を有していると仮定すれば,その意志作用もこの様式によって発生しているのです。ですから僕たちは,この原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoとは無関係に,有徳的であることあるいは能動的であることを,自分自身に対して肯定する意志作用というのを有することはできません。つまり僕たちは,僕たちの自由意志voluntas liberaによって有徳的であることないしは能動的であるということを希求することができるというわけではないのです。他面からいえば,僕たちが僕たち自身の有esseに固執するperseverareコナトゥスconatusというのは,僕たちの現実的本性actualis essentia,それは僕たちが能動actioに傾いているか受動passioに傾いているかということとは関係がない現実的本性なのであって,僕たちの自由な意志の産物ではありません。この点はこの定理の解釈と関係します。この定理でいわれていることが僕たちの意志によって可能であるということをスピノザはむしろ否定しているのであって,したがって,自己の利益を追求すること,あるいは自己の有を維持することをなすことを希求するような意志作用をもてというような道徳的な命令が,この定理から発出されるというわけではないのです。
 次に,これはこの定理から直接的に帰結することですが,スピノザは有徳的であるということと無力impotentiaであること,あるいは同じでことですが不徳であるということを,何らかの行動によって区別しません。
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叡王戦&第四部定理二〇証明

2022-05-25 19:38:49 | 将棋
 柏の葉カンファレンスホールで指された昨日の第7期叡王戦五番勝負第三局。
 藤井聡太叡王の先手で相掛り。中盤まではほぼ互角。終盤に入って先手が優位を得たようですが,1分将棋に入ってからミスが出て,後手の出口若武六段にも瞬間的にチャンスが訪れていました。
                                        
 第1図で☖4二銀と受け,☗2二龍に☖8八角と詰めろを掛けましたが☗3五桂で後手玉が即詰みに討ち取られることとなりました。
                                        
 第1図では☖4二角と受ける手が最善で,それに対して☗2二龍は☖8六角と王手をする手があります。逃げると詰みなので7七に合駒をすることになりますが,それだと後手玉が詰まないので攻め合って後手の勝ちです。よって☖4二角には☗同龍と取ることになりそうですが,その攻め合いは後手に分があったようです。また,第1図で☖7五角と打つと後手玉が詰んでしまうのですが,☖5八金☗7九王とすれば,後手玉が5七に逃げることができるようになって詰みません。そこで☖7五角は詰めろ龍取りで,その順も後手にとって有力でした。
 3連勝で藤井叡王が防衛第6期に続く連覇で2期目の叡王となります。

 浅野によれば,シュトラウスLeo Straussは自身が忠実なユダヤ教徒であるということを公言していたそうです。そのことがシュトラウスのスピノザに対する批判に影響しているのかもしれません。ただそういうこととは関係なく,スピノザがいう徳virtusが,人間の力potentiaであるということ,あるいは同じことですが,人間の能動actioであるということには十分に気を付けておかなければなりません。たとえば僕たちは徳を積むというようないい方を日常的にすることがありますが,それは善行をするというようなことを意味するのであって,人間が能動的に何かをなすということを意味するわけではないからです。
 次に注意しておかなければならないのは,第四部定理二〇で自己の有esseを維持するというとき,それは人間の現実的本性actualis essentiaを意味しているという点です。このことは第三部定理七から明白だといえます。この定理Propositio自体は人間に限定された定理ではありませんが,人間についても妥当するということはいうまでもありません。一方でこのことは各人が利益を追求するということと等置されているわけですから,スピノザはそもそも人間が利益を追求するということが,人間の現実的本性であるとみていると解さなければなりません。他面からいえば,自己の有を維持するということが自己の利益を追求するということなのであって,自己の有を維持しないとすれば,それは自己の利益を追求していないということになるのです。したがって,利益を追求するということを,たとえば金銭的な利益を追求するというような意味に限定して解してはいけません。この点にも注意しておかなければなりません。
 このふたつの注意点から,第四部定理二〇がなぜ帰結するのかということだけは容易に理解することができるでしょう。スピノザがいう徳というのは第四部定義八によって,人間の能動を意味しますが,それは能動的な限りにおける人間の現実的本性です。そして第三部定理七によって,その現実的本性は自己の有を維持すること,つまり自己の利益を追求することなのです。なので自己の利益を追求するならそれは有徳的であることになり,逆に自己の利益を放棄するなら無力impotentiaあるいは不徳なのです。
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大成建設杯清麗戦&第四部定理二〇

