スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第67回川崎記念 。
ケイティブレイブがハナへ。2番手にアポロケンタッキー。3番手は内にグレンツェントで外にメイショウスミトモ。5番手がアウォーディー。6番手以下はディアドムス,キャッスルクラウン,コスモカット,サウンドトゥルー,イッシンドウタイの順で続きました。交流重賞はまったくついていかれない馬がいることの方が多いのですが,このレースは10頭がほぼ一団のまま2周目の向正面まで進みました。これは超スローペースとなったためです。
3コーナー手前でメイショウスミトモはついていくのが困難になり,2番手のアポロケンタッキーの内からグレンツェントが並び掛けようとし,コーナーでこの2頭の外を追い上げてきたのがアウォーディーで逃げたケイティブレイブを含めた4頭の争いに。終始先頭のケイティブレイブは余裕があり,最後までどの馬にも並ばれることなく逃げ切って優勝。グレンツェントとアポロケンタッキーは激しく競り合いましたが,ずっと前にいたアポロケンタッキーが最後まで抜かせず,競り落として1馬身半差の2着。大外を回ったアウォーディーが1馬身差の3着でグレンツェントは半馬身差で4着。
優勝したケイティブレイブ は帝王賞 以来の勝利で大レース2勝目。このレースは上位3頭とサウンドトゥルーの4頭が能力上位。次位グループがグレンツェント,メイショウスミトモ,ディアドムスの3頭で,これらは一角でも崩せば健闘だろうと見立てていました。その意味では能力上位の4頭のうち3頭で3着までを独占したというきわめて順当な結果。今日は楽に逃げられた分だけケイティブレイブにとって有利になり,末脚型のサウンドトゥルーには不利になったという結果。展開やペース次第で着順は入れ替わるでしょうが,この4頭とその他の馬では差があるという見方を変える必要はないだろうと思います。父はアドマイヤマックス 。母の父はサクラローレル 。母の12歳上の半兄に1999年に北海道スプリントカップ,2000年にガーネットステークスと黒船賞と群馬記念とかしわ記念と朱鷺大賞典,2001年にガーネットステークスととちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ 。
騎乗した福永祐一騎手は帝王賞以来の大レース制覇で川崎記念初勝利。管理している目野哲也調教師は帝王賞以来の大レース3勝目。川崎記念は初勝利。
自由の人 homo liberは理性ratioに従って生活する人のことを意味します。理性による認識cognitioは十全な認識であるので,自由の人は十全な観念idea adaequataすなわち真の観念idea veraに従って生活する人であるといっても,ほぼ同じ意味になります。ここで完全に同一といわずほぼ同一であるというのは,理性による認識すなわち第二種の認識 cognitio secundi generisの基礎となる共通概念notiones communesによる認識だけが人間の精神mens humanaのうちに十全な観念を発生させるというわけではなく,第三種の認識cognitio tertii generisによっても十全な観念が人間の精神のうちに発生するということを考慮したものです。したがって十全な観念に従って生活する人という方が,理性に従って生活する人というのより広くわたることになります。よって理性に従って生活する人が十全な観念に従って生活する人であるということは間違いありません。
真理の規範 は真の観念そのものです。したがって,十全な観念に従って生活する人は真理の規範を有している人,他面からいえば自分が真理の規範を有しているということを自覚している人のことです。これは観念と観念の観念idea ideaeが同一個体であるということから明白でなければなりません。なので自由の人は,真理veritasと虚偽falsitasを分かつ規準を有している人ということになります。よってどんな人間も現実的に存在する限り何らかの混乱した観念idea inadaequataを有することになりますが,自由の人はそれが混乱した観念であるということ,いい換えればそれが十全な観念ではないということを即座に理解できる人であることになります。このゆえに,虚偽と誤謬 の違いでいえば,自由の人も虚偽falsitasには必ず陥りますが,その場合でも誤謬errorを犯すことはありません。
何度もいっているように,不安metusも希望spesも何らかの不確実な観念すなわち虚偽とともにでなければあることができない感情affectusです。このとき自由の人はそれが虚偽であるということを理解するのですから,恐怖metusや希望に由来する欲望cupiditasは,虚偽に由来する欲望であるということを理解します。よってその欲望に従うということはありません。従うならそれは虚偽に従っていることになり,そうした人は理性すなわち真理に従うということから外れるので,自由の人ではなくなるからです。これが自由の人の対処です。
27日と28日に吉野ケ里温泉で指された第67期王将戦 七番勝負第二局。
豊島将之八段が先手で飛車先を伸ばしていったので久保利明王将の角道オープン四間飛車に。先手は居飛車穴熊に囲いました。
先手が☗8六歩 と桂馬を取りにいったところで後手が9筋の歩を突いた局面。おそらくここまでの先手の攻め方が,いくら穴熊とはいっても乱暴で,すでに後手が指しやすくなっているのではないかと思われます。
この手は封じ手で,予想できる手のひとつ。先手はさして考えずに☗8五歩と桂馬を取りました。しかし☖9七歩成☗同銀☖同香成☗同香に☖9八歩と打たれたところで長考に。
ここで長考したということは,そこまでは考えていたけれども,この手は見落としていたということだと思われます。たぶんここでは☖8六桂と打ってくると想定していたのでしょう。
☗8八玉と逃げましたがそこで☖8六桂と打たれ☗2五飛と引いたものの銀取りは無視して☖9九歩成 。先手は☗4五飛で銀は取れたものの☖5四角と詰めろ飛車取りに打たれては決定的な差をつけられていました。
第2図以降の粘りこそ見事だったものの,全体的には先手が淡白で不出来な将棋だったという印象です。
久保王将が勝って 1勝1敗。第三局は来月3日と4日です。
第四部定理四の意味 は,現実的に存在する人間は受動passioを免れ得ないということです。第二部定理一六 が示しているのは,現実的に存在する人間がこのような働きを受けるpati場合には,第三部定義一 によりその受動作用に対して人間は十全な原因causa adaequataではなく部分的原因causa partialisであるということです。そしてこのとき,第二部定理一七 により,人間の精神mens humanaは外部の物体corpusを表象するimaginariのです。したがって,現実的に存在する人間は,必然的にnecessario混乱した観念idea inadaequataを有することになります。よってたとえその人間が自由の人homo liberというに相応しい人間であっても,その人間が混乱した観念を有さないということはあり得ません。
次に,第四部定理一の意味 は,現実的に存在する人間の精神のうちにXの真の観念idea veraがあるとき,そのことは同じ人間の精神のうちにあるXの誤った観念すなわち混乱した観念を排除する要因とはならないし,Xの誤った観念がその人間の精神のうちに発生することを妨げる要因にもならないということです。したがって,どれだけ多くの真の観念すなわち十全な観念がその人間の精神のうちに存在しているのかということと,その人間がどれだけ多くの混乱した観念を精神のうちに発生させるのかということとは関係がありません。非現実的な仮定ですが,たとえ無限に多くのinfinitaものの十全な観念がある人間の精神のうちに実在しているとしても,その人間は無限に多くの混乱した観念を精神のうちに発生させ得るし,除去させ得ないということになります。
