スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

続・谷津の雑感⑨&世界の原因

2025-01-22 10:23:32 | NOAH
 でいった東京都体育館での一件についての馬場に対する進言について,谷津は次のように説明しています。
 このシリーズの終了後に谷津は全日本を退団してSWSに移籍したわけですが,この日の時点でそれはもう決定していました。これは馬場が知っていたかどうかは別であって,谷津にとっては決定していたということです。馬場はもしかしたらそれに感づいていたかもしれませんし,むしろ何も知らず,次のシリーズ以降も谷津は出場し続けると思い込んでいたかもしれません。どちらであるかによって馬場の対応は変わってくる筈なので,この点は重要なのですが,不明なので仕方がありません。
 谷津は全日本でお世話になったので,移籍するにあたって置き土産を残したいと考えました。そこで馬場に,天龍源一郎が退団したのでタイガーマスクのマスクを取った方がいいのではないかと進言したそうです。このとき全日本のブッカーはザ・グレート・カブキが務めていました。これは重大な事案,というのはタイガーがマスクを外せばその後の全日本のリング上での出来事が変じてくるので,馬場の一存では決められず,馬場はカブキに相談したそうです。するとカブキがいいのではないかと言ったので,そういう方向に進んだというのが谷津の説明です。
 カブキもすぐにSWSに移籍したのですが,この時点ではそれが決まっていて,谷津もそれを知っていたそうです。このことについては馬場はたぶん知らなかったのだろうと推測できます。カブキがブッカーを務めていたということについて谷津がここで噓を言う必要はありませんから,これはたぶん事実だったのでしょう。なのでこの件について,馬場がカブキに相談したというのも事実であったのだろうと僕には思えます。しかしもしもカブキが退団するということを馬場が知っていたとすれば,この時点でカブキにそのような大役を任せるわけがありません。なので谷津の場合とは異なり,カブキについては,SWSに移籍することが決まっているということを馬場は知らなかったと確定してよいのではないでしょうか。

 同一の本性essentiaを有するものはそのものが存在するために外部に原因causaを有するわけですが,第一部公理四により原因の認識cognitioは結果effectusの認識を含むのですから,原因さえ正しく認識するcognoscereことができるなら,吉田が示しているような集落に20人の人間が現実的に存在しているという結果も正しく認識されることになるでしょう。したがって,原因,原因の原因,その原因というように無際限に辿っていけば,この結果を正しく認識することができるというのが論理的な帰結になります。そしてその論理的帰結がこの集落が現実的に存在している原因であることになります。
                       
 ここでは集落が例として挙げられていますが,これはもっと大きな集団と規定しても同じ論理的帰結となります。したがって,現にこの世界が存在している原因というのも,このように辿っていけば正しく認識することができるという論理的帰結となるのです。いい換えればこのような原因と結果の因果的連結の総体のことが,スピノザがいっているような世界であるということになり,他面からいえばスピノザは世界というものをそのように規定していることになります。ただし,この世界というものも,自己原因causa suiとして存在しているわけではありませんから,問題が解消されることになるわけではないのです。つまり,ある集落に20人の人間が現実的に存在しているかという問いと,世界はなぜ現実的に存在しているのかという問いは,本質的には同一であることになります。ではなぜ世界は存在するのでしょうか。
 デカルトRené Descartesはそこで世界の外的存在としての神Deusをもち出してくると吉田はいっています。ただこれはこの部分の講義がデカルトの部分から地続きになっている影響があると僕はみます。むしろ僕たちはこういう場合に神というものをもち出しがちなのであって,それがデカルトに特有のことであるというようには僕は考えないです。ただここでひとつ重要なのは,この神が世界に対しての外的な原因として設定されているという点です。こうした原因は超越的原因causa transiensといわれます。つまり一般にこのような仕方で神を世界の原因としてもち出すときには,神は世界の超越的原因と設定されているのです。
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天龍の雑感㉓&切断

2025-01-15 11:50:38 | NOAH
 天龍の雑感㉒で示した提案をジャンボ・鶴田に蹴られたので,天龍は熱い心に水を差されたような気持ちになったそうです。鶴田にしても自身が肝炎のキャリアであるということをこの当時は秘匿していましたから,なぜ流血戦を拒否しなければならないのかということの正確な理由を天龍には説明できませんでしたから,これは仕方がないところであったかもしれません。
 この試合を最後に天龍は全日本プロレスを退団しました。ただ,鶴田のことを気にしなくなったというわけではありません。天龍が離脱した直後の東京都体育館の試合でタイガー・マスクがマスクを脱いで素顔の三沢光晴に戻り,そのシリーズの最終戦で三沢と鶴田のシングルマッチがあったように,天龍が去った後の全日本プロレスのリングで鶴田が対戦するようになったのは三沢たちでした。天龍には鶴田が三沢たちの引き立て役に回ったように見えたようで,鶴田も自分を悟ってきたのかなと思ったし,もしそうであるならそれは遅すぎるとも感じました。と同時に,鶴田がそのような役回りをさせられるようになったという時代の流れも感じたそうです。天龍は全日本のリングでは鶴田に負けてたまるかという気概でプロレスをしていましたが,それは全日本プロレスを去り,鶴田と直接の対戦がなくなってからも同様で,鶴田に負けたくないという気概はその後もずっと持ち続けていたと言っています。これはおそらく天龍がプロレスラーとしてデビューしたときから鶴田のことを意識していたからであって,そういう気概というのはプロレスラーという仕事を続けていく以上は,天龍の精神のうちに自然と湧き上がるような情念であったのだろうと僕には思えます。
 鶴田がどこまで天龍のことを意識していたかは分かりません。ただ天龍がデビューした時点ではすでに全日本プロレスのトップクラスであった鶴田の天龍に対する思いは,天龍が鶴田に感じた思いほどには強くなかったでしょう。なので自然な感情の発露としては,鶴田は天龍が鶴田に感じるほどには,強い感情を天龍には抱いていなかっただろうと僕は思います。

 ここまでにみてきた親和性が,スピノザの哲学と主知主義の間にあると僕はみるのですが,吉田は前もっていっておいたように,主知主義的なDeusの理解から主意主義的な神の理解へという流れを断ち切ったのがスピノザだといっています。これはこれで一理あります。というのも,僕が説明したように,スピノザの哲学が主意主義と相容れることがないのは,スピノザの哲学では神に自由意志voluntas liberaが認められていないからであるのですが,それと同様に,スピノザは無限知性intellectus infinitusを思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態とみなしているので,それが神の本性essentiaを構成するものとはなっていないからです。いい換えればスピノザが理解する神は,意志も知性も有さないような神なのであって,これは主意主義的な神の理解ではないというだけでなく,主知主義的な神の理解でもないということになるでしょう。そしてさらにもう一点,スピノザがこの流れを断ち切ったキーポイントのひとつとして,吉田はコナトゥスconatusをあげています。なぜコナトゥスがこのことと関連してくるのか,吉田の探究を詳しく追っていきましょう。
                           
 まず吉田は「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」のうち,我思うという点,いい換えれば私が考えているということについてはスピノザは否定しないといっています。これを吉田は第二部公理二に訴求しています。この公理Axiomaを,私が考えているということ,スピノザの哲学において考えるconcipereというのは概念するconcipereという意味であって,これは精神の能動actio Mentisを意味するのですが,その精神の能動とだけ関連付けられるのかということに関しては僕は疑問を有さないわけではありません。ただ,考えるということが思惟するということの一部を構成しているのは間違いないのであって,現実的に存在するある人間が能動的に事物を考えるということについて,スピノザが否定するnegareとみることができないのは確実です。したがって,私が考えるということについては,スピノザは肯定しているといわなければならないでしょう。というのもこのことは公理として示されているのであって,公理というのはこれから開始する議論の大前提を構成するわけですから,私が考えるということは無条件の前提といえるからです。
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続・谷津の雑感⑧&分別

