スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第155回天皇賞(春) 。
シャケトラ,ラブラドライト,スピリッツミノル,ゴールドアクターの4頭はあまり発馬がよくありませんでした。外の方からヤマカツライデンがハナを奪いにいき,キタサンブラックが2番手。遅れた発馬から今度は掛かってしまったシャケトラがアドマイヤデウスと並んでの3番手になり,シュヴァルグラン,ワンアンドオンリー,ファタモルガーナ,タマモベストプレイ,サトノダイヤモンドの順で発走後の向正面を通過。1周目の正面に入るところでヤマカツライデンは大逃げに。キタサンブラック,アドマイヤデウス,ワンアンドオンリーという隊列に変化し,また控えたシャケトラがシュヴァルグランと並んでその後ろ。ファタモルガーナとサトノダイヤモンドの併走で続きました。最初の1000mは58秒3で超ハイペース。
2周目の向正面に入るところではさらにヤマカツライデンのリードは広がりました。キタサンブラックが変わらず単独の2番手。アドマイヤデウスとワンアンドオンリーが3番手で併走。シュヴァルグラン,シャケトラ,サトノダイヤモンドの順で続く隊列に。3コーナーあたりでヤマカツライデンのリードが6馬身ほどになり,キタサンブラックが自然と差を詰めていき直線手前で単独先頭に。ワンアンドオンリーは一杯,アドマイヤデウスも騎手の手が動いていて,シュヴァルグランが2番手に。ここから最内のアドマイヤデウスが盛り返してきて,シュヴァルグランの外からサトノダイヤモンド。しかしこの3頭は2着争い。直線先頭のキタサンブラックはそのリードを保ったままレコードタイムで快勝。シュヴァルグランが1馬身4分の1差で2着。外のサトノダイヤモンドがクビ差の3着で最内のアドマイヤデウスがクビ差で4着。
優勝したキタサンブラック は大阪杯 から連勝で大レース5勝目。第153回 に続き天皇賞(春)連覇。このレースは実力差がはっきりしていて,上位の馬に崩れる要素も少なそうと考えていたので,17頭が出走してきたことが意外でした。結果的にいうとレースにならなかったシャケトラ以外の実力馬が上位を占めることになり,しかもレコードタイムですから,かなり内容の濃いレースだったといえると思います。斤量差があって敗れていた3着馬に,同じ斤量で雪辱したことになるので,この馬が現役最強馬であるといってよいでしょう。以前より明らかに強くなっていて,そのレベルを維持し続けているのがこの馬の最もすごいところだと感じています。父は2004年のスプリングステークスを勝ったブラックタイド 。母の父はサクラバクシンオー 。
騎乗した武豊騎手 は大阪杯に続いての大レース制覇。第99回,101回,103回,105回,119回,133回 ,153回と勝っていて連覇で天皇賞(春)8勝目。第100回,116回,120回,136回 ,138回 を勝っていて天皇賞は13勝目。管理している清水久詞調教師は大阪杯に続く大レース制覇。天皇賞(春)は連覇で2勝目。全体でも2勝目。
僕たちは第五部定理二二 から第五部定理二三 が論証されていくのを第二種の認識 cognitio secundi generisによって十全に認識することができます。また第五部定理二三備考 の中で,精神の眼Mentis enimは論証demonstrationesそのものであるといわれるとき,僕たちが第三種の認識 cognitio tertii generisによって,現実的に存在する僕たちの精神にはある永遠性aeternitasが含まれていると認識できるということをスピノザは肯定していると解さなければなりません。したがって,もしもこのように認識される自分についての認識を自己認識というならば,スピノザの哲学においても十全な自己認識が可能になっているということになります。他面からいえば,個物の存在 が現実的に存在すると把握される場合の自己認識は必然的に混乱した認識でなければならないのですが,それが神Deusの属性attributumに包容される限りで存在するといわれる場合についても,自己認識が可能になっているというように理解できることになります。
しかし,僕の考え方でいえば,これは僕たちが普通に自己認識という場合の自己認識とは異なります。もっとはっきりといってしまえば自己認識であるというようには僕は解しません。つまり僕は現実的に存在する人間による自己認識は,十全な認識であることはできないと考えるのです。なぜこれらの第二種および第三種の認識を自己認識とは解せないのかということを,ここから説明していきましょう。
第二種の認識の方については,これが一般的な認識であるから自己認識ではないと僕は解します。実際に,第五部定理二二も第五部定理二三も,現実的に存在する人間にとってはそれがだれであろうと妥当することが言及されています。そしてこれらの論証を僕たちはまさにそうしたものとして解します。したがってここではとくに自分について何かがいわれていると解するのでなく,一般に現実的に存在する人間について妥当する事柄が言及されているというように解するのです。つまりこれは現実的に存在する人間についての十全な認識なのであり,自分について特有の認識ではありません。第二部定理四四系二 で,理性の本性natura Rationisに属するとされる認識が,現実的に存在する人間に適用される場合がここで具体的に示されていると考えます。
書簡三十四 と書簡三十五 に続き,スピノザがフッデ Johann Huddeに送った手紙として遺稿集Opera Posthumaに収録された最後のものが書簡三十六です。これはスピノザが1666年4月10日付でフッデに送った書簡三十五に対し,フッデがなお疑問を有して5月19日付の返信を送り,それにスピノザが答えたものです。ただしスピノザは多忙だったようで,すぐ返事を送れなかったということはこの書簡の冒頭から分かります。日付は明記されていないようで,同年6月半ば頃ではないかと推測されています。
書簡三十五の内容についてはスピノザの哲学を知っていれば内容は理解できるかと思いますので,フッデの疑問そのものに対する返答内容はここでは割愛します。ただスピノザはこの書簡で,僕には興味深いいい方をしている部分があります。
書簡三十五でスピノザは,『エチカ』でいえば第一部定理一一第三の証明 に類すること,完全性perfectioつまり実在性realitasが有限finitumであるとみられるものが存在するなら,それが無限なものも存在しなければならないという主旨のことを示しています。書簡三十六ではこれを受けて,絶対に無限absolute infinitumで最高に完全summe perfectumなものが存在することを認めなければならないという意味のことがいわれています。そしてスピノザはそれについて,私が神Deusと名付けるのはそういう存在のことだといっています。おそらくフッデは,神というのをそれとは違ったものと認識していたがために,書簡三十五の内容に疑問を抱いたのであり,ここではスピノザはその疑問に答えたのだと推測されます。
このいい方は,明らかにスピノザが神を唯名論 として命名していることを匂わせます。私はそういう存在を神と名付けるというのは,それが神と名付けられる必然性necessitasを示しているわけではないからです。つまりこの書簡から,スピノザにとって神は,何について名付けられるべきかということが大きな問題であったことが分かるでしょう。
この書簡の最後で,スピノザはレンズ を磨くための皿を新たに作製するにあたっての助言を求めています。フッデがそれを無視したとは思えないので,それに対する返信も必ずや存在しただろうと僕は考えています。
スピノザが現実的に存在している人間の精神mens humanaの永遠性aeternitasについて主張するとき,その根幹をなすのは第五部定理二二 です。そこでいわれているのは,神Deusの中には現実的に存在する人間の身体corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが必然的にnecessario存在するということでした。
