チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがいつパリを離れ,いつローマに到着したのかということは,僕には確定的にいうことができません。また,パリからローマに直行したのか,それともどこかを経由したのかということも分からないです。ただ,僕が想定していることからは,いくつかの条件は設定することができます。
スピノザが死んですぐ,編集者たちは遺稿集Opera Posthumaの編集作業に入りました。スピノザとチルンハウスの間で交わされた書簡には,哲学的に有益なことが多く含まれていましたから,編集者たちはそれを遺稿集に掲載したいと思ったのは間違いありません。ですから前にもいっておいた通り,それをどのような形で掲載するのかについて,チルンハウスと打ち合わせをしました。チルンハウスとシュラーGeorg Hermann Schullerの間では,書簡七十に書かれている通り,3ヶ月の音信不通でシュラーが心配するくらいに頻繁なやり取りが行われていたので,その任に当たったのは編集者のひとりであったシュラーであったと思われます。
実際にこのような打ち合わせがあったということは,『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では確定的なこととして記述されています。フロイデンタールJacob Freudenthalのその部分の記述は,チルンハウスの名誉を貶めるようなものになっていると僕は感じます。チルンハウスについてこのように記述するのならば,たとえばライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対してはどのようにいえばよいのかというような内容になっているからです。ただそのことはここではこれ以上は探求しません。確かに打ち合わせがあった,つまりスピノザが死んだからといって,シュラーとチルンハウスの間の書簡での交流は途絶えていなかったということが分かればそれで十分でしょう。
ただしこれは書簡でのやり取りなのですから,チルンハウスがパリにいなければできなかったということにはなりません。ローマに移動しては書簡のやり取りはできないというものではないからです。だから,ライプニッツがパリを発つときにはチルンハウスがパリにいた可能性が濃厚ですが,スピノザが死んだときにパリにいたとは断定することができません。チルンハウスからの書簡によって,シュラーはチルンハウスの所在地を知ることができるからです。
実際には互いに人となりを理解していたのだとしても,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizはフッデJohann Huddeと面会する際にも紹介状を必要としていて,それを持参していたかもしれません。しかし今はそのことを深く追究する必要はありません。ライプニッツはシュラーGeorg Hermann Schullerと会う際には紹介状を持参していくことが必須であったということが重要です。というのはこの紹介状はライプニッツともシュラーとも親しい人でなければ書くことができない紹介状で,それを書くことができたのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhaus以外にはいなかったことになるからです。ということは,実際にその紹介状をチルンハウスは書いて,ライプニッツに渡したのです。そしてライプニッツはチルンハウスに書いてもらった紹介状を携えてロンドンを経由してアムステルダムAmsterdamに向かったのですから,少なくともライプニッツがパリを離れる頃は,チルンハウスはパリにいたということができるでしょう。ライプニッツがパリを発ったのは1676年10月です。どんなに早くてもその直前までチルンハウスがパリにいなければ紹介状は書けなかったでしょうし,状況から考えれば,紹介状をライプニッツに渡したチルンハウスは,パリを出発するライプニッツを見送ったとするのが自然ではないでしょうか。
なので,1676年10月の時点でもチルンハウスはパリにいたと僕は推定します。そしてスピノザが死んだのは1677年2月なので,その期間は4ヶ月です、この4ヶ月の間も僕はチルンハウスはパリにいたと想定しているのですが,この想定には何か根拠があるわけではありません。もしかしたらチルンハウスはこの間にパリを離れ,最終的にローマに到着していた可能性は否定できません。ステノNicola Stenoがパリを訪れるという必然性はありませんから,ステノとチルンハウスはローマで知り合い,その後に何らかの手段でチルンハウスがもっていた『エチカ』の手稿をステノが入手し,内容を精査した上で弾劾書を付して異端審問所に持ち込んだのです。だからそれ以前にチルンハウスがローマに行っていたということは,史実として確定しなければならないと僕は考えます。そしてそれは,異端審問所に持ち込まれる直前だったとは思われません。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがスピノザに論文を2冊送り,フッデJohann Huddeの講評を求めたのは,光学に関してフッデが有識者であることを知っていたからです。ところがライプニッツとシュラーGeorg Hermann Schullerの間にはそういった関係はありません。光学に限らずどのような学識に関してもライプニッツはシュラーを有識者と認めていたわけではありません。ライプニッツにとってシュラーと親交を結ぶことが有益であったのは,自身の何らかの学識にとって有益だったからというわけではありません。シュラーがライプニッツにとって有益な情報,とくにスピノザに関する情報を教えてくれる人物であったからです。
