スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
『スピノザ『神学政治論』を読む』で主張されているように,社会契約と神学の間で,敬虔pietasということの整合性を保たせるため,スピノザがいう社会契約の考え方が発生したのかについては,僕は何ともいえません。ただ,そこで上野が主張していることのうち,これだけは確かだと僕には思える事柄があります。
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上野の論理でいけば,スピノザ式の社会契約は,実際に人が居住する社会と主体的に結んだ契約ではあり得ないことになります。むしろこの場合に社会契約は,そういう実情に関係なく,単に神学者を政治から排除するために発明されたものとなっているからです。僕はその目的の説明については判断しかねますが,スピノザの社会契約がいわば実情から離れたものである,哲学的にいい換えれば実在的有ではないという点については正しいと考えています。
社会契約と契約が同じようなものでなければならないというのがスピノザの基本的な考え方だったと僕は解しています。しかし普通の契約と同じように結ばれた社会契約は存在しません。人は好むと好まざるとに関係なく,社会契約を締結した存在として産まれてくるからです。なので普通の契約は実在的有であるといえますが,社会契約をそうした契約と同じ契約とみなす限りにおいて,社会契約が実在的有であることはできません。
したがって,スピノザの政治論における社会契約は,実際に人びとが結んだ実在的有について語っているのではなく,形成されている社会や国家を合理的に説明するために語られていると僕は考えます。上野の理論はそのようになっていて,その点は正しいと僕は考えるのです。
哲学的にいえば社会契約は実在的有ではなく理性の有entia rationisにすぎません。そのために『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でも『国家論Tractatus Politicus』でも,具体的に政治のあり方を説明する場面では,社会契約の考え方が後退するのではないでしょうか。理性の有は有ではないので,具体的な有を説明するためには役立たないからです。
『フェルメールとスピノザ』に示されているマルタンによるスピノザの哲学とフェルメールの絵画の間の公式をスピノザは認めないと僕が考えるのは,スピノザは絵画がそれ自体で実在的有であると認めていないと思われるからです。少なくとも,ある形相的有の観念がその形相的事物を離れて思惟の様態として実在的であるということ,すなわち客観的有であるということと同じように,絵画が描かれた対象を離れた実在的有であることをスピノザは認めないということは,僕は確実であるといいきります。根拠はいくつかあげられますが,ここでは十全な観念と混乱した観念の相違について言及している第二部定理四三備考を示します。
スピノザはこの備考の冒頭部分で,第二部定理四三は証明するまでもなく明白でなければならないとしています。そしてその理由を以下のように説明しています。
「真の観念を有するとは物を完全にあるいは最も善く認識するという意味にほかならないから。実際これについては何びとも疑うことができない。観念が画板の上の画のように無言(mutum instar picturae in tabula)のものであって思惟様態すなわち認識作用そのものではないと信じない限りは」。
これと同じようないい回しは,第二部定理四八備考や第二部定理四九備考にも出ています。前者では思惟を絵画に堕さしめないようにしてほしいといわれていて,後者では,あるものについて何ら類似した表象像を形成できない思惟様態は観念ではなく想像物と信じ込んでいる人びとについて,そうした人は観念をまるでキャンバスに描かれた無言の絵のように思っているといわれています。いずれも観念が思惟の様態の実在的有であるということを示すために,観念は絵画のようなものではないという比喩が用いられているのはお分かりいただけるでしょう。
絵画が描かれた対象を離れて実在的であるということをスピノザは認めないということは,こういったいい方から明白であるといわなければなりません。とくに観念が観念されたものを離れて実在的であるようには絵画は実在的でないとスピノザが解していることは一目瞭然といっていいでしょう。だからマルタンの公式をスピノザはきっと否定するのです。
昨日の第87期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は村山慈明七段が2勝,永瀬拓矢六段が2勝。
振駒で村山七段の先手。角換り相腰掛銀でしたが変則的な手順だったため,後手の永瀬六段の方が先手のような将棋に。先攻しましたが暴発の手があって先手が有利に戦えていたようです。
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後手も悪くしたのを認めたように粘る指し方をしたので,先手がよくてもさほど差は開いていないのではないかと思います。
☗6五歩と角に働きかけました。対して☖4六角と逃げたのですが,これは緩手のような気がして,先手にチャンスが来たのではないかと思われました。
☗2五桂の銀取りに☖8五飛☗8六歩☖6五飛と角取りに回りました。これは☖4六角と逃げたときの読み筋だったと推測されます。先手は☗3三桂成☖同金右として☗5二角成。この3手はどちらも変化しにくいのではないでしょうか。
後手はここで☖7五歩と反撃に転じました。先手は☗3四桂☖同金と捨ててから☗4一銀。
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どうもこの桂馬を捨ててしまったのはやり過ぎだったようで,単に銀を打っておいた方がよかったようです。それだと後手は金が逃げられず,金を入手して受けに回る手順で先手が有望だったとのこと。第2図から☖3三金上と逃げてからの攻防は後手に分があったようです。
永瀬六段が勝って挑戦者に。タイトル戦は初出場。第一局は6月3日です。
マルタンJean-Clet Martinが立てなければならない公式ないしは定理Propositio,そして『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』においては実際にマルタンが立てている公式を,スピノザは認めないだろうと思われることがなぜ僕にとって重大であるのかといえば,マルタン自身がおそらくそうなるであろう結論については何も触れていないからです。もしかしたらマルタンは,そのことが自身とスピノザとの間にある絵画という芸術に対する鑑賞能力の差異に帰せられると考えているのかもしれません。しかしそれは推測にすぎません。マルタンは著書の中ではこれから僕が述べる事柄については何も書いてはいないからです。だとするとマルタンはそうしたことには何も気が付いていないとか,気付いてはいるのだけれどもあえてそこを避けて通ったという可能性も否定することはできません。そしてその場合には,僕はマルタンが立てている,スピノザの哲学とフェルメールJohannes Vermeerとの間の共通の公式は,その土台から崩壊すると考えます。そしてその部分が崩壊してしまうと,「天文学者De astronoom」のモデルがスピノザであるというマルタンの仮説もまた崩壊せざるを得ないだろうと思います。というのはマルタンは,フェルメールの絵画とスピノザの哲学の間には等置できる公式が存在するからこそ,スピノザは「天文学者」のモデルになり得たというように解しているとしか考えられないからです。少なくともマルタンはふたりの間に共通の公式をみたからこそ,モデルがスピノザであるという仮説を思いつき,その仮説を検証しているのです。ですから公式の方が崩壊してしまうと,モデルがスピノザであるという仮説は,いくら歴史的事実を検証し,そうした可能性が皆無ではなかったということを示すことができたとしても,元来の根拠が薄弱になってしまいます。第二部定理四〇の4つの意味のうち,混乱した観念idea inadaequataからは混乱した観念しか発生し得ないというものに注意したなら,実はマルタンが著書において企てたことのすべては,その意味のうちに収斂してしまうかもしれないのです。
