スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

善知鳥杯争奪戦&第二の規程と第三の規程

2020-09-30 19:56:21 | 競輪
 昨日の青森記念の決勝。並びは新山‐守沢の北日本,高橋‐新田‐佐藤の福島,松浦‐園田の西国。
 佐藤がスタートを取りましたが,上昇してきた松浦に譲って前受けは松浦。3番手に高橋,6番手に新山で周回。残り2周のホームの入口から新山が上昇。高橋を牽制しつつバックに入ってから松浦を叩きました。ここから高橋が発進。打鐘で新山を叩きました。4番手に新山で6番手に松浦の一列棒状に。新山が先に発進しましたがバックでは新田がこれに合わせるように番手捲りを敢行。そのままだれにも前に出られることなく優勝。マークの佐藤が4分の3車身差の2着で福島のワンツー。1車身半差の3着は不発に終わった新山から佐藤にスイッチした守沢と,守沢の後ろから追い込んできた松浦で接戦。写真判定の結果,3着は松浦でタイヤ差の4着に守沢。
 優勝した福島の新田祐大選手は昨年8月のオールスター競輪以来の優勝。記念競輪は2017年5月の函館記念以来の7勝目。青森記念は2014年以来の2勝目。新田は競技が中心となっているため,記念競輪には滅多に出場しません。ここは2017年の青森記念以来となる久々の記念競輪出走。ですから出走するだけで優勝候補で,さらにここは高橋の番手。しかも新山が福島ラインを分断に出ることはほぼないので,かなり恵まれたメンバー構成となりました。展開も,松浦に前受けさせて新山を後方に置きましたので,先に動いた新山を叩きにいくという絶好のものに。ここまでお膳立てが揃えばさすがに当然の優勝といっていいと思います。

 河合があげている例,すなわちスピノザが第二部自然学②第二部補助定理七備考で示しているのは,延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisである物体corpusの複合の無限連鎖という不条理な認識cognitioの先に,延長の属性の間接無限様態である物体的な全自然の認識があるというものです。ですが河合は,こうしたことが,無限infinitumの第三の規程と第二の規程の間には一般的に成立するとみています、つまり,それがどのような属性であったとしても,第三の規程の仕方で無限を認識すれば,そこには不条理が生じ,部分に分割され有限finitumであるとみられる限りでのその属性の間接無限様態の認識が発生してくるとみているのです。したがって,間接無限様態は,第三の規程と第二の規程の無限を結び付けるような様態modiであると河合は指摘しています。
                                        
 そしてもしも第二の規程と第三の規程がこのようなものであったなら,スピノザが思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態が何であるのかを示さなかったのは自明であるという意味のことを河合はいいます。なぜならそれは不条理の先にあるようなものの認識,いい換えれば原因causaから抽象されたものの認識なのですから,観念ideaでいえば混乱した観念idea inadaequataに該当します。このことは第一部公理四から明らかでしょう。そこでもしもそれがXの混乱した観念であったとしたら,それをXということは適切性を欠きます。それは混乱した観念を十全な観念idea adaequataであるといっているのと同じことになるからです。要するに河合が何をいっているかといえば,思惟の属性の間接無限様態というのは,人間によっては十全に認識するcognoscereことができないようなものであって,そのゆえにスピノザはそれを示すことをしなかった,もっといえば示すことができなかったということになると思います。僕はこの論理構成は説得力を有するものだと思います。
 無限の第二の規程と第三の規程は,あらゆる属性において一般的であるというのが河合の考え方です。それでみれば,延長の属性の間接無限様態については示すことができるのに,思惟の属性の間接無限様態を示すことができないのは疑問と思われるかもしれません。別のいい方をすれば,僕が河合の論理に説得力を感じるのは不思議だと思われるかもしれません。
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農林水産大臣賞典白山大賞典&不条理の先

2020-09-29 19:06:55 | 地方競馬
 第40回白山大賞典
 ドリームリヴァールは発馬のタイミングがまったく合わず5馬身の不利。すぐにリンノレジェンドが先頭に立ち,2番手にエルディクラージュとホーリーブレイズ。マスターフェンサー,ロードレガリス,ヒストリーメイカー,ロードゴラッソ,ティモシーブルーまでは概ね1馬身の差で続きました。2馬身差でロンギングルックとサウスアメリカン。2馬身差でリンクスゼロ。2馬身差の最後尾にドリームリヴァールという隊列で発走後の向正面を通過し正面に。リンノレジェンドが後ろを離していき,一時的に5馬身くらいのリードに。エルディクラージュとロードレガリスが2番手で併走。ホーリーブレイズとマスターフェンサーが4番手を併走。6番手にヒストリーメイカー。6馬身くらいの差でロードゴラッソという隊列に変化。スローペースでした。
 2周目の向正面でロードレガリスが単独の2番手に。エルディクラージュは内,マスターフェンサーは外に進路を取ってリンノレジェンドも含めた4頭が一団に。コーナーの途中でリンノレジェンドは一杯になり,ロードレガリスが先頭。さらに外から追ってきたマスターフェンサーが2番手に上がり,直線はこの2頭のマッチレース。最後は差し切ったマスターフェンサーが優勝。ロードレガリスがクビ差で2着。直線で大外から追い込んできたロードゴラッソが2馬身差で3着。
 優勝したマスターフェンサーは前走のマーキュリーカップからの連勝で重賞2勝目。このメンバーの中では能力はトップとみていましたが,コーナーを何度も回るようなコースに対しての適性はかなり不安視していました。勝つには勝ちましたが,それは能力によるもので,その課題を克服できたというようには思いません。広いコースの方が向いた馬だという判断でよいのではないかと思います。父はジャスタウェイ
                                       
 騎乗した川田将雅騎手と管理している角田晃一調教師は白山大賞典初勝利。

 第三の規程が含んでいる不条理の先に間接無限様態があるというのがどういうことであるのかを,河合はひとつの実例をあげて示しています。それはスピノザが第二部自然学②補助定理七備考でいっている事柄です。これは,複合した物体corpusが本性essentiaも形相formaも変ずることなくひとつの物体を形成するなら,この種の物体によって組織されたより複雑な物体についても同様であるから,このことを無限に先まで進めていくなら,僕たちは物体としての全自然はひとつの個体であって,全自然を構成する各々の物体が無限に多くのinfinita仕方で変化しつつ,全自然自体には何の変化も起こらないと認識するcognoscereことを主張した箇所でした。ここでいわれている全自然は,書簡六十四でいわれている,無限の仕方で変化しながらも常に同一に止まる全宇宙の姿facies totius Universiのことにほかなりません。つまりそれは延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態です。だから物体が無限に複合していくことを認識すると,延長の属性の間接無限様態の認識cognitioに至るという意味で,河合は不条理の先に間接無限様態があるといっているのです。したがってこれは,僕たちの認識についてそのようにいっているといえるでしょう。また同時に,僕はスピノザが主張しているこの部分には論理的飛躍が含まれていると考えているといいましたが,河合はその論理的飛躍を,不条理という語で示そうとしているといってもいいでしょう。
 書簡十二でスピノザが分類した第二のもの,すなわちその原因causaによって無限であるものは,もしもそれが原因から抽象されるなら,部分に分割され有限finitumであるとみなされるのでした。河合の第二の規程は,原因からの抽象とはいわれずに,抽象的に認識されればといわれているのですが,河合の分類は書簡十二を規準のテクストとしているのですから,ここではその相違について云々する必要はなく,同じ意味であると解してよいでしょう。そしてこれでみれば,河合のいっていることに妥当性があることは明らかでしょう。なぜなら,第二部自然学②補助定理七備考でスピノザが示したような仕方で間接無限様態の認識に帰着するのであれば,この認識は原因から抽象された認識そのものであるということができるからです。
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アジャ・コング&不条理