『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』ではかなり戯画化されているといえますが,基本的にシュラーの役回りというのはライプニッツの情報屋という位置づけになっています。この位置づけというのは正しいといえると思います。ライプニッツにとってスピノザやフッデは学識に関して対等な話し相手,こういってよければ自身にとって教師ともなれる存在であったのに対し,シュラーはそうではなく,秘書とか小間使いといったような存在に近かったのだと僕は思います。
ですから,少なくともシュラーと頻繁に書簡でやり取りをして,かつスピノザとも親しい間柄であったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがパリにいたときは,ライプニッツは積極的にシュラーとやり取りしなければならない理由はなかったのだと僕は思いますし,事実としてそうであったろうと推測します。ライプニッツはアムステルダムAmsterdamでシュラーおよびフッデと面会したとナドラーSteven Nadlerは断定していて,ライプニッツとフッデもライプニッツとシュラーもこのときが初対面であったと思われますが,ライプニッツとフッデは互いに相手の人となりをそれなりに理解していたのに対し,ライプニッツとシュラーはそうしたことも知らずに対面したと考えておいた方がいいでしょう。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではチルンハウスが事前にシュラーに対してライプニッツの紹介状を渡していたと思われるという記述がありますが,そうした紹介状がなければ,この時点でシュラーとライプニッツが面会するというのは不自然であったということは,確かな事実であったと思われます。
ナドラーSteven Nadlerはそのことについては書いていませんが,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizはフッデJohann Huddeと面会するにあたっても,事前に調整を入れていたと思われます。ふたりの間に直接的なやり取りがなかったとすれば,それについてもだれかに仲介を依頼していた筈です。ただ,ライプニッツとフッデとの間では直接的なコンタクトがあった可能性もあります。少なくともふたりの間にはかつては接点がありました。 書簡四十五でライプニッツはスピノザに対して,自身が書いた光学に関する論文をスピノザに送り,その論文についての講評を求めていますが,それと同時にフッデにも批評してもらえるように依頼しています。つまりライプニッツはこの論文をスピノザには2冊送ったのです。書簡四十六でスピノザは,1冊は自分で読み,もう1冊はフッデに送ったと明言しています。ただフッデはこのときは多忙で,その論文を読む暇がないという返事をスピノザに寄せたと書かれています。ただ,1週間か2週間がたてば読む時間ができるという主旨の内容になっているので,それがフッデの社交辞令でなかったとすれば,フッデはおそらくその論文を読んだことでしょう。なのでこのとき以降,スピノザとライプニッツとの間で文通が交わされたように,ライプニッツとフッデとの間でも書簡のやり取りが行われていた可能性は否定できません。ライプニッツはフッデのことを知っていて,かつフッデとスピノザが親しいということも知っていたので論文を2冊送ったのですが,フッデの方はライプニッツについてそう多くのことを知っていたわけではないかもしれません。ライプニッツとフッデとの間の接点はスピノザによって結ばれたものだと考えてよいでしょう。ただそれは相互に知己の関係になったというだけであって,面会に関しては別の方法での仲介者が必要であった可能性もありますし,そちらの可能性の方が高かったのではないかと推測されます。
ライプニッツとシュラーGeorg Hermann Schullerの関係はこれとは違っています。シュラーはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがライプニッツと会った後でライプニッツのことを知ったのですから,その関係はフッデとライプニッツの関係よりも薄いものであったと解するべきです。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが訪ねてくるという報知を,スピノザはシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受け取ったとされています。これはたぶん事実です。ライプニッツはハーグDen Haagを訪問するにあたって,必ずスピノザと面会することができるのでなければ,訪問するという意味がありません。ですから事前に面会できるということの確認をしておく必要がありました。これはたぶんオルデンブルクHeinrich Ordenburgと会う場合にも成立するのであって,ライプニッツはオルデンブルクと面会することについて何らかの確約を得ていたから,ロンドンを訪れたのだと思います。