まず,なぜ僕がマルタンが立てた公式をスピノザは認めないであろうと考えるのかということから説明しなければならないでしょう。
郡山で指された昨日の第9期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
加藤桃子女王の先手で室谷由紀女流二段のノーマル中飛車。後手が4筋の位を取って四間飛車に転換。先手がこれを許したのが大問題だったようです。
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後手が3三の角を上がったのに対して先手が2六の飛車を逃げて後手が四間飛車からまた回った局面。ここで先手は▲2四歩と仕掛けました。
先手の陣形はいかにも中途半端。仕掛けるなら9八に香車を上がる前が自然ですし,香車が上がったのなら穴熊に組むのが自然。どちらの指し方もできずここで仕掛けざるを得なかったのなら作戦負けで,すでに第1図は後手が有利なのでしょう。
△同歩に▲4六歩と突き△同歩▲同飛。これには△4二飛が振飛車の自然な対応。先手は▲4八飛と引いて△4七歩に▲2八飛と戻りましたがここでも△3三角が自然な対応。
先手は▲5七銀と引き△7七角成▲同金で2筋の突破に命運を託しましたが△3三桂が絶好の活用。先手は▲6六角△5五歩の交換を入れて4八の地点を受けてから▲2四飛と走ったものの△4五飛と浮かれました。
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これは飛車を成っても△2五飛とぶつけられて無効。ここでは先手が相当に窮しているようです。
室谷二段が勝って1勝1敗。第三局は来月9日です。
第五部定理二三で,人間の精神は人間の身体の持続の停止とともに完全には破壊されないといわれていても,それは人間の精神は人間の身体より優越的であるというわけではないし,人間の精神に何らかの特権が付与されているわけではないという僕の解釈についてはその理由を説明できたので,本題の方に戻ることにしましょう。
スピノザの哲学において永遠であるということを考えるためには,まず思惟の属性の様態,とりわけ第二部公理三により思惟の様態として第一のものである観念が,観念されているものとの関係を離れても実在性を有するということを前提しなければなりません。とりわけ人間についていうならば,人間にとって思惟の様態である人間の精神が,第二部定理一三によってその現実的有を構成している観念の対象であるその人間の身体を離れて実在的であり,かつ永遠であるということがさらに前提されなければならないわけです。したがってマルタンがスピノザとフェルメールの間に永遠に関するある公式いい換えれば定理を認めるためには,第一にフェルメールの絵画はその描かれた対象との関係を離れて実在的であり,第二にそれは描かれた対象が存在しなくなってもそれを永遠の相の下に表現しているということを示す必要があるわけです。
マルタンがこのような公式を立てることができるかといえば,僕はそれはできないように思います。いや,正確にいうと,立てることは本当はできるかもしれません。しかしひとつだけ僕が確かだと思うのは,もしもマルタンがそのような公式を立てたとしても,スピノザはそれを認めることはしないであろうということです。後で少し説明しますが,前もって簡単にいっておくと,このことはスピノザによる絵画鑑賞の能力の問題に帰せられるかもしれません。つまりマルタンがフェルメールの絵画から鑑賞することができる要素を,スピノザは感じ取ることができないということと関係するかもしれません。だからそれはマルタンの責任ではなく,スピノザの責任である可能性があることは僕も認めます。ですがそれをスピノザはきっと認めないということは,僕にとってはことのほか重要なのです。
兵庫から2頭が遠征してきた第54回しらさぎ賞。
トーコーニーケが抜群の発馬でしたが逃げる気はなかったようです。外から押して主張したエールドランジュがハナへ。ヘレニウムとララベルが並んで追走。トーコーニーケはその後ろになり,プリンセスバリューとトーコーヴィーナスも並んできました。ティーズアライズまでが集団。少し離れてビーインラプチャーとファイトユアソング。最初の600mは36秒4のハイペース。
向正面で単独の2番手に上がっていたララベルが3コーナーで逃げるエールドランジュに並んでいき,コーナーは2頭の雁行。トーコーヴィーナスもついていこうとしましたがむしろ離され気味に。代わってプリンセスバリューが3番手に。直線に入るとララベルがエールドランジュを交わして先頭に。ラップからみても一杯だったと思いますが,追ってきたプリンセスバリューに交わされると心配しなければならないほどではなく完勝。1馬身半差の2着にプリンセスバリュー。外をよく伸びたビーインラプチャーが半馬身差で3着。
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優勝したララベルは昨年のロジータ記念以来の勝利で南関東重賞5勝目。能力が最上位であることははっきりしていましたが,ここが今年の初戦で,1400mであったこと,そして斤量がやや不利であったことなど,懸念材料もありました。それらをすべて払拭しての勝利。この馬は重賞でも通用しますし,メンバー次第では勝てると思います。距離はもっとあった方がいいのではないでしょうか。父はゴールドアリュール。
主戦の真島騎手が左のかかとを骨折して休業中のため騎乗した金沢の吉原寛人騎手は2月のフジノウェーブ記念以来の南関東重賞制覇。第53回に続く連覇でしらさぎ賞2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は第52回以来2年ぶりのしらさぎ賞2勝目。
そこにすでに平行論が含意されているという第一部公理四の意味に注目するなら,スピノザが第五部定理二二でいっていることは,現実的に存在する各々の人間の身体の本性には,その身体の本性を表現する観念が存在するということになります。福居の説明はこのようになっていないのですが,僕が解する限りはこのようにいった方が第五部定理二二の説明についてはより妥当であろうと思われます。その観念というのは,第一部公理四によって,現実的に存在する人間の身体の本性を原因から認識している観念のことなのです。
このように考えれば,第五部定理二二で,人間の身体を永遠の相の下に表現する観念とスピノザがいっていたとしても,これは人間の精神が人間の身体に対して優越的であるとか特権を有しているという意味ではないことになります。なぜなら,現実的に存在する人間の身体の本性とは,それを永遠の相の下に表現する観念のことではないということが明らかになっているからです。それは同一個体という意味では同じものではありますが,身体の本性がその観念においてのみ存在するということは否定されることになるからです。福居のいい方に倣えば,観念論的解釈こそがここでは斥けられているのです。いい換えれば平行論的解釈を導入する必要があるのです。
