スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

インドの狂虎&円の観念の無限連鎖

2012-03-30 18:29:06 | NOAH
 ブッチャーとシン黒い呪術師の全日本復帰後,一時的にタッグを結成し,すぐに仲間割れをしました。このブッチャーの一時的なパートナーとなったタイガー・ジェット・シンは,インドの狂虎といわれたトップヒールです。僕のプロレスキャリアの中で本当の意味でヒールといえるのは,ブッチャーとシン,そしてアラビアの怪人だけでしょう。
 シンはブッチャーが新日本に引き抜かれたことへの報復として,すぐに全日本へと引き抜かれたレスラー。なので僕は新日本時代のシンについてはよく知りません。ただ,馬場はプロレスラーとしては,少なくともブッチャーほどはシンを評価していなかったのではないかと推測しています。というのも,引き抜きはしたものの,対戦はタッグばかりで,なかなかシングルでは戦おうとしなかったからです。
 シンのプロレスの師匠はフレッド・アトキンスというレスラーで,これは馬場と同じ。ですから,たぶんシンはブッチャーやシークとは違って,ある程度以上は基礎的なプロレスもできたのだろうと思われます。ブッチャーやシークはそうしたプロレスはやれなかったのではないかと思いますが,シンはやれなかったのではなく,自分の考え方としてヒールに徹し,あえてやらなかったのではないでしょうか。試合自体はトーキックとクロー攻撃が主体で,凶器攻撃と場外戦が中心ではありましたが,少なくともブッチャーやシークと比べれば,リング上で出すプロレス技の数も多彩であったと思います。また,ブッチャーやシークは本国でもヒールでしたが,シンは場所によってはベビーフェイスとしても戦っていたようです。
 シークと同様にプロモーターとしても活動していました。そういう点では馬場とはたぶん協力関係にあったのだろうと思います。1987年に全日本のハル・薗田が航空機事故で死亡しました。これは海外遠征の途中での事故だったのですが,薗田を招聘したのはシンでした。現地の空港で心配そうにしているシンの様子は,事故を伝えるNHKのニュース映像にも流れ,今でも強い印象が残っています。

 第一部定理二八が,個物の存在のふたつの様式のどちらの場合にも該当し,すなわち現実的に存在するある円の結果と原因の無限連鎖と,円一般が神Deusの延長の属性Extensionis attributumに包含されている場合の無限連鎖を,それぞれ連鎖の具体的な系列こそ異なっていても,同じように示すとすれば,円の観念ideaについても同じことがいえなければならないということがいえます。すなわち,たとえばある人間の精神mens humanaのうちに現実的にある円の観念がある場合にも,また,円一般の観念が神の思惟の属性Cogitationis attributumに包含されて,いい換えれば神の無限な観念がある限りにおいてあるといわれるような場合にも,各々の具体的な系列は異なったとしても,それは無限に連鎖していかなければならないということになります。
 すでに説明したことと重複しますが,このことはふたつの観点から説明できます。第一に,個物res singularisの観念というのが思惟の属性の個物であるという点です。したがって第一部定理二八が,個物の存在のどちらの様式も示すのであれば,当然ながらそれは思惟の属性の個物である個物の観念にも妥当しなければならないからです。
 しかし第二に,仮にスピノザの意図するところが,第一部定理二八は形相的な,いい換えれば思惟の属性以外の属性の個物を念頭においたものであるとしたとしても,やはり平行論からの帰結として,形相的な属性に妥当する事柄は客観的な属性,すなわち思惟の属性にも妥当しなければならないということになるでしょう。
 たとえばある人間の精神のうちに,現実的に存在する円の観念がある場合,その結果と原因の連結が無限に連鎖していかなければならないということは,実は第二部定理九が示していることにほかならないわけですから,とくに問題とする必要性はありません。しかし個物の観念が思惟の属性に包容されて存在するという場合にも,実際には第二部定理九の仕方でその結果と原因の連結は示されなければならないということです。僕はスピノザが第二部定理九を示した意図から,このことは外れるだろうと思います。外れるだろうとは思うのですが,ここでの結論として,第二部定理九にはそれだけの意味もまた含まれるとしておきます。
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京急電鉄賞京浜盃&円の無限連鎖

2012-03-28 20:49:06 | 地方競馬
 大井競馬場は今週から夜の開催に突入。開幕週のメーンは第35回京浜盃
 好発はウィードパワーでしたが正面の直線がそうも長くないため,内のパンタレイがハナに立ちました。ベルモントシェリーが続いてその外にウィードパワー。内に潜り込んだのがアイキャンディで,その後ろにゴールドメダル。これをマークするようにアスカリーブルでさらにベルモントレーサーといった隊列。ハイペースでした。
 3コーナーを回る前の辺りからアスカリーブルが外を追い上げ,これを追ってきたのがベルモントレーサー。しかし前を捲るまでには至らず,先頭で直線に入ってきたパンタレイがそこからはむしろ後ろを引き離していき,5馬身の差をつけての快勝。内の馬群を縫って出てきたゴールドメダルが一旦は先に出られた外の2頭を抜き返して2着。3着にはベルモントレーサー。
 優勝したパンタレイは昨年11月の新馬戦を2着。4戦して2勝2着2回の後の前走は中山に遠征して0.6秒差の6着。初物尽くしの強敵相手のレースでこの差でしたから,能力があったことは確か。それでここに出走してきたもの。すんなり逃げることができたなど,恵まれた部分があったことも事実ですが,このレースの勝ち馬はほぼクラシックでも好成績を収めていますから,この路線の主役級に台頭したといっていいかと思います。4代母の従妹に重賞2勝のシャダイダンサー。Panta Rheiはギリシア語で万物流転。
 騎乗した森泰斗騎手は昨年末の東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞制覇で京浜盃は初勝利。管理している川崎の林隆之調教師は開業約2年半での南関東重賞初勝利です。

 では一方で円が一般的な意味で神Deusの延長の属性Extensionis attributumに包容されて存在しているという場合に,その結果と原因の因果関係は,具体的にはどのような連結connexioとして発生していると考えればよいのでしょうか。僕はそれは,次のようなものとして理解するのが妥当なのではないかと考えています。
 前回の考察の中では,事物の定義Definitioというものが,その事物の直接的な発生原因を含んでいなければならないというスピノザの哲学の考え方に関してこれを念入りに探求しました。その際に,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の定義の諸条件についてスピノザが詳しく論じている部分に注目しました。そしてそこにおいては,円の定義というものが具体的な例として示されていたのです。それによれば,円の定義というのは,一端が固定しもう一端が運動する任意の直線によって画かれた図形であるということでなければならないとスピノザは主張していました。これに関してはそのときに詳述しましたから,ここではこれ以上の説明を繰り返すことはしません。
                         
