スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

松戸記念&洋光台

2011-01-31 19:26:46 | 競輪
 S級S班18名の半数にあたる9名が参戦と非常に豪華なメンバー構成で争われた松戸記念は昨日が決勝。並びは佐藤-伏見の北日本,平原には岩津で87期,五十嵐-海老根-石毛の南関東,北津留-大塚の九州。
 北津留がSを取って前受け。3番手に佐藤,5番手に海老根,8番手から平原で周回。残り3周のホームから平原が上昇。バックで北津留を叩きました。五十嵐がこれに続きましたが,佐藤も跳ね飛ばすように出ていき五十嵐はさらにその外へ。残り2周のホームで五十嵐が前に出て,うまく立ち回った佐藤が4番手に。バックから北津留の巻き返し。しかし打鐘で五十嵐も発進。北津留は佐藤の牽制も受けてホームで一杯。バックに入って平原が捲っていくと海老根が番手から発進。続いた石毛とのマッチレースとなりましたが,振り切った海老根が優勝。マークの石毛が続いて地元ワンツー。3着には平原。
 優勝した千葉の海老根恵太選手は年末の競輪祭以来の優勝。昨年は記念競輪は獲れずじまいで,一昨年8月の函館記念以来となる記念6勝目。ここは五十嵐が残り半周くらいまで頑張ってくれましたので,勝ち方としては楽だったのではないかと思います。自力ですが先行はしないので,あまり安定した成績は残せないでいますが,力はありますから,今年も大きなところでの一発があってもおかしくないでしょう。
                         

 信用金庫の相続の手続きはこれで完了。ただ父は,ほかにもいくつかの口座を持っていましたから,そういった関係の相続の手続きがこれですべて完了したというわけではありません。
 前にも説明しましたように,は中学校の教諭として働いていました。一般的に中学校教師というものがどのくらいの頻度で転勤するものなのかは僕には分かりませんが,父は定年で退職するまでに,計7校で勤務しています。実はこのことは,父の預金口座があちらこちらにあったことと若干の関係があるのです。学校には金融機関から営業の担当者がやって来て,そこで口座を開設するというケースもあるからです。そこで残った口座に関しても相続に手をつけなければなりません。これも僕が任されました。ただ,信用金庫での手続きがようやく完了したのが年末のことでしたので,年が明けてから順に着手することとしました。
 まず1月4日に郵便局というかゆうちょ銀行へ。郵便局は家から歩いてすぐのところにありますからこれは簡単。ある程度の時間が掛かることも想定はしていましたが,この日のうちに完了することができました。これは,まだ父が生きていたうちに,生前分与として,僕や母,妹の口座に貯金を移しておいたからです。口座の残高が少ない場合,少額相続ということになり,本来の相続では必要となる父の戸籍謄本や相続人の印鑑証明というものは不要で,ただ金融機関で渡される書類に,必要なことだけを書くだけですむのです。もっともそれは事前に知っていたというわけではなく,このときに初めて知ったことではあったのですが,なぜ生前に口座の残高を少なくしておいた方がよいのかということの理由のひとつがよく分かりました。
 これは簡単だということで,7日に,今度はおそらく横浜では最も有名であろう地方銀行へ。この地方銀行の最寄りの支店も僕の家から歩いて行かれる所にありましたが,万難を排するという意味では口座を開設してある支店に行った方がいいだろうと思い,洋光台まで出掛けました。
 洋光台は僕が住んでいるところと同じ磯子区ですが,僕の家は南区や中区との境に近いところで,洋光台は区内としては逆側の端なので近所ではありません。僕の家から最短距離で行くなら,一旦は港南区を通過した方が近いくらいです。ではなぜそんなところに口座があったかといえば,父はかつて洋光台の学校に勤務していたことがあったからでした。
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ユニバーサル杯女流名人位戦&自署

2011-01-30 18:46:47 | 将棋
 醤油で有名な千葉県野田市で指された第37期女流名人位戦五番勝負第二局。
 清水市代女流六段の先手で▲7六歩△3四歩▲6八玉。ここで里見香奈女流名人は構わず△5四歩。いきなりの乱戦かと思いきや▲2六歩で普通のごきげん中飛車に。③▲4八銀に合流。ただこうなるのなら3手目に▲6八玉と指す意味はないように思えます。先手が中央に厚く構える形に進展。これは清水女流六段の好みの指し方といえるでしょう。ただし抑え込みにいくというのではなく,戦いに打って出ました。
                         
 4六にいた銀を上がったところ。今日はここまで棋譜を確認して外出。そのまま終局まで観戦できなかったのですが,△同飛と取っていたのには驚きました。当然の▲同銀に歩を連打して飛車を吊り上げ,△4五銀と桂馬を取り,7三の桂を8五に跳ねて角をひかせ,両取りを狙いに△8四桂。先手は▲8六飛(第2図)と受けました。
                         
 先手は飛車を取ったとはいえ銀と桂馬を取られていて,駒得ではありません。▲8五飛と取れば△7六桂とされますから,駒得になるというわけでもないので,取った飛車をこんなところに打って受けなければいけないのではまずいのではないかと思うのですが,それでも難しかった,というか先手の方が指せるくらいであったのかもしれません。
 この後は攻め合いに。ただどことなく先手がもたついてしまったようで,後手の攻めが決まる形となり,後手が勝っています。
 里見女流名人が連勝で防衛に王手。このまま一気にいくようであれば,いよいよ本格的な新時代に突入といえるでしょう。第三局は来月15日です。

 僕の方ですが,27日に再び信用金庫に出掛け,ここの口座の相続を完了させました。
 借金完済のときにあった口座相続の手続きに関係する不備ですが,これは相続人の署名に関するものでした。遺書はありませんでしたので,父の遺産は僕と母,そして妹の3人で相続することになります。その相続を相続人代表として僕が行うのですが,提出する書類の相続人の欄の署名に関しては,自署でなければならないというのが信用金庫側からの不備の指摘でした。僕は母や妹の名前も住所も自分で書いて提出したのです。
 これは書き直せばいいというだけのことですから,大した問題ではないといえばその通りです。実際に母に関しては,小脳出血というのはそういう方面での後遺症が残るものではありませんでしたから,書いてもらうのは簡単です。しかし妹の分もとなりますとそれがそうでもないのです。
 妹は平仮名と片仮名に関しては読み書きができますし,いくつかの漢字については読んだり書いたりできるものもあります。そして自分の名前は漢字で書くことができます。しかし住所はそうではありません。前に形式上の建前にすぎない委任状というのを2通ほど書いたわけですが,そのときは住所まで僕が書いて,妹には自分の名前だけを書かせたのです。そして委任状はそれで問題ありませんでした。しかしこの書類は,住所も自署でなければならないということだったのです。そこで僕も妹が重度知的障害者であることを伝えたのですが,それでも自署でなければならない,そうでなければ後見人を立ててもらわなければならないということでしたから,それも面倒なので平仮名で書かせました。
 ところがこの日にそれを提出しますと,今度は漢字が書けないのかと言ってくる。僕もそうしろというからそうしたまでなので少しばかり腹が立ちました。そもそも,妹は相続の何たるかということを理解できないのですから,これは書類が自署でなければならないとか,後見人を立てるとかいう以前の問題なのです。相続の何たるかを理解していないのですから,財産分与で問題が生じることもないのです。それでも話をして漢字が書けないことが確認できればよいということになりましたので,この日のうちにどうにか口座の払い戻しは完了しました。担当の人は後に電話をかけて妹と話すと言っていましたが,本当に電話があったのかどうか,僕は知りません。
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黒い呪術師&母の外出