ではどのようにスピノザと面会する確約を得るのかといえば,ライプニッツにとっては,チルンハウスに仲介してもらうほか方法がなかったように思えます。というのは,書簡七十の文面からして,シュラーはチルンハウスからの書簡によって,ライプニッツという人物がいるということを知ったと思われるからです。だから当然ですが,シュラーはライプニッツとスピノザとの間で,かつて文通がされていたということも知らなかったのです。このときはチルンハウスはすでにパリに到着していて,ライプニッツもパリにいたのです。それ以前に両者が会ったことがあるとか,書簡で何らかのやり取りをしていたとするなら,シュラーがライプニッツを知らないということはあり得ません。そうなると,書簡七十の文面はもっと違ったものになった筈です。したがって,ライプニッツがスピノザとの面会を,チルンハウスを通さずにシュラーに依頼するということはできません。むしろかつては文通をしていたのですから,スピノザ本人に伝える方が,ライプニッツにとっては簡単なことだったと思われます。いい換えれば,ライプニッツはチルンハウスにスピノザとの面会を仲介してもらい,その過程で,チルンハウスともスピノザとも親しかったシュラーとも仲介してもらったのです。つまり,ライプニッツとシュラーを結びつけたのはチルンハウスであったと考えなければなりません。
アムステルダムAmsterdamに到着したライプニッツは,フッデJohann Huddeとシュラーを訪ねたということを,ナドラーSteven Nadlerは確定的に記述しています。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの旅程をまとめておきましょう。
ライプニッツがパリを離れたのは,1676年10月です。まずロンドンに立ち寄り,1週間は滞在した後,強風のため足止めを食らいました。それからオランダに入ってアムステルダムAmsterdamで1ヶ月は滞在しています。それからハーグDen Haagに向かってスピノザと面会したのですから,最初の面会はどんなに早くても11月の半ばということになります。ナドラーSteven Nadlerの見立てでは最低でも2週間はハーグに滞在しています。それからすぐハノーファーへ戻ったとすれば,ライプニッツがハノーファーでの仕事を開始したのは,どんなに早くても1676年12月の中旬以降であり,1677年1月になっていた可能性もあるでしょう。ハノーファーに戻った後,ライプニッツはシュラーGeorg Hermann Schullerと定期的に書簡をやり取りするようになりました。それでスピノザが死んだことを知らされたのです。
スチュアートMatthew Stewartのいっていることが正しいとしたら,1676年の暮れから翌年の正月の時点でステノNicola Stenoがドイツにいて,ハノーファーに戻ったライプニッツと面識を得て,一緒に仕事をするようになったとしなければなりません。スピノザが死んだのはそのすぐ後,1677年2月21日です。なのでスチュアートがいっていることを全面的に否定することができるわけではないとしても,期間の短さを考慮すれば,やはりこの部分はスチュアートの脚色であると判断してよいでしょう。 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはライプニッツがパリを離れた後もパリに残ったと僕は想定していますが,これは想定であって,確実視できるわけではありません。チルンハウスが最後にスピノザに宛てて出した書簡は書簡八十二で,これはパリから出されているのですが,日付は1676年6月23日なので,このときはまだライプニッツもパリにいました。返信である書簡八十三は,7月15日付で,これはおそらくパリに送られたのでしょうから,このときもチルンハウスはパリにいたと確実視できると思います。この書簡の中でスピノザは自身の体調の悪化を匂わせていて,チルンハウスがそれ以降は書簡を送らなかったとすれば,それはスピノザのことを慮ったからかもしれません。
