1660年にファン・ローンJoanis van LoonとスピノザがライデンLeidenで交わした会話の中には,気になるものがあります。このときにスピノザは,数学的手段で方法を論ずる書物を書き始めているという主旨のことを言っているのです。
ここでいう数学的手段というのは幾何学的方法のことにほかなりません。スピノザが幾何学的方法で著したのは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を除けば『エチカ』だけです。なのでこの部分は,数学的手段の方を重視すれば,スピノザは『エチカ』を書き始めたというように解せます。ですが,『エチカ』は方法論というのとは違います。方法論の方を重視するなら,これは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と解する方が適切です。同時にスピノザは書き始めたこの書物のことを,私の最初の書物といういい方で表現し,さらにこの方法をほかの書物でも使うつもりだと言ったとのことなので,幾何学的方法が用いられているのが『エチカ』だけである以上,この発言が具体的に何を意味しているのかはとても難しいところがあります。
ローンはこの会話の後で,その後は,これはその書物が完成した後はという意味かと思われますが,どうするつもりなのかをスピノザに尋ねました、するとスピノザは,宇宙の全体を個人的な実験室として,あらゆるものを吟味していくつもりであると答えたとされています。『エチカ』の説明としてはこのスピノザの説明の方が的確のような気がします。ですから『エチカ』は,このときには企てられていただけで,書き始められてはいなかったという解釈も可能でしょう。ですが,幾何学的方法で著されているのは『エチカ』だけなので,実際には『エチカ』はすでに書き始められていた可能性も否定できません。たとえばスピノザは方法論という表現で『エチカ』の第一部を意味させようとし,第一部を書き終えたら第二部,第三部と書き続けていくつもりであると言ったのだという解釈は,この部分の会話の解釈として著しく合理性を欠くものであるとはいえないように僕には思えます。
なので,僕はこの時期に『エチカ』が書き始められていた可能性は除去しません。少なくとも『エチカ』を書く企てがあったことは間違いないと解します。
ファン・ローンJoanis van Loonによれば,1660年にローンがライデンLeidenに滞在したとき,スピノザの訪問を受けました。レインスブルフRijnsburgはアウデルケルクAwerkerkと違い,アムステルダムAmsterdamから遠かったので,レインスブルフに移住した後のスピノザは,それまでのようにアムステルダムを頻繁に訪れることは不可能だった筈です。このことは講読会が開催されるようになったことと関係があると思えます。というのは,もしスピノザと講読会のメンバーが頻繁に会えるならこういう会は必要なく,スピノザ自身に参加してもらえばよいからです。これは講読会のひとつの条件です。もうひとつは,この講読会は『エチカ』の草稿の講読会だったわけですから,講読会が始まった時点ですでに『エチカ』が書き始められていたのでなければなりません。
ローンはこのとき,ローンがライデンを訪れることをヘルマン・ホーマンHermann Homanから聞いたとスピノザが言ったと書いています。ホーマンはスピノザのレインスブルフでの滞在先の家主です。なのでこの部分のローンの記述は信頼性が高いといえます。そしてレインスブルフはアムステルダムからは遠いですが,ライデンには近いので,スピノザも気軽に訪ねることができたのです。よって1660年にはスピノザはレインスブルフに移住していたのであり,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがコレギアント派collegiantenだったがゆえにスピノザと出会ったとすれば,それ以前に出会っていたと考えなければなりません。 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには,スピノザが1677年に死んだとき,スピノザの葬儀のための費用を,シモン・ド・フリースのきょうだいが負担したと解せる記述があります。また1665年の一時期,スピノザはそのきょうだいの家に滞在しています。したがってスピノザはシモン・ド・フリースとだけ親しかったわけではなく,きょうだいたちとも親しかったのです。もしかしたらスピノザはアウデルケルクでスピノザに会った頃から,きょうだいとも会っていたかもしれません。スピノザをアムステルダムで世話したのはたぶんファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenですが,フリースは裕福でしたから,アムステルダムのフリースの家にスピノザが滞在することもあったかもしれません。
スピノザがユダヤ人共同体から破門されたのは1656年のことです。こういういい方が適切であるかどうかは分かりませんが,これはスキャンダラスな出来事でした。なのでスピノザはこの時点で少なくともアムステルダムAmsterdamにおいては著名であったと考えられます。ただし,このことはオルデンブルクHeinrich OrdenburgがレインスブルフRijnsburgまでスピノザに会いにいく理由とはなりません。オルデンブルクは情報収集屋といっても,知の情報収集屋であったのであり,面会する対象は知識人に限られていたからです。ですからオルデンブルクがスピノザと会った1661年には,スピノザは知の面でも有名であったと思われます。オルデンブルクはスピノザに面会するためにオランダを訪れたのではなく,オランダを訪れてからスピノザのことを聞き及び,わざわざ面会しにいったと思われるからです。