 僕が思うに,これが円の定義であるとするならば,円が神の延長の属性に包含されて存在するという場合には,これと同様の連結で円が発生するということでなければならないと思います。なぜなら,第一にこの定義は円一般の本性natura,essentiaを示しています。よってどんな円が現実的に存在するという場合でも,この定義がその円の本性を明示することができます。また,そうした円が帰結させる特質proprietasのすべてを明示することができます。そして第二に,この定義は円の最近原因causa proximaを説明していますが,そのことによって,第一部定理二八で示されていることも同時に満たしていると考えられるからです。
 ただし,直線はそれ自体で運動するものではありませんし,そもそも直線なるものの存在が必然的necessariusであるというわけではありません。よって直線もこの円と同様の仕方でその直接原因を含むような仕方で延長の属性のうちに包含されて存在するということになり,このようにしてこの連結が無限に連鎖していくということになるのではないでしょうか。
 これが円が現実的に平面上に存在するという場合と,延長の属性に包含されて存在する場合の,無限連鎖の具体的な連結内容であると思います。
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東日本大震災被災地支援名古屋記念&円の存在

2012-03-27 18:37:16 | 競輪
 2011年度の最後を飾る名古屋記念の決勝。並びは菊地-成田の北日本,木暮-佐々木の東日本,深谷-吉田の愛知に園田,柴崎ー山口の中部。
 前受けは柴崎。3番手が菊地,5番手に木暮,7番手から深谷で周回。残り2周のバックで深谷が上昇を開始するとまず菊地が動いて柴崎の前に。バックでその外を深谷が叩くとうまく続いた木暮が4番手を確保し,6番手に菊地,8番手に柴崎で一列棒状となり打鐘。このまま深谷の先行となり,バックでは木暮も柴崎も動きましたが,構わず3コーナー過ぎから吉田が番手発進。そのまま後ろを寄せ付けなかった吉田が優勝。大外を鋭く伸びた山口が2着に食い込み,捲り追い込んだ木暮が3着。
 優勝した愛知の吉田敏洋選手はこれが記念競輪初優勝。早くから頭角は現わしていた選手で,もっと早くに達成していてもおかしくないだけの力はありました。ここは深谷が先行し,すんなりとした展開になりましたので,それに乗じた形。このようなチャンスに恵まれることがあれば,今後も優勝が可能ではないかと思います。

 個物の存在が,それが様態化している神Deusの属性attributumに包含されている限りにおいても,第一部定理二八の仕方で発生しなければならないとここでは考えるわけですが,このように考えるためには,同時に以下の事柄を認めなければならないであろうと僕は考えています。
 たとえばある円が,平面上に現実的に存在すると仮定します。そしてこの円は,ある人間がコンパスを用いて描いたものであるとしてみましょう。するとこの円の起成原因causa efficiensというのは,そのコンパスの運動motusのうちにあるということになるでしょう。しかしコンパスの本性essentiaのうちには,それがそのように運動するものであるということが含まれているというわけではありません。したがってそのコンパスの運動の起成原因は,それをそのように動かすある人間の身体運動のうちにあるということになります。しかしその人間の本性のうちにはそのようにコンパスを運動させるということが含まれているわけではありませんので,そのことにも起成原因が必要で,という具合にこの連鎖が無限に続いていくことになります。第一部定理二八が第一義的に意味しようとしていることを具体的に示すならば,それはこのような例になる筈だと考えられます。
 次にこのことが神の属性のうちに,この場合には延長の属性Extensionis attributumのうちにということになりますが,包含されても存在しているのかと問われるならば,僕はこれにも自信はありませんが,たぶんそうした様式でも存在するのだと答えます。しかしこれは,円一般なるものが神の延長の属性に包含されて存在する場合のあり方ではありません。それ自体で明らかにように,上述の例というのはそのようにして描かれたあるひとつの円についてはそれを十全に説明するでしょうが,円一般が存在するということについてはまったく説明していないに等しいからです。
 このことから理解できるのは,個物res singularisの存在existentiaが持続duratioを含む場合でも神の属性に包含されて存在する場合でも,同様に第一部定理二八の様式で説明されなければならないとしても,その結果と原因との連結connexioというのは,たぶんふたつの場合では異なった連結として理解されなければならないということです。
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女流王位戦&平行論的帰結

2012-03-26 19:11:30 | 将棋
 第23期女流王位戦は,里見香奈女流名人と清水市代女流六段がそれぞれのリーグを当然といわんばかりに勝ち抜け,今日の挑戦者決定戦を迎えました。対戦成績は里見名人が15勝,清水六段が10勝。
 振駒で里見名人の先手となって向飛車。角交換から戦いが始まり,延々と戦い続けた結果,先手玉が入玉して寄らない形に。このあたりは先手必勝に思えました。ところが後手玉を寄せに行った先手が,急ぎすぎたようで,後手も入玉が望める形に。結果的に相入玉を視野に入れた戦いを観戦することになりました。
                         
 仮にこのまま後手が無難に入玉すると,点数の戦いで後手が勝ちます。よって先手は寄せるか,点数を稼ぐかしなければなりません。▲6二金引は飛車を取りにいった手で,後者の意味。△8三銀▲7一飛△8一銀と,取らせろ,取らせないの応酬が続いたところで▲9六歩。今度は寄せを目指したわけです。ここから△3五角成▲6一飛成△7四銀打▲5四歩△9三玉▲7一金△9二銀上▲7二金引△同銀▲同金△8三飛。
                         
 ▲7三金打で確実に飛車を取り,負けはなくすのかと思いましたが▲9一龍。むろんこれも有力な手と思います。△8一金▲同金△同飛▲同龍△同銀までは必然。そして▲9一飛の王手銀取り。両方受けるのなら△9二銀しかありません。先手は▲7三銀。
                         
 これは後手玉がすんなりとは上部に逃げられない形になっていて,どうやら先手の勝ちになったと思いました。後手玉をがんじがらめにして受けなしに追い込んだ先手が勝っています。
 200手越えの激戦を制して里見名人が挑戦者に。タイトル戦ではまだ負けなしですが,その記録を続けることになるのでしょうか。

 神の思惟の属性に包容されている個物の観念の発生が,第一部定理二一の様式で説明され得ないとするならば,結局のところそれは第二部定理九の仕方で説明されるほかはないであろうというのが僕の見解です。なぜならば,第一部定理二二の様式でこれを説明すとすれば,これは第一部定理二一で説明しようとした場合と同じことが帰結します。これは同じことを繰り返すことになるだけですから詳しくは考察しません。ところが第一部定理二三によれば,もしも何らかの事物がある種の絶対的な力によって発生するならば,それは第一部定理二一の様式か,さもなければ第一部定理二二の様式で説明されなければなりません。いい換えればこれは,これらふたつの様式においてその発生を説明することができないものは,何らかの絶対的な力から発生することは不可能であるという意味だと理解できます。したがってそれは絶対的な力ではなく,一定の力によって説明されなければならないということになります。そしてそれが個物の観念である場合には,第二部定理九の様式であると理解するほかないと僕は思うからです。
 このことを,『エチカ』のほかの部分に訴えて補強するなら,それは次のようになると思われます。
 第一部定理二八は,個物の結果と原因の無限連鎖を示します。しかしこの定理の場合には,第二部定理九とは異なり,個物が現実的に存在する場合という限定がありません。したがってそれは,個物が様態化している神のある属性に包含される限りで存在し,一定の持続のうちには存在していないという場合にも適用可能であるように思えます。このとき,個物の観念は思惟の属性の個物ですから,個物の観念の場合にもこれと同じことが適用されなければならないと考えることはできるでしょう。また,たとえそうではなく,第一部定理二八が形相的な,つまり知性の外にある個物についての言及であると解釈するとしても,その個物とその個物の観念は平行論における同一個体ですから,第二部定理七によってその原因と結果の連結は同一でなければなりません。つまり個物の観念の場合にも,その観念の対象ideatumに関していわれているのと同じ連結で説明されなければならないということになります。
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高松宮記念&無限知性の一部

