スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

発作&フランス語

2019-08-31 19:03:37 | 歌・小説
 『ドストエフスキイその生涯と作品』の中で埴谷雄高が『悪霊』について論じるとき,この作品の主人公であるスタヴローギンと同時に,キリーロフについて多くを語るのは,当然ながら埴谷が『悪霊』においてキリーロフが重要な登場人物であると考えているからです。多くの登場人物がいる『悪霊』の中で,なぜキリーロフが重要なのかということについては,埴谷はふたつの観点から説明しています。
                                       
 ドストエフスキーの小説の中には,癲癇の発作を起こす人物が少なからず存在します。『悪霊』の中でその役目を与えられているのがキリーロフです。埴谷がキリーロフに注目する理由のひとつがこのことです。
 ドストエフスキー自身が癲癇の発作を起こすことがありました。ですから小説の中にもそういう人物が存在するといえるわけですが,このことだけでも発作を起こす人物が小説の中で特別の役割が与えられているといえるでしょう。さらに,これは自身の経験も影響しているのでしょうが,ドストエフスキーが神の似姿として呈示する人物は,癲癇の発作を起こすということがひとつの特徴になっています。ですから癲癇を起こすキリーロフに対して埴谷が注目するのは,当然といえば当然といえます。
 さらに埴谷は,キリーロフの癲癇の描写には,たとえば『白痴』のムイシュキンの描写とは異なった面があると指摘しています。ムイシュキンの癲癇の記述が文学的な表現であるのに対して,キリーロフの癲癇の描写は形而上的な把握がなされているというのがその指摘です。僕はこの指摘の是非については追及しませんが,同じように癲癇の発作を起こすのであっても,ムイシュキンの場合とキリーロフの場合とでは,その意味合いには相違があるということは確かだと思います。ムイシュキンの発作は神の似姿ではあり得ても,キリーロフの発作が神の似姿であるとは思えないからです。

 まとめると,スペイン語とポルトガル語,ヘブライ語とラテン語そしてオランダ語に関しては,時期は特定できない面はあるものの,それでコミュニケーションをとったり読み書きしたりすることはスピノザにはできたと考えてよさそうです。
 一方でスピノザにはそうしたことが不可能だった言語としてはっきりしているのは英語です。ロバート・ボイルRobert Boyleとスピノザの間で直接的に書簡のやり取りが行われず,すべてがオルデンブルクHeinrich Ordenburgを介しているのは,スピノザは英語が,ボイルはラテン語が不得手であったたため,オルデンブルクが通訳する必要があったからだと思われます。また,オルデンブルクに宛てた書簡二十六の中に,もしスピノザが英語に堪能であったら,ボイルが出版した英語の本をホイヘンスChristiaan Huygensはスピノザに貸してくれただろうという主旨のことが書かれていますから,少なくともスピノザは英語が分からなかったということは確定的にいっていいでしょう。
 『ポール・ロワイヤル論理学Logique de Port-Royal』はフランス語で書かれたものです。ですから,スピノザがフランス語が理解できたのかは重要です。普通に考えれば蔵書として残っている以上,それを読むことができたからスピノザは所有したのだということになるのですが,蔵書の中に,たとえば贈られたもののように,必ずしも自身で所望して所有するに至ったのではない本があったとしてもおかしくはないからです。
 上野と近藤は,スピノザはそれを読むことができたのだといっています。少なくともラテン語ができる人間は,辞書を引きながらであればフランス語は読めるというのが上野の主張です。そしてフランス語の辞書もスピノザの蔵書の中にはありました。なので,程度についてはどうあれ,それをスピノザが読んでまた理解し得る環境にあったということは確かです。そしてここでは『ポール・ロワイヤル論理学』をスピノザが読むことができたかということだけが問題なのですから,たとえばスピノザがフランス語でコミュニケーションをとれたのかといったようなことまでは詮索する必要はありません。
 上野はラテン語とフランス語との間には一定の類似があるという主旨のことをいっています。
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第三部定理三五備考&ポール・ロワイヤル論理学

2019-08-30 19:05:25 | 哲学
 「怜子」という楽曲を紹介した中で,怜子には嫉妬とか羨望とかやきもちといった感情が入り混じっているといいました。これは楽曲の紹介の中でいったことですから,そうも厳密な意味で理解してもらわないで構いません。ただ哲学の分野においては,僕はこうしたことを特定の意味で用いますので,そのことを説明しておきます。
                                   
 僕がそこで嫉妬といったのは,ねたみinvidiaという感情affectusです。これは第三部諸感情の定義二三に示されている憎しみodiumの一種で,僕はねたみということをこの意味で用います。もし僕が嫉妬といったら,それはこのねたみのことを意味していると理解してください。怜子が人の不幸を祈ることがねたみであるということは,この定義Definitioから明白でしょう。
 『エチカ』では嫉妬zelotypiaというのがねたみとは別の意味で使われます。これについては僕は嫉妬とはいわずにやきもちzelotypiaといいます。これは感情ではありません。第三部定理三五備考で以下のように説明されています。
 「ねたみと結合した,愛するものに対するこの憎しみは,嫉妬と呼ばれる。したがって嫉妬とは,同時的な愛と憎しみから生じかつそれにねたまれる第三者の観念を伴った心情の動揺にほかならない」。
 この嫉妬を僕は嫉妬とはいわずにやきもちというということです。嫉妬とねたみを違った心理状態として規定するのはややこしいと思いますし,スピノザのこの説明からは,これは嫉妬というよりやきもちという方が日本語として的確であると僕には思えるからです。
 したがって,僕がいうやきもちは感情ではなく心情の動揺animi fluctuatioを意味します。なのでこれは諸感情の定義の中で示されることはないのです。怜子がやきもちを妬いているということもまた,この説明から明白であるといえるでしょう。