このことから第五部定理二三 が出てきます。これらふたつの定理Propositioは一読するとあまり関係がないようにも見えるのですが,第五部定理二三を証明 する際には,第五部定理二二で永遠の相の下に表現されている神の中にIn Deoある現実的に存在する人間の身体の本性の観念idea, quae Corporis humani essentiam exprimitとは,第二部定理一三によりその現実的に存在している人間の精神Mentis humanaeであるがゆえに,これはその人間の精神の本性Mentis essentiamに属さなければならないということを示すことが絶対的な条件です。なので第五部定理二二は,確かに現実的に存在する人間の精神が永遠aeternumであるということを論証するための根幹の定理となるのです。
このとき,第二部定理二三において,人間の精神のうちにある永遠なるあるもの aliquidが残存するがゆえに,それは永遠であるといわれています。このあるものというのは,神の中で永遠の相の下に表現されている,現実的に存在する人間の身体の観念にほかならないといえます。このように解さないと,第五部定理二三の証明Demonstratioは成功してないからです。ではなぜそれが単にあるものというように,具体的なものを指示していないのかといえば,そのあるもの自体の十全な観念自体は,神の中で永遠の相の下に表現されているというだけであって,現実的に存在する人間の精神のうちに存在し得るような観念ではないからです。このことは,現実的に存在する人間は自分の身体については,その身体が受ける刺激状態の観念すなわち身体の変状 corporis affectiones,affectiones corporisによってのみその観念を形成するということを示した第二部定理一九 と,その観念は混乱した観念idea inadaequataであるということを示した第二部定理二七 から明らかだといえます。
つまりスピノザは人間の精神の永遠性について主張する場合でも,人間が現実的に存在する自分の身体を十全に認識することはないということを前提しているのです。これは精神の場合にも同じといわなければならないでしょう。
26日に射楯兵主神社 で指された第28期女流王位戦 五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が1勝,伊藤沙恵女流二段が1勝。
振駒 で里見王位の先手で三間飛車。伊藤二段が1筋の位を取って銀冠に囲ったのに対して先手が速攻を仕掛ける将棋になりました。
後手が端攻めを含みに角をひとつ上がった局面。ここで先手から☗6五歩☖同歩☗同銀と仕掛けていきました。後手は☖6四歩とは打たずに☖3三桂。ただ,やや手が遅れている感はあるので,歩を打ってしまった方がよかったかもしれません。
先手は☗7四歩 と追撃。ここから☖同銀☗同銀は必然。そこで☖同歩と取ったのですが,それならやはり前に☖6四歩と打っておくべきでした。打たなかったのなら☖同飛と取るべきで,ここの手順が中途半端だったので先手が有利になったようです。
飛車の横利きが消えたので先手は☗6六飛と寄って金取り。受けるには☖6二歩しかありません。しかし☗6三歩 にも☖5四歩 と突くほかなく☗6二歩成☖同金☗5一銀☖6一歩☗6二銀成☖同歩と後手としては避けようがない一直線の手順に進み☗6三歩と打たれました。
第2図の先手はと金作りか飛車の成り込みが約束されています。後手の1筋の位も小さくはないのでその程度の代償は後手にもあるかもしれませんが,飛車がまったく働いていません。この差が大きくてここでは先手が優勢でしょう。後手としては不出来な一局だったという印象です。
里見王位が先勝 。第二局は来月12日です。
スピノザが現実的に存在する人間による自己認識は,十全ではなく混乱していると示したことは,デカルトが方法論的懐疑 をもって発見したことを自己認識として解する場合には,折り合いを保たせることは不可能です。このことはそもそもデカルトが何のために方法論的懐疑を開始したかということから明らかだといえます。デカルトは疑うことが可能であると思えるものについては何であれ疑ってみて,その結果として疑い得ないものすなわち確実なものを探求しようとしたのでした。したがってその最終結果として得られた,疑っている自分自身は確実に存在するということは,自分自身について混乱した認識であることはできないからです。いい換えればデカルトはこうして認識される自己は十全な認識であると解していたことになります。
このこと自体をスピノザの哲学の観点から批判することも可能です。スピノザは第二部定理四九備考 の中で,ある事柄が確実であることと,その事柄に対する疑惑が存在しないことは別のことであるといっているからです。デカルトは確かに方法論的懐疑においては,疑惑が存在し得ないということを確実であるということと等置していたのであり,そのように解する限り,この部分はデカルトに対する直接的な批判であると解せなくありません。スピノザにとっての確実性というのは,真理の規範 は真理veritas自身であるという意味において積極的なものでなければならず,疑惑であれ何であれ,ある観念ideaに対して何らかの思惟作用が存在しないという意味で消極的なものではありません。むしろ第二部定理三五 に示されているように,疑惑の欠如というのは,虚偽と誤謬 の関係において,虚偽falsitasを誤謬errorに至らしめるような要素を有しているとさえいえるでしょう。
しかし,このことについてはここではこれ以上は深く追求しません。スピノザが示している自己認識は,それが現実的に存在している人間にとっては,つまり個物の存在 における現実的に存在する場合のあり方において,必然的に混乱したものであるという点を注視します。そしてこの観点は,『エチカ』の第五部で,精神mensの永遠性aeternitasを論証する手続きからより明白になります。
一昨日の第88期棋聖戦 挑戦者決定戦。対戦成績は糸谷哲郎八段が1勝,斎藤慎太郎七段は0勝。
振駒で糸谷八段の先手となり斎藤七段が横歩取り に誘導。先手が3四に飛車を置いたまま6八に玉を上がる形になりました。途中で先手が角を交換して馬を作ったのですが,これが思ったほど効果的でなかったようで後手が優位に。そのまま後手が快勝しておかしくない将棋でしたが終盤はもつれました。
先手の3三にいた龍が侵入した局面。そもそも銀を取ったので3三にいたのですが,その手も必要だったのかは不明でした。
後手は☖6五桂☗8六王☖8二香 ☗8五銀☖6三角と進めました、先手は☗8四角と受けましたがこの手は後手の読みになかったそうです。
後手は☖同香と取って☗同銀に☖8三歩と打ちました。これは詰めろではないので手番が先手に。
☗5一成桂☖同銀☗4二金で後手玉は詰めろ。なので☖6二角と受け☗5一金☖同角☗4二銀と進みました。
ここでは☖4一金と打てば後手が勝っていましたが☖4一桂と打ち☗5一銀成☖同玉と受けました。
この局面は先手が勝てそうに思えるのですが,最も厳しそうな☗4二歩では☖8四歩で勝つのは難しいのだそうです。それで☗8三銀成としました。そこで☖9八銀という詰めろ。
ここから先手は☗9五角☖7三歩を利かせてから☗9六歩と逃げ道を作りましたが☖8五金☗9七王に☖8九銀不成と桂馬を取られて大勢が決しました。これは桂馬の取られ方がいかにも悪すぎたので,第2図では☗7七桂と跳ねて詰めろを受け,もし☖同桂成なら☗9五角と打つ方が,負けかもしれませんが実戦より難しかったようです。
斎藤七段が挑戦権獲得 。タイトル戦は初出場。第一局は6月1日です。
岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三 によれば,人間の身体corpusは外部の物体corpusからきわめて多様の仕方で刺激されます。つまり現実的に存在する人間の身体が外部の物体によって一切の刺激を受けないということはあり得ません。ですから,身体が外部の物体によって刺激を受けなければ,人間の自己認識の基礎は成立しない,つまり人間は自己を認識できないというのは,論理的には正しいのですが,単に論理的にはそう帰結するというだけで,現実的に何かを意味しているわけではありません。むしろ現実的に存在する人間は,必然的にnecessario自己を認識するというべきでしょう。