2012-03-25 18:42:02 | 中央競馬
 新装なった中京競馬場で争われた第42回高松宮記念
 好発はロードカナロアでしたがエーシンダックマンが押していってこの馬の逃げに。カレンチャンが外の2番手につけ,マジンプロスパーがこれをマーク。控えたロードカナロアがインの4番手で伏兵のレジェトウショウが続いたところ,外からダッシャーゴーゴーが追い上げて好位に取り付きました。前半の600mは34秒5で,この距離とすると少し早目のミドルペースといったところでしょうか。
 エーシンダックマンの逃げは残り300m辺りまで。ここでカレンチャンが先頭に立つと,外のダッシャーゴーゴー,内のロードカナロアが追ってきて,間に入ったマジンプロスパーはやや苦しい位置に。ただこれらの追い上げはカレンチャンに追いつくまでには至らず,中団の外で控えていたサンカルロが大外を強襲。最後はカレンチャンに並ぶところまではいきましたが,クビ差で凌いだカレンチャンが優勝。サンカルロが2着で3着は内のロードカナロア。
 優勝したカレンチャンは昨秋のスプリンターズステークス以来の勝利で大レース2勝目。前哨戦は4着でしたがこのレースは内有利のコース状態をずっと外を追い上げてきたものでかなりの好内容。昨年のこの部門のチャンピオンですからここは新興勢力の挑戦を受ける立場でしたが,これを斥けました。いわば王者を防衛したという結果で,まだこのカテゴリーはこの馬を中心に展開していくということになります。父はクロフネ,輸入基礎繁殖牝馬はフォルカーで,半兄に重賞1勝のスプリングソング
 騎乗した池添謙一騎手は有馬記念以来の大レース制覇で高松宮記念は初勝利。管理している安田隆行調教師はジャパンカップダート以来の大レース制覇で高松宮記念は初勝利。

 第二部定理一一系によれば,人間の精神というのは神の無限知性の一部です。したがって第二部定理八系で,神の思惟の属性に包含されている個物の観念が,神の無限な観念が存在する限りで存在するといわれるとき,これはそうした個物の観念が神の無限知性の一部を構成しているというように理解するならば,要するに人間の精神も個物の観念も同じであるということになります。したがって,こうした様式で存在している個物の観念の一部が,ある人間の精神の一部を組織しているということは,必然的にそうであるということはできないかもしれませんが,少なくともその可能性を排除することはできないと思います。するとこの場合を神と関連付けて説明するなら,思惟の属性に包容されて存在している個物の観念をAとするなら,この観念Aがある人間Xの精神の一部を構成するという仮定ですから,少なくともAの観念は,神がXの本性を構成する限りで神のうちにあるということになるでしょう。いい換えるならば人間Xは,Aの観念を十全に認識するということです。
 このように個物の観念Aだけを抽出するなら,これはやはり第一部定理二一の仕方で,それが思惟する絶対的な力を原因として生じると主張することはできなくなります。なぜなら,ある人間の精神のうちに何らかの個物の十全な観念があるということは,その人間の能動を意味すると僕は理解しています。つまりその人間の精神がその個物の観念に対して十全な原因であるということです。よってこの個物の起成原因についてそれを思惟する絶対的な力であると主張することは,結局のところ人間の精神にそうした絶対的なことを帰していることにほかなりません。ところがこのことは,すでにその訴訟過程の開始の部分にあたる第二部定理一一系からして不条理であるということになるからです。
 したがって僕は,少なくとも思惟の属性に包容される限りで存在している個物の観念に関して,それをひとつだけ抽出して考えるとすれば,それは思惟する絶対的な力から発生するというのは無理があるのではないかと思います。つまりそれは,第一部定理二一以外の仕方で発生すると考えなければなりません。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&矛盾

2012-03-24 18:40:59 | 将棋
 将棋の第61回NHK杯は,18日に決勝戦が放映されました。対戦したのは羽生善治二冠と渡辺明竜王。現将棋界の頂上対決といっていいでしょう。席次は渡辺竜王が上位ですが,この棋戦は羽生二冠が三連覇中ということもあり,王を持っての一局。過去は羽生二冠が15勝,渡辺竜王が19勝。
 羽生二冠の先手で相矢倉。両者は前年度の準決勝で当たっていて,その将棋をなぞる展開。先手が勝ったのですが,先手の方から81手目に手を変えました。
                        
 驚くほどのスピードで進んだ将棋でしたが,ここでは少し時間を使っていました。▲4六桂は僕が最も有力ではないかと思っていた手。△3九飛は,攻めを考えれば変な位置に打ったとも思えますが,むしろ受けの意味ですから理解できます。ただ次に▲4八銀と打って,無理に飛車をどかそうとするのは考えていない手で,この将棋では最も驚いた一手でした。3八では効きを止められますから,△3六飛成。先手は▲8一馬と補充。△4五歩は強気な感じもしますが,こうやるのではないかと思ってはいました。そのまま取られてはひどいですから▲3四桂と取るのは普通で△同龍は当然。そこで▲9一馬とさらに補充しました。
                        
 勝敗が決するような差がついているわけではないでしょうが,初期局面で先手が先に指すことができる程度か,それよりやや大きなリードを先手が保っているようです。後手は息長く入玉を目指して指すべきであったかもしれませんが,そこは渡辺竜王らしく攻め合いを選択。この結果,後手玉は受けが効かない形になり,先手玉が詰むかどうかの勝負に。非常にきわどい形で,僕が30秒で指せば間違いなく詰まされていたように思いますが,羽生二冠は的確に対応。逃げ切って先手の勝ちとなりました。
 羽生二冠は第38回で初優勝。41回,45回と制した後,47回と48回を連覇。さらに50回を制すると58回,59回,60回と三連覇中で,四連覇で10回目の優勝。これにより名誉NHK杯の称号獲得。名誉NHK杯は囲碁ではいますが将棋では初めて。このためNHKのニュースでも伝えられました。
                        

