スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

クイーンエリザベスⅡ世カップ&所在地

2013-04-30 18:41:55 | 海外競馬
 28日に香港のシャティン競馬場で行われたクイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000mに,昨秋の天皇賞を勝ったエイシンフラッシュが出走しました。
 14頭中13番枠からの発走。位置は取りにいかずに控える競馬。結果的に最後尾となり,馬群から2馬身ほど離れての追走に。3コーナー過ぎから前に取り付いていき,直線はよい手応えで進路を探る形に。最後は前が開いて猛然と追い込んできたものの,勝ち馬はすでに抜け出していて,2着馬に僅差まで迫る3着が精一杯でした。
 この馬は自在な競馬ができるタイプではなく,レースでは注文がつく馬。超スローペースでしたから,最後尾という位置取りがどうであったかは分かりませんが,外枠には不利なコース形態なので,止むを得なかったものと思います。脚は余したものの,能力を発揮できる状態にあったといえ,優勝に辿りつくには少しばかり運に恵まれなかったという印象です。

 スピノザがある事柄について,それが自明であるという言い回しをする場合に,それが客観的有に関係するということは,人間に関連付けていうならば,それは人間の身体のある運動ないしは静止に関していわれているのではなく,人間の精神による思惟作用に関していわれているということです。かつての考察において明らかにしたように,スピノザの哲学における認識論には大きな特徴があり,人間の精神による事物の認識というのは,『短論文』におけるいい方を用いるなら純粋な受動なのであって,その精神があたかも自動機械のようにある観念から別の観念,さらにまた別の観念へと進んでいくような作用です。つまり,ある事柄が自明であるとスピノザがいうとき,それが自明であるといわれるときの所在地がどこにあるのかというなら,それはそのような,観念のオートマティックな,あるいはシステマティックな展開のうちにあると考えるべきだと思います。
 なお,僕がここでこのことを人間の精神に関連させて説明したのは,現在の考察に関連して無用と思えるような複雑性を招かないという目的からです。僕はこの説明は,単に人間の精神にのみ妥当するのではなくて,第二部定理一三備考でスピノザが示しているような,一般的な意味における精神について妥当すると考えています。ただ,このことを今は強硬に主張する必要性はありませんから,ただ人間に対して自明であるといわれる場合に,それは人間の精神による事物の認識作用に関連するのであって,その認識作用のうちに,それが自明であるといわれ得るような要素があるというように理解するだけで十分です。
 ただし,ここで気をつけておかなければならないのは,いかにある事柄が自明であるということを構成する要素が,その事柄の観念を形成する場合の人間の精神の認識作用のうちにあるのだとしても,だからこうした作用によって生じるようなすべての観念に関して,それが自明であるといわれるわけではないということです。いい換えれば,人間の精神がこのような仕方である事物を認識するとき,ある種の認識だけが自明とみなされ,それ以外の認識は自明とはいわれないのです。
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農林水産大臣賞典かきつばた記念&自明

2013-04-29 18:45:48 | 地方競馬
 レース創設15年目にして初めて4月中に実施されることになった第15回かきつばた記念
 何が何でもといった感じでサイモンロードがハナに。ティアップワイルドが外に回って2番手。さらにセレスハント,ブライトシンプーが外に続き,ダイショウジェットは内。トウホクビジン,ダノンカモンも差がなく追走。最初の600mは37秒3で,スローペースといえるでしょう。
 ペースがペースだけに逃げ馬は楽。ティアップワイルドは3コーナー過ぎから押して前に並び掛けていきました。並ぶまでは手間取りましたが直線で並んでしまえばあっさりと交わし,2馬身抜け出して快勝。ダイショウジェットと並んで外を追い込んだダノンカモンが2着に届き,粘ったサイモンロードが頭差の3着。
 優勝したティアップワイルドは昨年暮れの兵庫ゴールドトロフィー以来の重賞2勝目。今日のメンバーでは能力上位ですから,順当な勝利といっていいでしょう。この路線はレースごとに出走馬のレベル差が出ることがあり,今日のようなメンバーでの戦いになれば,まだ重賞制覇を重ねていかれるものと思いますが,一線級相手に勝つためには,もう少しのレベルアップが必要であるように思います。母のはとこに1999年のTCK女王盃を勝ったケープリズバーン
 騎乗したのは石橋脩騎手で管理しているのは西浦勝一調教師。かきつばた記念は共に初勝利。

 ある事柄が自明であるとか,あるいはそれ自体で明らかであるといったことは,ごく一般的に使われるような言い回しであるといえると思います。事実,僕自身がこれまでの論考において,何度もこうした言い回しをしてきました。しかし,だからスピノザがこうした言語表現をするという場合に,それを同じように一般的な意味で用いているということは,少なくとも無条件に前提して構わないというものではありません。そのように解釈できる可能性はありますが,スピノザはどういった文脈においてこうした表現を用いるのかということについて,ある程度は精査した上で,得るべき結論であるといえます。
 要するに,自明であるということがスピノザの哲学においてどのような意味を有するのかということを,正しく結論付けるためには,それこそ積極的ということがどのような意味を有するのかということを探求している今回の考察と,分量としては何ともいえませんが,少なくとも質的な面からいうなら,同じ程度の精査は必要であるということになります。いい換えればそれは,それ自体でテーマとして成立し得る内容を有しているということになるでしょう。それを考えてみることは大いに有意義なことであるでしょうし,また僕自身にもそれに関する興味が皆無であるというわけではありません。ただ,それは今やるべきことであるかといえば,そうではありません。現在は積極的であるということがスピノザの哲学の中でもっている意味を探索しているのですから,それに関係するような内容さえ把握しておけば十分であるといえるからです。
 そこで,スピノザがある事柄の自明性を主張するときに,現状の考察に関連して重要であると僕が考えていること,より詳しくいうなら,とくに第一部定理二六証明の②の部分で,自明であるという表現がされている場合に,とくに重要ではないかと僕が考えている点を,ふたつだけ示しておくことにします。
 まず,スピノザの哲学では,あらゆる事物が形相的formalisと客観的objectumの二種類に分類されます。このとき,自明であるということは,形相的な事柄についていわれるのではなく,客観的な事柄に関していわれます。
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天皇賞(春)&含まれる要素