この部分については,デカルトによる方法論的懐疑 と折り合いをつけることが可能です。というのは,デカルトがすべてを疑ったあるいは疑おうとしたということを,人間の身体が外部の物体によって刺激を受けることと置き換えればよいからです。すなわち,身体が外部の物体によって刺激を受けることで自己の認識cognitioが成立するように,疑うという思惟的営為をもって自己の認識が成立するというように解することは不可能ではないからです。ただ,そのように発見された自己認識すなわち自己の観念ideaが,どのような観念であるかということまで射程に入れてしまうと,たぶんデカルトの考え方とスピノザの考え方の間には隔たりが生じます。そしてこれが,スピノザによる現実的に存在する人間の自己認識というものの際立った特色ではないかと僕は考えています。
もう一度,第二部定理一九 と第二部定理二三 を確認してください。スピノザによる自己認識は,この様式をもってのみ基礎となるのです。つまりこれ以外の様式で現実的に存在する人間が,現実的に存在する自己を認識するということはありません。しかるにこの様式を通してその人間の精神mens humanaのうちに発生する自己認識すなわち自己の身体の観念および自己の精神の観念は,第二部定理二九系 が明らかにしているように,十全な観念idea adaequataではなく混乱した観念idea inadaequataなのです。実際に身体については第二部定理二七 で,精神に関しては第二部定理二九 で言及されている通りです。つまり自己認識は十全な認識でないということになるのです。
笠松から1頭,高知から1頭が遠征してきた第55回しらさぎ賞 。
すぐに先頭に立ったのがコスモフットライト。2番手にディーズプリモ。この後ろにニシノラピート,ミスミランダー,ポッドガゼールの3頭。中団にプリンセスバリュー,ディアマルコ,タケショウメーカーの3頭。後方にキタノアドラーブル,ビーインラプチャー,スラリーアイス,ハナズリベンジの4頭で発走後の正面を通過。1コーナーを回るとコスモフットライトがぐんぐんと後続を離していき,2番手のディーズプリモに対して向正面では6馬身から7馬身の差をつける大逃げに。このために馬群はばらけ,3番手はニシノラピートとミスミランダーで併走。さらに離れてプリンセスバリュー,ポッドガゼールの順で単独で追う隊列に。最初の600mが34秒4という超ハイペースに。
3コーナーを回るとさすがにコスモフットライトのスピードは衰えました。ただ2番手で追っていたディーズプリモも苦しくなり,内からニシノラピート,外からミスミランダーが交わし,さらに追ってきたのがプリンセスバリュー。直線に入るところでコスモフットライトの外に出したニシノラピートがあっさりとこれを交わすと,2番手以降を離していき快勝。直線でコスモフットライトとミスミランダーの間に進路を取ることができたプリンセスバリューが4馬身差で2着。大外からよく伸びたポッドガゼールが1馬身半差で3着。
優勝したニシノラピート はJRAで2勝し,昨年の夏に大井に転入。以降は10戦して5勝。前々走だけは大敗でしたが前走のトライアルを勝って出走権を獲得し,南関東重賞初挑戦となりました。戦績に斤量を加味すれば勝ってもおかしくないとは考えていましたが,ここまで鮮やかな勝ち方ができるとは思っていませんでした。ただ,浦和コースは競走能力以外にも考慮しなければならない面が残っているので,負かした馬に対して着差が示すような力量の差があるかどうかはまだ分からないとしておいた方がいいかもしれません。父はサウスヴィグラス 。Rapidはドイツ語で速い。
騎乗した大井の柏木健宏騎手は2011年8月のアフター5スター賞 以来となる南関東重賞3勝目でしらさぎ賞は初勝利。管理している大井の市村誠調教師は南関東重賞2勝目でしらさぎ賞は初勝利。
スピノザの哲学について考察しているのに,スピノザが自分自身というものより広く自己認識を規定するのは,部分的には便宜的なものです。通常は僕たちは自分の身体corpusのことも自己と認識するでしょう。自分の手とか自分の足というようないい方をするからです。そしてこのいい方は,たとえば自分の本というような所有を意味しているわけではありません。少なくとも所有だけを意味しているわけではないでしょう。なので自分の身体の認識cognitioについても自己認識のうちに含めておく方が,スピノザの哲学における自己認識がどういうものかということをより明瞭にすることができると思うのです。
まず,スピノザが,現実的に存在している人間が自分の身体を認識する場合の基礎としているのは,第二部定理一九 です。そして自分の精神mensの場合には第二部定理二三 になります。人間の身体も人間の精神も個物res singularisです。個物の存在 は二通りの仕方でスピノザの哲学では説明されるのですが,僕たちはまずそれが現実的に存在するものとして認識し,そのゆえにそれが自己認識といわれれると僕は考えますので,このふたつ,すなわち現実的に存在するということを認識する様式を基礎と僕はいいます。
これらの様式にはいくつかの特徴があります。ひとつは,どちらの定理Propositioでも,それによってのみ,その限りにおいてのみ認識するといわれている点です。したがって,僕たちはこれ以外の仕方によって自己認識,自分の身体の認識はできませんし,自分の精神の認識もできません。
次に,これらはどちらも,人間の身体が外部の物体corpusによって刺激を受けるということが前提になっています。身体の認識の場合には直接的にそうなっています。精神の場合には,身体の刺激状態の観念すなわち僕がいうところの身体の変状 corporis affectiones,affectiones corporisが前提となっていて,それは実際に身体が外部の物体から刺激を受けることで同一個体 として生じる観念ideaなので,直接的にとはいえないかもしれませんが,間接的には前提になっているといえます。よって,これもまた現実的には無意味な仮定となってしまうのですが,もしも身体が外部の物体から刺激されなければ,自己認識というのもあり得ないのです。
被災地支援競輪として行われた西武園記念の決勝 。並びは近藤‐和田‐武井の千葉,松谷に諸橋,脇本‐稲垣‐村上‐沢田の近畿。
スタートを取ったのは近藤。その後で和田が外から追い抜いていきましたがこれは同じラインなので近藤の前受けに。4番手に松谷,6番手に脇本の周回。残り2周のホームに入ろうかというところで近藤が誘導との車間を徐々に開けていきました。ホームから脇本が発進しようとしましたが近藤もスピードを上げ,脇本は4番手に。松谷は完全には引かず脇本の後ろで稲垣と併走に。このまま打鐘。近藤はそれ以上のペースアップをしなかったのでホームから脇本が発進。そのまま近藤を叩いてかまし先行の形に。インの松谷がうまく番手を奪い,この後ろの諸橋は続けず近藤が3番手に収まってバック。稲垣は近藤の後ろの和田の外で併走でしたがバックを過ぎると一杯。直線の手前から松谷が踏み込み,逃げた脇本を差して優勝。流れ上は松谷マークのレースになった近藤が外から続いて1車輪差の2着。逃げた脇本が4分の1車輪差で3着。
優勝した神奈川の松谷秀幸選手は2013年6月に小田原で開催された花月園メモリアル 以来の記念競輪2勝目。このレースは脇本の先行が予想され,番手を回る稲垣が絶対的に有利だろうと考えていました。もし脇本が最初に動いたときに近藤があっさりと引いていたら,おそらくそういう展開になったのではないかと思います。松谷は最初からイン粘りを想定していたとは思いませんが,その段階ではもう引くことはできず,稲垣の内で粘るほかない展開に。ただ,勝とうとするならばこれがベストではあり,うまく展開が嵌ったという感はあります。別ラインでしたが近藤と松谷は同じ南関東地区であり,結果的には双方が有利になるように協力し合ったようなレースになりました。
