スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&人間の力

2021-12-31 19:26:45 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた第45回東京2歳優駿牝馬
 スピーディキックは両脇の馬に挟まれるような発馬になって1馬身の不利。前にいこうとしたのはスティールルージュとロマンスロード。外のロマンスロードの方が前に出ての逃げ。控えたスティールルージュが2番手。2馬身差でギンガレールウェイとグラーツィア。5番手にピンクプラムとラインブレイカーとレディオガガ。8番手にクールフォルテ。9番手にヒストリックノヴァ。10番手にスピーディキックとレディーアーサーとプラチナプライド。13番手にドレンチェリー。14番手にラブラブパイロとコーミズアムール。2馬身差の最後尾にマリンカカリンカ。前半の800mは50秒3のハイペース。
 3コーナーを回ってから逃げたロマンスロードにスティールルージュが並び掛けていきました。後続も追ってきて3番手にヒストリックノヴァでさらに外からグラーツィア。直線に入るとスティールルージュが一杯になり,ヒストリックノヴァが2番手に。さらに逃げたロマンスロードも差してヒストリックノヴァが先頭。それをグラーツィアの外から伸びてきたスピーディキックが鮮やかに差し切って優勝。ヒストリックノヴァが4馬身差で2着。内目から追い込んできたクールフォルテが半馬身差で3着。
 優勝したスピーディキックエーデルワイス賞以来の勝利。このレースが南関東への転入初戦で南関東重賞は初勝利。重賞の勝ち馬ですから能力は最も高いとみていましたが,前走は1800mでいつもの末脚が使えていなかったので,距離には多少の不安を感じていました。ですがこの距離なら大丈夫だったということでしょう。来年のクラシック戦線でも注目ですが,末脚で勝負するタイプですから,展開やコースによって力を発揮できないというケースもあるかもしれません。父はタイセイレジェンド。母の父は2003年にシンザン記念と武蔵野ステークス,2007年に佐賀記念を勝ったサイレントディール
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は昨日の東京シンデレラマイルに続いての南関東重賞23勝目。東京2歳優駿牝馬は初勝利。管理することになった浦和の藤原智行調教師は開業から7年5ヶ月で南関東重賞初勝利。

 第五部定理四証明によって,身体corpusの刺激状態を明瞭判然と認識するcognoscereということがどういうことであるのかが分かりました。そしてこれによって,第五部定理三でいわれている明瞭判然ということが,どういうことを意味しているのかということも分かります。当然ながらそれも,第五部定理四でいわれている明瞭判然と同じ意味なのであって,共通概念notiones communesによる認識cognitioを意味することになるからです。つまり第五部定理三を,現実的に存在する人間に対してもう少し具体的に適用すれば,受動passioという感情affectusは,僕たちがそれについて共通概念に基づいて認識することによって,受動であることを止めるということなのです。そして第五部定理四が示しているのは,僕たちにはそれをすることができるということです。ただしそれはその感情自体の十全な観念idea adaequataではありませんから,共通概念に基づいて認識される限りにおいては受動を止めるのですが,そこから外れる部分に関しては,相変わらず受動であり続けるといわなければなりません。
                                   
 これにより,第五部定理三が成立するということと,自分がある受動感情,たとえば悲しみtristitiaを感じていると認識している人間が悲しみを感じていないというのは不条理であるということが,なぜ両立するのかということも明らかになったといえるでしょう。前者は受動感情が共通概念に基づいて認識されるということを主眼に置いて主張されているのに対して,後者は共通概念による認識は受動感情の十全な認識ではないという点に着眼した主張であり,各々の主張はどのような観点からそれをいうのかという点の相違に帰することができるからです。そして僕たちは受動感情をそれ自体で十全に認識するということはないのですから,第四部定理六は,たとえ僕たちが受動感情を明瞭判然と認識することができるとしても,あるいは実際に受動感情を明瞭判然と認識したという場合でも,なお効力をもつ定理Propositioであるといえます。
 ただし,共通概念に基づいて明瞭判然と認識する範囲の中では,受動感情は受動であることを確実に止めるのですから,これは確かに第四部定理六の受動感情の力potentiaに対抗する,人間の力であるということは間違いないのです。
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東京シンデレラマイル&第五部定理四証明

2021-12-30 19:22:12 | 地方競馬
 第15回東京シンデレラマイル
 発馬後の加速が抜群だったケラススヴィアが難なくハナへ。ダノンレジーナが2番手でマークし3番手にはテーオーブルベリー。4番手にフクサンローズで5番手にウワサノシブコ。6番手はグロリオーソとミラバーグマンとレイナブローニュ。9番手にメモリーコウとヒイナヅキ。11番手はサルサレイアとラインカリーナとヴィルトファンとカイカセンゲン。2馬身差でルイドフィーネ。2馬身差の最後尾にマルカンセンサーという隊列。前半の800mは49秒9のハイペース。
 ケラススヴィアを徹底的にマークしたダノンレジーナは3コーナーから4コーナーにかけてケラススヴィアに並び掛けていきました。さらにその外からミラバーグマンも追ってきて3頭が雁行に。直線に入るとダノンレジーナがケラススヴィアを競り落としましたが,ミラバーグマンは一杯になりました。外から追い込んできたのはメモリーコウ。しかし抜け出したダノンレジーナに追いつくことはできず,先に抜け出していたダノンレジーナが優勝。ケラススヴィアを差したメモリーコウが1馬身4分の1差で2着。ケラススヴィアが4分の3馬身差で3着。
 優勝したダノンレジーナしらさぎ賞以来の勝利で南関東重賞3勝目。東京シンデレラマイルは第14回からの連覇で2勝目。ここでは力量上位の存在。課題は57キロという斤量でしたが,克服しました。これはやはりこのメンバーの中では力量が上だから可能なことなのであって,実際には着差以上の力量差があるとみていいでしょう。距離が延びるのはマイナスですが,このくらいの距離なら牡馬を相手にしても南関東重賞を勝てる力があるのではないかと思います。父は2010年にラジオNIKKEI杯2歳ステークス,2013年にアメリカジョッキークラブカップを優勝したダノンバラード。その父がディープインパクトで母が2001年にクイーン賞,2002年にTCK女王盃を勝ったレディバラード。3代母がドバイソプラノの母にあたる同一牝系。はとこに2015年に関東オークスJBCレディスクラシック,2016年にTCK女王盃スパーキングレディーカップJBCレディスクラシック,2017年にマリーンカップさきたま杯を勝ったホワイトフーガ。Reginaはイタリア語で女王。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手はしらさぎ賞以来の南関東重賞22勝目。第2回,14回に続く連覇で東京シンデレラマイル3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞53勝目。第10回,14回に続く連覇で東京シンデレラマイル3勝目。

 それでは,どのような受動感情であったとしても,現実的に存在する人間は,それを明瞭判然と認識するcognoscereことができるということを示すために,スピノザが第五部定理四をどのように証明しているのかをみていくことにします。そしてこれによって,第五部定理三でいわれている,受動感情の明瞭判然とした観念ideaというのが,いかなる観念であるのかということも分かるでしょう。受動感情は受動一般に含まれているからです。
                                   