不安 metusすなわち恐怖metusも希望spesも,各々の定義Definitioから明白なように,ある混乱した観念とともにでなければその人間のうちには生じ得ないような感情affectusです。しかるに僕たちの精神のうちにはXの十全な観念のあるなしに関わらずXの混乱した観念があり得るわけですから,Xに対して不安を感じたり希望を感じたりすることは,どんな人間にも生じ得ると考えておかなければなりません。このことは第三部定理五〇 からも強調しておく必要があると僕は考えます。
したがって,自由の人と無知の人の相違は,不安や希望を感じるか感じないのかという点にあるのではありません。むしろその点は同一です。相違はその後に発生します。
出雲文化伝承館 で指された昨日の第44期女流名人戦 五番勝負第二局。
里見香奈女流名人の先手でノーマル三間飛車。伊藤沙恵女流二段の左美濃に対して先手が銀を早くに7六に上がって 四間飛車に振り直し,6筋から仕掛けていく 将棋になりました。
先手が6筋から仕掛けて後手が飛車先の歩を突き捨てにいったところ。ところが先手はこれを無視して☗6四歩と取り込みました。中盤の戦いに入ったすぐの局面で飛車先の突き捨てを放置するというのはとても珍しく,並べていて驚いたのですが,後手もびっくりしたのではないかと想像します。
☖8七歩成☗同銀☖7七角成☗同桂に☖6七歩と打ちました。先手はこれも☗同飛。これには実戦のように☖8七飛成☗同金☖7八角と両取りを掛ける手が成立するのですが,そこで☗7六角と両方を受け☖6七角成☗同角に☖6九飛 と先着されても☗3四角と逃げつつ急所に飛び出し☖9九飛成で一時的に二枚換えの駒損となるものの☗6一飛と打ち返した局面は,先手の大駒二枚がよく働いていて,先手の方がリードを奪えているようです。
かなり大胆で鮮やかな捌きが決まった一局でした。あるいは事前に何らかの研究があったのかもしれません。
里見名人が連勝 。第三局は来月4日です。
第二部定理一七備考 でスピノザがいっていることを,現在の考察と関連させつつ詳しく探求します。
スピノザがいっているのは,もしも人間が現実的には存在しないものを表象するimaginariとき,同時にそれが現実的に存在しないと知っているなら,そうしたものを表象するのは人間にとっての力potentiaであるということです。これは表象の種類 でいうと,ものを想起したり想像したりするときに,それが想起memoriaでありあるいは想像であるということを知っているなら,それは人間にとっての力であるという意味です。僕たちが記憶力というのは想起の場合であり,想像力 というのは想像の場合であるといえるかと思います。
しかし僕は,このことはものが現実的に存在しているかしていないのかということとは,それが力であるという意味ではあまり違いがないのではないかと考えます。すなわち,人間が現実的に存在するものを現実的に存在すると観想するcontemplariとき,それは確かに想起や想像の場合とは異なって,それ自体で力であるということができるかもしれませんが,同時にそれが表象imaginatioであるということを知っているのであれば,なおのことそれは力であるといい得ると考えるのです。なぜなら,どのような場合であっても表象像imagoというのは混乱した観念idea inadaequataであるからです。いい換えれば,想像や想起の表象像だけが混乱した観念であるというわけではないからです。つまり僕は,スピノザがいっていることをもっと一般的に解し,もしも人間が何かを表象するときに,その表象像が混乱した観念であるということ,他面からいえばそれが虚偽falsitasであるということを同時に知っているならば,どのような表象であろうともそれは人間が事物を表象する力なのであると考えるのです。
もうお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが,僕はここでのスピノザの文脈を,記憶力とか想像力といった力として解するのではなく,虚偽と誤謬 とはどのように異なるのかということから解するのです。人間は虚偽を虚偽であると知っている限りでは,誤謬errorを犯してはいません。しかしそれを知らないなら誤謬を犯しているのです。つまり誤謬を犯さない範囲で,表象は人間の力であると考えるのです。
松阪記念の決勝 。並びは早坂に小倉,山中‐根田‐岡村の南関東,高橋‐坂口の中部,村上‐稲川の近畿。
小倉がスタートを取って早坂の前受け。3番手に高橋,5番手に村上,7番手に山中で周回。残り2周のホームで村上から上昇。早坂を叩くと村上の動きに乗った山中がコーナーで村上を叩き,そのままペースを落とさずに早めのかまし先行となって打鐘。4番手に村上,6番手に高橋,8番手に早坂の一列棒状に。根田はホームから山中との車間を開け始め,バックに入って番手発進を敢行。村上は最終コーナーにかけて捲り上げていきましたが一杯。根田の番手から岡村が出ましたが,村上マークの稲川が直線の入口にかけてうまく内を回り,直線では岡村の外から差し込んで優勝。岡村が4分の1車輪差で2着。展開的には絶好も末を欠いた根田が4分の3車輪差の3着。
優勝した大阪の稲川翔選手は昨年11月に防府のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年4月の川崎記念 以来の2勝目。このレースは山中が捨て身で駆けられるのかどうかがひとつの鍵で,そうなれば根田が有利。ただ山中はそう多く先行する選手でもないので,山中や,先輩に前を任せた根田に躊躇があれば,必ず脚を使う村上がその間隙を突き,近畿勢の優勝争いになることもあり得ると予想していました。山中はきちんと駆けたのですが,ほかのラインの中では最も力がある村上が4番手を回るような駆け方になりました。ただ駆けるだけでは十分ではなく,ほかのラインが4番手になるような駆け方をしなかったのが,南関東勢の敗因となったように思います。稲川はほとんど脚を使う場面がありませんでしたから,展開的には厳しそうでも意外と余裕があったのではないでしょうか。
僕自身は,不安 metusすなわち恐怖metusを希望spesによって打ち消すことを,全面的には否定しません。そしてそれは,人間の現実的本性actualis essentiaがそのようになっているという消極的な理由,それは仕方ないことであるという理由からではありません。もちろんそれも理由になり得ないとは考えないので,その理由だけではないといった方がいいかもしれません。
喜びlaetitiaは小なる完全性perfectioから大なる完全性への移行transitioで,悲しみtristitiaは大なる完全性から小なる完全性への移行です。僕はただこれだけのことから,同じ受動状態にあるのであれば,悲しみに沈んでいるより喜びに浸っている方がまだましであると考えます。このゆえに,不安に苛まれているくらいなら希望に満ち溢れている方がまだましと考えるのです。よって不安すなわち恐怖を希望によって打ち消してしまうことを,まだましという理由によって肯定します。ただし,これを全面的に肯定するためには条件が必要とされます。逆にその条件が整っているのであれば,こうして不安から逃れる方法は,スピノザの哲学における生活の指針のひとつに数え上げてもよいと思います。
たとえばある棋士がいて,この棋士が次の対局に負けてしまうのではないかという不安すなわち恐怖に強く襲われていると仮定しましょう。このときこの棋士が,不安と希望 が表裏一体であるということ,すなわち第三部定理五〇備考 でいわれていることに思いをいたし,そんなに強い不安を感じているということは,逆にいえば自分にはそれだけ大きな希望があるということではないかと思ってその不安を打ち消すことに成功するなら,僕はこの棋士の思惟作用を肯定します。
