この世界で悪いことが起こったとしても,それは全体の調和の中では致し方ないことで,あり得るすべての世界のうちでは現にあるこの世界が最善であるというのが,モナド論が基本的な結論とするところです。こういえば,現にあるこの世界は最善の世界であるということになりますから,そのことによって神Deusが反撥を受けたり憎まれたりすることはないでしょう。あるいはそういうことがあったとしても,それを軽減はできるでしょう。こうした願望のためにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのモナド論は生まれているとみることができます。なのでこの場合のライプニッツの願望は,ライプニッツの個人的な立場というより,宮廷で仕事をしていたライプニッツの立場から生じた願望であるとみることができるでしょう。
ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelやライプニッツより,もっと露骨に願望を表出しているのがヤコービFriedrich Heinrich Jaobiであるということができます。何しろライプニッツにせよヘーゲルにせよ,たとえ自身の思想が自身の願望の表出であったと仮定しても,スピノザの哲学に論理的な欠陥があるとみなしていたのは事実なので,純粋に論理的に考えただけでも,スピノザの哲学を否定するnegareことはできたのですが,ヤコービはスピノザの哲学が論理的には完璧であるということについてはそれを肯定していたからです。論理的に完璧であるものを否定するために,論理を超越したものに訴えるというヤコービの方法は,現にあるこの世界が,スピノザが完璧な論理で示した世界であってほしくないという願望の表出であったとしか僕には考えられないのです。
ヤコービが神学を支持する観点に立っていたのは間違いありません。汎神論論争ではそのこと自体が議論のひとつを構成していて,スピノザの哲学が反キリスト教的であるというヤコービに対して,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheはスピノザこそキリスト者なのだという主旨の反論をしています。キリスト教的である,あるいは神学に合致するということをヤコービがどう考えていて,スピノザの思想のどこが具体的にそれに反しているとヤコービが考えていたのかはいまひとつ不分明なのですが,ヤコービが世界が神学的なものであってほしいと思っていたのは間違いないと思います。
Xの十全な観念idea adaequataを有している人間と有していない人間を分けることは意味があります。ただ,現実的に存在する人間が本来的な意味において主体subjectumといわれるのは,十全な観念を有する場合だけです。ですからある観念を十全に認識しているか十全に認識していないかという分別は,主体という概念notioに対しては意味をもつことができるわけではありません。
このようなわけで,本来的な意味で存在しない主体が,現実的にあるという哲学を組み立てたヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelは,ヘーゲル自身の願望によってそうした哲学を構築したように僕からはみえてしまうのです。ただ,この種の願望を表出させて哲学ないしは思想を構築したという点だけに着目すれば,それはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの場合にもヤコービFriedrich Heinrich Jaobiの場合にも,程度の差はあったにしても一致するのかもしれないとも思います。
ライプニッツの場合,スピノザの哲学において最も受け入れられない部分,つまりヘーゲルにおける主体という概念が欠如しているという点に該当するのは,神Deusが本性naturaの必然性necessitasによって働くagereという点にあっただろうと僕は思います。これは第一部定理一七でいわれていることですから,ライプニッツにとってスピノザの哲学の最大のターゲットはここにあったと思われます。
なぜそれがライプニッツにとって最大の難点となってしまったのかということはわりと簡単に理解することができます。これはもしも神が本性の必然性によって働くものとされるなら,それはキリスト教の観点からは絶対に受け入れられないような事柄であったからです。ライプニッツは自身の立場からスピノザの哲学に反論したといえるのであって,これもそのひとつと考えることはできるでしょう。いい換えればこの場合のライプニッツの願望というのは,キリスト教的な意味での神の立場を守りたいという願望であると同時に,自身の生活基盤を守りたいという願望であるとみなすこともできます。
しかし,僕にはそれだけであったとは思えない一面があるのです。むしろそうした生活基盤を抜きにしても,神が本性の必然性によって働くものであってほしくないという願望が,ライプニッツ個人のうちにあったようにも思えます。
スピノザの哲学では個々の人間の現実的本性actualis essentiaは,各々の人間が外部の物体corpusから刺激されるaffici限りにおいて,つまり働きを受けるpati限りにおいて相違するのであって,個々の人間が十全な原因causa adaequataとなって働くagere限りにおいては相違しません。そのゆえに,そこに主体subjectumという概念notioを持ち込もうとするのであれば,働きを受ける限りにおいての主体ということになります。しかし本来的にはこれは客体なのであって主体ではありません。だからヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelはスピノザの哲学には主体という概念が欠如していると批判するのです。実際にヘーゲルがいっていることは正しいので,ヘーゲルはスピノザの哲学を正しく理解していると僕は考えます。このためにヘーゲルはこのオペレーションシステムを変更して,本来的な意味での主体という概念を組み入れた哲学を組み立てていきます。