2013-04-28 18:39:47 | 中央競馬
 イギリスから1頭が遠征してきた第147回天皇賞(春)
 ゴールドシップは出負け。デスぺラードが控えたので,後方2番手からの追走に。逃げたのはサトノシュレン。トウカイパラダイスとムスカテールの3頭で最初は後ろを離していましたが,前の3頭も徐々に差が開き始めました。好位はユニバーサルバンク,コパノジングー,カポーティスター。フェノーメノがその次の集団の先頭で,ここにはマイネルキッツ,トーセンラー,レッドデイヴィス,アドマイヤラクティ,レッドカドーなど。最初の1000mは59秒4でこれは超ハイペースでしょうが,前はかなり飛ばしていましたから,4番手以降にはそんなにきついペースではなかった筈です。
 ゴールドシップはいつものように向正面から動きましたが,これまでのようには楽に前に取り付くことができませんでした。トウカイパラダイス,フェノーメノ,トーセンラーの3頭が雁行,その後ろに内にレッドカドー,中がゴールドシップ,外にジャガーメイルで直線に。トウカイパラダイスはすぐに一杯。フェノーメノが先頭に立ち,これを追うトーセンラー。ゴールドシップはここで離されて圏外。最初に抜け出したフェノーメノが1馬身4分の1の差をつけて優勝。トーセンラーが2着。内から追い込むことになったレッドカドーが2馬身差で3着。
 優勝したフェノーメノは前哨戦の日経賞からの連勝。重賞は4勝目で大レース初制覇。僅差の2着が2度あって,大レースを勝つ力があることは証明済み。ゴールドシップ以外には力量上位で,何らかの事情でゴールドシップが能力全開まで至らず,そのチャンスをものにしました。中距離でも戦える馬ですから,今後も大レースでいい競馬を続けていくものと思います。父はステイゴールド。Fenomenoはポルトガル語で現象。
 騎乗した蛯名正義騎手は一昨年のヴィクトリアマイル以来の大レース制覇。第125回をマンハッタンカフェで制して以来の天皇賞(春)2勝目。第114回天皇賞(秋)をバブルガムフェローで制していて天皇賞は3勝目。管理している戸田博文調教師は2006年の桜花賞以来の大レース2勝目。

 このような前提から,第一部定理二六証明の①の部分に関して,次に何を解決すればよいのかが分かります。すなわちそれは,AがBをある作用に決定することが積極的であるといわれるのであれば,なぜそれは積極的であるといわれるのかということです。別の側面からいうならば,AがBを作用に決定するとき,その決定を積極的とみなし得るような,この決定に含まれていると考えられる要素とは何であるのかということです。付け加えておけば,ここでAとかBといっているものは,任意のものです。これは,この決定がAによってなされるから積極的であるといわれ得るわけではないということから明らかです。したがってAがどういったものであれ,Bを作用に決定するなら,それは必然的に積極的であるとみなされなければなりません。よってこの決定に含まれる,それを積極的といい得るような要素というのは,どんなもののどんな決定,といってもそれは作用への決定に限られはしますが,そうした作用への決定には,必ず含まれているような要素であるのでなければなりません。
 しかし,ここではこの問いに答える前に,スピノザが何を積極的であると認識しているかのヒントがほかにもありますから,そちらを先に考えておくことにします。というか,そちらを先に考えておく方が,この問いにも答えやすくなる筈です。
 第一部定理二六証明の②の部分は,①の部分については自明であるといっています。したがって,AがBを作用に決定するという場合に,その決定を積極的であると認識させるような要素というのは,自明なものであるというように考えられるのでなければなりません。この②の部分というのは,明らかに,それが積極的であるということについて,自明であるといっているとしか理解できないからです。ですから,作用への決定の中に含まれる,ある自明的な事柄が,この決定を積極的であると認識するための必然的な要素を構成するということになります。したがって,実はここで問題となってくるのは,自明とは一体どのようなことなのかということなのです。いい換えれば,スピノザはどのような事柄について,それを自明というのかということなのです。
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農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&安全性

2013-04-27 18:57:29 | 地方競馬
 25日の第27回東京プリンセス賞。張田京騎手が病気のため,ケンブリッジナイスは町田直希騎手に乗り換り。
 絶好の最内枠を引き当てたのですから,デイジーギャルが逃げたのは当然。ただ,逃げて良績を残していたベルフェスタが絡んでいき,この2頭で後ろを引き離していくレースとなりました。3番手にはサブノハゴロモ。好位の内にカイカヨソウが控え,イチリュウはマークするように外を追走。最初の800mは49秒7のハイペース。競り合いがありましたから仕方がないでしょう。この影響で隊列はわりと長めに。
 前の2頭のうち,先に一杯となったのはデイジーギャルの方。ベルフェスタは逆にかなり頑張って直線では先頭に。この外から追ってきたのがイチリュウで,一旦は先頭に立ったかに見えました。ただ,ベルフェスタの内に進路を取ったカイカヨソウが並んできて,そこからは逆に離していって2馬身差の快勝。イチリュウが2着。3馬身半差の3着にベルフェスタが粘りました。
 優勝したカイカヨソウは前々走のユングフラウ賞以来の南関東重賞3勝目。前走は2着馬の後塵を拝しての3着でしたが,あれは実力以外の要素が結果に大きく影響したもので,きっと巻き返すだろうと思っていました。そういう意味では順当な勝利。ずっと内を回ってきた手綱捌きも見事だったと思います。東京ダービーに進む可能性があるようですが,いい勝負ができるのではないかとみています。
 騎乗した川崎の今野忠成騎手はユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。第18回,20回,26回と制していて,連覇となる東京プリンセス賞4勝目。管理している船橋の川島正行調教師第23回,25回,26回を制していて,三連覇となる東京プリンセス賞4勝目。

 第一部定理二六証明の①の部分でいわれている積極的ということを,副詞の要素を構成するものであると見通しを立てたということは,一般的にいうなら,次のように理解するということになります。
 仮にAというものがあったとして,このAが,Bがある作用をするように決定したとします。このとき,この決定という行為は,積極的な行為であるとみなされます。副詞の要素として理解するということは,この理解の上では,Aが何であるか,またBが何であるかは問わないという意味を有します。つまりBを作用に決定するのがAであるからそれは積極的な決定であるといわれるのではありません。逆に,Aによって作用に決定されるものがBであるから,Aによる決定は積極的な決定であるといわれるわけではないと解釈するということです。
 また,積極的という語句を副詞としての要素を構成するものであると解するからといって,これを形容詞の要素を構成するものとして解釈することを全面的に禁じるということは,僕が意図しているところとは異なります。むしろ,AがBをある作用に決定するとき,その決定は積極的な決定であるといわれるのであれば,この決定をなす限りにおいて,Aは積極的なものであるといわれるのは,自然なことだと僕は認めます。
 ただし,これはあくまでもBを作用に決定する限りでAについて妥当することです。したがってもしもAがそれ以外の相の下からみられる場合には,少なくとも当面の間は僕はAを積極的なものであるとみなすことはしません。つまり作用への決定という観点から離れる限りにおいては,積極的ということばを形容詞として用いるということは,当面の間は禁じるということになります。AはBを作用に決定し,かつほかのこともなすと考え得るわけで,前者の観点からはAを積極的なものといいますが,後者の観点では,そのようにはいいません。
 積極的というのを副詞の要素を有する語句として理解するということは,文法の規制という観点から,その方が安全性は高いと僕が判断したからです。そしてそのとき,僕が安全性といっているのは,上述の点と関係しているということです。
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棋聖戦&見通し