現実的に存在するある人間の身体の本性が神のうちで永遠の相の下に表現され得るのは,その人間の身体の本性の原因が神自身であるからです。あるいは延長の属性であるからです。そうした観念が必然的に神のうちに存在しなければならないことは,第二部定理三から明らかだからです。
つまり福居は,現実的に存在する人間の身体の本性が永遠の相の下に表現されるのは,そうして表現されている人間の身体の本性が永遠性を有していることであると解し,その人間の精神が自分の身体の本性を永遠の相の下に表現する限りで,いい換えれば人間の精神が人間の身体の観念である限りにおいて,第五部定理二三では人間の精神は永遠であるといわれることになると解しているのです。この解釈が精神の優越性や特権を意味し得ないことは,とくに説明するまでもないでしょう。
Kがお嬢さんに恋したことは,奥さんの拒絶を振りきってKを同居させた先生からみて,成功と失敗の両方が含まれていたと解せます。一方,Kのお嬢さんに対する恋愛感情は,先生のお嬢さんに対する恋愛感情にも影響を及ぼした可能性があるのではないかと僕はみています。
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Kを同居させる以前の先生の認識のうちに,ゆくゆくは自分がお嬢さんと結婚するというものはあったと思われます。下十八の戸棚のテクストは,相手方にその意志があることの先生の確認だと思われるからです。同時にその時点ですでに,お嬢さんに対する恋愛感情を意識していました。下十四ではすでに,お嬢さんに対して信仰に近い愛をもっていたといっているからです。
ですが,この信仰に近い愛という表現は僕には妙に思えるのです。先生は愛の両端に神聖さと性欲があるなら,自分のお嬢さんに対する感情は神聖さの極点だったという意味でこのようないい方をしています。同時にそれが本当の愛だと思っているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないと書いているからです。
信仰に近い愛とか,宗教心と違わない愛というのは,本来ならKに対して適切な表現である筈です。Kは寺の次男なのだからです。むしろKを同居させる先生の目的は,Kを神聖さから性欲へと近づけることにあったと,これは比喩的ですがいえると思うのです。
先生は自分は肉欲を離れられないということを知っていて,しかしお嬢さんに対しては肉欲は抱かなかったのだという意味のことをいっています。確かにそれが本当のことであったのかもしれません。しかし遺書は先生が自殺の間際に,自身の人生を再構成して記述したものです。だからこの記述は,自殺をする直前の先生にとっては事実だったけれども,過去の時点でもそうだったとはいいきれないと思います。
第二部定理七というのは,平行論が導入される契機となっている定理であるといえます。ですがスピノザがこの定理の証明を第一部公理四の援用だけで済ませ,そのほかには何もいっていないのだとすれば,すでに第一部公理四のうちに,平行論を成立させる契機があるとみていいのかもしれません。そうであるとすると,スピノザが何らかの証明において第一部公理四に訴求する場合,それはすでに平行論的な帰結を導こうとしていると解することが可能になります。もちろんスピノザは論証のために第二部定理七を援用する場合があって,その場合との区別は必要と考えておく方が安全ではあるでしょう。しかし援用される第二部定理七が,単に第一部公理四から帰結するとスピノザが考えているのだとしたら,第二部定理七を援用することと第一部公理四を援用することの間には,大した相違はないと解する余地があるのも間違いありません。
この場合,第一部公理四というのは,単に知性intellectusが物事をどのように認識すれば十全であるかということだけを示しているのではないことになります。第一部公理三は,原因が与えられると必然的に結果が生じることを主張しています。このとき原因及び結果が,形相的formalisな意味でいわれていること,あるいは少なくとも形相的意味を含んでいることは疑い得ません。第一部公理四というのはそのことを踏まえた上で,結果の十全な認識は原因の十全な認識を含んでいなければならないということを意味していると考えられます。このとき,第一部公理三でいわれている原因と結果を形相的なものとみなすなら,第一部公理四でいわれている原因の認識と結果の認識というのは,それらの同一個体の認識であることになるでしょう。そうであるなら,第一部公理四にはすでに平行論的解釈が含まれていることになります。というより,これが含まれているからこそ,この公理が第二部定理七の証明をそれだけで成立させ得るのではないでしょうか。
したがって,第五部定理二二証明でスピノザが第一部公理四を援用する際にも,同じことが妥当するといわなければなりません。つまりそこでスピノザはある平行論に言及しているのです。
香港のシャティン競馬場で行われた昨日のクイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。
ラブリーデイは最初は馬群の2列目の内を追走。向正面で前の隊列が変化したので3列目になりました。そのままインを上昇して3コーナー付近で3番手に。直線は前が開いてやや外目に持ち出しました。ですが自身が開けた内を突いた勝ち馬に抜け出されると追っていく余力はなく,その後もやや粘りを欠いて4着でした。
サトノクラウンは1コーナーを回ったあたりでは先頭。向正面で前を譲り内に控えました。ラブリーデイが上がっていったところでその外から上がっていきましたが,すぐについていかれなくなり,あとは見せ場もなく12着。
ヌーヴォレコルトは後方3番手を追走。3コーナーを回って外を追い上げ,直線は前の馬たちも外に出てきたので馬群を割るような形にしかし目立った伸び脚はなく6着までが精一杯。
このレースは差がつきにくいスローペースながら4馬身半も離した勝ち馬が強かったとしかいいようがありません。ラブリーデイは昨年に数多くのレースを走り,やや消耗気味かもしれません。ヌーヴォレコルトは外を回って上位に来られるほどの力量はないということでしょう。サトノクラウンの凡走は原因不明。陣営は悪化した馬場を敗因にあげていますが,勝ちタイムからみてそれだけでここまで負けるとは考えにくいです。レース前にかなりいれ込んでいましたから,そのあたりが影響したのではないかという気はします。
現実的に存在する人間の身体には,その身体に固有というべき各々の本性が形相的に存在します。しかしその本性は,その人間の精神の本性を構成する,いい換えればその人間の精神の現実的有を構成する観念によってしか表現され得ないと福居は指摘します。
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僕はこのためにそれは得体の知れない「あるものaliquid」として理性ratioによって認識されると考えています。つまり現実的に存在する人間の身体の本性は,その人間の精神にだけ関連させていえば,明瞭判然とした個別的な対象を有する観念として発生し得ないと考えるのであって,ここは福居と一致しているといえます。「精神の眼は論証そのもの」の論述もこのように読まれるべきであって,したがって上野もこの点は一致すると僕は判断します。さらにいうと,それがその人間の精神にとっては「あるもの」でしかないという推論が成立するのは,人間の身体の本性がその人間の精神の現実的有を構成する観念において表現されるからだと解する必要があると僕は考えますから,「個を証するもの」の論述も,この点を肯定しないと成立しないと思います。なので佐藤もこのことは一致しているというのが僕の判断です。