 一般的にスピノザの哲学において,ある観念が第一部定理二一の様式で発生すると主張する場合,それは同時に次のような意味を含んでいなければならないと僕は考えます。
 ある観念が神の思惟の属性から発生すると主張することは,それが思惟する絶対的な力を原因として発生するといっていることにほかなりません。これは第二部定理一第一部定理一一で示されている考え方からして否定することは不可能でしょう。するとこのとき,もしも結果としてある個物の観念が発生するなら,そうした思惟する絶対的な力を原因としなければ発生することはないといわなければなりません。これは第一部公理三ふたつの意味のうち,弱い意味の方から明らかで,これを否定することも僕には不可能であるように考えられます。したがって要するにこれは,こうした観念というのは,思惟する絶対的な力を有するもののうちにだけ発生するのであって,そういった力を有さないもののうちには発生しないということだろうと思うのです。
 したがって,神の思惟の属性に包含されている限りで存在する個物の観念の原因が神の思惟の属性であると主張するなら,これは思惟する絶対的な力を有さないような知性,ここでは僕はとくに人間の知性のことを念頭においてそういっているのですが,そうした知性のうちにはそれが発生しないと結論しなければならないと思います。もちろんそれはそのように主張しても構わないわけですが,しかしこれには明らかにある不都合が生じていると思います。というのも,たとえ第三種の認識に依拠しているとはいえ,スピノザ自身が,むしろこうした観念は人間の知性のうちに発生し得る,あるいはある人間の知性の一部を構成し得ると主張していると僕には思えるからです。少なくともスピノザが,個物の十全な観念が人間の知性のうちにも生じ得ると主張するとき,それを,現実的に存在する個物の観念だけに限定してそのようにいっているというわけではなくて,むしろ個物の観念が神の思惟の属性に包容されている限りにおいても該当すると主張しているとしか僕には考えられないからです。したがって,こうした主張は,明らかに矛盾を抱えてしまうと思えます。
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東日本大震災被災地支援玉野記念&難問

2012-03-23 18:45:58 | 競輪
 2日目にはルーキーチャンピオンレースも行われた玉野記念は春分の日が決勝でした。並びは石橋ー新田の静岡,永井に三宅-岩津ー友定の地元勢がマークし,村上には桑原の西日本,伏見は単騎でしたが,村上ライン追走のレースに終始しました。
 前受けが村上,4番手に石橋で6番手から永井という周回。永井の上昇に合わせて石橋も上昇,打鐘前のバックで永井ラインが前に出きると,永井は流さずにそのまま先行。石橋が5番手も車間はむしろ開いていき,さらに間が開いて村上が7番手。村上はホームから巻き返していきましたが,追いつく前に三宅に番手発進されて苦しくなりました。直線は三宅の後ろから踏み込んだ岩津が差して優勝。三宅が2着で地元のワンツー。村上の勢いをもらって伸びた桑原が3着。
 優勝した岡山の岩津裕介選手は2009年12月に開催された玉野記念以来の記念競輪制覇で記念競輪3勝目。昨年度は同時期に予定されていたものの開催を自粛していますので,3年越しですが当地は連覇ということになります。記念競輪クラスではもっと安定的な成績を残せる選手になると思っていただけに,個人的には期待ほど活躍できなかったという印象を抱いていました。永井の持ち味といえばそうかもしれませんが,おそらくマークしていた地元勢も含めて予想外の展開となり,記念の決勝としてはやや単調なレースとなった感は否めません。勝因も永井の頑張りにあったということになるでしょう。

 この問いは,現在の考察それ自体とも直接的に関係してくるような,非常に重要なものです。ですが,僕は現時点では,これに関してこうであるとはっきりと自信をもって答えることができません。それだけ難問であるといえるわけですが,二様に考えられると思うのです。
 第二部定理八系で,個物の観念が神の無限な観念がある限りにおいて存在するといわれるとき,これは,ある個物の観念が,無限な観念の一部を構成していると考えてよいのではないかと思います。いい換えればそれは,ある個物の観念は神の無限知性の一部をなしているということです。そしてこのように解釈するなら,無限知性というのは神の思惟の属性の直接無限様態なのですから,第一部定理二一の仕方で生じます。よってその一部を構成しているような個物の観念も,この仕方で発生するということになるでしょう。いわば,思惟の属性があるならば,本性の上では思惟の属性がそれに「先立つ」ということになりますが,必然的に無限知性が存在します。そして無限知性が存在するということは,その部分を構成するような各々の個物の観念,この場合にはとくに思惟の属性に包容されるという様式で存在する個物の観念のことですが,それも存在するということです。そしてこのことは,おそらく第二部定理九の無限連鎖というのをひとつの全体として考えるならば,それを認識することができるのは神の無限知性だけであると考えることとリンクしています。つまり第二部定理九が現実的に存在するという様式での個物の観念に関するある理解であるとしたら,それが神の思惟の属性に包容される限りで存在するという場合には,そうした仕方で理解されるということなのだろうと思うのです。
 論理的にはこのことが正しいということは明白で,この訴訟過程のうちに何らかの不備があるというようには僕には考えられないのです。ところが,この仕方で個物の観念の起成原因というのを理解してしまうと,今度は別の難問が生じてしまうように僕には思えます。この個物の観念が神の無限知性のうちにあるということはこれでよいとしても,それは同様に有限な知性のうちにもあることが可能でしょうか。
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中日新聞杯名古屋大賞典&個物の観念の起成原因

2012-03-22 18:50:35 | 地方競馬
 JRA勢と地方勢との実力差が大きすぎるように感じられた第35回名古屋大賞典
 久々となるダート戦で,砂を被らない方が得策でしょうからエーシンジーラインが逃げると予想していましたがその通り。ニホンピロアワーズががっちりと2番手でマークし,インにボレアス,外にダイシンオレンジと,JRAの4頭が前を占めてのレース。道中は後続もそれなりについていかれたのは,ペースがあまり早くはなかったからだろうと思います。
 2周目の向正面からペースアップしていったようで,ここからはいよいよ前4頭によるレースに。エーシンジーラインが先頭で直線には向いましたが,手応えに余裕のあったニホンピロアワーズが本格的に追い出されるとあっさりと抜け出し,6馬身もの差をつけて圧勝。4コーナーでは一旦は離されたのですが,直線で外を盛り返したダイシンオレンジが2着。交わされてからはかなり苦しくはなりましたがエーシンジーラインが3着。
 優勝したニホンピロアワーズは昨年暮れに名古屋グランプリを制していて重賞2勝目。このメンバーでははっきりと実力が上位でしたから,優勝は当然といえそう。ただはっきりと実力差を現わしての勝利でしたから,もう少し上のクラスでの活躍も可能な馬だと思います。ブルードメアサイアーはアドマイヤベガ,祖母の従兄にフジキセキ
 騎乗したのは幸英明騎手で管理しているのは大橋勇樹調教師。名古屋大賞典は共に初勝利です。