2024-12-14 19:04:25 | NOAH
 の最後のところでいったように,谷津は天龍源一郎阿修羅・原と組み,ジャンボ・鶴田と戦うようになった時代から,全日本プロレスのスタイルは,ひとつの試合の中でも物語を創作していくようなものになったといっています。そして天龍が全日本プロレスを退団し,三沢光晴が鶴田と戦うようになるとそれはさらにパワーアップされたといっています。天龍が退団した後,三沢がタイガー・マスクから素顔に戻った時はそのリング上に谷津はいました。谷津の雑感⑤で示したように,谷津はこれを馬場に進言したといっていて,その責任を果たすという意味もあったのでしょう。ですがこの直後に谷津も全日本プロレスを退団してSWSに移籍していますから,パワーアップした試合というのは谷津が体験したものではありません。逆にいえば退団後も谷津は全日本の試合を気にして見ていたということでしょう。
 その後で鶴田が病気で欠場となったため,全日本プロレスは,三沢,川田利明,小橋建太,田上明のいわゆる四天王の時代に入ります。谷津はこの時代のプロレスがマックスであったとしています。これ以上のプロレスはないとまで言っていますから,これは最大級の評価といっていいでしょう。このインタビューはおそらく2019年の初頭に行われたものだと推測されますが,その当時の新日本プロレスと比較しても,四天王プロレスの方が上だったと谷津は断言していますので,よほど四天王プロレスというのが谷津の好みに合致したプロレスであったのだと思われます。三沢や川田は身体はそう大きくはありませんでしたがヘビー級の体重はありましたし,小橋や田上は日本人のヘビー級のプロレスラーとしては大型の部類に入ります。そうした身体の大きな選手があのようなプロレスをやったからそれは究極だったというのが谷津の見解です。つまり谷津もまた馬場と同じように,身体が大きなことはプロレスラーとして重要だとみていたのでしょう。これはもしかしたら谷津が,デビューした後の時代にアメリカでプロレスをしていたことと関係しているかもしれません。それは身体の大きさの重要性が,アメリカにもまだ残っていた時代だったと思われるからです。

 カトリックが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の思想内容を問題視していたことは疑い得ないと思いますが,かつてその著者と親しく交際し,その後も疎遠ではなかった人物が司祭になることは事実として問題視されなかったのです。ですからカトリックの内部では,危険思想の持ち主と,危険思想の持ち主と親しくしている人物は,分けられていたと考えてよいでしょう。その程度の分別はローマトリックの内部に確実にあったのです。
                       
 なお,この書簡六十七の二に関しては,宗教的パンフレットのような形で公開されたのが1675年であって,実際にステノNicola Stenoがこれを書いたのは1671年4月のことであるとする説があります。『神学・政治論』が刊行されたのが1670年のことですから,この説によれば,実際に書簡が書かれたのはその直後であったことになります。この場合,書簡の中でいわれている今,すなわちステノがスピノザとは疎遠ではないと思っている今というのが,その時点まで前倒しされることになります。それでも実際に公開されたのが1675年であったのなら,1675年の時点でそれが公開されても内容は問題視されなかったということになりますから,カトリックの内部事情が変遷したというようには解さなくてもいいと思います。つまり書かれた時期がいつであったのかということは問わずに,1675年の時点でこの書簡の内容は問題視されていなかったと理解してよいと僕は思います。
 次に,書簡七十六では,アルベルトAlbert Burghとスピノザがステノについて語り合ったとされていますが,そのときにアルベルトはスピノザの数々の論拠について是認してくれたといっています。これは語り合われた内容というのが,ステノがカトリックに改宗したことに関連していて,かつスピノザがそれに反論するような論拠をアルベルトに対して語ったら,アルベルトはそれを肯定したという意味にしか解せません。これは書簡全体の文脈からしてそうでなければならない筈だからです。ということはその時点ではアルベルトはまだ改宗してなかったのは間違いありません。
 ステノがカトリックへの改宗を決意したのがいつであったのかということははっきりと分かりません。
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天龍の雑感㉒&スピノザとステノ

2024-12-02 19:10:41 | NOAH
 天龍の雑感㉑の続きです。
 天龍とジャンボ・鶴田は,1990年4月19日に横浜文化体育館でシングルマッチを行いました。この試合が天龍の全日本での最後の試合となり,SWSに移籍しています。この試合の前のことはいろいろな仕方で語られているのですが,僕は概ね以下のようなことがあったのだと推定しています。
 鶴田と天龍はこの当時,何度もシングルマッチを行っていました。そこでこの日の試合については,今までにはなかったような試合をしたいと天龍は考え,流血を伴なうような試合にしたいと思ったので,鶴田の了解を得るために,レフェリーであった和田京平を通してその旨を鶴田に伝えました。ところが鶴田はそのような試合にはしたくなかったので,それを断りました。和田にそれを伝えられた天龍は,その試合に対するやる気を失ってしまいました。この試合は鶴田が勝っているのですが,鶴田と天龍のシングルマッチとしては凡戦の部類に入ります。
 このことが天龍の全日本プロレスの離脱に直接的に影響したというようには僕は考えていません。たぶんSWSからの話はこの試合よりも前に天龍に届いていたと僕は推測しているからです。ただもしも鶴田が天龍の呼び掛けに応じ,天龍が満足できる試合内容で勝っていたら,全日本を退団することが困難になっていたかもしれません。
 鶴田が天龍の呼び掛けに応じなかったのは,天龍自身が推測しているように,すでにこの時点で鶴田は自身が肝炎のキャリアであるということを知っていたからかもしれません。鶴田がそれを知ったのは,長州力との初めてのシングルマッチが鶴田の負傷により流れ,そのときの詳しい検査によるものだったようですが,それが発見されたということは,たぶん馬場は知っていたのではないかと思いますが,ほかの選手には伏せられていました。なのでこのとき以降,鶴田は流血を伴なうような試合をすることは避けていたようです。これは万が一そうした試合によって相手にキャリアが感染するのを防ぐための鶴田の配慮だったと思われます。

 ステノNicola Stenoは1661年から1663年にかけて,ライデン大学に滞在していました。オルデンブルクHeinrich Ordenburgがスピノザを訪ねたのは1661年のことで,このときスピノザはレインスブルフRijnsburgにいたことになります。レインスブルフはライデンLeidenの郊外ですから,ステノとスピノザが友人になったのは,この時期のことであったと推定されます。
                            
 レインスブルフでスピノザが住んでいたのは,コレギアント派collegiantenであったヘルマン・ホーマンHermann Homanの家です。スピノザはこの家にカセアリウスJohannes Caseariusを寄宿させ,デカルトRené Descartesの哲学を講義しました。カセアリウスはライデン大学の学生であったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。後にこの講義がまとめられて『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』として出版されるのですが,この出版が1663年です。ですからこの時代にライデン大学に滞在していた人,というのは教授も学生も含めてということですが,その中にはスピノザと知己だった人が少なくないと思われます。ナドラーSteven Nadlerは,スピノザはライデン大学の関係者であったわけではないけれど,講義のいくつかを聴講していたと推定していますから,もしそれが事実であれば,ライデン大学に滞在していたステノとスピノザが友人になることも不自然ではないでしょう。
 もっともこれは友人となる契機のことであって,スピノザがステノと友人であったということは歴史的事実として確定させることができます。スピノザがアルベルトAlbert Burghに宛てた書簡七十六の中で,かつてアルベルトとスピノザがステノについて語り合ったとされていて,このふたりがステノについて語り合うことができたのは,ステノがふたりにとっての共通の知人であったからにほかなりません。また,書簡六十七の二においては,ステノがスピノザのことを,かつて私ときわめて親しかったし,今でも疎遠ではないと思う方,と表現しています。この書簡はスピノザのことを論難することを意図したもので,そうしたものの中でわざわざこのようにステノがいっているのですから,スピノザとステノが親しい友人であったことについては疑う必要がないと思います。
 ステノは以前に親しかっただけでなく,今でも疎遠ではないといっています。
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杉浦貴&ナドラーの記述