このことが精神の身体に対する優越性あるいは特権を否定する決定的な根拠になると福居は考えています。そして僕はそれに同意します。なぜなら,人間の身体の本性がその人間の精神の有を構成する観念によってしか表現され得ないのは,平行論的な帰結によると福居は主張するからです。スピノザは第五部定理二二証明で,論拠のひとつに第一部公理四をあげていました。福居によれば,スピノザがここに訴求したということが,このことが平行論的帰結であることの根拠です。僕も前に示したように,特権および優越性の否定は,平行論が根拠になるという考えです。このために僕は福居の主張にここでは同調するのです。
福居は第一部公理四の援用がなぜ平行論的帰結の決定打となるのかについては詳しく説明していません。しかしこれはスピノザによる第二部定理七の論証に注意すれば簡単に理解できるでしょう。スピノザはその定理は第一部公理四から明白だとだけいっているからです。
西武園記念の決勝。並びは池田‐平原‐藤田‐芦沢‐山口の関東と吉田‐浅井の中部で稲垣と吉本は単騎。
稲垣がスタートを取って前受けに。2番手に吉田,4番手に吉本,5番手に池田の周回に。残り2周のホーム前のコーナーから池田が上昇を開始。分断はなくホーム後のコーナーで前に出ました。吉田が続いて6番手になり,8番手に稲垣,最後尾に吉本となって一列棒状でバックを通過。打鐘から吉田が発進。ホームで迫られた平原が番手発進で対抗。吉田はバックで一杯になり,平原が先頭で直線に。しかし最後までは保たず,後ろを回った藤田が差して優勝。藤田マークの芦沢が4分の3車輪差の2着。平原が4分の1車輪差の3着で関東勢の上位独占。
優勝した埼玉の藤田竜矢選手は2013年7月の高知記念以来の記念競輪2勝目。ここはラインの厚みが違いましたから,関東勢に有利になりそうなのは事前に想定されたところ。どこかで分断されることだけが憂慮されましたが,結果的に二分戦のようなレースになりました。こうなると自力を使える3人が前にいた関東勢にはさらに有利になりました。吉田がわりと早い段階で迫ったため,平原もそこから出ていくことに。意外に粘りを欠いた印象も否めませんが,無風で平原の後ろを回ることができた藤田にとって最も有利な展開になったということでしょう。
第五部定理二二についていえば,僕はそこでスピノザが示したかったことは,現実的に存在する人間の身体の本性が,それが現実的に存在するということを離れて,神の中にはそれを永遠の相の下に表現する観念が存在するということであったと思います。いい換えればこの定理は第五部定理二三を導くための必要条件であり,むしろその目的に向かうためにここに配置されたと考えます。したがってこの定理の主眼が,一般に事物の本性というものが永遠の真理ではあるとしても,それはそれ自体によって永遠なのではなく,神の本性を通して永遠であるということなのだという福居の見解には同調できません。「精神の眼は論証そのもの」の論述は,僕がいっているのに近いような形で構成されていると思えますから,第五部定理二二のスピノザによる主張の中心がどこにあるのかという点に関しては,上野の方が僕に近い見解を有していると思われます。
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ただし,だから福居が誤ったことをいっているというわけではありません。確かに一般に事物の本性がそれ自体で永遠であるということはできないということは,第一部定理二五と第一部公理六から明白だといわなければなりませんし,とくにそれが永遠であるといわれるためには,第五部定理二二証明でスピノザが援用している第一部定理一五の様式で事物の本性が発生するないしは概念される必要があるからです。福居が人間の精神が人間の身体に対して何らかの特権を有しているわけではないと主張する際の鍵はこの点にあるので,第五部定理二二に特化した福居の見解には僕は同意できませんが,特権や優越性に関する福居の主張は成立すると考えます。
一般に事物の本性が神の本性を通して永遠であるなら,それは特殊的なあるいは個別的なすべてのものに妥当しなければなりません。かくして人間の精神の本性あるいは人間の精神の本性に属する「あるもの」が永遠であるということは,思惟の属性によって認識されなければなりません。これと同じように,現実的に存在する人間の身体の本性が永遠であるということが,延長の属性を通して認識されることになります。この点では精神も身体も同じです。
書簡五十の冒頭では,スピノザがイエレスJarig Jellesからの質問に答える形で,ホッブズの国家論とスピノザの国家論にどんな差異があるのかに言及しています。解答はごく簡単なもので,スピノザの国家論ではホッブズの国家論とは異なり,人の自然権がそのまま保持されているというものです。このために国家権力が国民に対して有する権利は,国民に力の上で優っている度合いに相当するだけの力になると説明しています。
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これは確かにホッブズとスピノザとの間の大きな差異であるといえます。というのはホッブズの政治論では,国民は自身の自然権を全面的に国家に対して譲渡するということになっています。このために国家は国民に対して絶対的な権限を有することになります。これに対してスピノザは,国民が国家に対して自然権を全面的に譲渡するなどということはあり得ず,したがって国家も国民に対して絶対的な権限を有するということはあり得ないといっているからです。
これはひとつには国家というものの概念についてのスピノザとホッブズとの間の相違に帰着します。スピノザは自然法則が「唯一」であると考えるので,国家というのもその必然性に即して形成されるものと理解します。要するに国家も自然の一部であると考えるのです。しかしホッブズにはこのような考え方はありません。むしろそこでは国家は自然と対立するもの,あるいは自然状態を克服したものと考えられているといえるでしょう。
もうひとつは自然権そのものに対する考え方の差異に帰着します。スピノザにとって自然権とは,なし得ることと同一でした。ですからホッブズがいう自然状態において人がなし得ることがあるのと同じように,国家の中においても人にはなし得ることがあり,国家はそのなし得る事柄に反しては絶対的な権限を有することはできないということになるのです。つまりこれは,国家が絶対的な権限を有してはいけないという意味ではありません。そんな権限を有することは不可能であるという意味なのです。
福居は第一部定理二五備考に触れた後で,人間の身体の本性が神の本性を通して概念されなければならないことを示すために,第一部公理四を援用しています。ここもスピノザと同じです。次に第一部定理一六に訴えるのも同様です。最後に第二部定理三を援用するのも同じなのですが,その中間に別の説明が入っています。それは神が無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟することができるということ,他面からいえば神は神自身の本性とその本性を原因として発生するあらゆるものの観念を有するという点です。なぜこれを示す必要が福居にあったのかといえば,このことを第一部公理六に訴えて,それが対象と一致するということを示すためです。いい換えれば第二部定理三を援用するために,何らかの対象があって,それが神によって概念されていると福居は強調したかったのだと僕は解します。
これが第五部定理二二の福居による論証なので,そこでいわれている人間の身体の本質というのが,形相的な意味で存在していると福居が考えていることは間違いないでしょう。そのことは,後続の説明からも確かめられると僕は考えています。
