スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&徳と至福

2024-07-31 18:56:56 | 将棋
 29日に指された第37期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は広瀬章人八段が4勝,佐々木勇気八段が3勝。
 振駒で佐々木八段の先手となり角換わり相腰掛銀。先手が9筋の位を取って後手から仕掛ける将棋になりました。
               
 ここでは☖同王と取る方が普通だと思えますが後手は☖同角と取りました。これは8筋からの突破だけを目論んだ手といえそうです。
 対して先手はそれを防ぐために☗9七金と打ちました。
 こんなところに金を打つのは思い浮かびにくいのですが,先手は研究があって,ここではこの手がベストという知識があったそうです。どうも先手の研究の方が後手を上回っていたようで,それがこの手に如実に表れたといえそうです。
 佐々木八段が先勝。第二局は来月13日に指される予定です。

 第一部定義七については事実を確認するだけですので,これ以上の探求は必要ではありません。スピノザの哲学における自由libertasとはどういうことであり,それが人間に適用されるとき,たとえば自由の人homo liberといわれるときにはどういうことになるかといったようなことは,別の機会を設けて僕自身の考え方をまとめて説明しますので,そのときまでお待ちください。
 同じ第6章3節の終わりの方で,國分は第五部定理四二に言及しています。これについて説明を付しておきましょう。
 國分がいうには,この定理Propositioは言語の構造として奇妙な側面をもっています。スピノザがこの定理では否定しているように,もしも至福beatitudoが徳virtusの報酬であるならば,至福は徳の外側にあることになるでしょう。よってこの場合には,徳という概念notioとは別に至福という概念について考えることができます。あるいは同じことですが,徳を実践する前の段階で,これから実践しようとする徳とは別に,至福の何たるかを知ることが可能です。もちろん何らかの別の原理を立てると,徳の実践よりも前に至福を知ることはできないというようにすることはできますが,単に至福が徳の報酬であるというだけならば,原理的には徳を実践する以前の人間が,至福の何たるかを知ることが可能であるということになります。
 ところがスピノザは,至福は徳の報酬すなわち徳の実践によって入手するようなあるものではなく,徳そのものであるといっています。この場合には現実的に存在する人間は,徳を実践する以前に至福の何たるかを知ることはできません。徳を実践することによって至福の何たるかを知ることができるというように原理的になっているからです。したがってこの定理は,至福が何であるのかということを教えているわけではないのです。むしろある種の実践をしなければ,至福の何たるかを知ることはできないということを教えていることになります。この定理は命題としてみれば,至福と徳を確かに説明しているのであって,とくに徳と至福の関係を肯定的な命題という形で示しています。しかし一方でこの命題は,記述された言語がその内容には届かないことを自ら示してしまっているのです。
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天龍の雑感㉑&第一部定義七の援用

2024-07-30 19:19:51 | NOAH
 天龍の雑感⑳の後で,天龍はジャンボ・鶴田にとってプロレスラーになったことは人生において失敗だったのではないかという話をしています。これは風変わりな観点からのもので,僕にはちょっと面白く感じられました。
                    
 天龍はプロレスラーになる以前は,大相撲の力士でした。その力士を廃業してプロレスラーになったのです、このために,プロレスラーとして失敗はできないという強い思いがありました。天龍は幕内まで出世していて,大相撲でトップまでいったわけではありませんが,力士としては成功した部類に入ります。だからそれ以上の活躍をプロレスラーとしてなさなければ,笑いものとなってしまうというような気持ちをもっていたのだと推察されます。
 同じようなことは馬場にもいえます。馬場は将来を期待されて故郷を出てプロ野球選手になりました。しかし野球の世界では大成することができず,プロレスラーになりました。だからプロレスの世界でまた失敗したら,故郷には帰れないという思いを抱いていました。なのでプロレスラーとして絶対に成功しなければならないという強い思いが間違いなくあったのです。このように事情は異なりますが,馬場にも天龍にも,プロレスラーとして成功しなければならない理由というものがあったのであって,それがプロレス業界で成功する理由のひとつになったというように天龍は考えているのでしょう。
 しかし鶴田にはそのような事情はありませんでした。大学を卒業してすぐにプロレスラーになった鶴田は,プロレスラーとして絶対に成功しなければならないという強い思いをもつ理由はありませんでした。結果的には鶴田はプロレスラーとして大成功はしたのですが,プロレスで花を咲かせなければならないという強い気持ちから成功したわけではないので,泥にまみれるようなことをすることはできず,むしろ自制心の方が強く働いたのではないかと天龍は指摘しています。いい換えれば,絶対にこの世界で成功しなければならないというような強い気持ちをもっているとみられることが鶴田には恥だったのであって,そういう気持ちが鶴田の試合に表れてしまったと天龍はいいたいのです。
 これは鶴田評としては的確な面を含んでいると思います。ただ,そのことで鶴田が批判されなければならないのかといえば,必ずしもそうではないとも僕は思います。

 この部分の考察はここまでです。
 この後の第6章3節で國分は第一部定義七に言及しています。これについては國分が示している事柄を,事実として記述します。この事実は有用であると思われるからです。
 スピノザは第一部定義七で自由libertasを定義したのですが,後にこの定義Definitioをどう援用しているかを國分は調査しています。それによれば,『エチカ』においてこの定義が援用されるのは5回です。この5回のうち,第一部定理三二の証明Demonstratio,第一部定理三三備考二,第二部定理一七備考,第三部定理四九証明で第一部定義七が援用されるときの4回は,人間が自分自身を自由であると表象するimaginariのは錯覚にすぎないということをいうために消極的に援用されています。第一部定理一七系二で,Deusのみが自由原因causa liberaであるということをいうために第一部定義七が援用されるときのみ,この定義は積極的に援用されています。これらの事実から國分は,第一部定義七は自由を定義していて,これは,自由は必然と対立せず強制coactusと対立するということを示しているという観点から,『エチカ』の根本思想を示していると思われるといっているのですが,同時にこの定義は後の議論にはほとんど生かされていないといっています。
 このことについては後に別の機会を設けて僕の考え方を詳しく述べていきます。ただ,このようになるのはある意味では当然であるということだけをここでは示します。第一部定義七でスピノザが自由を定義するとき,これは僕がいう神的自由を意味するのであって,この自由は神だけに適用されます。したがってこの意味での自由を人間に適用することはできません。『エチカ』の中に神的自由が人間に適用されている部分がないというようには僕は考えませんが,それは現実的には存在しないものとして適用されるのです。したがって,人間についての自由を考察するためには神的自由によって考察することができないのであって,神的自由から類推されるような自由でかつ人間にも適用できるような自由,僕がいう人間的自由によって考察しなければなりません。なので人間の自由について論じる際には,第一部定義七を積極的に援用することは不可能なのです。
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オランダ王国友好杯&悪の根拠