2024-08-26 19:03:08 | NOAH
 ジュニアヘビー級の時代に金丸義信とタッグを組んでいた杉浦貴は,丸藤正道とともにNOAHを代表する選手のひとりです。
 杉浦は入門は全日本プロレスだったのですが,まだ練習生のうちにNOAHの旗揚げがあったため,そのまま移籍。2000年の暮れにNOAHでデビューしました。杉浦は高校卒業後に自衛隊の体育学校に入学。アマレスでオリンピック出場を目指した上で全日本プロレスに入門していますので,そのときすでに29歳でした。なのでプロレスラーとしては高校卒業後にすぐに入門した丸藤が先輩ですが,年齢は杉浦の方が上です。ふたりは互いを丸藤さん,杉浦さんとさん付けで基本的に呼び合いますが,それはこの事情によります。
 田上明の付き人でしたが,高山善廣に目を掛けられ,総合格闘技にも参戦しました。デビューしたときは無差別級で戦っていたのですが,その後に体重を落としてジュニアヘビー級でも戦うようになったという変わり種で,2003年にGHCジュニアヘビー級の王座を獲得したのが最初の戴冠。金丸と組むようになったのはこれより後で,2005年にこのチームでGHCジュニアタッグのタイトルを獲得しています。
 ジュニアヘビー級での戦いに区切りをつけたのは2006年。2007年に丸藤と組んでGHCタッグの王者に就いたのが無差別級での初戴冠となりました。GHCヘビー級の王者を初めて獲得したのは2009年の12月。相手は潮崎豪でした。この年はプロレス大賞の殊勲賞を獲得しています。そして翌2010年は年間にわたってこのタイトルを防衛し続け,プロレス大賞のMVPを獲得しています。結果的に2011年7月に潮崎に敗れるまで防衛を続けました。この間に14回の防衛を果たしていて,これは現在でもGHCヘビー級王座の最大防衛回数となっています。
 鈴木軍がNOAHで仕事をしている間にそちらのチームに加入していた時期はありますが,それを除けばずっとNOAH内のグループの主力として戦い続け,現在も丸藤とともにGHCタッグの王者に君臨しています。大きな怪我なくプロレスを続けているように,頑健な身体が支えているのだと思います。

 僕は『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』は,かなり信用に足りるスピノザの伝記だと思っています。その理由のひとつが,著者であるナドラーSteven Nadlerの記述にあります。ナドラーは史実として確定させられる出来事に関しては断定的に記述するのですが,そうでない出来事に関しては断定的な記述はしません。とくにいくつかの説が考えられる場合は,それらの説をすべて記述します。もちろんナドラーにはナドラーの考え方はあるのですが,自説を強調するようなことはしません。たとえばナドラーは,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の草稿を見せたと考えているのですが,伝記の中ではその自説に固執するわけではなく,ライプニッツはスピノザと面会するまで『エチカ』の内容をほとんど知らなかった可能性にも言及しています。
                            
 しかし吉田の研究をみると,ナドラーが断定的に記述している事柄の中にも,まだ史実として疑い得る事柄が含まれているということが分かります。このことは僕にとって収穫のひとつでした。だからといって『ある哲学者の人生』の信頼性が僕の中で揺らぐというわけではないのですが,ナドラーが断定的に記述している事柄であっても,そのまま信頼するのではなく,ほかの資料にもあたって確認する必要があるとはいえるでしょうし,スピノザの伝記の中で史実として書かれている事柄の中に,今後の研究の成果によって書き換えられることもあり得るということは銘記しておかなければならないのだと思います。
 吉田の論考に関してはこれだけですが,ことのついでですからここでコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにおいて,スピノザの死後の出来事として記述されていることをもう少し詳しく調べておくことにします。その中にはいくらかの疑問が残るところがあるからです。ただしこれは,あくまでも調査するということなのであって,史実に関して何らかの結論を求めようとするものではありません。というか,実際に歴史的にあった出来事が何であったのかということを確定させるのは無理だともいえます。ですから,ここでの中心は,コレルスの伝記の該当部分に書かれている事柄の中に,どのような疑問を発見することができるのかということになります。
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丸藤正道&2023年11月の通院

2024-08-12 18:58:35 | NOAH
 KENTAはパートナーとしても対戦相手としても,丸藤正道と名勝負を数多く戦っています。丸藤について改めて詳しく紹介しておきましょう。
 丸藤は全日本プロレスでデビューした選手。1998年8月のことで,相手は金丸義信でした。馬場は翌年の1月に死んでいますので,馬場が生きていたときに全日本プロレスでデビューした最後の選手です。入門はこの年の3月,高校を卒業した時点でしたので,短期間でのデビュー。これは高校時代にアマレスの経験があったことが関係していて,三沢光晴と似通っています。その後,三沢の付き人になりました。
 2000年7月のNOAHの旗揚げで移籍。初の戴冠は2001年の12月で,GHCジュニアヘビー級の王座でした。ところが翌年に左膝の靭帯を負傷して欠場。このあたりの経歴も三沢によく似ています。
 2003年に三沢の付き人を卒業。同時にKENTAと組むようになりました。7月にKENTAとのタッグで新設されたGHCジュニアタッグの初代王者に。この翌年には秋山準に勝ち,GHCのハードコアクラウンの王者にもなっています。このタイトルはその後に封印されましたが,最近になってマンデーマジックのタイトルとして復活しました。
 無差別級の真の意味での初戴冠といえるのは2005年の6月で,これはGHCタッグ。パートナーは鈴木みのるでした。翌年の1月にKENTAに挑んだGHCジュニアヘビー級選手権で負けたのを最後に,ジュニアヘビー級の試合からは離脱。9月に秋山を破ってGHCヘビー級の王者に。この後,この年のプロレス大賞のベストバウトに選出されたKENTAとの防衛戦は勝ちましたが,2月に師匠にあたる三沢に敗れて失冠しました。
 丸藤はこの頃から現在まで,杉浦貴と共にNOAHの中心選手として戦い続け,他団体も含めて数々のタイトルを手中にしています。海外での評価もとても高い選手で,日本プロレス界全体の中でもその時代を代表する選手のひとりといえるでしょう。

 11月17日,金曜日。妹の歯科検診でした。右上に歯周病が発生するおそれがあると告げられました。
 11月19日,日曜日。妹をグループホームに送りました。
 11月20日,月曜日。妹の受給者証の申請書を区役所に送付しました。16日にコピーした妹のグループホームの家賃は,この申請書に必要な書類のひとつでした。
 午後は内分泌化の通院でした。
 病院に到着したのは午後2時25分でした。中央検査室では採血を待っている患者がいませんでしたので,すぐに採血をして,採尿をしてから注射針の処理をしました。
 診察が開始となったのは午後3時5分でした。HbA1cは7.5%でした。10月よりも上昇していたのはこの間の血糖値の平均値が高くなっていたからです。何度もいっているように,これはおそらく気候の変化の影響だったと思います。ただこの時点では対処しなければならないほどの高血糖はみられませんでした。ですからインスリンの注射量は変更せず,そのまま様子を見るということになりました。
 この日はこれ以外に,アルブミンの数値が3.8g/㎗と,下限値の4.1g/㎗を下回るという異常が検出されていました。この異常は9月の通院のとき以来のことでした。
                     