2011-01-28 19:25:18 | NOAH
 ファンクスと極悪コンビの抗争が面白くなったのには,アラビアの怪人とタッグを組んだ黒い呪術師ことアブドーラ・ザ・ブッチャーの功績が大きかったと僕は思っています。というのは,シークがほとんどプロレスらしいプロレスというのをしなかったのに対して,ブッチャーの方は必ずしもそうではなかったからです。
 馬場はブッチャーに関して,プロレスはできなかったのでレスラーとしてはあまりいい相手ではなかったけれども,お客を呼ぶことができたのでプロモーターとしてはありがたい存在であったという主旨のことをいっています。ただ,これはあくまでも馬場自身が好敵手として戦ったテクニックを持ったレスラー,たとえばドリー・ファンク・ジュニアとか,ハーリー・レイスなどと比べた上での発言でしょう。確かにブッチャーというのは,凶器を用いた攻撃以外だと,先の尖ったシューズを利用してのキック,地獄突き,ヘッドバットというわずか3種類の打撃技をほぼ単発的に繰り出すことによって試合を組み立てていき,最後は大きな身体を利してのエルボードロップで仕留めるというように,非常にパターン化されたようなプロレス技しか有していませんでしたから,ドリーとかレイスといったようなレスラー達に比べれば,馬場がプロレスができない選手だったといってももっともな話ではあると思います。
                         
 ただしこの馬場の発言は,ブッチャーというレスラーを否定するような意味合いではないように思います。馬場はプロレス技術に関しては厳しいところがあり,たとえばブルーザー・ブロディとかスタン・ハンセンのように,ブッチャーよりは明らかにプロレス技ができたと思えるような選手についてもこの点ではあまり高い評価をしていません。しかし一方で,いくらテクニックがあっても,客を呼ぶことができないようなレスラーはトップレスラーとはいえないというのが馬場の持論でもありました。そういう意味では,プロモーターとしてはありがたかったという発言は,むしろブッチャーという1レスラーに対する,最大の評価ではなかったかと思うのです。

 伯母の再来日で僕の負担がまた軽減することになったわけですが,この時期の再来日は,そんなことよりももっとずっと大きな効果というのをもたらすことになりました。
 母が退院してきたのは20日の夜。一方,伯母が家に着いたのは22日の夜ですから,この間はほぼ丸2日と考えてよいでしょう。母はその間,洗濯物を干したり取り込んだりするためにベランダに出ることと,朝,ごく近くにゴミを出しにいくことを除いては,外気に触れるということすらほぼありませんでした。入院中には病院から外出するリハビリというのを行ってはいましたが,当然ながらそれは療法士の付き添いのもと。ひとりで家から離れたところまで行くということに関しては,母にはまだ不安があったようです。僕が付き添えば可能なことではありましたが,母としても,父が死んで,すぐに自分も倒れてしまったことで僕に多大な負担をかけてしまったというような気持ちがあって,気兼ねする部分があったのではないかと思います。もっともそれは,伯母の来日というのが決定していましたから,それも見越してのものであったかもしれません。
 もうお分かりのことだろうと思いますが,母は伯母と一緒に外出するようになったのです。再来日の翌日となる23日には,早速,妹も連れて3人で本牧にある祖母が入所している特別養護老人ホームに出掛けて行きました。祖母は10月に有料老人ホームに入所してからは,1度だけ通院の帰りに叔父に連れられて磯子中央病院で母と会っていましたが,大正生まれということもあり,痴呆も進行していまして,その間は母の名前を忘れてしまったこともあったようです。僕は一緒ではありませんでしたから,そのときもこのときもどんな会話があったかはまったく知りませんが,伯母と一緒とはいえ,ある程度の遠出ができたことは,母の自信にもなったようです。
 こうして,伯母の来日中は母はたびたび伯母と一緒に出掛けて行きました。最近では,朝,妹をバスで送ってひとりで帰ってくるということもできるようになっていますが,それが可能になったのも,こうして伯母と一緒に外出するということが,母にとって,肉体的な面でも精神的な面でもよいリハビリになったからであろうと思います。
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川崎記念&伯母の再来日

2011-01-26 18:42:21 | 地方競馬
 年明け最初の大レースとなる川崎記念。テスタマッタが前日に取り消し,11頭。
                         
 単勝で元返しという断然の人気に推されたフリオーソの逃げ。クリュギストとメイショウタメトモの2頭が追っていきました。ラップはあまり一定していませんでしたが,これはおそらく川崎コースは長めの直線と急カーブという構成になっているからでしょう。
 いつものように後方に待機していたボランタスが向正面で進出。直線の入口あたりではクリュギストは苦しくなり,メイショウタメトモに並び掛ける形。ただ,逃げていたフリオーソにはまだまだ余力があり,直線でも後ろを引き離して5馬身差の圧勝。一旦はボランタスが2番手に上がったようにも見えましたが,ロングスパートで最後は失速。内から差し返す形でメイショウタメトモが2着,ボランタスが3着。
 優勝したフリオーソは昨年9月の日本テレビ盃以来の勝利。大レースはその前の帝王賞以来の5勝目。テスタマッタの取消でここは大レースはおろか重賞の勝ち馬さえ不在という組み合わせ。それなら離して勝つのも必然。好発から先手を奪った時点ですでに勝負ありといったところではなかったでしょうか。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は南関東では年末の東京2歳優駿牝馬を制していて,大レースは帝王賞以来。川崎記念は初制覇。管理している船橋の川島正行調教師はやはり帝王賞以来の大レース制覇で川崎記念は2006年以来,通算では3勝目,大レースとしては2勝目。