2024-07-29 19:04:25 | 競輪
 昨晩の別府記念の決勝。並びは中釜‐古性‐浅井の近畿中部,松浦‐岩津の山陽,伊藤‐阿部の九州に松谷で武藤は単騎。
 阿部と古性がスタートを取りにいき,内の阿部が誘導の後ろを確保。伊藤の前受けとなり,4番手に武藤,5番手に中釜,8番手に松浦で周回。残り3周のホームの出口から松浦が上昇開始。バックで中釜の外まで上がると,併走のまま残り2周のホームに戻りました。そこで中釜が引いたので松浦はインを進出。武藤をどかして松谷の後ろに入りました。バックに入るとそのまま伊藤が発進して打鐘。引いた中釜が叩きにいったもののこれは不発。古性が下りて浅井に迎え入れられる形で松浦の後ろに入り,前から伊藤‐阿部‐松谷‐松浦‐古性という隊列に。松谷との車間を開けた松浦がバックから発進。阿部が番手捲りで対応すると阿部マークの松谷が松浦を牽制。松浦はいいスピードだったのですがこの牽制でコーナーで外に浮いてしまいました。番手捲りとなった阿部がそのまま優勝。マークの松谷が4分の3車身差の2着でこのラインのワンツー。松谷と浮いてしまった松浦の間から伸びた古性が4分の3車輪差で3着。
 優勝した大分の阿部将大選手は先月の高知のFⅠ以来の優勝。その直前のミリオンナイトカップ以来となるGⅢ4勝目。記念競輪は4月の高知記念以来となる2勝目。このレースは中釜と伊藤の先行意欲が高そうで,先行争いもありそうなので,それをみる松浦が有利なのではないかとみていました。先行争いとはなりませんでしたが,先行ラインの4番手を取った松浦には悪くない展開。実際に捲れそうな勢いではあったのですが,松谷の牽制が誤算でした。阿部と松谷が連携するというのはたぶん今回が初めてで,この後もないのではないかと思いますが,後ろを回った以上はその仕事をするという松谷の奮闘が,阿部を優勝に導いた面が大きかったように思います。阿部は優勝を量産していますから,これからも注目でしょう。

 たとえば現実的にAという人間が存在していて,Bという人間から殴打されると仮定します。このことによってAの身体corpusを構成する部分の関係が変更されるということが生じるとすれば,AはAのコナトゥスconatusを維持することができないことになります。これは國分が示したみっつの水準からの帰結です。すると,AがBに殴打されることは,Aにとっての悪malumになります。これはBの殴打という行為によってAの構成関係が乱されるという理由によります。これに対して,Bが憎しみodiumに駆られてAを殴打したとあれば,第四部定理五九備考にあるように,Bにとっての悪であるということになります。これは,憎しみに駆られて殴打するというその行為が,Bが有徳的である状態から離れていくことを意味しているからです。
                                   
 このように,殴打という行為は,こうした関係性を離れてそれ自体でみれば,やはり第四部定理五六備考にあるように,virtusであり,善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打に限らず,現実的に存在するすべての人間の身体humanum corpusの所作に妥当します。しかしそうした行為は,このような関係性を含めて考えれば,善にもなるし悪にもなるのです。そしてそれは,たとえば殴打が悪になるという場合に,だれにとっての悪であるとのかということは,それぞれの人間のコナトゥスに応じて,あるいは同じことですが現実的に存在する各々の人間の自己の利益suum utilisに応じて結論付けられなければならないのです。憎しみに駆られてBがAを殴打し,Aが怪我をするということが生じるとすれば,このことはAにとっても悪であるしBにとっても悪であるということになります。しかしそれがなぜAにとっての悪であり,またBにとっての悪であるのかということの根拠は,Aの場合とBの場合では同一であるわけではなく,Aの場合はAの自己の利益に反するから悪であり,Bの場合はBの自己の利益に反するから悪であるといわれなければならないのであって,一般的規則としてそれは悪であるというような観点から結論されるのではありません。だれにとってなぜ悪であるのかということは,それが単一の行為であっても,その行為に関係する個々の人間の利益から測られるのです。
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印象的な将棋⑲-12&第四部定理三九

2024-07-28 18:56:50 | ポカと妙手etc
 ⑲-11で詳しく検討したように,⑲-10の第2図の後手玉には即詰みはありません。では先手玉はどうかというと,先手玉にも詰みはありません。なので先手は後手玉に詰めろを掛けることが最初の発想として浮かびます。
 ⑲-10の第2図で先手が後手玉を攻めていくとすれば,最初に思い浮かぶのは☗7四銀で,先手の第一感もこの手でした。
                                        
 この手は詰めろなので後手は☖同飛と取る一手です。
 そこで☗6三銀と打つと王手飛車取りが掛かります。逃げ場所はいくつかありますが,結論はどこでも同じなので,ここでは☖7一王と逃げておきます。
 王手飛車をかけたのですから普通は☗7四銀成と飛車を取ることになります。
                                        
 第2図は後手玉に分かりやすい詰めろが掛かっています。ところがこの図は後手の勝ちなのです。この手順中,銀を渡してしまったために,先手玉が即詰みになっているからです。次回はその詰みがどういう手順であるのかをみていきます。その手順が,実際に先手が指した手にも,先手が勝ちとなる手順にも大きく関係してきます。

 スピノザが聖書の有用性に言及したのは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』です。それを國分は善悪を巡る政治的発想といいます。これに対して善悪を巡る倫理的発想があって,スピノザはそのふたつを分けているというのが國分の見方です。この倫理というのは自己の利益suum utilisを基礎とした倫理です。その倫理がどのように規定されているのかを探求していきます。
 スピノザは第四部定理三九で,次のようなことをいいます。
 「人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である」。
 ここでは運動motusと静止quiesの割合ratioということがいわれていますが,これは多数の個物res singularisによって組織される複雑なひとつの個物は,運動と静止の割合が一定であるから,そのひとつの個物の形相formaを維持することができるということです。ですから運動および静止の相互の割合が維持するように努めるconariということと,自己の有esseを維持するように努めるというのは同じことです。すなわちこの定理Propositioは,コナトゥスconatusの維持は善bonumであって阻害は悪malumであるといっているのです。ただしこの定理には真新しいところが含まれています。それはこのコナトゥスの維持および阻害が,個物の現実的本性actualis essentiaという観点からいわれているのではなく,個物を構成する諸部分という観点から言及されているという点です。第二部自然学②要請一から分かるように,人間の身体humanum corpusは多くの個体から組織されているわけですが,その個体というのもひとつの個物であって,各々のコナトゥスを有するのです。
 ここから分かるように,たとえば現実的に存在する人間の身体は各部分から構成されていて,人間の身体には運動と静止の割合というある構成関係があるのであって,この構成関係がその人間の身体のコナトゥスを支えているのです。だからここには,諸部分,諸部分の構成関係,さらに諸部分において作用するコナトゥスという,みっつの水準が含まれている,いい換えればこの定理は,これらみっつの水準から語られているのだと國分は指摘しています。これを殴打と関連付けてみましょう。
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安い&道徳的命令