2020-09-28 19:04:29 | NOAH
 ブル・中野を破って全日本女子プロレスのトップに立ったのはアジャ・コングです。僕の女子プロレスキャリアのうち,ライブ観戦をしていた時期はかなり限られますが,前半が中野の時代で,後半はアジャの時代でした。
                                        
 アジャはクラッシュギャルズに憧れてレスラーになったのですが,1970年代の後半,アジャがまだ5歳から6歳の頃,先に全日本プロレスを観ていました。女子プロレスはその後で観たのですが,ビューティペアがリング上で歌っていて,激しい違和感を覚えたそうです。この回顧からも分かるように,プロレスか女子プロレスかの二者択一では,プロレス派に属します。クラッシュギャルズに対する憧憬も,女子プロレス派のライオネス・飛鳥はさほど目に入らず,プロレス派の長与千種の方に注目していたのだそうです。
 長与に憧れて女子プロレスラーになったので,会社からの命令で極悪同盟に入れられたときには絶望しかなかったと言っています。極悪同盟では中野の付き人でした。ただし中野は付き人に無理強いをするような選手ではなく,練習でしごかれたというようなこともなかったようです。中野はヒールであっても最後は凶器ではなく技で見せる,決めるというのがモットーで,その点には大きな影響を受けました。極悪同盟のトップだったダンプ・松本が引退した後,中野は獄門党という一派を結成します。メンバーは松本が抜けた以外はあまり変わらなかったのですが,中野のモットーはダンプのそれとは異なりました。ここからアジャは自分で考えてプロレスをしていくようになります。
 アジャがユニバーサルプロレスに出場し始めると,中野とアジャの間で感情的な対立が芽生え始めました。バイソン・木村が獄門党を脱退したのを機にアジャも脱退。アジャと木村はジャングルジャックを名乗り,獄門島の中野とヒール同士で争うことになります。このときから2年間,中野とアジャは会話を交わすこともなかったとアジャは述懐しています。ふたりの間で和解があったのは,アジャが中野を倒したその日だったそうです。

 第一部定理二八にせよ第二部定理九にせよ,無限定に進むとか無際限に進むといわれるべきところを無限に進むといわれている点では同じです。しかし,もしこれが無限定にとか無際限にと表記されていたとしても,事柄の真理性という観点からすると,不条理が含まれています。というのは,有限なfinitum様態modusのことを個物res singularisというのですから,有限finitumであるものが無際限にあるいは無限定に連鎖していくというのは,不条理であると考えられるからです。
 このことは,河合は示していませんが,僕が持続duratioについて示したことからより明瞭に理解できると思います。第二部定義五にあるように,持続とは存在の無限定な継続Duratio est indefinita existendi continuatioであり,これも僕が示したように,僕たちは持続というのをこのような仕方でしか認識するcognoscereことができません。ですが,存在existentiaの開始と終焉があるものだけが持続するdurareといわれるという点に着目するなら,持続しているある事物について,その存在は無限定であるとか無際限であるというのは不条理でしょう。たとえば僕の存在は無限定に継続するという命題は,明らかに偽の命題といわざるを得ないからです。逆にいうなら,僕たちはこの種の命題が偽の命題であるということを知りつつ,持続に関しては,存在の無限定な継続であるとしか定義Definitioのしようがないのです。
 このことが,一般に第三の規定において無限といわれるもの,いい換えれば無際限indefinitumであるとか無限定indefinitumであるといわれる意味で無限の概念notioを構成するものに対して妥当するというのが河合の見解opinioです。他面からいえば,無限の第三の規定というのは,ある不条理を含んだ無限なのです。このことは,書簡十二におけるスピノザの説明からも理解できるでしょう。というのはスピノザはそこで,この種の無限は,一方が他方より大であったり小であったりすると把握することができるといっているからです。もしこれが純粋に無限,この考察でいうところの実無限を構成すると考えるなら,ある実無限と別の実無限を比較して,一方の実無限が大であると把握することができるといっていることになり,これはこの上ない不条理であるからです。
 河合はこの不条理の先に,間接無限様態があるとみています。
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蜘蛛の意志&別の根拠

2020-09-27 19:21:52 | 哲学
 『ニーチェNietzsche』では,蜘蛛の意味の中で,蜘蛛の意志が,処罰しようとする意志であり,裁こうとする意志であると説明されています。これを解釈する際には,注意しておかなければならないことがあります。というのもニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは,処罰とか裁きといった事柄を,僕たちが通常の仕方で理解しているのとは異なった仕方で理解しているからです。これは処罰とか裁きといった事象の発生と関係します。
                                        
 僕たちは大抵の場合,罪を犯した人間が裁きを受け,その裁きの結果として処罰されるというように解しているのではないかと思います。したがってまず罪という行為あるいは概念notioがあり,それに触れた人間は裁きを受けなければならず,その裁きで罪を犯したとされれば罰を受けなければならないというように,通常は解されているのではないかと僕は思っているのです。ところが,ニーチェは裁きとか処罰といった事柄の発生を,このような仕方では解さないのです。
 ニーチェによれば,人間の中に本性naturaとして,他人を裁きたいとか他人を罰したいという欲望cupiditasが存在しているのであり,この欲望を充足させるために人は他者を裁きまた罰するのです。しかし各人が思い思いに他人を裁きまた罰していたのでは,人間は共同体を構成して生活を営むことが困難になります。そこで,各人の欲望の充足を合理化させるために,罪という概念が発明され,この罪を犯した人間を,共同体の法によって裁きまた罰するようになるのです。つまり,僕たちはまず罪があって,その後に裁きや処罰が発生すると解しているのだとすれば,ニーチェの考え方はその正反対で,まず裁きとか処罰が前もってあり,それを合法的に行うために罪が後から発生してくるのです。蜘蛛の意志が処罰や裁きに向う意志であるというとき,この点を誤解してはなりません。つまりそれは,罪を裁きまた罰することに向う意志というよりは,蜘蛛が本来的に有している欲望なのであって,罪という概念を創出することに向うような意志でもあるのです。
 この種のニーチェの考え方から最も大きな影響を受けた学者はおそらくフーコーMichel Foucaultです。フーコーの哲学や思想は,ニーチェの哲学なしにはあり得なかったでしょう。