 この22日に,11月にも来日して,一旦は帰米していた伯母,母の姉が再来日しました。これは当初からの予定通りであって,母が退院したのに合わせて来日してきたというわけではありません。11月に帰米した時点ではすでにこの再来日が決定していましたから,大方の荷物をこちらに残していったくらいです。そしてその帰米の時点では,母の退院というのはまだ決まっていませんでした。僕は,リハビリというのは月単位で考えなければいけないとN先生に言われた時点で,年内の退院というのは想定できなくなり,早くても年明けだろうと思っていました。今回の伯母の来日は,年をまたぐような日程になっていましたから,帰米するときには,次の来日中には母も退院できるのではないかという見込みを伯母自身は立てていたようですが,そうした11月の帰米時点での僕たちの見立てより早く,母は退院することができたのです。
 11月に伯母が来日したとき,僕はふたつのことをお願いしました。そのうち,妹の夕食の支度というのは,今回は母がいますから問題ありません。一方,妹を作業所まで送って行くということについては,迎えの支援が基本的に週3日ありますので,残りの2日間に関してはお願いすることにしました。
 したがってこの伯母の再来日により,僕の負担というのはさらに軽減することになりました。というよりも,実際にそのようにしたかどうかはまた別の話になってしまいますが,母の異変が生じた10月8日以前と同じような日常生活を送るということも可能な状況となったのです。ただし伯母はずっと日本にいるというわけではなく,年明け,すなわち今月の16日にはまたロサンゼルスに帰ることになっていましたので,この状況はあくまでも一時的なものではありました。
 伯母は来日するときも帰米するときも,搭乗する飛行機は常に同一。したがって,飛行機によほどの遅れが生じない限りは同じような時間に日本に着きます。今は羽田の便もあるのかもしれませんが,到着は成田で,横浜まではさらに時間が掛かり,家に着くのは夜の8時過ぎ頃になります。時差もあっていつもそうですが,この晩も家には少し顔を出しただけで,アパートへ向いました。
 
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向日町記念&借金完済

2011-01-25 18:36:16 | 競輪
 地元の村上兄弟が中心となって争われた向日町記念の決勝。並びは山崎-佐藤-紺野の北日本と川村-稲垣-村上博幸-村上義弘-前田の近畿で香川は単騎。
 佐藤がSを取って山崎の前受け。4番手に川村で,香川は近畿を追走のレースとなりました。残り2周のホームから上昇した川村がバックで山崎を叩くと,山崎はすんなり引いて7番手。一旦はスローに落とした川村がホームから先行,バックまで一列棒状。山崎はそこから捲っていきましたが,前までは届かなかったので地元勢による争いに。川村と稲垣の間を割った村上博幸が突き抜けて優勝。稲垣が2着で,村上義弘が3着。川村も4着に逃げ残り,地元勢が4着までを独占しました。
 優勝した京都の村上博幸選手はいわずもがなの年末の競輪グランプリの覇者。記念競輪はあまり勝ってなく,昨年3月のいわき平記念以来の3勝目。今日は兄の前を回ったことで大きく勝機が広がりました。直線の入口で稲垣をどかしたあたり,シビアに勝つ競争に徹したといえそう。今後はどのように並んでいくことになるのか分かりませんが,目標に事欠くことはなさそうですから,今年もかなりの活躍が見込めるのではないかと思います。
                         

 母は退院してきたものの,まだひとりで外出することができるという状態ではありませんでした。母自身もそれに関してはまだ十分な自信を持てていなかったようですし,いくら外出のリハビリはやっていたとはいえ,すぐにそこまでのことをするというのは僕としても心配でした。よって妹を作業所まで送って行くというのは僕の役目で,退院翌日となる21日もそのつもりでした。ところがこの日は当日の朝になって作業所から連絡があり,迎えのサービスを利用することになりました。
 これは次のような事情です。妹が通っている作業所というのは,妹のほかにも多くの知的障害者が通っています。そしてその中には,妹と同様に,送迎のサービスを受けている人もいるわけです。この日もそうしたサービスがあって,方角的に僕の家と近いので,ついでに迎えに行くことができるがどうするかという打診だったのです。もちろん作業所の方でも母の退院に関しては把握していまして,おそらくは退院の翌日であるから,僕が母のそばにいた方がいいであろうという配慮があってのものだったと思います。ということで僕としても遠慮せずにこのサービスを利用しました。なお,翌22日と24日は水曜と金曜ですから,前々からこのサービスが入っていましたし,23日は天皇誕生日で作業所は休日。したがってこの1週間というのは僕は作業所には行っていません。
 外出することはまだ不可能とはいえ,家で妹の面倒は母がみられるようになりましたし,食事の支度とか洗濯といった諸々の家事については母に任せられるようになりました。つまり僕が家を不在にしていられる時間というのは,それまでよりも格段に増えたわけです。ということで22日の午後,懸案でもあった父の借金の返済のため,信用金庫に出掛けました。
 この信用金庫には,口座と借金が別々にありまして,口座の相続,正確にいますと相続というより払戻ですが,これに関しては提出した書類に不備があるということでこの日のうちにはできませんでした。ただ,借金の方に関しては,借金自体の総額というのが,口座の残高よりも少なかったために,口座から引き落とすという形でこの日のうちに処理することができました。口座の相続を担当する人と,ローンの方を担当する人が別の人であったため,かなりの時間を費やすことになりましたが,とりあえずこの信用金庫への借金というのはこの時点で完済することができたのです。
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ユニバーサル杯女流名人位戦&血圧降下剤

2011-01-23 18:35:04 | 将棋
 昨年とは立場が入替っての再戦となった第37期女流名人位戦五番勝負第一局。対戦成績は7勝7敗の五分。
 出雲市長による振駒で里見香奈女流名人の先手。▲7六歩に清水市代女流六段が△8四歩としたので中飛車を選択。先手が銀冠,後手が左美濃の戦型に。先手の誘いに乗るような形で後手が8筋から仕掛け,角交換となりました。その後,後手がやや狭いところに攻めの角を打ったのに対し,先手が自陣に受けの角を打ち,後手の攻め,先手の受けという中盤の骨格が定まりました。
                            
 将棋で攻撃の主導権を握ることはひとつのポイント。ただ,本局の場合,後手の玉形が通常の左美濃よりさらに弱い形なので,多少よくなったとしても,攻め合いに出られるともろいもの。したがってここは,どちらが勝ちやすいかでいえば,先手の方が勝ちやすいかもしれません。この将棋も後手が有利に展開したようなのですが,強力な反撃を食らうことになりました。
                            
 後手の駒得ではありますが,もうそれが生きるような形ではありません。玉頭が急所で▲2五歩。後手も△3四金から何とか受け止めようとしましたが,銀冠の厚さを生かした先手が上から押し潰すような形に。最後はやや差が開いてしまい,先手の勝ちとなっています。
 地元対局を制して里見名人がまず1勝。このシリーズはこれまでとは違った戦いが見られるような気がしてきました。第二局は30日です。