2024-07-27 18:58:42 | 歌・小説
 『』の中で,宗助と御米の過去が詳しく語られるのは第十四節です。そこで宗助が御米を友人から奪ったことが明かされます。この友人は安井といい,宗助は最初は御米を安井の妹として紹介されるのですが,そうでないことはすぐにはっきりとしました。安井が病気になって回復したということ以外に詳しいことは語られないので,実際に安井と宗助,そして御米の間に具体的に何があったのかは分かりません。とにかく後に宗助と御米は結婚し,各地を転々とした後,物語が進捗していく時点では東京に住んでいます。
                                        
 このときに宗助と御米が住んでいた家の裏に,坂井という人が住んでいました。宗助と坂井は仲良くなって,宗助が坂井の家に出入りするようになります。第十三節の中で,宗助が坂井の家を訪ねたときに,織屋がいて,宗助もその織屋から御米のための銘仙を3円で買って帰るというプロットがあります。これは坂井が織屋と交渉してかなり値引きさせた金額でした。銘仙をもって帰った御米に事の顛末を話し,品のよい銘仙が3円とは安いといって笑います。
 このプロットの中の安いというのは,安井にかかっていて,このことによって宗助と御米が安井のことを想起する契機となっているのだと,『なぜ漱石は終わらないのか』の第九章の中で小森が指摘しています。実際にこの日の夜,御米が宗助にある告白をします。これは,自分は子どもを産むことができないということを,易者に指摘されたというものです。この易者は,御米は人に対して済まないことをした記憶があって,その罪が祟っているから子どもはできないといったのです。結婚後の6年間で,これまでに実際に御米は何度か懐妊はしていたのですが,子どもを産むことはできませんでした。
 済まないことというのが安井と関係しているのは疑い得ません。そして確かに安いと笑ったときに御米が安井のことを思い出したから,この晩の告白に繋がったのかもしれません。

 道徳的命令を発していないような道徳に対して何か不満を感じることがあるとすれば,それは命令を要求しているからにすぎません。國分はスピノザの道徳は一切の命令を発することはないというようにいっていますが,僕は自己の利益suum utilisに準ずるような命令は,まったく発しないというようには考えません。実際に國分自身も,第四部定理一八備考でいわれていることは,一種の道徳的命令として解することができるといっているように思えます。もちろん実際にはこれは命令ではないのですが,仮に命令というものがあるとしても,『エチカ』においてはすべてこのような類のものになります。しかしそれは僕たちが道徳的命令として理解しているものとはあまりに異なっているといわざるを得ないでしょう。ですから國分がいっているように,『エチカ』はあるいはスピノザの哲学は,一切の道徳命令を発することはないというように解して間違いありませんし,とくに,たとえば他人を殴打するなというような類の命令を道徳に求めているのであれば,スピノザの哲学からはそのような命令は生じ得ないと解しておく方がよいでしょう。これはスピノザが,第四部定理八において,善bonumと悪malumをそれぞれ意識された喜びlaetitia,意識された悲しみtristitiaと規定していることからの必然的な帰結です。この意識conscientiaを超越したような善悪が存在するということをスピノザは認めないのですから,自己の意識を超越したような善悪に関する道徳的命令は発令されようがないのです。
 念のためにいっておきますが,第四部定理四系により,現実的に存在する人間は常に受動passioに隷属するのですから,スピノザは超越的規範の有用性,あるいはそうした超越的規範から発せられるような道徳的命令の有用性を否定するnegareことはありません。そうした命令が受動的な人間を,理性ratioに従っている人間がなすのと同じように行為させる限り,その規範および命令は有用であるとしかいいようがないからです。これは受動的な人間を敬虔pietasにさせるような規範や命令は有益utileであるという意味なのであって,たとえば聖書が神Deusを愛することと隣人を愛することについて服従することを命令するのは有用であるというのが一例になります。
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第四部定理六五証明&自己の利益と徳

2024-07-26 18:57:51 | 哲学
 第四部定理六五をスピノザがどのように証明しているのかをみておきます。
                                   
 スピノザが最初に訴求しているのは第四部序言です。ここから,僕たちがより大なる善bonumを享受することを妨害するようなそれより小なる善があるとすれば,この小なる善は悪malumといわれなければなりません。このことは第四部定義二からも明らかだといえます。これと同様に,大なる悪を妨害するような小なる悪は善であることになります。
 次にスピノザが訴求するのは第四部定理六三系です。この系Corollariumでは,僕たちは理性ratioから生じる欲望cupiditasによって直接的に善に赴き,間接的に悪を逃れることになっています。したがって,僕たちは理性の導きに従う限りでは,より小なる善よりはより大なる善に就くことになりますし,より大なる悪よりはより小なる悪に就くことになるのです。
 この証明Demonstratioから理解できるのは,理性の導きに従うということが,第四部定理六三系でいわれている,理性から生じる欲望に従うということに等置されているという点です。このとき,この系でいわれている何に注目しなければいけないのかというと,理性から生じる欲望は僕たちを直接的に善に赴かせるのに対して,間接的に悪を逃れさせるといっている点です。この直接的ということと間接的ということとの間にどのような相違があるのかということが,第四部定理六五が,また第四部定理六五から帰結するといえる第四部定理六六が,なぜ第四部定理六四と矛盾しないのかということを解決する鍵になると思われます。というのも,第四部定理六五はその文言自体もまたこの証明の内容も,それ自体でみるならば,理性が悪を十全に認識するcognoscereということを前提していると解することができるからです。