 確かに河合の分類は,書簡十二でスピノザが説明している内容を踏襲しています。しかしだからといって,僕のように,無限定indefinitumや無際限indefinitumを無限infinitumと分けて考えることにも理はあります。なぜならスピノザ自身が書簡十二の中で,第三の規定に該当している内容については,無限定といった方がいいでしょうという注釈を与えているからです。これでみればスピノザは,第三の規定については,第一の規定および第二の規定とは分けて考えた方がいいといっていると解釈することもできるわけですから,これを無限とは異なった概念notioとして解することにも,合理性はあるのです。ただ河合はこの部分で確かにスピノザが無限を三種類に分類しているという点に注目し,僕は第三の規定については無限定といった方がいいとスピノザが注釈している点に注目しているから,僕と河合の間で無限という概念に対する解釈に相違が出ることとなっているのです。
 なので,この部分に関しては,確かに河合が無限を三種類の規定に分類する理由のひとつとはなりますが,それが決定的なものとなっているようには僕は思いません。むしろ河合が本論の中であげている,もうひとつの理由の方が,第三の規定を無限に含めることの強力な根拠になるのではないかと僕には思えます。
 スピノザは第一部定理二八を,無限に進むet sic in infinitumと締めています。これは河合は示していませんが,第二部定理九も同様です。しかしこれは,書簡十二の分類に従うなら,無際限に進むとか無限定に進むといわれるべきであることになります。もしもこの無限連鎖の果てに,無限様態modus infinitusが生じてくるというなら,第二の分類に該当しないといえなくもありませんが,これらふたつの定理Propositioが示そうとしているのはそういうことではありません。個物res singularisの起成原因causa efficiensは個物であるということ,また現実的に存在する個物の観念ideaの原因は現実的に存在する個物の観念であるということが,どこまでも継続していくということだからです。つまりこれらの部分ではスピノザは,本来は無際限とか無限定と表現するべきと思われる事柄を無限と表現しているのであり,これを無限の概念として規定することは妥当であるといえるのではないかと思います。
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毒殺&踏襲

2020-09-26 18:54:19 | 歌・小説
 スヴィドリガイロフピストルの銃口を向けたドゥーニャは,作為と思われるような会話を交わします。この後で,今度はスヴィドリガイロフの妻であるマルファの話に移ります。ここの部分で,マルファはスヴィドリガイロフに毒殺されたとドゥーニャは確信しているということが分かります。一方,スヴィドリガイロフの方は,自分が妻を殺したということについては肯定も否定もせず,仮にそれが真実であったとしても,それはドゥーニャのためだったという意味のことを言います。これは意味合いとしては,マルファがいなくなれば,ドゥーニャは莫大な遺産を手に入れたスヴィドリガイロフと結婚することができ,幸せになることができるということです。ですからそれが本来的な意味でドゥーニャのためであるとはいえない面があります。単にスヴィドリガイロフの欲望を満たすためだけのことに,マルファのためだという理由をスヴィドリガイロフ自身が与えていたと解することができるからです。
                                         
 もっとも,スヴィドリガイロフは,ドゥーニャが自分のことを愛していると思っていたとうかがえるふしもあります。つまりスヴィドリガイロフの中では,ドゥーニャが自分のことを愛していて,その愛に報いるためにはマルファの存在が邪魔であると思っていたともいえるのです。スヴィドリガイロフがマルファを毒殺したのかどうかということは,『罪と罰』の中でははっきりとした記述がありません。『『罪と罰』を読まない』の中では,殺してはいないのではないかという意見も出ています。ただ,僕は殺したのだろうと思っています。スヴィドリガイロフがもうひとりのラスコーリニコフという役割を小説の中で十全に担うためには,殺人を犯していなければならないだろうと思うからです。そしてラスコーリニコフは殺人を犯したということをソーニャに明言したのに対し,スヴィドリガイロフはドゥーニャに対してそれを濁したということで,その対比は完成に近づくとも思うからです。
 スヴィドリガイロフはドゥーニャからの愛を感じたのでマルファを殺したのだけれど,ドゥーニャはスヴィドリガイロフを最初から最後まで憎んでいたというのが,僕自身の見解です。

 第二の規定に該当する部分については十分に説明することができました。続いて書簡十二の,第三の規定に当て嵌まる部分に移ります。
 この部分ではスピノザは,あるものはどのような数をもってしても算定することができないために,そうしたものは無限infinitumであるといわれるといっています。そしてこうしたものは各々の間で,つまりこのような意味での無限であるものが複数あると仮定した場合に,一方が他方よりも大であるとか小であるというように認識するcognoscereことができるといっています。なぜなら,どのような数によっても算定できないすべてのものが等しいというわけではないからです。
 河合の説明のときには僕はものの持続duratioを例示して説明しましたから,ここでも同じ例で説明すれば,ものの持続は何らかの数によって明示することができるものではありません。すでにいったように,あるものがどれくらい持続するdurareのかということは,そのものの本性essentiaに含まれているわけではなく,専ら外部の原因causaによって決定されることになるからです。このためにものの持続は無限と認識されることになります。ところで,持続のうちに存在するといわれるものはいくらでもあります。ただ,一般的に持続は無限と認識されるのですから,Aの持続もBの持続も同じように無限であると認識されることになります。しかし実際にはAの持続の方がBの持続より長いと認識されることはあるのです。よってこの場合は,AもBもその持続においては数によって算定することができないという意味で無限であるけれど,Aの無限の方がBの無限より大きいと認識されていることになります。
 これが第三の規定に該当するのですが,ここまでの説明をみれば,河合の規定というのはまさにこの書簡十二の規定を踏襲しているのであって,スピノザの哲学における無限の概念notioの把握の仕方として最適ではないかと思われる方がいるのではないかと思います。他面からいえば,僕のように第三の規定を第一の規定および第二の規定からは分離した概念であると把握することは,スピノザの哲学における無限の概念の把握法としてはよくないのではないかと思われる方がいるのではないでしょうか。
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王座戦&原因からの抽象

2020-09-25 18:48:19 | 将棋
 仙台で指された昨日の第68期王座戦五番勝負第三局。
 永瀬拓矢王座の先手で後手の久保利明九段のノーマル三間飛車。先手が居飛車穴熊で後手がミレニアムから終盤まで互角の戦いになりました。
                                        
 第1図で☖6二金打とすると73手目のコメント欄にある千日手の筋があります。打開の権利は先手にあって,感想戦で示されたのが75手目のコメント欄の手順。しかしこの打開策では先手に分があるとは思えないので,この局面は千日手が双方にとっての最善だったのではないでしょうか。ただ,終局直後のインタビューの様子では,両対局者ともに千日手の筋には気が付いていなかったようでした。
 実戦は☖6二銀と引きましたが,ここで均衡が崩れたようです。☗7二金☖同金☗6一飛☖7一金打☗7二馬☖同玉☗1一飛成と進んで第2図。
                                        
 ここで☖8一玉と引いたのが最終的な敗着で,☖3九角と打つべきだったとされていますが,先手玉と後手玉の危険度の兼ね合いから,この手を逃したのは仕方がないようん思えますし,仮に☖3九角でも正しく応接すれば先手の方が勝てそうです。なので第1図で千日手にするのが後手としてはよかったのではないでしょうか。立会人が千日手に備えて洋服から和服に着替えたとありますので,対局者がふたりとも気付いていなかったのは不思議な気がします。
 永瀬王座が勝って2勝1敗。第四局は来月6日です。