 1660年にスピノザとファン・ローンJoanis van LoonがライデンLeidenで交わしたこの会話について詳しく説明したのは,これがスピノザが定義Definitioの理念を変更したとされる1662年以前の会話であるからです。上野はなぜスピノザが定義の理念を変更したのが1662年頃であったのかということについては鼎談の中では何も言っていません。ただ,それがパスカルBlaise Pascalからの間接的な影響であったとしたなら,早くてもこの変更は1662年より後でなければならないのです。
 スピノザがパスカルの著作を読んでいたという直接的な証拠はないようです。ただ,スピノザの蔵書というのは判明していて,その中に『ポール・ロワイヤル論理学』がありました。近藤によればパスカルの『幾何学的精神について』がこの本のために使用されているそうです。したがってスピノザは,パスカルがそこで論じた定義論については知っていた可能性が高いようなのです。
 『ポール・ロワイヤル論理学』が出版されたのは1662年です。ですからもしスピノザがこの本を読むことによって定義の理念を変えたのだとしたら,その変更は1662年以降のことでなければなりません。いい換えれば,スピノザがパスカルからの影響によって定義の理念を変更したとするなら,それは1662年より後のことでなければならないのです。
 僕は『ポール・ロワイヤル論理学』の中で具体的にどのような定義論が論じられているのかは知りませんので,ここではその内容に踏み込むことはできません。ただこのこととは別に,スピノザがこれを読んだということに関しては別の問題があります。この本はフランス語で書かれたものであり,ラテン語で書かれていたのではなかったのです。
 スピノザと言語の関係で説明したように,スピノザが最も得意としていたのはおそらくスペイン語で,「シナゴーグ離脱の弁明書」はスペイン語で書かれたといわれています。それからポルトガル語も母語に近い言語でした。それからヘブライ語はわりと早い段階で習得し,ラテン語もそれより後に習得しました。またオランダ語でも書簡のやり取りをしていますので,得意とはいえないまでも使いこなすことはできたといえます。
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スポニチ盃アフター5スター賞&最初の書物

2019-08-29 19:07:28 | 地方競馬
 昨晩の第26回アフター5スター賞。真島大輔騎手が急病のためストロングハートは的場文男騎手に変更。
 ナガタブラックは立ち遅れて1馬身ほどの不利。まずクルセイズスピリツが先頭に立ったのですが,アピアとストロングハートが追い掛けてきて,この2頭で並んで逃げて3番手に控えたクルセイズスピリツに大きな差をつけていく展開に。4番手にキャンドルグラスとヨンカーで6番手にキタサンミカヅキ。巻き返したナガタブラックはワンパーセントと並んで7番手。9番手がウェイトアンドシーとジョーストリクトリ。11番手はサブノジュニア,ゴーディー,レベルスリー,コンサートドーレの4頭。その後ろがアドマイヤゴッドで最後尾にタマノシュタルクという隊列。前半の600mは33秒9の超ハイペース。
 前の2頭は後ろを離したままコーナーを通過。ここでストロングハートは一杯となり,アピアが単独の先頭で直線に。クルセイズスピリツがアピアに迫ろうかというところ,コーナーでは内を回っていたキャンドルグラスがその外に出てくるとアピアも捕えて先頭に。その外から脚を伸ばしたのがキタサンミカヅキで,後方から大外を追い込んできたのがサブノジュニア。フィニッシュ前はこの3頭の競り合いになり,最後に抜け出た真中のキタサンミカヅキが優勝。内のキャンドルグラスがクビ差で2着。外のサブノジュニアがクビ差の3着。
                                   
 優勝したキタサンミカヅキ東京スプリント以来の勝利。南関東重賞は昨年のアフター5スター賞以来の制覇で4勝目。第24回も制覇していてこのレースは三連覇。重賞を3勝している最も得意とする舞台で,この春にも勝っていたわけですから,ここでは能力は上位で順当な勝利。ただ,年齢的に仕方がないのでしょうが,やや能力の衰退を感じさせる内容であったのは気掛かりです。父はキングヘイロー。母の父はサクラバクシンオー。母の8つ上の半兄に1998年に埼玉新聞杯を勝ったキタサンシーズン
 騎乗した船橋の森泰斗騎手報知グランプリカップ以来の南関東重賞32勝目。アフター5スター賞は連覇で2勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は南関東重賞37勝目。アフター5スター賞は三連覇で3勝目。

 1660年にファン・ローンJoanis van LoonとスピノザがライデンLeidenで交わした会話の中には,気になるものがあります。このときにスピノザは,数学的手段で方法を論ずる書物を書き始めているという主旨のことを言っているのです。
 ここでいう数学的手段というのは幾何学的方法のことにほかなりません。スピノザが幾何学的方法で著したのは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を除けば『エチカ』だけです。なのでこの部分は,数学的手段の方を重視すれば,スピノザは『エチカ』を書き始めたというように解せます。ですが,『エチカ』は方法論というのとは違います。方法論の方を重視するなら,これは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と解する方が適切です。同時にスピノザは書き始めたこの書物のことを,私の最初の書物といういい方で表現し,さらにこの方法をほかの書物でも使うつもりだと言ったとのことなので,幾何学的方法が用いられているのが『エチカ』だけである以上,この発言が具体的に何を意味しているのかはとても難しいところがあります。
 ローンはこの会話の後で,その後は,これはその書物が完成した後はという意味かと思われますが,どうするつもりなのかをスピノザに尋ねました、するとスピノザは,宇宙の全体を個人的な実験室として,あらゆるものを吟味していくつもりであると答えたとされています。『エチカ』の説明としてはこのスピノザの説明の方が的確のような気がします。ですから『エチカ』は,このときには企てられていただけで,書き始められてはいなかったという解釈も可能でしょう。ですが,幾何学的方法で著されているのは『エチカ』だけなので,実際には『エチカ』はすでに書き始められていた可能性も否定できません。たとえばスピノザは方法論という表現で『エチカ』の第一部を意味させようとし,第一部を書き終えたら第二部,第三部と書き続けていくつもりであると言ったのだという解釈は,この部分の会話の解釈として著しく合理性を欠くものであるとはいえないように僕には思えます。
 なので,僕はこの時期に『エチカ』が書き始められていた可能性は除去しません。少なくとも『エチカ』を書く企てがあったことは間違いないと解します。
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王位戦&スピノザとフリース

2019-08-28 19:42:44 | 将棋
 昨日から徳島市で指された第60期王位戦七番勝負第五局。
 豊島将之王位の先手で角換り相腰掛銀。互いに馬を作り合った後,後手の木村一基九段が先手の馬を捕獲する手順を目指しました。先手を急かせる意図だったと思いますが,結果的に先手の攻めがそこから最後まで繋がる形になりましたので,もうそのあたりで先手が有利になっていたのではないかと思います。
                                        
 後手の玉が3一から上がった局面。指す手が難しかったのでしょうが,この手はあまりよくなかったように思われます。
 先手は☗1五歩☖同歩☗同香☖同香と捨てて☗1四金と打ちました。後手は☖1一香と受けましたが☗2三歩☖同金と吊り上げておいて☗2四金。☖同金☗同飛となって☖2三歩と受けましたがそこで☗5五銀が強烈な一手。
                                        
 飛車を取ると☗3三歩成が生じてしまうので☖4五歩と受けましたが☗4四銀と出られ,後手陣は収拾がつかなくなっています。
 豊島王位が勝って3勝2敗。第六局は来月9日と10日です。