 第二部定理八系で示されている個物の観念の存在のふたつの様式のうち,個物の観念が現実的に存在する場合の因果関係を示しているのが第二部定理九です。しかし一方で,個物の観念が神の思惟の属性に包容されるという様式で存在するという場合にも,その個物の観念の起成原因というのがあるのでなければなりません。これは第一部公理三から明らかです。そこで僕が次に考えてみたいのは,この場合の個物の観念の起成原因というものを,どのように理解するべきなのかということです。
 第二部定理九がその冒頭で現実的に存在する個物の観念はといっている以上,この定理をそのままこの様式の個物の観念の起成原因として用いるということができないということはいうまでもありません。一方,第二部定理八系というのは,それが現実的には存在しない場合の個物の観念に関して,僕がそういってきたように,神の思惟の属性に包容されて存在するという言い回しではなく,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといっています。この無限な観念というのは,スピノザの哲学における知性の意味からして,神の無限知性と理解して差し支えないだろうと思います。
 実際のところ,神の思惟の属性に包含されて存在するというのと,無限知性が存在する限りにおいて存在するということの間には,非常に大きな差異があります。なぜなら,思惟の属性というのは,第一部定理一〇第一部定義一からして自己原因なのですが,無限知性というのは思惟の様態ですから,第一部公理一の意味からしてむしろ実体,つまり第一部定理一四によって自然のうちに実在する唯一の実体である神によって考えられるものであり,とくに第二部定理五により,神の思惟の属性によってあることも考えることもできるものだからです。
 この無限知性というのが,神の思惟の属性の直接無限様態であるということはすでに今回の考察においても指摘した事柄です。したがって無限知性というのは,第一部定理二一の仕方で,神の思惟の属性の絶対的な本性,いい換えれば神の思惟する絶対的な力を直接的な原因として発生します。すると,その無限知性に含まれる個物の観念の存在についても,同様にいわれ得るということになるのでしょうか。
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桜花賞&第二部定理八系の意味

2012-03-21 18:54:01 | 地方競馬
 金沢から1頭が遠征してきた第58回桜花賞
 枠順の関係からコテキタイの逃げになったのは予想していた通り。好発から一旦は先頭に立っていたリカチャンスが2番手に控え,やや出負けから巻き返したエンジェルツイートが3番手で,この3頭はほとんど差のない展開。少し離れた4番手にゴールドキャビアとなりました。前半の800mは50秒0のハイペース。
 前3頭は雁行のまま直線入口。ここでエンジェルツイートが外に膨れてしまう不利。リカチャンスの手応えがよさそうに見えたのですが,直線ではむしろ逃げたコテキタイが引き離していき,4馬身の差をつけての快勝。リカチャンスが2着で,立て直して伸びたエンジェルツイートが半馬身まで迫ったものの3着。
 優勝したコテキタイは北海道デビューで8戦2勝。昨年暮れに南関東に転入し,1月と2月に連勝。とくに2月のレースは優秀なタイムでの逃げ切りで,ここでも優勝候補の1頭だろうと思っていました。前走はおそらく距離が忙しすぎたための敗戦で,ゆったり行かれるこのくらいの距離の方がよいのでしょう。逃げて結果を出している馬ですし,さらなる距離延長はプラスとも思えませんので,今後の活躍にはまだ未知数のところも残っているように思います。父はサウスヴィグラス,母の従弟に重賞1勝のタマモリッチ,はとこには重賞5勝のスマートボーイ
 騎乗した船橋の張田京[たかし]騎手は先月の金盃に続く南関東重賞制覇。管理している川崎の内田勝義調教師と揃って桜花賞初勝利。

 第二部定理八系には,さらに以下のような意味も含まれていると僕は考えています。
 たとえば今,ある個物の観念が現実的に存在すると仮定してみます。するとこの観念は一定の持続のうちに存在するのですから,かつては現実的に存在しなかったでしょうし,やがては現実的に存在しなくなるでしょう。このことは,第二部定理一一により,人間の精神というのはそれ自体がひとつの個物の観念であるという点に注意すれば明白です。要するにこれは,現実的に存在している人間の精神は,かつては存在していなかったし,やがては存在しなくなるといっているようなものだからです。すなわちその人間が産まれる前はその人間の精神は現実的に存在しなかったですし,その人間が死んだ後にも,その人間の精神は現実的には存在しなくなるでしょう。
 しかし一方で,この人間の精神は,神の思惟の属性に包容されるという様式においては,思惟の属性が存在する限りは必然的に存在します。すなわち第一部定理一九により,永遠に存在するのです。したがって,この様式でのこの人間の精神の存在は,この人間の精神の現在あるいは不在とは無関係なのです。つまりそれは,この人間の精神が現実的には存在しないうちは当然ながら神の思惟の属性に包容されて存在しているわけですが,この人間の精神が現実的に存在している間も,同じように神の思惟の属性に包含されて存在していると考えなければなりません。スピノザは第二部定理八系で,個物の観念が持続という相のもとで認識される条件は,個物が持続するという意味で存在するようになることというのを掲げています。しかしそのとき,それは神の属性に包含されるという様式を逸脱してそのように存在するようになるとはいっていません。むしろそればかりではなく,持続的にも存在するようになるというように解釈されるべきいい方をしています。つまり,現実的に存在している個物の観念は,その場合でも神の思惟の属性に包含されても存在しているということになるのです。したがって知性は,現実的に存在する個物についても,それを永遠の相のもとに認識するということが可能であると僕は理解します。
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農林水産大臣賞典黒船賞&第二部定理八系

2012-03-20 19:16:39 | 地方競馬
 2年ぶりの実施となる第14回黒船賞
 先行争いはかなり激化しましたが,最終的に先手を奪ったのはセイクリムズン。ケイアイライジン,トウショウカズンが外に続き,内のアイルラヴァゲインまで差なく続きました。ただしハイペースだったかもしれませんが,ミドルペースに近かったと思われます。
 前半は後方に位置していたスーニは向正面で追い上げを開始。ばてた馬もいて,4番手までは進出しましたがそれ以上の伸びはありませんでした。前の2頭の叩き合いに迫ったのは一旦はスーニに先を譲ったもののさらに外を追い上げたダイショウジェットで,3頭はタイム差なしでのゴール。逃げ切ったセイクリムズンの優勝で,2着にもトウショウカズンが残り,ダイショウジェットは3着まで。
 優勝したセイクリムズンは昨年5月のかきつばた記念以来となる重賞4勝目。一線級と伍して戦うだけの力はないようですが,これくらいのメンバーであれば必ずよいレースをしていて,ここも優勝候補と考えていた1頭。現状はこの距離が最も力を発揮できるようです。大レースは難しいかもしれませんが,重賞はまたどこかで勝てるのではないでしょうか。アストニシメントヤマトナデシコの分枝で甥に障害重賞1勝のオープンガーデン
 騎乗したのは岩田康誠[やすなり]騎手で第10回以来の黒船賞2勝目。管理しているのは服部利之調教師で,こちらは第9回以来の黒船賞2勝目でした。