 ある事柄が原因causaから抽象されて認識されるということが,どのような意味を有するかは,書簡十二のテクストを正しく解する上では重要です。ただここではこのことについてはさほど難しく考えません。
 あるものの本性essentiaにそのものの存在existentiaが含まれていないのであれば,そのものは存在するために外部に起成原因causa efficiensを必要とします。そしてそのものは,その起成原因による結果effectusであるといわれるのです。このことは,結果という概念notioがいかにしてスピノザの哲学のうちに生じてくると解されるべきかを説明したところでもいっておいたことです。このとき,もしその結果として存在するあるものが,起成原因からの結果としてではなく,単にそのあるものとして知性intellectusによって認識されるとき,そのものは原因から抽象されて認識されているという意味であるとここでは解しておきます。簡単にいえば,あるものが起成原因からの結果として認識されるのではない場合は,そのものが原因から抽象されていると解するということです。
 スピノザのテクストは,無限infinitumの第二の規定の中でいわれていました。これに該当するのは,無限様態modus infinitusですから,実際のテクストは,無限様態が原因から抽象されて,いい換えれば起成原因からの結果として認識されない場合は,無限様態は部分に分割されるし,有限finitumであるともみなされるといっていることになります。無限様態の起成原因について示しているのは第一部定理二一と第一部定理二二です。すなわち,ある属性attributumの直接無限様態の起成原因はその属性であり,ある属性の間接無限様態の起成原因はその属性の直接無限様態です。よって,ある属性の直接無限様態がその属性の結果として認識されていない場合は,知性は直接無限様態を部分に分割され,有限であると認識することになります。同様に,ある属性の間接無限様態が,その属性の直接無限様態の結果として認識されていない場合は,知性はその間接無限様態を,部分に分割される有限なものとみなすことになるのです。
 このことは逆からもいえます。すなわちもしある知性が無限様態を有限で可分的と認識しているとき,その無限様態を起成原因からの結果とは認識していないのです。
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叡王戦&基のテクスト

2020-09-24 19:14:35 | 将棋
 21日に指された第5期叡王戦七番勝負第九局。第八局終了後の振駒で後手となった永瀬拓矢叡王の選択した持ち時間は6時間。
 豊島将之叡王の先手で角換り相腰掛銀。中盤から終盤に入る付近で見応えのある応酬が繰り広げられました。
                                        
 第1図は5五から銀が引いた局面。自らと金に取られる場所に行く手。狙いは☖5五角と王手に打つ手。どうやらこれが入ると先手が大変のようで,金も銀も取らずに☗7七歩と受けました。
 後手が☖5九角と打ったときに今度は先手が☗2五桂と歩の頭に跳ねる手を放ちました。これは☖同歩とさせて後で2五に飛車を走り,さらに4筋を突き捨てて飛車を8筋に回ろうという壮大な狙い。ただし本当は☗4六角と打つのが優ったようです。
 ☖同歩☗6二とまでは必然です。
                                        
 実戦はここで☖3七角成とし,☗6三角から飛車を交換する順に進みました。ただ飛車交換はさすがに先手に分があり,はっきりした差がつくことに。第2図は☖6七歩と打てばまだ難しかったようです。
 おそらく第1図の☖6四銀は先手は読んでいなかったでしょうし,第2図に至る途中の☗2五桂は後手の読みになかったそうです。読みにない手を指されたときの対応の差が,この一局の勝敗を分けたといえそうです。
 4勝3敗2持将棋で豊島竜王が叡王を奪取。叡王は初めての獲得になります。

 実無限という術語は,柄谷行人がスピノザの哲学を探求するときに用いているものです。柄谷はスピノザとほかの哲学者の無限infinitumの概念notioを差異づけるために,スピノザがいう無限は実無限であるといういい方をします。このような術語を用いて探求していることから容易に類推することができると思いますが,柄谷もまた,実無限と無限定indefinitumや無際限indefinitumを分別して探求することが重要であるとみなしています。つまり,無際限や無限定を無限という概念を構成しないと考えることは,僕だけに特異な姿勢であるわけではありません。
 一方,河合は無限定や無際限を第三の規定としてスピノザの哲学における無限の概念のひとつを構成しているとみています。このようにみることにも理由がないわけではありません。そこで,どのような観点からはこのように把握することが適切であるとみられるのかということを説明しておきましょう。
 基本的に河合の分類というのは,河合が独自に分類したものではありません。それどころか,スピノザ自身のテクストに依拠しているのです。それはスピノザがマイエルLodewijk Meyerに宛てた書簡十二です。この書簡は無限なるものの本性についてという副題の下に,スピノザの存命中から多くの人に知られていたものです。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもこの書簡を読んだということが,『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で指摘されています。そしてこの書簡の中で,スピノザは河合が分類しているのと同じように,無限であるものについて語っています。
 あるものはその本性essentiaの上で無限であり,それはいかにしても有限finitumであるとは考えられません。これは第一規定に該当します。神Deusおよび神の属性attributumがその具体的なものです。
 あるものはそれが依存している原因causaの力potentiaによって無限です。これは第二規定に該当します。具体的には無限様態modus infinitusです。そしてこうしたものは,原因から抽象されるなら,部分に分割されて有限であるとみなされます。これらのことからも,スピノザが,実体は分割できないけれど,無限様態は分割され得るとみなしていたことが分かります。ただしそれは,第二規定の無限,すなわち無限様態が,原因から抽象される限りにおいてである点には注意が必要でしょう。
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テレ玉杯オーバルスプリント&留意点

2020-09-23 18:57:53 | 地方競馬
 昨日の第31回テレ玉杯オーバルスプリント
 発走の直前,ゲートの後ろですべての馬が輪になって歩いている時点で,ノブワイルドの馬体の検査が行われました。異常はないとのことでそのまま発走。詳しい事情は分かりませんが,ほかの馬に蹴られたのかもしれません。
 キングルアウは立ち上がって1馬身の不利。押していったノブワイルドと楽にいったベストマッチョが前に。ベストマッチョが控えてノブワイルドの逃げに。3番手にサクセスエナジー。この後ろはトップウイナーとブラックジョー。ここからは10馬身近く離れてサヴィとスティンライクビー。大きく離れてナラとマイネルネーベル。また大きく離れてキングルアウ。最初の600mは34秒6の超ハイペース。
 3コーナーではベストマッチョとサクセスエナジーの2頭が並んでノブワイルドを抜いていきました。コーナーの中間で外のサクセスエナジーの方が前に出て先頭に。直線ではそのまま後ろを離していき快勝。一杯になったかと思われたノブワイルドでしたが,直線で外に出されるとまた伸び,ベストマッチョに迫りましたが,ベストマッチョが粘り切って2馬身差の2着。ノブワイルドがハナ差で3着。
 優勝したサクセスエナジーは前々走のオープン以来の勝利。重賞は昨年の黒船賞以来の4勝目。このレースは上位の5頭とそれ以外の5頭では実力差が歴然。上位5頭のうち,サヴィとトップウイナーの2頭は,このコースへの適性をやや欠いたかもしれません。サクセスエナジーは58キロを苦にすれば苦戦ということもあり得るとみていましたが,レースの内容はとても強かったです。今年に入って58キロと59キロでオープンを勝っていて,こういった重い斤量にも慣れてきたということなのかもしれません。父はキンシャサノキセキ。母の父はジャングルポケット。母の8つ上の半姉に2002年にフィリーズレビューを勝ったサクセスビューティ
 騎乗した松山弘平騎手と管理している北出成人調教師はテレ玉杯オーバルスプリント初勝利。