ユダヤ人共同体から破門されたスピノザは,一時的にアムステルダムにいることができなくなり,おそらくアウデルケルクAwerkerkに移りました。これは追放処分が出たからですが,実際にはスピノザはアウデルケルクとアムステルダムを行き来しながら暮らしていたと思われます。アウデルケルクでスピノザの世話をしたのはおそらくコンラート・ブルフで,アムステルダムでスピノザの世話をしたのはおそらくファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenであったと思われます。エンデンのラテン語学校でスピノザと知り合ったのがケルクリングDick Kerkrinkで,ケルクリングが学校に入ったのは1657年です。ですから1657年にはスピノザはまだアウデルケルクとアムステルダムを行き来する生活を送っていたことになります。
スピノザがいつレインスブルフに移住したか特定するのは困難です。ただし,なぜ移住先としてレインスブルフを選んだのかははっきりとしています。それはレインスブルフがコレギアント派collegiantenの拠点であったからです。スピノザはアウデルケルクに滞在しているときにトゥルプ邸で,コレギアント派の人たちと知り合いました。シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesはコレギアント派で,その関係でスピノザと知り合ったと思われます。なので遅くとも1660年には,スピノザとフリースは知り合っていた筈だと思われます。
任意の定義Definitioが含まれてもよいということ,いい換えれば唯名論的な定義が公理系の中に含まれてもよいということが,スピノザがパスカルBlaise Pascalから受けた影響の最大のものであったように思われます。というのは,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の中で創造される事物と創造されない事物に分類して定義論を展開したときのスピノザは,それが創造される事物であれ創造されない事物であれ,定義は定義される事物の本性essentiaを説明するのに役立つものであって,定義されることによってそれ自身が吟味の対象となるというようには考えていなかったふしがあるからです。このゆえに僕は,上野がいっているように,確かにスピノザは定義の理念を変更したのだと考えるのです。それはいってみれば,デカルトRené Descartesからパスカルへの移行ということができるのではないかと思います。
ただ,パスカルからの影響といっても,これは直接的なものではありません。スピノザは後に『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を出版したことからも分かるように,デカルトの著作は読んでいました。これに対してパスカルの著作を読んでいたという証拠はないようです。ただ,パスカルの定議論に準じた著作は読んでいて,そこから影響を受けたのだというように上野と近藤は発言しています。僕はここではこのことを,スピノザの人生に中の出来事と関連させて説明します。 書簡九は1663年3月にレインスブルフRijnsburgから出されました。つまりこのときはスピノザはレインスブルフに住んでいました。現行の『スピノザ往復書簡集Epistolae』の書簡一は,オルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたもので,これは1661年8月付です。この書簡の冒頭でオルデンブルクは,レインスブルフにスピノザを訪問したと書いています。
オルデンブルクというのはこの時点ではイギリスの情報収集屋のような役割を担っていました。その関係でオランダを訪問したのですが,わざわざレインスブルフまで足を運んだのはスピノザと面会するためです。つまり1661年の時点でスピノザはレインスブルフに住んでいたということが分かると同時に,すでにその時点でスピノザは,オルデンブルクが面会したいと思うほどの人物だったことになります。
書簡九を書いている時点のスピノザがどういう意図を有していたかを確定することは困難です。しかしその意図がどうであったとしても,これはあくまでも書簡八への解答としてスピノザは記述しているのですし,僕たちもそのことを踏まえた上で書簡九を読解していかなければなりません。すなわちこの書簡で展開されているスピノザの定義論は,書簡八で定義Definitioについて質問を受けたことを踏まえての定義論なのです。よってスピノザは,後にそれを公開するという意図を有していたとしても,それは不特定多数の読者を想定して記述しているわけではなく,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesを代表とする講読会のメンバーに向けて書いていると解さなければなりません。