福居によれば,第五部定理二二というのは,主知主義的解釈や観念論的解釈が退けられた定理であり論証です。ここでスピノザがいいたかったのは.人間の身体の本性が,それ自身によって永遠であるということはあり得ず,それは神の本性という原因を通して永遠なのであるということだというのが福居の見解です。これはもっと一般的にいえる筈で,要するに個物の本性はそれ自体で永遠ではなく,しかし神の本性を通しては永遠であるということです。これ自体は記述から福居も肯定しているといえます。
福居がこのようにいうのは,スピノザ自身が証明で第一部定理二五を援用したことから妥当であるように僕には思えます。ただしそれは,僕自身の見解として説明したように,僕がそこから備考,系へと続く一連の流れは,たとえば個物の本性が,個物が存在するといわれるのと同じ意味で存在すると主張していると解するからです。ということは,福居も当該部分を僕と同様に解していることになるでしょう。
Kが自殺したと言わずに変死したと言ったのは,奥さんによる意図的ないい換えであったと僕は考えます。そしてこのいい換えを合理的に説明するためには,Kが死んだということは公言してもよいが,死因が自殺であったということは伏せておかなければならないという約束が,先生と奥さんの間にあったと解するのが最適だと考えます。このようにみれば上十四の奥さんの呼びかけのテクストも,先生がKが自殺したと言ってしまいそうに思えたのでそれをたしなめたというように解することも可能でしょう。
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ではこのいい換えは,私に対しては効果的だったのでしょうか。すなわちこのようにいい換えられることによって,私はKが自殺したというように認識することができなかったのでしょうか。
私の手記は事後の再構成なので,書いている時点ではKの自殺を私は知っているということが前提になります。私は先生が自殺した後に,すなわち先生の遺書を読んだ後で書いているという設定になっているからです。ですが,その時点でのことをいえば,僕はいい換えは私に対して効果的であったと考えています。
上二十四で,先生が私に対して不自然な暴力での死という話をするテクストがあります。私は不自然な暴力の意味が飲み込めず,先生に尋ねます。すると先生は,自殺する人は不自然な暴力を使うと答えます。私はそれで合点がいき,それなら殺されてしまうのも不自然な暴力になると言い,会話がもう少しだけ続きます。
私は,このときの会話はその場限りの浅い印象だけを残し,後には何も頭に残らなかったという意味のことを記しています。もしも私がKは自殺したと知っていたなら,たぶんそうはならなかった筈だと僕は考えます。いい換えは上十九ですからこれより以前のことです。すなわちKの変死をKの自殺とは私は解さなかったというのが僕の見解です。
一連の論述が,人間の精神が人間の身体より優越的であるとか,身体にはない特権を精神が有しているわけではないというのは,僕の見解であって,これに対して反論もあり得ることを僕は認めますし,そうした反論にも一理あると思います。同様に,事物の本性とはその事物が存在するという意味において形相的に存在すると解するのも僕の見解であり,事物の本性とは客観的有以外の何物でもないという解釈にもやはり一定の合理性があることも僕は認めます。
スピノザの哲学の解釈で,こうした部分に見解の相違が発生してしまうのは止むを得ないと僕は思っています。そこで,僕と同じように,この一連の論述は精神の身体に対する優越性や特権を意味するものではないという観点から主張されているものを,ひとつだけ紹介しておきましょう。僕のような見解がどのような道筋で導かれ得るのかということについて,僕とは別の論拠を示しておくことは,見解そのものについて大いに参考になると思われるからです。紹介するのは福居純の『スピノザ『エチカ』の研究』です。
まず福居は,第五部定理二二がどのように論証されるべきかを詳しく説明しています。他面からいえばそれは,スピノザによる証明には不備があると福居は考えていることになるでしょう。ただしそれは,福居にはこれ以降の一連の論述は,精神の優越性とか身体にはない精神の特権を意味するものではないと解釈するべきだという考えがあるので,それをよりよく示すために不備があるというように理解するのが妥当だと思います。いい換えれば,スピノザによる証明は,ただ第五部定理二二を論理的に証するという意味においては十分だと福居は考えていると解する余地があるでしょう。
僕自身についていえば,スピノザによる論証で第五部定理二二は十分に証明されています。そこで福居が何を根拠に論証するべきだと考えているのかという点についてのみ,簡潔に紹介するにとどめておきましょう。それはまず第一部定理二五で,これはスピノザも利用しています。続いて第一部定理二五備考ですが,これも定理の備考なので,とくにスピノザと相違はないといっていいでしょう。
第30回東京プリンセス賞。町田騎手がぎっくり腰のためエメンタールベルンは的場文男騎手に変更。ラッキーバトルが枠内で暴れて左の後ろ脚を負傷したため競走除外となり14頭。
ゆっくりとした発馬で4頭が一団でしたがその中で最も内にいたモダンウーマンが逃げることに。単独の2番手にハッチャンハッピー。向正面でワカチナが単独の3番手となってマテリアメディカ,エイシンリオ,スアデラの3頭は一団。直後のリンダリンダまでは先行集団。少しだけ差があってエメンタールベルンとオルキスリアン。ジャストゥラヴ,ドンナディヴィーと続きタケショウメーカーとコルディリエーラ。最後尾からポッドガゼール。とはいっても先頭から10馬身ほどで,ほとんど一団での競馬でした。最初の800mは51秒4のミドルペース。
3コーナーを回ってハッチャンハッピーは後退し,ワカチナが2番手に上がるとその外にスアデラが追い上げて3頭が雁行で直線に。これを目標に上がってきたリンダリンダは直線でスアデラの外に。4頭の競り合いは外の2頭の伸び脚がよく優勝争いは2頭に。最後は外のリンダリンダがスアデラも離して優勝。2馬身差の2着にスアデラ。最後まで競り合ったモダンウーマンとワカチナに大外から末脚を炸裂させたポッドガゼールも迫っての3馬身差の3着争いはしぶとかったモダンウーマン。ワカチナがハナ差の4着でポッドガゼールがクビ差の5着。
優勝したリンダリンダは転入3戦目で南関東重賞初勝利。北海道重賞は2勝していましたがそれはモダンウーマンが不在のレース。初手合わせからモダンウーマンには4連敗中でしたが,距離が伸びることがプラスになるのはこちらと思えたので,いずれは逆転もあり得るとみていました。それが1800mのここだったということでしょう。絶対能力はたぶんモダンウーマンの方が上で,また距離が短くなると勝てなくなるかもしれませんが,対応もできますので,同世代で走る限りは大きく崩れることは考えにくいと思います。セレタ系クリホマレの分枝。祖母の半兄に1989年に極悪馬場になったフェブラリーハンデを勝ったベルベットグローブ。
騎乗した北海道の桑村真明騎手は南関東重賞は初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師は東京プリンセス賞初勝利。
人間の身体humanum corpusが現実的に存在するといわれるのと同じ意味で,その人間の身体の本性essentiaも現実的に存在するといわれるという僕の解釈に依拠すれば,第五部定理二二でいわれている人間身体の本質は,神Deusの中にあるとされるそれを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaとして客観的にobjective存在するのではなく,形相的な意味においても存在しているものであり,しかしそれは神の中で永遠の相の下でも表現されるexprimunturことになるということになります。つまり人間の身体の本性が神の中にあるその観念と等置されているわけではなく,形相的にformaliter,しかも現実的にも存在する本性が,神の中では永遠の相の下に表現される,あるいは表現され得るということが主張されているのだと僕は解します。