 僕が第三の規定を無限infinitumと異なるものとみなすのには理由があります。たとえば神Deusやその属性attributum,無限様態modus infinitusといったものは,それが知性intellectusの外に形相的にformaliter存在するとみられる場合にも無限であるとみられなければなりません。これに対して,たとえば事物の持続duratioというのは,単に人間の認識cognitioの限界のゆえに無限定indefinitumといわれるのであって,持続するdurareものの存在existentiaは無限ではなく有限finitumです。他面からいえば,もしもある事物が持続するといわれる形式で存在するのなら,その事物の存在は,知性を離れて形相的にみられるなら,無限ではなく有限でなければなりません。このことは第四部公理から明白だといわなければなりません。よって,人間の知性の有限性によって無限定とか無際限indefinitumとしか把握できないものと,そうではなく実際に無限であるものとは,分離して解するのが適切だと僕は考えているのです。
                                   
 しかし,第三の規定をスピノザの哲学における無限の概念notioに含ませることは,河合の論考を説明する上では欠かせません。このことが,スピノザが思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態を明らかにしていない理由についての河合の説明の中では,重要な要素を構成しているからです。したがってここの部分の考察に限っては,この第三の規定も無限の概念をスピノザの哲学の中で構成しているという前提で進めていきます。したがって,この部分の考察に限っては,無限という概念が,このブログの全体で解している概念とは異なることになります。僕が注意を促しておきたいのはこの点です。僕が第三の規定まで含めて無限というのは,この部分の考察に限られるということにはよく留意しておいてください。
 次に,これは河合の論考の中で触れられていることではありませんが,第一の規定および第二の規定と,第三の規定の無限,すなわちこのブログでいえば無限と無際限とか無限定を分類しておくことは,この後の考察においては有益です。なので,第一の規定と第二の規定に含まれる無限については,この部分では実無限という語句で示すことにします。要するに,このブログの全体の中では無限といわれている概念については,この部分の考察に限り,実無限といわれることになります。
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東京モノレール賞ゴールドジュニア&第三の規定

2020-09-22 19:16:49 | 地方競馬
 昨晩の第1回ゴールドジュニア
 セイカメテオポリスとマテーラフレイバーは枠入りに時間を要しました。発馬後に前にいったのはアランバローズ,トーセンウォーリア,マテーラフレイバー,サウスワールドの4頭。ここから2馬身差でセイカメテオポリス。フォルメッシ,パルヴニール,サブノキコウシの3頭が併走でこの4頭が好位集団。3馬身差でツエンダー,ライヴマカロン,マカベウスの3頭が中団。2馬身差でファルキート。2馬身差の最後尾にソウマトウ。最初の600mは36秒0のハイペース。
 先手を奪ったアランバローズは外連味なく飛ばしていき,3コーナーでは4馬身ほどのリード。さらにここからまだリードを広げる形で直線に。追っていたトーセンウォーリアは苦しくなり,その内からサウスワールドが2番手に。アランバローズは残り200mあたりでは一杯になり,後ろとの差が詰まることになりましたが,そこまでのリードを生かしきり,逃げ切って優勝。直線の入口では6番手まで進出していたマカベウスが大外から伸びて2馬身半差の2着。一旦は2番手のサウスワールドがクビ差で3着。
 優勝したアランバローズはこれでデビューからの連勝を3に伸ばしての南関東重賞制覇。初戦が1000m,2戦目が1200mで,ともに逃げ切り初戦が3馬身,2戦目が5馬身差での勝利。この戦歴とこの日のレース内容から分かるように,スピード能力で他を圧倒したという結果。ただやはり最後の200mで一杯になっているように,距離が延びることはこの馬にとってプラスではなく,自身のスピード能力でどこまで相殺できるのかということになるでしょう。将来的に大成するとすればスプリンターとしてということになるのではないかと思われます。母の父はステイゴールド
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞49勝目。管理している船橋の林正人調教師は南関東重賞16勝目。

 河合による無限infinitumの第三の規定は,有限finitumではあるけれど,その限界を把握することができないために,無限であると表象されてしまう場合です。別の側面からいえば,僕たちの知性intellectusが有限であるがゆえに,ある事物なり事象なりについて,有限である限界がどこにあるかを十全に認識するcognoscereことができないため,それを有限であるとは認識することができないがゆえに,無限であると規定するほかないというタイプの無限です。
                                        
 たとえば第二部定義五では,持続は存在の無限定な継続であるDuratio est indefinita existendi continuatioといわれています。しかし実際には持続するdurareといわれるものは,ある時点でその存在を停止します。いい換えればその存在は無限ではなく有限です。ですが,第二部定義二の意味から,事物の本性essentiaはその存在を鼎立しますが,排除することはありません。よってどんな事物の本性にも,その事物の存在の限界点が含まれるということはありません。ですから,第三部定理四にあるように,どんな事物であれそれが存在を停止するということは,その事物の外部の原因causaによって引き起こされることになります。これらのことから分かるのは,僕たちは持続するある事物について,その事物を十全に認識したところで,その事物の持続という有限性の限界を知ることはできないのであって,それを確実に知るためには,その事物を滅ぼす外部の原因を知らなければなりません。ですが僕たちの知性は有限ですから,ある事物を滅ぼす外部に原因のすべてを逐一正しく認識することはできません。ですから僕たちは,事物の持続については,それが有限であるということは知っているものの,存在の無限定な継続であるとしか規定することができないのです。つまりこのような形式で僕たちの知性のうちに,無限定indefinitumとか無際限indefinitumとしか把握され得ない事柄,いい換えるなら,僕たちの知性の思惟する力potentiaの限界によって,無限定であるとか無際限であるとしか規定せざるを得ないような事柄は,河合のいう第三の規定を意味することになります。
 ここでひとつだけ注意しておいてください。僕は第三の規定,すなわち無際限であるとか無限定であるといわれるような事柄については,それを無限であるとはみなしません。
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共同通信社杯&無限の概念

2020-09-21 19:06:27 | 競輪
 伊東温泉競輪場で開催された第36回共同通信社杯の決勝。並びは山崎‐山田‐中本-園田の九州で,新田と吉沢と岩本と脇本と松浦が単騎。
 中本がスタートを取って山崎の前受け。5番手以下は松浦,新田,吉沢,岩本,脇本の順で周回。残り3周のバックから前との車間を開け始めた脇本がホームから発進。これに合わせて誘導との車間を開けていた山崎も発進して先行争い。打鐘が入って山田が脇本をブロック。脇本は立て直してさらに捲りにいきましたが,中本からもブロックを受けて外に浮いてしまいました。脇本に続いていた松浦がバックから踏み上げていくと,さらに外から新田の捲り。新田が松浦の前に出ましたが最終コーナーで山田がブロックし新田も失速。このあおりで新田に続いていた吉沢が落車。直線は内からきた中本も牽制して山田が1位で入線。しかし新田を押し上げて吉沢を落車させたために失格。2位で入線した中本が繰り上がって優勝。中本マークの園田の外から伸びた松浦が半車身差で2着。園田がタイヤ差の3着で大波乱の結果。
 優勝した熊本の中本匠栄選手はグレードレース初優勝。このレースはおおよそ競輪とはかけ離れたライン構成になりました。見どころはそれでも個々の力が優るのか,それとも結束力の方が優るのかという点で,このレースは後者に軍配が上がりました。脇本,新田とふたりを止めて1位で入線した山田の働きが大であったというほかありません。前受けをして突っ張るという作戦もよかったのだと思います。