 道義心pietasというのは理性ratioから生じる欲望cupiditasの一種です。そしてこの欲望から生じる行動は敬虔pietasであるといわれます。ところがスピノザは,この行動自体は,理性から生じようと受動感情から生じようと,同じように敬虔というのです。したがって,もし殴打という行為が理性から生じる欲望によって齎されるのであれば,それは道義心による殴打であって,この殴打は善bonumというほかありません。一方,たとえば憎しみによって同じ殴打が齎されるということがあるなら,これはあくまでも仮定であって,第四部定理四五によってそういうことは実際にはないのですが,もしそれがあるとしたら,憎しみから生じるその殴打も敬虔であり,善であるということになるのです。第四部定理五九備考では憎しみという,絶対に善ではあり得ない感情に起因する殴打を例示しているので分かりにくいのですが,受動感情から発生する行動のすべてがmalumといわれるわけではないのです。いい換えれば,受動感情から生じる行為は受動感情から生じるがゆえに徳とはいわれ得ないのですが,有徳的でないからといってそれがすべからく悪といわれなければならないというものではありません。あくまでも自己の利益suum utilisという観点からみられるときに,ある所作は善といわれたり悪といわれたり,あるいは善でも悪でもないといわれることになるのであって,有徳的でないからといって必ず自己の利益に反することになるというわけではありません。
 それでは國分の探求をさらに追っていくことにします。
 なぜ他者を殴打してはいけないのかということを,『エチカ』の下に求めるとすれば,ここまでに探求してきたことがそのすべてです。たとえば憎しみodiumによって他者を殴打するとき,それは殴打する人間にとっての好ましくない状態を意味します。すなわち殴打する人間の自己の利益に反する状態を表示します。だからそれは悪であって,悪であるから他者を殴打してはいけないということが帰結するのです。これは,他者を殴打するなということに対して十分な根拠を与えているとはいえないかもしれません。というか,他者を殴打するなという道徳的命令自体を発令していないとさえいえるでしょう。
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大成建設杯清麗戦&第四部定理三七備考一

2024-07-25 19:02:37 | 将棋
 犬山市で指された昨日の第6期清麗戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流四段の先手。やや変則的な手順でしたが福間香奈清麗のごきげん中飛車で①-Aのような将棋になりました。
                                        
 先手が押さえ込むか後手が食い破るかという将棋。ここで☖5四歩と打ったのですが,これが性急だったようです。☖8二王とでも寄って,先手の対応をみていくのが優りました。
 ☗5四同歩に☖7七角成☗同桂と角を交換して☖5四銀。先手は☗5二歩と打ちました。
                                        
 ここで☖同金と取ったのが決定的な敗着になりました。☗5五歩と打たれて食い破ることはできたものの5四の銀を取られる方が大きく響きました。ここは☖同飛と取っておき,後に後手の方から☖5五歩と打てるように進めなければいけなかったようです。
 加藤女流四段が勝って1勝1敗。第三局は来月6日に指される予定です。

 一般的に現実的に存在する人間が他者を殴打することのすべてがmalumといわれるわけではありません。分かりやすい例を用いればボクシングのような格闘技において対戦相手を殴打する行為というのは,悪といわれることはないからです。スピノザが示しているように,憎しみodiumに駆られて他人を殴打する行為が悪といわれるだけのことです。
 憎しみは悲しみtristitiaの一種なので,必然的にnecessario受動passioであることになります。ただし,他者に対する憎しみに駆られた人間が,必ずその他者を殴打するわけではありません。このとき,憎しみというのは感情affectusですから,もし何かがそれを抑制するとすれば第四部定理七にあるように憎しみとは別の感情であることになります。そしてその別の感情は,抑制される感情,この場合でいえば憎しみより強力でありさえすれば十分なのであって,能動的であるか受動的であるかを問われるわけではありません。もしそれが理性ratioから生じる感情,あるいは同じことですが徳virtusから生じる感情であればこの抑制はその人間の能動actioであり,そうでないならこの抑制もまたその人間の受動ということになります。しかし能動であれ受動であれ憎しみは抑制されるのですから,他者への殴打という行為には至らないことになるのは同じです。
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,こうした場合に,受動によって憎しみを抑制し,殴打という行為に至らせないようにするのに有益なのが聖書なのだという主旨のことがいわれていると解して間違いありません。そして聖書に従うことによってこうした憎しみを抑制し他人を殴打しない人間の態度が,敬虔pietasといわれるのです。すなわち敬虔というのはスピノザの哲学においては思惟作用を意味するのではなく,身体的振る舞いを意味する,あるいは身体的な所作も意味すると解さなければなりません。しかしもしもこれを思惟の様態cogitandi modiあるいは理性から生じる欲望cupiditasと解するなら,それは道義心pietasといわれるのです。これは第四部定理三七備考一で,宗教心が説明された直後にいわれています。
 「我々が理性の導きに従って生活することから生じる,善行をなそうとする欲望を私は道義心という」。
 道義心はそれ自体で徳であることになります。
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王座戦&欲求

2024-07-24 19:06:26 | 将棋
 22日に指された第72期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は羽生善治九段が8勝,永瀬拓矢九段が15勝。千日手が1局あります。
 振駒で羽生九段の先手となり,永瀬九段の雁木。後手が居玉の段階で先手から仕掛けていきましたが,先手玉も薄かったので,全体的には先手の方が指しにくい将棋で進んでいたように思います。
                                        
 後手が☗9五角を防いだところ。ここで☗3七歩と成桂を取りました。
 手番を得た後手は☖2九飛と打ち☗7九桂の受けに☖2八飛成と取り返しました。
 そこで先手は☗8五銀と打ったのですが,☖同飛☗同歩☖8六銀と打たれました。
                                        
 第2図は先手玉が寄り筋に入っています。第1図ですぐに☗8五銀と打つとこの筋がないので後手は☖8一飛と逃げます。それでは勝てないということで実戦の手順を先手は選んだようですが,後手玉を攻めていく途中で☗3七歩と成桂を取る順もあるので,実戦のように簡単には終わらなかったように思えます。
 永瀬九段が勝って挑戦者に。内容では押しながらタイトルを奪われた前期のリターンマッチに。第一局は9月4日に指される予定です。

 第四部定理一八備考でいわれていることと,第四部定理三七でいわれていることは,矛盾するのではないかという疑問をもつ人がいるかもしれませんから,このことについて説明しておきます。
 第四部定理一八備考は,自分のために欲求しないことを他人に対しても欲求しないとはいわれずに,他人に対して欲求しないことを自分に対しても欲求しないといっています。ただし,事象としてみたらこのふたつは同じことです。何を自分に対して欲求しまた他人に対して欲求するかということの中身は,どちらのいい方をしても変わるところはないからです。ここの部分は各人は自己の利益suum utilisを求めるべきであるということが,不徳の基礎ではなく徳virtusの基礎であるということを説明しようとしているので,他人のために欲求しないことを自分に対しても欲求しないといわれているまでです。したがって,他人に対して欲求しないことを自分に対しても欲求するなという命題は,この備考Scholiumの中においては,一種の道徳的命令としての機能をもつことになります。
 第四部定理三七は,自分のために欲求する善bonumを他人にも欲求するといっています。ただしこれはこの定理Propositioの文言から分かるように,その人間が有徳的であるということが前提されています。なので,自分のために欲求することを他人のためにも欲求せよという命題が,道徳的命令としてこの定理に中に含まれているわけではありません。むしろ有徳的であるなら,自分のために欲求する善を他人に対しても欲求するのは必然的帰結であるという,一種の事実命題が含まれているだけです。僕が事前にいっておいたことと関連させれば,徳の規準は自分自身にあって,自分自身が有徳的でありさえすればそのコナトゥスconatusはやはり有徳的である人間のコナトゥスと一致するということが必然的にnecessario帰結されるというのと同じです。
 そしてこれが必然的な帰結なので,この帰結から逸れていくならそれは悪malumといわれるのです。このために,憎しみodiumによって他人を殴打することが悪といわれることになります。ただこのことは,殴打という身体的行動にのみ的を絞っていますから,國分によるものとは別の説明も可能だと僕は考えています。
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不死鳥杯&身体の所作