 また話が少しだけ前後してしまうのですが,母は退院日が正式に決定した後,治療方針の変更とまでいってはやや大げさすぎるかもしれませんが,療養の内容にある変化がありました。
 すでに説明しましたように,小脳出血に関しては,それ自体では完治したというのが主治医であるN先生の判断でした。そもそもそれより以前,2階の緊急病棟から3階のリハビリ病棟に移動した時点で,すでに投薬による治療も中止されていましたし,栄養補給のための点滴も外されたわけです。ところが,退院が決定しますと,今度は薬物治療がまた開始されたのです。もちろんこれは,今回の小脳出血に関係している治療ではありません。母が服用することになったのは血圧降下剤で,これを朝食後に1錠だけ飲むということになったのです。
 N先生の回診というのは毎日あったわけではありません。しかし看護師が病床に来ないということはあり得ず,そしてそのときには血圧も計測していました。それが示している値というのは,特段に高かったというわけではありません。それは,それまではこの薬を服用するようには指示されなかったということからも明らかでしょう。
 もちろん高血圧というのは,小脳出血だけでなく,脳内出血のリスクというのを高めます。ただ母は,会見の前にはCT撮影もしていて,今回の出血部位と別に,どこか危険な部位があったというわけではありません。そうした諸々の事情というのを考慮するなら,素人考えかもしれませんが,これは必要な処置であったっというようには思えません。
 ただ,なぜ急にこの血圧降下剤が処方されることになったかということに関しては,何となく合点はいきます。というのも,もしこうした処置が何もされずに退院するということになれば,それ以上はもう病院に通う必要すらないということになります。しかし何らかの薬物が処方されるとなれば話は別で,薬がなくなれば通院しなければならなくなるわけです。つまり,これは退院後の通院を確実にするための処置であったように思うのです。これについては母自身も僕と同様の見解でした。ただ,これは悪いことではなく,定期的に通院する方が僕としても安心です。
 母の退院後の最初の通院日として指定されたのは今月13日の木曜日。これについてはまた後で説明するということにします。
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王将戦&退院

2011-01-22 20:13:43 | 将棋
 久保利明王将が貫録を見せる形でまずは豊島将之六段を降して迎えた第60期王将戦七番勝負第二局
 先手の久保王将は初手▲5六歩からの中飛車。後手はこれに対する有力な対策である相振飛車を選択して向飛車。先手が穴熊,後手が美濃囲いという戦型となりました。そして2日目早々には後手が端から仕掛け,先手玉は早くも剥き出しに。
                         
 個人的にはこの局面は先手を持つと相当に気持ち悪く感じます。しかし先手は▲3七銀と引いただけで玉頭はこのまま放置して攻めに出ました。対して後手も先手玉には手をつけなかったので,ついに先手が玉頭に蓋をしました。
                         
 こうなると今度は後手を持っての指し方がかなり難しく感じられます。このあたりは,一手一手の指し手がどうこういうより,先手の駆け引きの仕方がうまかったという印象で,経験の差が少し出たのではないかという気がしました。
 しかしこれで後手が参ったというわけでもありません。将棋はここからものすごいねじり合いへと突入。観戦していても意表を衝かれるような手の連続となりましたが,最後はそこまでの展開からは一転した目の覚めるような寄せを繰り出した後手の勝ちとなっています。
 豊島六段がタイトル戦初勝利を飾って1勝1敗。第三局は来月9日と10日です。

 翌12月19日はアパートの叔父が休みでした。前日にその連絡を受け,相談した結果,自動車を出してくれるとのことになりましたので,妹と3人で同乗し,午後2時前に磯子中央病院へ母の見舞いに行きました。退院日が翌日に迫っていましたから,これが最後の見舞い。そして叔父に自動車を出してもらったのは,そのための準備という意味合いがありました。当然ながら病院にはそれなりの量の荷物があったわけで,翌日には不要と思えるものに関しては,すべてこの日のうちに持って帰っておくということにしたのです。そのためには自動車があった方が便利でした。
 前日に届いた介護保険の判定結果なども母に伝え,荷物を持って家に着いたのが午後4時過ぎ。それから夕食の支度。支度をするのも,妹とふたりだけで夕食を摂るのも,とりあえずはこれで最後。妹も翌日は作業所から帰れば母がいるということをきちんと認識していて,とても嬉しそうにしていました。
 そしていよいよ退院日となる12月20日。新たなる支援により,迎えのサービスがあるので妹を作業所まで送って行く必要はありません。母の退院時刻は午後1時。これも何時でもよいということで,僕もそうであったように,普通は午前中に退院するものではないかと思うのですが,昼食を病院で摂った方が少しでも負担が軽減するのではないかという母の希望もあり,この時間設定となりました。もちろんひとりで帰ってくるというわけにはいきませんし,何より入院費の支払いがありますが,病院にそんな大金を置いていくというわけにもいきません。というわけで僕が迎えに家を出たのは12時半頃。その支払いも含めていくつかの手続きが必要でしたが,午後1時半前には母とふたりで家に着くことができました。実際,その手続き自体に要した時間というのも,僕がみなと赤十字病院から退院したときと比べれば,ずいぶんと短かったように思います。なお,帰りですが,これは一時帰宅のときと同様に,タクシーを利用しました。もちろんこれも母の希望です。
 この日も母が洗濯物を取り込みました。そして洗濯籠を抱えてひとりで階段を下りました。一時帰宅のときにはそれができなかったわけです。洗濯物の量の違いというのはあったかもしれませんが,この日以降,母は洗濯籠を抱えて階段を上り下りしていますから,それだけ回復していると考えていいのだろうと思います。
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濃密な理由&判定結果

2011-01-21 19:07:16 | 歌・小説
 『明暗』がドストエフスキーの小説から受けた最大のものは,そのストーリー展開の仕方,すなわち小説内部に流れる時間の濃密さにあるというのが僕の考え方です。そしてこの時間の濃密さというのは,ドストエフスキーの小説を特徴づけるもののひとつであると僕は思っているのですが,ではなぜドストエフスキーの小説においては,そのように時間が濃密に流れていくのかということを,今度は夏目漱石の小説からは離れて,それ独自で考えてみようと思います。
                         
 もっとも単純な考え方は,これはドストエフスキーに限らず,少なくとも有名なロシアの小説なら全般的にいえることだと思いますが,やはり小説の登場人物の多さというのがあげられるでしょう。とくにドストエフスキーの小説に顕著であるのは,そうした登場人物のほとんどすべてに何らかの肉付けがされていること。したがって,確かに主人公というのはいるのですが,主人公とはいえないような登場人物もまた,その小説の中で,主人公に負けず劣らずの行動をします。そうした人物が何人も登場してくれば,当然ながらその分の描写の量が増えますから小説自体は長くなります。一方,そうした登場人物というのは常に同じ場所にいるわけではありませんから,同時刻に別々の人間の行動が詳しく描写されるということにもなるわけで,よってそこに流れる時間というのは逆に短くなってきます。これを合わせればそれだけ時間は濃密なものになってくるわけです。
 ドストエフスキーの小説の特徴というのは,必ずしも主人公の観点から小説が書かれているわけではないし,また単に主人公の観点からのみ小説を読むことができるというわけではないという点にもあります。いい換えればそれだけ重層的な厚みをもっているといえるかと思います。そしてこの重層性が,小説内部の時間を濃密なものにしていくのです。単純なストーリーの展開という観点から考えるのなら,おおよそそれとは無関係に思われるようなプロットが挟み込まれているということもできるのは事実だと思うのですが,しかしそうしたプロットのひとつひとつが,ドストエフスキーの小説をより魅力的なものにしているように僕には感じられるのです。