 まず第二部定理三八によって,すべてのものに共通したものは十全にしか概念され得ません。そして第二部定理一二によって,もしも僕たちの身体corpusのうちに,その身体の現実的本性actualis essentiaを変化させるようなこと,つまり身体の中に起こることというのが生じたら,僕たちの精神mensはそれを認識します。しかるに僕たちの身体を刺激するafficere何かは物体corpusです。そして第二部自然学①補助定理二により,すべての物体はいくつかの点において一致します。いい換えればそうした物体と僕たちの身体はいくつかの点で一致します。よって僕たちは,僕たちの身体の刺激状態に関して,少なくともそれが僕たちの身体の現実的本性を変じるような刺激である限り,それを明瞭判然と認識するのです。
 この証明Demonstratioから分かるように,僕たちが自分の身体の刺激状態を明瞭判然と認識するのは,共通概念notiones communesを通してです。いい換えれば共通概念が十全adaequatumであることによって,自分の身体の刺激状態は明瞭判然と認識されるのです。ところで共通概念というのは,十全ではあるのですが,第二部定理三七によって,個物res singularisの本性を構成するわけではありません。いい換えれば現実的に存在する個物の十全な観念idea adaequataというわけではありません。したがって僕たちが自分の身体の刺激状態を明瞭判然と認識するといわれている観念は,僕たちの身体を刺激する外部の物体の十全な観念ではないのはもちろん,僕たちの身体の十全な観念でもないのです。ですから,この定理Propositioでは,明瞭判然とした概念を形成し得ない身体の刺激状態はないといわれていますが,それは身体の刺激状態を十全に認識することができるという意味ではないのです。刺激する物体と一致することだけが十全に認識されるのです。
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農林水産大臣賞典東京大賞典&変状と感情

2021-12-29 19:16:22 | 地方競馬
 第67回東京大賞典
 枠入りにかなりの時間を要したキャッスルトップの逃げに。向正面にかけて5馬身くらいのリードを奪いました。2番手にアナザートゥルースで3番手にクリンチャー。4番手はノンコノユメとミューチャリー。6番手にタービランスとデルマルーヴルとオメガパフュームでこの7頭は集団。2馬身差でロードブレスとジョエルとサンライズノヴァ。その後ろのノーブルサターンまでの4頭は集団。この後ろは大きく離れてウェスタールンドとシゲノブ。最後尾にエイシンスレイマンという隊列。前半の1000mは61秒5のミドルペース。
 キャッスルトップは向正面で一杯。3コーナーではアナザートゥルースが先頭になり,ミューチャリーとオメガパフュームが追ってきました。ミューチャリーは直線の入口のところで外に膨れてしまいました。このために外にいたオメガパフュームは弾かれて大外に。それでもオメガパフュームは伸びてきて,この間にアナザートゥルースとミューチャリーの間を突いたクリンチャーと,大きく離れての優勝争い。これを制したオメガパフュームが優勝。クリンチャーは半馬身差で2着。立て直して再び伸びてきたミューチャリーに大外からウェスタールンドが一気に追い込んできて,フィニッシュ直前でミューチャリーを差して2馬身差の3着。ミューチャリーがハナ差で4着。
                                   
 優勝したオメガパフュームは昨年の東京大賞典以来の勝利で大レース5勝目。第64回65回も制していて,東京大賞典は四連覇となる4勝目。このレースはメンバーからはオメガパフュームが勝つかミューチャリーが勝つかという争い。共に4コーナーで不利があったため波乱の結末もあり得ましたが,その不利を克服してねじ伏せました。それだけ力の差が大きかったということでしょう。ただ例年に比べると今年はレベルがやや低かったようには思います。母の父は第48回を制したゴールドアリュール。従姉に2018年に愛知杯を勝ったエテルナミノル。従弟に今年の東京湾カップを勝っている現役のギガキング
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース制覇。四連覇で東京大賞典4勝目。管理している安田翔伍調教師は昨年の東京大賞典以来の大レース5勝目。四連覇で東京大賞典4勝目。

 もうひとつは,スピノザは変状affectioと感情affectusを区別しないで使うことがあるという点です。これは岩波文庫版の訳者である畠中尚志も,スピノザのタームの使用のルーズな一面として指摘しているところです。ただ,日本語では変状と感情はまるで違った語ですが,ラテン語では類似した語になりますので,そのあたりは考慮しておかなければならないでしょう。
 第五部定理四でいわれている身体的変状は,現実的に存在する人間の身体humanum corpusの刺激状態を意味するのであって,感情を意味するわけではありません。ただ,もしこの定理Propositioが成立するのであれば,僕たちが明瞭判然と認識するcognoscereことができない受動感情はないということも帰結します。スピノザはそのことを,この定理からの帰結事項として系Corollariumで示しているのですが,僕はこの点について前もってスピノザとは別の仕方で説明しておきます。
 受動感情というのは,当然ながら人間が何事かを受動するafficiことによって,あるいは同じことですが,人間が何らかの働きを受けるpatiことによって感じる感情です。したがって,これは現実的に何か意味があるというわけではありませんが,もし人間が何の働きactioも受けないで存在するとしたら,受動感情に刺激されるafficiことは起こりません。一方,現実的に存在する人間が何らかの働きを受けたからといって,必ず何らかの感情をその働きを受けた人間が感じるとは限らないかもしれません。いい換えれば,単に何らかの働きを受けるだけで,感情には刺激されないという場合も,少なくとも論理上はあり得るでしょう。この場合はその人間は単に働きを受けている,つまり受動passioという状態にあるというだけであって,受動感情に刺激されているとはいえないことになります。
 このことから分かるのは,受動感情というのが受動一般に属するということです。したがって,受動一般についてある命題が成立する,いい換えればその命題が真verumであるとするなら,その命題は受動感情の場合も真であるということになります。なので第五部定理四が成立するなら,現実的に存在する人間は自身が刺激されるあらゆる受動感情について,何らかの明瞭判然とした観念ideaを形成することができることになります。
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ホープフルステークス&第五部定理四

2021-12-28 19:45:58 | 中央競馬
 第38回ホープフルステークス
 逃げたのはグランドラインで,2馬身くらいのリードになりました。2番手のボーンディスウェイ,3番手のキラーアビリティ,4番手のオニャンコポンの3頭は集団。2馬身差でラーグルフとジャスティンパレスとタイラーテソーロ。2馬身差でシェルビーズアイとサトノヘリオス。2馬身差でコマンドラインとマテンロウレオ。4馬身差でフィデル。アスクワイルドモア,アケルナルスターの3頭は集団で5馬身差の最後尾にクラウンドマジックというかなり縦長の隊列。前半の1000mは60秒1のミドルペース。
 3コーナーを回るとグランドラインのリードは徐々になくなっていき,4コーナーの手前では外からボーンディスウェイが並び掛けました。直線に入るとその外からキラーアビリティも並んできて,あっさりと内の2頭を差して先頭に。そのまま抜け出したキラーアビリティが快勝。キラーアビリティの外から追い込んできたジャスティンパレスが1馬身半差で2着。ジャスティンパレスの内から伸びたラーグルフが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したキラーアビリティは重賞初制覇となる大レース優勝。デビュー戦は5着。2戦目は2着に7馬身もの差をつけてレコードタイムで優勝。前走はオープン特別でクビ差の2着という戦歴。今日も含めての内容からすれば,かなり高い能力をもっている馬ということは明白ですが,実際にこの馬を負かしている馬というのも存在するわけですから,そういった馬たちの今後にも注目しなければならないでしょう。父はディープインパクト
 騎乗した横山武史騎手は一昨日の有馬記念に続いての大レース5勝目。ホープフルステークスは初勝利。管理している斉藤崇史調教師は宝塚記念以来の大レース7勝目。ホープフルステークスは初勝利。

 僕が第五部定理三が名目的な定理Propositioであるという解釈を採用しないのは,事前に第一部定理五との類比は適切な事例ではないといっておいたことと関係しています。
                                   