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ただ,現実的に存在する人間の身体の本性とは,人間の精神mens humanaによっては十全に認識され得ないものです。あるいは人間の精神によっては概念され得ないものです。このゆえにそれは次の第五部定理二三では「あるものaliquid」とだけいわれて,何であるかは規定されていないのです。それは人間にとっては規定することができない「あるもの」なのです。ただ,人間の身体というのは人間の精神の現実的有actuale esseを構成する諸観念の対象ideatumですから,その「あるもの」が人間の精神の本性に属さなければならないということまでは,人間は推論によって明らかにすることができます。このゆえに第五部定理二三備考では,人間はおそらくは第三種の認識cognitio tertii generisによって,自分の精神が永遠であると感じたり経験することはできるといわれることになります。他面からいえばそれは,自分の身体が永遠であると感じたり経験したりすることはできないという意味であるのですが,これは前もっていっておいたように,人間の精神が何を第二種の認識cognitio secundi generisによって認識するcognoscereことが可能で,何を認識することは不可能であるかということによって区別されるのであり,精神の身体に対する優越性とか特権を意味するものではないと僕は考えます。むしろこのことは,人間の精神が有限finitumであるといわれるときの,ある限界点を意味するのであり,限定determinatioと否定negatioに一定の関連があることを考慮すれば,人間の精神の否定に近いというのが僕の考え方なのです。
第61回羽田盃。
ラクテが逃げると宣言していたのですが,思いのほか手間取り,何発か鞭を入れて強引にハナへ。2馬身ほどでアンサンブルライフが2番手。さらに2馬身ほどあって3番手はフォクスフォール。1馬身差でジャーニーマンが続き2馬身ほどでタービランス。さらに2馬身ほどでトロヴァオが続くというようにかなり縦長の隊列に。最初の800mは49秒6のハイペース。
ラクテは3コーナーで一杯。アンサンブルライフが先頭に代わりジャーニーマンが雁行。これらの直後にタービランス。アンサンブルライフもレースの前半はおそらく掛かっていたため直線に入ると息切れ。ジャーニーマンが先頭に立ってタービランスが並び掛けました。タービランスは余裕はあったようで騎手が後方を確認。そこから追い出されるとマークするように外から迫ったトロヴァオの追撃を凌いで優勝。クビ差の2着にトロヴァオ。2馬身差の3着にジャーニーマン。
優勝したタービランスは京浜盃からの連勝で南関東重賞2勝目。ここは力量は上位と思われましたが,昨日から外目の枠に入った差し馬の好走が目立っていたので,最内枠に入ってある程度は前にいくであろうと予想されたレースぶりがどう影響するか懸念していました。ばらける展開になったのはその懸念を払拭する要素になり得たと思います。外からの差しを凌いでいますから,着差以上の内容もあったものと思います。東京ダービーでも最有力候補になりますが,クビ差まで迫られたのも事実ですから,絶対視はできないかもしれないと思えました。Turbulenceは乱流。
騎乗した船橋の森泰斗騎手と管理している浦和の水野貴史調教師は京浜盃以来の南関東重賞制覇で羽田盃初勝利。
延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumとの間の区別distinguereは実在的区別です。そして人間というのは,延長の属性の個物res singularisとしての物体corpus,すなわち人間の身体humanum corpusと,思惟の属性の個物としての観念ideaあるいはその集積としての知性intellectus,すなわち人間の精神mens humanaが合一したものです。第二部定義二は,事物の本性essentiaというものが,概念されるものとしてだけあるのではなく,その事物が存在するといわれるのと同じ意味において存在するといわれるものとしてもあるということを示しているというのが僕の解釈です。ここから理解できるのは,人間の本性というものは,実はふたつの仕方で考えることができるということです。いうまでもなくそれは,人間の身体の本性と人間の精神の本性です。
このとき,人間の身体の本性と人間の身体の本性の観念が同一個体であるように,人間の精神の本性と人間の精神の本性の観念も同一個体でなければなりません。ふたつの平行論のうち,思惟の属性の中での平行論が成立しているということに注意すれば,これはそれ自体で明らかだといっていいでしょう。
人間の身体の本性の観念も,人間の精神の本性の観念も同じように思惟の様態cogitandi modiです。他面からいえば,僕たちは人間の本性をふたつの仕方で考えるconcipereことができるのですが,どちらの仕方であろうと,考えるのは精神であって身体ではありませんから,そうした観念というのは人間の精神の本性にのみ属さなければならないのであって,人間の身体の本性に属することはできません。ただスピノザの哲学においては,第二部定理七により,同一個体は原因causaと結果effectusの秩序ordoと連結connexioが一致するので,身体の本性の観念が精神の本性にのみ属するのだとしても,それが何か重大な問題を齎すようにはなっていないのです。僕が平行論的な帰結として,一般に事物の本性はその事物が存在するというのと同じ意味において形相的にformaliter存在すると主張するときには,こうしたことが何も問題を生じさせないということまで視野に入れていることに注意しておいてください。
人間の身体が現実的に存在するというのと同じ意味で,人間の身体の本性も存在すると僕が解する論拠については,これ以上は説明することはありません。
スピノザとバリングPieter Ballingの間の書簡で遺稿集に掲載されたものは1通だけ。それが書簡十七で,1664年7月20日付でスピノザからバリングに送られたものです。
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内容だけでいうと,この書簡が掲載されたのは意外に思えます。ただ,元々はオランダ語で書かれたものをスピノザがラテン語に訳し,それがラテン語版に掲載されたとのことで,スピノザが訳しておいたのだから掲載に値するのだろうと編集者が考えたのかもしれません。オランダ語版に掲載されたのは,スピノザのラテン語訳をさらに編集者がオランダ語に訳し直したものだそうで,原書簡ではないと解説されています。
この手紙を送る前に,バリングの子どもが死にました。バリングはそれを嘆き,子どもの死の前にその予兆があったということを手紙で伝えたようです。つまりバリングからスピノザに送られた手紙があったということもここで確定できます。ただそれは遺稿集には掲載されなかったのです。
バリングがいっている予兆というのが具体的にどういうものであったか,スピノザが書いていることだけでは判然としないのですが,そこでバリングがいっていることが,十全な認識に基づくものでなく,表象によって生じたものであることだけは確かだったといえます。あるいは迷信めいたものであったかもしれません。