 ファン・ローンJoanis van Loonによれば,1660年にローンがライデンLeidenに滞在したとき,スピノザの訪問を受けました。レインスブルフRijnsburgはアウデルケルクAwerkerkと違い,アムステルダムAmsterdamから遠かったので,レインスブルフに移住した後のスピノザは,それまでのようにアムステルダムを頻繁に訪れることは不可能だった筈です。このことは講読会が開催されるようになったことと関係があると思えます。というのは,もしスピノザと講読会のメンバーが頻繁に会えるならこういう会は必要なく,スピノザ自身に参加してもらえばよいからです。これは講読会のひとつの条件です。もうひとつは,この講読会は『エチカ』の草稿の講読会だったわけですから,講読会が始まった時点ですでに『エチカ』が書き始められていたのでなければなりません。
 ローンはこのとき,ローンがライデンを訪れることをヘルマン・ホーマンHermann Homanから聞いたとスピノザが言ったと書いています。ホーマンはスピノザのレインスブルフでの滞在先の家主です。なのでこの部分のローンの記述は信頼性が高いといえます。そしてレインスブルフはアムステルダムからは遠いですが,ライデンには近いので,スピノザも気軽に訪ねることができたのです。よって1660年にはスピノザはレインスブルフに移住していたのであり,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがコレギアント派collegiantenだったがゆえにスピノザと出会ったとすれば,それ以前に出会っていたと考えなければなりません。
 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには,スピノザが1677年に死んだとき,スピノザの葬儀のための費用を,シモン・ド・フリースのきょうだいが負担したと解せる記述があります。また1665年の一時期,スピノザはそのきょうだいの家に滞在しています。したがってスピノザはシモン・ド・フリースとだけ親しかったわけではなく,きょうだいたちとも親しかったのです。もしかしたらスピノザはアウデルケルクでスピノザに会った頃から,きょうだいとも会っていたかもしれません。スピノザをアムステルダムで世話したのはたぶんファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenですが,フリースは裕福でしたから,アムステルダムのフリースの家にスピノザが滞在することもあったかもしれません。
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北条早雲杯争奪戦&破門後

2019-08-27 19:15:33 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは根田‐郡司‐松谷‐新田の南関東,三谷‐稲垣の近畿,清水‐田中の西国で木暮は単騎。
 清水が迷わずにスタートを取って前受け。3番手に三谷,5番手に木暮,6番手に根田で周回。残り3周を過ぎると誘導と先頭,そして各ライン間の車間がやや開き,バックから根田が発進。コーナーで清水を叩きましたが,新田が離れてしまったので4番手に清水,6番手に三谷,8番手に木暮,最後尾に新田という一列棒状。根田はそのまま緩めずに駆け,残り2周のホームからバック,そして打鐘から最終周回のホームまで一列で進展。清水が動こうとしましたが,バックの入口から郡司が番手捲りを敢行したため前にはいききれず。この間に内をするすると進出してきたのが木暮で,松谷の内まで取りついて最終コーナーから直線に。番手捲りの郡司はやや差を詰められましたが危なげなく優勝。競り合いに勝つ形で木暮が4分の3車身差の2着。松谷は1車身半差で3着。清水がいけなかったため木暮にスイッチするようなレースになった田中がインを突いて半車輪差で4着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は4月の川崎記念以来の優勝で記念競輪6勝目。小田原記念は2016年昨年に制していて連覇となる3勝目。6月の中旬に落車して負傷。ただ復帰戦となったオールスターで決勝まで進出していましたので,身体のことは心配しなくてよさそうでした。ここは南関東が4人で結束し,根田が早めに駆けていきそうなので,相当の確率で優勝するだろうとみていました。昨日の準決勝で同じように連携し,そこで根田を3着に残す競走をしたので今日も楽になったといえ,むしろ昨日のレースの方が今日のためには大きかったように思います。

 スピノザがユダヤ人共同体から破門されたのは1656年のことです。こういういい方が適切であるかどうかは分かりませんが,これはスキャンダラスな出来事でした。なのでスピノザはこの時点で少なくともアムステルダムAmsterdamにおいては著名であったと考えられます。ただし,このことはオルデンブルクHeinrich OrdenburgがレインスブルフRijnsburgまでスピノザに会いにいく理由とはなりません。オルデンブルクは情報収集屋といっても,知の情報収集屋であったのであり,面会する対象は知識人に限られていたからです。ですからオルデンブルクがスピノザと会った1661年には,スピノザは知の面でも有名であったと思われます。オルデンブルクはスピノザに面会するためにオランダを訪れたのではなく,オランダを訪れてからスピノザのことを聞き及び,わざわざ面会しにいったと思われるからです。
 ユダヤ人共同体から破門されたスピノザは,一時的にアムステルダムにいることができなくなり,おそらくアウデルケルクAwerkerkに移りました。これは追放処分が出たからですが,実際にはスピノザはアウデルケルクとアムステルダムを行き来しながら暮らしていたと思われます。アウデルケルクでスピノザの世話をしたのはおそらくコンラート・ブルフで,アムステルダムでスピノザの世話をしたのはおそらくファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenであったと思われます。エンデンのラテン語学校でスピノザと知り合ったのがケルクリングDick Kerkrinkで,ケルクリングが学校に入ったのは1657年です。ですから1657年にはスピノザはまだアウデルケルクとアムステルダムを行き来する生活を送っていたことになります。
 スピノザがいつレインスブルフに移住したか特定するのは困難です。ただし,なぜ移住先としてレインスブルフを選んだのかははっきりとしています。それはレインスブルフがコレギアント派collegiantenの拠点であったからです。スピノザはアウデルケルクに滞在しているときにトゥルプ邸で,コレギアント派の人たちと知り合いました。シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesはコレギアント派で,その関係でスピノザと知り合ったと思われます。なので遅くとも1660年には,スピノザとフリースは知り合っていた筈だと思われます。
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除去後と除去前&パスカルの影響

2019-08-26 18:56:53 | 哲学
 第三部諸感情の定義一四の安堵securitasと第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioを,僕が希望spesと不安metusからの派生感情であるとみなす理由はふたつあります。順に説明していきましょう。
                                   