2022-05-24 19:02:39 | 将棋
 昨日の第4期清麗戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流四冠が18勝,西山朋佳白玲・女王が18勝。これは叡王戦とNHK杯での対戦を含んでいます。
 振駒で西山白玲・女王の先手で三間飛車から向飛車。後手の里見女流四冠はなかなか態度を明らかにしませんでしたが,三間飛車にしての相振飛車。序盤で差がついてしまう将棋でした。
                                        
 先手はここで☗8六角と上がりましたが,これが敗着に近い手に。後手がすぐに☖5五歩と仕掛けたのが機敏でした。先手は一旦は☗5八飛と受けて☖5二飛に☗7七桂と跳ねました。これが狙いの手だったようですが☖6四歩で継続の手段が難しかったようです。
                                        
 このまま戦いに入ってしまうと陣形の差で後手が有利。なので先手はこの形を狙いにするのであれば,もっとしっかりと玉を囲っておくべきだったということになるでしょう。
 里見四冠が挑戦権を獲得。第3期に失ったタイトルへの挑戦。第一局は7月8日に指される予定です。

 良心の呵責を巡る諸々の探求はこれで終了です。今日からは別の考察です。
 『スピノザ〈触発の思考〉』の第2章はシュトラウスLeo Straussを主軸とした論考ですが,僕はここではシュトラウスについては何も語りません。この章の中で,コナトゥスconatusと徳virtusの関連性が触れられていますので,そのことを考察します。
 スピノザは第四部定理二〇で次のようにいっています。
 「各人は自己の利益を追求することに,言いかえれば自己の有を維持することに,より多く努めかつより多くそれをなしうるに従ってそれだけ有徳である。また反対に,各人は自己の利益を,言いかえれば自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である」。
 この定理Propositioは,現実的に存在する人間が自己の利益を追求すると有徳であるといわれ,それを放棄すると有徳的ではないといっています。浅野によれば,シュトラウスはその点に対して批判的だそうです。もしスピノザのいう通りであるとすれば,徳というのは諸個人が自己の利益を追求するように生きることを意味することになるので,各人の利益が対立する限りでは各人が対立的であることになります。よって社会的な観点からみれば,徳というのがプラスになるとは限りません。というか,マイナスに働く可能性の方が高いでしょう。なのでこの定理に対して批判があり得るということは理解することができるのではないかと思います。なので僕はなぜスピノザがそこのようなことをいうのかということを詳しく説明することにします。実際のところシュトラウスがしている批判,正確にいえば浅野によればシュトラウスがしているというその批判は,見当違いのものです、なぜ見当違いであるのかということも僕の説明によって理解できるでしょう。
 まず最初に留意しておかなければならないのは,スピノザは徳というのを,いわゆる道徳のようなものとは考えていないことという点です。第四部定義八から理解できるように,スピノザは徳を力potentiamと等置します。ここでいう力というのは能動actioのことです。それは定義Definitioの全文から明白だといえるでしょう。なので徳の反対は無力impotentiaであって,第四部定理二〇は有徳と無力が対置されているのです。
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ワンダーランドカップ&良心

2022-05-23 19:20:01 | 競輪
 昨日の宇都宮記念の決勝。並びは真杉‐金子‐吉田の栃木茨城,松浦‐小倉の中四国,中川‐中本‐坂本の九州で大槻は単騎。
 中本がスタートを取って中川の前受け。4番手に真杉,7番手に松浦,最後尾に大槻で周回。残り2周のバックの出口から松浦がゆっくりと上昇を開始。大槻も追走しました。松浦は中川を叩きにはいかず,真杉の外で併走。その隊列のまま打鐘。真杉を内に封じ込んだ松浦はそれからスピードを上げ,ペースを落としていた中川を叩きました。ここから外に出すことができた真杉の巻き返し。松浦は飛びつくことも想定していたようですが,バックでは吉田までの3人が前に。後方になった中川が捲りを打つと,真杉との車間を開けていた金子が牽制。金子の牽制で前が開いた吉田が直線で突き抜けて優勝。よい仕事をした金子が1車身半差の2着に続いて栃木茨城のワンツー。吉田を追うようなレースになった松浦が半車輪差で3着。牽制された中川は4分の1車輪差の4着まで。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は1月の立川記念以来の優勝。記念競輪は4勝目で宇都宮記念は初優勝。このレースは真杉の先行が有力。自力型の3人がラインを結成した栃木茨城勢が,脚力では上位の松浦および中川にどのように抵抗するのかというレース。中川の捲り脚は強烈で,何もなければおそらく捲って中川の中本の争いになっていたことでしょう。そういう意味では真杉との車間を開けて厳しく牽制した金子の役割が大きく,それが吉田の優勝に大きく貢献したといえるでしょう。吉田も松浦に競られそうなところで,きちんと3番手を確保したことで優勝をもぎ取りました。松浦の走行はやや中途半端だったかもしれません。

 フロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』の中で,良心について考察している事柄のうち,最も重要なのは,それがスピノザの哲学にマッチしているという点にあるのではありません。もちろんこれはこれで重要であることは間違いありません。フロムによれば良心というのは可能的なものとして人間に備わっているのではなく,現実的なものとして存在していたり存在していなかったりするようなあるものだということになり,おそらくスピノザも良心がそのようなものであるというであろうからです。スピノザは可能的知性intellectus potentiaを神Deusに対しても認めず,知性は常に現実的知性intellectus actuであるという主旨のことをいっていますが,良心についても同じことをいうことになるだろうと僕は考えています。
                                        
 それでももっと重要なのは,フロムがいう良心というのは,それ自体がある種の感情affectusであるという点です。いい換えればそれは,ある種の欲望cupiditasであるという点です。そしてそれが感情であるとすれば,上述の,可能的な良心などは存在せず,現実的良心だけが存在するということも,容易に理解することができるでしょう。なぜならたとえば可能的な愛amorというものが人間に備わっていて,あるときにはあるいはある人にはその愛に従って行動するけれども,別のときあるいは別の人には愛に従わないで行動するというようには僕たちはみなしません。ある人に対しては愛がある,愛という感情が生じるけれども,ある人に対しては愛はない,愛という感情は生じないというように僕たちはみなします。つまり可能的な愛などというものがあるのではなくて,現実的な愛だけがあるのです。良心もまたこれと同じようにみられるべきであって,あるときには良心はあるけれども,それとは別のあるときには良心はないというように把握されるべきなのです。つまり,良心というのが現実的なものであって可能的なものではないということも同時に帰結させるという点において,良心をそれ自体で感情の一種とみなしているという点が,フロムの考察の中で最も重要な点となるのです。スピノザは良心について積極的に語っているわけではありませんが,それを欲望の一種とみなすことを,強くは否定しないでしょう。
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優駿牝馬&理性と良心

2022-05-22 19:38:00 | 中央競馬
 オークスの第83回優駿牝馬。サウンドビバーチェは発馬のために集合してからほかの馬に顔をけられた影響で放馬してしまい,顔を挫創したため競走除外となって17頭。
 サークルオブライフは両脇の馬に挟まれて1馬身の不利。ニシノラブウインクが逃げて5馬身くらいのリード。2番手にパーソナルハイ。2馬身差でアートハウス。4番手にラブパイロー。5番手にスタニングローズ。6番手にプレサージュリフト。7番手にエリカヴィータとスターズオンアース。2馬身差でナミュール。10番手にピンハイ。11番手にウォーターナビレラ。12番手にベルクレスタ。13番手にルージュエヴァイユ。14番手にシーグラス。2馬身差でライラック。2馬身差でホウオウバニラとサークルオブライフという隊列。最初の1000mは60秒6のスローペース。
 直線の入口でニシノラブウインクのリードは2馬身くらいになりましたが,直線に入るとまた後ろを引き離しました。追ってきたのは馬場の中央近くまで出されたアートハウスで,その外からスタニングローズとスターズオンアース。大きく開いたニシノラブウインクとアートハウスの間からはナミュールとプレサージュリフト。内と外が大きく離れての競り合いでしたが,一番外のスターズオンアースの伸び脚が優って優勝。スタニングローズが1馬身4分の1差で2着。内目から伸びたナミュールが1馬身4分の1差の3着。
 優勝したスターズオンアース桜花賞から連勝。桜花賞は必ずしも有力候補ではありませんでしたが,そこを勝ったことでここは有力候補の1頭。力比べのようなレースを制しましたので,名実ともに3歳牝馬の頂点に立ったといえるでしょう。マイル戦よりは中距離の方に適性がありそうに思えました。父はドゥラメンテ。祖母がスタセリタ。母のひとつ下の半妹がJRA賞で2016年の最優秀2歳牝馬,2017年の最優秀3歳牝馬に選出されたソウルスターリングでそのふたつ下の半妹が2018年にアルテミスステークスを勝ったシェーングランツ
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はマイルチャンピオンシップ以来の大レース制覇。第78回,79回に続く4年ぶりのオークス3勝目。管理している高柳瑞樹調教師は桜花賞以来の大レース2勝目。