面会するとなると,事前に日時の調整をするのが自然です。もっともこの場合は,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはパリからハノーファーへ戻る中途の旅路でしたから,面会しようと思えばいつでも会える状況にあったといってよいでしょう。だからといって何のアポイントメントもなしにレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookやスピノザを訪問したとしても,相手が会ってくれるとは限りませんし,多忙で面会できる状況にないかもしれません。ですからレーウェンフックのときもスピノザのときも,ライプニッツは事前に日時の調整を行っていた筈です。ナドラーSteven Nadlerはレーウェンフックについては何も書いていませんが,スピノザについてはシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから報知を受けていたといっていますので,スピノザもライプニッツと会う準備をしていた筈です。なので,レーウェンフックと面会できる日時が,スピノザを訪問する日時に近ければ,アムステルダムAmsterdamからデルフトDelftに行き,そのままハーグDen Haagへ向かうのが自然ですが,日時に乖離が生じてしまった場合は,デルフトでレーウェンフックに会った後,一旦はアムステルダムに戻るという,非合理的な行程を,仕方なく組まざるを得ないケースが生じ得ます。なので『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,そのまま解するとライプニッツの行程はきわめて非合理的であったと解せるようになっていますが,事実としてその通りであった可能性も残ります。 フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,ライプニッツはハーグでスピノザを再三にわたって訪問したと書かれています。つまり,ライプニッツとスピノザの面会は,1度ではなかったということになります。このことはライプニッツ自身が,繰り返し,長い時間にわたって話し合ったという主旨のことをいっていることから確定することができます。ということは当然ながらライプニッツは,何日間かはハーグに滞在したことになります。ナドラーはそれを数週間といっていますが,この部分はおそらくという推測の形で記述されていますから,そのまま史実と確定することはできません。とはいえ何の根拠もないような推測ではあり得ませんから,少なくとも2週間はハーグにいたと考えてよいでしょう。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,アムステルダムAmsterdamに滞在していた1ヶ月の間にライプニッツはデルフトDelftまで行ってレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookと面会し,その後にハーグDen Haagのスピノザを訪問したというように読めます。この場合はライプニッツはアムステルダムからデルフトに向かい,またアムステルダムに戻ってからハーグに行ったということになります。ただ,デルフトというのはアムステルダムよりハーグに近い場所です。だから『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』では,デルフトをこよなく愛したフェルメールJohannes Vermeerと,ハーグ近郊のフォールブルフVoorburgに住んでいたスピノザとを結びつける要素のひとつとなっています。なので,当時の移動の労力を考慮すれば,このライプニッツの行程は著しく不合理に感じられます。アムステルダムを離れてデルフトへ行ったのなら,そのままハーグに向かう方が自然だからです。
書評で指摘したように,『ある哲学者の人生』は原文のほぼ直訳なので,直訳するとこのようになるのですが,ライプニッツが僕の示したような自然な行程で移動したということを,否定するような文章になっているわけではありません。なので実際は,レーウェンフックを訪問してそのままアムステルダムには戻らずにスピノザを訪問したのかもしれません。また,マルタンJean-Clet Martinは,ライプニッツは先にスピノザと会って後にレーウェンフックと会ったと記述していますが,ナドラーSteven Nadlerの記述はそれをも否定する文章であるわけではありません。レーウェンフックに会ったことが確定的に書かれていて,その後にスピノザを訪問したときのことが書かれていますから,素直に文章を解すれば,デルフトが先でハーグは後になります。ナドラーがそのような意図で記述しているのなら,『フェルメールとスピノザ』は歴史的事実を明らかにしようとしているわけではなく,マルタンの推理を展開している書籍ですから,たぶんマルタンがいっていることよりナドラーがいっていることの方が事実であったと僕は判断します。
なお,ライプニッツは観光をしていたわけではなく,レーウェンフックおよびスピノザと面会することを目的としていました。ですから行程が非合理的で不自然になってしまう場合もあり得ます。