 各々の感情affectusの定義Definitioは,疑いの原因causaが除去されたものの観念ideaが存在すれば,ほかに感情が存在しなくても発生し得ると読解することができます。ただしこれには条件があります。というのは,第三部諸感情の定義一二と第三部諸感情の定義一三から分かるように,もし疑っているものの観念,すなわち疑いの原因が除去される以前の観念が存在していたときに,そこから不確かな喜びlaetitiaが生じているならそれは希望ですし,逆に不確かな悲しみtristitiaが生じているならそれは不安だからです。つまり,疑いの原因が除去された観念は,当然ながら疑いが除去される以前にも同じ人間の精神mens humanaのうちにあったとみなされなければならないのですが,そうした観念から喜びないしは悲しみが生じていた場合には,安堵も絶望も希望および不安からの派生感情であるといわれなければならないのです。したがって,もしも安堵および絶望が,一般的に不安および希望からの派生感情ではないと主張するのであれば,安堵ないしは絶望が発生する場合の疑いの原因が除去された観念が,それ以前に疑いが除去されていない状態でその人間の精神のうちにあったときに,その観念からは喜びも悲しみも発生しないといわなければなりません。より正確にいうと,僕は一般的に安堵と絶望が希望および不安からの派生感情であるといっているのですから,少なくともそうした観念から喜びも悲しみも発生しない場合があるといわなければならないのです。
 僕の考えでは,そうしたことはあり得ないのです。いい換えれば安堵ないしは絶望を発生させる疑いの原因が除去されたものの観念は,疑いが除去されていない状況のときには必然的にnecessario喜びと悲しみすなわち希望と不安を発生させるのです。これは背理法的な証明の一種になりますが,なぜそうなるのかはまた詳しく説明します。

 任意の定義Definitioが含まれてもよいということ,いい換えれば唯名論的な定義が公理系の中に含まれてもよいということが,スピノザがパスカルBlaise Pascalから受けた影響の最大のものであったように思われます。というのは,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の中で創造される事物と創造されない事物に分類して定義論を展開したときのスピノザは,それが創造される事物であれ創造されない事物であれ,定義は定義される事物の本性essentiaを説明するのに役立つものであって,定義されることによってそれ自身が吟味の対象となるというようには考えていなかったふしがあるからです。このゆえに僕は,上野がいっているように,確かにスピノザは定義の理念を変更したのだと考えるのです。それはいってみれば,デカルトRené Descartesからパスカルへの移行ということができるのではないかと思います。
 ただ,パスカルからの影響といっても,これは直接的なものではありません。スピノザは後に『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を出版したことからも分かるように,デカルトの著作は読んでいました。これに対してパスカルの著作を読んでいたという証拠はないようです。ただ,パスカルの定議論に準じた著作は読んでいて,そこから影響を受けたのだというように上野と近藤は発言しています。僕はここではこのことを,スピノザの人生に中の出来事と関連させて説明します。
 書簡九は1663年3月にレインスブルフRijnsburgから出されました。つまりこのときはスピノザはレインスブルフに住んでいました。現行の『スピノザ往復書簡集Epistolae』の書簡一は,オルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたもので,これは1661年8月付です。この書簡の冒頭でオルデンブルクは,レインスブルフにスピノザを訪問したと書いています。
 オルデンブルクというのはこの時点ではイギリスの情報収集屋のような役割を担っていました。その関係でオランダを訪問したのですが,わざわざレインスブルフまで足を運んだのはスピノザと面会するためです。つまり1661年の時点でスピノザはレインスブルフに住んでいたということが分かると同時に,すでにその時点でスピノザは,オルデンブルクが面会したいと思うほどの人物だったことになります。
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ヒューリック杯清麗戦&唯名論との関係

2019-08-25 19:27:05 | 将棋
 指宿温泉で指された昨日の第1期清麗戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流名人の先手で中飛車。後手の甲斐智美女流五段が三間飛車の相振飛車に。互いに向飛車に振り直した後,先手が仕掛けました。
                                         
 後手が9三の銀を上がった局面。先手は☗9五歩☖同歩☗9三歩と端に手を付けました。
 後手は☖同香と取ったのですが,ここでは☖2五歩から攻め合うのがよかったようです。ただ取るのは普通の手と思えますので,ここで攻め合いにいかなければ均衡が保てないのであれば,実戦的には先手の方が指しやすい局面であったように思えます。
 先手は☗5六角と打ちました。ここでは☖2五銀と狙われている銀を攻めに使えばまだしもだったと思います。ですが☖2三角と角を使って受けました。このために☗8三角成☖同玉☗8五歩という強襲を浴び,☖7二玉☗8四歩☖8二歩☗9二銀で8筋を破られることが確定し,一気に敗勢に陥りました。
                                         
 里見女流名人が連勝。第三局は来月7日です。

 なぜ自由な定義Definitio,すなわちそれ自身を吟味するために立てられる定義が唯名論と関係するかといえば,この種の定義は定義される事物の本性essentiaを説明することを主目的としていないからです。むしろそれ自身が吟味されるために立てられる定義ですから,定義される事物が何であるかということより,それがどのような本性を有しているのかということが重要なのであり,定義される事物が何といわれるかということはあまり関係ないのです。つまり,第一部定義一を例材にすれば,ここでいわれているのは自己原因causam suiの本性は,その本性が存在を含むessentia involvit existentiamものであるということなのではなく,本性が存在を含むもののことを『エチカ』の公理系においては自己原因というということなのです。ですから,自己原因という語は任意の語でよいのであり,それが本性が存在を含むものであるということさえ守られるなら,別の語で表現されていたとしても何ら問題はありません。そこでたとえばこれは自己原因の定義ではなく,電話の定義でも構わないのです。ただ『エチカ』の公理系の中で,本性が存在を含むもののことが必ず電話といわれるのなら,その定義はよい定義であることになるのです。
 スピノザはそれ自身の本性が説明されるための定義と,この種の任意の定義を分類しています。僕の考えでいえば,おそらく任意の定義だけでは公理系というのは成立しません。いい換えれば公理系の中には,必ずそれ自身の本性が説明されるための定義が含まれていなければなりません。なので唯名論的な定義だけで公理系が成立するとは僕は考えませんが,ある種の定義はこのように任意の定義であって構わないということは間違いないと思います。それはいい換えるなら,公理系の内部のいくつかの定義は,唯名論的であっても構わないということなのです。たとえばスピノザは第一部定義六で神Deumを絶対な無限なabsolute infinitum実体substantiamと定義し,第一部定理一一においては絶対に無限な実体が存在するということを証明しているので,神は存在することになります。ですがこれを神というのは実は任意です。神の定義は「解するintelligere」という種の定義だからです。なので神は第一部定理一一では,吟味の対象なのです。
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竜王戦&自由な定義

2019-08-24 19:01:32 | 将棋
 昨日の第32期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 豊島将之名人の先手で相掛かり。先手の浮飛車に後手の木村一基九段が高飛車で対抗。先手から仕掛け,後手玉が中段に逃げ出し,金銀と飛車桂の交換。そして先手が馬を作る形に。字面だけをみると先手がだいぶいいようですが,このあたりはまだ難しかったのではないかと思います。
                                        