ヤコービFriedrich Heinrich JaobiとヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelを比較すると,神学的観点に立っているか否かということ以上に,もっと大きな相違があるように僕には思われます。
『はじめてのスピノザ』では,哲学がコンピューターに喩えられていました。僕たちが使用しているコンピューターのオペレーションシステムがデカルトRené Descartesのオペレーションシステムであるとすれば,スピノザの哲学というのはデカルトのオペレーションシステムをアップデートしたようなものではなく,デカルトのオペレーションシステムとは異なったオペレーションシステムであるという比喩です。ここで再びこのオペレーションシステムの比喩を利用すれば,スピノザのオペレーションシステムに対する立場というのが,ヤコービとヘーゲルの間で違いがあるように僕には思えるのです。
ヤコービはスピノザの論理は完璧なものであって,それを乗り越えるためには超論理に訴えるしかないといっています。これはつまり,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものであって,この完璧なオペレーションシステムを受け入れた上で,超論理によってこれをアップデートするほかないといっているのです。つまりヤコービは,スピノザのオペレーションシステムが,現実の世界を説明するのに適したシステムであるということは認めていると解せます。
これに対してヘーゲルは,スピノザの哲学には主体subjectumという概念notioが欠如しているとしています。したがって,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものではなくて,そこに主体という概念が新たに組み入れられなければならないといっているのです。ではスピノザのオペレーションシステムをアップデートすることによって主体という概念を組み入れることができるのかといえば,それは不可能だと僕は思います。なぜなら,主体という概念を欠如させたことがこのオペレーションシステムのひとつの特徴を有しているからです。ですからこのオペレーションシステムに主体の概念を組み入れるためには,それとは別のオペレーションシステム,すなわちヘーゲルのオペレーションシステムを新たに構築する必要があるのです。ヘーゲルはそのことを目指したというべきでしょう。
ライプニッツはスピノザと文通し,また後に面会したくらいですから,同時代人といっていいでしょう。ですから,ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiがスピノザを知っていたということは,ライプニッツのことも知っていたということになります。ただし,ライプニッツによるスピノザに対する批判をヤコービが知っていたかどうかは分かりません。ライプニッツはスピノザの哲学には論理的な欠陥があると主張し,ヤコービはスピノザの哲学は論理的には完璧であると解していたのですから,スピノザの哲学に対する解釈はふたりの間で異なっています。ヤコービはライプニッツのスピノザ批判を知っていて,しかしその批判は的外れであると考えたのかもしれません。あるいはその批判は知らないで,そうした欠陥を発見することができなかったのかもしれませんし,そうした欠陥は存在しないと考えたのかもしれません。ふたりの間で共通しているのは,ふたりの間には神学的観点があったということ,そしてスピノザの哲学を評価していたということだけなのであって,スピノザの哲学に対する解釈は一致していたわけではないのです。
ヤコービとヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelも同じ時代を生きていたので,同時代人ということは可能です。ただふたりの間には30歳弱の年齢差がありましたので,年長者であるヤコービのスピノザの哲学の解釈に,ヘーゲルの考え方が影響を与えたということは考えにくそうです。一方でヘーゲルの方は,ヤコービのスピノザ解釈のことを知っていて,自身でスピノザの哲学を研究するときに,ヤコービの研究を参考にしたという可能性がないわけではありません。ヤコービもヘーゲルも同じドイツ人ですし,ヤコービのスピノザ研究は優れたものでしたから,ヘーゲルが参考にするに十分に値するものであったとは思います。
ライプニッツやヤコービとは異なり,ヘーゲルは神学的観点に立っていたわけではありません。純粋に自身の哲学的立場からスピノザの反対者,あるいはスピノザの超越者になろうとしたとみるのが妥当です。ですからこの点では,ヘーゲルもまたスピノザの哲学に対する評価は高かったとはいえ,ヤコービやライプニッツと一致していたわけではありません。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがスピノザを乗り越えようとした論理は,後にヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelによって否定されています。ヘーゲルによれば,ライプニッツのやり方でスピノザを乗り越えようとすると,無神論に陥ってしまうのです。スピノザが第一部定義六で示している神Deumは,キリスト教で考えられていた神とは異なります。それでもスピノザは第一部定理一一でそうした神が存在することは証明しています。ですから神学的にはともかく,歴史的にそう非難されてきたように,無神論者であるわけではありません。ところがライプニッツが示した論理は,事実上は無神論に陥ります。神は存在しないというか,そうでなければ何らの力potentiaも持たない神が存在するというかのどちらかの結論に至るのであって,これは事実上の無神論に陥るということをヘーゲルは喝破したのです。このこともかつて考察してありますので,ここで詳しく検討はしませんが,僕もまたこのヘーゲルの見解opinioは正しいものであると考えています。
