川崎競馬も今週から夜の開催が開始。今週は年度末を挟み,旧年度と新年度の混合開催ですが,通しでいえばメインは今日の第13回クラウンカップ。出ればある程度の人気になったであろうラムセスジュビリーが取消で13頭。
サイゴンプリンスの逃げかと予想していましたが1番枠を利したビクトリースガの逃げ。サイゴンプリンス,ナンテカ,スマートインパルスの4頭が後続を引っ張る形。前半の800mは50秒2で,これはミドルペースでしょう。
先行集団の後ろから向正面で外に持ち出したポシビリテが追撃開始。直線に入って先頭に。内を回っていたテラザクラウドは直線ではこの外に出て追ってきましたが,追撃及ばずポシビリテが優勝。テラザクラウドが2着で3着は後方から追い込んだリュウノボーイ。
優勝したポシビリテは北海道デビューで2勝。北海道2歳優駿で2着になったくらいですからここでは力量は上位。ここが南関東転入初戦で今年の初戦となる点で仕上がりがどうかという点が気掛かりでしたが,しっかり体調も整えられていたようです。この後のクラシックでも有力馬の1頭と考えていいのではないでしょうか。父は重賞4勝のバトルライン。
鞍上はJRAの松岡正海騎手。管理することになった川崎の河津裕昭調教師はクラウンカップ初制覇です。
僕たちは尿意の発生を,自分自身の精神の能動だけでは行えないから尿意という観念は十全な観念ではなく混乱した観念であると僕は考えたわけですが,これを同じように経験的な観点から訴えるならば,むしろ逆の場合,つまり尿意を発生させる場合よりも消去させる場合を考えた方がより理解を得やすいかもしれません。
たとえば,一端が固定されもう一端が運動する直線を,このようなことばとしてではなく,任意の思惟作用としてなすとき,その知性のうちには円の十全な観念が発生します。自然のうちに現実的に存在する円がこのように形成されるわけではありませんが,これは円の本性と発生を含む,円の十全な観念です。そこでこのような円の十全な観念を獲得した人間は,その人間の現実的存在が持続する限り,この円の十全な観念も保持し続けるでしょう。しかしこれは任意の思惟作用ですから,意識というレベル,つまり観念の観念というレベルでは,それが常にその人間の知性の一部を形成しているというわけではありません。
もしも尿意が十全な観念であるのなら,これと同様のことがいえなくてはなりません。しかし実際には,尿意というのは,一時的には別の観念によってその存在を阻害されることがあるかもしれませんが,最終的には,排尿という運動を自分の身体がなすまでは持続するのではないでしょうか。つまり僕たちの精神の力のみによって,その存在を排除し得るような,あるいはそれを意識しないでいることができるような観念ではないのではないでしょうか。そしてそれが不可能であるということは,やはりこの観念が十全な観念ではなく,自分の身体のある状態,あるいはもっと限定的にいうなら,自分の身体の一部のある状態についての表象像だからだと僕は思うのです。これは第二部定理一七の内容にも完全に合致しているといえるでしょう。
こうした考察により,ここでは尿意という観念について,これを表象像とみなします。そしてこれは,スピノザの哲学に照らし合わせても妥当な判断であると僕は考えます。
サイゴンプリンスの逃げかと予想していましたが1番枠を利したビクトリースガの逃げ。サイゴンプリンス,ナンテカ,スマートインパルスの4頭が後続を引っ張る形。前半の800mは50秒2で,これはミドルペースでしょう。
先行集団の後ろから向正面で外に持ち出したポシビリテが追撃開始。直線に入って先頭に。内を回っていたテラザクラウドは直線ではこの外に出て追ってきましたが,追撃及ばずポシビリテが優勝。テラザクラウドが2着で3着は後方から追い込んだリュウノボーイ。
優勝したポシビリテは北海道デビューで2勝。北海道2歳優駿で2着になったくらいですからここでは力量は上位。ここが南関東転入初戦で今年の初戦となる点で仕上がりがどうかという点が気掛かりでしたが,しっかり体調も整えられていたようです。この後のクラシックでも有力馬の1頭と考えていいのではないでしょうか。父は重賞4勝のバトルライン。
鞍上はJRAの松岡正海騎手。管理することになった川崎の河津裕昭調教師はクラウンカップ初制覇です。
僕たちは尿意の発生を,自分自身の精神の能動だけでは行えないから尿意という観念は十全な観念ではなく混乱した観念であると僕は考えたわけですが,これを同じように経験的な観点から訴えるならば,むしろ逆の場合,つまり尿意を発生させる場合よりも消去させる場合を考えた方がより理解を得やすいかもしれません。
たとえば,一端が固定されもう一端が運動する直線を,このようなことばとしてではなく,任意の思惟作用としてなすとき,その知性のうちには円の十全な観念が発生します。自然のうちに現実的に存在する円がこのように形成されるわけではありませんが,これは円の本性と発生を含む,円の十全な観念です。そこでこのような円の十全な観念を獲得した人間は,その人間の現実的存在が持続する限り,この円の十全な観念も保持し続けるでしょう。しかしこれは任意の思惟作用ですから,意識というレベル,つまり観念の観念というレベルでは,それが常にその人間の知性の一部を形成しているというわけではありません。
もしも尿意が十全な観念であるのなら,これと同様のことがいえなくてはなりません。しかし実際には,尿意というのは,一時的には別の観念によってその存在を阻害されることがあるかもしれませんが,最終的には,排尿という運動を自分の身体がなすまでは持続するのではないでしょうか。つまり僕たちの精神の力のみによって,その存在を排除し得るような,あるいはそれを意識しないでいることができるような観念ではないのではないでしょうか。そしてそれが不可能であるということは,やはりこの観念が十全な観念ではなく,自分の身体のある状態,あるいはもっと限定的にいうなら,自分の身体の一部のある状態についての表象像だからだと僕は思うのです。これは第二部定理一七の内容にも完全に合致しているといえるでしょう。
こうした考察により,ここでは尿意という観念について,これを表象像とみなします。そしてこれは,スピノザの哲学に照らし合わせても妥当な判断であると僕は考えます。