 なぜスピノザは思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態を明らかにしていないのか,という点に関する河合徳治の論考を正しく理解するためには,スピノザの哲学における無限infinitumという概念notioを,河合がどのように解しているのかを知っておく必要があります。ですからまずはその点をみておくことにします。
                                        
 河合によれば,無限という概念は,スピノザの哲学においては,三種類に分類することができます。河合は当該の部分では規定という語句を用いていますので,ここでもそれに倣います。
 河合による無限の第一の規定とは,それ自身の本性essentiaによって無限であるといわれる場合の無限です。これは神Deusおよび神の属性が無限であるといわれる場合の無限に該当します。いい換えれば,スピノザの哲学において能産的自然Natura Naturansといわれるものは,第一の規定の意味での無限を構成し,また第一の規定における無限に含まれるのは,能産的自然だけであるということになります。
 河合による第二の規定は,その原因causaによって無限であるといわれる場合の無限です。スピノザの哲学でこれに該当するのは,無限様態modus infinitusです。より正確にいえば,直接無限様態と間接無限様態です。無限様態は能産的自然ではなく所産的自然Natura Naturataを構成しますが,所産的自然のうち直接無限様態と間接無限様態は,第二の規定における無限を構成することになります。自然のうちに存在するのは実体substantiaである神とその属性,そして様態だけです。このうち神と属性は能産的自然として第一の規定に含まれます。ここから明白なように,所産的自然のうち無限の第二の規定に該当するのは,無限様態だけであることになります。そして,無限の第二の規定に該当する無限様態は,それが抽象的に概念される限りでは,部分に分割され,有限finitumであるとみなされ得ると河合は指摘しています。しかしここではこの点については河合がそこでいっているほどには重視しません。ただ,現時点での僕の解釈と同様に,実体についてはそれを部分に分割することは不可能だけれども,無限様態についてはそれを部分に分割することが可能であるとスピノザは考えているというように,河合もスピノザの哲学を解しているという点に注意してください。
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竜王戦&補足

2020-09-20 19:02:26 | 将棋
 昨日の第33期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
 振駒で羽生善治九段の先手となり,丸山忠久九段の一手損角換り4の☖2二銀。先手が棒銀に出て,新しい作戦を披露しました。
                                        
 3六に先手の歩があるのは,伸ばして取り込んだ後に打ち直したもの。この打ち直しがこれまでにはなかった指し方でした。
 後手はここから☖4五歩☗同歩☖同銀左☗4六歩☖3四銀と歩を交換。先手は☗2六銀と出て,打った歩を生かして銀交換を狙いにいきました。
                                        
 先手は手損をしているのですが,その分だけ後手の駒が上ずっていて,第2図はすでに先手の作戦勝ちとなっているようです。後手はこの指し方に対しては別の対策を講じる必要があるということだと思います。
 2勝1敗で羽生九段が挑戦者に。タイトルを失った第31期以来2年ぶりの竜王戦七番勝負出場。第一局は来月9日と10日です。

 『〈内在の哲学〉へ』に直接的に関連する考察はこれで終了です。ここからは,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態に関係する考察を少しだけ加えて,今回の論考を終了させることにします。
 スピノザは,思惟の属性の直接無限様態および延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態と間接無限様態については,それが具体的に何であるのかを示しているのですが,思惟の属性の間接無限様態についてはそれが何かを明らかにしていません。これはここまでの考察の中で示した通りですし,またそれが何であるのかということを,僕自身も具体的に持ち合わせているわけでもありません。そこで,このことについてそれが何であるのかを探求している考察があるのかといえば,あるのかもしれませんが僕は知りません。近藤はそれを諸観念の総体といっているわけですが,その根拠を明らかにしているわけではないからです。ただ,スピノザが思惟の属性の間接無限様態が何であるのかを示していないのはなぜなのか,という観点からそれを説明した論考であれば,僕はひとつだけ知っています。なのでそれをここで紹介し,いくらかの検討をしてみることにします。
 これは河合徳治の『スピノザ哲学論攷』の第一部第二章第二節の中に出てきます。前もって注意しておけば,この第二章は「形而上学的原理としての無限概念」というタイトルになっていて,無限infinitumという概念notioについて深く研究したものです。つまりそれは,思惟の属性の間接無限様態を明らかにするというような目的を有した研究ではありません。ですから河合は確かにこの部分で,スピノザが思惟の属性の間接無限様態について具体的に言及しなかった理由については述べていますが,それはこの章の全体という意味においてはごくわずかな部分にすぎません。書評で示しておいた通り,この本は諸論文を書籍化するにあたって繋がりのある一冊にしたという点で,『〈内在の哲学〉へ』と同じ形式なのですが,この第二章を単独に抽出した一論文としてみた場合でも,当該の個所というのは枝葉末節に該当するといって過言ではありません、それでもここには説得力が含まれていると僕は思いますから,それをここで紹介しておきたいのです。
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受動状態の現実的本性&結論

2020-09-19 18:54:12 | 哲学
 現実的本性と感情の模倣という人間の特徴から生じやすい現象について説明していくにあたり,まず以下の事柄をいっておきます。
                                   
 第三部諸感情の定義一から分かるように,欲望cupiditasというのは,人間が受動的である限り,その人間の現実的本性actualis essentiaを意味します。そして第四部定理四から明らかなように,現実的に存在する人間が受動passioを完全に免れるということは不可能です。よって欲望がある人間の現実的本性であるということは,人間が現実的に存在する限り免れ得ないことである,いい換えれば現実的本性が欲望であるという場合が現実的に存在する人間には必ず生じるということになります。そして同時にこのことから,現実的に存在する人間は必ず感情の模倣imitatio affectuumをするということも明らかです。いい換えれば現実的に存在する人間が,他人の感情を模倣しないということは不可能であるということになります。
 欲望は感情の一種なのですから,僕たちは何かを欲望するにあたって,他人の欲望を模倣するという場合があることになります。つまり欲望というのは諸個人が受動的である限りにおける現実的本性なので,その現実的本性が異なる分だけ欲望の種類や欲望の仕方が諸個人によって異なることになるのですが,だからといってその欲望は欲望する本人の現実的本性とだけ関係しているわけではありません。むしろ他人の欲望すなわち現実的本性と関係してくる場合もあるのです。もっといえば,そういう場合があるというよりは,そういう場合が多いといってもいいのかもしれません。実際に,自分はそれを欲しいとは感じていなかったけれども,ほかの人がそれを欲しがっているがゆえに,自分もそれを欲しくなるという経験を自分自身について想起できる方は,少なからず存在するのではないかと思います。
 欲望が,受動状態における現実的本性であるということは,ここに示したような意味を有しています。つまりそれは現実的に存在するある特定の人間,たとえばAならAの本性ではあるのですが,同時にそれは,A以外の人間,たとえばBとかCの現実的本性と無関係であるということはない,あるいはできない本性なのです。