 先手が桂馬を取った局面。これは☗6六桂と打つ狙いです。
 後手は☖7六桂と打ちました。ここから☗6九王☖8九角☗5九王と時間差で逃げたのがうまい対応。後手は見損じがあったようですが,この手順は本当は危険であったようです。長考して☖7八角成☗同銀と切って☖8九飛としました。ここに至っては仕方がない手順だったようです。
                                        
 第2図で☗4八王と逃げれば先手玉は捕まらず,先手の勝ちでした。ところが☗6九角と駒を使って受けたためにまた難解な局面に。次の☖4一飛に☗6五金☖同桂☗同馬の手順で馬を助けたのも悪く,ここで逆転したのではないでしょうか。☖4一飛のときに☗3二銀不成としておけば接戦が続いていたものと思われます。
 木村九段が勝って1勝1敗。第三局は来月5日です。

 まず,パスカルBlaise Pascalがどのような問題意識を有していたのかということを説明します。これは近藤の発言です。
 数学というのは伝統的に,算術および幾何学が存在的領域をもっているとみなされてきました。ところがデカルトRené Descartesやパスカルの時代になると,それよりも高い次元の数学が出現します。それが代数学です。代数学は純粋な量を対象とした学問です。このとき,そうしたものを対象とした学問はいかにして成立し得るのかということが問題になりました。これにひとつの解答を与えたのがパスカルです。パスカルは公理論によってこの種の問題を解決することができると主張しました。なぜなら,公理論的な定義では,どのような概念notioでも自由に定義することができるからです。
 書簡九との関連でいえば,この最後の,どのような概念でも自由に定義することができるという点が重要です。ここでの区分は,その本性essentiaに不確かな点があるためにそれを説明するための定義Definitioと,それ自身が吟味されるために立てられる定義でした。このうち後者のそれ自身が吟味されるために立てられる定義というのは,自由に定義された概念に該当します。なぜなら,本性が不確かであるがゆえにそれを説明するための定義は,定義自体が真verumでなければなりませんから,定義される物自身を眼中に置かずに自由に定義するということはできません。ですがそれ自身が吟味の対象となるようなものの定義については,自由に定義して構わないからです。ただ公理系の内部では,それが定義された通りに使用されなければならないというだけです。
 『エチカ』でいえば,「解するintelligere」とか「私はいう」といった形で定義されているのは,スピノザによる自由な定義だといえます。たとえば第一部定義一は,自己原因causam suiについてスピノザが任意に規定した定義です。そこで『エチカ』の公理系の中では,その本性が存在を含むessentia involvit existentiamもののことが自己原因といわれるのであって,この約束事さえ守られていれば,このような仕方で事物を定義してもよいということが,パスカルが主張したことであり,スピノザがそれ自身が吟味されるために立てられる定義と示したことなのです。
 これは唯名論と関係します。
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日刊スポーツ賞スパーキングサマーカップ&変更の有無

2019-08-23 19:06:23 | 地方競馬
 高知から1頭が遠征してきた昨晩の第16回スパーキングサマーカップ
                                        
 逃げたかった馬が2頭いましたが枠順の有利さでシュテルングランツの逃げとなり,ロイヤルパンプはすぐに2番手に控えました。3番手にディアデルレイで4番手はトキノパイレーツ。5番手をトロヴァオとソッサスブレイで併走し7番手にラーゴブルー。8番手にサクラエール。9番手にザイディックメア。10番手はハセノパイロとセンチュリオンでこの11頭は一団。離れてトキノエクセレント,ハッピースプリント,コンドルダンスの順で続きました。前半の800mは49秒5のミドルペース。
 3コーナーを回って2番手はトキノパイレーツ,ロイヤルパンプ,ディアデルレイの雁行となりましたが,真中のロイヤルパンプが脱落して直線へ。トキノパイレーツは逃げるシュテルングランツのすぐ外に出てきて,一杯になったシュテルングランツを捕えると抜け出して優勝。大外から追い込んできたトロヴァオが1馬身半差で2着。逃げたシュテルングランツが2馬身差で3着。
 優勝したトキノパイレーツは南関東重賞初制覇。正月にオープンを勝っていていずれは南関東重賞でもという力はあった馬。ここは強敵が揃っていたのですが,56キロという斤量が有利に作用したようです。JRAでデビューし2勝して昨秋に転入してきた4歳馬で,能力の上積みはまだありそうです。ただ,距離が伸びるのはマイナスに作用するのではないかと思いますし,転入後は川崎でしか走っていませんから,他場へ遠征して同じように走ることができるのかという課題もある馬です。母の父はタヤスツヨシ。7代母がクレアーブリッジの祖母にあたります。
 騎乗した川崎の町田直希騎手は2014年の川崎マイラーズ以来となる南関東重賞11勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。管理している川崎の八木正喜調教師は南関東重賞8勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。

 上野がいう理念の変更というのが本当にあったかどうかということについて僕の考えだけを述べれば,それはあったのだろうと思います。つまり僕は書簡九の定義論が,定義論の全体の中で枝葉末節に属するというようには解しません。ただ,僕はこのことについては争いません。というのもここでの目的は,上野の言い分が正しいか否かということなのではなく,僕が示したスピノザの定義Definitioについての結論の正当性を示すことだからです。もし理念の変更というのがなかったのだとすれば,『エチカ』等によって補完する必要はありますが,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で展開されている定義論と書簡九で展開されている定義論は,同等に扱ってよいことになるでしょう。一方,理念の変更があった場合にも,書簡九はその変更後の定義論なのですから,これをそのまま用いることには何の問題もありません。そして『知性改善論』の方は,補完を行えばこれを結論の材料として利用しても問題はないということはすでに説明した通りです。
 このようなわけで,僕は書簡九で展開されている定義論については,『知性改善論』の場合とは違い,その内容に詳しく踏み込むことはしません。ただ,僕自身は上野がいうように,確かに定義の理念に変更が齎されたと解していて,このときに上野が示しているこの変更の背景は興味深いものがありましたので,最後にこの点を探求しておきます。
 僕は『知性改善論』で主張されている定義論が,デカルトRené Descartesの哲学から強い影響を受けているのではないかというように推定しました。少なくともこの定義論で原因causaの何たるかについてスピノザが言及するとき,それは自己原因causa suiを除外した,あるいは自己原因という原因性を否定するような,デカルトの哲学的な作出原因causa efficiensであるというような解釈をすると,創造されない事物についてスピノザが説明している内容はきわめて合理的に理解することができることを示しました。なのでここでは暫定的に,この定義論はデカルトの哲学の影響下の定義論であるといっておきます。
 上野によれば,定義の理念の変更に影響を及ぼした思想家がいます。それがパスカルです。これについては近藤も補足をしています。
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インターナショナルステークス&変更の可能性