2013-04-26 19:50:24 | 将棋
 前年度の棋王戦の再戦となる第84期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明竜王が13勝,郷田真隆九段が8勝。
 振駒で渡辺竜王の先手。角換り相腰掛銀に。郷田九段の方が3筋から動き,端を絡めて先攻する将棋に。僕はこういう指し方があることを知りませんでしたので,びっくりしました。その辺りも面白かったですが,今日は終盤をライブで観戦できましたのでそこを。
                         
 これが僕がアクセスしたときの局面。ほどなくして☖7六銀が打たれました。後手の攻め駒は多くはないのですが,後手玉がすぐに寄るという感じではないので,かなり難しそうな局面だと思いました。時間を使って☗8六金と引きました。これは予想していた手。☖8一飛☗8五歩☖同銀まで一気に進みました。そこで☗2四桂と取るのも予想していた手のひとつ。これだと☖8六銀☗8一馬までは必然でしょう。これ以降は後手の攻めが続くかどうかだけ。☖7七歩と垂らしました。☗6八金はこの一手と思えます。☖8七歩の王手には☗7九王よりありません。そこで☖4八歩成。これも☗同飛の一手。ずっと狙いの筋としてあった☖5九角がここで打たれました。
                         
 この手自体は詰めろではないので,先手に勝つ順がありそうに思えました。長考したのはそれを探して確認するためだったと思います。☗8二飛。これには☖4一歩しかありませんが,そこでの☗1二桂成が鮮やかな決め手。☖同玉に☗2四香と打ち,どうやら先手の勝ちは動かなくなったと思え,ここで検討を終らせました。
                         
 渡辺竜王が勝って挑戦権を獲得。棋聖戦は第78期以来2回目の挑戦で,初獲得を目指すことになります。第一局は6月4日です。

 僕がいっていることはあくまでも一般論です。第一部定理二六証明でスピノザが文法の規制を受けているという意味ではありません。ただ,日本語で考えるconcipere場合には,ここでいわれている積極的という語句は,決定するという動詞を修飾する副詞であるとも,決定する主体subjectumを修飾する形容詞であるとも解釈することが可能であるということは疑いなく事実であるといえます。ですからそうしたことも視野に入れた上で,考察を進めていかなければなりません。さらに日本語で考えるという場合には,日本語の文法の規則から逸脱することは不可能です。つまりそれを遵守しつつ,かつそれによってスピノザがいわんとしている事柄が,それによって漏出しないような方法を用いるのでなければならないのです。
 これが,第一部定理二六証明の①の部分について,その見通しを立てるときの基準というか前提となってくるのです。そうでなければヒントを正しい答えに繋げることが不可能になってしまうかもしれませんし,そこまではいわないとしても,その道筋が困難なものとなることは間違いないでしょう。
 これを部分的に抽出し,単に日本語として考えたならば,ここでは積極的なもののため,と記述されています。すなわちこれはあるものを修飾している語句ということになり,形容詞であるということになるでしょう。厳密に日本語の品詞の概念notioでいうなら,形容動詞ということになりますが,僕がこれをどのように解釈するべきであるかと考えるときの論点が,品詞そのものの概念にあるわけではないということは,ここまでの説明からお分かりいただけるものと思います。それにそもそも形容動詞という品詞は日本語に特有の概念であるといえると僕は考えていますので,今は単にこれを形容詞とだけいっておきます。
 では,僕がこれを形容詞として解釈するという見通しを立てるのかといえば,そうではありません。僕はむしろここでスピノザが積極的ということに関して,まずは副詞の要素を構成するものと解釈します。これは前述したような基準ないしは前提という観点に鑑みるならば,そのように解釈しておく方が,安全である,あるいは間違いを生じにくくすると思うからです。
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女流王位戦&スピノザと言語

2013-04-25 19:10:03 | 将棋
 兵庫県姫路市で開幕した第24期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が10勝,甲斐智美女流四段が2勝。
 振駒で先手を得た里見王位は居飛車を選択。甲斐智美四段のごきげん中飛車③Bから先手が早めに自陣角を打つ将棋に。
                         
 歩を取られるのは後手としては仕方がないところ。△5二金左▲3四角△2一飛と進めました。そこで▲1六歩から端を狙ったのがよい着想だったよう。△8四歩▲1五歩△8三銀と進めたのは後手としてはどうだったかと思います。すぐに▲1四歩と仕掛け,△同歩▲1ニ歩△同香▲2四歩。
                         
 こうなっては先手の作戦がはっきりと成功したといえ,早々に一本取ったといえそうです。実際にここで差がついていたようで,この後は後手の反撃をいなす形で先手の快勝となりました。
 里見王位が先勝。第二局は来月9日です。

 スピノザがどんな言語を用いて自らの哲学を考えていたのかということについては,確定的な解答を与えることはできません。ただ,『エチカ』との関係で,僕が最も重要ではないかと思っているのは,以下のような事柄です。
 スピノザの生い立ちについて言及した書物というのはいくつかあります。それらを読み比べてみますと,部分的には異なった記述がされている箇所があります。スピノザが生きていたのは1600年代ですから,細かい点に関してこうしたことが生じるのは止むを得ないといえるでしょう。ただ,これから説明することに関しては,一致していますから,正確性について心配する必要はないと思います。ここでは工藤喜作の『スピノザ』を参照します。
                         
 スピノザの父は,ポルトガルにおけるユダヤ教への迫害から逃れてオランダにやってきた人でした。このため,スピノザは日常生活ではポルトガル語を用いていました。一方,1637年に生命樹学院という学校に入学していますが,ここではスペイン語が使われていたそうです。これらのふたつがスピノザが幼少期に使っていた言語です。住んでいたのはオランダでしたが,オランダ語はあまり達者ではなかった,少なくともポルトガル語やスペイン語ほどは上手ではなかったようです。一般的に考えて,人が物事を考える場合には,幼少期から親しんだ言語を用いるのが普通ですから,僕はスピノザはポルトガル語かスペイン語で考えていたのではないかと思っています。ただし,今はこのことは重要ではありません。
 『エチカ』というのはラテン語で記述されています。ラテン語はスピノザが18歳以降に習得した言語です。とくにファン=デン=エンデンという教師の存在が大きかったようです。ただ,いずれにしてもこれはある種の必要性に駆られて習得した言語です。スピノザはヘブライ語の文法に関する著作を残しているくらい文法というものに関心がありました。なので自分の哲学が文法によって掠め取られてしまう危険性も理解していたと僕は想定しています。しかしポルトガル語やスペイン語と比べるなら,後に習得したラテン語の文法の規制に嵌る可能性は,高くなっていると考えておくべきだと思います。
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羽田盃&文法の規制