テムズ川で足止めされてしまったライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,その間に言語,自然学,数学についてのいくつかの小論を執筆し,スピノザとの面会に備えて一連の覚書と質問事項を準備したと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。ナドラーSteven Nadlerは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは何らかの方法で『エチカ』の手稿をライプニッツに見せたので,ライプニッツはその内容のほとんどを知っていたと想定しています。ただ,ナドラーは史実として確定している出来事に関しては断定的に記述するのですが,この部分はそうとしか思われないという記述になっていますので,史実として確定する必要はありません。実際にナドラーはこの部分に注解をつけていて,そこにはフリードマンGeorges Friedmannによる,この頃にはライプニッツは『エチカ』の内容にほとんど精通していなかったという見解が示されています。僕はナドラーよりもフリードマンの見解に近く,チルンハウスはライプニッツに『エチカ』の手稿を見せなかったどころか,それを自身が所持しているということさえ教えなかったのではないかと想定していますが,僕の想定もあり得るということは,ナドラーは全面的には否定しないと思われます。
ライプニッツはこの後でオランダに到着したのですが,すぐにスピノザと面会したわけではなく,アムステルダムAmsterdamに1ヶ月ほど滞在しました。ナドラーはその間にライプニッツがフッデJohann Huddeと会ったこと,そしてシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったことを確定的な出来事として記述しています。このときにシュラーは書簡十二をライプニッツに見せ,ライプニッツは後にそれに批評を加えています。書簡十二はマイエルLodewijk Meyerに宛てられたものですが,この書簡は「無限なるものの本性について」という副題がついた有名なもので,少なくともスピノザと親しかった関係にあった人たちの間では回覧されていたものでした。このときにシュラーが見せたのは,マイエルに宛てられた書簡そのものではなく,その書簡を書写したものだったと推測されます。それをシュラーが所持していることは何ら不思議ではありません。
ライプニッツはこの後,デルフトDelftに向かって,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookを訪問したことも確定的な出来事として記述されています。
書簡七十では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはきわめて学殖が高く,諸種の科学に精通し,神学に関する世間並の偏見に捉われていないというように紹介され,そのライプニッツとチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは親しい交際に入っていると書かれています。さらにライプニッツに対する称賛が重ねられた上で,ライプニッツに『エチカ』の手稿を読ませることの打診がなされています。つまり,チルンハウスとライプニッツが会ったばかりであるということは考えられません。また,チルンハウスからシュラーGeorg Hermann Schullerへの書簡が届いてすぐにシュラーがスピノザに書簡七十を書いたのだとしても,チルンハウスが書いた手紙がシュラーの手許に届くまでにそれなりに時間を要したことでしょう。なので,書簡七十が1675年11月15日付になっていることからして,チルンハウスがパリに到着したのが11月だったとは僕には考えられません。ですからチルンハウスがパリに到着したのは,早ければ1675年の8月のうち,遅くとも同年の10月だったと僕はみます。
ライプニッツがハノーファーに戻るためにパリを発ったのは,1676年10月です。これ以降はライプニッツはパリに戻っていません。つまり,チルンハウスとライプニッツが親しく交際していたのは,およそ1年だったことになります。
パリを発ったライプニッツはイギリスに渡り,1週間ほどロンドンに滞在しました。この間にオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会しています。これはスピノザからオルデンブルクに宛てた手紙を筆写し,後に批評を加えていることから歴史的事実と確定することができます。これはおそらく書簡七十三,書簡七十五,書簡七十八などのことでしょう。以前にもいったかもしれませんが,この当時の書簡というのは,後々に公開する文書という意味合いがありました。だからスピノザの往復書簡集も遺稿集Opera Posthumaの一部として刊行されたのです。なので自身に宛てられた書簡を,スピノザに無断でライプニッツに見せたからといって,オルデンブルクが責められるべきことではありません。
この後,ライプニッツは船に乗ってオランダを目指しましたのですが,強風の影響でテムズ川で足止めされてしまいました。
スピノザがデカルトRené Descartesの物理学の影響を受けていた一例を示している書簡十三は,1663年7月27日付で,書簡十一の返信としてスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに出されたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