 母の見舞いを終えて磯子中央病院から家に戻りますと,ほどなくして電話が鳴りました。これは作業所の妹の担当の方から。作業所から電話があるというのはよくあることですが,それは朝か夜のことで,妹を預かってもらっている時間帯となると滅多にあることではありません。何事かが起ったのではないかといささか動揺しましたが,これは僕の早とちり。単に,クリスマス会が予定よりも早く終了したので,今から家まで送っても大丈夫であるかということの打診でした。僕もこの日はもう外出する予定はありませんでしたからそれで問題なし。3時終了だから3時半頃に戻ってくるのだろうと思っていましたが,それよりも早い時間の帰宅となったわけです。
 話がやや前後しますが,家に戻ったとき,郵便受けに区役所から1通の手紙が届いていました。これは母の介護保険判定の結果の通知でした。そして判定は要支援1ということでした。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが,判定結果というのは要支援と要介護のふたつに分かれていて,さらに要支援が1と2,要介護は1から5の段階に分かれています。そしてこの段階によって,介護保険によって何が適用可能であるのかが決められます。要支援1というのは,段階としては最も軽いものに該当します。
 入院直後,またそれから半月ほどの間,母は寝返りを打つことさえもままならないような状態でした。万が一このような状態が継続し,そのまま退院してくるということにでもなったとしたら大変ですから,僕も早期の段階で介護保険を申請するべきであるかどうかをN先生に相談しました。しかし,実際に判定を行うために区役所の方とケアマネージャーが磯子中央病院に来た時点では,母はすでにかなりの程度まで回復していました。なので僕は,もしかしたら介護保険を適用できないという判定が下される可能性もあるのではないかと思っていましたし,仮に適用されるとしても,要介護になることはまずなく,要支援であるだろうと予想していました。したがってこれはまさにその予想通りの結果であったわけです。
 実をいいますと現時点で,まだ介護保険は使っていません。ただこの中に,自宅の改良というのが入っています。すでに説明しているように,1階はバリアフリーになっていますからこれ以上の改良の余地はありませんが,階段には手すりが付いていません。この取り付けにいくらかの補助が出るようで,将来的なことを考えてもこれはやっておいた方がいいと思っていますので,申請するつもりではいます。もっともこれは僕の一存で決められるものではなく,母と相談の上でということにはなりますが。

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船橋記念&カレンダー

2011-01-19 18:45:59 | 地方競馬
 川崎,浦和に続いて今週から船橋競馬が開幕。メーンは今日の船橋記念
 ジーエスライカーの逃げを予想していましたが,スリーセブンスピンがハナを奪い,ジーエスライカーは2番手から。ナイキマドリードはやや出負けし,それでも5,6番手まで追い上げて追走。最初の400mは22秒9。平均からやや速いペース。
 前の2頭は態勢変わらずに直線。そこから外のジーエスライカーがスリーセブンスピンを交わしていくと,あとは差を広げていく一方となり,3馬身の差をつける完勝。スリーセブンスピンもぎりぎりで2着に粘り,3番手から迫ったコアレスピューマが流れ込む形で3着。
 優勝したジーエスライカーは昨年の京浜盃の勝ち馬で南関東重賞2勝目。京浜盃馬はクラシック候補ですが,この馬の場合は父がサウスヴィグラスですから,本来は短距離馬なのでしょう。まだ脆いところが残っているようにも思いますが,暮れに遠征した中山のカペラステークスでも逃げたくらいのスピードがある馬で,速力で圧倒できるような力関係であるなら,今後も間違いなく活躍し続けると思います。母系は非常に多くの活躍馬が出ていて,最も近いところでははとこに重賞3勝のマンボツイスト
 騎乗した大井の坂井英光騎手ローレル賞以来の南関東重賞制覇。管理している大井の栗田裕光調教師とともに船橋記念初勝利。

 前にもいいましたように,土曜出勤の場合,妹を送っていくだけではなくて迎えにいく必要もあります。しかし,この日は僕は迎えにいっていません。それは次のような事情があったからです。
 月の初めに,作業所からその月の予定が書かれたカレンダーをもらいます。これにはもちろん12月18日が土曜出勤であるということも明記されていました。そしてほかに,このカレンダーには,妹の支援に関しても書かれているのです。すなわちいつ入浴の支援を行い,帰りに送り,ショートステイを行うかなどが逐一記されています。もちろんそれは,そこに書かれている通りに行われるというものではなく,その後の状況などによって変化することがあります。たとえばこの月は僕の糖尿病の診察に合わせて6日から1泊のショートステイがありましたが,7日の帰りに妹を送ってもらうことは,このカレンダーをもらった後で追加されたものですし,入浴の支援を行う日も,この月は作業所というか施設の都合で1日だけ変更になっています。
 そのカレンダーには,クリスマス会の日の帰りは,家まで送る支援を実施するという予定になっていました。実は最初にそれをもらったときには,僕はそれを不思議に思っていました。というのは,こうしたイベントの終了後は,施設の方々は片付けなどで忙しくなるので,無理ではないかと感じたからです.これは母にも確かめましたが,同じような見解でした。だから僕はむしろ迎えにいくつもりであったのです。
 この送りの支援は前日の17日にも入っていて,送ってきた作業所の方から,明日の帰りはどうするのかという話がありました。そこで僕は,予定では送りの支援が入っているということを伝えますと,それなら送りますとの返事。というわけで,この日も送ってもらうことになったのです。予定ではクリスマス会は午後3時に終了とのことでしたので,僕は2時半過ぎには母への見舞いを終えて家に待機していました。
 なお,この送迎の支援は非常に安価とはいえ有料ですが,距離によって金額が変わるようです。請求書をみますと妹の場合は7㎞の料金。以前に距離関係は示しましたが,歩くよりは自動車の方が少し遠回りとはいえ,家から作業所まで7㎞ということはあり得ません。おそらくこれは往復の距離ということなのでしょう。
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大宮記念&12月18日

2011-01-18 18:26:00 | 競輪
 5人のS級S班が新年の初戦に選択した大宮記念の決勝。並びは伏見に大木,藤田-平原-神山-小橋の関東,坂本-松本の九州に佐々木。
 目の覚めるような飛び出しで松本がSを取って坂本の前受け。4番手に伏見,6番手から藤田で周回。なかなか動こうとしなかった藤田が打鐘でようやく上昇。坂本はためらわずに引き,伏見が5番手,佐々木が切り替えたので坂本は8番手に。バックに入ってその坂本が発進。スピードはよかったのですが,番手で脚を溜めていた平原に牽制されて失速。返す刀で踏み込んだ平原が抜け出して優勝。マークの神山が2着に流れ込み,大外を捲り追い込んだ伏見が小橋を僅かに捕えて3着。
 優勝した地元埼玉の平原康多選手は昨年6月の高松宮記念杯以来のグレードレース優勝で,記念競輪は4月の西武園記念以来の6勝目。当地は2008年昨年も優勝していて連覇となる3勝目。最近はレースでやや積極性に欠けているというのが僕の印象で,このレベルの選手としてはやや低迷していました。きっかけさえつかめばそれ以前と同様か,あるいはそれ以上の活躍も見込める選手。ここは藤田と同乗できたのが幸運でしたが,番手捲りではなく仕事をした上での追い込みは見事。この優勝が復調の契機になり得るのではないかと思います。
                         