 個物res singularisの観念ideaというのは神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumの個物です。ですから個物の存在existentiaは『エチカ』においてはふたつの様式で考えられるということ,すなわち第一にその個物が現実的に存在するという意味であり,第二にはその個物が様態化している神の属性に包含されて存在するという意味で考えられるということは,当然ながら個物の観念に関しても妥当しなければなりません。そしてそのことを,第二部定理八系が示していると考えられるでしょう。
 「この帰結として次のことが出てくる。個物(res singulares)がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は。個物の想念的有(esse objectivum)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく,さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると,個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる」。
 まず,ふたつほど注意しておきます。この系Corollariumの冒頭でこの帰結としてといわれているのは,当然ながら第二部定理八の帰結としてという意味です。そして確かにこの系は,第二部定理八から直接的に帰結すると僕は考えますので,この系に関してそれ以上の証明Demonstratioは不要でしょうから何も追加しません。これはスピノザ自身も同様であり,この系は証明が付与されていない系です。
 次に,この系の中で想念的といわれているのはobjectumというラテン語の訳です。しかし僕は想念的ということばは知りませんから,これを客観的と訳しています。したがって岩波文庫版の『エチカ』では想念的と訳されていて,ここはそれをそのまま利用しているのでこのことばの方を用いましたが,このブログにおけることばに置き換えれば,この想念的有というのは客観的有esse objectivumであるということになります。これは元来のラテン語をどう日本語に訳すかという問題ですので,僕と訳者である畠中尚志との間に,系の理解という点において何らかの相違があるということではありません。
 この系が,個物の観念にも,ふたつの様式があるということを示しているということは,とくに説明せずとも明白でしょう。
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順位戦回顧&本性の永遠性

2012-03-19 18:40:54 | 将棋トピック
 昨年6月に展望した第70期順位戦は,先週金曜のB級1組の一斉対局で全日程を終了。恒例ですので今年も回顧しておきます。
 A級は羽生善治二冠が9戦全勝で優勝。森内俊之名人にリターンマッチを挑むことになりました。本命にはしなかったものの,挑戦自体は驚くような結果ではありません。ただこのメンバーでの全勝は称えられなければならないでしょう。降級は丸山忠久九段と久保利明九段。
                         
 B級1組橋本崇載八段と深浦康市九段が昇級。名前をあげた5人のうちのふたりなので,順当といえば順当な結果に思えます。ただ,橋本八段が1期でここを突破したのは立派だといっていいのではないでしょうか。降級は藤井猛九段と中村修九段。
 B級2組は本命の広瀬章人七段が全勝で昇級。ずっと混戦が続いていたクラスで全勝は特記するべき出来事。もうひとりの昇級は飯塚祐紀七段で,こちらは僕には予想外でした。確かにこってり将棋が順位戦向きというのはあると思います。
 C級1組は大混戦となり,佐藤天彦六段と豊島将之六段で決まりました。佐藤六段の方は名前はあげませんでしたが,若手精鋭のひとりですから,順当な結果のひとつといっていいのではないでしょうか。
 C級2組は阿部健治郎五段,中村太地五段,船江恒平五段が全勝で昇級,名前をあげたひとりの菅井竜也五段は9勝1敗で届きませんでした。このうち船江五段は初参加での昇級で,これは凄いこと。菅井五段にも勝っています。もちろん昇級3人の結果にはケチをつけることができませんが,一応はリーグ戦という体裁を採用しているのですから,全勝が3人も出るというのは制度的に欠陥があることの証明のようには感じます。

 個物がそれが様態化している属性に包含されて存在する場合,その個物はその属性が存在するならば必然的に存在するということになります。そうでなければそれは属性に包含されているということにはなりませんから,これはそれ自体で明白な事柄です。しかるに第一部定理一九により,属性の存在は永遠です。よってこの様式で個物が存在するといわれる場合には,その個物も永遠に存在するといわれなければならないでしょう。いい換えれば,この場合には個物は永遠という観点から認識されなければなりません。よって第二部定理四四系二により,この仕方で個物を認識するということは,実は理性の本性に属するのだと僕は考えます。
 このこと自体は,これは個物に限らず,おおよそ事物の本性というものがどのようなものでなければならないかということを考えることによっても帰結すると僕は考えています。
 たとえば,三角形の本性には,その内角の輪が180°,つまり二直角であるということが含まれています。そしてこのことは,三角形が現実的に存在するか否かということとは関係なしに,真理でなければなりません。いい換えれば,三角形の内角の和が二直角であるということは,三角形が現実的に存在するかしないかということとは無関係なのです。つまり,たとえ三角形が現実的には存在しなくなるということがあったとしても,いい換えれば一切の三角形が一定の持続のうちには存在しなくなったとしても,なお三角形の本性にはその内角の和が二直角であるということが属していなければなりません。このことから分かるように,三角形の内角の和が二直角であるということは,一定の持続のうちの真理であるわけではなく,永遠の真理なのです。
 この三角形の本性に妥当することが,あらゆる事物の本性に妥当すると僕は考えます。よってある個物の本性を認識するということは,永遠の真理を認識していることに等しいのだと僕は考えるわけです。つまり一般に事物の本性を認識するということは,永遠の相のもとにその事物を認識するという意味であると僕は理解します。つまりこの仕方で個物の本性を認識することは,理性の本性に属すると僕は考えるのです。
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大和証券杯女流最強戦&第一部定理一九

2012-03-18 18:46:22 | 将棋
 ネット将棋の第5回女流最強戦決勝。今回から観戦方法が変化しましたので,このブログでも紹介します。決勝の顔合わせ,といってもネット対局ですから実際に顔を合わせて対局するわけではありませんが,甲斐智美女流王位と清水市代女流六段。対戦成績は甲斐女流王位が8勝,清水女流六段が10勝。
 清水六段の先手となり,甲斐女流王位のごきげん中飛車③▲6八玉という類例はわりに少ない形ですが,▲4八銀の場合と同じ形に戻りました。後手は△5四銀で応戦。中盤の戦いは駒得になった先手がよさそうでしたが,かなり慎重に指したため,勝つまでには時間が掛かるという展開となりました。
                         
 この局面も先手の方が指せるのではないかと思うのですが,ここで△5五歩でしたので▲4四馬△同角▲同飛成△5六歩▲5四龍と進み,将棋が一遍に終りました。△5五歩はクリックミスで,本当は△6五歩とするつもりであったとのこと。それでも後手が大変ではないかと思いますが,ネット将棋らしいとはいえ,ちょっと残念な終り方になってしまいました。
 清水女流六段が優勝。タイトルからは遠ざかっているわけですが,まだまだ強いことに変わりはありません。