同時にこのとき,その棋士が,それは大きな希望であるということ,すなわち第三部諸感情の定義一二 により,それが不確実な事柄に対する喜びであるということを認識しているなら,僕はこの思惟作用を全面的に肯定します。すなわち僕は,人間が希望によって不安すなわち恐怖を除去するときに,同時にそれが不確実なことであるということを知っているなら,それを全面的に肯定するのです。これは第二部定理一七備考 で,表象imaginatioが長所といわれる場合に合致すると考えるからです。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは確かにスピノザの哲学に対抗するための哲学を打ち立てました。そしてその対立軸として,実体の数 を中心に据えたのです。すなわちライプニッツはモナドの数と同じ数だけの実体substantiaを認めるのに対し,スピノザは神Deusを唯一の実体として規定します。このゆえにモナド論はスピノザ主義などではなく,むしろスピノザ主義に対立するものなのだというのがライプニッツの主張です。
ライプニッツがモナドの数と同じだけの実体を認めなければならなかったのは,可能世界 を認めるためです。そして可能世界を認めないと,神は必然的なものであり,自由なものではなくなるとライプニッツは認識していたのでした。スピノザは自由 libertasを意志voluntasとは切断して規定し,この場合には自由と必然 は必ずしも対立的なものではなく,むしろ自己の本性の必然性 によってのみ存在し働くagereものが自由であると考えたのですが,ライプニッツは意志と自由,とりわけ善意 と称されるような意志の一種と自由を切り離して考えることができなかったので,自由と必然は対立するものと規定しなければならなかったのです。
ここには確かに神学的な観点が含まれていたかもしれません。神が何事をもその本性naturaの必然性necessitasによってなすというより,神は善意によってすべてのことをなすとした方が,神学にはマッチしていたといえるからです。したがってライプニッツにとってスピノザ主義の最大の問題が宗教問題 だったとするスチュアートMatthew Stewartの主張にも,一理あることになります。
一方,ライプニッツはそれを主張したのと同じ手紙の中で,もしモナドがないならスピノザが正しいだろうといっています。つまりライプニッツにとっては,スピノザであるかライプニッツであるかのどちらかであって,それ以外の選択肢はなかったのです。このようないい方からして,ライプニッツがいかにスピノザを,しかもスピノザだけを意識して哲学を構築したのかということが分かります。
不安と希望 が表裏一体であるということは,スピノザ自身が第三部定理五〇備考でいっていることです。
「単にこの両感情の定義だけからして恐怖なき希望というものはありえずまた希望なき恐怖というものもありえない 」。
文脈は心情の動揺 animi fluctuatioに関連しているのですが,心情の動揺を惹起するふたつの感情affectusが相反する感情 であることは明白です。そして希望spesと不安metusが同じ人間のうちで必然的にnecessario相反する感情として存在するなら,人間は喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するという現実的本性essentia formalisを有するので,希望の方が不安よりも強力になりやすい本性を有していることになります。よって不安すなわち恐怖metusは,第四部定理七 により,容易に希望によって排除されるというメカニズムになっているのです。
かくして,原子力発電所が事故を起こせば取り返しのつかない事態になるかもしれないという不安は,厳しい基準によって運転されているから事故を起こすことはないだろうという希望によって除去されやすくなります。近隣の国家の軍事的脅威に対する不安は,自国の国防を強化し大国と同盟を結べばそれが脅威ではなくなるだろうという希望によって排除されやすくなります。核兵器が使用されれば壊滅的な被害が齎されるかもしれないという不安は,それだけ強力な兵器であれば抑止力も強大であるから実際に使用されることはないだろうという希望によって除去されやすくなります。ある民族に自身の権利juraを侵害されるかもしれないという不安は,その民族を国外に追放してしまえば自身の権利は安泰であるだろうという希望によって排除されやすくなります。ある宗派が自国に攻撃を仕掛けてくるかもしれないという不安は,その宗派の人びとを追放しかつ入国させなければ攻撃を受けることはないだろうという希望によって除去されやすくなるのです。
こうしたことは不安が過去と関係する場合も同様です。A国が過去にB国から侵略されたという場合,A国の国民はB国が再び侵略してくるのではないかという不安をもちやすくなります。しかしその不安は,A国が軍事力を強化すれば侵略に対抗できるだろうという希望によって排除されやすくなるのです。
NARグランプリ の最優秀ターフ馬を受賞したダブルシャープ は牝系の祖先が古くに輸入された馬です。それが1919年にアメリカで産まれたソネラ 。綴りはThonellaとなっていますが,僕には意味は分かりませんでした。ファミリーナンバー はクヰックランチ と同じ4-r 。
日本での初産駒は1929年,昭和4年で,前年からサラブレッドの生産を始めた社台グループの創始者による輸入です。また,ソネラが1926年にアメリカで最初に産んだラウネラ という馬も後に社台牧場に輸入され,そちらからも牝系は続きました。僕の競馬キャリア の中でいうと,1988年に中山牝馬ステークスとエプソムカップを勝ったソウシンホウジュ ,1995年に愛知杯を勝ったサウンドバリヤー ,1996年に中日新聞杯と愛知杯,1997年に中日新聞杯を勝ったファンドリショウリ はいずれもラウネラの子孫です。
ソネラが輸入されてからの牝系は,1934年に産まれた第三ソネラ の子孫が最も繁栄しました。ただ,1936年に産まれた第四ソネラ の分枝も継続していて,1985年にオークストライアルの4歳牝馬特別,1986年に中山牝馬ステークスを勝ったユキノローズ や,その孫になる2008年にきさらぎ賞,2011年に関屋記念を勝ったレインボーペガサス は第四ソネラの子孫です。
第三ソネラの子孫で最近の重賞の勝ち馬には,2006年にフローラステークス,2008年に東海ステークスとクイーン賞 ,2009年にTCK女王盃 を勝ったヤマトマリオン や,2007年にニュージーランドトロフィーを勝ったトーホウレーサー がいます。そして僕の競馬キャリアの中で第三ソネラ系の代表産駒となると,1998年にJRA賞の最優秀父内国産馬を受賞したメジロブライト になります。メジロブライトの4つ下の半弟には,2000年のJRA賞で最優秀2歳牡馬を受賞したメジロベイリー がいます。
ダブルシャープはメジロブライトとメジロベイリーの兄弟の近親です。母がメジロベイリーの6つ下の半妹。つまり兄弟からみるとダブルシャープは甥です。
第四部定理七 は,ある人間のうちに何らかの感情affectusが発生した場合は,その感情より強力な感情が発生しなければ除去され得ないということをいっています。これは理性ratioそのものによっては人間は感情の抑制 をすることは不可能ということを導くのですが,それとは別に,もしある人間のうちにそれよりも強力な相反する感情 が生じる場合には,先に生じた感情は必然的にnecessario除去されるということも示しているといえるでしょう。したがってたとえばある人間がXに対して不安 metusすなわち恐怖metusを感じた場合に,その不安すなわち恐怖よりも強力な相反する感情がその人間のうちに生じるなら,その人間はXに対する不安すなわち恐怖から逃れることができるということになります。これが人間が不安すなわち恐怖という悲しみtristitiaから逃れるためのもうひとつの手段です。スピノザはこうした方法については具体的に言及していないですが,このようにして悲しみから逃れるのだとしても,それは第三部定理一三系 によって,人間の現実的本性actualis essentiaに則しているということは分かります。したがって一般に人間は,悲しみを感じた場合にはそれを除去するようにコナトゥスconatusが作用するのですが,それは悲しみを感じる対象の表象imaginatioを避けるという方法に限られるのではなく,その悲しみと相反する感情,といってもそれが悲しみであってはあまり意味がありませんから,それと相反する喜びlaetitiaによって,その悲しみ自体を除去してしまうという方法もあるということになります。