 第一部定理五は,複数の実体substantiaeが存在するかしないかということは考慮の外において論証されています。そして実際に複数の実体が存在するということはないのです。これに対して第五部定理三は,受動感情が明瞭判然と認識されるということがあるかないかということは考慮の外に置かれて論証されていると読解することはできるのですが,第一部定理五の場合とは異なり,そうしたことは実際にあるのです。つまり,受動感情が明瞭判然と認識されるということはあるのであって,なかんずく現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちでそうしたことが生じるのです。なので少なくとも第五部定理三を示すときに,スピノザがこの定理が実在的な意味をまったくもたないと考えていたとは思いにくいのです。ただ,この定理および証明Demonstratioのうちに,一切の不備はないと解するために,この定理を名目的な定理と解するのが有力なのは間違いありませんから,そのように解釈することを批判しようという意図は僕にはありません。
 現実的に存在する人間の精神が,受動感情を明瞭判然と認識するcognoscereことができるということの根拠となるのは,第五部定理四です。
 「我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない」。
 この定理に関してはふたつほど注意点があります。
 まずスピノザが身体の変状affectiones corporisというとき,それは現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusから刺激を受けるafficiということを意味する場合もありますし,現実的に存在する人間の精神がその状態を認識する観念ideaのことを意味する場合もあります。ただこれはややこしいので,僕はこのブログでは身体の変状ということを,身体の刺激状態の観念という意味で統一し,刺激状態のことはそのまま刺激状態ということにしています。しかしこの定理でいわれている身体的変状というのは,人間の身体が外部の物体から刺激を受けている状態を意味します。僕がいう身体の変状とは異なりますので,混同しないようにしてください。
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九十九島賞争奪戦&類比

2021-12-27 19:18:19 | 競輪
 昨日の佐世保記念の決勝。並びは新山‐金子の東日本,深谷‐鈴木‐和田の南関東,竹内‐井上‐小川の西国で松岡は単騎。
 金子がスタートを取って新山の前受け。3番手に松岡,4番手に深谷,7番手に竹内という周回に。残り3周のバックを出ると竹内がゆっくりと上昇開始。新山は少し踏んでいきましたが,ホームを出ると竹内が新山を叩きました。そこから深谷がすぐに発進。バックで竹内を叩いて打鐘。4番手に竹内,切り替えた松岡が7番手,少し離れた8番手に新山という一列棒状に。バックから竹内が発進しましたが,深谷のスピードがよく不発に。打鐘前からの先行になった深谷は直線で一杯。番手から出た鈴木,深谷と鈴木の間を突いた和田,不発となった竹内の後ろから自力に転じて鈴木の外を伸びた井上と井上マークで井上のさらに外に進路を取った小川の4人の優勝争い。和田と井上は僅差でしたが,写真判定の結果は和田の優勝。井上がタイヤ差の2着。鈴木が4分の1車輪差の3着で小川が半車輪差で4着。
 優勝した千葉の和田健太郎選手は昨年のKEIRINグランプリ以来の優勝。記念競輪は一昨年の京王閣記念以来となる3勝目。昨年もグレードレースの優勝がないままグランプリに出走したように,堅実に上位に着をまとめるタイプで,優勝はあまり多くありません。このレースは深谷が先行するのは意外だったのですが,レースの流れから仕方がないところだったのでしょう。前のふたりの中を割って,追い込み選手としての脚に衰えがあるというわけではないというところは示しました。

 第五部定理三には一切の不備がないという見方をすることも可能です。それは,スピノザがこの定理Propositioで論証しようとしていたことは,僕がこの定理は成立するということを示した事柄だけだったと解釈する方法です。すなわちスピノザはここで,なにがしかの受動感情が明瞭判然と認識されさえすれば,その限りにおいてそれは受動passioであることを止めるということを論理的に示そうとしたのであり,実際にそうしたことが生じるかどうかということにはまったく注目していないと解する方法です。適切な事例とはいえないのですが,以下の点と類比的に考えてみましょう。
                                   
 スピノザは第一部定理五で,同一の属性attributeを有する複数の実体substantiaeは存在しないといっています。このときにスピノザが論証しようとしたのは,自然naturaのうちに複数の実体があり,それらの実体は異なった属性によって本性naturaeを構成されているということではありません。このことは第一部定理一四で,実在する実体はDeusだけであるといわれていることから明白です。したがってスピノザが第一部定理五で論証しようとしたのは,もしも自然のうちに複数の実体が存在するのであれば,それらの実体は同一の属性によってその本性を構成されることができないということを論理的に示すことだったのであり,実際に複数の実体が存在して,それらが異なった属性によって本性を構成されているということではなかったということが分かります。
 第一部定理一四は実在する実体に関連する定理であり,第一部定理五は実在する実体に関連する定理ではありません。このことから僕はこのブログで,前者が実在的な定理であるのに対して後者は名目的な定理であるといういい方をかつてしました。これと同じように,第五部定理三もまた実在的なことに関連する定理ではなく,名目的な定理であると解するなら,この定理が成立するということだけでなく,論証Demonstratioにも何らの不備が含まれていないと解することができるでしょう。
 僕はある理由があって,この解釈は採用しません。しかし不備があるというように思えてこの定理で躓いてしまうという場合には,このように解釈することは有力な方法であるといえるでしょう。
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有馬記念&両立

2021-12-26 19:45:34 | 中央競馬
 グランプリの第66回有馬記念
 パンサラッサが逃げて6馬身くらいのリード。2番手にはタイトルホルダー。3馬身差でウインキートス。4番手にペルシアンナイトとシャドウディーヴァ。6番手にディープボンド。7番手にキセキ。8番手にクロノジェネシス。9番手にエフフォーリア。10番手にメロディーレーン。11番手にステラヴェローチェ。12番手にモズベッロとアカイイト。2馬身差でユーキャンスマイルとアリストテレス。3馬身差の最後尾にアサマノイタズラ。ハイペースでした。
 2周目の3コーナーにかけてパンサラッサのリードは縮まっていき,外からタイトルホルダーが並んでいきました。その後ろから追ってきたのがキセキでさらに外からエフフォーリア。直線はエフフォーリアの外からステラヴェローチェが追ってきて,この2頭の間からクロノジェネシス。さらにエフフォーリアの内からディープボンドも伸びてきてこの4頭の争い。先んじていたエフフォーリアがすべての追撃を退けて優勝。内のディープボンドが4分の3馬身差で2着。苦しいコース取りだったクロノジェネシスが半馬身差の3着でステラヴェローチェが半馬身差で4着。
                                   
 優勝したエフフォーリア天皇賞(秋)からの連勝で大レース3勝目。このレースはこの馬とクロノジェネシスの力が他に対して上で,どちらかが勝つだろうと思っていました。有馬記念は前走で掲示板を外している馬が巻き返すことは困難な傾向にあり,クロノジェネシスの前走は凱旋門賞だったとはいえ7着でしたので,今年もその傾向通りの結果になったことになります。来年は日本競馬の中心を担うことになるでしょう。父はエピファネイア。母の父は第50回を制したハーツクライ。祖母がケイティーズファースト。従兄にアドマイヤムーン。Efforiaはギリシア語で強い幸福感。
 騎乗した横山武史騎手は天皇賞(秋)以来の大レース4勝目。有馬記念は初勝利。管理している鹿戸雄一調教師は天皇賞(秋)以来の大レース4勝目。有馬記念は初勝利。