 12月18日の土曜出勤については,伯母もいませんから僕が連れていくことになります。時間が決められていて,クリスマス会を行う作業所の運営団体の施設に9時15分。もちろん平日の作業に関しても,作業所に何時までという決まりはありましたが,それは多少は遅れても大丈夫。というか,基本的に障害者が集まる場所ですから,だれかしらは遅れるという方が常態ではなかったかと思います。もちろん妹も遅れていくということがありました。というより遅れることの方が多かったくらいです。
 なぜそうなるかといえば,妹は睡眠時間がかなり長い。要するに寝坊です。とくに休みの日などは昼まで寝ていることの方が多いくらいで,12時間以上眠っているということもよくあります。そういうわけで,休日のときは僕も朝は妹の面倒をみなくてよかったので,ゆっくりしていました。しかしこの日は送って行かなければなりませんし,その前に洗濯も済ませておきたいということで,7時過ぎと,土曜日にしては早めの起床にならざるを得ませんでした。
 妹を連れて家を出たのは8時40分くらい。土曜日は平日と比べますとバスの本数が少なくなっていますので,あまり待たされるようだと間に合わないかもしれないと心配しましたが,定刻である9時15分の少し前には施設に到着できました。本当ならばもう少し余裕をもって出掛けるべきところですが,あまり早くに妹を起こすというのもかわいそうだという気持ちがあり,このようなぎりぎりの時間設定となりました。
 いつもなら送ったら家に帰るところですが,土曜日は中央競馬の馬券を買いにいくというのも僕の習慣。この施設は本牧で,僕が馬券を買っているWINS横浜というのは野毛,駅でいうなら京浜急行の日ノ出町かJRの桜木町で,僕の家からだと見当違いの方向。ただ,一度帰宅してまた出掛けるというのもそれはそれで面倒。本牧から桜木町は,時間こそ掛かりますがバス1本で行かれますので,それを利用して馬券を買ってから帰りました。それでも10時半には帰れましたから,まずまずの行動だったと思います。
 午後から母の見舞いで磯子中央病院へ。ただ,妹の帰りの関係がありましたので,いつもよりは早い時間にすませました。
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シルクジャスティス&土曜出勤

2011-01-16 18:55:35 | 名馬
 年末の中山大障害を鼻差で勝利。その鼻差が大きな差となりJRA賞の最優秀障害馬に選出されたバシケーン。この馬の父はシルクジャスティスです。
 母系はチップトップメリーブラットの分枝。管理した調教師の方針だったと思いますが,若いうちから数多くのレースに使われました。使われているうちに頭角を現すようになり,10戦目の京都4歳特別で重賞初制覇。勇躍東上してダービーに挑むも2着。
 秋,復帰戦の神戸新聞杯を叩かれた後,古馬相手の京都大賞典で重賞2勝目。菊花賞,ジャパンカップと5着に破れましたが,有馬記念では最内の馬を競り落としたマーベラスサンデーに外から襲い掛かってこれを交わし,ついに大レースを制覇しました。京都4歳特別から主戦となった藤田伸二騎手は,大レースで負け続けている間も,この馬が最も強いと公言してはばからなかったのですが,最後の最後でそれを証明する形となりました。
                         
 しかし,この馬の輝きはここまで。翌年以降も現役を続行しましたが,11戦したものの1勝もできず,引退することに。古馬になってからの低迷には,あるいは若い時代に多くのレースに出走した疲労の蓄積も関係していたのかもしれません。
 この成績ですから,種牡馬になることもあるいは難しかったと思える馬。障害レースとはいえ大レースの優勝馬が輩出したことは,個人的には大きな驚きでした。

 妹は原則的に土曜と日曜が休みなのですが,月に1度だけ,土曜出勤というのがあります。なぜそうなっているかというと,これはどうも社会福祉法人を運営していくための法令の規定に関係しているようです。つまり,一定数以上の実質運営日というのがないと,行政の側から社会福祉法人として認定されないようなのです。僕はその点に関しては詳しく知りませんから,運営日として年間に何日間が必要なのかは分かりません。たぶん,週休2日であれば,認定されるのではないかと思うのですが,そうすると夏休みや年末年始の休みがとれなくなってしまうくらいの日数なのだろうと思います。いい換えれば,お盆や年末年始にある程度の連休を確保するため,月に1日の土曜出勤というのが設定されているのだろうと思います。
 ただ,土曜出勤といっても,出勤というのは実は名ばかりという部分もあり,作業所に行って作業をするわけではなく,イベント色の強いものになっています。たとえば運動会とかボーリング大会,カラオケ大会などが実施されます。11月は20日がこの土曜出勤にあたっていて,この日はバザーでした。土曜出勤の場合,こうしたイベントは作業所ではなく,作業所が属する法人自体の実施ということになりますので,そちらに出勤ということになります。法人は,僕の家からすると作業所より少しだけ先にありますので,時間は余計に掛かります。また,基本的に土曜出勤の日というのは,そこに送っていくというだけでなく,帰りの迎えも必要でした。ただ,11月20日の場合は,伯母の来日中のことでしたから,送り迎えは伯母がやってくれました。
 12月はこれが18日でした。この日はクリスマス会。クリスマス会といっても,この社会福祉法人はキリスト教系の団体ですから,一般に僕たちがお遊びとしてやるようなクリスマス会よりはずっと本格的なもの。保護者も参加することが可能で,つまり僕も参加できたわけですが,その後で妹と母の見舞いに行くよりは,妹がクリスマス会に参加している間に磯子中央病院に僕ひとりで行ってしまった方が,僕も妹も楽でしたから,事前に僕自身は妹を送っていくだけで,参加はしないという旨を作業所の担当の方には伝えておきました。このクリスマス会の中に,蝋燭の点灯式というのがあり,妹は点灯する係に選ばれたとのことで,前々から張り切っていました。
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表彰選手&歯科検診

2011-01-14 19:01:29 | 競輪
 昨年の競輪の表彰選手は,昨日,発表されました。
 MVPは京都の村上博幸選手。日本選手権競輪,風光る,競輪グランプリとビッグ3勝。グランプリとGⅠの最高峰であるダービーを勝ったのですから文句なしです。ほかにいわき平記念を優勝。初受賞が最優秀選手となりました。
                         
 優秀選手賞は3人で,まず京都の村上義弘選手。共同通信社杯春一番向日町記念を優勝しただけですが,平均競走得点トップから分かるように,年間を通して最も安定した成績を残した選手。弟のMVPも半分以上は兄のおかげといって過言ではないでしょう。2002年と2003年の優秀選手で3度目の受賞。昨年は完全復活の1年でした。
                         
 ふたりめは福島の山崎芳仁選手。オールスター弥彦記念で優勝。こちらは安定性にはやや欠けたきらいはありますが,獲得賞金は村上兄弟に次いで第3位でした。2005年に優秀新人選手賞を受賞した後は,2006年が最優秀選手,2007年,2008年,2009年と優秀選手に選出されていて,6年連続での受賞です。
                         