僕の考えでいうと,不安すなわち恐怖という感情は,それと相反する感情によって除去される場合の方が多いのです。なぜなら,不安すなわち恐怖という感情には,それと相反する感情が同じ人間のうちに生じやすいという特徴があるからです。
不安と希望 は表裏一体の感情です。すなわちある人間のうちに不安があるのなら必然的に希望spesもあるのであり,同様に希望を感じている人間は必然的に不安すなわち恐怖も感じているのです。したがって,Xに対する不安すなわち恐怖は,同じXに対する希望とともにあるのですが,希望が不安より強力であることはできます。よって不安は希望によって除去されるのです。
昨年のNARグランプリ で2歳最優秀牝馬に選出されたストロングハート の牝系の輸入基礎繁殖牝馬は,1958年にアイルランドで産まれた5代母のパッシングクラウド です。Passing Cloudは一時的な雲。ファミリーナンバー はシルバーレーン と同じで5-g 。
近年,中央競馬ではノーザンファームの生産馬の大活躍が目立ちますが,地方競馬を席巻しているのがグランド牧場の生産馬。パッシングクラウドはグランド牧場が輸入し,初産駒が産まれたのが1966年。現在でもグランド牧場の基礎牝系のひとつになっています。
地方の重賞を勝つような馬はいましたが,そこまで大活躍した馬というのはなかなか出ませんでした。それでも牝系を繋ぎ,ついに出たのが2009年に兵庫ジュニアグランプリ と全日本2歳優駿 を勝ってその年のNARグランプリ で年度代表馬に選出されると,2011年 に4歳以上最優秀牝馬,2012年 に2度目の年度代表馬,2013年 に4歳以上最優秀牝馬と最優秀短距離馬に選出されたラブミーチャン 。
ストロングハートは母がラブミーチャンの母の半妹。つまりラブミーチャンとストロングハートは従姉妹です。そしてストロングハートのひとつ上の全姉は2016年にローレル賞 を勝っている現役のアップトゥユー です。
この3頭は牝馬ですから牝系はさらに続いていくでしょう。そしてこの3頭に共通しているのは,父がサウスヴィグラス であるということ。サウスヴィグラスは父がアサティスか,父の父がアサティスという牝馬と相性がよく,グランド牧場にはそういう繁殖牝馬が多くいたことが近年の生産馬の活躍に結び付いているのだと思われます。したがって,父がサウスヴィグラスである牝馬に対して相性がよい種牡馬というのが発見されれば,単に牝系が繋がるだけでなく,さらに活躍馬が続出という可能性が高いのではないでしょうか。
このようにして不安 metusないしは恐怖metusは,ただそれ自体でも,またほかの人びとにそれを煽ることによっても,排他的感情となりやすく,排他的思想を産みやすい感情affectusです。このゆえに僕は排他的思想を産出しやすい感情のひとつとして,不安あるいは恐怖をあげたのです。
ところでこの感情は,さらに悪質な感情と結び付きやすく,そのためになお排他的思想を強力化するという側面があると僕は考えています。その事情を説明しておきましょう。
第三部定理七 は,自身の有に固執するin suo esse perseverare力すなわちコナトゥス Conatusが人間の現実的本性actualem essentiamであることを示しています。第三部諸感情の定義三 により,悲しみtristitiaは大なる完全性perfectioから小なる完全性への移行transitioなので,その現実的本性に反する感情です。ですから人間の現実的本性は,悲しみを感じたら,その悲しみを排除しようとするコナトゥスを有していることになります。第三部諸感情の定義一三 により不安すなわち恐怖は悲しみです。ですから僕たちは,不安すなわち恐怖を感じたら,その感情から逃れようとするのです。ただ,不安あるいは恐怖についてなら,このように論理的に示さずとも,僕たちは経験的に知っていると思います。だれしも不安すなわち恐怖を感じたらそこから逃れたいと欲望するものであり,そこに留まっていたいと欲望するものではないであろうからです。なお,第三部諸感情の定義一 により,欲望cupiditasは受動的な状態において人間の現実的本性であることにも注意しておいてください。
不安すなわち恐怖から逃れる方法は主にふたつあります。不安すなわち恐怖は必ず何かに対する不安なので,その何かの表象imaginatioを排除するというのがそのひとつです。第二部定理一七 によれば,ものの表象像imagoは別のものの表象像によって排除されます。したがってたとえばAに対する不安すなわち恐怖を感じた場合に,Aの表象像を排除するたとえばBを表象するimaginariことによって,そのAに対する不安すなわち恐怖から逃れることができます。これは第三部定理一三 が一般的にいっていることと同じです。
もうひとつ,不安すなわち恐怖という感情自体を排除するという方法もあります。こちらが僕がここで重大視する方法です。
第21回TCK女王盃 。マテリアメディカが腹痛のために競走除外となって14頭。
オールポッシブルがすっとハナへ。1馬身半差でララベルが2番手。コーナーワークでエミノマユアクが半馬身差の3番手となり,半馬身差でミッシングリンクが4番手。半馬身差でダンシングが5番手に続き1馬身差の6番手がプリンシアコメータ。ブランシェクールがその後ろにいましたが,向正面に入ると外を上昇。この後ろはタガノヴェローナ,ラインハート,ファイトユアソング,パーティードレス,ローレライ,ルナマティーノの順で続き,リボンスティックは集団からやや差がある最後尾を追走。最初の800mは50秒3のミドルペース。
3コーナー手前からララベルがオールポッシブルに並び掛けていくと,その外にミッシングリンク。この2頭がコーナーの中間でオールポッシブルを抜いて先頭に出るとその外をブランシェクールが追い上げてきました。直線に入るとララベルは一杯になり,ミッシングリンクが単独の先頭に。そのまま抜け出したミッシングリンクが優勝。早めに動いたブランシェクールが2馬身差で2着。中団から脚を伸ばしたラインハートが1馬身半差で3着。
優勝したミッシングリンク はデビューから12戦連続で芝を使われ2勝。初ダートとなった12月の1000万条件で先週の準オープンを勝ち上がった馬の3着。年が明けて1000万条件を勝ってここに挑んでいました。もとより牡馬相手に1000万条件を勝つ馬は牝馬重賞なら通用の能力があり,この馬の場合はダートではまだ底が見えていなかったので,優勝候補の一角ではありました。昨年後半の牝馬ダート路線で活躍した馬たちを負かしてのものなので評価しなければなりませんが,その馬たちが能力を十全に発揮したともいいきれない面もあり,それらを上回ったと断定することは今日の段階ではできないかもしれません。ただこの路線で今後も活躍していくのは間違いないところでしょう。父はヴィクトワールピサ 。母のはとこに2010年に根岸ステークスと武蔵野ステークスを勝ったグロリアスノア 。Missing Linkは進化論の用語で,連続性が期待される事象にある非連続的部分。ここから転じてたとえば鉄道の分断部分など。
騎乗した戸崎圭太騎手は第20回 に続く連覇でTCK女王盃2勝目。管理している斎藤誠調教師はTCK女王盃初勝利。