あえて無意味というほかない比較を行ったのは,デカルトRené Descartesが想定する自己と,スピノザが想定する自己の間には,確かに相違があるということを明瞭にするためです。この目的のために,デカルトの方法論的懐疑 doute méthodiqueについても,その正当性についての正確性と精緻性を欠く仕方で説明したのだとご理解ください。ここからはスピノザの哲学でいう自己というのがどのような概念 notioであるのか,あるいはあり得るのかということだけに焦点を絞って考察していきます。
基本的にスピノザの哲学における自己認識は,二種類の仕方で提示されていると僕はいいます。ここでいう二種類というのは,認識cognitioそのものにおける区分のことです。すなわち第二部公理五 にあるように,人間はもろもろの物体corpusともろもろの思惟の様態cogitandi modiのみを認識し,それ以外のものは認識しません。したがって自己認識という場合の認識も,人間の精神mens humanaにあっては,そのどちらかであるかそうでなければその両方であり,それ以外ではあり得ません。僕はその両方,つまり物体としての自己認識という意味と,思惟の様態としての自己認識という意味で,これを二種類といいます。要するに現実的に存在する人間の精神による自分の身体corpusの認識と自分の精神の認識のことを自己認識というということです。
ただし,これをいう場合には次の点に注意してください。たとえばスピノザは,自分の身体については人間身体自身といいますが,自分の精神については人間精神自身という場合もありますが単に自分自身という場合もあります。ここから理解できるように,スピノザにとって自分の精神とは自分自身ではありますが,自分の身体は自分自身ではないのです。同様にスピノザは,人間の精神と人間の本性 humana naturaを等置することがありますが,人間の身体の本性はあくまでも人間の身体の本性であって,人間の本性とはみなしません。これはこれで十分に合理性がある考え方であるということはかつて説明したのでここでは繰り返しません。ただ,僕はここでは自己認識というのを,スピノザが自分自身といったり人間の本性といったりすることよりももっと広い意味で規定しているという点に注意しておいてほしいのです。
グレート・小鹿 も全日本プロレス時代のことについて天龍源一郎 およびザ・グレート・カブキ との会談に応じています。谷津の雑感 とは異なり,僕のプロレスキャリア が始まる前のことが大部分ですが,興味深いことも含まれていますので,また何回かに分けて紹介していきましょう。ただし,この3人は3人とも全日本プロレスを退団し,他団体で仕事をしていますから,その部分でのバイアスは必要かもしれません。
小鹿は大熊元司 とは異なり,全日本プロレスが旗揚げしたときのメンバーではありません。日本プロレスの崩壊後に全日本プロレスに所属する形になったのですが,旗揚げメンバーと合流メンバーの間には溝があったといっています。このことはカブキも肯定していますし,所属でいえば生え抜きに該当する天龍も,そういう雰囲気は感じていたといっていますから,これは事実でしょう。
天龍によれば,合流メンバーは,日本テレビにいわれて助っ人として全日本プロレスを支えているという矜持があるように思えたそうです。一方,馬場は崩壊した団体のメンバーを押し付けられたように感じていたように思えたそう。馬場が団体をファミリー として考えていたのはおそらくこの時代にも同様であったと思われますから,最初から馬場を信頼してついてきた選手と後に合流したメンバーとに対する感情は異なっていたかもしれません。ある意味,合流メンバーはよそ者であり,合流メンバーからすればそのファミリーに対して高い敷居があるというような感覚があったのではないかと想像します。
小鹿によれば,馬場には入団してほしくない選手がふたりいたようです。ひとりが松岡巌鉄でもうひとりが上田馬之助 。小鹿は馬場からそんなに多くの選手は必要ないので連れてくるなと言われたと証言しています。小鹿はそういうわけにはいかないと答えたとしていますが,実際にはこの2選手は入団しませんでした。ただ,合流に際して小鹿にどの程度の権限があったのかは分かりません。最終的に日本テレビと馬場が話し合って,馬場の意向を汲んだ上での決定だったのではないかと僕には思えます。
このような仮定は無意味というほかありませんが,もしスピノザが方法論的懐疑 を行った場合には次のような結論になります。
すべてを疑っていること,あるいは疑おうとしている思惟の様態cogitandi modiが存在するということは確実です。しかし,だから我が存在するということにはなりません。むしろこの場合の我というのは,疑っている思惟の様態の主体として仮定されているものです。いい換えれば,思惟作用の結果として認識される存在です。我が原因となって疑っているという結果が生じてくるなら,その疑いが確実なものであるならば我が存在するということもまた確実でしょう。ですが実際の因果関係は逆なのであり,疑うという思惟作用が存在するからこそ我という存在も認識されるのです。我があるから疑いが存在するのではありません。むしろ疑いがあるから我が存在しているということになるのです。
実際にはデカルトによる方法論的懐疑も,このような方向で解することが可能ではあります。というのは,デカルトはすべてを疑ったのですから,我が存在するということも疑ってかかったのです。少なくとも身体的存在に関していえば,デカルト自身がそういう主旨の疑いを示しています。しかし疑っている精神mensが存在するということは疑い得なかったので,そういう精神が存在するという観点から「我思うゆえに我あり cogito, ergo sum」とデカルトは主張するに至ったのだと解すれば,デカルトは疑うということによって我の存在,我の精神の存在を確実であると認識するに至ったのだということになり,もしデカルトが何をも疑わなかったとしたら,我の精神が存在することも確実視できなかったであろうといえるからです。しかし一方で,デカルトは確かに我の精神が存在するということは確実視したのであり,それは疑っているのは我の精神であるということについて与件的な前提があったからだというほかありません。このような意味で我の精神が存在するということが確実であるということは,スピノザが方法論的懐疑を行ったら帰結しない筈です。あるいは我が帰結するとするなら,この場合の我というのは唯名論 的な意味における我であるというほかないでしょう。
AbeamTVで観戦していたら面白くなって最後まで見てしまいましたので,昨年度の将棋大賞 の名局賞をいってみましょう。
これは観戦し始める少し前の局面。このあたりは後手が最も勝利に近付いていた局面だったのではないかと思います。
王手ですから☗5九歩と受けます。ここで後手は☖6七桂と打つ手があった筈です。☗同金なら☖8八角で王手龍取りがあり,この龍を取られては先手は勝つ見込みがありません。なので☗6八王と逃げることになると思うのですが,実戦の進展と比較すれば後手は得をしていたと思います。この☖6七桂はこの局面だけでなく,今回の手順中で打つチャンスはほかにもありましたが,この手を逃したので混戦に至ったものと思います。ただ,逃したのには理由もありました。
後手は☖4三金と銀を取り,先手は☗5三金と寄りました。どうもこの局面で先手玉が詰むから勝ちというのが後手の組み立てだったようです。ところが読んでみると詰みません。11分の考慮で☖4二歩と打ちました。以下☗5三金☖同金と取ったところから僕の観戦が始まったと記憶しています。先手は☗4四歩と攻めを繋ぎました。
まだこの局面でも☖6七桂は残っていると思います。しかし☖8八銀と打ってこの筋は盤上から消えました。
取るか逃げるか,先手は二択です。
「我思うゆえに我あり cogito, ergo sum」ということ,正確にいえば我は疑いつつあるego sum cogitansということが,デカルトには確実なことと思えました。しかしここには,隠された前提が潜んでいると考えることができます。すでに説明したように,これは三段論法ではありませんから,思うということがあるということだという第一段目に該当する前提ではありません。これとは別の前提です。