2013-04-24 20:48:04 | 地方競馬
 南関東クラシック三冠の初戦に該当する第58回羽田盃
 ハブアストロールが出遅れ。逃げたのはオグリタイム。ソルテが2番手,アウトジェネラルが3番手,ジェネラルグラントが4番手,インサイドザパークが5番手と,上位人気の馬がその後ろに並びました。最初の800mは51秒9でこれは超スローペース。
 3コーナー過ぎからペースが上がり,ここでジェネラルグラントがすぐについていかれず,前の3頭から少し離されました。直線ではソルテが2番手から抜け出しにかかりましたが,その外のアウトジェネラルがあっさりとこれを差し,4馬身差の快勝。2着はソルテ。ジェネラルグラントもオグリタイムは差したものの,外を伸びたインサイドザパークにクビ差で差され,4馬身差の3着にはインサイドザパーク。ジェネラルグラントは4着。
 優勝したアウトジェネラルは北海道で2勝して昨年の暮れに転入。転入後は雲取賞を勝っていましたが,南関東重賞はこれが初勝利。雲取賞はクラシックを目指す馬の登竜門的レースで,圧勝でしたから,勝つ力はありました。非常にスムーズなレースができたため,鮮やかな内容になったという面はあり,上位4頭は今日の着差ほどの力量差はないものと思います。父はアドマイヤドン。叔父に2005年のJRA賞最優秀ダートホースとNARグランプリダートグレード競走最優秀馬,2008年のJRA賞最優秀ダートホース,NARグランプリダートグレード競走特別賞のカネヒキリ
 騎乗した大井の御神本[みかもと]訓史騎手は先月の東京スプリング盃以来の南関東重賞制覇で羽田盃初勝利。管理している船橋の川島正行調教師は第50回,54回,56回を制していて,2年ぶりの羽田盃4勝目。

 このふたつの解釈の相違というのは,日本語の文法で考えるなら,以下のような相違として帰着します。もちろんスピノザは日本語の文法に則して考えたというわけではありませんから,スピノザ自身の考え方を十全に理解するためにはこうしたことを考えることは無意味であるでしょうが,僕は日本語で考える以上,日本語の文法に反しては何も考えることができません。したがってその文法の規則から,スピノザの考え方を漏らさないようにする必要があるのであって,このことは普通に思われているよりだいぶ重要性が高いであろうと僕は考えているのです。
 もしも事物を作用に決定するdeterminareという行為自体が積極的であるといわれるのだとするなら,これは決定するという動詞を積極的ということばが修飾することになります。したがってこの場合,積極的ということは,副詞としての機能を果たすというように理解するのでなければなりません。一方,もしもそうした決定determinatioというのをなす主体を措定し,その主体subjectumについてそれを積極的であると表現するexprimereならば,積極的ということばはその主体たる名詞を修飾するということになります。なのでこの場合は,積極的ということばは形容詞としての機能を果たすということになります。
 日本語の文法として,どちらの道を選択していくのかということに関しては,僕はすでに見通しを立てています。しかしこの結論は後回しにして,文法というものが個人の考え方を,決定するとはいわないまでも,規制するであろうということは,一般的に妥当するといえます。いい換えればそれはスピノザにも当て嵌まっていると考えなければなりません。やや回り道になりますが,今回の考察に限った話ではなく,このことは常に視野に入れておかなければならない事柄ですので,これについて僕がどのように考えているのかとういうことだけ,簡単に説明しておくことにします。
 ただし,スピノザが物事を考えるときに,どんなことば,いい換えれば何語を用いていたのかということは,だれにも確かめようがないことなのであって,ですから文法の規制をこの点で受けていたとしても,それを何語の文法であるかは特定できません。
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漱石の聖書&ヒント

2013-04-23 19:10:53 | 歌・小説
 漱石が留学のために渡英するための船中で,熊本時代に出会ったノットと偶然に再会したことについては,僕は船中から妻に宛てた書簡の方で先に知りましたが,高木文雄も『漱石の道程』で触れています。それによれば漱石はこの夫人については一切の悪口を残していないばかりか,最上級の夫人であるという主旨の賛辞を連ねているそうです。そしてこの船中で,ノットは漱石に聖書を与えたとのこと。今は知りませんが,高木がこれを記した当時,その聖書は東北大学内に保管されていたようで,相当数のアンダーラインや書き込みがあったとのことです。もちろんそれは漱石自身の手によるものと考えられなければなりません。この聖書を漱石が受け取った日というのがはっきりと特定されていて,1900年の10月10日のこと。したがってこれ以降,漱石がこの聖書を熱心に読んだということは疑い得ないところです。
                         
 船中ではおそらく時間を持て余すようなこともあった筈で,この聖書を読むということがあったかもしれません。ただ,それだけの書き込みがあるなら,それは船中だけでなされたものでないということは明らかだろうと思います。そもそも東北大学に保管されていたということは,漱石は帰国時には持ち帰ったということになりますから,帰国後の書き込みが含まれていると考えることも可能です。
 高木も同じような見方をしていて,帰国後の『文学論』の講義を作るときにもなされたかもしれないといっています。書き込みやラインが多い箇所は「創世記」「ヨブ記」「マタイ福音書」の3か所だそう。前のふたつは旧約で,福音書は新約ですから,この聖書は両方が含まれていたことになります。多くラインが引かれているのはeagleという単語で12か所。そのうち4か所はwingsという単語も伴っているというように,高木の調査は実に丹念なものです。
 キリスト教への宗教観については別にして,少なくとも漱石がかなり真剣に聖書を読んだのだということは,疑うことができない事実であるといっていいでしょう。