 注意しなければならないのは,フロムErich Seligmann Frommの良心の見解がスピノザの哲学にマッチしているからといって,フロムが良心に関していっていることと,スピノザが理性ratioに関していっていることが同じと解してはいけないということです。いい換えれば,フロムがいっている良心は,スピノザがいっている理性ではありません。このことは詳しく説明しておきます。
 現実的に存在しているある人間が理性に従っているとき,その人間には良心があるのですが,実際にある人間に良心があるといわれるのは,その人間の良心が働いているようにみえるということです。したがって,良心が働くagereというのは,何らかの思惟作用だけを意味するというわけでなく,むしろ身体的運動を多く意味します。いい換えれば良心とは,ある人間を何らかの運動motusつまり身体的運動を伴った行動に駆るようなものとみられているのです。よって,たとえば理性に従っている人の行動は,良心が働いている行動となりますが,良心が働いている行動をするためには理性に従っていなければならないというものではありません。これは,人が敬虔pietasになるためには理性に従っていることが必要条件となっているわけではなく,理性に従っていなくても,つまり働きを受けている場合も人は敬虔である場合があるのと同じです。つまり,たとえある人間が働きを受けているのであっても,良心が働いているとみられるような行動をする場合はあり得るのです。
 よって,良心と理性とは異なります。むしろ良心というのは良心が働いているような行動に人を駆るようなことをいうのであって,それは理性というよりも感情affectusに近いあるものなのです。あるいは感情そのものといってもいいかもしれません。というのは,人間はそのときの現実的本性actualis essentiaに従って思惟しまた運動するのですが,このようにして与えられた現実的本性というのは,第三部諸感情の定義一によって,欲望cupiditasといわれるべき感情であるからです。もちろん良心とは欲望そのものではなく,人間を良心的な思惟Cogitatioあるいは運動motusに駆るような欲望というべきなので,欲望の一種,つまりある種の欲望とみなされなければなりませんが,理性というよりは欲望なのです。
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感情&現実的良心

2022-05-21 19:09:44 | 哲学
 感情の総括的定義と,その説明の中で僕が重要と考えている点,すなわち第一に冒頭部分,第二に感情の形相に関する部分,第三に精神の移行に関連する部分,そして第四に欲望の本性に関する部分についての僕の考え方は示すことができました。なので,僕がこのブログで感情affectusというとき,何を意味させているのかということを,ここで改めて説明しておきましょう。
                                   
 僕が感情というとき,それは第三部定義三にいわれている感情のことを意味します。このときにとくに気を付けておいてほしいのは,以下の二点になります。
 まず,僕が感情というとき,それはこの定義Definitioにあるように,人間の身体humanum corpusのある状態と,その人間の精神mens humanaのうちにあるその状態の観念ideaとの両方を意味します。スピノザの哲学では,人間の身体とその人間の精神は実在的にrealiter区別され,よって第三部定理二にあるように,一方が他方の原因causaであったり結果effectusであったりすることはありません。なので,本来は身体のある状態とその観念を同じ語で示すのはあまり好ましくありません。ただ感情は,一般的には確かに人間の身体のある状態でもありその状態の観念でもあると僕は思いますので,特例としてこのような使い方をします。感情の総括的定義にあるように,ある観念のことだけを感情というのではないということに留意してください。感情は思惟の様態cogitandi modiであると同時に延長Extensioの様態あるいは延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisである物体corpusに生じる運動motusでもあります。つまり,客観的有esse objectivumであると同時に形相的有esse formaleでもあるのです。
 次に,僕が感情というとき,その感情を観念としてみたときには,必ずしも混乱した観念idea inadaequataであるわけではなく,十全な観念idea adaequataである場合もあります。第三部定理五八により,能動的な欲望cupiditasおよび喜びlaetitiaがありますが,それは観念としてみれば十全な観念です。感情が混乱した観念であるのは,受動的である場合です。いい換えれば僕は,感情の総括的定義にあるように,受動感情のことだけを感情というわけではありません。