そこでスピノザは,そうした表象というものがなぜ生じるのかということ,そしてバリングが認識した表象をなぜバリングが自分の子どもの死と結び付けるのかということを説明します。ここは哲学的な説明になっていて,もし掲載に値するということが内容によって判断されたのなら,この部分がその理由でしょう。他面からいえば,単にスピノザがバリングに慰めのことばをかけただけであれば,掲載はされなかったかもしれません。
表象像の連結がどう生じるかは,『エチカ』でも説明されています。スピノザはここでその具体例に言及しているということは可能でしょう。
第二部定義二の意味は,事物の本性は,その事物の存在を定立するのであり,排除するものではないということでした。したがってある事物を個物に限定したときに,その個物の存在がその個物が様態となっている神の属性を表現するのであれば,その個物の本性もその個物が様態となっている神の属性を表現するのでなければなりません。そうでないとその個物の本性は,その個物の存在を排除してしまうか,排除はしないまでも存在を定立することはできなくなるからです。よって第一部定理二五系は,単に個物res particularisの存在だけが神の属性を表現するのではなく,そのres particularisの本性も同じように神の属性を一定の仕方で表現すると解するべきだという結論になります。
ところで,この第二部定義二というのは,それ自体で事物の本性は事物が存在するといわれるのと同じ意味において固有の存在を有していることを示していると僕は考えます。なぜなら,この定義の文言のうち,後半部分で,そのある物がなければそれが在ることも考えられることもできないようなもの,といわれているときの「それ」というのは,本性であると考えなければなりません。したがってスピノザはここでは,存在するものであると同時に概念されるものとして本性を定義していることになります。つまり第一部定理二五を論証するときのスピノザは,第一部定理一五を援用しつつ,本性が存在するということについては何も言及せず,本性が概念されるものとしてのみ言及していたのですが,この定義においては,本性が存在するものとしても概念されるものとしても言及しているのです。いい換えれば本性はそれ自体で形相的有として実在するものであり,客観的有すなわち観念としても実在するものであると言及しているのです。これが僕がスピノザの哲学においても事物の本性は事物の十全な観念を離れても形相的に存在すると解釈するふたつめの理由であり,また最大の理由となっているのです。
この解釈によれば,人間の身体の本性というのは,その観念すなわちその人間の精神と別に,形相的にも存在することになります。
昨日の高知記念の決勝。並びは小松崎‐菅田の北日本,杉森‐武田‐神山の茨城栃木,深谷に中村で村上と松岡は単騎。
深谷がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に村上,4番手に松岡と単騎のふたりが続き,5番手に小松崎,7番手に杉森という周回に。杉森は打鐘前のバックでようやく上昇。深谷は誘導を外して臨戦態勢。杉森は打鐘後のコーナーで深谷を抑えようとしましたが,さすがにこの段階では深谷も引けず,ホームで深谷と杉森の先行争いに。これは脚力の違いもあり,深谷が難なく制して突っ張り先行に。バックで村上が発進。後ろにいた松岡と自力に転じていた武田が絡む形になり,単騎の捲りになりました。先行争いで脚を使っていた深谷はさすがに一杯。捲った村上の優勝。深谷の番手からスイッチした中村が4分の3車身差で2着。立て直して追い込んだ武田が半車身差の3着。
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優勝した京都の村上義弘選手は先月の日本選手権から一開催を挟んでまた優勝。記念競輪は昨年5月の平塚記念以来で通算31勝目。高知記念は2004年に優勝していて12年ぶり2度目の優勝。このレースは杉森が叩きにいくのがあまりにも遅すぎましたし,叩きにいくときのスピードも不十分でした。深谷もあそこから引くわけにはいかず,成り行きで先行争いになってしまったのは止むを得ないでしょう。こうなれば別ラインの出番ですが,中で最もよい位置にいたのが村上でした。こういう展開もあり得るとみての位置取りであったかは分かりませんが,結果的にベストの選択に。最近は展開に恵まれるケースが多く見受けられ,こういう選手はしばらくはマークしておいて損はないものと思います。
スピノザは第一部定理二五備考の最後の部分で,この備考でいった事柄は後続の第一部定理二五系によってより明白であるといっています。
この系でいわれている個物res particularisを,思惟の属性の個物すなわち個物の観念に限定することができないのはいうまでもありません。これはさすがに見解の相違さえ生じ得ないだろうと思います。するとこの系でスピノザがいっているのは,どんな属性のres particularisも,一定の仕方でそれが様態となっている属性を表現するということだと解さなければなりません。そしてそれは単にres particularisの存在が一定の仕方で属性を表現するのではなく,res particularisの本性も一定の仕方で属性を表現するということです。そういう意味に解釈しないと,これによって第一部定理二五備考で説明された事柄が明白になるといえないからです。ところで,もしもres particularisの本性がその属性を一定の仕方で表現するなら,それはそのres particularisが存在しているからにほかなりません。つまりres particularisが事物として存在するといわれるのと同じ意味において,res particularisの本性も存在するといわれなければならないのです。
よって僕が解するところによれば,第一部定理二五,備考,系と続く一連の流れは,事物の本性が,事物が存在するといわれるのと同じ意味で存在すると主張しているのでなければ辻褄が合わないのです。このとき事物の本性は,どんな属性の事物にも妥当しなければなりません。したがって事物の本性はその事物の客観的有esse objectivumとは異なる何かとして,形相的な意味において存在するということをスピノザは認めていると僕は考えるのです。
このうち,事物の本性が,事物そのものが存在するといわれるのと同じ意味で存在するといわれなければならないということについて,僕は別の論拠もあると考えています。そしてそのことは,本性は形相的な意味においても存在すると僕が解するもうひとつの理由と大きく関係しています。
第76回皐月賞。
ミッキーロケットは立ち遅れ。ディーマジェスティは左によれるような発馬でした。先手を奪ったのはリスペクトアース。やや気負っていたと思えるリオンディーズが単独の2番手に。ジョルジュサンク,マウントロブソン,アドマイヤモラールの3頭が一団で続きこの後ろのエアスピネルまでが先行集団。アドマイヤダイオウが少し離れて中団馬群の先頭。ドレッドノータス,サトノダイヤモンド,ロードクエストと続いてウムブルフとナムラシングン,プロフェットとディーマジェスティまで差がなく続きました。後方に控えたのはミライヘノツバサ,マカヒキ。後手を踏んだミッキーロケットがいて,トーアライジンはぽつんと取り残されました。最初の1000mは58秒4で,最も落ちたラップが800mから1000mにかけてですから超ハイペースといっていいと思います。