 前もっていっておきたかったことが少し長くなってしまいました。どのレベルであったとしても,ある観念ideaの秩序ordoと連結connexioは,その観念対象ideatumの秩序と連結と同一です。したがってある観念がある特定の仕方で現実的に存在する人間の精神mens humanaと関連づけられるなら,それと同じ秩序と連結で観念対象もその人間と関連付けられます。なのでどのレベルで精神が認識しているかに注目することは不要です。一方で,レベルが異なれば観念対象も異なるのですから,その観念が混乱した観念idea inadaequataであるなら,混乱の度合いに差が生じてもおかしくはないのです。これは必ず混乱の度合いに差が生じなければならないということではなく,差が生じない場合もあるでしょうが,生じる場合もあり得るということです。どのような場合に生じるかということは,個々の事例で解していくほかありませんので,一般的な解答をここで出すことはできません。
 さて,こうしたことが理解できれば,第五部定理三が論理的に成立しているということは,なお確かだといえるでしょう。しかし一方で,ある人間の精神が,自分は悲しみtristitiaを感じているという認識cognitioを有するのだとしたら,その人間が悲しみを感じていないということはそれ自体で不条理であるということもまた確かなことだといえるでしょう。つまり,このふたつのことは両立するのです。いい換えれば,自分は悲しみを感じていると認識している人間は確実に悲しみを感じているのであって,しかしそのことは第五部定理三が成立するということを排除はしないのです。もしも第五部定理三の証明が,第二部定理二一第三部定理三に訴求しているのは不備があると思えるとすれば,それはこの定理Propositioが,これらが両立するということについては何らその要因を示していないからだといえます。もう少し詳しくいえば,もしもその要因が定理のうちに示されているとすれば,それは受動感情が明瞭判然と認識されるということのうちにしかないのは明白ですが,受動感情が明瞭判然と認識されるということがいかなることであるのかということ,またそうしたことが実際に生じ得ることなのかということが,まったく明らかにされていないからだといえます。
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中山大障害&必要条件と十分条件

2021-12-25 19:15:31 | 中央競馬
 第144回中山大障害
 ブルーガーディアンは発馬のタイミングが合わず,8馬身ほど遅れてしまいました。レースの前半はビレッジイーグルが逃げ,マイネルプロンプト,アサクサゲンキ,オジュウチョウサン,ラヴアンドポップ,ベイビーステップ,タガノエスプレッソという隊列で進みました。発馬で不利があったブルーガーディアンも馬群にとりつき,14頭が一団でのレース。
 大生垣のあたりでオジュウチョウサンがマイネルプロンプトと並んで2番手。4番手にアサクサゲンキ。5番手にタガノエスプレッソとラヴアンドポップという隊列に。向正面に入ってオジュウチョウサンが単独の2番手に上がると外からラヴアンドポップが追撃。オジュウチョウサンは抜かれないように対応し,逃げたビレッジイーグルは一杯になってオジュウチョウサンが先頭に。ラヴアンドポップは単独の2番手までは上がりましたが,そこで一杯。今度はベイビーステップとブラゾンダムールが追い上げてきました。しかしベイビーステップもそこまで。ブラゾンダムールが単独の2番手に上がり,オジュウチョウサンを追いましたが,直線に入ってまたオジュウチョウサンが差を広げました。フィニッシュにかけて再び差は詰まったのですが,オジュウチョウサンのリードはセイフティーでそのまま優勝。ブラゾンダムールが3馬身差で2着。直線で大外から追い込んできたレオビヨンドが5馬身差で3着。
 優勝したオジュウチョウサンは昨年の中山グランドジャンプ以来の勝利。中山大障害は第139回140回を連覇していて4年ぶりの3勝目。JGⅠは8勝目。この馬は昨年の中山グランドジャンプまで,障害レースでは無敵を誇りましたが,その後は3連敗。やや能力に陰りを見せていましたが見事に復活しました。このレースはややメンバーのレベルが下がっていたのは事実だと思いますが,自ら勝ちにいっての結果ですから,大きく称えられてよいでしょう。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。ひとつ上の全兄に2013年にラジオNIKKEI賞を勝ったケイアイチョウサン
 騎乗した石神深一騎手は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース9勝目。第139回,140回,141回に続く3年ぶりの中山大障害4勝目。管理している和田正一郎調教師は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース8勝目。中山大障害は第139回,140回に続く4年ぶりの3勝目。

 すでに示したように,僕たちはある事柄を知っていれば,それを知る,つまり自分がある事柄を知っているということを知ることができますし,そのことを知ることができ,さらにそのことを知ることができるといった具合に,無際限に連鎖していきます。しかしこの無際限な連鎖が生じるためには,ある事柄を知っているということさえあれば十分で,かつそのことがないならこの連鎖は発生しません。すなわちある事柄を知っているということは,それを知りまたそれを知るという無際限な連鎖が発生していくための,必要条件でありかつ十分条件でもあるのです。したがって僕たちは,どのレベルでそれを認識するcognoscereかを気にする必要はありません。この無際限な連鎖のどこかの認識cognitioが意識されるなら,自分がある事柄を知っていることを理解することになるからです。このために僕たちは精神mensがどのレベルでそれを認識しているとしても,単一である自分の精神がそれを認識しているというように知覚するpercipereのです。
                                   
 これは,第二部定理一七の例でいえば,外部の物体corpusが僕たちの身体corpusを刺激するafficereということは,僕たちがその外部の物体が現実的に存在するということを知覚し,かつ自分がそれを知覚していることを知り,さらにそのことを知るという無限連鎖の十分条件であり必要条件であるという意味です。なので僕たちは,単一の精神が,外部の物体が現実的に存在すると知覚し,かつ自分がそのことを知っているということも知覚するというようにこの現象を理解するということです。実際に精神がどのレベルでそのことを認識していようと,外部の物体が僕たちの身体を刺激しているということと,僕たちがその外部の物体が現実的に存在していると知覚していることは確実なのですから,考察の上でも,それを僕たちがどのレベルで認識しているのかということを問う必要もないでしょう。ただ僕自身の見解opinioとしていえば,身体の精神,この場合でいえば,外部の物体が現実的に存在しているという表象像imagoは無意識のレベルであり,それを知っているといわれるときには,それが意識のレベルになるという点だけはいっておきます。ただしこのことについてここで争うことはしません。
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棋王戦&平行論からの帰結

2021-12-24 18:57:49 | 将棋
 21日に指された第47期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は永瀬拓矢王座が5勝,郷田真隆九段が4勝。
 振駒で郷田九段の先手となり,矢倉。後手の永瀬王座は中住まいに構え,先手は穴熊に潜りました。この将棋は戦いになった後,後手が駒得になりましたので,そのあたりで後手がリードしたようです。
                                        
 後手が5七の銀を成ったところ。これを☗同金と取ると☖4八角の両取りがあります。それに対しては☗3七桂という返し技があるのですが,☖6六角成☗4五桂では苦しいとみたか,☖3五歩と突きました。ただ☖7七成銀☗同金では後手のリードが決定的になったようにも思われます。
 後手は☖6八角と追撃。☖3五角成とされてはじり貧とみて☗3四歩と取り込みましたが☖9五歩☗同歩☖7七角成☗同桂☖7八金で先手玉は寄り形になりました。
                                        
 先手はもう少し頑張ることはできたと思いますが,大勢への影響はなかったのかもしれません。
 勝者組の永瀬王座が勝ったので挑戦権を獲得。棋王戦五番勝負への出場は第43期以来4年ぶり2度目。第一局は来年の2月6日に指される予定です。