 疑問に答えることに僕が禁欲という立場を堅持するべきであるとしても,疑問を疑問のままで放置しておくというわけにはいかないということは当然です。ただ,ではこれにどのような解決手段を選択するのかということは後回しにすることにして,すでに今回の考察の主旨との関連だけでいえば,判然とした事柄がいくつか浮かび上がっていますから,それを先にまとめておき,今後の考察のために役立てるということにしておきましょう。
 第一部定理二六証明の①の部分は,もしもある事物が作用に決定されるといわれるのであれば,この決定というのは積極的なものでなければならないということを明示しています。このこと自体はこの証明に関する疑問のひとつを構成しているわけなのですが,今はそのことは無視することとすれば,少なくともスピノザが,ある事物がほかの事物を何らかの作用に決定するとすれば,それは積極的なものとして理解されるべきである,あるいはそのように理解されなければならないと認識しているであろうということは,間違いがないといっていいと思います。考察の主題はあくまでもスピノザの哲学においてある事柄が積極的であるといわれる場合の意味に関係するのですから,スピノザがたとえば何を積極的であると認識しているのかということを理解することは,その考察にとって最も大事な点であるといって差し支えありません。いい換えれば,この部分には,その最も大事な点が言及されていると理解できるわけです。もちろん,おそらくスピノザは,このことだけを積極的ということばで表現するわけではないと思われますから,これを解決すれば考察の主題のすべてが解決されるということにはならないかもしれません。しかし,ここに考察の主題に大きく関係するようなヒントが含まれているということは,間違いないということになるでしょう。
 ただし,ここでは,何が積極的であるといわれているのかは,ふたつの仕方で解釈することが可能です。すなわち論証のこの部分は,ある事物を作用に決定するというとき,その決定という行為自体についてそれは積極的であると表明していると解釈することができます。しかし一方では,その決定を行う主体に関して,それは積極的であると表明していると解釈することも可能だといえるでしょう。
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ヒールスタイル&禁欲

2013-04-22 18:41:46 | NOAH
 国際血盟軍の結成は,鶴見五郎にとっては不本意なものでした。その理由に関しては鶴見自身がインタビューの中で明かしています。一言でいえば,それは鶴見にとって,やりたいプロレスではなかったのです。
 鶴見がやりたかった,あるいは見せたかったのは,本当のヒールスタイルであったと鶴見は述べています。ベビーフェイスとヒールという枠組みだけでいうなら,国際血盟軍というのはヒールに属するとはいえます。しかし鶴見の認識においては,それはあくまでも二分した場合のヒールであって,本当のヒールではないということなのでしょう。いい換えれば,国際血盟軍というのは,ベビーフェイスである馬場に敵対するという意味でヒールなのであって,これは相対的なものです。鶴見が本当のヒールスタイルということばで意味しているのは,おそらくそのような相対的な意味におけるヒールなのではなく,絶対的な意味でのヒールであったのだろうと思います。インドの狂虎上田馬之助と組んでいればそういうスタイルを見せることはできるけれども,国際血盟軍という枠組みの中では,そこまで大きなインパクトをファンに対して残すことができないと鶴見は考えていて,それが国際血盟軍の結成が鶴見にとって不本意なものであったことの大きな理由になっていたようです。
 さらにもうひとつ,鶴見は本当のヒールスタイルというものを見せていた時代は,シンや上田とだけ組んでいたわけではなく,ほかの外国人レスラーをパートナーに試合をするということもありました。そもそもシンはすべてのシリーズに参戦するわけではありませんが,鶴見はフリーとしてもっと多くの試合に参戦していたのですから,これは当然といえば当然です。しかし,国際血盟軍という日本人だけのチームを結成してしまうと,そういうことは不可能になります。このことも鶴見にとっては不本意であったようです。
 国際血盟軍は本当のヒールではなく,ラッシャー・木村を盛り立てるグループだったと鶴見は回顧しています。自身の役回りを理解し,それに則ったプロレススタイルに徹して仕事を続けた鶴見は,本当の意味でのプロであったといえるかもしれません。

 第一部定理二六証明への疑問に関しては,僕には解答を与えることができません。ただしそれは,答えが分からないということではありません。むしろ今回の考察の主旨から考えてみた場合に,解答を与えるということ自体に禁欲的であるべきではないかと思われるからです。そこで,ここで改めて今回の考察の主旨というのを,より詳しく説明しておきましょう。
 すでに書いてきたように,今回の最終的な目標となるのは,スピノザの哲学,とくに『エチカ』において,ある事物が積極的であると表現されるときに,その積極的ということがどういう内容を有していると理解するべきであるのかということを明らかにすることです。その際,第一部定理二六証明における訴訟過程で,スピノザが積極的ということばを用いているということを着眼点とすることで,その目標を果たそうとしているのです。
 しかし,この証明には,それ自体のうちに疑問を呈することが可能であるというのが僕の考え方ではあります。ですから,目標を達成するためには,その疑問を先に除去しなければならないのが本当のところであるといえるでしょう。ところが,この疑問の内容というのをよく吟味してみますと,この疑問への解答自体が,最終的な目標の達成に大きく影響を及ぼしてしまうように思えるのです。
 この疑問のうち,③に対する疑問というのは,①に対する疑問と②に対する疑問,このふたつの疑問に関してはふたつでセットとも理解することが可能ですが,いずれにしてもそれらに対する疑問への解答が与えられていないならば,解答すること自体が不可能になっているといえます。これに関してはとくに詳しい説明は必要ないでしょう。
 しかるに,①の疑問というのは,事物が積極的であるといわれる場合とほぼ直接的に関係してくるような疑問であるといえます。したがってもしも本来の手順通り,先にこちらの問いに答えれば,そこから積極的であるということの意味が与えられてくることになります。いい換えれば,僕はこの問いに対して任意に解答を与えることによって,積極的であるということが有する内容に関して,操作することが可能であることになります。これは考察の公平性に関係するような観点から疑惑を招きかねません。よって僕はこのことには禁欲的であるべきだと考えるのです。
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ゴールド・ウイング賞&第一部定理二六証明への疑問

2013-04-21 18:29:19 | 競輪
 初日,2日目は暑く,昨日と今日は寒いということで,対応しなければならなかった選手たちは大変であったろうと察せられる西武園記念の決勝。並びは藤田ー岡田ー芦沢の関東,海老根ー武井ー林の南関東,村上に萩原で吉田は単騎。
 スタートは武井が取って海老根が前受け。4番手に村上,6番手に藤田,最後尾に吉田の周回に。残り2周のホームの入口から藤田が動き出し,芦沢までが続いてバックで海老根を叩くと,続いた村上が打鐘から発進して先行。吉田はこちらのラインに乗っていきましたが,3番手を内の藤田と競る形に。置かれた海老根も動きましたが,バックの入口で藤田と吉田の競りのあおりで外に浮いてしまい失速。藤田を見切った岡田がコーナーから動いていくと,車間を開けて後ろの様子を窺っていた萩原が対応して発進。直線はそのまま突き抜けた萩原の優勝。岡田が4分の3車身差の2着で岡田に続いた芦沢が4分の3車輪差で3着。
 優勝した静岡の萩原孝之選手はこれが記念競輪初優勝。南関東とは別れる形で村上の後ろを回ったのですが,この選択が最良の結果をもたらすことになりました。2車で後ろが別地区の選手であるにも関わらず果敢に先行した村上の走りもさすがだったと思います。