2019-08-22 18:55:37 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にイギリスのヨーク競馬場で行われたインターナショナルステークスGⅠ芝1マイル2ハロン56ヤード。
 シュヴァルグランは5番手の外という位置。前から2頭ずつが併走するという形でしたので,3列目の外でした。隊列はほとんど変わることがないまま直線に。前をいく馬たちの外に出されましたが,伸びを欠き,前とは差を広げられ,後ろからも差される形になり,勝ち馬から6馬身弱の差で8着でした。
 アスコット競馬場よりはヨーク競馬場の方が日本の馬には走りやすかったと思いますが,この馬の場合は長距離の方が得意な馬で,ここは距離が短かったようです。スタミナよりも瞬発力が問われるようなレースになってしまったこともあり,この結果も致し方ないのではないでしょうか。

 書簡九を書いている時点のスピノザがどういう意図を有していたかを確定することは困難です。しかしその意図がどうであったとしても,これはあくまでも書簡八への解答としてスピノザは記述しているのですし,僕たちもそのことを踏まえた上で書簡九を読解していかなければなりません。すなわちこの書簡で展開されているスピノザの定義論は,書簡八で定義Definitioについて質問を受けたことを踏まえての定義論なのです。よってスピノザは,後にそれを公開するという意図を有していたとしても,それは不特定多数の読者を想定して記述しているわけではなく,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesを代表とする講読会のメンバーに向けて書いていると解さなければなりません。
                                        
 なのでここで展開されているスピノザの定義論は,書簡八の中の定義に対する解釈に不備があったため,それを分かりやすく説明しているだけであるという可能性が残ります。要するに,ここで主張されている定義論は,必ずしもスピノザの哲学における定義論の核心をなすものではないのという可能性はあるのです。なぜなら書簡八における定義に関連した解釈上の不備というのは,スピノザの哲学の定義論の全体においては枝葉末節に属するものであったという可能性は否定できないからです。それでも解釈の上での不備があれば当然ながらスピノザはそれを無視したりはせず,定義を正しく解釈するための方法を示すことになるでしょう。書簡八と九の内容が実際にはそうであった可能性があるということは認めなければならないと僕は考えます。いい換えれば,上野はスピノザは定義の理念を変更したといっているのですが,実際には『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と書簡九をそのまま比較するとそのようにみえているだけで,『知性改善論』における定義の基本的な理念は,何ら変更されてはいないという可能性があると僕は考えます。ただしこの解釈には注意が必要です。というのはすでに僕が説明したように,『知性改善論』における定義論をそのままの形で解釈すれば,それはスピノザの哲学の全体の定義論としては妥当しません。僕がいうのは,『知性改善論』の定義論を『エチカ』で補完した上での定義の理念のことです。
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王位戦&書簡九の性質

2019-08-21 21:33:34 | 将棋
 昨日から有馬温泉で指された第60期王位戦七番勝負第四局。
 木村一基九段の先手で相掛かり。先手も後手も引き飛車。先手の鎖鎌銀に後手の豊島将之王位が腰掛銀で対抗。その銀を進出させていき戦いに。とても長い中盤でしたが,後手の飛車が使いにくくなる展開となり,先手がリードを奪いました。
                                        
 先手が5五に歩を打ち,後手が5四の銀を逃げた局面。ここで先手は☗6三銀と打ち込んでいきました。これは取れないので☖6一飛。☗5二銀成☖同銀☗7二角成で先手は馬を作りました。
 後手は☖3五歩と香車を取りました。これは入玉の狙い。しかし☗5四歩☖同歩に☗6二金と打たれました。
                                        
 これは飛車が逃げると☗5二金☖同王☗5四馬で入玉が望めなくなります。なので☖同飛☗同馬と進めたのですが,ここで大駒が1枚だけになってしまったのが痛く,後手は入玉こそ果たしたものの先手の入玉を阻止することはできず,点数が足りずに先手の勝ちになっています。
 木村九段が勝って2勝2敗。第五局は27日と28日です。

 『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』は未完でしたし,スピノザの存命中に発刊されることはありませんでした。ですがそれを執筆していたときのスピノザは,公刊するつもりがあったと考えるのが妥当です。ですからそこでスピノザが展開している定義論は,公刊されたものを読むであろう不特定多数の読者に対して書かれていると解して間違いないと思います。
 スピノザは存命中から,書簡でのやり取りも公にする心積もりをもっていました。そのためにスピノザは,たとえばオランダ語で交わされた書簡を,ラテン語に訳出することを行っています。ですから書簡九で展開している定義論が,不特定多数の読者に読まれる可能性があるということは,この書簡を書いている時点でもしかしたら有していたかもしれません。これはあくまでも可能性にすぎませんが,ここでの考察のためには重要な点になりますので,安全性という観点から,そういう可能性があったことにしておき,それ以上の探求はしません。
 ただ,たとえスピノザが書簡九が不特定多数の読者を有すると分かっていたのだとしても,それが書簡八への返答であるということもまた,読者は理解するであろうと思っていたのは間違いないと僕は考えます。というのは,もしもスピノザが書簡九を書いている時点で,この書簡が後に不特定多数の人に読まれるであろうということを分かっていたのだとしたら,それは書簡九をそのまま公開するという意向をもっていたのだという意味になり,その場合にはスピノザは,書簡八の方もまた公開する意図を有していたと解しておかなければ著しく合理性を欠いてしまうからです。ですからスピノザは,書簡九を後には多くの人が読むことになると,それを書いている時点で確信していたのだとしても,同時にその読者は,それが書簡八への返事であるということも同時に知ることになるということをも確信していたことになるでしょう。
 このゆえに,たとえ書簡九が不特定多数の読者を対象とすることをスピノザが想定していたのだとしても,これはあくまでも書簡八への返答として読まれなければなりません。もしスピノザがそれを想定していなかったなら,なおのことそうなります。
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怜子④&定義の理念

2019-08-20 18:48:54 | 歌・小説
 では怜子のことが,ではあいつのことがそれぞれ歌われています。これが1番と2番のそれぞれの冒頭の部分です。「怜子」はこの部分と,1番と2番を通してリフレインされる,楽曲の中心部分とだけで構成されています。

                                   