こんなふうに考えてみましょう。すべての事柄について疑ってみることは可能と仮定します。しかし一方で,すべてのことについて疑っている,あるいは疑おうとしているということは確実であるとします。他面からいえば,そのようにすべてを疑いまた疑おうとしている精神mensが存在していることは否定できないとします。そのゆえに我があるというならば,これは疑いまた疑おうとしている精神が我であるといっているのと同じことです。僕が隠された前提というのはその部分のことです。デカルトはあらかじめ我というものを想定し,その我の精神がすべてのことを疑いまた疑おうとしていると前提しているのです。もっと一般的にいうならば,我の精神というものが存在して,その精神が何らかの思惟作用をなすのだと前提しているのです。ですからこのことのうちに,すでにデカルトの自己認識というもの,正確性を期せば自己というものに対する認識が含まれていると僕は考えます。
このことは,スピノザの認識論 と比較してみれば一目瞭然です。『スピノザ 共同性のポリティクス 』では,スピノザ哲学における自己というのは,思惟作用の結果として意識の中に析出されるものであるという主旨のことがいわれています。また,『スピノザの世界 』では,精神が存在してそれが思惟作用をなすのではなく,精神などは存在しなくても思惟作用が存在するのだといわれていました。ですから,方法論的懐疑 の結論部分をスピノザの哲学に照合して分析すれば,疑っているという思惟作用自体が存在しているということは確実であるといえても,それは我が疑っているとか我があるということではありません。単に疑いが存在しているのであり,疑っているのを我の精神と規定しているだけにすぎません。
第四部定理六四 には帰結事項として系Corollariumが示されています。帰結事項ですから証明Demonstratioはありません。
「この帰結として,人間の精神は,もし妥当な観念しか有しないとしたら,悪に関するいかなる概念も形成しないであろうということになる 」。
この系は,悪malumの認識cognitioが十全な認識ではないということ,同じことですが混乱した認識であるということから帰結するので,悪に関してだけ言及されています。ですがもしも人間の精神mens humanaが十全な観念idea adaequataだけを有するとすれば,単に悪に関するいかなる概念notioも形成しないだけでなく,善bonumに関するいかなる概念も形成することはないでしょう。なぜなら,スピノザの哲学でいう善悪 は,複数のものの比較なしには認識するcognoscereことができない概念なのですから,悪の概念を形成できないのであれば善の概念も形成することはできないからです。もちろん,第四部定理八 にあるように,善とは意識された喜びlaetitiaであり,意識される限りで大きな喜びと小さな喜びがありますから,大きな喜びを妨げる小さな喜びを悪と認識することが可能であるとはいえますが,この解釈を適用すると,十全な認識しか有さない場合でも悪を認識できるといわざるを得ず,ここではむしろ,人間の精神は事物を十全に認識する限りでは喜びを感じても悲しみtristitiaを感じることはないということが強調されていると解するべきです。
一方,スピノザは第四部定理二七 では,我々は我々の認識を妨害し得るものを悪であると確知するcerto scimusといっていました。したがってもし僕たちが,ある事物は僕たちがほかの事物を十全に認識することを妨害すると理性的に判断したなら,その事物を悪と認識するといっているように思えます。すると僕たちは事物を十全に認識する限りでも悪の概念を形成するということになり,これはこの系と矛盾してしまうことになります。
この矛盾の適当な解消方法は僕には分からないです。ただ,人間の精神は事物を十全に認識するなら,たとえそれが十全な認識を妨害するようなものの認識であったとしても悲しみを感じることはありません。つまり原則は第四部定理六四や系の方にあることは間違いないと思います。
精緻さと正確さをやや欠く面があるかもしれませんが,ここでは自己の何たるかをスピノザの哲学と比較するということを目的として,デカルトRené Descartesの方法論的懐疑doute méthodiqueとその結論を,以下のようなものであると規定します。
デカルトは哲学を開始するにあたって,絶対に否定することができないような確実性certitudoを有する観念ideaが必要と考えました。そのこと自体はスピノザが『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』で目指そうとしたことと同じであるといえますから,デカルトが不当なことを追求しようとしたことにはなりません。
このためにデカルトは,たとえ確実であると思えるようなことであっても,もしもそれに疑問を呈することができるならばそれを疑い,確実であるとは認定しないようにしました。このような行為はスピノザからみると方法論の悪用ということになります。ことばと観念 とが異なるということを無視して,ある観念をことばの上で疑うことが可能であれば,いかにその観念が真理veritasであると思われようと,確実であると認定しないような行為と等しいからです。ですがこのことは今はさしたる問題ではありません。デカルトはデカルトの方法によって確実性を追求したのであり,それは少なくともデカルトの方法論としては正当性を欠くものではなかったとしておきます。
このようにすべての事柄について疑ってみたときに,デカルトには確かに疑うことができないことが発見されました。それは,すべてのことを疑っている,あるいは疑おうとしている自分が存在しているということでした。そこでデカルトはそれは絶対に否定できない確実なことであると認定し,確実性の第一の規準としたのです。これが一般に「我思うゆえに我あり cogito, ergo sum」と和訳されている規準です。
この方法から理解できるのは,確かにスピノザが『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』で言及しているように,この発見は三段論法ではないということです。すなわち,疑うということはあるということだという前提があり,我は疑っているから我はあると結論されているのではありません。疑っている我が存在している,つまり我は疑いつつあるego sum cogitansというのが方法論的懐疑の正しい結論であるといわなければなりません。
『行人 』の主人公といえる一郎は,ストーリー上はコキュ ではありませんが,寝盗られ願望 があったと解することはできるでしょう。
一郎には直という妻がいます。しかし直は一郎の弟である二郎に惚れているのではないかという疑念を抱いています。そこで直の節操を試してほしいとほかならぬ二郎に依頼します。内容は二郎と直がふたりで和歌山に旅行に行って一泊してほしいというものです。二郎はこの依頼を断ります。ですがすべてを断ることはできず,この会話のあった翌日に,直とふたりで和歌山見物に出掛けます。宿泊はせずに帰る予定でした。ところがその日,天候が急変して帰ることができなくなり,二郎と直は宿屋の同部屋に一泊することになるのです。
このプロットはそのままポルノやアダルトとして成立しそうですらありますが,二郎と直との間に肉体関係が成立するわけではなく,一郎がコキュとなるわけではありません。他面からいえば結果的に一郎の依頼した通りに直の節操が試されることになったわけですが,直は節操のある女だったということになります。二郎もそのように一郎に報告しました。
しかし,この一郎の二郎に対する依頼というのは普通ではないのではないでしょうか。一郎は二郎のことを信頼していて,だから直の節操を試す男として二郎を選ぶという主旨のことを言っています。しかしその二郎は,直が本当は惚れていると思っている男なのです。いい換えれば,もしも直が浮気をするならば,その可能性が最も高いと思っているような人物なのです。そうした人物と妻がふたりで一泊すれば,自分がコキュとなる可能性もまた高いと一郎には思えた筈です。いくら一郎が二郎のことを信頼していたとはいえ,もしふたりの間に何かが起こった場合でも,二郎がそのことを正直に一郎に対して報告すると一郎が考えていたとは思えません。