注意しておかなければならないのは,憐憫commiseratioという感情affectusがそうであるように,不安 metusすなわち恐怖metusという感情もまた,理性ratioに従う自由の人 homo liberにとっては無用でありかつ悪malumである感情です。なので,他国に限らず,何かに対して不安や恐怖を感じている人びとの側には,自由の人は存在していません。なのでそれが多数派であろうと少数派であろうと,不安や恐怖のゆえに同じ国民を非国民とか反愛国者とか弱腰といったように排撃し断罪しようとする人びとのうちには自由の人は存在しません。むしろそうした攻撃を受ける立場の中にしか自由の人は存在しないのです。しかしもう一方で注意しなければならないのは,たとえそうした不安や恐怖を共有していないとしても,そうした人のすべてが自由の人であるとも限らないということです。
一対一の関係においては,他人の不安や恐怖に乗じて詐欺行為を行う人間が現実的に存在していることはすでに明らかにしました。しかしこうした感情は,共有している人間が増加するほど強力になるので,より多くの人間に対して同じような不安や恐怖を植え付けることが,より強大な力を産出するという場合があります。第四部定理六三備考 でスピノザが迷信家といっている人がなしているとしている行為は,そうした行為に近いといえるでしょう。そしてこの場合にもまた,その備考Scholiumで暗示されているような,宗教関連の事柄だけに妥当するというものでもありません。数が多くなればそれだけ強大な力となるのであれば,単に数が多いということが意味を有するような集団では,それがそれだけ大きな力となり得るからです。したがって,たとえば政治家が,自己の主張を通すために市民Civesに対して不安や恐怖を煽ろうとすることは,数の力を得ようとするためにとても有効な方法であるということになります。備考にあるようにそれは迷信家がなしていることと同じ,すなわちすべての国民を結果的に不幸にするような行いであるのですが,たとえ市民が分断されるような事態になっても,数を得る手段として有効なのは間違いありません。よって実際に不安や恐怖を煽ろうとする人物は存在するということまで注意しておかなければなりません。
殺人医師 が全日本プロレスで仕事をするようになったのは,全日本プロレスが専属的に保有していたネイチャーボーイ が新日本プロレスで仕事をするにあたって,全日本プロレスと新日本プロレスとの間で交わされていた協約に基づくものでした。いってみれば外国人選手のトレードだったわけです。
プロレスの業界において団体と選手の間の契約でさえあってないようなものです。少なくともそういう時代がありました。ジャパンプロレス の選手の中には新日本から全日本,また新日本と職場を変えたレスラーがいますが,いずれも契約破棄によるもので,団体間では違約金が支払われています。また谷津の雑感⑥ で書いたことから,全日本からSWSに選手が移籍した際にも,この種の契約破棄があったのは間違いありません。それでみれば団体と団体との間の協定などは守られる方がレアケースと解しても,当たらずとも遠からずかもしれません。なのでこのときに協定に基づいてトレードが行われたのは,奇跡的といっていいほどの出来事だったのではないでしょうか。
おそらくこれは,このときの新日本プロレスの社長が坂口征二であったために成立し得たと思われます。馬場は猪木のことはほとんど信用していなかったようですが,坂口は信頼がおける相手と認識していたようです。また,坂口は日本プロレスに入団したのが1967年2月。交渉のために前年の暮れに上京したとき,初めて会ったのが馬場で,入団発表の直後には馬場に連れられハワイに行きました。坂口は猪木とは年の差がないのでライバルとしての敵愾心をもっていましたが,馬場は兄貴分であったと語っていて,おそらくそういう思いが,新日本と全日本に袂を分かってからも継続していたのでしょう。このトレードの後,全日本と新日本とWWFの合同興行 が実現したのも,佐藤昭雄 の尽力もあった筈ですが,馬場と坂口との間にあった信頼関係の方がより大きかったのだと思われます。
馬場にしろ坂口にしろ,プロレス団体の経営者として有能であったとはいえないのかもしれません。しかし両者の間には,一般社会でも成立するような信用関係があったのは間違いないでしょう。
スピノザとアルベルト Albert Burghの場合は,アルベルトが何を表象しているか,他面からいえばどれだけの人びとが自分が有している地獄への不安 metusあるいは恐怖metusを共有していると思い込んでいるかを考慮の外に置くなら,あくまでも一対一の関係です。ですがこうした不安や恐怖というのは,実際に集団的に共有されるようになると,さらに別の,そして強力な排他的思想を産出するようになります。
たとえばAという国にXという人間が存在するとします。このXが,近隣の別の国家ImperiumであるBが,A国を攻めてくることに不安あるいは恐怖を感じたと仮定してみます。
このとき,Aという国家の国民のほとんどがこうした不安ないしは恐怖をXと共有しないのであれば,Xは単にあり得そうもないことに怯えている臆病者であると評価されるでしょう。したがってXはB国およびB国の国民に対しては排他的思想を抱くことになるでしょうが,自身の不安あるいは恐怖を共有しないA国の国民に対する排他的思想は,総体的にいうならさほど強いものではありません。いい換えればそれは問題視するにあたるような事象にはなりません。
もしこのとき,A国の国民の半数ほどがXとともにその不安あるいは恐怖を共有し,残る半分ほどが共有しない場合には,A国の国民は分断されるか,少なくとも分断の危機にあることになります。とりわけその不安ないしは恐怖を共有する側がA国の国家権力を握っている場合は,分断が実際に発生しやすくなります。というのもこの場合は権力側が実際にその不安あるいは恐怖に基づいた政策を実施する可能性が高まり,それを共有しない側の国民はその政策に対して激しく抵抗するであろうからです。そして最悪の場合は,互いが互いに排他的思想を有するようになってしまうでしょう。
さらにこのとき,この不安や恐怖が国民の大多数に共有されるようになると,それを共有しない少数の国民に対する排他的思想はその分だけ強大化することになります。よって共有しない国民が,非国民とか反愛国者というようなレッテルを張られ,不安や恐怖を共有している多数の国民から攻撃されるというような事態も起こり得るようになります。
将棋関連の書籍のレビューの6冊目は,2016年7月に講談社現代新書より発売された,観戦記者としても活躍中の大川慎太郎が書いた『不屈の棋士』です。タイトルからイメージするのは難しいかもしれませんが,トップ棋士へのインタビュー集で,そのインタビューの内容は,コンピュータの将棋に特化しています。つまり棋士がコンピュータの将棋にどのように対応しているのかを大川が質問しているということです。
発売直前の2016年5月,第1回の電王戦で山崎隆之八段がポナンザに連敗しました。そして昨年は佐藤天彦名人もソフトに敗れ,電王戦は2回で幕を閉じることになりました。インタビューは当然ながら発売より前にされています。ただし,山崎八段だけは電王戦で敗北を喫した後の短いインタビューも収録されています。これでみれば分かるように,コンピュータがはっきりとした形で棋士を上回っていく段階でのインタビュー集です。この書籍の価値が高いのは,そうした時期に実施されたインタビューの中で,棋士,それもトップ棋士が,どういう考えの下にどのような仕方でコンピュータの将棋と向き合っていたのかということが,明白になっているという点です。後世に残る歴史的資料としての価値も高いと僕は考えています。
棋士といえどもそれぞれで,コンピュータに対する考え方の相違は,僕が思っていたよりはずっと大きかったです。とくに山崎八段が,コンピュータを将棋の研究に使う際に,どのようなソフトを入手することができるのかという点で棋士の間に差異が出ていて,それは不平等であるという主旨の発言をしているのですが,こうした考え方というのは僕が想像することすら難しいものでした。