 ごく簡単な仕方で説明します。
 第二部定理一三系にあるように,人間は身体Corporeと精神Menteから成っています。このとき,精神は思惟の様態cogitandi modiで,その観念対象ideatumは第二部定理一三により身体です。つまり人間の精神mens humanaと人間の身体humanum corpusは平行論における同一個体です。この部分の考察では,この精神のことを,僕は身体の精神といっているのです。
 身体と精神,あるいは同じことですが身体と身体の精神が異なるものであるということは,とくに説明するまでもなく明白でしょう。そうであれば,身体の精神と精神の精神が異なるものであるということも明白だと理解できる筈です。なぜなら,身体の精神と精神の精神の間にある関係は,平行論における同一個体としての人間の身体とその人間の精神の間にある関係と完全に一致しているからです。つまり,人間が身体と精神から成っているといわれるのと同じ意味で,人間の精神は,身体の精神と精神の精神から成っているといわれることになるのです。さらに人間の精神の精神は,人間の精神の精神とその人間の精神の精神の精神とから成っているという具合に,無際限に続いていくことになるのです。ですから,人間には異なった精神が無際限にあるという結論が導出されることになります。
 ただし僕たちはこうしたことを明瞭に知覚するpercipereことができるわけではありません。むしろ身体の精神が認識しようと精神の精神が認識しようと,同じように精神,自分の精神が認識していると知覚しているでしょう。そのようになるのにはいくつか理由がありますが,ひとつは認識するcognoscereのは人間の精神,この場合には身体の精神だけでなく精神の精神やその精神といったすべての精神を含んだ上での精神ですが,そうした精神であって身体ではないということです。このために僕たちは,自分の身体と自分の精神が異なると知覚するようには,自分の精神と自分の精神の精神が異なるとは知覚することができないのです。
 もうひとつは,ある観念が観念対象となるためには,その観念が本性naturaの上で前もって存在していなければならないという点です。一方,その観念が前もって存在していさえすれば,その観念の観念は形成され得るという点です。
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農林水産大臣賞典名古屋グランプリ&異なった精神

2021-12-23 19:52:22 | 地方競馬
 第21回名古屋グランプリ
 発走後の正面ではダンビュライト,ライトウォーリア,ケイアイパープルの3頭が並んでいましたが,コーナーワークでダンビュライト,ライトウォーリア,ケイアイパープルの順になりました。3馬身差でヴェルテックス。5馬身差でホーリーブレイズ。6馬身差でナムラムツゴロー。2馬身差でウインハイライトとトーセンブル。2馬身差でドスハーツ。3馬身差でルールソヴァール。2馬身差の最後尾にエグジットラックという隊列。2周目の正面に入ると3番手はヴェルテックスとケイアイパープルの併走となり,2馬身差でホーリーブレイズ。ドスハーツがその後ろまで追い上げてきました。ミドルペース。
 2周目の向正面でライトウォーリアがついていかれなくなり,ダンビュライトとケイアイパープルの2頭が雁行に。外から追い上げてきたヴェルテックスが3番手に上がり,ホーリーブレイズが4番手に。直線は前の3頭が横に並ぶ形になりましたが,大外のヴェルテックスが内の2頭を突き放して優勝。早めに逃げ馬に並び掛けたケイアイパープルが2馬身半差で2着。逃げたダンビュライトが4馬身差の3着に粘り,ホーリーブレイズがクビ差で4着。
 優勝したヴェルテックスは重賞初勝利。このレースはかなり低調なメンバー構成となり,前走の浦和記念で3着になったこの馬がダートの実績では最も上といえる存在。快勝ではありましたが,そうしたメンバー構成での勝利ですから,すぐに多くのことを望むのは酷なのではないかと思います。父はジャスタウェイ。母の父はサクラバクシンオーフロリースカップシラオキローズトウショウの分枝。母は2003年にCBC賞,2004年に函館スプリントステークス,2005年に函館スプリントステークス,2006年にCBC賞とセントウルステークスを勝ったシーイズトウショウ。Vertexはラテン語で頂点。
 騎乗した横山武史騎手と管理している吉岡辰弥調教師は名古屋グランプリ初勝利。

 ある観念ideaによってその一部を構成されている知性intellectusないしは精神mensと,その観念の観念idea ideaeによって一部が構成されている知性ないしは精神は,異なった知性ないしは精神であるという見方ができます。スピノザの哲学を厳密に解そうとするならばこの解釈が正当かもしれません。
                                   
 第二部定理一七により,現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusに刺激されるafficiと,その人間の精神mens humanaはその外部の物体が現実的に存在すると知覚します。つまり,その外部の物体が現実的に存在するという観念が,その人間の精神のうちに生じます。このとき,この観念が生じる人間の精神というのは,外部の物体に刺激された人間の身体の精神であるといっておきましょう。
 現実的に存在する人間の精神は,その精神のうちにある観念が生じると,その観念が生じたということを認識するcognoscereことができます。上述の例でいえば,この人間の精神は,自分の精神が外部の物体が現実的に存在していると知覚しているということを認識することができます。これは外部の物体が現実的に存在するという観念の観念です。この観念の観念が生じている精神は,観念が生じているのが身体の精神であるといういい方に対比させていうなら,精神の精神というべき精神で,観念が生じている精神とは,厳密には異なった精神であると解するべきでしょう。
 観念の観念も観念対象ideatumにはなりますし,その観念もまた観念対象になるのであり,この関係は無際限に続いていきます。つまり,僕たちの精神のうちにある観念が生じれば,僕たちはその観念が生じたということを知ることができ,さらにそれを知っているということを知ることができるという具合に無際限に続いていくのです。それらの精神は厳密にはすべて異なった精神であるとみられるべきだということになるでしょう。しかし一方で,どの精神も僕たちの精神であって,僕たちはどの段階でも,少なくとも論理上はそのすべてを認識することができるのですから,それらはやはり同一の精神であって,異なった精神であるというのは不条理であるようにも思えます。ですがこのことは,平行論を導入することによって,その不条理性を排除できると僕は考えます。
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農林水産大臣賞典兵庫ゴールドトロフィー&相違

2021-12-22 20:26:24 | 地方競馬
 第21回兵庫ゴールドトロフィー。リュウノシンゲンが感冒のために出走取消となり11頭。
 発走後の正面ではイグナイターとヒロシゲゴールドが併走。3馬身差の3番手にラプタスで4番手にテイエムサウスダン。6番手がワイドファラオとイダペガサスで8番手のメイショウワダイコまでの5頭は集団。3馬身差でトーセンレビュー。3馬身差でクリノフウジン。1馬身差でスマートアヴァロン。3馬身差の最後尾にスマハマ。コーナーワークでイグナイターが単独の逃げとなり,向正面に入って1馬身のリードになりました。ミドルペースに近いくらいのハイペース。
 2番手になったヒロシゲゴールドは向正面半ばでついていかれなくなり後退。2番手に上がったラプタスが逃げるイグナイターとの差を詰めていき,少し離れた3番手まで上がってきたテイエムサウスダンまでの3頭の争い。直線は一番外に出たテイエムサウスダンの伸び脚が際立ち,内の2頭を差し切って優勝。真ん中のラプタスが内のイグナイターは差して1馬身差の2着。逃げたイグナイターが1馬身4分の1差で3着。
                                  