2024-07-23 19:21:19 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは新山‐竹内の北日本,脇本勇希‐脇本雄太‐稲川‐東口‐藤井の近畿で根田と山田は単騎。
 脇本勇希がスタートを取って前受け。6番手に新山,8番手に山田,最後尾に根田で周回。残り2周のホームの入口から新山が発進。誘導との車間を開けていた脇本勇希が突っ張ったのでてこずりましたが,脚力の違いで打鐘では新山が脇本勇希を叩きました。山田がこのラインに続き,脇本雄太は脇本勇希を捨てて山田の後ろにスイッチ。バックから山田が発進。ホームで山田との車間を開けていた脇本雄太は山田の発進をみてさらに外を捲る形。山田は新山はあっさり捲りましたが,外の脇本雄太が直線の入口では前に。そのまま抜け出して脇本雄太が優勝。山田が3車身差で2着。脇本から離れてしまった稲川は4分の3車身差の3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は3月のウィナーズカップ以来の優勝。記念競輪は昨年4月の武雄記念以来の優勝で14勝目。福井記念は2014年,2015年,2017年,2018年,2020年と優勝していて4年ぶりの6勝目。このレースはラインの厚みが違いますので,どういう展開になっても脇本雄太の優勝は確実で,ラインを引き込めるかどうかが焦点とみていました。新山は脇本勇希には先行させないという競走。とくに脇本勇希にアシストをしなかったのは,先行争いがよい経験になるとみてのものでしょう。脚力通りに新山の先行にはなったものの,叩くのに脚を使いましたから,失速は止むを得ないところ。脇本勇希が叩かれてからの脇本雄太は,自身の優勝だけを目的とした競走になったこともあり,稲川がマークしきれませんでした。ただこれは稲川の脚力の問題であって,ラインで上位を独占できなかったのも無理のないところでしょう。根田が山田に続いていれば,2着,3着の争いはもっと激化したかもしれません。

 この後で國分は『はじめてのスピノザ』でも例示していた,第四部定理五九備考について検討しています。
 まず前提としていっておかなければなりませんが,殴打という動作は,それ自体でみられるなら善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打がそうであるというより,人間の身体humanum corpusの所作はすべてそれ自体でみられる限りでは善でも悪でもないのであって,殴打もそのような所作とみられる限り,善でも悪でもあり得ないということです。一方,それが徳virtusといわれるのは,人間の身体の力potentiaを表現している限りにおいてです。したがってこのことも殴打に限られるのではなく,もし人間の身体のある動作が,その人間の身体の力の表現とみられる限りでは,すべて徳であるといわれなければならないのです。
 しかしこうしたすべての動作は,善にもあり得るし悪にもなり得るのです。たとえば同じ備考の中でいわれているように,殴打という所作が憎しみodiumから発生するとすればそれは悪といわれなければなりません。もちろんこの部分でいわれていることも,殴打という所作に特有に適用されるわけではありません。ある人間の身体の動作が,憎しみに代表されるような悪しき受動感情から発生しているときは,それらはすべからく悪といわれるのです。悪しき受動感情がいかなるものであるのかということは,第四部定理四五系一に列挙されている通りです。
 ではなぜその場合は悪といわれなければならないのでしょうか。それは第四部定理四五で憎しみは善であり得ないといわれているからなのですが,鍵となるのはこの定理Propositioを証明するときに,第四部定理三七にスピノザが訴求している点だと国分はいいます。この定理は,徳に従っているということは,自分のために欲求する善を,他人にも欲求することであるという主旨のことをいっているのです。つまり規準は自分のために欲求する善にあるのです。その善を他人に対して欲求しないような状態になることは,有徳的であるということから離れていくことなのです。このゆえに憎しみから他人を殴打することが悪といわれることになります。僕たちは憎しみによって他人に殴打されることを自身の善として欲求しないからです。
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KENTA&自己の利益

2024-07-22 19:02:39 | NOAH
 潮崎豪は2006年1月に試合中に大けがを負いました。このときに戦っていたのがKENTAです。
 三沢光晴が全日本プロレスの社長になった後のことだったと思いますが,全日本プロレスは初めてのオーディションを行ないました。そこに参加して合格。全日本プロレスの練習生になりました。2000年3月にバトルロイヤルでデビュー。5月の丸藤正道との試合が正式なデビュー戦になりました。ところがすぐに三沢が全日本プロレスの社長を辞任して退団。NOAHの旗揚げがあり,KENTAもNOAHに移籍しましたので,実質的なプロレスラーとしてのキャリアはNOAHから始まったといえます。
 NOAHに移籍して小橋建太の付き人に。この頃はまだ小林健太でした。KENTAの前の付き人が金丸義信で,KENTAの後任になったのが潮崎です。KENTAに改名してからのベルト初戴冠は2003年7月。丸藤と組んでのGHCジュニアタッグでした。ヘビー級でデビューした杉浦貴が体重を落としてジュニアヘビー級でも戦うようになり,丸藤,KENTA,金丸,杉浦の4人で多くの名勝負を戦っています。
 GHCジュニアヘビー級のシングルの王者になったのは2005年7月で,これは金丸から奪取。翌年の1月にシングルマッチで丸藤から初勝利をあげました。その年の6月に杉浦にベルトを奪われています。ただこの頃から無差別級であるヘビー級にも進出。先に実績を残したのは丸藤で,2006年9月に秋山準を破ってGHCヘビー級王者に。KENTAは初防衛戦の相手に指名され,この試合は敗れてしまったものの,プロレス大賞のベストバウトに選出されました。
 この後,石森太二がNOAHで仕事をするようになり,KENTAは石森と組むことが多くなったので,またジュニアヘビー級での試合が中心に戻りました。石森とのチームでも2008年にGHCジュニアタッグを戴冠しています。ただこの後は膝の怪我の影響があり,休養も多く,実績はあまり残せませんでした。
 2012年に復帰してからはヘビー級が中心に。この年の10月にGHCタッグの王者になり,翌年の1月にはGHCヘビーの王者にもなっています。シングルの王者は約1年ほど保持。2014年4月にNOAHを退団しました。