 結果effectusは原因causaとは異なるものであるがゆえに結果といわれるのであるということを解するときには,ここまでの事柄をよく理解しておかなければなりません。その本性essentiaにそれ自身の存在existentiaが含まれていないもの,すなわちその存在とその本性を同一視することができないものは,存在するために外部に原因を必要とします。このとき,そのものの存在は,外部の原因による結果といわれるのであって,この意味においてのみ,その結果は原因と異なるといわれるのです。このように外部に存在を産出するproducere原因も,自己原因causa suiも,同じように起成原因causa efficiensであるのですが,自己原因の場合は,結果が何であるかを問う必要はないし,問うこと自体がナンセンスなのです。
 思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態は,自己原因ではありません。いい換えれば,その本性のうちにそれ自身の存在が含まれているわけではありません。ですから存在するために外部に原因を必要とします。そしてその外部の原因というのは,思惟の属性の直接無限様態です。つまり,思惟の属性の直接無限様態は,思惟の属性の間接無限様態を結果として外部に産出する原因です。そしてこの場合は,原因と結果は異なるものでなければなりません。よって思惟の属性の直接無限様態と,思惟の属性の間接無限様態は異なるものでなければならないのです。
 思惟の属性の直接無限様態は無限知性intellectus infinitusです。この無限知性が原因となって,思惟の属性の間接無限様態が発生します。よって思惟の属性の間接無限様態は,無限知性とは異なるものであるということになります。しかるに無限知性というのは,無限に多くのinfinita観念ideaの集積であると解さなければなりません。ですから思惟の属性の間接無限様態は,無限に多くの観念の集積ではないということになります。そして,諸観念の総体というのは,無限に多くの観念の集積であるとしか僕には解せません。よって諸観念の総体というのは思惟の属性の間接無限様態であることができないと僕は考えます。なので近藤が,思惟の属性の間接無限様態を,諸観念の総体と規定していることは誤りerrorであるというのが僕の結論になるのです。
 このことの関連事項をもう少し考えていくことにします。
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天龍の雑感⑦&結果という概念

2020-09-18 19:12:19 | NOAH
 の最後のところで天龍源一郎は,ジャンボ・鶴田は大局を見る人間ではなかったと言っています。ただし鶴田は,レスラーたちとはそれほど付き合わなかったのですが,日本テレビの全日本プロレス中継のプロデューサーであった原章や,実況を担当し,後に『マイクは死んでも離さない』を著した倉持隆夫アナウンサーなどとは親密に付き合っていたと証言しています。なので天龍は,それならもっと古くから全日本プロレスにいるレスラーたち,たとえば大熊元司などともっとコミュニケーションをとった方がいいのではないかと思っていたようです。
                                        
 ただし,鶴田が日本テレビの関係者と親密な付き合いをしていたのは,必ずしも鶴田がそうしたかったからではないかもしれません。全日本プロレスの創立は,馬場と日本テレビの関係によるものでした。ですから少なくとも馬場は,日本テレビの関係者に対しては配慮を示さなければならなかったわけです。ですから日本テレビの関係者から,鶴田と会食をしたいという要望があれば,馬場も無碍に断ることはできなかったでしょう。そしてもし馬場からそうした指示が鶴田に伝えられたとすれば,鶴田がそれに従わないということはあり得ないと思います。鶴田が日本テレビの関係者とは親密に付き合ったことの裏に,こうした事情があった可能性は否定できないと思います。
 この部分の事情がどういうものであったかは分かりませんが,いずれにせよ鶴田は,レスラーたちとは本音で付き合うということはなかったようです。その分だけ鶴田は孤独であったかもしれないと天龍は推測しています。これは確かにそうだったかもしれません。そもそも鶴田というのは,デビューしてそれほど間を置かずに,多くの先輩レスラーたちを押し退けてトップクラスのレスラーとして,馬場のパートナーを務めたわけです。ですから鶴田の中に,そうしたレスラーたちとは親密には付き合いにくいという気持ちがあったとしても不思議ではありません。若いうちにトップになってしまったために,鶴田は所属レスラーの間では友人を作りにくかったかもしれないのです。

 自然Naturaのうちに存在するもので,その本性essentiaがそれ自身の存在existentiaを含んでいるのは,神Deusあるいは神の属性attributumだけです。いい換えれば,自然のうちに存在するもののうち,その起成原因causa efficiensが自己原因causa suiであるものは,神とその属性だけです。それ以外のものはすべて,それ自身の存在がそれ自身の本性には含まれていません。すなわち,その本性とその存在とを同一視することができません。そしてそうしたものは,存在するために,それ自身の外部に起成原因を必要とすることになります。なぜなら,第一部公理三により,一定の原因が与えられなければ結果effectusが発生することは不可能だからです。何度もいっているように,スピノザの哲学における原因は一律に起成原因を意味するのですから,この公理Axiomaでいわれている原因も起成原因でなければなりません。つまり,どんなものであれ,それが存在するためには存在する起成原因を必要とするのです。このとき,何かが存在する起成原因というのは,それ自身のうちにあるesse in seか,そうでなければそれ自身の外部にあるかのどちらかです。もしもあるものがそのどちらにも存在する起成原因をもたないと仮定すれば,第一部公理三により,そのものは存在しない,ないしは存在し得ないといわなければなりません。
 このとき,存在する起成原因がそれ自身のうちにあるというのは,それ自身の本性とそれ自身の存在は同一であるという意味なのであって,要するにそれは自己原因です。この意味において,自己原因は起成原因の一種であるといえます。ですから自己原因というのは,起成原因の一種ではありますが,外部の結果を伴っていない原因を意味します。他面からいえば,自己原因であるものについては,その結果が何であるのかを問う必要はありません。あるいはそれを問うことはナンセンスであるといってもいいでしょう。
 一方,自己原因ではないものの起成原因は,それが存在するあるいは存在し得るのであれば,それ自身の外部にあるのです。そしてその原因がそれ自身の外部にあることによって,その外部のものが原因といわれ,それ自身は結果といわれるようになるのです。結果という概念notioは,ここで初めて必要になってくるのです。
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サンケイスポーツ盃戸塚記念&本性と存在