 帰りに薬局に寄って処方されたインスリンと注射針を持ち帰らなければならなかったのですが,10月の通院のときにいっておいたように,それまで処方されていた薬局が閉店,正確には移転のために,新しい薬局を利用しなければなりませんでした。新しい薬局を決めるにあたって僕にとって最も重要なのは立地です。みなと赤十字病院の周囲にはいくつかの薬局があるのですが,そこは僕には候補には入りませんでした。というのは,もしも処方された分の薬剤の在庫がないために,後に取りにいかなければならないというケースが生じ得るのですが,その場合にはみなと赤十字病院の近くまで取りに行くというのは大変だからです。したがって,薬局は僕の家の近くか,僕の日常生活の圏内にあるということが僕にとっては最も重要で,これまで根岸駅の近くの薬局を利用していたのはそうした理由からでした。なので今回も同様にしたいと思っていました。
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続・谷津の雑感⑦&自然の秩序

2024-08-06 19:12:03 | NOAH
 で馳浩の話をした後で,谷津はインタビュアーから全日本と新日本の違いについての質問を受けています。インタビュアーは堀江ガンツ。日時は特定できませんが,2019年の1月か2月ではないかと思われます。つまりこの答えはその時点でのものと理解してください。
 谷津が全日本プロレスで仕事をするようになった頃は,全日本と新日本の違いが明確にあったと谷津は答えています。その頃はあったという答えですから,この話をしている時点ではその相違がなくなっている,あるいはなくなってきていると谷津は見ているわけです。基本的に新日本のプロレスが全日本に寄ってきたので,新日本と全日本の相違がなくなってきたというのが谷津の見方です。
 谷津が仕事をしていたころの新日本は,アグレッシブに次から次へと攻めていくことで強さを表現するプロレスで,機が熟したらフィニッシュにもっていくというスタイルで,このスタイルは簡単だったと谷津は言っています。全日本の方はピンフォールの攻防を互いに繰り返し,一方が消耗したところでフィニッシュにするというスタイルで,このスタイルはやらなければならないことがたくさんあったとのこと。基本的に全日本プロレスの方がエンターテイメント性が高かったという評価です。
 全日本プロレスは基本的にチームで戦うので,たとえば今日は組んで明日は戦うというようなことがほとんど生じません。このためにマッチメークは画一化しがちで,そのマンネリを防ぐために,攻防のプロレスというスタイルを必要としたのではないかと僕は思っています。しかし谷津の考えはそれとは異なっていて,これを複雑化していく物語という観点から説明しています。トータルの物語とは別に,ひとつの試合の中でも物語を見せるというのが全日本プロレスのスタイルであったとする観点です。そしてその契機となったのは,長州力らが新日本プロレスに戻り,天龍源一郎阿修羅・原と組むようになったことだったと谷津は言っています。

 自然Naturaに共通の秩序ordoと知性の秩序ordo intellectusの相違をここでは気にする必要がないというのは,知性の秩序もまた広くみれば自然の秩序の一部だからです。僕たちが理性ratioに従って何ごとかを認識するcognoscereとき,それは僕たちが自然の秩序に従って事物を認識するとはいわれずに,僕たちの知性の秩序に従って事物を認識するといわれます。ただしこれは事物を十全に認識するのかそれとも混乱して認識するのかという観点からそのように分類されるのです。すなわち僕たちは知性の秩序に従って事物を認識すれば,その事物を十全に認識します。これに反して自然に共通の秩序に基づいて事物を認識すれば,その事物を混乱して認識します。
 しかしながら,僕たちが事物を十全に認識するのも混乱して認識するのも,広い意味で自然の秩序の下で発生するということは同じです。他面からいえば,僕たちは知性の秩序によって自然の秩序を超越することができるわけではありません。第四部定理四でいわれているように,僕たちが自然の一部分Naturae parsでないということは不可能なのであって,このことは僕たちが事物を十全に認識しようと混乱して認識しようと同じことだからです。あるいはこのことは,第二部定理三六からも明らかだといえるかもしれません。ここでいわれている必然性necessitasというのを,自然の秩序と解すれば,僕たちの知性のうちにある十全な観念idea adaequataも混乱した観念idea inadaequataも,同一の自然の秩序から発生するということになって,十全な観念を僕たちの知性のうちに発生させる様式も,広く自然の秩序の一部であるということになるからです。
                    
 このようなわけで,前もって結論としていっておいたように,自然の秩序を乱すというのは,実際に自然の秩序を乱している,つまり自然の秩序に反しているということではないのであって,自然の秩序をある秩序としてみる側からみたときに,その秩序を乱しているようにみえているということにすぎません。したがって,自然の秩序に従う人間と自然の秩序を乱す人間が存在するというようにみえるのは,それもまた謬見のひとつです。あるいは同じことかもしれませんが,自然の秩序というのを自分に都合よく誤って解しているということの証明なのです。
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天龍の雑感㉑&第一部定義七の援用

2024-07-30 19:19:51 | NOAH
 天龍の雑感⑳の後で,天龍はジャンボ・鶴田にとってプロレスラーになったことは人生において失敗だったのではないかという話をしています。これは風変わりな観点からのもので,僕にはちょっと面白く感じられました。
                    
 天龍はプロレスラーになる以前は,大相撲の力士でした。その力士を廃業してプロレスラーになったのです、このために,プロレスラーとして失敗はできないという強い思いがありました。天龍は幕内まで出世していて,大相撲でトップまでいったわけではありませんが,力士としては成功した部類に入ります。だからそれ以上の活躍をプロレスラーとしてなさなければ,笑いものとなってしまうというような気持ちをもっていたのだと推察されます。
 同じようなことは馬場にもいえます。馬場は将来を期待されて故郷を出てプロ野球選手になりました。しかし野球の世界では大成することができず,プロレスラーになりました。だからプロレスの世界でまた失敗したら,故郷には帰れないという思いを抱いていました。なのでプロレスラーとして絶対に成功しなければならないという強い思いが間違いなくあったのです。このように事情は異なりますが,馬場にも天龍にも,プロレスラーとして成功しなければならない理由というものがあったのであって,それがプロレス業界で成功する理由のひとつになったというように天龍は考えているのでしょう。
 しかし鶴田にはそのような事情はありませんでした。大学を卒業してすぐにプロレスラーになった鶴田は,プロレスラーとして絶対に成功しなければならないという強い思いをもつ理由はありませんでした。結果的には鶴田はプロレスラーとして大成功はしたのですが,プロレスで花を咲かせなければならないという強い気持ちから成功したわけではないので,泥にまみれるようなことをすることはできず,むしろ自制心の方が強く働いたのではないかと天龍は指摘しています。いい換えれば,絶対にこの世界で成功しなければならないというような強い気持ちをもっているとみられることが鶴田には恥だったのであって,そういう気持ちが鶴田の試合に表れてしまったと天龍はいいたいのです。
 これは鶴田評としては的確な面を含んでいると思います。ただ,そのことで鶴田が批判されなければならないのかといえば,必ずしもそうではないとも僕は思います。