このように考えれば,本当は一郎は二郎に直を寝盗られたいと思っていたのだと解することは可能でしょう。だから一郎には寝盗られ願望があったようにも思えるのです。
自己原因causa suiとは原因をもたないものであるという規定は,スピノザの哲学において定義 Definitioはどんなものでなければならないかという論述から定義であるといえません。ただ,この規定がスコラ哲学の見解であったかどうかは別に,スピノザの哲学でいう自己原因と大きな相違点を有しています。それは,あらかじめ原因というものを想定して,その想定の下に,自己原因とは何であるのかということを規定しようとする姿勢です。これがスピノザの考え方と反対であるということは,スピノザの哲学の理解の上で欠かすことができない要素のひとつですから,それについては僕も過去に何度も言及しました。すなわちスピノザの哲学における自己原因と原因 との関係は,自己原因が原因のようなものであるわけではなく,原因といわれるものは自己原因のようなものなのです。つまり原因によって自己原因について考えることは,結果から原因を探求するような行為なのであって,正当性を欠きます。むしろ自己原因によって原因というのを考えなければならないのです。スピノザの哲学の用語を使うならば,原因が自己原因の変状affectioです。自己原因が原因の変状なのではありません。
こうしたことを,原因という観点からは考えたのですが,自己原因といわれるときの自己という観点からは詳細に考察したことがありませんでした。しかし,もしこうした姿勢の相違が,原因ということの何たるかを考え,結論する場合に影響を与えるのだとすれば,それと同じように,自己というものに関する考え方および結論にも影響するかもしれません。つまり今回は,自己原因と原因との関係から派生してくるであろう結論を,原因という観点を中心として考察するのではなく,自己という観点から考察してみようと思うのです。
スコラ哲学の考え方については僕の知識が不足していますので,それとの比較は僕には無理があります。そこで僕は,まずデカルトが用いた方法論的懐疑を対象として,その中に,自己というものに対する考え方として,スピノザの哲学と著しく異なっている点はないかということを考えます。方法論的懐疑は方法論ですが,哲学や形而上学も含んでいると思います。
明治記念館 で指された第10期マイナビ女子オープン 五番勝負第二局。
上田初美女流三段の先手で中飛車。加藤桃子女王は居飛車穴熊に。
後手が穴熊を完成させ,先手が5七の銀を上がった局面。ここでいきなり☖7五歩と仕掛けていきました。後手は銀が6四には上がれない形なので意表の仕掛けかもしれません。
☗同歩に☖8六歩☗同角とこちらも突き捨てて☖8四銀 。6四に上がれないのでこちらに上がるほかないところですが,突き捨ててからの棒銀は珍しいのではないでしょうか。
☗7四歩と伸ばし☖8五銀。ここでは☗7三歩成☖同桂☗9五角が指し手の継続性からは自然に思えますが単に☗9五角と出ました。後手は☖7四銀と歩を払いつつ飛車先を直通させました。
ここで☗7二歩と打ったのが結果的には緩手。すぐに☖8七飛成と龍を作られました。
第2図は穴熊に囲った後手が先に飛車を成ったのですから見た目以上に大優勢と思えます。☗7二歩のところで☗6四歩と突くと☖9四歩と角を追われるのを嫌ったようですが,そういう読みであるならそもそも後手の仕掛けに対して正しく対応できていなかったということになるのではないでしょうか。第2図で☗6四歩 と突きましたがこの攻めは間に合わず,以下は後手が一方的に攻め倒すことになりました。
加藤女王が連勝 。第三局は来月16日です。
人間が理性ratioを行使するにあたって意志voluntasの役割を認めないということと,真理の規範 は真理自身である,いい換えればそれは知性intellectusのうちに存在するのであって知性を離れた形相的なもののうちにないということは,いわゆる観念論として別個の事柄に言及しているのですが,スピノザの哲学の中では一貫性をもっているということ,他面からいえば関係し合っているということは理解できました。この部分についての考察はこれで終了します。
『スピノザ 共同性のポリティクス 』から,もうひとつ検討したいことがあります。
第6章はディープエコロジーといわれる環境主義とスピノザの哲学との関連の妥当性に関する論考ですが,この中で,スピノザの哲学において自己というのがいかなるものであるかが,これはテーマとの関連があって簡潔にといわなければならないのですが,検討されています。これは僕がこれまであまり主題として設定してこなかった事柄であるわりに,スピノザの哲学の自己観ひいては人間観を示すのに重要であるかもしれません。なのでこの機会にそれについて詳細に考察してみたいのです。
『エチカ』の第一部定義一 は,自己原因causam suiの定義Definitioになっています。これは自己原因が作出原因 causa efficiensであるか否かという哲学的議論に,ある意味では巻き込まれないようにするために,またある意味では決着をつけるためにという意図があったと察せられます。このことは『近世哲学史点描 』の第五章で詳しく論じられていて,かつて言及したこともあったかと思います。デカルトは自己原因が作出原因ではないという受け取れるような論述をしたのですが,スピノザからすればそれはデカルトの欺瞞 なのであり,実際にはデカルトは神Deusが自己原因であり作出原因でもあるといっているのです。つまり自己原因は作出原因,スピノザの哲学に相応しく訳し直せば起成原因 causa efficiensであって,そのことをスピノザは『エチカ』の冒頭で宣言したのです。
浅野は,スコラ哲学では自己原因の定義は単に原因をもたないものということだったと述べています。スコラ哲学に対する解釈としての妥当性は僕には分かりませんが,これは消極的な言明で,定義とはいえません。
第28回東京スプリント 。
レアヴェントゥーレが伸び上がるような発馬で立ち遅れました。まず先頭に立ったのはダノングッドでしたが外からキタサンサジンが抜き去っていきキタサンサジンの逃げに。控えたダノングッドが2番手,サトノタイガーが3番手,ゴーディーが4番手に。この後ろにドリームバレンチノ,レーザーバレットと巻き返していったレアヴェントゥーレの3頭。ブライトラインとカリスマサンスカイが後方2番手で最後尾にメジャーアスリートという隊列に。前半の600mは35秒4のハイペース。
3コーナーを回るとゴーディーがダノングッドの外に並んで2番手は2頭で併走。サトノタイガーの外までレアヴェントゥーレが上昇し,レーザーバレット,ブライトライン。ドリームバレンチノは内に。直線に入って先行勢を振り切り粘り込もうとするキタサンサジンに大外からブライトラインが詰め寄ったものの僅かに届かず,逃げ切ったキタサンサジンの優勝。アタマ差の2着にブライトライン。直線でダノングッドとゴーディーの間に進路を取ったレーザーバレットがダノングッドを捕えて1馬身4分の1差で3着。ダノングッドがアタマ差の4着。
優勝したキタサンサジン はここが重賞初挑戦での勝利。3歳の1月にデビューした馬ですが,当初からよいスピードをみせていました。惜敗が多いためになかなかクラスを上げられませんでしたが,今年の1月に準オープンを突破。オープンは2戦して5着,3着と,メンバー次第で勝てそうなところまできていました。これまでの戦績からも連戦連勝というのは難しいかもしれませんが,大きく崩れるようなことも少ないだろうと思います。ただ,このレースは勝ち時計が遅いという印象は残ります。父はサウスヴィグラス 。母の半弟に2001年のニュージーランドトロフィーを勝ったキタサンチャンネル ,同じく半妹に2001年のファンタジーステークスを勝ったキタサンヒボタン 。