 良心conscientiaが働くagereか働かないかの相違を,人間の能動actioと受動passioとに帰するフロムErich Seligmann Frommの見解から,良心はいかなるものであるかということの特徴が帰結します。もしフロムの見解に従うなら,たとえば現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに,前もって良心というべき思惟の様態cogitandi modiが存在して,その人間はその良心に従ったり従わなかったりするということはできないといわなければなりません。むしろ現実的に存在するその人間が能動に傾いているならば,その人間の精神のうちには確かに良心というべき思惟の様態があるのであって,その人間がその良心に従っているようにみえるのですが,その人間が良心に従っていないようにみえるという場合は,単にその人間は働きを受けているのであって,その場合はその人間の精神のうちには良心というべき思惟の様態は存在しないというべきなのです。つまり良心という思惟の様態がある人間の精神のうちにあるかないかということが,その人間が働いているか働きを受けているかということから決定されるのであって,前もって良心があり,それに従ったり従わなかったりするわけではないのです。
 このフロムの見解は,スピノザの哲学の考え方とかなりマッチしているといえます。スピノザは良心について何かを積極的に語っているわけではありませんが,たとえば理性ratioについていえば,人間には前もって理性というものがあるのではなくて,理性的であるとき,いい換えれば精神の能動actio Mentisという状態がその人間に生じているときにその人間には理性があるといわれるべきであり,そうでなくその人間が働きを受けているときには,その人間には理性がないというべきだという考え方をしています。もっと一般的にいえば,スピノザは可能的なものがある人間のうちにあるというようにみるべきでなく,現実的なものだけがあるとみるべきだといっているのです。なので,もしもスピノザが良心について何かを語るならば,それと同じ路線で語ることになるでしょう。つまり良心は可能的なものではなく,現実的なものであるというでしょう。それは良心が働いているときは良心はあるけれども,そうでないときには良心はないということになります。
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既定路線&生産性

2022-05-20 19:14:34 | 将棋トピック
 米長は佐藤に直談判されたということは明かしていますが,そのときの心情については何も吐露していません。会長である自分に対して意見してきたことを不快に感じたかもしれませんし,逆にほかの方法ではなく一対一の場で自身の考えを伝えてきたことを好ましく思ったかもしれません。ただ,米長がそのときにどのように感じていたのだとしても,米長は自身の後継者は谷川であると考えていたのですし,遅くとも谷川が理事になってからは,自身の病気のこともあり,谷川が会長になった後のことまでは考えていなかっただろうと推測されます。なので,佐藤が将棋連盟の会長として相応しいかどうかということについては,晩年は何も考えていなかったであろうと僕は思います。
 谷川は自身の後継者に佐藤を指名することになりましたが,これは既定路線であったと考えられます。2012年に佐藤は王将を獲得しましたが,その直後に書かれた河口俊彦の文章の中に,佐藤には羽生や森内とは違った将来があって,それは棋士仲間からの信望が絶大であるために会長候補であるという主旨のことが記述されています。米長が死んだのはこの年ですが,このときにはまだ存命でしたので,米長が会長の時点です。河口はおそらく何年かすれば佐藤は会長になるだろうといっています。河口は米長の病状がどれほど深刻であるかということは知らないで書いている筈で,もしかしたらそれは米長の次の会長という意味であったかもしれません。ただ,河口はこのような文章を記述して,それを公開しても構わないと思っていたのは間違いありませんから,米長が会長であった時代に,すでに佐藤が会長候補であるとみられていた,それは河口にだけでなく,多くの棋士にそう目されていたことは確かだといえるでしょう。ですから,谷川が会長職を辞さなければならなくなったとき,佐藤を後継に指名したのは,確かに既定の路線だったのです。本当は谷川はもっと長きにわたって会長を続けるつもりでいたでしょうから,まだ佐藤を理事職に就ける必要はないと思っていたのでしょう。もしも谷川が,何らかの事情で近いうちに後継者が必要だと思っていれば,佐藤は理事になっていた筈です。