この書簡の最初の部分に,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の出版の経緯が書かれています。これは返信が遅れた事情の説明のために付せられたのですが,もしかしたらこれがないと出版の事情の詳しいことは後世に残らなかったかもしれません。
書簡の本文の全体は,ロバート・ボイルRobert Boyleの実験に関連する事項で占められています。その中に,デカルトと関連する事柄が含まれています。
スピノザはこれより前に,硝石の粒子はより大なる孔においてはきわめて微細な物質によって包まれるということを,真空vacuumすなわち空虚vacuumは存在しないということから論証しました。スピノザがそのように論証しているということはボイルも理解しています。ところがボイルは空虚の不可能性を,仮説としています。スピノザはこの点を不審に考えています。というのはボイルは実在的な偶有性,この偶有性というのはスコラ哲学の用語で,たとえばものの色とか匂いというような性質を意味しますが,スコラ学派ではこの偶有性は実体substantiaから離れた実在性realitasを有するとされていて,これが実在的偶有性といわれ,ボイルはその実在的偶有性を否定しています。それを否定するnegareという点でボイルはスピノザやデカルトと一致するのですが,そうであるなら空虚の不可能性を疑うのはおかしいとスピノザは考えるのです。実体なき量が存在するなら実在的偶有性は存在することになるので,偶有性の実在性を否定するならば実体なき量が存在するということを否定することになり,それは空虚の存在を否定するのと同じことだとスピノザは考えるのです。
もうひとつ,ボイルは自身がデカルトを非難しているとは思っていなかったようですが,ボイルが書いたことと『哲学原理Principia philosophiae』を読み比べれば,ボイルがデカルトの名誉を傷つけないような仕方で,いい換えればボイルの哲学する自由libertas philosophandiに基づいて,デカルトを非難しているのは明白だとスピノザはいっています。ボイルはデカルトのことをおそらく頭に入れずに書いたのですが,それがスピノザはデカルトへの非難と受け止めたということです。いい換えればそれは,ボイルがデカルトの影響を受けていないのに対し,スピノザは受けていたということになるでしょう。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが訪問するという通知をスピノザがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受け取っていたということは,当然ながらチルンハウスはライプニッツがスピノザを訪問するということを知っていたということを意味します。ここでもう一度,これを時系列で追っていきましょう。
チルンハウスがパリに到着したということをスピノザに伝えている書簡は書簡七十です。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからのもので,1675年11月15日付です。パリに着く前にチルンハウスはイギリスを訪ねていて,そこでオルデンブルクHeinrich Ordenburgそしておそらくはロバート・ボイルRobert Boyleと面会しています。この面会で途絶えていたスピノザとオルデンブルクとの間の文通は再開したのですが,オルデンブルクからスピノザに宛てられた書簡六十一は,1675年6月8日付ですでにスピノザに届いています。つまりこの前にチルンハウスはロンドンでオルデンブルクと面会したことになります。
書簡七十には,チルンハウスからの手紙が3ヶ月も途絶えていたので,イギリスからパリへ移る中途で何かよくないことが起こったのではないかとシュラーは心配していたという旨の記述があります。これは,チルンハウスとシュラーの間では,3ヶ月の書簡の不通でシュラーが心配するくらいの書簡のやり取りがあったということを意味する重要な資料だといえます。そしてシュラーは,今,手紙が来たといっていますから,書簡七十は,3ヶ月ぶりの書簡がチルンハウスからシュラーに届いてすぐに出されたものだと分かります。この書簡の中に,パリに到着したチルンハウスがすぐにホイヘンスChristiaan Huygensと会ったことと,ライプニッツにも出会い,『エチカ』の手稿を読ませることの許可を求めているということが書かれているわけですから,実際にチルンハウスがパリに到着したのは,チルンハウスからの書簡がシュラーに届くよりもある程度は前のことだったでしょう。ただしどんなに早くても3ヶ月前ですから,1675年8月より前だったということはあり得ません。書簡六十一が6月8日付ですから,8月にはチルンハウスがパリに到着していたという可能性はあり得ます。書簡七十の内容から,11月ということはないと思われます。
