S級S班18名の半数にあたる9名が参戦と非常に豪華なメンバー構成で争われた松戸記念は昨日が決勝。並びは佐藤-伏見の北日本,平原には岩津で87期,五十嵐-海老根-石毛の南関東,北津留-大塚の九州。
北津留がSを取って前受け。3番手に佐藤,5番手に海老根,8番手から平原で周回。残り3周のホームから平原が上昇。バックで北津留を叩きました。五十嵐がこれに続きましたが,佐藤も跳ね飛ばすように出ていき五十嵐はさらにその外へ。残り2周のホームで五十嵐が前に出て,うまく立ち回った佐藤が4番手に。バックから北津留の巻き返し。しかし打鐘で五十嵐も発進。北津留は佐藤の牽制も受けてホームで一杯。バックに入って平原が捲っていくと海老根が番手から発進。続いた石毛とのマッチレースとなりましたが,振り切った海老根が優勝。マークの石毛が続いて地元ワンツー。3着には平原。
優勝した千葉の海老根恵太選手は年末の競輪祭以来の優勝。昨年は記念競輪は獲れずじまいで,一昨年8月の函館記念以来となる記念6勝目。ここは五十嵐が残り半周くらいまで頑張ってくれましたので,勝ち方としては楽だったのではないかと思います。自力ですが先行はしないので,あまり安定した成績は残せないでいますが,力はありますから,今年も大きなところでの一発があってもおかしくないでしょう。
信用金庫の相続の手続きはこれで完了。ただ父は,ほかにもいくつかの口座を持っていましたから,そういった関係の相続の手続きがこれですべて完了したというわけではありません。
前にも説明しましたように,父は中学校の教諭として働いていました。一般的に中学校教師というものがどのくらいの頻度で転勤するものなのかは僕には分かりませんが,父は定年で退職するまでに,計7校で勤務しています。実はこのことは,父の預金口座があちらこちらにあったことと若干の関係があるのです。学校には金融機関から営業の担当者がやって来て,そこで口座を開設するというケースもあるからです。そこで残った口座に関しても相続に手をつけなければなりません。これも僕が任されました。ただ,信用金庫での手続きがようやく完了したのが年末のことでしたので,年が明けてから順に着手することとしました。
まず1月4日に郵便局というかゆうちょ銀行へ。郵便局は家から歩いてすぐのところにありますからこれは簡単。ある程度の時間が掛かることも想定はしていましたが,この日のうちに完了することができました。これは,まだ父が生きていたうちに,生前分与として,僕や母,妹の口座に貯金を移しておいたからです。口座の残高が少ない場合,少額相続ということになり,本来の相続では必要となる父の戸籍謄本や相続人の印鑑証明というものは不要で,ただ金融機関で渡される書類に,必要なことだけを書くだけですむのです。もっともそれは事前に知っていたというわけではなく,このときに初めて知ったことではあったのですが,なぜ生前に口座の残高を少なくしておいた方がよいのかということの理由のひとつがよく分かりました。
これは簡単だということで,7日に,今度はおそらく横浜では最も有名であろう地方銀行へ。この地方銀行の最寄りの支店も僕の家から歩いて行かれる所にありましたが,万難を排するという意味では口座を開設してある支店に行った方がいいだろうと思い,洋光台まで出掛けました。
洋光台は僕が住んでいるところと同じ磯子区ですが,僕の家は南区や中区との境に近いところで,洋光台は区内としては逆側の端なので近所ではありません。僕の家から最短距離で行くなら,一旦は港南区を通過した方が近いくらいです。ではなぜそんなところに口座があったかといえば,父はかつて洋光台の学校に勤務していたことがあったからでした。
北津留がSを取って前受け。3番手に佐藤,5番手に海老根,8番手から平原で周回。残り3周のホームから平原が上昇。バックで北津留を叩きました。五十嵐がこれに続きましたが,佐藤も跳ね飛ばすように出ていき五十嵐はさらにその外へ。残り2周のホームで五十嵐が前に出て,うまく立ち回った佐藤が4番手に。バックから北津留の巻き返し。しかし打鐘で五十嵐も発進。北津留は佐藤の牽制も受けてホームで一杯。バックに入って平原が捲っていくと海老根が番手から発進。続いた石毛とのマッチレースとなりましたが,振り切った海老根が優勝。マークの石毛が続いて地元ワンツー。3着には平原。
優勝した千葉の海老根恵太選手は年末の競輪祭以来の優勝。昨年は記念競輪は獲れずじまいで,一昨年8月の函館記念以来となる記念6勝目。ここは五十嵐が残り半周くらいまで頑張ってくれましたので,勝ち方としては楽だったのではないかと思います。自力ですが先行はしないので,あまり安定した成績は残せないでいますが,力はありますから,今年も大きなところでの一発があってもおかしくないでしょう。
信用金庫の相続の手続きはこれで完了。ただ父は,ほかにもいくつかの口座を持っていましたから,そういった関係の相続の手続きがこれですべて完了したというわけではありません。
前にも説明しましたように,父は中学校の教諭として働いていました。一般的に中学校教師というものがどのくらいの頻度で転勤するものなのかは僕には分かりませんが,父は定年で退職するまでに,計7校で勤務しています。実はこのことは,父の預金口座があちらこちらにあったことと若干の関係があるのです。学校には金融機関から営業の担当者がやって来て,そこで口座を開設するというケースもあるからです。そこで残った口座に関しても相続に手をつけなければなりません。これも僕が任されました。ただ,信用金庫での手続きがようやく完了したのが年末のことでしたので,年が明けてから順に着手することとしました。
まず1月4日に郵便局というかゆうちょ銀行へ。郵便局は家から歩いてすぐのところにありますからこれは簡単。ある程度の時間が掛かることも想定はしていましたが,この日のうちに完了することができました。これは,まだ父が生きていたうちに,生前分与として,僕や母,妹の口座に貯金を移しておいたからです。口座の残高が少ない場合,少額相続ということになり,本来の相続では必要となる父の戸籍謄本や相続人の印鑑証明というものは不要で,ただ金融機関で渡される書類に,必要なことだけを書くだけですむのです。もっともそれは事前に知っていたというわけではなく,このときに初めて知ったことではあったのですが,なぜ生前に口座の残高を少なくしておいた方がよいのかということの理由のひとつがよく分かりました。
これは簡単だということで,7日に,今度はおそらく横浜では最も有名であろう地方銀行へ。この地方銀行の最寄りの支店も僕の家から歩いて行かれる所にありましたが,万難を排するという意味では口座を開設してある支店に行った方がいいだろうと思い,洋光台まで出掛けました。
洋光台は僕が住んでいるところと同じ磯子区ですが,僕の家は南区や中区との境に近いところで,洋光台は区内としては逆側の端なので近所ではありません。僕の家から最短距離で行くなら,一旦は港南区を通過した方が近いくらいです。ではなぜそんなところに口座があったかといえば,父はかつて洋光台の学校に勤務していたことがあったからでした。