一応,大川自身が棋士の態度を分類して章分けしています。第1章は最強棋士として羽生善治と渡辺明。第2章がコンピュータ先駆者として勝又清和,西尾明,千田翔太。第3章がコンピュータに敗れた棋士として山崎隆之と村山慈明。第4章がコンピュータとの対決を望む者として森内俊之と糸谷哲郎。第5章がソフトに背を向ける者として佐藤康光と行方尚史。あとがきの中に再び山崎へのインタビューがあります。
章分けは便宜的なものと僕は感じました。手許に残し,もっと時間が経過した後にまた読んでみたい1冊です。
地獄への不安 metusあるいは恐怖metusに関しては,アルベルト Albert Burghは植え付けられてしまったのであり,この意味では被害者です。書簡七十六 でスピノザはアルベルトに厳しいことばも述べていますが,そのことは理解していたと思います。ただ,植え付けられた不安あるいは恐怖がアルベルトにとってはあまりに強大なものであったがゆえに,それはすべての人間に共有されるべき感情affectusとみなされました。第四部定理六三備考 で,この場合でいえば不安あるいは恐怖を植え付けた側の迷信家が,ほかの人びとをも不幸にしようとしているといわれているのには,このような意味も含まれていると解しておくのがいいでしょう。この結果,アルベルトは書簡六十七 をスピノザに送り付け,スピノザに対する排他的感情および排他的思想を露にしたのです。
アルベルトは家族に対しても似たような態度をとったと思われますが,スピノザの場合についていえば,これは一対一の関係です。そしてその根源となった感情である不安ないしは恐怖が,地獄に対するものであったということは,実はあまり関係ありません。備考Scholiumは迷信家ということで,宗教的なものを匂わせているといえますが,不安あるいは恐怖を煽ることによって人びとを悪malumから逃れさせようとするのは,すべからく迷信家の態度であるといっていいでしょう。実際にこの種の感情を植え付けることによって高額の商品を買わせるとか,老後の金銭面での不安に乗じて投資をさせるといった詐欺行為は現実的に存在します。この場合は詐欺を行う者はそれが詐欺だと理解した上で行うわけですから,迷信家と名付けるのには語弊があるでしょう。しかしそうした行為が人びとを不幸に陥れているというのは明白であると思います。備考で迷信家が行っているとされている行為は,こうした詐欺行為に類するとスピノザはいっているのです。
したがって,こうした行為は単に宗教的指導者がなすものと限定されるわけではありません。たとえばある国家の指導者が仮想の敵を立て,その敵に対する不安あるいは恐怖を国民に煽るなら,その指導者は国民を不幸に陥れている迷信家ないしは詐欺を働く者と何ら変わるところはないのです。
大宮記念の決勝 。並びは菅田‐小野の北日本,吉沢‐平原の関東,柴崎に橋本,古性‐稲垣‐村上の京都。
吉沢の前受け。3番手に古性,6番手に柴崎,8番手に菅田で周回。残り2周のホームに入ってから菅田が上昇開始。柴崎が続きました。バックの入口で菅田が吉沢に並び掛け,バックに入ってから抑えました。打鐘前に柴崎が動いて菅田を抑えると,打鐘を迎えて古性が上昇。コーナーで柴崎を抑えての先行に。一時的に4番手に柴崎,6番手に菅田,8番手に吉沢の一列棒状となったものの,ホームに入って吉沢が発進。ただ平原は続かずに,柴崎の後ろに降りていくような競走になりました。古性との車間を開けていた稲垣は,バックで追いついてきた吉沢に合わせるように発進。ですが後方で脚を溜めていた菅田が両者の外から捲り切って最終コーナーに。小野が続けなかったために離れながらも菅田を追ったのは稲垣。直線は稲垣マークの村上が外から菅田を追い詰めましたが届かず,優勝は菅田。4分の1車輪差で村上が2着。半車輪差で稲垣が3着。
優勝した宮城の菅田壱道選手は2009年6月の久留米記念 以来となる記念競輪2勝目。このレースの注目点は,地元の平原に任された吉沢と,実績ある京都の先輩ふたりに任された古性がどういった競走をするのかという点。吉沢が前受けをしたのは,引いて早めに巻き返すという作戦だったからだと思います。そのために古性がわりと楽に先行できることになり,稲垣にとって本来は絶好の展開でした。ただ,これまでの競走からも分かるように,稲垣は早めに番手から発進して勝ちに徹するような競走を好まない面があります。今日もやはり吉沢が追いついてきてからの発進になりました。そのために脚を溜めることに成功した菅田の一発が決まったレースであったと思います。
実際にローマカトリックを信仰するすべての人間が,アルベルト Albert Burghが抱いたような地獄への不安 metusすなわち恐怖metusを共有していたというわけではないと僕は思います。書簡六十七の二 を読む限り,ステノ Nicola Stenoが地獄に対する不安あるいは恐怖を抱いていたとは僕にはまったく思えないです。もし仮にその推測が誤りで,ステノもまた同じような感情affectusを有していたのだとしても,それがアルベルトほどには強力な不安や恐怖ではなかったということは間違いないと思います。
一方,ステノはアルベルトと比べれば知性的には豊かであったと思いますので,第四部定理六三備考 の分類でいえば,不安や恐怖によって抑えつけられる人びとであるよりは,不安や恐怖によって人びとを押さえつける迷信家の方に近かったのかもしれません。実際にステノは教団の中での指導的な立場になったわけですし,ステノの知性からしたら,人びとに不安や恐怖を植え付けるというのは容易いことだったのではないでしょうか。もちろんこれは,僕自身のステノという人間に対しての評価なのであって,ステノが実際にそのようなことをなしたといっているのではありません。スピノザだってやろうと思えば人びとを不安や恐怖に陥れ,自分に従わせることなどはおそらく容易くできた筈であるというのと同じような意味であると考えてください。ただ,力 potentiaは現実的なものなので,やろうと思えばできるということと実際にやるということが別である限り,やろうと思えばできるということは,単にそれだけではその人間に備わった力ではありません。その備考Scholiumを読めば分かるように,スピノザにはむしろそのような力はなかったというべきです。ステノについていえば,そういう力があったのかもしれないしなかったのかもしれず,実際にどちらであったのかを断定することができる材料が僕にはないということです。
アルベルトはおそらく自身が有していたような不安あるいは恐怖は,ローマカトリック教団の中で共有されていると思い込んでいました。実際に共有されているかいないのかはあまり関係なく,アルベルトはそう表象していたということが重要です。それが排他的思想の根源となるからです。
⑭-5 の第2図で先手は銀を取って詰めろを掛けました。この銀は⑭-1 の第2図で後手が王手で打った銀で,それ以降は先手にとって質駒になっていました。ですから取ろうと思えば取れる局面はあったのですが,ここで取ったのには,実戦には現れなかった変化が潜んでいたからです。
ここで後手が☖7九銀と王手をしたとしましょう。
これを☗同王と取ると☖8八馬☗同王☖6八飛と進みます。合駒は角か金か銀。どれでも同じなのでここでは仮に☗7八銀と打っておきます。これに対しては☖9九角と打ち☗同王にさらに☖9八金と捨てて☗同王に☖7八飛成と王手します。
第2図の後手の持駒が銀二枚になっているのは7八の合駒が銀だったため。したがって角と銀か金と銀か銀二枚のいずれかになります。
部分的にいうと第2図の先手玉は8八に合駒をする一手ですが,☖8六桂と打てば☗9九王なら☖9八銀,☗同歩なら☖8七銀と打てば詰みます。銀一枚は元から後手が持っていたので,7八の合駒は何であっても変わりません。