ステノNicola Stenoが司祭になったのは1675年というものと1677年としているものがあります。僕にはどちらが正しいか分かりません。また,1675年でいわれている司祭と,1677年でいわれている司祭が,実は違う役職のことを意味していて,どちらも正しいという可能性もあります。なのでこの点については確定的なことはいいませんが,1677年に司祭になっているということは確実視してよいでしょう。
司祭になったステノはドイツに赴任して,カトリックの布教に従事したのです。それが1677年からということは,史実として確定させてよいようです。なので,ステノがドイツで従事したのが1677年の初めからであれば,スピノザが死んだときにステノはドイツにいたことになり,ハノーファーに戻っていたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizと知り合って一緒に仕事をしていたという可能性が残ることになります。僕は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の当該部分でステノとライプニッツの関係について言及されている部分は脚色であると考えますが,脚色としてはスチュアートMatthew Stewartはこのことを利用しているということができるでしょう。ステノがドイツに赴任してからライプニッツと知り合うということはあり得ないわけではなく,だからライプニッツとステノが一緒に仕事をしていたということはともかく,ふたりの間に何らかの関係があったということまで全面的に否定する必要はないのかもしれません。
『エチカ』の手稿に弾劾書を付してステノが異端審問所に告発したのは1677年9月23日でした。なのでこのときにはステノはローマにいたのです。このときにステノがローマにいたのは,まだドイツに赴任する前であったからだと僕には思えます。ですから,ハノーファーでライプニッツとステノが,スピノザが死んだときに一緒に仕事をしていたということは脚色であると僕は考えるのです。
ライプニッツがスピノザを訪問したとき,スピノザは訪問の報知をシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受けていた筈だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に記述されています。こちらの本は純粋な伝記ですから,ナドラーSteven Nadlerの創作や脚色が含まれているというようなことは心配する必要がありません。
オランダで優勢だったのはプロテスタントのカルヴァン派で,カルヴァン派の有力者で知己の人物というのはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにもいなかったかもしれません。しかしスピノザの遺稿集Opera Posthumaの発刊を阻止したかったのは,カルヴァン派だけでなかったということは,カトリックであったステノNicola Stenoが『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだことから明白です。ですからカトリックとしては,発刊された後にそれを禁書として指定するよりも,発刊そのものを阻止できればなおよかったことでしょう。ライプニッツはそうした希望に沿うようなこと,つまり遺稿集の発刊の阻止に協力することができる立場であったのですが,そうしなかったのです。そして発刊された遺稿集を入手したライプニッツは,『エチカ』の研究に勤しんだのですから,ライプニッツが発刊を望んでいたことも疑い得ません。だから仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたとしても,ライプニッツはステノの希望には素知らぬふりを続けたでしょう。なのでこのエピソードは,脚色であったとしてもよくできたものであると僕は考えます。
それからもうひとつ,このエピソードの挿入には指摘しておかなければならないことがあります。
スピノザが死んだのは1677年2月です。そのときはライプニッツはパリにいたわけではありません。かつてスピノザと文通していた頃のライプニッツは,書簡七十二でいわれているようにフランクフルトの顧問官でした。だから書簡四十五はフランクフルトから送られています。その後でパリで仕事をするようになったライプニッツは,ドイツに戻るように命を受けました。たぶんライプニッツはパリにい続けたかったので,理由をつけて帰国を拒んでいたのですが,強い命令でどうしても戻らなければならなくなりました。しかしすぐに帰らず,ロンドンを経由してからオランダに入り,ハーグにスピノザを訪問したのです。これが1676年のことで,その後でライプニッツはハノーファーに戻っています。だからライプニッツはハノーファーでスピノザが死んだという連絡をシュラーGeorg Hermann Schullerから受けたことになります。つまりこの脚色はハノーファーにおける出来事です。