 この部分の考察はここまでです。
 この後の第6章3節で國分は第一部定義七に言及しています。これについては國分が示している事柄を,事実として記述します。この事実は有用であると思われるからです。
 スピノザは第一部定義七で自由libertasを定義したのですが,後にこの定義Definitioをどう援用しているかを國分は調査しています。それによれば,『エチカ』においてこの定義が援用されるのは5回です。この5回のうち,第一部定理三二の証明Demonstratio,第一部定理三三備考二,第二部定理一七備考,第三部定理四九証明で第一部定義七が援用されるときの4回は,人間が自分自身を自由であると表象するimaginariのは錯覚にすぎないということをいうために消極的に援用されています。第一部定理一七系二で,Deusのみが自由原因causa liberaであるということをいうために第一部定義七が援用されるときのみ,この定義は積極的に援用されています。これらの事実から國分は,第一部定義七は自由を定義していて,これは,自由は必然と対立せず強制coactusと対立するということを示しているという観点から,『エチカ』の根本思想を示していると思われるといっているのですが,同時にこの定義は後の議論にはほとんど生かされていないといっています。
 このことについては後に別の機会を設けて僕の考え方を詳しく述べていきます。ただ,このようになるのはある意味では当然であるということだけをここでは示します。第一部定義七でスピノザが自由を定義するとき,これは僕がいう神的自由を意味するのであって,この自由は神だけに適用されます。したがってこの意味での自由を人間に適用することはできません。『エチカ』の中に神的自由が人間に適用されている部分がないというようには僕は考えませんが,それは現実的には存在しないものとして適用されるのです。したがって,人間についての自由を考察するためには神的自由によって考察することができないのであって,神的自由から類推されるような自由でかつ人間にも適用できるような自由,僕がいう人間的自由によって考察しなければなりません。なので人間の自由について論じる際には,第一部定義七を積極的に援用することは不可能なのです。
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KENTA&自己の利益

2024-07-22 19:02:39 | NOAH
 潮崎豪は2006年1月に試合中に大けがを負いました。このときに戦っていたのがKENTAです。
 三沢光晴が全日本プロレスの社長になった後のことだったと思いますが,全日本プロレスは初めてのオーディションを行ないました。そこに参加して合格。全日本プロレスの練習生になりました。2000年3月にバトルロイヤルでデビュー。5月の丸藤正道との試合が正式なデビュー戦になりました。ところがすぐに三沢が全日本プロレスの社長を辞任して退団。NOAHの旗揚げがあり,KENTAもNOAHに移籍しましたので,実質的なプロレスラーとしてのキャリアはNOAHから始まったといえます。
 NOAHに移籍して小橋建太の付き人に。この頃はまだ小林健太でした。KENTAの前の付き人が金丸義信で,KENTAの後任になったのが潮崎です。KENTAに改名してからのベルト初戴冠は2003年7月。丸藤と組んでのGHCジュニアタッグでした。ヘビー級でデビューした杉浦貴が体重を落としてジュニアヘビー級でも戦うようになり,丸藤,KENTA,金丸,杉浦の4人で多くの名勝負を戦っています。
 GHCジュニアヘビー級のシングルの王者になったのは2005年7月で,これは金丸から奪取。翌年の1月にシングルマッチで丸藤から初勝利をあげました。その年の6月に杉浦にベルトを奪われています。ただこの頃から無差別級であるヘビー級にも進出。先に実績を残したのは丸藤で,2006年9月に秋山準を破ってGHCヘビー級王者に。KENTAは初防衛戦の相手に指名され,この試合は敗れてしまったものの,プロレス大賞のベストバウトに選出されました。
 この後,石森太二がNOAHで仕事をするようになり,KENTAは石森と組むことが多くなったので,またジュニアヘビー級での試合が中心に戻りました。石森とのチームでも2008年にGHCジュニアタッグを戴冠しています。ただこの後は膝の怪我の影響があり,休養も多く,実績はあまり残せませんでした。
 2012年に復帰してからはヘビー級が中心に。この年の10月にGHCタッグの王者になり,翌年の1月にはGHCヘビーの王者にもなっています。シングルの王者は約1年ほど保持。2014年4月にNOAHを退団しました。

 このスピノザの主張は,僕たちの常識に照合させるとあまりに不自然だといえるでしょう。僕たちは自分がされて嫌なことは他人にもするなと教えまた教えられるのであって,他人がされて嫌なことを自分にもするななどとはいうこともないしいわれることもないからです。しかしここでスピノザが自己の利益suum utilisの方を重視してこのようにいうのは,人間というのは自分のことをよく知っていなければ,あるいは同じことですが自分のことを正しく認識していないならば,他人がされたら嫌なことを自分にはしてしまうものだからだと國分はいっています。だから逆にいえば,自分を正しく知るということ,あるいは自分の現実的本性actualis essentiaすなわちコナトゥスconatusに従って自己の利益を追求することが重要なのです。それが有徳的であるということを意味するのです。これは徳virtusの規準が自分自身にあるという僕の結論に一致しているといえるでしょう。スピノザは第四部定理五六を証明するにあたって,自分自身を知らない人間は一切の徳の基礎を知らない人間であるという意味のことをいっているのですが,これは自分自身を知らない人間は,この定理Propositioでいわれている高慢superbiaや自卑abjectioといった受動感情に容易に囚われてしまうという意味なのです。
                                   
 ところで,この定理は一般的な規則として十分に成立します。しかしそれを僕たちはどのように具体的に適用するのでしょうか。たとえば高慢な人間に自分は出会ったことがあるか否かということや,自分自身が高慢という感情affectusに隷属したことがあるのか否かといったことは,自分自身の経験を,一般的な規則から理解することができたときです。だから第二部定理二四は,単に有徳的に働くagereということを,理性ratioの導きに従って行動し,生活し,自己の有esseの維持することだといわずに,それを自己の利益の原理に基づいてすることだとスピノザはいっているというのが,國分の指摘です。ただこのことは,第二部定理三七にあるように,理性による認識cognitioの基礎となる共通概念notiones communesは,個物res singularisの本性essentiaを構成しないということからも示すことができるでしょう。現実的に存在する人間の精神mens humanaも身体corpusも個物であって,理性だけで認識できるのは一般的規則だけであるからです。
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汎悪霊論&第四部定理二三

2024-07-18 19:16:33 | NOAH
 『悪霊』のスタヴローギンの告白の第一節の中で,スタヴローギンがチホンに,神を信じないで悪霊だけを信じることができるかを尋ねる部分があります。この部分を佐藤優は『生き抜くためのドストエフスキー入門』の中で取り上げていて,これを書いているときのドストエフスキーにはスピノザのことが念頭にあったのではないかと推測しています。
                                        