 このスピノザの主張は,僕たちの常識に照合させるとあまりに不自然だといえるでしょう。僕たちは自分がされて嫌なことは他人にもするなと教えまた教えられるのであって,他人がされて嫌なことを自分にもするななどとはいうこともないしいわれることもないからです。しかしここでスピノザが自己の利益suum utilisの方を重視してこのようにいうのは,人間というのは自分のことをよく知っていなければ,あるいは同じことですが自分のことを正しく認識していないならば,他人がされたら嫌なことを自分にはしてしまうものだからだと國分はいっています。だから逆にいえば,自分を正しく知るということ,あるいは自分の現実的本性actualis essentiaすなわちコナトゥスconatusに従って自己の利益を追求することが重要なのです。それが有徳的であるということを意味するのです。これは徳virtusの規準が自分自身にあるという僕の結論に一致しているといえるでしょう。スピノザは第四部定理五六を証明するにあたって,自分自身を知らない人間は一切の徳の基礎を知らない人間であるという意味のことをいっているのですが,これは自分自身を知らない人間は,この定理Propositioでいわれている高慢superbiaや自卑abjectioといった受動感情に容易に囚われてしまうという意味なのです。
                                   
 ところで,この定理は一般的な規則として十分に成立します。しかしそれを僕たちはどのように具体的に適用するのでしょうか。たとえば高慢な人間に自分は出会ったことがあるか否かということや,自分自身が高慢という感情affectusに隷属したことがあるのか否かといったことは,自分自身の経験を,一般的な規則から理解することができたときです。だから第二部定理二四は,単に有徳的に働くagereということを,理性ratioの導きに従って行動し,生活し,自己の有esseの維持することだといわずに,それを自己の利益の原理に基づいてすることだとスピノザはいっているというのが,國分の指摘です。ただこのことは,第二部定理三七にあるように,理性による認識cognitioの基礎となる共通概念notiones communesは,個物res singularisの本性essentiaを構成しないということからも示すことができるでしょう。現実的に存在する人間の精神mens humanaも身体corpusも個物であって,理性だけで認識できるのは一般的規則だけであるからです。
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お~いお茶杯王位戦&第四部定理一八備考

2024-07-21 19:17:43 | 将棋
 17日と18日に湯の川温泉で指された第65期王位戦七番勝負第二局。
 渡辺明九段の先手で相掛り。後手の藤井聡太王位が縦歩取りの要領で一歩を得する将棋になりました。
                                        
 第1図から後手は☖2五銀と出て☗2八飛に☖3四銀と引きました。これは再び☗2六飛なら☖2五銀と出て千日手にしようという狙い。後手で千日手は悪くありませんが,裏を返せば千日手を狙うほかなくなっている局面ともいえ,ここまでの手順が万全ではなかったかもしれません。
 先手は☗7四歩と打って打開しにいきました。後手にとっては予想外の手だったようです。1時間9分考えて☖3七歩成☗同銀と成り捨てて☖3八歩と打ちました。
                                        
 ただこれは反撃として弱かったようです。先手は52分考えて☗3五歩と打ちました。以下は一方的に先手が攻め勝っています。後手にとって不出来な将棋だったという印象で,そこを先手がうまく衝いたという一局でした。
 渡辺九段が勝って1勝1敗。第三局は30日と31日に指される予定です。

 現実的に存在する個々の人間には,それぞれに固有の本性essentiaがあります。このことは第二部定義二から明らかだといわなければなりません。この定義Definitioによれば事物とその本性は一対一で対応し合うことになります。ですからもし現実的に存在するAという人間とBという人間の現実的本性actualis essentiaが一致するなら,AとBは同じ人間であるということになってしまいます。しかしこれほど不条理なことはありません。したがってAの現実的本性とBの現実的本性は異なります。このことがすべての人間に妥当します。よって現実的に存在する個々の人間に,その人間に固有の現実的本性があるのであって,同一の現実的本性を有する複数の人間は存在しません。
 第四部定理一八備考がいっているのは,それぞれ固有の現実的本性を有する人間が各々の仕方で,各々の本性に則したとしても,有徳的である限りでは理性ratioに従うことになるということだと國分は指摘します。理性は人間を巡る一般的な法則ですが,その法則に従うのではなく,あくまでも各々の人間が各々の人間に固有の現実的本性に,各々の仕方で従っているという点が重要です。これは僕が前もっていっておいたことでいえば,理性に従うということあるいは同じことですが有徳的であるということは,各々の人間が自身に固有の現実的本性を正しく認識して行動することの帰結であるということと関係しています。
 このような人間がどのように振る舞うのかということが,同じ備考Scholiumの中に示されています。
 「理性に支配される人間,言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は,他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく,したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる」。
 この部分で重要なのは,自分がされたら嫌なことを他人に対してもしないとはスピノザはいわず,他人がされたら嫌なことを自分にもしないとスピノザがいっている点だと國分は指摘しています。これはまさにその通りであって,だからスピノザは自己の利益suum utilisというのをこの備考の中で,また第四部定理二〇第四部定理二四でいっているということができるでしょう。
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WTミッドナイト&第四部定理一八備考

2024-07-20 19:10:44 | 競輪
 18日に佐世保競輪場で争われたウインチケットミッドナイトの決勝。並びは久田‐松本‐隅田の四国中国,後藤‐岩谷‐阪本の九州で平原は単騎。
 岩谷がスタートを取って後藤の前受け。4番手に平原,5番手に久田で周回。残り3周のバックに入ると後藤が誘導との車間を開けて後ろを牽制。残り2周のホームに入って久田が発進しましたが,待ち構えていた後藤が突っ張りました。バックに入ってまた久田が叩きにいったものの,そのまま打鐘になり,3番手と4番手,4番手と5番手の車間が開いて周回中と同じ隊列のまま。ホームに戻ってまた久田が発進しましたが,バックに戻って岩谷が番手から発進。久田は不発で松本が自力に転じました。追いついてきた平原が阪本の内にいき,直線の入口では2番手が平原,阪本,松本で併走。外の松本がそのまま外を追い込み,フィニッシュ寸前で岩谷を差して優勝。岩谷が8分の1車輪差で2着。岩谷マークの阪本が4分の3車身差で3着。内の平原が4分の1車輪差の4着で松本マークの隅田が8分の1車輪差の5着。
 優勝した愛媛の松本貴治選手は2021年1月の松山記念以来となるGⅢ2勝目。このレースは平原と松本の力が他と比べて圧倒的上位。松本は久田の番手となったので難しいところもあるかと思っていましたが,後藤の果敢な先行で久田が不発となり,わりと早めの段階から自力を出すことになったので,ぎりぎりで優勝に手が届いたのだと思います。それでみれば後藤はもう少しだけ引き付けた方がよく,よいタイミングで駈け出せていれば,優勝は岩谷の方だったのではないでしょうか。