騎乗した内田博幸騎手は南関東重賞として別名で行われていた第13回と重賞昇格後の第20回 を制していて8年ぶりの東京スプリント3勝目。管理している梅田智之調教師は東京スプリント初勝利。
スピノザの哲学における真理の規範 は,まとめてみれば以下のようになりそうです。
まず,現実的に存在する個物res singularisの観念ideaの原因causaは第二部定理九 によりそれとは別の現実的に存在する個物の観念です。したがって第一部公理四 により,現実的に存在する個物Aの真理性は,その個物の原因である個物Bになくてはなりません。他面からいえば,個物Aの観念の対象ideatumとして知性intellectusの外に形相的にformaliterあるAは,Aの観念が真理veritasであることを何も保証しません。このことがどんな個物の観念にも適用できるので,第一部公理六 で示されている観念の外的特徴 denominatio extrinsecaには観念の真理性を保証する要素な何もなく,その要素は第二部定義四 に示されている観念の内的特徴 denominations intrinsecasの方にあるということになります。
しかし,個物Aの観念が現実的に存在するある人間の知性のうちにあるというとき,この観念がAについての真理性を保証することをこの人間が知り得るのは,この個物Aの観念の観念idea ideaeもこの人間の知性のうちに存在していて,なおかつ個物Aの観念と個物Aの観念の観念が同一個体 であるということを知るからです。いい換えれば,個物Aの観念の観念が個物Aの十全な観念idea adaequataの真の観念idea veraであるということを知ることができるからです。むしろ個物Aの観念の観念が十全adaequatumであるということを知ることができるのは,個物Aの観念の観念の観念があるからだといわなければならず,こうした関係が無限に連鎖していくことになるでしょう。スピノザはあることを知っていればそれを知っていることを知ることができ,さらにそのことを知ることができるというように無限に進むsic in infinitumという主旨のいい方をしていますが,それはこれと同じことといえるでしょう。しかしそれを無限に連鎖させずとも,真理は真理の規範となり得るのであり,この場合にはある十全な観念の観念が,十全な観念の十全な観念であるということより,十全な観念の真の観念であるということを重視するべきだと僕は考えます。
ただ,観念も観念の観念も,同じ人間の精神mens humanaのうちにある点では同じです。したがって人間にとっての真理の規範は精神のうちにのみあり,精神の外にあるもののうちにはないということになります。
被災地支援競輪として実施された高知記念の決勝 。並びは深谷に芦沢,取鳥‐桑原の中国,原田‐小倉の徳島,井上‐松岡の九州で山本は単騎。
スタートを取った深谷の前受け。3番手に原田,5番手に井上,7番手に山本,8番手に取鳥で周回。残り2周のホームから取鳥が上昇開始。山本が桑原の後ろに続きました。コーナーで原田も動き,井上も流れからここに続いたのでバックの入口では三列横並びのような形。深谷は引き,叩いたのは取鳥で先頭に。山本が続き,うまく内から原田を制した井上が4番手,6番手に原田,8番手に深谷の隊列に。打鐘になってもペースは上がらず,コーナーで3番手の山本が動いてホーム手前で取鳥を叩いて前に。すぐさま取鳥が発進してホームで叩き返して先行。先んじて動いた山本も3番手に入り直しました。4番手になった井上が発進の構えをみせましたが山本が牽制。松岡が迎え入れて井上は再び4番手。ここから原田が発進。続いた深谷もバックではさらに外に出して発進と捲り合戦に。大外の深谷のスピードが衰えず,前をすべて飲み込んで優勝。桑原の牽制で一時的に失速した原田が立て直して3車身差の2着。バックで立て直す間に原田と深谷に行かれてしまった井上もその後から捲って出て1車身半差の3着。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年9月の青森記念 以来となる記念競輪14勝目。高知記念は初優勝ですが,2012年2月に当地で西王座戦 を優勝しています。だいぶ動きがあったレースになりましたが,前を取って引き,8番手になっても脚を温存して構えました。展開的には原田の方が有利だったかと思いますが,桑原の牽制での失速があったとはいえ,さらにその外から捲ってこれだけの着差をつけたのですから,内容的には強く,桑原の牽制がなかったとしても勝てたのではないかと思います。なかなか思うように走れず,もう3年近くもビッグの優勝から遠ざかっていますが,まだ27歳ですからこれからの選手ともいえ,復活を期待しています。
どのようにして真理veritasが真理自身の規範となるかということ,いい換えれば真理自身が真理と虚偽falsitasを分かつかということを示しているのが第二部定理四三 であるといえます。そしてこの定理Propositioのスピノザによる証明 Demonstratioは,次のように分析できるのではないかと僕は考えています。
スピノザも援用しているように,この論証にあたって最も重要なのは第二部定理二〇 だと僕は考えます。そこでは人間の精神mens humanaの観念idea,すなわち人間の身体corpusの観念の観念idea ideaeも神Deusのうちにあるということが示されていました。このゆえに,ある人間の精神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるならば,その人間の精神のうちにはXの十全な観念の観念もあるのであって,その観念の観念は第二部定理一一系の意味 によりその人間の精神のうちで十全であるというように論証は進められています。このことは,Xの観念が十全であるということをその人間の精神が知るということなのであり,したがってそれがXについての真理であるということをその人間は疑うことができないのです。だからXの十全な観念はそれ自身がXの真理と虚偽とを分かつのであり,一般に真理の規範は真理それ自身であるということになります。証明が成功しているということは僕も認めます。
ただ,Xの十全な観念とXの十全な観念の観念というのは同一個体 なのです。このことを無視してこの論証は成立しないと僕は考えます。してみると,ここでいわれているXの観念とXの観念の観念の関係は,Xの観念の観念だけに注目するなら,第二部定義四 で示されている十全性より,第一部公理六 でいわれている観念対象ideatumとの一致に重きが置かれているように僕には思えます。確かにXの観念の観念は,それ自体でこの人間の精神の本性を構成する限りでの神として説明されてはいるのですが,それが真理の規範となり得るのは,この観念の観念がその対象,すなわち観念と一致していて,そのことを精神が認識するからだと考えられるからです。
もっとも,観念も観念の観念も,同じ人間の精神のうちにあるのであり,精神の外に形相的なものとしてあるのではないですから,この点についてはあまり気にしなくてもいいかもしれません。
プロレスという競技においてショルダースルー という技が繰り出されるとき,そこにはいくつかのパターンに分類することができる攻防があります。僕は3つに分けましたが,もっと細分化することも可能でしょう。これらはいずれもショルダースルーから次の展開へと至るものです。それとは別に,別の行の技の攻防からショルダースルーへと至り,その後でショルダースルーを巡る攻防がみられることがあるというパターンもプロレスにはあります。その代表がパイルドライバーを巡る攻防です。ここでは代表的なものとしてパイルドライバーにしましたが,パワーボムのような技の場合でもこれと同じです。
パイルドライバーは,前屈みにさせた相手の腹部に手を回して抱え上げ,股に挟んで頭から落とす技です。パワーボムとは投げ方が異なるだけで技に入る体勢は同一です。このとき,仕掛けられた選手が持ち上げられまいと踏ん張って逆に上体を起こすと,技を掛けようとしていた選手が背中越しに回転して倒れることになります。これはショルダースルーで投げられるのと技の形としては同一です。