 僕はドストエフスキーがスピノザを知っていたとすら思わないので,これは牽強付会でないかと思いますが,このことについては別に僕の考え方を説明します。なぜ佐藤がこのことをスピノザと絡めて考えているのかといえば,それはスピノザの哲学が汎神論であること,あるいは汎神論だといわれていることと関連しています。スピノザの哲学では自然のうちに存在するのはそれ自身のうちにある実体と,実体のうちにある実体の変状としての様態だけですが,存在する実体は神だけなので,自然のうちに存在するものは神であるか,神の変状としての様態だけであるということになっています。スタヴローギンはそれに対して,実際には自然のうちに存在する実体は悪霊だけであって,悪霊以外のものはすべて悪霊の様態である,つまり僕たち人間も,神の様態などではなくて悪霊の様態であるという意味のことをいいたいのだと佐藤は解しているわけです。つまりスピノザの汎神論に対していえば,スタヴローギンは汎悪霊論を主張していると佐藤はみているわけです。
 スピノザの哲学を解釈する立場からみれば,この解釈はまるで成立しません。しかしそれは哲学的観点なのでまた別に考察します。哲学的には成立しませんが,文学評論としては成立するといえるでしょう。一般的には神と悪霊は相対立するものと考えられているのであって,汎神論というものが成立するのであれば,汎悪霊論というのも成立するとはいえるからです。そして人間が神の様態であるのかそれとも悪霊の様態であるのかという問いは,神と悪霊をそのような関係として解する限りでは文学的にも十分にあり得る問いだといえるからです。

 virtusの規準は自分自身にあるわけですが,だからスピノザの哲学においては人間に共通の徳というものがないのかといえば,そういうわけではありません。これは再三にわたっていっていることですが,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従っている限りではすべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致するからです。したがって,たとえばAという人間が現実的に存在するとして,Aの徳の規準はA自身ではありますが,その徳の第一にして唯一の基礎であるAのコナトゥスconatusは,たとえばその他の人間であるBが理性に従っている限りでは,Bのコナトゥスに一致するでしょう。このことが現実的に存在するすべての人間に妥当するわけですから,現実的に存在する人間のコナトゥスは,人間が理性に従っている限りでは一致することになり,したがって徳の何たるかも一致することになるのです。第四部定理四系は,こうしたことが現実的に生じるということについては否定しているといわなければなりませんが,少なくとも論理的には,すべての人間にとって共通の徳があるということになります。
 ただし,このことは,主体の排除と関連させていわれると僕は考えます。すなわち,理性に従って事物を認識すれば,だれがそれを認識しても同一の認識cognitioに至るので,だれが認識しているかを問うことは無用であるというのと同じ意味で,人間に共通の徳は,だれが認識しても同じ徳であるからだれが認識しているか問う必要はないという観点から,人間に共通の徳があると結論されるべきだというのが僕の見解opinioです。なぜなら,理性に従うということ自体が徳であるという前提が,スピノザの哲学にはあるからです。これは第四部定義八から明らかであって,この定義Definitioからして,たとえば現実的に存在する人間が受動的な欲望cupiditasに隷属しているならその人間は有徳的であるといえないということになるでしょう。これは第四部定理二三で次のようにいわれています。
 「人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは,有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる」。
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続・谷津の雑感⑥&目的論の排除

2024-07-13 19:03:53 | NOAH
 続・谷津の雑感⑤の最後でいった馳浩のエピソードというのは次のようなものです。
 あるとき,ジャパンプロレスの主催興行が佐賀でありました。そのときに馳のウェルカムパーティーが催されました。馳は,酒が入っていたこともあり,本当はプロレス界に入ってくるつもりはなかったと言ったそうです。これはプロレス界が馳には低能の社会にみえたからのようです。もともとは馳は高校の教師だったこともあり,プロレスラーが思っていたよりも低能だったために,そのような社会に入ってくるつもりではなかったという意味の発言でした。馳は実際にそのように口に出したので,それを聞いていたある先輩レスラーから怒られたと谷津は言っています。谷津は見ていただけのようですが,いくら酔った上でのこととはいえ,そんなことを先輩に聞こえるように口に出すので,大丈夫かなと思ったそうです。
 馳は実際に高校で教師をしていました。当然ながらそれは大学を卒業したということを意味します。また学生時代にはアマレスでオリンピックにも出場しています。ですから新弟子としてプロレス界に入った選手たちとは,かなり異なった考え方をもっていたというのは事実だと推測されます。ただし,アマレスに関する谷津の馳に対する評価はかなり低いです。オリンピックにも出た選手なのでどれくらい強いのかと思って実際にやってみたことがあるそうなので,これは体験として谷津にはそう感じられたのでしょう。アマレスを経てプロレスラーになった選手の中で,アマレスが最も強かったのは谷津であるという主旨の,アマレス界の重鎮のことばがありますから,プロレスラーの中でのアマレスの強さでは谷津は傑出していたかもしれません。ただかつて谷津は谷津の雑感④でいったように,三沢光晴川田利明を指導したことがあり,その頃はスパーリングもできないほどふたりとも小さかったと言ってはいますが,弱かったとは発言していません。もちろん三沢も川田もオリンピックに出るような選手ではありませんでしたから,強さに対する事前の思い込みは馳に対するものの方が大きかったのは間違いないと思いますが,それでも谷津からみると拍子抜けするほどのものだったようです。馳はグレコローマンの重量級でオリンピックに出場していますが,他にいい選手がいなかったから馳が出場することができたのだろうというのが,実際に馳と戦ってみての谷津の結論です。

 スピノザがいうDeusの本性の必然性とは,第一部公理三でいわれていることにほかなりません。すなわち,一定の原因causaが与えられるならそこから必然的にnecessario何らかの結果effectusが生じなければならず,一切の原因が与えられないのであれば結果が生じることはないということです。よって第一部定理一六でいわれていることは,神という原因が与えられれば,無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものが結果として生じるという意味です。そして神の本性の必然性necessitate divinae naturaeとして含まれているのはこのことだけであって,ほかに何かが含まれていることはありません。
                                   
 このことは,スピノザが目的論を排除することと関係します。神の本性の必然性には因果律だけが含まれているのであって,目的finisは含まれていないからです。このことは,自然Naturaを神と変わらないものとして考える,あるいは同じことですが神の本性の必然性を自然法則と同じものとして考えるスピノザの立場からは,当然の帰結といえます。第一部付録でいわれているように,自然が何かの目的を立てるということはあり得ません。同様に,自然法則が何かの目的を達成するために組まれる法則であることもあり得ないからです。そしてこのことが神にも適用されるのですから,神が何かの目的を立てて働くagereということもあり得ないのです。
 スピノザのこの考え方は,第一部定理三三備考二でいわれていることからより明瞭に理解することができます。そこではスピノザは,神が自由意志voluntas liberaによって働くというのは誤りerrorであるけれど,神が善意によって働くというほどには誤っていないという意味のことをいっています。何度もいっているように,これは哲学史の中では,デカルトRené DescartesはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizほどには誤っていないということですが,このことは今は考慮しなくて構いません。現在の考察との関連で重要なのは,なぜデカルトはライプニッツほどには誤っていないといえるのかという点です。それは,デカルトの場合は神は自由意志によって何事をもなすので何か目的が含まれているわけではないけれども,ライプニッツの場合は神が善bonumという目的のために働くということになってしまい,神を善という目的に従属させてしまうからなのです。
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天龍の雑感⑳&理論と現実

2024-07-05 19:18:31 | NOAH
 天龍の雑感⑲として,馬場の指導についての補足をしましたが,ジャンボ・鶴田は身体が大きい選手でしたから,身体が大きな選手としての指導を馬場から受けていたのは間違いないものと思います。そうした指導のひとつとして天龍があげているのが,大技を無闇に使うなというもので,鶴田はそれを実践していたのだと天龍はいっています。それは鶴田にとっては損だったのではないかというのが天龍の見方であって,少なくとも一面の真理をついているのではないでしょうか。鶴田の人気が最も高まったのは,天龍が全日本プロレスを離脱した後,三沢光晴と戦うようになってからのことですが,三沢は身体が大きい選手ではありませんでしたから,沸点が高い状態が続くプロレスで鶴田に対抗するほかありませんでした。このときは鶴田もそれに合わせるような試合をするようになり,それが鶴田の人気を上昇させたという一面があったと思います。したがって,たとえば鶴田がもっと早い段階,たとえば長州力と戦っている頃にそのような試合をしていれば,その時点で鶴田の人気も上昇した可能性もあったのではないかと思います。
 天龍は逆に,鶴田が,あるいは不沈艦の名前も出していますが,必殺技を最後まで出さないスタイルの試合はファンには飽きられてしまうのではないかと思ったので,ゴングが鳴ったらすぐにスパートし,必殺技も出し惜しみしないようなプロレスを心掛けたそうです。ハンセンも確かにゴングと共にスパートをかけるタイプではあったのですが,必殺技のウエスタンラリアットを頻発するような試合は好まず,それを出したら必ず勝負が決着するという場面でしか使いませんでした。それが,鶴田のバックドロップの出し方とよく似ているように天龍には感じられたので,ふたりのスタイルを同列に語っているわけです。ただ逆にいえばそれは,そういう必殺技をもっている選手の宿命のようなものであって,たとえばハンセンがラリアットを頻発することによってより大きなファンからの支持を得られたのかといえば,僕には疑問が残ります。