ですが局面全体でいうと第2図は先手の勝ちです。というのは☗8八角と合駒すればそれが後手玉への王手にもなっていて,後手は☖8六桂とは打てないからです。なので⑭-5の第1図から,4四の龍を4一に移動させ,後手玉を3三におびき出した上で先手は8八の銀を取ったのです。
後手がこの順を見破ったので実戦には現れませんでしたが,先手にとっては都合のよい変化が潜んでいたことになります。
第四部定理五四備考 では不安 metusあるいは恐怖という感情affectusの有用性について語りながら,第四部定理六三備考 では不安あるいは恐怖によって他人を支配することが退けられているのは,アルベルト Albert Burghのような事例が現実的に発生するからです。したがってこれらは相反することをいっているようではありますが,実際には両立するといえます。
アルベルトが書簡六十七 のような手紙をスピノザに送ったのは,端的にいえばアルベルトは自身が信じるようになったローマカトリックの神Deusに対して,スピノザが信仰fidesを有していない,それどころか冒涜していると思っていたからで,これは間違いありません。ただ,スピノザが書簡七十六 の方で指摘しているアルベルトの地獄に対する不安すなわち恐怖という感情に引き付けていうなら,スピノザにはそのような不安すなわち恐怖がなかったからだ,アルベルトの側からいえば,当然のこととして共有されなければならない不安あるいは恐怖をスピノザは共有していなかったからだということになります。そしてこの不安あるいは恐怖の共有についての表象imaginatioは,容易に排他的感情に変異し,排他的思想を産出するものであると僕は考えています。
スピノザは書簡七十六では,アルベルトが恐れている地獄のことを迷信の唯一の原因といっています。つまりスピノザは地獄というものが存在するということ自体が迷信である,他面からいえば地獄は存在しないと考えているわけです。第三部諸感情の定義一三 から分かるように,不安すなわち恐怖というのは,何らかの不確かな事物の観念ideaとともにでなければ生じることができない感情です。スピノザにとっては地獄が存在しないということは確かなことだったのですから,それに対して不安すなわち恐怖という感情は発生のしようがありません。ですからアルベルトが感じていたような感情をスピノザが共有していなかったということは確実です。
一方,アルベルトはローマカトリック信者の一員として手紙をスピノザに送っています。よって,アルベルトはこの感情を自分だけが感じているとは思ってません。むしろ信者の間では共有されている感情であると認識していたと思われます。
10日のニューイヤーカップ を勝ったヤマノファイト の父はエスポワールシチー です。父はゴールドアリュール 。チップトップ 系ジーゲリン の分枝。祖母の従兄に1986年のJRA賞の最優秀2歳牡馬のゴールドシチー がいます。Espoirはフランス語で希望。
3歳3月と遅いデビュー。ずっと芝を走り,7月に6戦目で初勝利。芝の1戦を挟んで初ダートとなった8月のレースで7馬身差の圧勝を飾ったのが転機に。ここから1000万,1600万,オープンと4連勝しました。
初の重賞挑戦となった平安ステークスは2着。フェブラリーステークス の4着を挟んでマーチステークスで重賞初制覇を達成するとかしわ記念 も勝って大レース初勝利。ここから南部杯 ,ジャパンカップダート と勝ってJRA賞 の最優秀ダートホースとNARグランプリ のダートグレード競走特別賞を受賞。
翌年はフェブラリーステークス ,かしわ記念 と勝って大レース5連勝を達成。
連覇を狙った南部杯 は2着。渡米してブリーダーズカップクラシック にチャレンジしましたが11頭立ての10着に大敗しました。前半の成績が評価されJRA賞 の最優秀ダートホースを2年連続で受賞。
立て直して出走した翌年の名古屋大賞典 で復活の勝利。しかしかしわ記念 は3着,帝王賞 は2着。秋初戦の南部杯 も4着と3連敗。みやこステークスを制して向ったジャパンカップダート も3着でした。
7歳になって初戦の平安ステークスは2着。フェブラリーステークス も5着でしたがかしわ記念 で久々に大レースを勝利しました。帝王賞 は2着,エルムステークスも2着でしたが南部杯 で大レース7勝目。しかしジャパンカップダート は10着と崩れ,東京大賞典 も5着。この年はNARグランプリ のダートグレード競走特別賞を受賞。
8歳も現役続行。フェブラリーステークス ,かしわ記念 を連続2着の後,南部杯 を優勝。さらにJBCスプリント に出走してこれも勝ち,大レース9勝目。ジャパンカップダート の7着を最後に引退しました。
途中の落ち込みはありましたがまた復活し,大事に使われたとはいえ息長く活躍した馬です。ゴールドアリュール産駒は種牡馬も少なくなく,配合相手にはそこまで恵まれないかもしれませんが,自身の資質が伝われば,優秀な産駒には長期にわたる活躍を見込めるのではないでしょうか。
スピノザが受けた害悪はひとつに限定することはできません。ここでは考察の都合上,アルベルト Albert Burghから受け取った書簡六十七 の場合で考えてみます。これは返信である書簡七十六 の中で,スピノザが,アルベルトがローマカトリックの奴隷になったのは,神Deusに対する愛amorによるのではなくて,地獄への恐れ,すなわち地獄に対する不安 metusないしは恐怖という感情affectusによるものだということが明らかだといっているからです。これは多分に事実であって,不安ないしは恐怖という感情を,排他的思想の根源のひとつとしてみている現在の考察にとって適当です。
ひとつ注意しておかなければならないのは,アルベルトは地獄に対して不安あるいは恐怖を感じたのであって,それを感じた対象が特定の人間であったり人間集団であったわけではありません。ですがこのような場合でも,この感情は排他的思想の根源になり得るのです。どういう場合になるのかは後の説明から理解してもらえるものと思います。
アルベルトは,ローマカトリックの信者,第四部定理六三備考 のいい方に倣えばそうした迷信家から,地獄への不安あるいは恐怖を植え付けられたのです。ただしこのことが,それ自体で人びとにとっての害悪になったということはできません。というのはアルベルトはその不安あるいは恐怖のゆえに敬虔なpius生活を送るようになったという可能性はあったわけで,その場合には第四部定理五四備考 でいわれていることが現実化したことになります。ですが結果としてはこの場合はそうはなりませんでした。アルベルトは,ただスピノザを罵倒するような手紙を送っただけでなく,おそらくスピノザがアウデルケルク Awerkerkで世話になったと思われるコンラート・ブルフをはじめとする家族に多大な迷惑すなわち害悪を及ぼしていました。アルベルトはローマカトリックと出会う前はプロテスタントの信者で,少なくとも家族やスピノザからみれば,改宗する前の方が改宗後よりも敬虔な人物であると認められていた筈です。
なぜこのような事態になったのかは,具体的には分かりません。ただ,アルベルトにとってはこの不安あるいは恐怖が不要な感情だったことは確かだといえます。
『『こころ』の真相 』で読解されているKの動揺 の理由が正しかったとしたら,背中を押してもらうために先生にKが話す条件 は,先生とふたりきりの場でした。だからKは先生に図書館で声は掛けたもののそこでは話さず,外に連れ出してから話し始めたのです。これは自然にみえますが,ひとつだけ不思議な点が含まれていると僕は感じました。
Kはできる限り早く先生に話したかった筈です。だからたぶんKはその前に先生を探していた筈です。下二十六の冒頭で,先生とKは科は同じでも専攻は違い,登下校の時刻に違いがあったと書かれていますから,このときもおそらくKは自分の授業の終了後に先生を探したのです。そして図書館で先生を見つけたことになります。ということはKは先生を図書館に探しに行ったことになります。でもこれが不思議に僕には感じられるのです。