     ひとの不幸を祈るようにだけは
     なりたくないと願ってきたが
     今夜 おまえの幸せぶりが
     風に追われる 私の胸に痛すぎる


 一読して分かるように,この部分は怜子やあいつのことが歌われているというよりは,歌い手自身のことが歌われているといえます。歌い手は怜子のこともあいつのことも昔から知っているわけで,その意味でいえばふたりの幸せを願ってもいいところでしょうし,実際に幸せそうなふたりのことを喜んでもいいでしょう。ですが現実はそうではなく,歌い手はふたりの,とくにここで「おまえ」といっている怜子の不幸を祈ってしまっているのです。これは嫉妬とか羨望とかやきもちといった感情が入り混じっているがゆえのことであり,歌い手がこのような感情になることを,少なくとも僕はリアルなものとして理解することができます。
 僕はこのリフレインの部分が歌われているがために,この「怜子」という楽曲が好きなのです。他人の幸福を胸の痛みとして感じてしまうということが,こうした場合だけでなくあり得るということを,僕は論理的にも感覚的にもよく理解することができるからです。

 書簡九は上野がいうスピノザが定義Definitioの理念を変更した後の定義論ですから,『エチカ』による補完の必要性は,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の場合に比べれば著しく減少します。なので仮に僕がここでのスピノザの主張をそのまま用いてスピノザの哲学における定義の要件を一般的に結論づけたとしても,さほど問題とはならないでしょう。
 書簡九でも,スピノザは定義をふたつの場合に分けて個別に説明しています。ですがその分類のあり方が,『知性改善論』とはだいぶ違っています。スピノザは『知性改善論』では創造される事物と創造されない事物のふたつに分けて定義論を展開していました。これはいわば,何が定義されるのかということに重点を置いた分類といえます。いい換えればそこでのスピノザは,何が定義されるのかということが定義にとって最も重要なことであると考えていた可能性がとても高いということになります。ところが書簡九の分類は,その本性essentiaが不確かであるがゆえにそれを説明するのに役立つ定義と,それ自身が吟味されるために立てられる定義という区分になっています。したがってここでは,何が定義されるのかということによって分類しているのではなく,何のためにあるいはどのような目的で定義を立てるのかという観点から分類されていることになります。ということは,この時点でのスピノザは,何が定義されるのかということよりも,どのような目的で定義が立てられるのかということが,定義論においてより重要であると考えていた可能性が高くなるでしょう。上野が定義の理念をスピノザは変更したといっているのは,このことを意味しているのではないかと僕は思っています。これは定義とは何であるのかということが変更されたというよりは,定義は何のためにあるのかということが変更されたというべきで,それは定義の理念の変更といういい方で説明するのが最も適切であると僕には思えるからなのです。
 ただし,書簡九の場合にはひとつだけ注意しておかなければならない点があると僕には思えます。それは,この書簡は講読会の参加者を代表してシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがスピノザに送った書簡八への返信であるということです。
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希望と不安からの派生感情&補完の必要性

2019-08-19 19:22:34 | 哲学
 派生感情という語を僕がどのように用いるのかということは説明し終えましたので,希望spesおよび不安metusと,安堵securitas,絶望desperatio,歓喜gaudium,落胆conscientiae morsusが,この観点からどういった関係にあると僕が解しているのかの説明に移ります。
                                   
 まず,第三部諸感情の定義一六の文言は,明らかに不安という感情affectusが事前に存在しなければ,歓喜という感情は発生し得ないということを示しています。同様に第三部諸感情の定義一七の文言は,希望という感情が事前に存在しなければ,落胆という感情は発生し得ないということを示しています。こうしたことはどの人間が歓喜ないしは落胆を感じる場合でも妥当するといわなければなりません。したがってまず,歓喜は不安の派生感情であり,落胆は希望の派生感情です。この点では僕は畠中説に同意します。
 次に,第三部諸感情の定義一三説明は,ある人間が不安を感じるならその人間は希望を感じているし,逆に希望を感じているなら不安も感じているということを示しています。よって,不安の派生感情は希望の派生感情でもなければなりませんし,希望の派生感情は不安の派生感情でなければなりません。よって僕は,歓喜は不安の派生感情であるばかりではなく希望の派生感情でもあると解しますし,同様に落胆は希望の派生感情であるばかりではなく不安の派生感情でもあると解します。この点は僕は畠中説には同意しません。
 第三部諸感情の定義一四の安堵は,何の感情もなくても,疑わしく思われていたものの観念ideaが事前に存在しさえすれば発生し得るというように読解することができます。このことは第三部諸感情の定義一五の絶望の場合にも同様です。僕は観念と感情の関係から,観念から派生する感情は派生感情とはいわないので,これでみると派生感情ではない安堵および絶望が存在し得るように思えます。ですが僕はそのような解釈は採用しません。歓喜と落胆が派生感情としてでなければ存在し得ないのと同じように,安堵と絶望もまた派生感情としてでなければ存在し得ないと解します。

 確認した事柄から,この定義論でスピノザがいっている原因causaというのは,スピノザ的な起成原因causa efficiensというより,デカルト的な作出原因causa efficiensと解するのが妥当であるということが帰結していると僕は考えます。なぜなら,もしこのとき,スピノザが自己原因causa suiについて確たる概念notioを有していたのだとしたら,自己原因を事物が発生する原因であると認めていなかったことになります。僕はこちらの可能性は薄いと思いますが,この場合に原因というのが,デカルトRené Descartesがいう作出原因であることは疑い得ません。デカルトがそこから自己原因を除外しているように,スピノザがいっている原因からも自己原因は除外されているからです。一方,僕はこちらの可能性が高いと思っていますが,このときにスピノザが自己原因について確たる概念を有していなかったのであるとすれば,スピノザは事物が発生する原因として,自己原因というものがあるという考え方に至らなかったでしょう。デカルトは自己原因について何らかの概念を有していたとは思われますが,たとえ表向きのことであったとしても,自己原因というものが存在するということ自体を否定していたのですから,スピノザはこれと同じか,酷似した考え方をしていたことになるからです。
 僕がここで重要視したいのは,このような考え方が,創造されない事物の定義Definitioはどうあるべきかということと関連して主張されているということです。つまり,自己原因という概念について,あるいは事物が発生する原因としての作出原因という概念について,どうやらデカルトから強い影響を受けていたと思われる論旨を展開しているスピノザは,当の議論の中心になっている定義論に関しても,デカルトからの強い影響を受けていた可能性が高かったと思われるのです。なので『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』のこの部分だけを抽出して定義論を結論づけると,それはスピノザの哲学全体から結論づけられるべき定義論の結論より,むしろデカルトの哲学にとって妥当するような定義論の結論になってしまう可能性が高くなってしまうのではないでしょうか。このために僕が前にいっておいたように,この定義論は,『エチカ』によって補完される必要があるのです。
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オールスター競輪&確認