 個物の存在が第二の様式で説明される場合,すなわちある個物が様態化している属性に包含されて存在すると説明される場合に,その個物は永遠の相のもとに認識されなければならないと僕が考える理由は,第一部定理一九にあります。
 「神あるいは神のすべての属性は永遠である」。
 ここでは神が永遠であるということではなく,神の属性が永遠であるという点が重要ですので,その点にのみ絞って証明します。そしてそれはわりと容易に証明することができます。
 第一部定義四により,属性は実体の本性を構成します。そしてその実体というのは第一部定理七によりその本性に存在が属します。いい換えれば実体の本性,すなわちスピノザの哲学でいう実体の定義のみから,実体の存在が帰結します。よって第一部定義八により,実体は永遠です。すると第二部定義二により,実体の本性を構成するところのもの,すなわちそれが属性であるのですが,それも永遠でなければならないでしょう。なぜなら,実体は永遠だが属性は永遠ではないと仮定するなら,実体は属性がなくてもあることも概念することもできると主張しなければなりませんが,それは不条理だからです。つまり属性は永遠です。
 実際には,第一部定義四を考察したときに詳しく論じたように,上述の訴訟過程には,現在の考察との関連では若干の問題は残ります。というのは第一部定理七で実体といわれているのは第一部定義三でいわれている実体のことであり,第一部定義三が名目的な定義である以上,第一部定理七は名目的な定理であり,訴訟過程でそれを援用したこの証明は,属性が永遠であるということを名目的に証明したにすぎないからです。
 ただし,第一部定理一一により神は必然的に存在します。そして第一部定理一四により,神以外には実体は実在しません。すなわち実在的な意味においては属性とは神の本性を構成するものであるということになりますから,このことでこの定理が実在的な意味を有しているということは十分に担保されます。これは第一部定義四は必ずしも名目的な定義ではなく,実在的な定義であるという僕の理解と関係していますから,そこの考察をお読みください。
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棋王戦&個物の存在

2012-03-17 19:00:55 | 将棋
 将棋まつりに合わせて宇都宮市での対局となった第37期棋王戦五番勝負第四局。
 久保利明棋王の先手で三間飛車。郷田真隆九段は☖8五歩から角交換する指し方を採用。結果的に升田式石田流の定跡形に進みました。先手からの仕掛けに後手が新趣向で対応するという中盤戦。後手が先に角を打ち,先手が飛車を動かして戦機を掴もうとする中盤戦に。
                         
 ここで先手は☗4五歩と打診。後手は☖同角。これで9筋方面への脅威が緩和されました。動くチャンスではあり☗8五銀。後手は☖9三桂と催促するような一手。☗9六銀の方が普通に思えますが☗9六飛と飛車を捌きにいく方を選びました。香車を守って☖8一飛。ここでも銀を逃げずに☗9二歩と打ちました。そこで後手は☖8五桂。この手に対しては☗9一歩成としなければ変だと思うのですが☗同桂として,☖8四飛に☗8六飛と受けました。捌きを狙った筈ですからこれは変調だと思います。後手は☖9二香☗同香成と捨てて☖9五銀。先手は一旦は☗9三角と打ち,☖8三飛としてから☗7六飛と逃げました。後手は当然☖8五飛で,☗7八飛。
                         
 後手が駒得で歩得。しかも大駒の働きでも勝っていますから,この局面はさすがに後手がいいでしょう。先手としてもこういう展開は予期していなかった筈で,どこかで誤算に気付いたのだと思いますが,修正が効かなくなってしまっていたようです。最終的には見た目よりも大きな差となってしまい,後手が勝ちました。
 3勝1敗として郷田新棋王が誕生。棋王は初戴冠で,タイトル獲得数は合計で4期となりました。一方の久保前棋王は短期間の間にすべてを失ってしまったかのよう。しかし倒れたのならまた起き上がればいいのです。砂を掴んで立ちあがれ。

 第二部定理八が,スピノザの哲学において個物rerum singulariumが存在existentiumするといわれるとき,そこには実はふたつの場合,あるいは二様の意味があるのだということを示しているのは,僕には明らかなことに思えます。すなわち,まず個物は,現実的に存在する,いい換えれば一定の持続duratioのうちに存在するという意味で存在します。そしてこの場合,この個物の本性自体のうちに,その個物が持続するものであるということが含まれるのだと僕は考えます。よってこうした観点から個物を認識するという場合には,それは第二部定理四四系二によって,この認識は理性の本性natura Rationisに属するような認識ではないということになるのです。
 しかし一方で,ある個物Xというのが概念可能な個物であるという場合に,そのXが現実的に存在はしていないというとき,この個物は存在しないといわれるのかというと,そうではありません。それは単に現実的に存在しないというだけの意味なのであって,この個物の形相的本性essentiae formalesというものが,神Deiのある属性attributaのうちに包含されているという意味においては,むしろ存在しているといわれるのです。そしてこれがスピノザの哲学において個物が存在するといわれるときの,もうひとつの意味であると僕は考えています。その個物を包含するような属性というのは,第二部定理六により,この意味で存在するといわれる個物が,神のどの属性の個物であるのかということに依拠することになるでしょう。たとえばもしもその個物が物体corpusであるなら,それは神の延長の属性Extensionis attributumのうちに包含されているということになります。
 これが実例として相応しいかどうかは分かりませんが,あえて説明すれば,たとえば恐竜というのは現在は現実的には存在していません。しかし,だから恐竜は存在しないということになるかといえば,少なくともスピノザの哲学においてはそうではないのです。確かに現在,ある一定の持続のうちに存在している恐竜というのはありません。しかし恐竜の形相的本性は,神の延長の属性のうちに包含されているという意味においては,存在しているのです。
 このとき,第二の場合の意味において個物が存在するといわれるとき,その個物は,永遠という観点species aeternitatisから認識されなければならないのではないかと僕は思うのです。
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スメルジャコフの場合&第二部定理八

2012-03-16 18:39:02 | 歌・小説
 『罪と罰』のミコールカの場合のように,あまりよく分からないような形でドストエフスキーの小説に当時のロシアのキリスト教との関係が含まれているというのを,『カラマーゾフの兄弟』から見つけ出すなら,それはかつて紹介した,スメルジャコフの場合ということになるでしょう。
                        
 僕は『カラマーゾフの兄弟』を読み進めるうちに,スメルジャコフが性的不能者であるとしか考えられなくなっていきました。彼の性的事柄への無関心さ,無関心さというより忌避感というのが,あまりに度を越しているように感じられたからです。そしてこれについて,江川卓は『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』において,スメルジャコフは去勢していたのではないかという説を唱えているのです。
 この去勢は,もちろん宗教的,キリスト教的な意味における去勢です。この当時,去勢派というのもロシアのキリスト教の異端派の一角を占めていて,同じ異端派である鞭身派といわれる,文字通りに自分の身体に鞭を打つことを教義とする派と,勢力争いを繰り広げていたようです。
 もちろん,スメルジャコフが去勢していたとか,そもそも去勢派に属していたということも,『カラマーゾフの兄弟』の中で直接的に言及されているというわけではありません。だからこの場合にも,ドストエフスキーがスメルジャコフをそうした人物として明確に組み立てていたのかどうかは不明ではあります。ただ,ドストエフスキーの『女主人』という小説は,下宿先の女主人であるカテリーナが,去勢派に加わるという内容の物語になっています。『女主人』は小説家としてのドストエフスキーとしては初期の頃、1847年のもので,遺作であり,1880年に完成した『カラマーゾフの兄弟』よりも30年以上も前に書かれたものです。つまりドストエフスキーはかなり前から去勢派を知っていて,しかもそれを小説として書いたのですから,関心もあったと考えるのが妥当です。ですからドストエフスキーが,スメルジャコフを去勢派の人間として描こうとしていたという可能性は,けして小さなものではなかっただろうと思います。