 優勝したテイエムサウスダンオーバルスプリント以来の勝利で重賞4勝目。ここはラプタスと共にこの距離での実績で他に優る馬。ラプタスが59キロであったのに対し,こちらは58キロでしたので,その分だけ有利に戦えたというところはあったかもしれません。今日のようなレベルでの戦いならまだ重賞の勝利数を増やしていかれるでしょうし,もう少し強いメンバーとの争いでも,戦えるだけの能力があるまではないかと思います。父はサウスヴィグラス
 騎乗した岩田康誠騎手は第6回,7回,8回,13回に続き8年ぶりの兵庫ゴールドトロフィー5勝目。管理している飯田雄三調教師は兵庫ゴールドトロフィー初勝利。

 観念ideaそのものとその観念の観念idea ideaeの混乱の度合いに差があるのに,そのふたつが同一個体であることが不条理ではないことは,ふたつの観点から説明することができます。
 ひとつはこの観念も観念の観念も,同一の人間の知性intellectusのうちにあるという点です。なのでこのふたつは同一の連結connexioと秩序ordoで神Deusと関連付けられなければなりません。それは観念が混乱していようと十全adaequatumであろうと同じであって,混乱の度合いに差があるかないかということとは関係ないのです。これはこのふたつが同一個体であるという観点からの説明だといえます。
 もうひとつは,ある観念と観念の観念の区別distinguereからの説明です。これは以前に詳しく検討したことですが,観念というのは思惟の様態cogitandi modiであったとしても,必ず様態的にmodaliter区別されるわけではありません。観念対象ideatumが実在的にrealiter区別されるのであれば,観念の間の区別も実在的区別であるといわなければならないからです。しかるに,人間の精神mens humanaのうちにある観念があるというとき,観念は必ず何かの観念,つまり観念対象を有する観念であるのですが,第二部公理五から分かるように,人間の精神が認識するcognoscereのは思惟の様態でないのなら物体corpusです。つまり人間の精神のうちに観念があるといわれる場合には,物体の観念があるということになり,観念対象は物体であることになります。これに対して観念の観念の観念対象というのは,それ自体で明らかなように観念です。よって,物体と観念,いい換えれば延長Extensioの様態と思惟の様態は実在的に区別されなければならないのですから,同じ人間の精神のうちにある観念とその観念の観念がある場合にも,実はそれらは様態的にではなく実在的に区別されなければならないのです。ですからそのふたつの混乱の度合いに差があるのは,むしろ当然だといってもいい過ぎではありません。この例から分かるように,同じ人間の知性のうちにある観念と観念の観念の相違というのは,同じ人間の身体humanum corpusと精神の相違に類するような相違なのですから,異なっているのが当然だという方が理屈としては合っているからです。
 ここでは同じ知性のうちにあるといういい方をしましたが,厳密にはそれも異なるといえます。
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ゴールドカップ&成立

2021-12-21 19:38:41 | 地方競馬
 第59回ゴールドカップ。張田昂騎手が昨日の3レースで左足を打撲したため,グランドボヌールは本橋騎手に変更。
 ジョーロノが発走後の正面でハナへ。向正面の入口にかけて2馬身くらいのリードとなり,2番手にはアランバローズとベストマッチョ。2馬身差でティーズダンクとグランドボヌール。3馬身差でモジアナフレイバーとアンティノウス。2馬身差でグレンツェント,クロスケ,アマネラクーンの3頭。1馬身差でインペリシャブル。ヒロブレイブは6馬身くらい離されました。最初の600mが35秒1の超ハイペースになったこともあり,縦長の隊列に。
 向正面でアランバローズは脱落。ベストマッチョが3コーナー過ぎにジョーロノの前に出て,ジョーロノも脱落。楽に追い掛けてきたのがティーズダンクでさらにモジアナフレイバーが3番手に。その後ろからグレンツェントとインペリシャブルも追い上げてきました。直線に入るとすぐにティーズダンクが前に出て,追ってきたモジアナフレイバーとの優勝争いに。モジアナフレイバーもよく迫りましたが,ティーズダンクが粘り切って優勝。モジアナフレイバーがクビ差で2着。3コーナー先頭のベストマッチョが3馬身差の3着に残りました。
 優勝したティーズダンクマイルグランプリ以来の勝利で南関東重賞3勝目。このレースは有力候補が多く,混戦模様でしたが,結果的に上位人気に推された2頭のマッチレースになりました。競走能力でいえばモジアナフレイバーの方が上なのではないかと思いますが,距離とコースに対する適性で,ティーズダンクが上回ったという結果だったといえそうです。父はスマートファルコン。母の父はキングカメハメハ。6代母がバレークイーンの祖母にあたる同一牝系です。
 騎乗した大井の和田譲治騎手は東京湾カップ以来の南関東重賞5勝目。ゴールドカップは初勝利。管理している浦和の水野貴史調教師は南関東重賞8勝目。ゴールドカップは初勝利。

 自分が悲しみtristitiaを感じているということを認識している人間が,悲しみを感じていないというのは不条理です。であるとするなら,第五部定理三は成立していないと思われるかもしれません。しかしそんなことはありませんし,僕がいいたいのもそういうことではありません。これはこれで成立すると僕は考えます。
                                   
 スピノザの哲学である観念ideaが明瞭判然と形容される場合には,その観念は十全な観念idea adaequataであるか,そうでなければ混乱の程度が低い混乱した観念idea inadaequataです。この定理Propositioでは,観念としての感情affectusと,その感情を観念対象ideatumとした観念,すなわち観念の観念idea ideaeが比較されているのですから,観念としての感情が明瞭判然と認識されるということは,観念としての感情よりも混乱の度合いが低い観念の観念があるという意味になります。僕はその観念が十全な観念ではあり得ないと考えますが,この定理は一般的に成立するということを示したいので,その点は考慮の外に置きます。このとき,それが十全な観念であるのなら,スピノザ自身が証明の中で援用している第三部定理三によって,それは精神の能動actio Mentisによるものですから,受動passioであることを止めているでしょう。しかし仮に,混乱した観念であっても,混乱の度合いが低いのであれば,その度合いが高い観念としての感情と比較した場合には,何らかの明瞭判然とした認識cognitio,あるいはこの場合には十全な認識が含まれています。そうでなければ混乱の度合いが低くなる理由がないからです。つまり,ある受動感情が明瞭判然と認識されるということと,少なくともその感情に関して部分的ではあれ十全な認識があるということは,同じことなのです。しかるにその十全な認識は同様に第三部定理三によって精神の能動なのですから,その限りにおいて受動感情は受動であることを止めているのです。いい換えれば,受動感情を明瞭判然と認識するcognoscereことによって,全面的にその受動から免れるということはできないにしても,部分的にはそれは受動ではなくなっているのです。ですからこの定理は成立しているのです。
 なおこのとき,観念と観念の観念が同一個体であるのに,混乱の程度に相違があるということは,不条理ではありません。
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椿賞争奪戦&僕の見解