 フロムErich Seligmann Frommが示唆している自己関心と良心の間にある関連性とは,ごく簡潔にいうなら,自己関心が高いほど良心が働き,自己関心が低くなるほど良心が働くことが困難になるということです。このときフロムは文脈の中で,自己関心を生産性という語に置き換えています。フロムがいう生産性というのは,スピノザの哲学でいう能動actioと意味合いが一致すると解して間違いありません。つまり人間は,能動に傾くほど良心が働くのであり,受動passioに傾くほど良心が働くことは困難になるというようにフロムはいっていると解して差し支えありません。もちろんこれは関連性なのであって,能動が良心の原因causaとなるということでは必ずしもありません。むしろその逆もまた真verumなのです。つまり,現実的に存在する人間は,良心が働くほど能動的であることができ,良心が働かない場合は受動に隷属するのです。
                                        
 ここでフロムが,社会的に一致した道徳的目標があるということを前提していたことを想起しなければなりません。その目標がどのようなものであったにせよ,良心の働きを能動と関連させるのであれば,このフロムの主張はスピノザの哲学と一致をみることができるからです。なぜなら,精神の能動actio Mentisというのはスピノザの哲学では理性ratioの働きactioを意味しますが,第四部定理三五にあるように,人間の現実的本性actualis essentiaは理性に従っている限りでは一致するからです。したがって,道徳的目標がどのようなものであったとしても,一致してその目標への道を進むことになるでしょう。それに対して,第三部定理三四にあるように,受動状態においては人間は対立的であり得ますから,その目標がどのような目標であれ,各人が一致してその目標に向かって進むということはできないでしょう。
 さらにここには,もうひとつ重要なことが含まれています。それは,良心が働いているか働いていないかということが,人間が能動に傾いているか受動に傾いているか,あるいは同じことですが,第三部定義二により,ある人間のなす事柄に対してその人間が十全な原因causa adaequataとなっているかそれとも部分的原因causa partialisとなっているのかということに帰せられるとフロムがみている点です。ここにある特徴があります。
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東京スポーツ賞川崎マイラーズ&良心の性質

2022-05-19 19:13:12 | 地方競馬
 昨晩の第14回川崎マイラーズ
                                        
 ファルコンビークが鞭を入れていましたが,外からプレシャスエースが前に。向正面では3馬身のリードとなりました。2番手にファルコンビーク。3番手にコズミックフォースとチサット。5番手にルイドフィーネとグランドボヌール。7番手にゴールドホイヤーとモジアナフレイバー。2馬身差でグレンツェントとヒカリオーソ。3馬身差でトランセンデンス。12番手にマイネルサーパス。3馬身差でラッキードリーム。ファルコンウィングは大きく取り残されました。前半の800mは49秒6のミドルペース。
 プレシャスエースのリードは直線では1馬身くらい。最終コーナーで徐々に差を詰めていたファルコンビークが2番手からあっさりとプレシャスエースを差すとそのまま抜け出して快勝。プレシャスエースを追うように上がってきたのがモジアナフレイバーとチサットでしたが,この2頭はプレシャスエースにも追いつくことができず,さらに外からゴールドホイヤーとグレンツェントが併走で追い込みプレシャスエースを差し,2馬身差の2着はゴールドホイヤー。グレンツェントがクビ差で3着。
 優勝したファルコンビークは南関東重賞初制覇。前走でこのレースのトライアルを勝っていた上昇馬で,内容的には快勝といえますから,実績のあった馬たちに対して遜色ないだけの実力を身につけていたと考えてよいでしょう。逃げ切って勝つことが多かった馬ですから,2番手からのレースで勝てたことは収穫だといえそうです。父はスマートファルコン。母の父はクロフネ。祖母の父はメジロマックイーン。5代母がクレアーブリッジ。2つ下の半弟が今年の雲取賞京浜盃を勝っているシャルフジン。Beakは嘴。
 騎乗した船橋の本田正重騎手はニューイヤーカップ以来の南関東重賞13勝目。川崎マイラーズは初勝利。管理している川崎の内田勝義調教師は南関東重賞は20勝目。川崎マイラーズは初勝利。