3コーナーを回るとリスペクトアースは一杯になりリオンディーズが単独の先頭に。追ってきたのはマウントロブソンとエアスピネルの2頭。さらにその外へサトノダイヤモンドでナムラシングン,ディーマジェスティも追いついてきました。ディーマジェスティは坂の辺りで一旦はスピードが鈍ったかにみえましたが,そこからまた再加速。内で競り合う馬たちを尻目に一気に抜け出し優勝。離れた大外から追い込んだマカヒキが1馬身4分の1差で2着。サトノダイヤモンドが1馬身4分の1差で3着。リオンディーズは4着入線でしたが直線の半ばで外によれてしまい,裁定の結果,エアスピネルが4着,リオンディーズが降着の5着で確定しています。
優勝したディーマジェスティは共同通信杯を勝ってここに直行。2着を2回続けた後,初勝利を挙げて4戦目で重賞制覇でしたから,例年なら上位に支持されていい馬。今年はレベルの高いレースを続けていた馬がいたため,横の比較で軽視されていました。2着から5着までが能力が高いことが判明していた馬たちで独占されたレースですので,この馬もそれと同等か,あるいはそれ以上の能力があったということでいいのではないでしょうか。今後の活躍も約束された内容であったと思います。父は第65回を制したディープインパクトで父仔制覇。祖母の半兄に1997年のマイラーズカップとセントウルステークスを勝ったオースミタイクーン。
騎乗した蛯名正義騎手は昨年のエリザベス女王杯以来の大レース制覇。第74回以来2年ぶりの皐月賞2勝目。管理している二ノ宮敬宇調教師は一昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース制覇。皐月賞は初勝利。
形相的に存在するどんな事物も知性は概念することができるというテーゼ,逆に知性が矛盾なく概念することができる客観的有すなわち観念の対象は必然的に観念の外に形相的に存在するというテーゼは,スピノザの哲学においては成立しているというのが僕の考えです。スピノザの哲学の根幹をなす平行論は,その両方のテーゼを是認しなければ成立しないと考えるからです。これでみれば分かるように,仮に事物の本性というものが知性に認識されることによってしか知られ得ないものであるとしても,知性がそれを十全に概念することができる以上,その本性というものは形相的な意味においても存在するといわなければならないと僕は考えるのです。ただしこれを僕は平行論からの帰結として主張しているのであって,唯物論的な考え方の下に主張しているのではないということには十分な注意を払っておいてください。そしてそのことに注意するなら,スピノザは本性が形相的な意味において存在するのか,観念すなわち客観的有としてのみ存在するのかという二者択一に対して,確たる見解をもっていなかったし,それをもつ必要もないと考えていたと僕が推測する理由も分かってもらえると思います。そのどちらかの立場を選択するということ自体,唯物論か観念論に肩入れする見解と受け止められる危険性がありますが,スピノザはそのどちらも誤りであって,平行論の観点からこれは解決されなければならないと考えていたと思われるからです。
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とはいえ,ここでは人間の精神が人間の身体に対して優越的であったり特権を付与されていたりはしないという見解を僕が有していることの説明をすることが目的になってるのであり,事物の本性あるいは人間の身体の本性というものが認識されるものとしてのみあるのか,それとも形相的な意味においても存在するといえるのかということは,そのこと自体が目的なのではなく,僕の見解を示すための方法のひとつにすぎません。僕が特権を与えられていると考えている人間の本性が,人間の身体が存在するといわれるのと同じ意味で存在するということの説明としてはまだ不十分なので,もう少し検証を続けていきます。
第18回中山グランドジャンプ。
ティリアンパープルは立ち遅れ。サナシオンが先手を奪い,リードを広げていきました。最初はワンダフルワールドとブライトボーイが併走で続きましたが,ブライトボーイが単独の2番手に。オジュウチョウサンが3番手になり,ワンダフルワールドはその後ろに。ビコーピリラニ,メイショウアラワシの順で続きました。後ろは隊列の変化があったものの,前の3頭はずっとこの順番のまま。大竹柵でウォンテッドは落馬しました。
最終の向正面でサナシオンのリードは2馬身ほど。ブライトボーイから4馬身ほどの3番手にオジュウチョウサン。3コーナーを回るとブライトボーイは苦しくなり,オジュウチョウサンが上がってきて2番手に。サナシオンは直線の最後の障害のところまで先頭を譲らず,飛越した後でまた少し差を広げたのですが,坂を上ると追ってきたオジュウチョウサンが離れた外を勢いよく伸び,サナシオンを交わして優勝。サナシオンが3馬身半差で2着。9馬身差の3着は接戦になりましたが,最内から脚を伸ばしたメイショウアラワシがこの争いを制しました。
優勝したオジュウチョウサンは平場のオープンは2勝していましたが重賞はこれが初勝利。今年は出走に至らなかった有力馬が多く,このメンバーではサナシオンの力量が抜きん出ていました。これをうまくマークできたのが勝因。サナシオンはブライトボーイに楽をさせてもらえないような展開になったのも厳しかったですし,本質的には距離も長すぎるように思われ,その隙をついての優勝といえるのではないでしょうか。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。1つ上の全兄に2013年のラジオNIKKEI賞を勝っている現役のケイアイチョウサン。
騎乗した石神深一騎手はデビューから15年あまりで大レース初制覇。管理している和田正一郎調教師は開業から7年弱で重賞初勝利を大レースで達成しました。
スピノザの哲学の範疇ではあまり意味がない説明をするのには理由があります。たぶんこのような説明をすることによって,ここで何が問われているのかということが明確になると思うからです。
一般的にはAが存在することによってそれが認識されるというのは唯物論とか実在論的な考え方です。これに対してAは認識されることによってその存在が知られるのであり,その認識なしにAが存在するということを主張するのは意味がないことだと考えるのは認識論とか観念論といわれる思考法です。つまり本性が知性による認識と無関係に知性の外に実在するというのは前者であり,本性とは認識されるものであるとするならそれは後者であることになるでしょう。
僕の説明では,僕が前者の立場を選択したというように解されると思います。ですが僕の考えはそうではないのです。このどちらの立場を選択するのかということ自体が,スピノザの哲学では無意味なのだというのが僕が主張したいことなのです。僕はスピノザはこの点について確たる見解を有していなかったし,確たる見解を有する必要はないと考えていたのではないかと思っていますが,その理由は主にこの二者択一がスピノザの哲学では無意味であるからという点にあるのです。
第二部定理七系の意味は,神のうちにある観念はすべて十全であるということでした。『エチカ』の後続の論証でスピノザがこの系を援用するとき,スピノザはそれを示すために訴求しているからです。ですが僕の考えでいえば,この系は本来的にはもっと強い意味を有しているのです。それは,もしもある事物が形相的に存在するのであれば,その事物の客観的有すなわち観念もまた必然的に存在するということであり,逆にある客観的有すなわち観念が矛盾なく認識されるのであれば,その観念の対象となっている事物は,知性の外の形相的有としても必然的に存在するということです。
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なお,僕がここで事物の客観的有といういい方をするのは,それを理性の有と区別するためです。理性の有は実在的有すなわち観念ではありませんから,その対象となっているものが形相的に実在するということはありません。