例年になく暖かい陽気のもとに行われた第56回川崎記念。ゴールデンイーストが馬場入場後に故障を発症して競走除外となりました。
好発を切ったのはレマーズガール。しかしアジュディミツオーが外から押して追い上げこちらの逃げ。これは予想通り。ヴァーミリアンの方は他馬に比較すると出負け気味の発走でしたが、こちらもスムーズに追い上げレマーズガールを交わして2番手からの競馬になりました。ペースは極端ではありませんがハイペースの部類。
2周目の向正面からパーソナルラッシュが追い上げていく場面はありましたが、前の2頭に影響を及ぼすものではありませんでした。結局、この2頭のマッチレースといえる競馬になったのですが、4コーナーでヴァーミリアンの方が先頭に立つと、そのままアジュディミツオーを置き去りにして6馬身もの差をつける圧勝となりました。逃げ粘ったアジュディミツオーが2着。パーソナルラッシュより後から追い上げを開始したドンクールが外から伸びて3着でした。
勝ったヴァーミリアンは名古屋グランプリからの連勝。GⅠはこれが嬉しい初制覇となります。父はエルコンドルパサー。母系についても後日紹介します。着差ほどの力量差がアジュディミツオーとあるとは思えませんが、今日は強かった。距離適性の面でフェブラリーステークスは微妙な気もしますが、長い距離では今年のダート競馬を牽引する1頭になると思います。
逃げ馬は交わされると案外に脆いもので、それを考えればアジュディミツオーの2着も立派。ドンクールもおそらく力量通りには走っている筈で、きわめて順当な結果といえると思います。
一般論からの帰結の前者の場合には、まず次のようなことがいえると思います。
様態modi,modusの本性natura,essentiaに神Deusの本性が属するとは、個々の様態の本性が神の本性によって構成されるということを意味します。すると、個々の様態の本性の間に差異を見出すことができなくなってしまいます。しかし、事物にはその事物に固有の本性がなければならず、これは不条理ではないでしょうか。
なお、この点についてもう少し詳しく僕の考えを述べれば、僕は人間Aと人間Bがいるとき、このふたりは、人間という点では本性が一致すると考えますが、AとBそれぞれの人間という観点からは異なった本性を有すると考えています。これはスピノザ哲学における、特殊性と一般性についての考え方を根拠としています。ただ、『エチカ』の第四部などからは、これについては同一の本性を有すると解釈する余地はあると思います。しかし、これはこれでまったく別の問題ですし、ここでの話に関係づければ、これは問題にしなくてもよいと思います。というのは、この帰結が示していることは、単に異なる人間の間で本性が一致するかどうかということではなくて、たとえば、人間と三角形の本性が一致する、あるいは、人間の本性と三角形の本性の間に差異を見出すことができなくなるということだからです。これが不条理であるというのは、とくに説明するまでもなく明白だと思います。したがってまずこの観点から、前者、すなわち様態の本性に神の本性が属するということはあり得ないと結論できると思います。
好発を切ったのはレマーズガール。しかしアジュディミツオーが外から押して追い上げこちらの逃げ。これは予想通り。ヴァーミリアンの方は他馬に比較すると出負け気味の発走でしたが、こちらもスムーズに追い上げレマーズガールを交わして2番手からの競馬になりました。ペースは極端ではありませんがハイペースの部類。
2周目の向正面からパーソナルラッシュが追い上げていく場面はありましたが、前の2頭に影響を及ぼすものではありませんでした。結局、この2頭のマッチレースといえる競馬になったのですが、4コーナーでヴァーミリアンの方が先頭に立つと、そのままアジュディミツオーを置き去りにして6馬身もの差をつける圧勝となりました。逃げ粘ったアジュディミツオーが2着。パーソナルラッシュより後から追い上げを開始したドンクールが外から伸びて3着でした。
勝ったヴァーミリアンは名古屋グランプリからの連勝。GⅠはこれが嬉しい初制覇となります。父はエルコンドルパサー。母系についても後日紹介します。着差ほどの力量差がアジュディミツオーとあるとは思えませんが、今日は強かった。距離適性の面でフェブラリーステークスは微妙な気もしますが、長い距離では今年のダート競馬を牽引する1頭になると思います。
逃げ馬は交わされると案外に脆いもので、それを考えればアジュディミツオーの2着も立派。ドンクールもおそらく力量通りには走っている筈で、きわめて順当な結果といえると思います。
一般論からの帰結の前者の場合には、まず次のようなことがいえると思います。
様態modi,modusの本性natura,essentiaに神Deusの本性が属するとは、個々の様態の本性が神の本性によって構成されるということを意味します。すると、個々の様態の本性の間に差異を見出すことができなくなってしまいます。しかし、事物にはその事物に固有の本性がなければならず、これは不条理ではないでしょうか。
なお、この点についてもう少し詳しく僕の考えを述べれば、僕は人間Aと人間Bがいるとき、このふたりは、人間という点では本性が一致すると考えますが、AとBそれぞれの人間という観点からは異なった本性を有すると考えています。これはスピノザ哲学における、特殊性と一般性についての考え方を根拠としています。ただ、『エチカ』の第四部などからは、これについては同一の本性を有すると解釈する余地はあると思います。しかし、これはこれでまったく別の問題ですし、ここでの話に関係づければ、これは問題にしなくてもよいと思います。というのは、この帰結が示していることは、単に異なる人間の間で本性が一致するかどうかということではなくて、たとえば、人間と三角形の本性が一致する、あるいは、人間の本性と三角形の本性の間に差異を見出すことができなくなるということだからです。これが不条理であるというのは、とくに説明するまでもなく明白だと思います。したがってまずこの観点から、前者、すなわち様態の本性に神の本性が属するということはあり得ないと結論できると思います。