 もしも人間の良心が常に働くのであれば,道徳的目標へと向かう道を踏み外してしまう人はごく僅かになる筈です。もちろんそこでは,道徳的目標とは何かということは問題になるのであって,その目標とするところが各人によって異なるのであれば,各人がそれぞれの道徳的目標への道を踏み誤っていないにもかかわらず,社会的には道徳的目標が達成されないという場合があるでしょう。ただフロムErich Seligmann Frommは,哲学について語っているのではなく,社会心理学について語っているので,道徳的目標そのものが社会的なものであるということは前提しなければなりません。つまり,その社会的な意味での道徳的目標に達する道は,各人の良心が常に働いている限り,容易に進んでいくことができる道であるとフロムはいっているのです。
 しかし一方で,多くの人びとにおいては良心の声がきわめて弱いので.それを聞くこともできず,良心が働くこともないのが現実であるとフロムはいっているのです。要するに道徳的目標は達成されていないし,それが達成される見込みすらないとフロムはみています。そしてその理由についてもフロムは説明しています。それは良心というものの性質にあるのです。
 フロムによれば,良心の性質は,人間の真の自己関心を守ることにあります。自己関心とは何かということがここではまた問題になりますが,ここではそのことを深く考える必要はありません。基本的に第三部定理七でスピノザが個物res singularisの現実的本性actualis essentiaについて主張していることを,フロムはここで自己関心および良心について語っているのだと解釈しておけばよいでしょう。しかしそもそも自己関心というものが喪失するなら,良心というのは守るべきものをなくすのですから,そのときには良心は働くということがありません。つまり人間が自分について無関心であるとか,自己破壊的な欲望を有していたりすれば,良心というのは働く余地がないのです。フロムはこれについて,良心が働かないといういい方ではなく,良心は生きることができないといういい方をしています。
 このいい方には意図があるのです。自己関心と良心の間に,明確な関連性があると示唆しているのです。
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五稜郭杯争奪戦&フロムの良心

2022-05-18 19:36:29 | 競輪
 昨晩の函館記念の決勝。並びは小松崎‐佐藤‐守沢の北日本,山本‐稲川の近畿,佐々木‐清水‐瓜生の西国で郡司は単騎。
 稲川がスタートを取って山本の前受け。3番手に小松崎,6番手に郡司,7番手に佐々木で周回。残り3周のホームの出口から佐々木が上昇開始。小松崎の横あたりで併走を続け,ホームに入ってから一気にかましました。前受けの山本が4番手,小松崎が6番手,最後尾に郡司の一列棒状に。後方からの捲りが来ないまま,最終コーナーを前に清水が番手捲り。清水マークの瓜生が直線で差し切って優勝。バックから内目を進出し,直線で瓜生と稲川の間を突いた郡司が清水とほぼ並んでフィニッシュ。写真判定となり郡司が4分の3車身差で2着。清水が微差で3着。マークの山本の内から直線は外に出した稲川が4分の3車輪差で4着。
 優勝した熊本の瓜生崇智選手はグレードレース初優勝。今年は初優勝で,昨年もFⅠで1回の優勝があっただけの伏兵。このレースは小松崎か佐々木の先行が有力で,場合によっては先行争いもあるかと思っていました。後ろからの周回になった佐々木がうまい駆け方をしたので佐々木の先行になり,なおかつ小松崎が6番手で郡司が最後尾になりましたから,清水にとって絶好の展開となりました。なので番手捲りを敢行した時点でこれは清水の優勝だろうと思いました。郡司に追い込まれたのはともかく,瓜生に差されてしまったのは僕としては意外でした。