下四十の冒頭で先生は,久しぶりに学校の図書館に入ったと書いています。この後でKが先生を探し出し,自身の恋に対する先生の批評を求めるのです。ところが先生は久しぶりに図書館に入った,つまり普段は図書館に行く学生ではなかったのです。でもKはあたかもそこに先生がいるのが当然であるかのように先生を発見し,声を掛けています。
先生は長男の悲劇 を味わいましたが,経済的には余裕があり,自分が必要とする書籍は買い求めることができました。下十七の冒頭には,先生が書物ばかりを買うのを見た奥さんが,着物を拵えろと説得する場面があります。Kは同居していたのですから,先生が多くの本を所有していることは知っていたでしょう。一方で次男の悲劇 を味わったKは,書物を買う余裕はなかった筈で,必然的に図書館の利用頻度は先生より高かったでしょう。これらのことを勘案すれば,先生が滅多に図書館には行かないことをKは知っていたという解釈が成立すると思います。
なのにKは先生を図書館で探し当てたのです。そこにはたぶん,先生からみたら分からない事情が含まれていたと僕はみます。
不安 あるいは恐怖metusという感情affectusは,確かに第四部定理五四備考 にあるように,その感情を抱く当人にとって,またその当人の近くで生活を送る人ひいては人類全体にとって害悪よりも利益を齎してくれる場合があります。とはいえそれはその感情を抱くのが,第四部定理七〇 のいい方に倣うなら無知の人である場合であり,自由の人homo liberはそのような感情に依拠せずとも人類全体に害悪は何も齎すことはありませんし,利益だけを齎すでしょう。これはちょうど,第四部定理五〇 にあるように,理性ratioに従う人つまり自由の人にとっては憐憫commiseratioがそれ自体で悪malumであり,かつ無用であるといわれているのと同じことです。不安についてもこれと同じことが妥当します。すなわち自由の人にとっては不安あるいは恐怖という感情は,それ自体で悪であるしまた無用であるのです。
したがって,不安あるいは恐怖という感情に強いられて善行をなしたとしても,それは自由の人として,いい換えればスピノザとともに善行をなしたことにはなりません。このことは第四部定理六三 が明らかにしています。すでにいったように,自由の人として実践するということがスピノザの哲学における実践の規準のひとつであるのですから,こうした善行はたとえ人びとに利益を齎すのだとしても,ことばの真の意味において実践であるとはいえません。そして同時に,よって自由の人は,たとえそれによって利益が齎されることを確知しているのだとしても,不安あるいは恐怖を与えることによって人びとを善行に強いるようなことも避けなければならないことになります。いい換えればそれは自由の人がなす実践とはいえません。第四部定理六三備考では次のようにいわれています。
「徳を教えるよりも欠点を非難することを心得,また人々を理性によって導く代りに恐怖によって抑えつけて徳を愛するよりも悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは,他の人々を自分たちと同様に不幸にしようとしているのにほかならない 」。
おそらくスピノザはここで迷信家ということで,ある種の宗教的指導者を仄めかそうとしているのだと僕は思います。スピノザは実際にこの種の害悪を経験しているからです。
第62回船橋記念 。森泰斗騎手が頸椎捻挫の疑いのため,サトノタイガーは中野省吾騎手に変更。
ロイヤルトリニティはほかの馬と加速力に違いがあって離されました。まずシークロムが先頭に立ちましたが,内からフラットライナーズが押して追い抜き,フラットライナーズが単独での逃げに。2番手はシークロム,サマーダイアリー,ラスパジャサーダス,スアデラの4頭が雁行。2馬身ほど開いてアピアとモダンウーマン。また2馬身ほどでジョーオリオン,さらに2馬身ほどでサトノタイガーと続き,ロイヤルトリニティが大きく離される隊列。最初の400mは22秒7の超ハイペース。
直線に入るところでもフラットライナーズが単独で先頭。離されずについてきたシークロムとスアデラは突き放しました。しかしずっと内目を回ってフラットライナーズとシークロムの間に進路を取ったアピアの手応えが楽。悠々とフラットライナーズに並び掛けるとそこから引き離して完勝。後方から捲り加減に大外を追いこんだサトノタイガーが1馬身半差で2着。スアデラとサトノタイガーの間を伸びたモダンウーマンが1馬身差の3着に届き,逃げたフラットライナーズは4分の3馬身差で4着。
優勝したアピア は2014年の優駿スプリント 以来の南関東重賞2勝目。その後,10月に古馬混合の上級条件戦を勝ってJRAに移籍。JRAでは入着もできずに昨年から大井に戻りました。再転入の初戦こそ5着でしたがその後は5戦して4勝3着1回。オープンで連勝中でしたのでここは優勝候補の筆頭。スプリント能力の違いをみせての強い勝ち方であったと思います。1400mくらいまでは対応できるかと思いますが,ベストはこの1000mかもしれません。母の父がアグネスタキオン 。ビューチフルドリーマー 系オーマツカゼ の分枝。母のはとこに2011年に目黒記念と函館記念を勝ったキングトップガン 。馬名の英語表記はAppear。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は,一時的に騎手免許を失効していたこともあり,2015年の金盃 以来となる南関東重賞制覇で南関東重賞は26勝目。船橋記念は初勝利。再転入後に管理している大井の藤田輝信調教師 は南関東重賞7勝目。船橋記念は初勝利。
僕の考えでは,不安 metusすなわち恐怖という感情affectusはそれ自体で排他的思想の根源となりやすい悲しみtristitiaのひとつです。そしてこの感情は,それを抱く人間のうちで相反する感情によって抑制されるようになったときに,さらに排他的思想を強化する場合があります。しかしこれについての私見を述べる前に,不安という感情それ自体について,スピノザとともに考える場合に,注意しておきたい点があります。
スピノザは多くの感情を多角的に分析します。このとき不安という感情は悲しみの一種ではあるのですが,全面的には否定されません。むしろ憐憫commiseratioがそうであったように,悲しみであるけれど有用な感情であるといっているのです。これは第四部定理五四備考 から明らかだといわなければならないでしょう。そこでは不安は害悪より利益を齎すとまでいわれているからです。
なぜスピノザがこのようにいうのかを,分かりやすい具体的な例で示してみましょう。たとえば放埓な生活を送っている人間がいたとします。その人間が何らかの宗教的な教えによって,そのような生活を送っていると天罰を与えられるといわれたとしましょう。このときにこの人間が将来の天罰に対して不安すなわち恐怖を感じることによって放埓な生活に終止符を打ち,端正な生活を送るようになったとします。あるいは敬虔pietasになったといってもいいです。この場合,確かにこの人間にとって天罰に対する恐怖というのは害悪より利益を齎しているといえます。同時にそれは,単にこの人間にとってというより,この人間の近くで生活を送っている人びと,もっと大袈裟にいうなら人類にとって害悪より利益を齎しているといえるでしょう。
スピノザが『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』で聖書を肯定する理由の具体例にもこのようなことが含まれているといえるかもしれません。すなわち聖書を読むことによってたとえば神Deusや地獄に対する不安すなわち恐怖を感ずることによって,それまでは敬虔でなかった人間が,敬虔なpius暮らしを送るようになるということはあり得ないことではありません。そしてスピノザは聖書は真理veritasを教えないけれども,人間を敬虔にするという理由によってそれを評価しているのです。