ヘーゲルもスピノザの反対者でした。ただ,ライプニッツがそうであったように,またヤコービFriedrich Heinrich Jaobiがそうであったように,スピノザの哲学のことを評価はしています。ヘーゲルは自身の以前にはふたつの哲学しかなかったのであって,そのうちのひとつはスピノザの哲学で,もうひとつはスピノザ以外の哲学であるといういい方をしています。すべての哲学からスピノザの哲学だけを抽出してそれ以外の哲学と対比しているのですから,これがスピノザの哲学に対する高い評価となっているのは明らかだといえるでしょう。他面からいえば,ヘーゲルが意識して,それを乗り越えようとした哲学というのはスピノザの哲学だった,あるいはスピノザの哲学だけだったといって過言ではありません。
ヘーゲルはスピノザの哲学の欠陥を,主体subjectumという概念notioの欠如に見出しています。僕はむしろ主体という概念が欠如しているからこそスピノザの哲学は評価されるべき哲学であると考えていますが,このこともまたこれまでに何度かいってきたことですから,ここで繰り返すことはしません。ここではスピノザの哲学が,その反対者たちによっても一定以上の評価を得ていたという点に注目します。
ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiはスピノザの哲学を深く研究していて,完全にとはいいませんが,それをかなり正確に理解していました。そしてヤコービが到達した地点は,スピノザの哲学は論理的には完璧であるということでした。ヤコービはスピノザの反対者でしたが,スピノザの哲学は論理的には完璧であるということを肯定していたのです。だからヤコービがスピノザの哲学を超越するために採用した方法が,論理を超えたところ,つまり超論理によってスピノザを否定するnegareということだったのです。ただ,超論理について考察することは無意味といえますので,それが実際にどういう方法であったかということについてはここでは検討しません。
論理的に完璧であると解したスピノザの哲学を,ヤコービがそれでも否定したのは,おそらくこの哲学がキリスト教を否定するような思想であるということを同時に見出したからだと思います。というか,僕にはそれ以外の理由を見出すことができません。ヤコービが熱心なキリスト教信者であったのかどうかは分かりませんし,単に立場的なものでキリスト教を擁護する必要があったのかということも僕には分かりませんが,僕がいう神学的観点からヤコービがスピノザを否定したのは間違いないと思います。
ですからこの点では,ヤコービの立場とライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの立場は一致していたと思われます。ライプニッツは熱心なキリスト教信者であったというようには僕には思えませんが,宮廷人としてキリスト教を擁護しなければなりませんでした。下世話ないい方をすれば,自身の生活のために,キリスト教を否定する要素を含んでいるスピノザの哲学についてはそれを否定しなければならなかったのです。ただライプニッツが使用した方法はヤコービとは異なったものです。ライプニッツはヤコービとは異なり,スピノザの哲学が論理的に完璧であるとは解さず,むしろ論理的欠陥を抱えているとみなしました。これは第一部定理五および第一部定義三に関連するものですが,それらについてはすでに探求しましたからここでは繰り返しません。ライプニッツはその論理の欠陥を修正することで,神学的観点を守ることができると考えていたのです。
メンデルスゾーンMoses Mendelssohnがスピノザの哲学を好意的に評価していたという可能性はあると思います。しかし僕は,ここにもどこか消極的な側面が含まれていたかもしれないと思っています。簡単にいえば,メンデルスゾーンがスピノザの哲学を擁護する方向へとヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが誘導したから,メンデルスゾーンはその方向でヤコービに反論するほかなくなった可能性があると僕は思いますし,実際にそうだったのではないかと僕は推測しているのです。もちろんこれは僕の見方ですから,実際にそうであったと断言することができるわけではありません。
後に汎神論論争に加わり,ヤコービに対してスピノザの哲学を擁護する論陣を張ったゲーテJohann Wolfgang von Goetheは,間違いなくスピノザの哲学を好意的に評価していたから,ヤコービに対してスピノザを擁護したのです。ゲーテのスピノザ解釈が完全なものであったとはいいませんが,少なくともメンデルスゾーンに対してそうしたように,ヤコービがゲーテに解釈の誤りを指摘するようなことはなかったのであって,ゲーテはヤコービほどではなかったとしても,スピノザの哲学をそれほど誤らずに解釈していたのは間違いありません。ですから僕にとって汎神論論争というのが論争として意味を有するのは,ゲーテがヤコービに対して反論を始めるようになってからであって,つまりヤコービとメンデルスゾーンの論争は僕にとってはさほど意味がなく,ヤコービとゲーテとの間での論争が僕にとっては大きな意味をもつのです。したがって,ここではその論争の中身に踏み込むことはしません。メンデルスゾーンのヤコービに対する反論は,スピノザの哲学の理解にとってそれほど重要ではないというのが現時点での僕の評価だからです。いい換えれば,メンデルスゾーンのスピノザ受容に関する研究は,こうした僕の評価を覆す可能性を有するわけで,その点でも重要だということになるでしょう。
なぜヤコービがレッシングGottfried Ephraim Lessingについて,レッシングはスピノザ主義者であるという暴露をしたのかについては,ふたつの見方ができるでしょう。ひとつはヤコービがレッシングの死後に,レッシングに対する評価を貶めようとしたということです。