なのでここで展開されているスピノザの定義論は,書簡八の中の定義に対する解釈に不備があったため,それを分かりやすく説明しているだけであるという可能性が残ります。要するに,ここで主張されている定義論は,必ずしもスピノザの哲学における定義論の核心をなすものではないのという可能性はあるのです。なぜなら書簡八における定義に関連した解釈上の不備というのは,スピノザの哲学の定義論の全体においては枝葉末節に属するものであったという可能性は否定できないからです。それでも解釈の上での不備があれば当然ながらスピノザはそれを無視したりはせず,定義を正しく解釈するための方法を示すことになるでしょう。書簡八と九の内容が実際にはそうであった可能性があるということは認めなければならないと僕は考えます。いい換えれば,上野はスピノザは定義の理念を変更したといっているのですが,実際には『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と書簡九をそのまま比較するとそのようにみえているだけで,『知性改善論』における定義の基本的な理念は,何ら変更されてはいないという可能性があると僕は考えます。ただしこの解釈には注意が必要です。というのはすでに僕が説明したように,『知性改善論』における定義論をそのままの形で解釈すれば,それはスピノザの哲学の全体の定義論としては妥当しません。僕がいうのは,『知性改善論』の定義論を『エチカ』で補完した上での定義の理念のことです。
書簡九は上野がいうスピノザが定義Definitioの理念を変更した後の定義論ですから,『エチカ』による補完の必要性は,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の場合に比べれば著しく減少します。なので仮に僕がここでのスピノザの主張をそのまま用いてスピノザの哲学における定義の要件を一般的に結論づけたとしても,さほど問題とはならないでしょう。
書簡九でも,スピノザは定義をふたつの場合に分けて個別に説明しています。ですがその分類のあり方が,『知性改善論』とはだいぶ違っています。スピノザは『知性改善論』では創造される事物と創造されない事物のふたつに分けて定義論を展開していました。これはいわば,何が定義されるのかということに重点を置いた分類といえます。いい換えればそこでのスピノザは,何が定義されるのかということが定義にとって最も重要なことであると考えていた可能性がとても高いということになります。ところが書簡九の分類は,その本性essentiaが不確かであるがゆえにそれを説明するのに役立つ定義と,それ自身が吟味されるために立てられる定義という区分になっています。したがってここでは,何が定義されるのかということによって分類しているのではなく,何のためにあるいはどのような目的で定義を立てるのかという観点から分類されていることになります。ということは,この時点でのスピノザは,何が定義されるのかということよりも,どのような目的で定義が立てられるのかということが,定義論においてより重要であると考えていた可能性が高くなるでしょう。上野が定義の理念をスピノザは変更したといっているのは,このことを意味しているのではないかと僕は思っています。これは定義とは何であるのかということが変更されたというよりは,定義は何のためにあるのかということが変更されたというべきで,それは定義の理念の変更といういい方で説明するのが最も適切であると僕には思えるからなのです。
ただし,書簡九の場合にはひとつだけ注意しておかなければならない点があると僕には思えます。それは,この書簡は講読会の参加者を代表してシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがスピノザに送った書簡八への返信であるということです。
もう一度,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で展開されている,創造されない事物の定義Definitioの要件を確認しておきましょう。
まず最初にいわれているのが,この定義は一切の原因causaを排除しなければならないということです。この原因というのが起成原因causa efficiensを意味しなければならないことはすでに示しました。ただしここでは,起成原因とはいわずに,事物が発生する原因といういい方をしておきます。
この要件と等置されているのが,自己自身の説明のために自己の本性essentia以外には何も要してはならないということでした。このふたつの条件が等置できるということは,このときのスピノザは,事物の本性はその事物が発生する原因を示すことはないと考えていた可能性が高くなります。
次にあげられている要件が,その定義が与えられれば,それが存在するか否かという問題が発生してはならないということです。ということはスピノザは,事物の本性はその事物の発生する原因を示すことはないのだけれど,その本性が与えられれば,それが存在するか否かという問題が生じないということはあり得ると考えていたと解する必要があるでしょう。 第一部定義一によって,本性が存在を含むessentia involvit existentiamもののことを自己原因causam suiといいます。自己原因が上述の要件を満たすように組み入れられるためには,自己原因はその事物が発生する原因ではないという解釈をするほかありません。しかしもしそうでなければ自己原因なしに,その本性が与えられればその存在が必然的にnecessario鼎立するような定義が存在するという解釈が必要になります。実はデカルトRené Descartesは,ある事柄が事物の本性に含まれるということを,その事柄がその事物について真verumであるという主旨の定義を立てることによって,後者の解釈が可能であるという議論を組み立てています。これは説明すると煩雑になりますのでここでは省略しますが,詳しいことは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理五を参照してください。
僕はここでのスピノザは,この議論に該当するような形で,創造されない事物の定義の要件を想定しているのではないかと思うのです。つまり,自己原因という概念notioを必要としないような仕方で定義論を展開していると考えるのです。