 ここまでのことを踏まえた上で,いよいよ國分の考察を詳しく追っていくことにします。
                                        
 スピノザは第四部定理一四で,善bonumの認識cognitioも悪malumの認識もただそれが真verumであるというだけではどのような感情affectusも抑制し得ないといっています。もしも善も悪も理性ratioによって認識するcognoscereことができるのであれば,それは道徳的なひとつの結論となり得るでしょう。ところがその認識が感情を抑制し得ないのであれば,結局は第四部定理八の様式で僕たちが善をまた悪を認識することを抑制し得ないことになります。このために,単に善ならびに悪を十全に認識するということは,道徳的な結論とはなり得ないのです。
 これを解決するためにスピノザは自己の利益suum utilisといういい回しをして,それを追求することの重要性を説くのだと國分はいいます。第四部定理二〇第四部定理二四を國分はその代表的な定理Propositioとして示していて,さらに第四部定理一八備考もあげています。その備考Scholiumでいわれているのはある意味で決定的といえますので,ここでも示しておきます。
 「理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ,したがって理性は,各人が自己自身を愛すること,自己の利益・自己の真の利益を求めること,また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、―一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めること,を要求する(Cum ratio nihil contra naturam postulet, postulat ergo ipsa, ut unusquisque seipsum amet, suum utile, quod revera utile est, quaerat, et id omne, quod hominem ad majorem perfectionem revera ducit, appetat, et absolute, ut unusquisque suum esse, quantum in se est, conservare conatur)」。
 これらの部分でいわれている自己の利益の追求というのがエゴイズムとは関係がないということは,事前に僕が説明しておいたことから明らかです。ではなぜスピノザがこれらの部分で自己の利益を追求することの重要性を説くのかといえば,自己の利益を追求することこそが他人にも善をなすことに繋がっているからです。これは第四部定理三七でみられる考え方です。
 國分はこの関係を考察しています。つまり,現実的に存在する人間が理性に従って自己の利益を追求することが,なぜ他人に善をなすことに繋がるのかということを考察しているのです。僕はそれを,第四部定理三五を援用した主体の排除という観点から一般的な規則として説明したのですが,國分はそれをもっと具体的な仕方で示そうと試みています。
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スポーツニッポン賞習志野きらっとスプリント&徳の認知

2024-07-19 19:04:42 | 地方競馬
 愛知から2頭,高知から1頭,佐賀から1頭が遠征してきた昨晩の第14回習志野きらっとスプリント
 クビほど前に出ていた外のエンテレケイアがそのまま譲らずハナへ。内から追っていたオールスマートが控えて2番手。3番手にカプリフレイバーとハセノエクスプレスで5番手にスワーヴシャルル。2馬身差でイモータルスモーク。7番手にプライルード。この後ろはビリーヴインミー,リュウノユキナ,ティアラフォーカス,マッドシェリーの集団。その後ろがブンロートとロイヤルパールス。最後尾にスマートセラヴィーという隊列。最初の400mは22秒6のハイペース。
 3コーナーでエンテレケイアのリードが2馬身ほどに広がり,2番手はまだオールスマート。この後ろからスワーヴシャルルとプライルードが並んで追い上げてきてその後ろがイモータルスモーク。直線に入ると逃げたエンテレケイアがさらに後ろとの差を広げていき,楽に逃げ切って圧勝。内を回って追ってきたスワーヴシャルルが6馬身差で2着。2番手追走の佐賀のオールスマートが1馬身半差で3着。
 優勝したエンテレケイアは南関東重賞初勝利。JRAでデビューして1勝。3歳のうちに浦和に転入。転入先が浦和だったこともあり,1400mと1500mを中心に走っていましたが,900mや1000mでの好走もあり,強敵相手に戦えるのはむしろそうした距離と思えました。かなり優秀なタイムなので,圧勝になったのは当然。逃げたのがよかったということでしょうが,これまでで最高のパフォーマンスになりました。父はアジアエクスプレス。Entelecheiaは完成された現実性を意味する哲学用語。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手報知オールスターカップ以来の南関東重賞34勝目。その後に川崎記念を勝っています。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞67勝目。第9回,10回に続き4年ぶりの習志野きらっとスプリント3勝目。

 理性ratioによる認識cognitioはそれ自体が有徳的な認識ですから,第四部定理二三は,現実的に存在する人間は理性によって事物を認識するcognoscere限りでは有徳的であるといっているのと同じです。これは第四部定理二四からなお一層明らかだといえるでしょう。したがってすべての人間は理性的である限り有徳的であるということになりますから,人間に一般のvirtusの何たるかを示そうとするのであれば,これだけで十分だといえます。そしてこの意味において,すべての人間に共通の徳というものが,スピノザの哲学にもあるといえるのです。
                                   
 ところがスピノザは,その前の第四部定理二二系では,徳の唯一にして第一の基礎は,現実的に存在する各々の事物のコナトゥスconatusであるといい,理性によって事物を認識すること,いい換えれば現実的に存在する事物の能動actioであるとはいわないのです。それがなぜかといえば,人間に共通の徳が何であるのかということを示すことを意図しているのではなく,現実的に存在する各々の人間が,自身の徳とは何かということを正しく認識し,そのことを通じて人間に共通の徳とは何かということを正しく知るということが重要であるとスピノザが考えているからだと僕は思うのです。よって,現実的に存在するある人間が,人間に共通の徳を知るということは,自身のコナトゥスを正しく把握してそのコナトゥスに従って行動することによって知られることになる帰結事項なのだと僕は考えます。だから,人間に共通の徳というのは,いわゆる主体の排除によって各々の現実的に存在する人間に知られることになる帰結事項であり,徳そのものの第一の規準は,人間の本性natura humanaにあるのではなく,各々の人間の現実的本性actualis essentiaにあると僕はいうのです。
 前もってこのようにいっておいたのは,徳の第一の規準が自分自身にあるというなら,各々の人間が自己のコナトゥスに従うことがそれぞれの徳ということになり,スピノザは現実的に存在する人間が利己的に行動することを徳として推奨しているというように解されるおそれがあるからです。実際にはスピノザはそのようなことを主張しているわけではありません。徳の何たるかを知ることの方を重視しているのです。
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汎悪霊論&第四部定理二三

2024-07-18 19:16:33 | NOAH
 『悪霊』のスタヴローギンの告白の第一節の中で,スタヴローギンがチホンに,神を信じないで悪霊だけを信じることができるかを尋ねる部分があります。この部分を佐藤優は『生き抜くためのドストエフスキー入門』の中で取り上げていて,これを書いているときのドストエフスキーにはスピノザのことが念頭にあったのではないかと推測しています。
                                        