馬場はファミリー軍団を形成し,第一戦から身を退いた後でも,年に何度かは三沢光晴 ,川田利明 ,小橋建太 ,田上明 といったいわゆる四天王と対戦していました。夢のカード などはそのひとつです。そしてこの時代,こうした試合において馬場が小橋にパイルドライバーを仕掛け,踏ん張った小橋が馬場にショルダースルーを見舞うという攻防はありました。
馬場とハンセンの初対決 のときに不沈艦 が仕掛けた馬場へのショルダースルー を馬場は受けましたが,さすがにこの時代の馬場は,ロープの反動を利用したショルダースルーは受けることができなくなっていただろうと推測します。パイルドライバーから生じるものとはスピードが違い,受けるダメージも異なるだろうからです。ですがパイルドライバーを返される形のショルダースルーなら,まだ受けることができたのです。これはこれで馬場の運動神経のよさを証明するような攻防だったと僕は思っています。
現実的に存在する人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseの一部は,必然的に共通概念notiones communesという十全な観念によって組織されています。なので第二部定理四〇 が現実的に有意味である最低条件は満たされています。実際には第二部定理三八系 でこのことが示されていて,各々の定理の配置 からも分かるように,スピノザは人間の精神のうちに十全な観念があるということを前提していたからこそ,十全な観念を原因として生起するすべての観念ideaは十全であるということができたというべきでしょう。
精神のうちに十全な観念があるということが,僕たちが真理獲得の方法 を知っているということを同時に意味したのでした。つまり僕たちは真理獲得の方法もまた知っているのです。なかんずく,第二部定理四〇で示されているような現象が人間の精神のうちに生じる場合にも,それはその人間の意志作用volitioの力potentiaによって生じるのではなく,神Deusの本性の必然性necessitasに則して自動的に生じるのですから,それを意識しているかどうかは別として,僕たちの精神のうちに真理獲得の方法についての十全な観念もあるということは,これによって前提することができます。
ところで,もしも真理獲得の方法を僕たちが知っているならば,僕たちは何が真理veritasであり何が真理ではないつまり虚偽falsitasであるのかということも知っていることになります。方法はそのことを示す筈だからです。いい換えれば,真理は真理獲得の方法を同時に示すということと,真理はそれ自体が真理と虚偽とを区分する規準になるということは同じことでなければなりません。そして,真偽判定の規準が観念の内的特徴 denominatio intrinsecaにある以上,それ以外には真理と虚偽を分かつような術はないといわなければならないでしょう。つまり真理が真理である「しるし signum」というのは,十全な観念それ自身のうちにあるのであって,その観念の対象ideatumのうちにはないということになります。いい換えれば,十全な観念はそれ自身が真理の「しるし」であるのです。アルベルト Albert Burghが書簡六十七 で真理の「しるし」を観念の外に求めたのに対し,書簡七十六でスピノザがそれを否定したやり取りも,こうしたスピノザの哲学的見解に依拠しているということができるでしょう。
第77回皐月賞 。
発馬後の正面で前に行く気をみせたのはファンディーナ,アルアイン,アダムバローズ,トラストの4頭。この中からアダムバローズがほかの馬を制して逃げの手に。2番手にトラスト。コーナーで外を回って追い上げてきたクリンチャーが単独の3番手になり,ファンディーナとアルアインが並んで4番手。単独の6番手にダンビュライト。中団は2列あって前がマイスタイル,プラチナヴォイス,ウインブライトの3頭。後ろにペルシアンナイト,コマノインパルス,スワーヴリチャード,アメリカズカップの4頭。前半の1000mは59秒0のミドルペース。
3コーナーを回るとトラストがアダムバローズを抜いて先頭に。外からこれについていったのがクリンチャーとファンディーナ。ファンディーナをマークするように追い上げたのがダンビュライトで内で手綱を押しながら喰らいついていたのがアルアイン。ずっと内を回っていたペルシアンナイトがアルアインの直後まで接近。直線に入るとトラスト,クリンチャー,ファンディーナと横並びに。クリンチャーとファンディーナの間に進路を取ったアルアインがそこから抜け,最後はかなり外によれたように見えましたが内外からの追い上げは凌いでレースレコードで優勝。トラストとクリンチャーの間を伸びてきたペルシアンナイトがクビ差の2着まで迫って同一厩舎のワンツー。ファンディーナの外から伸びたダンビュライトが4分の3馬身差で3着。
優勝したアルアイン は前走の毎日杯から連勝で大レース制覇。前々走のシンザン記念は6着でしたが,これは不利があったので参考外とみれば残りは3戦3勝。王道路線を歩んだ有力馬との対戦経験がないので伏兵的存在でしたが,未知の可能性は秘めていた馬。終わってみればそれだけの力があったということになるでしょう。最終コーナーでもたついていたり最後によれていたりしているので,成長する余地も残っている馬ではないかと思います。父は第65回を制したディープインパクト で父仔制覇。Al AinはUAEの世界遺産。
騎乗した松山弘平騎手は一昨年のJBCスプリント 以来の大レース2勝目。管理している池江泰寿調教師は有馬記念 以来の大レース制覇。第71回 以来6年ぶりの皐月賞2勝目。
真偽の規準が外的特徴 denominatio extrinsecaからみられる真の観念と誤った観念 に存するのではなく,内的特徴 denominatio intrinsecaからみられる十全な観念と混乱した観念 のうちにあるということは分かりました。ただ,真偽の規準を必要とするのは,観念ideaが有限なfinitum知性intellectus,とくに現実的に存在する人間の精神mens humana,要するに僕たちの精神のうちにあるという場合です。ですからそれについて真偽を判定する必要があるのも僕たち自身であるということになります。この点を踏まえれば,第二部定理四〇 および4つの意味 が真偽の規準になるということについては,次のような疑問が提出されることになるでしょう。たとえば,原因causaが十全な観念idea adaequataであれば結果effectusも十全な観念であるということは,論理的には正しいとしても,その原因が十全な観念であるということを僕たちはいかにして知り得るのかということです。もしそれを僕たちが知り得ないとすれば,僕たちは結局のところは真偽を判定することはできないということになります。つまり第二部定理四〇は論理的に正しいというだけで,現実的には意味を有さないということになるでしょう。
スピノザの哲学では,方法論的意味における真理獲得の方法 というのが,それ単独では,いい換えれば真理veritasを獲得するということと別個の意味においては存在しませんでした。僕たちは真理を獲得することによって同時に真理を獲得する方法も知り得るのであって,それ以外の方法で真理獲得の方法を知ることはできません。いい換えるなら,もし僕たちの精神のうちに十全な観念があるのであれば僕たちは真理獲得の方法も知っているのですが,十全な観念がないという場合,他面からいえば混乱した観念idea inadaequataだけがあるという場合には,真理獲得の方法を知り得ないのです。ここから分かるように,まず第二部定理四〇が現実的に意味を有する定理Propositioとして成立するための条件として,僕たちの精神のうちには十全な観念があるということが必要になります。これについてスピノザが示しているのは第二部定理三八系 です。僕たちの精神のうちには,共通概念notiones communesという十全な観念が必然的にnecessario存在します。ですから第二部定理四〇が有意味であるための最低条件は満たされていることになります。