 第一部定理二五備考についてやや詳しく説明したのは,後に今回の考察において触れる予定があるからです。ただ,現時点ではまだ考察の入口であり,すぐに関係してくるというわけではありませんから,その対象を,第一部定理二六証明に戻すことにします。
 この論証は,確かにそれで成立していると僕は考えています。しかしこの訴訟過程については,いくつかの疑問点を提示することも可能であると思えるのです。それは,分解した3ヶ所にそれぞれひとつずつです。
 まず,①に関していうなら,事物が作用に決定されているといわれるとき,それは積極的なもののためでなければならないとスピノザはいっていますが,なぜそうであるといえるのかということに,疑問の余地がまったくないとはいえないのではないかと思えます。
 次に②に関していうなら,①で主張されていることは自明な事柄であるということで,いわばスピノザは上に提出した疑問に回答しているといえるでしょうが,しかし本当にそれが自明であるのかどうかには疑問が残ります。①と②をセットと考えた場合には,事物が作用に決定されるといわれるならば,それはある積極的なもののためであるということは自明であるということになりますが,これをそれ自体で明らかであるといっていいのかどうか,疑問であるという主張は,いっかな無理がない主張であると僕には思えます。したがって①の疑問と②の疑問は,合わせてひとつの疑問であるといういい方もできそうです。
 ③はこの論証の結論に該当する部分です。しかしここでいわれている内容については,その全体に疑問を呈するということがやはり可能であると思えます。すでに①と②に関して疑問点を提出したわけですが,仮にそのことを無視して,①の部分と②の部分が十全に成立していると理解したとしても,なぜこれらのことから,事物が作用に決定されるといわれるとき,その決定の原因は神であると帰結するのでしょうか。あるいはその原因となり得るものについて,それは神だけであって,神以外の何ものでもないということを導き出すことができるのでしょうか。この点も,やはり疑問として成立し得ると僕には思えるのです。
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反転する漱石&同一の意味

2013-04-20 19:03:04 | 歌・小説
 三四郎童貞であるという設定が,当時としてはそれ自体が異様で滑稽であったろうと推測してい石原千秋の「イニシエーションの街」は,『反転する漱石』という本に収録されています。
                         
 この本は,石原千秋の夏目漱石の作品についての文芸評論のいくつかをまとめたもの。対象となっている作品は,『坊っちゃん』が1,『三四郎』が2,『こころ』が3,『虞美人草』が1,『彼岸過迄』が1,『行人』が1,『それから』が2,『明暗』が2,『門』が1,『道草』が1で合計で15です。
 全体は三部構成になっていますが,第一部が家の文法,第二部が家族の神話学,第三部は家庭の記号学という副題になっています。このことから理解できますように,この本は家族制度や家族関係といった視点から,漱石の作品を評論したものに特化して収録されています。収録されているものは各々が単独で発表されたものですから,一つひとつを独立した文芸評論として読むことも可能です。
 これはいずれ詳しく説明しますが,僕は文芸評論というものは,作家の思想や信条,また生活などを背景として評論するタイプと,そうしたことには依拠せず,単に書かれたテクストを読解していくというふたつのタイプに,大まかには区分できると思っています。仮に前者を作家論,後者を作品論と名付けるとするならば,この本は作品論に該当します。というよりも,この本に限らず,石原千秋の手法は基本的に作品論的であるといえると思います。
 僕は個人的にいいますと作家論というものにはあまり興味がなく,むしろ作品論の方を好みます。ですから僕にとってはこれは非常に読み応えがある,とても面白いしまた参考になるようなものでした。僕がいう作品論というのがどのようなものであるのかということは,この本をお読み頂くだけでも分かってもらえるだろうと思います。ただし,作家論の方を好む方には,不満を感じるような内容ではあるかもしれません。

 第一部定理二五証明と,『エチカ』ないしはスピノザの哲学における自己原因と原因との関係が,どのように関連してくるのかということについては,ある程度の説明が必要かと思います。
 まず,第一部定理二五証明のうち,演繹法を用いた論証は,第一部定理一六を援用することによって帰結しています。第一部定理一六というのは,神の本性の必然性から,無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じるということを示しています。したがって,第一部定理二五の対象となっているのは事物の本性ですから,事物の本性というものは,神の本性の必然性から生じるということになります。つまりここには原因と結果とが明示されていると理解するべきなのであって,原因というのは神の本性の必然性であり,結果というのは事物の本性であるということになるのです。
 一方,第一部定理一一第三の証明というのは,単に神の定義である第一部定義六に依拠することだけによって帰結しています。すなわち,神が実在するということが,神の定義だけから導出されるのです。これは,端的に神の定義のうちに,すでに神の存在が含まれているという意味です。しかるに,スピノザの哲学では,事物の定義というものは,その事物の本性を示すのでなければなりません。よってこれらのことから,神の本性には神の存在が含まれていると考えなければならないことになります。つまり第一部定義一により,神は自己原因でなければならないのです。もっとも,このこと自体は,神を絶対に無限な実体であるといっている第一部定義六と,実体は自己原因であるということを示した第一部定理七からも導くことができます。どのように帰結させるにしろ,神は神自身の本性の必然性によって存在するということは明らかでしょう。
 このことから理解できるように,神の本性の必然性というのは,神が自己原因として実在する場合の原因を構成するとともに,あらゆる事物の本性の原因でもあることになります。いい換えれば,事物の本性の原因と,神の存在の原因は,神の本性の必然性という同一のものなのです。つまり第一部定理二五備考でスピノザが示しているように,神が自己原因であるといわれるのと同一の意味で,神は万物の原因であると理解されなければならないのです。
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ハンセンのスタイル&第一部定理二五証明

2013-04-19 18:48:15 | NOAH
 僕の拙い認識では,人間発電所はパワーファイターに属します。彼のフィニッシュホールドはベアハッグでしたから,そうも間違ってはいないでしょう。一般的にこういうタイプのレスラーは受け身はうまくはありません。首折りというアクシデントの一因はこの点にあったとみるべきでしょう。
                         
 しかし不沈艦のプロレススタイルが,この件の大きな誘因になったということも,否定できない事実だと思います。馬場は超獣と比べたならハンセンは自分のスタイルに従う面があったとはいっていますが,基本的な認識としては計算できないタイプのレスラーということです。計算できないということは相手が思わぬ動きをするという意味であり,そのために受け身を取り損なうということがあったとしてもそれは不思議ではありません。そして実際に全日本プロレスのリングでも,そうしたことが生じていました。1993年10月23日の東京都体育館での三冠戦です。
                         