2021-12-20 19:17:33 | 競輪
 昨日の伊東温泉記念の決勝。並びは深谷‐松坂の南関東,寺崎‐村田‐椎木尾の近畿,北津留‐坂口の西日本で新田と長島は単騎。
 寺崎も出ていきましたが外から追い抜いた新田がスタートを取って前受け。2番手に寺崎,5番手に深谷,7番手に北津留,最後尾に長島という周回に。残り4周のバックの出口から北津留が上昇。長島も続きました。この3人がホームで新田に並ぶと,バックに入って新田が引き,北津留が誘導の後ろに。すると今度は寺崎が上昇。残り2周のホームで北津留を叩いたのですが,椎木尾が牽制を受けて離れてしまい,3番手に北津留,5番手に椎木尾,6番手に長島,7番手に新田,8番手に深谷という一列棒状になって打鐘。ホームから北津留が発進しましたが,寺崎自身が牽制すると北津留は浮いてしまい不発。その外から長島が捲るとバックの出口で寺崎の前に。この長島の動きに乗ったのが新田でさらにそれに続いたのが深谷。このふたりが先捲りの長島をさらに捲りました。直線は深谷が新田との差を詰めたものの届かず,優勝は新田。深谷が半車輪差で2着。深谷マークの松坂が1車身半差の3着で長島は1車輪差の4着。
 優勝した福島の新田祐大選手は昨年9月の青森記念以来の優勝で記念競輪8勝目。伊東温泉記念は初勝利ですが,2014年4月の共同通信社杯と2017年7月のサマーナイトフェスティバルの優勝が当地であります。このレースは脚力は新田が上位で深谷が次位。かなり早い段階から北津留と寺崎が競り合うようなレースになり,その後ろにいた長島が捲ったのですが,さらに上から捲られたのは脚力の差でしょう。長島の後ろで深谷より前という位置を取ることができたのが,新田にとって最大の勝因になったのだと思います。

 第五部定理三証明のために用いられている第二部定理二一の論証Demonstratioの強力な根拠となっているのは,第二部定理七です。つまり,観念idearum idemとその観念対象ideatumの秩序ordoと連結connexioが同一であるということによって,ある観念とその観念の観念idea ideaeは同一個体であるといわれているのです。つまり,ある観念とその観念の観念の秩序と連結は一致しなければなりません。
                                    
 次に,ある人間の精神mens humanaのうちに混乱した観念idea inadaequataがあるというのは,その人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神Deusのうちにそのものの観念があるということです。他面からいえば,その観念はその人間の精神と関連付けられるだけでは混乱した観念ですが,この仕方で神と関連付けられ,神のうちにあるとみられるのなら十全adaequatumです。ところで,観念とその観念の観念が同一個体であるのなら,その観念の秩序と連結が観念の観念の秩序と連結に一致しなければなりません。つまりある観念の観念は,その観念が神と関連付けられるのと同じ秩序と連結で神と関連付けられなければなりません。よってもしも観念がある人間の精神とだけ関連付けられて混乱しているといわれるのであれば,その観念の観念も,その人間の精神とだけ関連付けられるのなら,観念が混乱しているのと同様に,混乱しているといわなければならないことになります。
 このことは,おそらく次のように考えた方が分かりやすいかと思います。
 ここにある人間が現実的に存在しているとして,その人間が悲しみtristitiaを感じているとします。そしてその人間が,自分が悲しみを感じていると認識したとしましょう。これが上述の観念と観念の観念の関係になります。ここでは第五部定理三について探求しているので,それに合わせて観念ではなく感情Affectusで説明しています。
 このとき,この認識cognitioによってその人間が悲しみから免れたかといえばそんなことはありません。自分が悲しみを感じていると認識している人間が,悲しみを感じていないというのは,それ自体で矛盾だといわなければならないからです。つまりこの認識によって,その人間は悲しみを感じなくなる,いい換えれば悲しみの受動passioを止めるというわけではありません。
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朝日杯フューチュリティステークス&第五部定理三証明

2021-12-19 19:05:57 | 中央競馬
 第73回朝日杯フューチュリティステークス
 カジュフェイスが好発からそのまま逃げました。セッカチケーン,セリフォス,ダノンスコーピオン,プルパレイの4頭が2番手集団で6番手にトウシンマカオとトゥードジボン。8番手のオタルエバーまで一団。3馬身差でドウデュース。アルナシーム,ヴィアドロローサ,スプリットザシーがその後ろで集団を形成し,ドーブネまでの5頭が一団。3馬身差でジオグリフ。3馬身の最後尾にシンリミテスという隊列。最初の800mは46秒2のハイペース。
 道中でトゥードジボンが単独の2番手に上がり,プルパレイとトウシンマカオが並んで3番手という隊列で直線に。トウシンマカオの外からセリフォスが前に。さらにその外からドウデュースが伸びてきて2頭の競り合い。ドウデュースの伸び脚が優り,セリフォスを競り落として優勝。セリフォスが半馬身差で2着。セリフォスの内に進路を取ったダノンスコーピオンが半馬身差で3着。
 優勝したドウデュースは9月に新馬を勝った後,10月の東京のオープンも勝利。ここはそれ以来のレースで3戦3勝で大レース制覇となりました。このレースは2戦2勝の馬が4頭,3戦3勝の馬が1頭いて,それらの争い。そのうちの1頭でしたので,優勝候補の1頭でした。このレースは前走でオープン特別を勝っている馬がなぜか苦戦する傾向にあり,その点が不安でしたが,傾向を覆すことに成功。ただレースが阪神で行われるようになって以降,前走で東京のレースを使っていた馬が勝ち馬に多く,この馬もその点は満たしましたので,今後の傾向としては覚えておいた方がいいかもしれません。1800mで連勝後に1600mの大レースを勝ったことは,個人的にはクラシックに向けては不安材料と感じますが,血統面からは問題ないように思えます。父はハーツクライ。馬名の英語表記はDo Deuce。
                                        
 騎乗した武豊騎手は一昨年のJBCレディスクラシック以来の大レース制覇。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。管理している友道康夫調教師は天皇賞(春)以来の大レース16勝目。第70回以来3年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス2勝目。

 スピノザによる第五部定理三の証明Demonstratioは,次のような手続きとなっています。
 まず,受動passioという感情affectusは混乱した観念idea inadaequataです。この点については,スピノザとは異なった仕方で説明します。
 第三部定義三にあるように,感情は人間の身体Corporisのある状態と,その状態の観念ideasを同時に意味します。この定理Propositioではスピノザは,身体のある状態の観念として感情を説明しています。そしてそれが混乱した観念であることは第三部定理三から明らかだといえます。
 次にスピノザは,現実的に存在するある人間が,受動感情について明瞭判然とした観念を形成するということを,観念としてみられた感情の観念を形成するということと等置します。感情を観念としてみた場合には,この等置が成立することは間違いありません。よって,受動感情の明瞭判然とした観念というのは,受動感情の,あるいは受動感情という観念の観念idea ideaeであるということになります。つまり,受動感情とそれについての明瞭判然とした観念の関係は,ある観念とその観念の観念の関係であることになります。
 そこでスピノザは,これらふたつの思惟の様態cogitandi modiは,見方の相違,観点の相違に帰着するとしています。そしてこのことを,第二部定理二一および第二部定理二一備考に訴えています。ここからもスピノザがある感情とそれの明瞭判然とした観念の関係を,観念とその観念の観念の関係としてみていることが分かります。いい換えれば,ある感情とその感情の明瞭判然とした観念は,同一個体であるということに訴えて,この定理を証明しているのです。
 スピノザはここで僕が示した第三部定理三を援用して,その感情は受動であることを止めるといっています。しかしこの証明には十分ではないところがあるとみることができます。というのは,第三部定理三は,十全な観念idea adaequataと混乱した観念の関係で能動actioと受動の相違を示していますが,この証明は観念と観念の観念が同一個体であることに訴えていて,観念の方は混乱した観念であるとされているのですから,その同一個体である観念の観念が,同一の人間の精神mens humanaと関連付けられるなら,それが十全な観念であるということはないといわなければならないからです。
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理由と内容&第五部定理三