仮にスチュアートMatthew Stewartがいっていることが事実であったとしてみましょう。その場合,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがローマにいてステノNicola Stenoと知り合ったという部分が怪しくなります。チルンハウスは,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の手稿を読ませてもよいのではないかと考えたのです。それはつまり,ライプニッツとチルンハウスはそれくらい親しかったことを意味します。ですからもしもステノがライプニッツと一緒に仕事をしていたのであれば,ステノとチルンハウスもどこかで知り合っていた可能性があるからです。なのでこの場合は,ステノが何らかの画策で『エチカ』の手稿を入手したのはローマではなく,それをステノがローマにもっていったという可能性まで想定しておかなければならないでしょう。チルンハウスがローマにいたということは,『スピノザー読む人の肖像』では確定的に記述されていますが,これを史実としてよいという情報は示されていませんので,そういう可能性がまったくなかったとは僕はいいません。
しかし,スチュアートがいっていることはたぶん史実ではありません。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』は元来は脚本として書くことを意図されていた内容であって,そこにはおそらくスチュアートの脚色が入っていて,この部分はおそらくそのひとつであると僕は思います。ステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたという情報を僕はほかに知りませんし,そもそもステノがこのときにライプニッツと一緒にいたことも疑わしいのです。
あらかじめいっておいたように,この部分はライプニッツはスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊されるのを楽しみにしていたというエピソードとして,たぶん創作されています。ただこの脚色は,脚色としてはよくできたものだとは思います。仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていて,それならライプニッツはステノに,スピノザの遺稿集の出版の準備が進んでいて,その編集をしているのがだれであるのかということを教えたのかといえば,やはり教えることはなかったであろうからです。ライプニッツはカトリックとプロテスタントの統一を真剣に考えていたくらいですから,教会の有力者の知人がまったくいなかったとは考えられません。
少なくともうすうすは気付いていたであろうというのは,おそらく確信めいたものをもっていたであろうという意味です。つまり,『エチカ』の手稿をステノNicola Stenoが異端審問所に提出したとき,ステノは提出した手稿の作者がスピノザであるということを,確実視していたであろうというのが僕の推定です。こういったことは,同時にステノが提出した弾劾書の方からさらに高確率の推測が可能かもしれませんが,弾劾書の内容については國分は触れていません。ただこれは元の文書が読めるようにはなっているようです。とはいえそれを僕が解読することは不可能です。
『エチカ』を含むスピノザの遺稿集Opera Posthumaが実際に発刊されたのは1677年の末のことでした。ステノの告発は同年の9月でしたから,発刊された遺稿集は数週間後には多くの教会評議会や教会会議から不承認とされました。つまり遺稿集が世間に出回るのを阻止するために,ステノは大きな役割を果たしたということになります。
ここまでが『スピノザー読む人の肖像』に記されている史実と,それに関連する僕の補足です。一方この事実は,これまでのこのブログとの関連で,考察し直しておかなければならない事柄を含みます。
『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,スピノザが死んだときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとステノは一緒に仕事をしていて,ステノは遺稿集の出版を阻止したいと思っていたのだけれども,編集者のひとりであるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取り合い,どこでだれが遺稿集を編集しているのかを知っていたライプニッツは,そのことをステノには秘匿したという主旨の記述があります。これは,ライプニッツはスピノザの遺稿集が発刊されることを願っていたということを示すひとつのエピソードとして挿入されているといっていいでしょう。ライプニッツがそれを願っていたことは間違いありません。もちろんそれが出版されることで,自身がスピノザと関係をもっていたということが世間に知られていしまうという不安を感じてはいたでしょうが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから『エチカ』の手稿を読ませてもらえなかったライプニッツは,スピノザの哲学の全貌を知りたかったのは疑い得ないと思います。