2019-08-18 19:04:57 | 競輪
 名古屋競輪場で争われた第62回オールスター競輪の決勝。並びは菅田-新田‐渡辺-佐藤の北日本,平原-諸橋の関東,郡司-中村の南関東で中川は単騎。
 新田がスタートを取って菅田の前受け。5番手に平原,7番手に中川,8番手に郡司で周回。残り3周のバックから郡司が上昇。最終コーナーからホームにかけて菅田と併走。残り2周のホームで誘導が退避すると菅田が郡司を出させずに突っ張り先行。郡司は引いて,周回中と同じ一列棒状となって打鐘。バックから平原が発進。番手から出た新田の前に一旦は出たのですが,コーナーで内から新田が抵抗。平原が力尽き,先頭で直線に入った新田の優勝。新田がインから抵抗したため渡辺はマークしきれませんでしたが,その後ろの佐藤はインを回り,直線で新田と平原の間に進路を取って4分の3車身差で2着。平原マークから外を踏んだ諸橋が半車輪差の3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は昨年2月の全日本選抜競輪以来の優勝。ビッグは10勝目でGⅠは8勝目。オールスター競輪は2015年以来4年ぶりの2勝目。名古屋では2016年に高松宮記念杯を優勝しています。優勝から遠ざかっていたのは競技が主体なので,昨年は出走数が6回で今年もこれが3回目の出走となるため。ここは純粋な脚力で最上位の上に,菅田の先行が有力でしたから展開的にも有利そうで,よほどのことがなければ負けないだろうと思っていました。一旦は平原に前に出られたのですが,インから差し返したのは底力でしょう。ただラインの競走という観点だけでいえば,もう少し早めに番手から発進してもよかったような気はします。

 もう一度,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で展開されている,創造されない事物の定義Definitioの要件を確認しておきましょう。
                                        
 まず最初にいわれているのが,この定義は一切の原因causaを排除しなければならないということです。この原因というのが起成原因causa efficiensを意味しなければならないことはすでに示しました。ただしここでは,起成原因とはいわずに,事物が発生する原因といういい方をしておきます。
 この要件と等置されているのが,自己自身の説明のために自己の本性essentia以外には何も要してはならないということでした。このふたつの条件が等置できるということは,このときのスピノザは,事物の本性はその事物が発生する原因を示すことはないと考えていた可能性が高くなります。
 次にあげられている要件が,その定義が与えられれば,それが存在するか否かという問題が発生してはならないということです。ということはスピノザは,事物の本性はその事物の発生する原因を示すことはないのだけれど,その本性が与えられれば,それが存在するか否かという問題が生じないということはあり得ると考えていたと解する必要があるでしょう。
 第一部定義一によって,本性が存在を含むessentia involvit existentiamもののことを自己原因causam suiといいます。自己原因が上述の要件を満たすように組み入れられるためには,自己原因はその事物が発生する原因ではないという解釈をするほかありません。しかしもしそうでなければ自己原因なしに,その本性が与えられればその存在が必然的にnecessario鼎立するような定義が存在するという解釈が必要になります。実はデカルトRené Descartesは,ある事柄が事物の本性に含まれるということを,その事柄がその事物について真verumであるという主旨の定義を立てることによって,後者の解釈が可能であるという議論を組み立てています。これは説明すると煩雑になりますのでここでは省略しますが,詳しいことは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理五を参照してください。
 僕はここでのスピノザは,この議論に該当するような形で,創造されない事物の定義の要件を想定しているのではないかと思うのです。つまり,自己原因という概念notioを必要としないような仕方で定義論を展開していると考えるのです。
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竜王戦&内在と超越

2019-08-17 18:49:17 | 将棋
 13日に指された第32期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は豊島将之名人が6勝,木村一基九段が5勝。
 振駒で木村九段の先手となり相掛かり。先に歩を交換した後手の豊島名人が浮き飛車に構えると先手は高飛車にしました。
                                        
 後手が7二の銀を上がったところ。ここで先手は☗7七桂と跳ねました。これは驚きの一手。というのも☖8七歩で先手の角は行き場所がないからです。☗8五歩と打つことはでき,後手が飛車を逃げれば☗8七金と取れますが,☖8八歩成は金銀の両取りになっています。先手は☗8四歩と飛車を取れますが☖7八と☗同銀で先手の金損になりました。
 ただしこの局面は☗8三歩成の先手になっています。後手は☖7二金打と受けました。先手は☗8五飛と回ります。後手は歩切れなのでここは☖8二銀の一手。先手は☗8九飛打とし,これにも後手は☖9二角の一手です。
                                        
 先手は金損ですが後手は駒を投資して受けていますから,ここはバランスが取れているのかもしれません。ただ実戦は第2図からすぐに☗9六歩から攻めていったため,☖3四歩から角を使っていった後手が有利になりました。ほかの形が違うと有力だと思うのですが,この形だと先手としていい指し方であるようには僕には思えなかったです。
 豊島名人が先勝。第二局は23日です。

 神Deusが自己原因causa suiであることを是認すると,神が万物の原因であるということの意味が,神は万物の内在的原因causa immanensであるということになります。ここでは詳しく説明しませんが,論理的必然性によってそうならざるを得ないのです。したがって『エチカ』でいえば,第一部定理七によって実体substantiaが自己原因であり,第一部定理一四によって神のほかに実体が存在しないのであれば,第一部定理一八の神は万物の内在的原因であるということが必然的に帰結するのです。
 第一部定理一八は,神が内在的原因であるということを,超越的原因causa transiensではなく内在的原因であるといっています。デカルトRené Descartesが神に対して作出原因causa efficiensを問うことは可能であるということについては明言したものの,神が自己原因であるということについては頑なに認めようとしなかったのは,ここに最大の理由があります。つまり,神が自己原因であるということを認めてしまうと神が内在的原因であるということも同時に認めざるを得なくなり,そうなると神が超越的原因であることはできなくなります。ですが当時の神学的な観点においては神は超越的原因であり,超越的な存在existentiaでなければなりませんでした。デカルトはそれに反することを主張することをできる限り回避しようとしたのです。このためにデカルトは,神が自己原因であるということは肯定しようとしませんでしたし,そもそも自己原因が作出原因の一部を構成するということを肯定しようとしなかったのです。このあたりのことは『近世哲学史点描』で詳しく論じられていますので,それも参考にしてください。
 デカルトがいう作出原因と,スピノザがいう起成原因causa efficiensを,同一の語であるのに別の訳を僕が与えている理由は,このことに関係しています。つまりデカルトがいう作出原因には自己原因は含まれないのですが,スピノザがいう起成原因には自己原因が含まれるのであり,しかも自己原因ということから原因すなわち起成原因の何たるかが理解されなければならないというようになっているのです。
 この相違からすると,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』でスピノザがいっている原因は,スピノザ的起成原因より,デカルト的作出原因に近いのではないでしょうか。
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