 第三部定理六で自己の有suo esseに固執するperseverareといわれるとき,有というのは存在existentiaだけを意味するわけでなく,力potentiaのことも意味します。したがって,自然法lex naturalisによって与えられた力を自然権jus naturaeというのであれば,僕たちは自己の自然権に固執するコナトゥスconatusを有するのであって,よって自然権が拡大されることはこのコナトゥス,第三部定理七によれば現実的本性actualis essentiaに合致することになります。なので,多くの人びとが協力することによって自然権が拡大されるなら,僕たちの現実的本性はそれを選択することになるでしょう。そして,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従う限りでは僕たちの本性は一致するのですから,この限りでは僕たちは必然的にnecessario自然権の拡大のために協働するということが帰結します。いい換えればこの限りにおいては社会契約が常に履行される状態となるでしょう。ですから僕たちは理性に従っている限りでは,なるべく多くの人が,極端にいえば全人類が協働することを目指すことになります。第四部定理七三は,こうした論理の下に導出されるといえます。ここで自由libertasといわれるのは,人間の能動actioのことを意味しますが,理性に従っている限りでは僕たちは自由であり,かつすべての人間の本性が一致するのであれば,ここでいわれる共同の決定determinatioは,すべての人間の現実的本性に一致します。したがって僕たちは単に自身の理性に従っている限りでも自由ではありますが,共同の決定に従って自由であるときほどに多くの事柄をなし得るわけではありません。ですから多くの人間の共同の決定に従っている場合の方が,より自由であるということになるのです。
                                   
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で示されていることも,理論的にはこれに則しています。ただこれはあくまでも理論であって,現実的な世界にそのまま適用できるわけではありません。それはいうまでもなく僕たちは常に受動passioに隷属しているからです。他面からいえば常に理性的であるというわけではないからです。『神学・政治論』が国家Imperiumの形成のために宗教religioのようなそれとは異なる概念notioを必要とすることになったのは,そうした観点から受動状態にあっても理性に従っているのと同じ結果effectusを産出する必要があったからです。
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金丸義信&弁証法的展開

2024-06-28 19:01:01 | NOAH
 秋山準がNOAHを退団して全日本プロレスで仕事をするようになったとき,潮崎豪と同様に秋山についていった選手の中に金丸義信がいます。
 金丸は全日本プロレスに入団した選手です。高校時代は野球部に所属。春の甲子園に出場しています。全日本プロレスは日本武道館大会でサインボール投げをしていたのですが,金丸は高校時代の経験を生かし,2階席までサインボールを投げていました。僕はその時期の武道館大会はほとんど観戦していましたので,その当時は試合よりもその印象の方が強いです。
 デビューしたのは1996年7月。入門から1年半後のことでこれはかなり時間を要した方でしょう。全日本時代は小橋建太の付き人を務めていたことから小橋率いるバーニングに入り,後に秋山率いるスターネスに移りましたが,目立った実績は残せませんでした。
 NOAHの旗揚げと共にNOAHの所属選手に。2001年6月にGHCジュニアヘビー級の王者決定トーナメントに優勝。初代の王者になりました。この前にWEWタッグの王者にはなっているのですが,ビッグタイトルはこれが初。NOAHもヘビー級は無差別級という意味ですが,金丸はずっとジュニアヘビー級を主戦場に戦い続けました。2002年にIWGPジュニアタッグの王者になっていて,GHCジュニアタッグの王者にも2005年6月に就いています。このときはジュニアヘビーの王者でもありましたから,二冠になったことになります。
 2012年にNOAHを退団。全日本プロレスでも世界ジュニアヘビー級王者になっています。
 2016年に一旦はNOAHに復帰したのですが,所属選手にはならず,鈴木みのる率いる鈴木軍に加入。この間にまたGHCジュニアヘビー級の王者になっています。この年の暮れまでで鈴木軍はNOAHから撤退。それと共に金丸もNOAHでの仕事から離脱。それ以降は新日本プロレスで仕事をしています。
 NOAHのジュニアヘビー級では最も実績を残した選手ですし,NOAHのジュニアヘビー級では最強の選手だったと僕は思っています。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は社会契約論を利用して国家Imperiumの成り立ちを説明しているので,必然的な帰結として強権的な国家が出現することになると僕は考えています。ただ國分は,このことは『神学・政治論』の中でも解決されていないわけではないと指摘しています。ただその指摘を検討してく前に,次のことをいっておきます。
                                   
 そもそもスピノザは,国家が強権的な力potentiaで市民Civesを支配する政治形態を,好ましいものと考えていません。むしろスピノザが『神学・政治論』を書いたのは,そのような統治形態を否定しようとするためでした。このことは『神学・政治論』の冒頭から明らかなのであって,そこでは,哲学する自由libertas philosophandiを認めても道徳心や国の平和paxは損なわれないし,むしろ哲学する自由を踏みにじることによって,国の平和や道徳心も必ず損なわれるということを示した論考から『神学・政治論』は書かれているという意味のことが書かれています。つまりスピノザは哲学する自由を守ろうとしたのであって,それは現実的に存在する人間が自由に思考する権利jusを守ろうとしているというのと同じです。この頃のオランダはそうした自由あるいは権利が危機に晒されつつあったから,あるいは現に晒されていたから,スピノザは『神学・政治論』を書いたのであって,強権的な国家の正当性を保証しようというような気はスピノザには少しもなかったのです。
 すでに示したように,『神学・政治論』の第十六章の冒頭で,スピノザは自然法lex naturalisに基づく自然権jus naturaeを考察しました。それは宗教religioについて考えるのであれ,国家について考えるのであれ,その前提として自然権を考察する必要があるとスピノザが考えていたからです。その後にスピノザは社会契約論を導入して国家の成り立ちを説明し,結果的にこの章の中で,強権的な国家が出現することを結論付けています。しかし國分は,スピノザはこの結論を出した後で,次の第十七章にかけて,契約pactumという概念notioの弁証法的な展開をしているといっています。この國分がいう契約の弁証法的展開によって,スピノザ自身が社会契約論からの帰結事項を覆そうとしているのだと國分はみているのです。そしてそのポイントをふたつあげています。
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潮崎豪&分別