 最後は福井の市田佳寿浩選手寛仁親王牌,西王座戦とビッグ2勝。奈良記念,富山記念,福井記念と記念も3勝。獲得賞金4位で,平均競走得点3位。ただこの選手も村上義弘選手の復活の恩恵を受けたとはいえるでしょう。初受賞。
                         
 優秀新人選手賞はヤンググランプリを制した愛知の深谷知広選手。年が明けて立川記念も制し,今年はMVPだって狙えるのではないでしょうか。当然ながら初受賞です。
                         
 平均競走得点でトップタイだった茨城の武田豊樹選手が特別敢闘選手賞。東王座戦と熊本記念で優勝しています。
                         

 妹に対する新たなる支援が開始された関係で,12月17日の金曜日は,作業所の方が車で迎えに来てくれましたので,僕は送る必要がありませんでした。ということで,この空いた時間を利用し,今度はI歯科に歯の定期検診に行くことにしました。眼科検診の方は予定よりも1月ほど遅れてしまったのですが,歯の方は12月中という予定でしたので,予定通りということになったわけです。
 家を出たのは10時半過ぎ。これまで,I歯科にはきまって3人がいたのですが,この日は歯科助手が不在で,医師と衛生士のふたりだけ。もうさすがに顔なじみですから,僕が来ただけで来院の理由は理解し,先客もひとりだけでしたのですぐに診察が開始されました。
 最初に医師の方が僕の歯の状態を診たのですが,歯も歯肉も非常に良好な状態ということでほめられました。取り立てて特別なことをしていたというわけではなくて,1日に3度の歯磨きと,日に1回程度の歯間ブラシを使っていただけです。少なくとも最初にこのI歯科に来てからは,これは習慣になっていました。ただ,そのときの状態というのがあまりに悪かったので,ここにきてようやくその効果が出てきたのかもしれません。継続は力なりといいますが,なるほどその通りではあるのでしょう。
 ということで,この点に関しては特に治療の必要はありません。これまでと同様,衛生士による歯石の除去だけで終りました。前にもいいましたように,I歯科とО眼科というのは同じビルの2階に,ほぼ並ぶようにありまして,この日も近くで買い物をしてから帰宅。家に着いたのは12時20分くらいで,歯石の除去だけとはいえ,それなりに時間は掛かります。
 午後2時前に,今度は母の見舞いに磯子中央病院へ。20日に退院できることが確実であるということが分かりました。それで少し迷ったのですが,帰りに磯子駅まで出て,バスの定期券を継続しました。母の見舞いがなくなると,バスに乗る機会は減りますし,新たなる支援がさらに継続されるようだと,妹を作業所へ送る回数も減少します。しかし1ヶ月くらいならば,どのくらいの頻度でこの定期券を利用するのか,様子をみても悪くはないだろうと判断したのです。
 退院することが正式に決定しましたので,アパートの叔父には電話で,また,22日には再来日する予定になっていたアメリカの伯母にはメールで,それぞれ連絡だけしておきました。
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NARグランプリ&退院日

2011-01-13 19:01:02 | 地方競馬
 昨年度のNARグランプリは11日に発表となりました。例年同様,競走馬部門について簡単に紹介しますが,このブログでは扱っていないばんえい競馬に関しては今年も割愛します。
 年度代表馬は帝王賞を勝った船橋のフリオーソ。帝王賞はダート競馬の最高峰のレースのひとつであり,これだけの実績を残した馬はこの馬だけですので当然の選出。部門別では4歳以上最優秀馬。ほかに日本テレビ盃も勝っています。2006年が最優秀2歳馬,2007年2008年は年度代表馬,2009年は4歳以上最優秀馬で,実に5年連続での受賞です。
 2歳最優秀馬は北海道2歳優駿を勝った北海道のカネマサコンコルド。重賞勝ち馬がこの馬のみですので,順当といえるのではないでしょうか。
 3歳最優秀馬はジャパンダートダービーを逃げ切った船橋のマグニフィカ。このレースは3歳の最高峰なのでこれも当然の選出。ただ下半期のレース振りは残念の一語で,復活が待たれます。
 最優秀牝馬はTCK女王盃を勝った川崎のユキチャン。上半期に3戦しただけで引退してしまったので,やや微妙なところがありますが,重賞を勝った牝馬はこの馬だけでしたので,妥当なのではないかと思います。
 最優秀短距離馬はオーバルスプリントを勝った船橋のナイキマドリード。ここは難しい選択で,能力ではヤサカファインの方が上かもしれません。ただ重賞の実績という点では,こちらが僅かに上回っていたとはいえるでしょう。
 最優秀ターフ馬は該当馬がありませんでした。
 ダートグレード競走特別賞はJBCクラシック東京大賞典を逃げ切ったスマートファルコンかきつばた記念,さきたま杯,浦和記念も勝って,地方競馬場で大活躍ですから,これは順当な選出だろうと思います。
 2006年のシンガポール航空国際カップを勝ち,昨年で登録を抹消されたコスモバルクが特別表彰馬になっています。単に競走能力だけでなく,この馬が日本競馬界に果たした役割というのはかなり大きかったのではないでしょうか。

 印鑑証明を無事に入手することができて,磯子中央病院に向うと,母から20日の月曜日に退院することになったと告げられました。この日にN先生の回診があり,母の方からその希望を伝えたようです。実は退院というのは,いつでもよい,つまり別に平日でなく,土曜でも日曜でも構わないということでしたので,どちらにするかは事前に母と相談していました。というのは,土曜か日曜にすれば,アパートの叔父が自動車で迎えに来られるかもしれず,その方が母にとっては明らかに楽になる筈だったからです。ただ,叔父というのはその仕事柄,たとえ平日ではなくてもあまり先の見通しが立たない人でした。そこでもしも土曜か日曜を事前に退院の日として設定して,しかし迎えに来られないということになると,基本的に妹が家にいますので,妹と一緒に母を迎えに行かなければならないということになります。これだと僕の方が大変ですので,僕としては,母にとっては大変かもしれないが,確実に僕だけで迎えに行くことができる平日の方がよいという希望を伝えておきました。母が20日を選択したのは,僕の希望の方を尊重してくれたというわけです。
 実際には,20日に退院したいという意向をN先生に伝えただけであり,まだそれが確実になったという状況ではありませんでした。前にも説明した通り,自宅の状況を撮影したデジカメのデータというのも,この日にN先生に渡したばかりであり,それを見ていなかったN先生から最終的な退院の許可というものが出たわけではなかったからです。ただ,母のリハビリを担当していた何人かの療法士は,全員が全員すぐに退院しても大丈夫という見解でしたし,N先生自身も,月曜の会見では基本的に退院の許可を出していました。そして自宅の状況というのが,退院の許可を取り消すようなものだとは考えられませんでしたから,僕も母も,間違いなく20日には退院できるであろうという見込みを立て,この日からはその用意に入ったのです。実際,翌日までにN先生の方から最終的な許可が下り,母は20日に退院してきましたが,そのことに関してはまた後で詳しく説明することにしましょう。
 N先生との会見のとき,母はもう1週間は入院を続けたいと言いました。僕はそれをもう少しリハビリを続けたいという意味で解釈していましたが,実際のところは,もう1週間したら退院したいというのが母の最も強い気持ちであったようです。そういう意味でも,会見の後,ちょうど1週間後の月曜日というのは,母にとっても最も希望の日であったといえるのかもしれません。
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ニューイヤーカップ&印鑑証明