 当時の王者は三沢で,これにハンセンが挑戦しました。この試合中,リング上で腹這いになった三沢の背中に,ハンセンがエルボードロップを落とすというシーンがありました。三沢の回顧だと,ここでストンピングを仕掛けてくるのはプロレスのセオリーのひとつで,その心積もりはあったようです。しかしエルボーを落としてくるとはまったく考えていなかったため,十分にこれを受けることができませんでした。そのために胸の骨が折れてしまったのです。
 この試合は最後は回転エビ固めで三沢が勝ちました。僕は現地で観戦していましたが,このフィニッシュはかなり意外なものでした。ただ,三沢が骨折していたということはその場では分かっていませんでしたから,後でその事実を知り,なぜこのような結末になったのかが判明したのです。
 三沢は受け身には長けたレスラーです。それでもこうしたアクシデントを起こすようなスタイルで,ハンセンは戦っていたということで,対戦相手は非常に気を使う面があったのではないでしょうか。東京都体育館はおそらく三沢にとって特別の場所。そうした会場での試合がこういうことになってしまったのは,三沢にとって不本意であっただろうと思います。

 第一部定理二五は,次のような背理法によって証明することができます。
 もしもある事物があったとして,この事物の本性の起成原因が神ではないと仮定します。第一部公理四によれば,結果の認識は原因の認識に依存するのですから,この仮定の場合には,少なくとも神の認識がなかったとしても,この事物の本性は十全に認識し得るということになります。しかし第一部定理一五によれば,どんなものも神がなければそれを十全に認識するということは不可能です。よってこの仮定は,第一部定理一五に反しているということになります。つまりこの仮定は誤りであり,事物の本性の原因は神でなければならないということになるのです。
 しかし,実際にはスピノザが後続の備考で明らかにしているように,このことは,神の本性の必然性から無限に多くのものが生じるということを示した第一部定理一六からそれ自体で明らかであるといわなければなりません。どんな事物の本性であっても,それは無限に多くのものに含まれる一部を構成するのですから,第一部定理一六のうちに,神はあらゆる事物の本性の起成原因であるということが含意されていると考えられるからです。
 前者の証明が冒頭に既述した通り,背理法を用いたものであるとしたならば,後者の証明というのは,スピノザが論理展開の方法論として徹底する演繹法を用いた証明であるといえると僕は考えます。ですから,『エチカ』においてこのどちらが第一部定理二五証明としてより相応しいのかといえば,僕には後者の論証であるように思えます。
 ところで,スピノザの哲学において,自己原因と原因との間には,僕たちが一般的にそれらをイメージするのとは異なった特別な関係があるということはすでに指摘した通りです。すなわち,僕たちは自己原因というものを原因のようなものとしてイメージすることがごく普通であるといえるでしょうが,スピノザの哲学の場合,自己原因というのは,原因と結果といわれる場合の原因に対しては本性の上で「先立つ」ものであると考えなければなりません。したがって,自己原因が原因のようなものであるというより,原因とは自己原因のようなものであると理解する方が,より正しい姿勢であるということになるのです。
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マイナビ女子オープン&第一部定理二五

2013-04-18 18:50:10 | 将棋
 16日に郡山市で指された第6期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 上田初美女王が居飛車を明示すると里見香奈女流名人も飛車先を伸ばし,横歩取りに。後手が8二まで飛車を引き,中央からの盛り上がりを目指すという珍しい作戦を選択。その後,かなり早い段階で差がついたように思えました。
                         
 ここで先手は▲3五歩。後手は△4四角と取りにいきました。歩得を維持したい先手は▲3六飛。対して△2三銀から駒を足して狙いにいったのがきっといい着想だったのだと思います。飛車の横効きを通す▲7五歩に△2四銀の進出。▲8六飛のぶっつけには△8五歩で飛車交換を避けておき,▲2六飛に△2三歩で飛車の侵入も阻止。▲6六飛と回ったのはいかにも苦しげな手で,△3五銀と歩損の解消に成功しました。
                         
 後手の銀が2枚とも中央まで出ているのに対して先手の駒は明らかに出遅れ。つまり手損の上に歩得もなくなって,これは先手の作戦失敗といっていいように思います。もちろん勝負が決するような差ではないでしょうし,これを後手が全面的に生かせたというわけでもなかったようです。ただこの後,飛車も5筋に回った後手が中央から手厚く抑え込み,先手の最後の反撃を冷静に交わして勝っていますから,一局を通していうなら,後手の快勝だったと思います。
 里見名人が連勝で五つ目のタイトルに王手。後手番での勝利は大きいのではないでしょうか。第三局は来月1日です。

 スピノザによる第一部定理二六証明の概要はおおよそこの通りです。ただ,より確実を期すために,ひとつだけ補足をしておきます。
 スピノザは①と②から③が帰結するという訴訟過程においては,第一部定理一六と,第一部定理二五の援用というのを行っています。このことは,僕の今回の考察の主旨である,スピノザの哲学においてある事物が積極的であるといわれる場合に,そのことをどのように解するべきであるのかということとは直接的には関係してきません。ただ,僕の目論見としては,この証明の中で積極的ということばが用いられているという点に注目することにより,そのことの意味を解していくつもりなのです。よって第一部定理二六証明に関しては,その主旨とは無関係な部分に関しても,さしあたってその論理構成というものを十全に把握しておかなければなりません。つまり主旨からすればこれは明らかに迂回となるのですが,積極的ということばが用いられている文脈を十全に理解できていなければ,積極的ということの意味を十全に把握することも不可能ですから,この迂回は積極的といわれることの理解にとっては不可欠であるということになります。
 また,『エチカ』の定理の配置には,スピノザによる配置の意図というものがあるというのが僕の考え方です。そしてここでの場合,第一部定理二六証明に際してその直前に配置された第一部定理二五の援用が行われているという観点からして,とりわけこの第一部定理二五を確認しておくという作業が必須であると考えます。
 「神は物の存在の起成原因であるばかりでなく,また物の本質の起成原因でもある」。
 たびたびいっているように,僕は『エチカ』ないしはスピノザの哲学の本質essentiaと本性naturaは区別しません。したがってこのブログの表現では,神はものの本性の起成原因であるということが,この定理で表明されていることだと解釈することになります。また,ここでは起成原因causa efficiensといわれているわけですが,スピノザが単に原因causaという場合,それは起成原因という意味であると僕は解します。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&第一部定理二六証明