2024-06-20 19:12:15 | NOAH
 秋山準がNOAHを退団して全日本プロレスで仕事をするようになったとき,何人かの選手が秋山に追随してNOAHを退団して秋山と一緒に仕事をしています。そのうちのひとりが潮崎豪でした。
 潮崎はNOAHのオーディションに合格して入団した選手なので,以前の全日本プロレスからの移籍組ではなく,NOAH生え抜きの選手です。デビューは2004年の6月ですがこれはバトルロイヤル。翌月のタッグマッチが実質的なデビュー戦といえるでしょう。この試合で秋山と戦っています。
 翌年の1月から期待されている選手は必ずといっている組まれる番勝負が行われました。試合は7試合で全敗。この頃から付き人をしていた小橋建太と組むことが多くなっていきました。7番勝負が終わった後,8月に外国人選手を相手にシングル戦の初勝利をあげています。
 2006年の1月に試合中に大けがを負って欠場。6月に復帰。2007年に入って9月の日本武道館大会で三沢光晴とタッグを結成。この頃の三沢のパートナーは小川良成でしたから,この後のGHCタッグ王者決定リーグ戦は田上明と組んで出場。2008年4月に開催された第1回のグローバルタッグリーグも田上と組んで出場しています。なおこの頃の潮崎は海外遠征中で,グローバルタッグリーグの参戦は一時帰国してのものでした。
 正式に帰国して再びNOAHが主戦場となったのはこの年の暮れから。翌年のグローバルタッグリーグで三沢と組んで優勝しました。小川がジュニアヘビー級に主戦場を移したのは,潮崎の台頭も影響しています。優勝したのでGHCタッグに挑戦。その試合が三沢の最後の試合となりました。その翌日に秋山の欠場で組まれたGHCヘビー級王座決定戦を制してシングル初戴冠。この後も多くのタイトルを獲得しています。
 2012年暮れに退団しましたが,2015年11月から再びNOAHでの仕事を再開。翌年の5月にGHCヘビー級王座に復位し,6月にNOAHに再入団しています。
 紆余曲折ありましたが,NOAHでデビューしたトップ選手として,現在もNOAHで活躍中です。

 イエレスJarig Jellesに送った書簡五十の冒頭で,スピノザは自身とホッブズThomas Hobbesの間にある国家Imperium論の相違を説明しています。これが自然権jus naturaeに対する考え方の相違に焦点を当てています。つまりスピノザはホッブズに倣って,法lexと権利を概念notioとして分けるべきだと主張したのですが,ホッブズがそう主張したのとは異なった仕方でそういったのです。他面からいえば,法と権利を概念として分別するべきであるという点でホッブズとスピノザは一致しているのですが,ホッブズが先行した分別したその概念を,スピノザはそのまま受け継いだわけではなく,分別はしたものの違った仕方で分別したのです。『スピノザー読む人の肖像』では,その経緯が詳しく説明されています。
                                        
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第16章で,スピノザは権利を自然権として論述しています。まさにスピノザがホッブズとは相違があるといっているその点から論じているのです。スピノザがまずそこから論じていくのには理由があります。『神学・政治論』は宗教religioおよび国家に関する論説ですが,宗教について論じるのであれ国家について論じるのであれ,まず現実的に存在する諸個人が有する自然権がどのようなものかということを考察しておかなければならないとスピノザは考えるのです。
 國分はしかし,この考え方に奇妙な点があるといっています。というのもすでにみたように,権利というのは社会制度によって決定されているものであって,その制度が諸個人に対して何をしてよくて何をしてはいけないのか,あるいは何をすれば罪には問われず,何をすれば罪に問われるのかを決定しているのです。したがってこの制度の中でしてもよいと決定されていること,しても罪には問われないと決定されていることが権利として諸個人に与えられているのです。ところがスピノザがいっている自然権というのは,国家や宗教について考察するために前もって知られておかなければならない権利のことですから,これはいわば社会制度以前の権利であるといわなければなりません。この点が,スピノザがいっていることが奇妙に思える理由を構成します。いい換えれば,もしそれを奇妙と感じるなら,その原点はここにあるのです。
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続・谷津の雑感⑤&様式

2024-06-11 19:14:00 | NOAH
 でいったように,カンサスシティーで全日本プロレスの一行と面会した後,谷津は帰国し新日本プロレスでの仕事をするようになりました。長州力が率いる維新軍の一員だった谷津は,ジャパンプロレスに入り,1984年末からは全日本プロレスで仕事をするようになります。谷津は馬場とも面識があったわけですから,最初から受け入れてもらえたといっています。ただこの当時の新日本プロレスと全日本プロレスはライバル団体でしたから,ジャパンプロレス勢の中には全日本プロレスは嫌いだった選手もいたと谷津は言っています。カーンの雑感⑨でいったように,カーンは全日本で仕事をすることを歓迎していたので,谷津がいっているのはそれ以外の選手ということになります。
 ジャパンプロレスには若手も何人かいたのですが,とくにそうした若手たちは,新日本プロレスの道場で基礎を学んだということもあり,全日本プロレスの選手たちと練習をすることも嫌った選手が多かったようです。谷津が例外としてあげているのは馳浩で,馳は全日本プロレスの中に躊躇なく入っていくことができたので,馬場に気に入られたといっています。ただ,馳は入団は全日本プロレスではなくジャパンプロレスでした。ですからほかの若手たちが経験したような新日本プロレスの道場での洗礼というのは受けていなかったかもしれません。このことがあって,馳は馬場にはかわいがられたそうです。谷津は馳のこのような態度に関しては,権力者にかわいがられる術を知っているというように思えたのでむしろ怖かったといっています。全日本プロレスとの合同練習などには参加したくないと思っていたほかの若手の方が,純粋でかわいらしく思えたそうです。ただ,馳自身は馬場の指導が的確だったから馬場から学んだというようなことをいっていますので,これが権力者にすり寄るための技量であったのかどうかははっきりとは分かりません。一方,馳がプロレスラーとしてはインテリの部類であったのは事実で,そのことでほかの選手との間で問題になったことがあったそうです。

 第四部定理三五にある通り,僕たちは理性ratioに従っている限りでは現実的本性actualis essentiaが一致します。ですからたとえ第四部定理二五にあるように,各人がそれぞれ自己の有の維持に努めるconariとしても,それが他者の自己の有esseの維持を阻害することはありません。よってこの様式である人間が自己満足acquiescentia in se ipsoを感じたとしても,それで他者の現実的本性を阻害することはないのです。ところが第四部定理三四にあるように,各人は受動的であるときは相互に対立的であり得ます。必ず対立するというものではありませんが,対立的である場合もあります。つまり各人が受動的に自己の有を維持することに努めると,それが他者の自己の有の維持を阻害する場合が生じ得るのです。第三部定理九は,僕たちが混乱した観念idea inadaequataを有する限りでも自己の有に固執するperseverareといっています。これは,第三部定理一により,僕たちは受動的である限りにおいても自己の有に固執するというのと同じです。よってこの様式で僕たちが自己満足を感じたときは,それが他者の現実的本性を阻害することが生じ得るのです。このために第三部定理二六備考では,自己満足の一種である高慢superbia,これは第三部諸感情の定義二八から,受動的な自己満足ですから,スピノザの分類に倣えば自己愛philautiaの一種である高慢が,狂気と称されるのです。これは,自己満足が,能動的であれ受動的であれ,最高の満足であるとみなせば理解できると思います。受動的な自己満足は,それを感じる当人にとって最高の満足であるがゆえに,他者にとって最高の迷惑にもなり得るのです。
                                   
 第四部定理五七にあるように,高慢な人間は追従の徒あるいは阿諛の徒adulatorが現実的に存在することを好みます。したがって,高慢な人間と阿諛追従の徒は,各々が受動的ではありますが,各々の現実的本性を阻害するどころかむしろ向上させ合うでしょう。第四部定理三四で,現実的に存在する人間が受動的である限りでは相互に対立的であるといわれず,対立的であり得るといわれているのは,このような事情も考慮されているためです。ただ第四部定理五七でいわれているように,高慢な人間が憎むのは寛仁generositasの人ですから,やはり高慢は狂気といって差し支えありません。
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