2021-12-18 18:53:53 | 将棋トピック
 処分の場合は僕にとって看過することができない事象ではあったのですが,それが三浦九段の合理性を覆すようなことではないと判断しました。その理由はふたつありました。
 ひとつは処分の理由です。将棋連盟が発表した処分に関する理由は,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているということを含んでいませんでした。むしろ,将棋連盟が三浦九段に休場届の提出を要請し,三浦九段がその要請を汲んだのだけれども,休場届を提出しなかったことに対する処分であると読めるものになっていました。したがって,それが処分の理由であるのなら,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたということについては,何の確証を有していなくとも下すことができる処分です。つまり処分の理由がこのようなものとして解せる以上,そうした確証は将棋連盟の中にはないのではないかと予測することができました。このためにそれは三浦九段の合理性を覆すほどの根拠にはなり得ていないと僕には思えたのです。
 もうひとつの理由は,処分そのものの内容でした。この処分は三浦九段に対してその年内の対局に出場することを禁止するものであったのですが,もしも三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているのだとしたら,あまりに軽い内容だと僕には思えました。もしも本当にそのような行為をしていたのなら,たとえば除名のようなきわめて厳しい処分が下されたとしてもおかしくないだろうと思えました。もちろんこれは僕の独断であって,それが本当に適切な処分の内容であるとはいえませんが,僕はそのような認識をもっていたわけです。ですから,およそ3ヶ月ほどの対局への出場停止の処分であるということは,コンピュータの援助に関する証拠を将棋連盟が握っていないのではないかと僕に思わせるのに十分であったのです。
 三浦九段が指し手の援助を受けるということがきわめて非合理的なことであるという認識は,少なくとも僕の中で揺るぎないものです。それを処分の合理性と比較させた上で,僕は判断を下しました。

 現実的に存在する人間は,どのような決意decretumをしたところで,受動感情から逃れること,いい換えれば,受動感情を感じずに生きていくということはできません。ただし,感じたその感情affectusに対して一切の対抗ができないというわけではありません。それが受動感情の力potentiaに対する現実的に存在する人間の力ということになります。ここでは第五部定理三をみてみましょう。
                                   
 「受動という感情は,我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や,受動であることを止めるAffectus,qui passio est,desinit esse passio, simulatque ejus claram,et distinctam a formali causa,quatenus Mens ipsa aeterna est.)」。
 僕たちは受動感情から免れることはできません。ですがある感情の働きを受けたときに,そのことについて明瞭判然とした観念を形成することができれば,それは受動ではなくなるのです。したがって,僕たちは,受動感情を免れることはできないのですが,だからといってその感情にいつもいつも引きずられてしまうとは限りません。それどころか,もしも僕たちが受動感情に刺激されるafficiそのたびごとに,その感情に関してそれを明瞭判然と認識しさえすれば,受動感情に引きずられるということは一切ないのです。僕は前に,不安metusなり希望spesないしは欲望cupiditasといった感情によってプレイヤーが捨てる牌を決定するdeterminareとき,それは虚偽falsitasではなく誤謬errorであるといいましたが,そのことはこの定理Propositioからも明らかだといえるでしょう。なぜなら受動感情によって捨てる牌を決定するということは,この定理からしてその感情について明瞭判然とした観念ideaがそのプレイヤーの知性intellectusのうちに存在しないがゆえの行為であることになりますから,それは虚偽が虚偽であるという認識cognitioが存在していないということを直ちに意味し,よってそれは誤謬であるということになるからです。
 ひとつ注意しておいてほしいのは,この定理では受動感情について形成される観念が,十全adaequatumとはいわれずに明瞭判然といわれている点です。スピノザの哲学で観念が明瞭判然と形容される場合は,十全ということを意味する場合もありますが,そうでない場合もあります。要するに明瞭判然というのは十全よりも広くわたります。これはスピノザが,一口に混乱した観念idea inadaequataといっても,混乱の度合いには差があるというように考えているからです。
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自己満足&第四部定理六の意味

2021-12-17 19:16:10 | 哲学
 受動的な自己満足というものが人間にあるということは,自己満足acquiescentia in se ipsoの定義Definitioである第三部諸感情の定義二五から明らかであると僕は考えます。
                                  
 この定義では,人間が現実的に存在していて,その人間が自身の働く力agendi potentiamを観想するcontemplatorことによって喜びLaetitiaを感じるなら,その喜びは自己満足であるといわれています。
 スピノザが働く力というとき,それは能動actioを意味します。したがって真の意味で人間が働くといわれるのは,その人間が能動的に何事かをなすということです。よってもしもそのことがその人間自身の精神mensによって認識されるのであれば,それは精神の能動actio Mentisであると解するべきです。ですからもしも自己満足という感情affectusを,この種の認識cognitioから生じる喜びであると規定するのであれば,自己満足というのは必ず能動的な感情であるということになるでしょう。いい換えれば受動的な自己満足というものはないということになるでしょう。
 ところが自己満足の定義は,このことだけを意味しているとは僕は解しません。なぜならこの定義は,もしもある人間が自分が働いている力を観想しさえすれば,そこから生じる喜びはすべて自己満足であるといっていると解することができるからです。ですからある人間が自分自身の働く力の認識そのもの,いい換えれば自分の働いている力の観念ideaは,十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかは問われないのです。よってもしもある人間が自分自身の働く力を表象し,その表象像imagoによって喜びを感じるのであれば,それは自己満足という喜びであるといわなければならないと僕は考えます。しかるに表象像というのは人間の受動passioによって,あるいは同じことですが人間が働きを受けるpatiことによって,その人間の精神mens humanaのうちに生じる観念なのです。つまりこの種の自己満足は明らかに受動的な自己満足ということになるでしょう。
 このゆえに,僕は自己満足という感情は,能動的な感情であると限定されるわけではなく,受動的な感情でもあり得ると解します。

 第四部定理六が,受動passioないしは受動感情のpotentiaについて説明しているのであり,現実的に存在する人間の力について語ろうとしているのではないというのは,簡単にいえば,受動あるいは受動感情の力は,現実的に存在する人間がその受動あるいは受動感情を免れようとする力を凌駕するということです。ここでは感情affectusについて考察していますから,感情の場合で説明すれば,現実的に存在する人間がある感情を免れようとしても,いい換えればある特定の感情を感じないようにしようとしても,受動感情の力はそれを凌駕するので,人間はその感情を感じないでいることはできないということです。たとえばある人間が現実的に存在していたとして,もうだれも憎まないようにしようと決意したとしても,その人間はだれかを憎んでしまうのです。あるいは同様に,もうだれのことも同情しないようにしようと思ったところで,同情misericordiaという感情を感じずに生きていくことはできないということです。
 この定理Propositioは一般的に受動について語っているので,意味を正しく理解するためには,単なる受動の場合で考える方がおそらく理解することは容易になります。たとえば注射を受けるときに,痛みを感じないようにしようと決意したとしても,実際に注射をされれば痛みを感じずにはいられないでしょう。それは僕たちの身体corpusあるいは皮膚なり筋肉あるいは神経なりが注射針によって刺激されるaffici受動の力は,僕たちの決意decretumを凌駕するからです。スピノザがいっているのは,この例と同じようなことが,人間のあらゆる受動に適用されるということです。なので受動感情を,つまりある感情に刺激されるということを,僕たちは自分自身の力によって避けるということはできないのです。
 ただし,ここでいわれているのはそうした受動の力なのであって,人間の力ではありません。つまり受動に対抗する人間の力というのもあるにはあるのです。ただひとつだけいえるのは,あらゆる受動の力は現実的に存在する人間の力を凌駕する,あるいは同じことですが上回るので,人間が受動それ自体,いい換えれば外部の物体corpusなりその観念ideaなりによって働きを受けないでいるということは不可能だということです。
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