2011-01-12 19:32:23 | 地方競馬
 10日に中央競馬の開催があった関係で今月の浦和競馬は昨日から4日間の開催。メーンは今日のニューイヤーカップ
 浦和の1600mというのは内枠有利のコース設定ですが,ここはそれがもろに出て,最内のシービスティーが逃げ,2番のキスミープリンスがそれをマーク,3番手にも3番のイチバンボシで,この3頭が後ろを少し離していくという展開になりました。前半の800mは50秒9。これはミドルペースですが,3頭が競ってのものなので,ラップほどは楽ではなかったかもしれません。
 直線入口まで競り合いが続き,ほかを振り切ったのはキスミープリンス。この馬が抜け出したところ,3頭の直後で機を窺っていたドラゴンウィスカーが外から並び掛け,最後は競り落として優勝。キスミープリンスが2着で,3着には後方から外を伸びたゴールドスガ。
 優勝したドラゴンウィスカーは北海道デビューで2勝。遠征してきた平和賞で2着とそれなりの力はみせていました。ただ,今日は展開に乗じたという面もあり,今後も3歳のトップとして活躍し続けられるかどうかはやや微妙なところがあるかもしれません。父は重賞5勝のスマートボーイ
 騎乗した浦和の水野貴史騎手は2008年のオーバルスプリント以来の南関東重賞2勝目。管理している船橋の山本学調教師はこれが南関東重賞初勝利です。

 N先生との会見が終わり,すぐに帰宅しましたが,もう6時前。ということでこの日の夕食は店屋物ですませました。最長の1日であった前日に続き,2日連続で夕食の支度をしなかったということになります。
 退院の許可は出たものの,母の希望でもう少し入院生活が続くことになりましたから,僕の見舞いももう少し続くことになりました。翌14日は,その見舞いの前に磯子区役所へ。妹に委任状を書かせましたので,印鑑登録証の申請です。ただし登録証自体はこの日のうちには発行できず,もう少し本人確認の作業が必要でした。そしてこの本人確認のためにまた委任状が必要になったのですが,これもまた前回と同様に完全に形式的なものにすぎませんでした。
 本人確認のために必要な書類というのは,自宅に郵送されるということで,また時間が掛かりそうだと思っていましたが,翌日の15日にはもう届きました。そこでその書類と委任状を携え,16日に再び磯子区役所へ。無事に印鑑登録証が発行され,同時に僕と母,そして妹の3人分の印鑑証明も入手することができました。
 母の方ですが,退院する前に自宅の状況を確認したいという話がN先生からあったとのこと。要するに,自宅が退院しても問題ないような場所であるかどうかの調査です。N先生本人が自宅まで調査に来るか,そうでなければ自宅の状況を撮影したものを用意するかどちらかとのこと。すでに説明したように,祖母の関係もあり,1階だけではありますが,バリアフリー化されていて,風呂やトイレなどには手すりもついていますから,問題があるとは思えません。N先生に来てもらっても構わなかったのですが,母はデジカメを持っていましたから,玄関や部屋,風呂やトイレなどの様子を何枚か僕が撮影してそれを持って行きました。データはN先生に渡ったようですが,とくに何も言われませんでしたから,自宅の状況は退院には問題ないと判断されたのだろうと思います。毎日ではなかったようですが,週に何度かは回診がありますから母はN先生とはよく顔を合わせていた筈ですが,僕は会見のとき以外にN先生と会ったことは1度もありません。
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和歌山記念&退院の許可

2011-01-11 19:01:56 | 競輪
 S級S班のちょうど3分の1にあたる6選手が新春の走り初めに選択した和歌山記念の決勝。並びは武田に三浦,海老根-白戸の南関東,市田-三谷の近畿,井上-友定-湊の西国。
 Sを取りにいったのが友定と三浦。枠とは逆に三浦が外でしたが,友定が譲る形で誘導の後ろに入り,武田の前受け。井上が3番手,市田が6番手,海老根が8番手という周回に。海老根は残り2周半くらいから上昇,市田が続いてバックで武田を叩くと,外から市田が交わしさらにその上を井上,そして武田も上がってホームで抑えました。市田ラインはインになりましたが,湊が友定に追突するような形となり,湊とあおりで内にいた市田も落車。武田ラインの3番手を内の井上と外の海老根で争うような形となり,武田はバックからようやく発進。これなら展開有利でそのまま逃げ切った武田の優勝。番手の三浦との間を割った井上が2着で三浦は3着。
 優勝した茨城の武田豊樹選手は昨年2月の東王座戦以来となる久しぶりのグレードレース制覇で,記念競輪はその直前の熊本記念以来ほぼ1年ぶり。ただ,低迷していたとか衰えを見せていたというわけでもありません。ここは徹底先行型が不在,逃げることはできるだろうと考えていましたが,予想以上に楽な展開となり,これが勝因でしょう。
                         

 小脳出血完治したということになれば,当然ながら退院の目途が完全に立ったということを意味します。やはり僕たちが予期していた通り,検査結果の写真を用いた説明が終ってからは,母の退院の日取りのことが話題の中心になっていきました。
 N先生の話だと,とくにこれ以上の治療の必要がないのだから,退院するのはいつでもよいということでした。N先生は母のことよりも,むしろ僕の負担の方を考慮したようで,いつ退院しても構わないけれども,すぐに退院して困るのであれば,まだ入院していてもよいというような口ぶりだったのです。ただ,一時帰宅の時点で,支障といえるような支障はないということが僕には分かっていました。つまり母が退院してくれば,僕の負担は増えるどころか減るということが明白だったのです。ですから僕としてはいつ退院してきても構わないと思っていましたし,そのようにN先生にも伝えました。これによって退院の日取りの賽は,すべて母に投げられるということになったのです。いい換えれば,母は自分の好きなときに退院できるということになりました。
 ただ,母自身は,まだすぐに退院するまでの自信というのはなかったようです。というのも,母は毎日のリハビリを繰り返していましたが,退院してしまえばこのリハビリというのを受けることができなくなります。ひとりで外出するということに問題があるなら,退院すれば少なくともしばらくの間はほとんど外に出るということもできなくなります。また,こうした外出を伴ったリハビリ治療というのは,介護保険を利用することによって可能なもののひとつではあるのですが,この時点ではまだ判定が出ていなかったのです。
 こうした事情というのを踏まえて,母が出した結論は,少なくとももう1週間,すなわちこの週の間は退院せずに,リハビリ治療を続行するというものでした。もちろんこの母が出した結論に,僕も異論はありませんでしたし,N先生も口を挟むということはありませんでした。よって退院の許可というのは主治医から出たのですが,実際に母が退院してくる日というのは,早くても翌週,つまり12月20日の月曜ということになったのです。
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