2020-09-17 19:03:17 | 地方競馬
 昨晩の第49回戸塚記念
                                        
 アマルインジャズは立ち上がるような発馬で1馬身の不利。大外のインペリシャブルの加速が鋭く,すぐにハナへ。内からファルコンウィングが追い掛けていき先行争い。発走後の向正面で3番手以下に5馬身の差がつきました。内のファルコンウィングが制してハナへ。1周目の正面の入口ではインペリシャブルは2番手に控えました。ファルコンウィングはそのまま飛ばしていき,2周目の向正面に入るあたりで5馬身のリード。2番手のインペリシャブルと3番手のウタマロの間隔も8馬身くらいに。4番手のルイドフィーネ,5番手のヴァケーションとデスティネの4頭は一団。3馬身差でティーズダンク。3馬身差でチョウライリン。4馬身差でバブルガムダンサー。3馬身差でカズベナートル。アマルインジャズが後方3番手でコーラルツッキーとモンゲートラオが併走というとても縦に長い隊列に。超ハイペースでした。
 インペリシャブルは3コーナー手前からファルコンウィングとの差を詰めに掛かりましたが,直線の入口でも追いつけず。この間にウタマロが内から進出して単独の2番手に。逃げるファルコンウィングをウタマロが追うところ,大外からティーズダンクが末脚を伸ばし,2頭を差し切って優勝。ファルコンウィングが1馬身差で2着。ウタマロはクビ差で3着。
 優勝したティーズダンクは昨年11月,南関東への転入初戦となったオープンを勝って以来の勝利。北海道でサンライズカップを勝っていますが南関東重賞は初勝利。この馬はクラシックで善戦をしていて,ここが秋の初戦。優勝候補の1頭とみていましたが,このレースは展開面が,実力上位の馬たちの中では最も有利に作用した結果といえそうです。ですから同じメンバーが相手ならまた勝てるという力関係ではないかもしれません。父はスマートファルコン。母の父はキングカメハメハ。6代母がバレークイーンの祖母という同一牝系です。
 騎乗した大井の笹川翼騎手は昨年のマイルグランプリ以来の南関東重賞7勝目。戸塚記念は初勝利。管理している浦和の水野貴史調教師は南関東重賞4勝目。戸塚記念は初制覇。

 自己原因causa suiがいかなる意味で起成原因causa efficiensの一部をなすのかといえば,それは第一部定義一に示されている通りです。すなわちその本性essentiaがそれ自身の存在existentiamを含んでいるという意味において,自己原因は起成原因の一種であるとみなすことができるのです。このとき,これを因果関係において判断すれば,それ自身の本性が原因であって,それ自身の存在はその結果effectusであるというようにみえる場合があるかと思います。そしてこのようにみたときには,自己原因であるものにとっては,原因であるものと結果であるものが同一であるというように判断されることになるでしょう。ですが,この解し方は適切ではないと僕は考えます。なぜなら,このような解し方こそが,自己原因を原因のようなものとみなす解し方の代表例に該当すると僕は考えるからです。スピノザの哲学ではそれとは逆に,結果を外部に産出するproducereような原因が,自己原因に類するものとして把握されるべきなのですから,自己原因とは原因と結果が同一のものであるという解し方は,少なくとも適切ではなく,もっといえば誤っていると僕は考えます。
 スピノザは第一部定理二〇で,Deusの存在と神の本性は同一であるという意味のことをいっています。これを証明するとき,スピノザは属性attributumが永遠aeterunusであるという第一部定理一九と,属性が神の本性を表現するexprimereという意味に解せる第一部定義四に訴求しています。確かにこのことを論証する場合には,これが正しい方法なのでしょう。ですが,僕の考えでいえば,神の本性と神の存在が同一であるということ,いい換えれば神の本性と神の存在の区別distinguereは理性的区別にすぎないということは,神が自己原因であるということから直接的に帰結しなければなりません。いい換えればあるものが自己原因である限り,あるいは同じことですがあるものの本性にそのものの存在が含まれている限り,そのものの本性とそのものの存在は同一なのであって,それらを理性的にではなく区別することは不可能なのです。したがって,神あるいは自己原因であるものについては,その存在とその本性が同一のものなのですから,一方が原因であり,他方が結果であるという解釈は成立しないのです。
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作為&原因と結果

2020-09-16 19:08:36 | 歌・小説
 スヴィドリガイロフの部屋で当人と対峙したドゥーニャは,忍ばせておいたピストルを取り出し,銃口をスヴィドリガイロフに向けます。『『罪と罰』を読まない』の読後の感想会では,この部分の描写は不自然であるという指摘があります。いわれてみればなるほどと思える内容です。
                                        
 銃口を向けられたスヴィドリガイロフは,そのピストルがかつて自分が所持していて,遺失してしまったものであることに気付きます。つまりそれがドゥニャによって盗まれていたということがこのときに判明するのです。そしてそれは,スヴィドリガイロフがドゥーニャに射撃のレッスンをしたから生じたことでした。
 これに対してドゥーニャは,このピストルはスヴィドリガイロフのものではなく,彼の妻のマルファ,ドゥーニャはスヴィドリガイロフによって殺されたと確信しているマルファのものであると答え,家にはスヴィドリガイロフのものなどは何もなかったといっています。これは要するに,スヴィドリガイロフは財産を目当てとしてマルファと結婚したのだとドゥーニャは思っていることを匂わせます。
 こうした事柄のすべてが,この場面のスヴィドリガイロフとドゥーニャの会話によって明らかになります。いい換えれば読者はその会話によってこれらの事実を初めて知ることになります。ですが小説の手法としていえばこれは作為的すぎて,こうした事実があるのであれば,それは事前に伏線を張っておくべきではないかというのが,この部分の不自然さについて指摘されている内容です。
 確かに銃口を向けられている人間と向けている人間が,その銃がどのような銃であるのかについて会話を交わすというのは不自然どころか間抜けであるとさえいえるでしょう。ですからこの部分は,小説の全体としていえば,穴とか失敗に属する部分であるといえるのではないでしょうか。

 ある属性attributumの直接無限様態と,それと同じ属性の間接無限様態の間には,因果関係が発生しています。これは第一部定理二二から明白だといわなければなりません。この定理Propositioが意味しているところは,ある属性の間接無限様態の起成原因causa efficiensは,それと同じ属性の直接無限様態であるということだからです。すなわち,同一の属性である場合,直接無限様態と間接無限様態の関係は,直接無限様態が原因であり,間接無限様態は結果effectusであるということになります。したがって,ある属性において直接無限様態と間接無限様態が同一のものであるという主張は,その属性においては,原因となるものと結果になるものが同一であると主張していることになります。しかしこれは不条理です。少なくともスピノザの哲学においては,成立するということはあり得ません。
 スピノザは第一部定理一七備考で,原因から生じたもの,すなわち結果は,原因から受けたものにおいてその原因とは異なるという主旨のことをいっています。これは端的にいえば,結果は原因とは異なるものであるがゆえに結果といわれるのである,という意味のことをいっていると解さなければなりません。要するにスピノザは原因と結果は異なるものであると考えているのです。したがって,スピノザの哲学においては,原因なるものと結果なるものが同一であるということはないのです。
 ただし,これについては次のことに注意しておいてください。
 スピノザの哲学では,原因というのは自己原因causa suiから派生する概念notioであると解するのが適切です。ここでいう原因というのは,自己原因ではない原因,すなわち結果を外部に産出するproducere原因のことです。僕たちはこの原因という概念から自己原因を解してしまいがちです。つまり,自己原因とは原因のようなものであると解してしまいがちなのです。ですがスピノザの哲学ではこれを逆に解する必要があります。つまり,自己原因が原因に類するものであるのではなく,原因,外部に結果を産出する原因とは,自己原因に類するものなのです。
 一方,スピノザが原因というとき,それは起成原因を一律に意味します。そして自己原因は起成原因の一種ではあるのです。
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