 歓喜gaudiumについて僕がいいたかったことはこれですべてです。なので別の考察に移ります。
                                        
 『スピノザ〈触発の思考〉』の第1章には,フロムErich Seligmann Frommに対する言及が含まれています。浅野は『スピノザ 共同性のポリティクス』でもフロムに言及していて,フロムに言及するスピノザの研究者は少ないのですが,例外のひとりといっていいでしょう。これは『人間における自由Man for Himself』というフロムの著書への言及で,わりと長い引用がなされています。当然ながらこの章は良心の呵責conscientiae morsusを巡る考察ですから,この部分でフロムが言及しているのも良心に関してです。ここでは全文を引用するのではなく,フロムがいっていることの概要を僕がまとめることにします。
 フロムは基本的に良心は,もう少し正確にフロムのいい方に倣えば,僕たちの人道主義的な良心というものは.僕たちの自己表現でありそれと同時に僕たちの人生における道徳的経験の本性であるとみています。実際に良心がどのようなものであるかは関係ありません。フロムは良心をそのようにみているということが重要なので,良心というのはそうしたものではないという見解,そうした見解があり得ることは僕も認めますが,そうした見解を対立させることはまったく意味がありません。
 一方でフロムは,事実として多くの人びとは,良心の声がきわめて弱いのでそれを聞くこともできないし,当然ながら良心が働くということもないといっています。これもそういう事実があるか否かということについては見解の相違があり得るでしょうが,少なくともそういう人が現実的に存在するということは事実で,その点が受け入れられるのなら問題はありません。そういう人が多いかどうかはこの部分の考察とは無関係だからです。そしてフロムはこの点が,道徳的な不安定さの原因であるといっています。フロムは社会心理学者なので,これは社会状況の不安定さへの言及なのですが,ここでは個人の不安定さと解しても構いません。フロムのいっていることが事実であれば,それは個人的な不安定さの原因であると同時に,社会的な不安定さの原因にもなるというように解してください。これは論理的にそうなるでしょう。
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叡王戦&利益と害悪

2022-05-17 19:01:52 | 将棋
 15日に名古屋で指された第7期叡王戦五番勝負第二局。
 出口若武六段の先手で相掛り。この将棋は後手の藤井聡太叡王が有利という判定をAIは出していましたが,馬を切っていく順に後手は成算がもてなかったようで千日手となりました。
 先手と後手が入れ替わっての将棋も相掛りになりました。
                                        
 第1図で後手は☖2二銀と上がりました。これは仕方がない手だと思います。対して先手は☗2一角と打ちましたが,この手を後手はうっかりしていたそうです。この手はある筋なので知らなかったとはさすがに考えにくいと思います。形によって成立したりしなかったりする手なので,第1図で☖2二銀と上がると成立するということを失念していたという意味でしょう。
 ここから☖2三銀☗3二角成☖2四銀と進みました。別の変化もあり得ましたが,先手はこれでよいとみたのでしょう。☗8二歩と打ちました。
                                        
 ここで☖9三桂と逃げたので,☗8一歩成☖同銀☗4四金で先手の優位がはっきりしました。第2図では桂損を甘受して☖8六飛としておけば,まだ難しかったようです。
 藤井叡王が連勝。第三局は24日に指される予定です。先手は藤井叡王です。

 自分が与えた害悪あるいは与えるであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitiaとしての良心の呵責conscientiae morsusと,自分が与えた利益の観念を原因として伴った喜びlaetitiaとしての歓喜gaudiumは,ともに原則的には推奨される感情affectusであり,例外として推奨されない場合もあります。ただ僕たちは,自分が害悪を与えたあるいは与えると表象するimaginariことは稀で,自分が利益を与えたあるいは与えると表象することはそれよりしばしば生じます。よって僕たちは良心の呵責を感じることは稀で,歓喜はそれよりもしばしば感じるのです。ですから発生する例外は,良心の呵責よりも歓喜の場合の方が多くなります。なので,例外があるということを,割合として考えるなら同じとみなしても構いませんが,発生する数で考える場合には,同じとみなしてはいけません。その場合は,歓喜が推奨されない場合は,良心の呵責が推奨されない場合よりも多いとみておくべきなのです。
 そして同時に,このことは銘記しておくべきことだと僕は思います。とりわけ自由の人homo liberとして生きていくことを目指す場合には,よく覚えておくべきことでしょう。そしてそれは,単に僕たちは良心の呵責を感じることは稀で,歓喜を感じることはそれよりしばしばであるということだけを覚えておけばよいというものではありません。僕たちは害悪を与えたあるいは与えるということを表象するのは稀で,利益を与えたあるいは与えると表象することはそれよりもずっと多いということを覚えておくべきなのです。他面からいえば,僕たちは実際には利益を与えてもいないのに利益を与えたと表象することがしばしばあるのであって,実際には害悪を与えているのに害悪を与えたとは表象しない,あるいは同じことですが害悪を与えていないと表象することもしばしばあるのです。つまり僕たちは,自分がそのように認識しているほどは他人に利益を与えているわけではありませんし,自分が思っているよりはずっと多く他人に害悪を与えているのです。いい換えれば,僕たちは自分が思うほど他人を喜ばせているわけではありませんし,自分が思うよりはずっと他人を悲しませているのです。そしてそのために多くの争いも生じるのです。
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