 僕はドストエフスキーがスピノザを知っていたとすら思わないので,これは牽強付会でないかと思いますが,このことについては別に僕の考え方を説明します。なぜ佐藤がこのことをスピノザと絡めて考えているのかといえば,それはスピノザの哲学が汎神論であること,あるいは汎神論だといわれていることと関連しています。スピノザの哲学では自然のうちに存在するのはそれ自身のうちにある実体と,実体のうちにある実体の変状としての様態だけですが,存在する実体は神だけなので,自然のうちに存在するものは神であるか,神の変状としての様態だけであるということになっています。スタヴローギンはそれに対して,実際には自然のうちに存在する実体は悪霊だけであって,悪霊以外のものはすべて悪霊の様態である,つまり僕たち人間も,神の様態などではなくて悪霊の様態であるという意味のことをいいたいのだと佐藤は解しているわけです。つまりスピノザの汎神論に対していえば,スタヴローギンは汎悪霊論を主張していると佐藤はみているわけです。
 スピノザの哲学を解釈する立場からみれば,この解釈はまるで成立しません。しかしそれは哲学的観点なのでまた別に考察します。哲学的には成立しませんが,文学評論としては成立するといえるでしょう。一般的には神と悪霊は相対立するものと考えられているのであって,汎神論というものが成立するのであれば,汎悪霊論というのも成立するとはいえるからです。そして人間が神の様態であるのかそれとも悪霊の様態であるのかという問いは,神と悪霊をそのような関係として解する限りでは文学的にも十分にあり得る問いだといえるからです。

 virtusの規準は自分自身にあるわけですが,だからスピノザの哲学においては人間に共通の徳というものがないのかといえば,そういうわけではありません。これは再三にわたっていっていることですが,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従っている限りではすべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致するからです。したがって,たとえばAという人間が現実的に存在するとして,Aの徳の規準はA自身ではありますが,その徳の第一にして唯一の基礎であるAのコナトゥスconatusは,たとえばその他の人間であるBが理性に従っている限りでは,Bのコナトゥスに一致するでしょう。このことが現実的に存在するすべての人間に妥当するわけですから,現実的に存在する人間のコナトゥスは,人間が理性に従っている限りでは一致することになり,したがって徳の何たるかも一致することになるのです。第四部定理四系は,こうしたことが現実的に生じるということについては否定しているといわなければなりませんが,少なくとも論理的には,すべての人間にとって共通の徳があるということになります。
 ただし,このことは,主体の排除と関連させていわれると僕は考えます。すなわち,理性に従って事物を認識すれば,だれがそれを認識しても同一の認識cognitioに至るので,だれが認識しているかを問うことは無用であるというのと同じ意味で,人間に共通の徳は,だれが認識しても同じ徳であるからだれが認識しているか問う必要はないという観点から,人間に共通の徳があると結論されるべきだというのが僕の見解opinioです。なぜなら,理性に従うということ自体が徳であるという前提が,スピノザの哲学にはあるからです。これは第四部定義八から明らかであって,この定義Definitioからして,たとえば現実的に存在する人間が受動的な欲望cupiditasに隷属しているならその人間は有徳的であるといえないということになるでしょう。これは第四部定理二三で次のようにいわれています。
 「人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは,有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる」。
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書簡八十二&徳の規準

2024-07-17 19:25:32 | 哲学
 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが最後にスピノザに出した手紙が書簡八十二です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。1676年6月23日付でパリから出されました。この時点ではライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもまだパリにいたのではないかと推定されます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではチルンハウスがライプニッツのために,シュラーGeorg Hermann Schullerに対する紹介状を書いたことになっていて,それはたぶんライプニッツがパリを発つ時点でチルンハウスがパリにいたということを意味していると僕は解します。チルンハウスが所持していた『エチカ』の草稿がステノNicola Stenoの手に渡ったのはローマでのことですから,その後でステノがパリを離れたことは間違いないと思われます。
                                        
 チルンハウスはこの書簡ではひとつの質問をしています。これは,どのようにして延長Extensioの概念conceptusから事物の多様性がアプリオリに証明されるのかというものです。チルンハウスはスピノザがそのことについて何か考えをもっているのだけれども,そのことを証明したことがないので,それを知りたいと思ったのです。ただ前もっていっておけば,スピノザはそのような仕方で事物の多様性が証明され得るというようには考えていません。そう考えていたのはデカルトRené Descartesで,しかしデカルトは,そのことは人間が認識できる事柄を超越しているのだとして,なぜそうなるのかということの証明Demonstratioはしていません。スピノザは,事物の多様性を証明するためにはデカルトのような方法methodusでは不可能であるというように考えていたのであって,この質問に関しては,チルンハウスがデカルトの見解opinioとスピノザの見解を混同しているといえそうです。
 チルンハウスはそれを知りたい理由として,ある事物の本性essentiaからはひとつの特質proprietasだけが導出されるからだとしています。つまりひとつの事物の本性から多様な事物が特質として導かれることはあり得ないとチルンハウスは考えているのです。このことをチルンハウスは数学的な観点から説明しています。ある特定の事物の本性から多数の特質が導出されるということが,たとえばどのようなことであるのかということをチルンハウスは知りたかったということになります。

 國分の検討を順序立てて追っていく前に,今回は僕の方から前もって簡単な結論を示しておきます。スピノザの道徳論の第一の規準となるものは何かといえば,それは自分自身です。このことを僕は次のような論理に訴求します。
 第四部定理二二系で,virtusの第一にして唯一の基礎はコナトゥスconatusであるといわれています。これは一般論としてそういわれていて,後でみるように実際にそう解釈することも可能ですが,一方で一般論として解するのは危険な面を含んでいます。というのも,コナトゥスというのは第三部定理七でいわれているように,各々の事物の現実的本性actualem essentiamを構成するからです。したがって,Aの現実的本性とBの現実的本性が異なる分だけ,AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるといわなければなりません。したがって第四部定理二二系でいわれていることは,Aの徳の第一にして唯一の基礎はAのコナトゥスであり,Bの徳の第一にして唯一の基礎はBのコナトゥスであるというように解しておく方が安全です。AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるので,Aの徳とBの徳もその分だけ異なるということになり,これは結局のところ,現実的に存在する人間の数だけ徳があるということになってしまうのですが,徳の第一にして唯一の基礎がコナトゥスであるといわれている以上,このように解釈しておく方が間違いは起こりにくいでしょう。
 第四部定理二五は,ほかのもののためつまり自分以外のもののためにコナトゥスを発揮することはないといっています。したがって徳の唯一にして第一の基礎であるコナトゥスは,その人のためにのみ発揮されます。すなわちAのコナトゥスはAのためにのみ働くagereコナトゥスであって,BのコナトゥスはBのためにのみ働くコナトゥスです。したがって,Aの徳はAのために働くコナトゥスを第一にして唯一の基礎とするのですから,Aの徳の基礎はA自身であるというのと同じです。このことはBにとっても同様で,現実的に存在するすべての人間に同様であるということになるでしょう。これはつまり,徳の第一にして唯一の基礎は,現実的に存在する人間にとって,その人間自身であるということになるでしょう。
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