2013-04-17 20:46:40 | 地方競馬
 1着馬と2着馬には東京ダービーの優先出走権が与えられる第16回クラウンカップ
                         
 発走後の直線が長いために隊列が定まるのに時間を要するコース。大外からトーセンハクオウが逃げ,リコーハラマとオベロンホワイトが追い,この3頭で後ろを離しました。4番手となったのはセイントスターで,ヴィジタンディーヌがほぼ同位置。その後ろにヴィクトリーケルブとアメイジア。スマートパンドラ,ヴィクトリータイム,エスケイロードと続きました。前半の800mは49秒1でこれはハイペース。
 前の3頭のうち最も頑張れたのはリコーハラマ。これにアメイジアが並び掛け,2頭で後ろを離して直線に。さすがにリコーハラマに余裕はなく,アメイジアが抜け出すと,追い掛けてきた馬との差も縮まらず,4馬身差の圧勝。後方から先に動いたキタサンオーゴンが一旦は2番手でしたが,直線でこれを抜き返したエスケイロードが2着。1馬身半差の3着がキタサンオーゴン。
 優勝したアメイジアは昨年7月にデビュー。3着,1着,3着,1着の後,南関東重賞で連続2着。前走は大きく崩れましたが,これは相手が強力だった上に発馬が悪く,道中でも不利があってのもの。今日のメンバーでは実績上位は疑いなく,その力を十全に発揮したら,これを上回るような上昇馬も不在だったといったところでしょう。ただ,トップクラスとは少し力の差はあるのではないかというのが僕の見方です。父はイーグルカフェ。4代母の半弟に1992年にきさらぎ賞,毎日杯,京都4歳特別と重賞を3勝したヒシマサル。Amasiaはアメリカとアジアを繋げたことばで,2億年後に出現の可能性を指摘されている超大陸。
 騎乗したのは金沢の吉原寛人騎手で南関東重賞は初勝利。管理しているのは船橋の坂本昇調教師で,クラウンカップ初勝利。

 『エチカ』において事物が積極的であるといわれる場合に,そこにどのような意味があると理解するべきであるのかということを考察するにあたり,なぜ第一部定理二六をテーマとして設定するのかということについて,訝しく思われる方がいるかもしれません。確かにこの定理Propositioの文言には,そうしたことが何も記述されていないからです。そして僕も,この定理そのものに関してこれを考察しようとしているわけではないのです。
 それではなぜこの定理であるのかといえば,その理由はこの定理のスピノザによる論証Demonstratioにあるのです。したがって,今回の考察の『エチカ』の内部における対象というのを正しくいうならば,それは第一部定理二六であるというよりは,第一部定理二六証明であるといった方が正確です。ここでは今後の考察の利便性向上の意図から,このスピノザの訴訟過程を,細かく分解しておきます。
 ①事物が作用に決定されているといわれるならば,必然的に何か積極的なもののためでなければならない。
 ②①の事柄はそれ自体で明らかであるといわなければならない。
 ③①および②から,作用に決定されている事物の原因は神Deusでなければならない。
 ここまでで,定理の前半部分が証明されたことになります。定理の後半部分については,今回の考察の対象外になりますので,分解はせずに証明しますが,この部分は前半部分が証明されたならば,必然的にnecessario帰結してこなければならない事柄であるといえるでしょう。なぜなら,もしも神による決定以外の何事かを原因としてある事物が何らかの作用をするように決定されるということがあり得るのだとしたら,それは神から決定されていない事物が何らかの作用に決定され得るということを認めることになるのですから,定理の前半部分でいわれている,事物が作用に決定されるのは,神による必然的な決定であるということを否定していることにほかなりません。つまり前半部分に明らかに矛盾したことを主張しているということになります。いい換えれば,この定理の前半部分が成立すると理解するのであれば,後半部分も必然的に帰結すると理解しなければならないことになります。
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大楠賞争奪戦&第一部定理二六

2013-04-16 18:43:06 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは池田ー浦川の関東,小埜に井上ー小倉の西国,深谷-坂上の中部,藤木ー南の近畿。
 スタートを取った深谷の前受け。3番手が藤木,5番手が小埜,8番手から池田という周回に。残り2周のホームから池田が上昇を開始。バックで深谷を叩くとその外から小埜が踏んで先行。打鐘で脚を使って藤木が4番手を確保。位置を奪われた池田が6番手となり深谷は8番手に。深谷は発進の構えはあったように思いますが,池田の動きなどもあり,なかなかスピードに乗れませんでした。車間を開けていた井上が3コーナー手前から番手捲りを敢行し,これは決まったと思ったのですが,コーナー途中から踏んで捲り追い込んだ藤木が前を飲み込んで優勝。踏み遅れて大外を捲り追い込む形になった深谷がそれでも1車輪差の2着には届き,絶好の展開と思えた井上は半車輪差の3着。
 優勝した京都の藤木裕[ゆたか]選手は昨年の武雄記念が記念競輪の初優勝で,連覇となる記念競輪2勝目。今日は立ち回りのうまさが光りました。とくに打鐘過ぎに踏んで,先行ラインの直後を確保したのが勝因でしょう。おそらくその位置で届くと目論んでいたと思われ,好調期にあったものと思います。

 前回の考察において,僕はみっつの転向,すなわち『エチカ』の解釈の変更を行いました。そしてそのうちのひとつが,第二部定理九系の意味から第二部定理九系の消極的意味への変更でした。
 第二部定理九系の消極的意味と僕がいうときの,消極的の意味に関してはその考察の中で説明しています。しかし本音をいうなら,この説明というのは僕にとっては不本意なものであり,また満足できるものではありませんでした。僕がそのように思うのには以下のような理由があります。
 一般にある事物Xがあって,そのXが消極的であるというとき,僕の考え方では,これはXは積極的なあるものではないとか,Xに関してそれが積極的であるとはいえないということのいい換えにすぎないのです。いい換えればXは消極的であるという言明は,言明文自体としてはある肯定的命題ではあるのですが,実際にはXに関するある否定negatio,もちろんこうした命題はそれ自体で成立しますし,Xについての正しい説明ではあり得ますから,全面的な否定であるとはいい難い一面を有するのも事実ではありますが,少なくともこの命題は,Xに関するある部分的な否定であると解さなくてはならないと思うのです。したがって,もしも一般的な意味において消極的であるということがどのような意味を有するのかということを正しく説明するのであれば,消極的ということばの意味を説明するのではなくて,たとえばXがある積極的なものであるといわれるような場合に,積極的であるということがどういった事態を含意しているのかということを説明するのでなければならないと思うのです。
 そこで今回は,前回のその部分の補足という観点を含めて,スピノザの哲学,なかんずくは『エチカ』において,ある事物が積極的であると主張される場合に,その主張の中にどのような意味を読み取るべきであるのかということを探求していくことにします。そしてその手掛かりとして,第一部定理二六を主たる対象とします。
                         
 「ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない」。
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