 スピノザがわざわざその冒頭の部分で断りを入れているように,第二部定理九というのは現実的に存在するある個物res singularisの観念ideaについての言及です。個物の観念というのは,要するに神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumの個物のことです。したがって,第二部定理九というのは,個物が現実的に存在するという場合のことを説明していると考えなければなりません。したがってここでいわれている個物,すなわち個物の観念といわれているもののことですが,その本性essentiaにはその個物の持続duratioが含まれているということが,僕自身が個物の本性という観点から第二部定理九をみた際の結論ということになります。いい換えればそれは,永遠aeterunusという観点から説明されているのではなく,持続という観点から説明されているということになりますから,第二部定理九の無限連鎖のどの一部分を抽出したところで,この様式での認識cognitioというのは,第二部定理四四系二により,理性ratioの本性に属するというわけではないと僕は理解します。
 しかし一方で,スピノザがわざわざこうした断りを入れているということ自体に,僕は何らかの意味があるのだろうとも思うのです。すなわち,これは個物の観念に限ったことではなく,すべての個物に該当することなのですが,スピノザの哲学,とくに『エチカ』においてある個物が存在するといわれる場合には,それは直ちにその個物が現実的に存在する,いい換えれば一定の持続のうちに存在するという意味にはならないと,僕は考えているのです。実際,『エチカ』には明らかにそのことを示唆しているとしか考えられないような定理Propositioがあるのです。それは第二部定理八です。
 「存在しない個物ないし様態の観念は,個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ(Ideae rerum singularium, sive modorum non existentium ita debent comprehendi in Dei infinitia idea, ac rerum singularium, sive modorum essentiae formales in Dei attributis continentur.)」。
 この定理Propositioは一読して理解できるように,ある何らかの観念,存在しないものの観念についての言及です。しかし現在の考察との関連で重要なのは,むしろ個物の形相的本質essentiae formalesが神の属性Dei attributisのうちに含まれているという点ですので,定理そのものに関しては言及しませんし,よって証明Demonstratioも省略します。ただ,ここで存在しないといわれているのは,存在し得ない,存在が不可能であるという意味ではなく,現実的に存在しないという意味であることにはご注意ください。
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農林水産大臣賞典ダイオライト記念&個物の本性

2012-03-14 18:44:07 | 地方競馬
 東日本大震災の影響で昨年は5月に実施された第57回ダイオライト記念
 好発は外の2頭で,フリオーソの逃げになったのは事前に予期された展開のひとつ。1周目の正面に入るとランフォルセが1馬身差の2番手まで追い上げ,さらに1馬身差の3番手にワンダーアキュート。4番手以下が大きく離されての追走となりました。最初の1000mは62秒5で,この距離のレースとしては超ハイペースといっていいでしょう。
 前の3頭は同じ順位で直線に。まずランフォルセがフリオーソを交わして先頭に立つと,フリオーソは一杯。ワンダーアキュートが2番手に上がりましたが,ゴール100mほど手前で一気に脚が上がりました。そこに4番手以下の集団を形成していたピイラニハイウェイとトーセンルーチェが外から並んで襲い掛かると,ワンダーアキュートを交わしランフォルセにも迫りました。しかし一杯に凌いだランフォルセが優勝。ピイラニハイウェイが2着でトーセンルーチェが3着。実力では上位と目された2頭が揃って沈み,大波乱といっていい結果でしょう。
 優勝したランフォルセは昨年9月のエルムステークス以来の重賞2勝目。能力自体は8枠2頭の方が上と思いますが,今日の体調面では明らかにアドバンテージがありました。中距離で戦っていますが,長距離の適性も,おそらくその2頭より上回っていたのでしょう。とはいえライバル2頭を潰して,伏兵の追撃も凌いだのですから,かなり強い内容といってよく,価値ある勝利と思います。父はシンボリクリスエスで,半弟に昨年のアーリントンカップを勝っている現役のノーザンリバー,甥は2009年JRA賞最優秀3歳牡馬で現役のロジユニヴァース。Renforcerは音楽用語で,ますます強く。確かにだんだんと強くなってきている馬です。
 騎乗した横山典弘騎手は第41回以来のダイオライト記念2勝目。管理している萩原清調教師は初勝利です。

 僕が知っている限りでということになりますが,個物res singularisが現実的に存在するといわれるとき,その存在する個物の本性essentiaに,その個物が持続するdurareものであるということが含まれているの否かを最も真正面から探求の切り口にしているのは,ヨベルYirmiyahu Yovelです。ただ,ヨベルがそのことを展開する文脈というのは,現在の僕の考察とは,無関係であるとはいいませんが,はっきりと異なっています。ですからここではそのヨベルの訴訟過程の全体については言及しません。これは『スピノザ 異端の系譜Spinoza and Other Heretics : The Marrano of reason』の第一部の第六章,とりわけ「世俗的な救済としての第三の認識」という項で扱われていますから,関心がある場合にはその部分をお読みください。
                         
 結論だけいえば,ヨベルは現実的に存在する個物の本性には持続duratioが含まれると考えるべきであると主張します。そして僕も,その主張には同意します。ただ,僕が理解する限りでは,ヨベルがそのように主張する根拠というのは,現実的に存在する個物の本性にはその個物の持続が属さないと理解する場合に,『エチカ』の全体,ひいてはスピノザの哲学にもたらす影響と,そうではなくて現実的に存在する個物の本性にその個物の持続が属するとした場合の同種の影響では,後者の影響の方が少ないからそう考えるべきであるというような導き方になっていて,論拠としてはやや消極的な面が否めないと思います。僕も確かにヨベルが主張するように,個物の本性にその個物の持続が属すると考えた場合に,ある難点が生じてしまうということには同意します。しかし僕はこの点に関しては,むしろ積極的な論拠から,現実的に存在する個物の本性にその持続が含まれると考えています。
 その論拠というのが第二部定理四四系二証明の,僕が補足として捕えている部分です。すなわち,共通概念notiones communesは個物の本性を構成しないから,永遠aeterunusという観点から認識cognitioという作用をなすことが理性ratioの本性に属するとスピノザが主張するのであれば,これを逆に考えれば,ある個物の本性の認識という作用には,持続の観点が含まれていなければならないということになると僕は考えます。つまりそれは,個物の本性にはその個物の持続が含まれているという意味だろうと判断するのです。
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