スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

いわき金杯争奪戦&同一視

2021-02-28 19:10:45 | 競輪
 いわき平記念の決勝。並びは飯野‐庄子の北日本,朝倉-森田-河野の関東,村田-鷲田‐西岡の近畿で隅田は単騎。
 まず森田が前に出たのですが,内から飯野が上昇すると引きました。さらに外から鷲田と庄子も上昇。鷲田が引いたので飯野の前受けに。3番手に隅田,4番手に朝倉,7番手に村田という周回になりました。残り3周のバックから村田が上昇開始。前までは上がらず朝倉の横で蓋をする形に。ホームで朝倉が引き,4番手に村田,7番手に朝倉という一列棒状になってバックに。打鐘前から朝倉が発進。ホームで庄子の牽制を受けたためにてこずりましたが,バックでは河野までが出きりました。すぐに反撃してきたのは単騎の隅田。森田が合わせて番手から発進。森田の牽制もあって隅田は一旦は浮く形。ただこの関係でコーナーで内が開いた上に森田の自転車が故障したこともあり,横に何人かが並ぶような隊形で直線に。森田の外からよく伸びた鷲田が突き抜けて優勝。横並びとなった森田,河野,隅田,村田が直線で落車してしまったため,落車の外に進路を取っていた庄子が2車身差の2着で大外を回った西岡が4車身差の3着と大波乱の結果。
 優勝した福井の鷲田佳史選手は記念競輪初優勝。この開催は直前の全日本選抜に参加した選手が不在でしたので,FⅠでも優勝候補とはいえないような選手たちでの記念競輪になりました。ですから開催前から混戦は必至と思われていました。決勝を走った選手の中では,飯野,森田,鷲田,隅田の4人が比較上は脚力上位。その中で森田が茨城勢の間に入り,栃木の隅田が単騎という並びになりましたから,森田が優位かなとは思えました。実際に展開はそうなったのですが,朝倉が飯野を叩くのに手間取ったため,すぐに隅田が反撃してくることに。このあたりが森田にとっては誤算だったのだろうと思います。その間隙をやはり脚力は上の鷲田がついたという結果だったといえそうです。

 スピノザは書簡六十四の中で,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態は絶対に無限なる知性intellectus infinitusといっています。当然ながらこれは無限知性を意味します。よって,第一部定理二一の論証Demonstratioでスピノザが例示していることから推理して神の観念idea Deiが何であるのかということを結論するのなら,神の観念は無限知性を意味するということになるでしょう。
                                   
 スピノザの哲学では,知性というのは観念の集積のことを意味します。したがって無限知性とは,無限に多くのinfinita観念の集合体であると解して間違いありません。また,無限様態modus infinitusというのは無限でありかつ永遠aeterunusではありますが,様態ですから所産的自然Natura Naturataに属します。よって,神の観念が何であるのかということについて,第二部定義三が要請していると思われることについては,神の観念を無限知性であると解しても,クリアされています。
 こうした理由もあり,僕は神の観念というのを,無限知性と同一視してきました。とくに,神が有する神自身の観念というのは,無限知性であると解していました。なので,スピノザが第二部定理八で神の無限な観念といわれるときにも,それを無限知性であると解してきたのです。そしておそらくこれは僕に独自の解釈なのではなく,そのように判断している識者というのも多いのではないかと思います。
 柏葉の論考の中心的な対象は,この神の無限な観念というのを,無限知性と同一視してよいのかという点にあります。それだけにこの論考は,僕は今まで気付いていなかった視点をもっているものだったのです。ただし現状は,「存在しないものの存在論」を離れ,神の観念が何であるのかということは多様な解釈がスピノザの哲学においては可能であるということを示そうとしていますので,神の観念を無限知性と同一視することに対する難点については後で詳しく考察することにして,さらに別の解釈の可能性を示していくことにします。
 第一部定理二一の論証でスピノザが神の観念という語を用いているとき,岩波文庫版では畠中尚志による訳注がつけられています。それによれば,神の観念という語は,スピノザの哲学では二様の意味に解することができるという主旨のことがいわれています。
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明治維新&思惟の中の観念

2021-02-27 18:58:18 | 歌・小説
 『漱石追想』の中で僕が最も興味深く思えたのは,漱石の幼少期,小学生時代の同級生による追想が含まれていた点です。ただ,僕がどのような関心を惹かれたのかということを説明するためには,踏まえておかなければならないことがありますので,まずそのことを説明しておきます。
                                        
 漱石が誕生したのは1867年です。明治維新は1868年ですので,これは末期には当たりますが,江戸時代のことです。漱石は産まれてすぐに里子に出されましたが,このときはすぐに引き取られました。そして1868年に塩原家の養子となっていますが,これは明治維新,正確にいうと元号が明治と改元される以前のことだったようです。
 江戸時代には俗に士農工商といわれる階級制度がありました。漱石の実家である夏目家は,漱石が誕生した頃には家運が衰退していたのですが,元は江戸の町方名主ということで,身分でいえば武士に該当します。養子となった塩原家は,内藤新宿,現在でいえば新宿御苑一帯の名主で,こちらも身分でいえば武士に該当します。
 漱石が入学した小学校は浅草にあった戸田小学校で,これは1874年。その後,1876年に塩原夫妻が離婚した関係で,市ヶ谷小学校に転校しました。もちろんこれは明治になってからのことですから,このときの同級生には,江戸時代の身分は関係ありません。つまり武士出身の子もいれば,農家や商人など,町民に出自を有する子もいて,その子たちが同じ教室で学んでいたわけです。
 このことから容易に類推されるように,この時代の子どもたちはおそらく,同級生のかつての身分が何であったのかということが,ある種のアイデンティティーになり得たのです。とりわけ漱石が学んでいた時代は,産まれたのが江戸時代だったのですからなおさらのことでしょう。おそらくそうしたアイデンティティー,つまり自身はかつての武士階級であったというアイデンティティーを,どうやら漱石ももっていたようです。

 思惟の様態cogitandi modiというのは所産的自然Natura Naturataです。つまり第二部定義三から,観念ideamは,その観念の対象ideatumが何であったとしても,所産的自然でなければならないことになると僕は考えます。このゆえに,僕は神の観念idea Deiを,思惟の属性Cogitationis attributumの能産的自然Natura Naturansと解することは,スピノザの哲学においては適切ではないと考えるのです。ただしすでにいったように,そのように解することが絶対的な誤りであるとは僕はいいません。少なくともそのように解する余地が,第二部定理七系の解釈からはあるようにも思えるからです。
 それでは神の観念についての次の解釈の可能性を説明します。
 スピノザは第一部定理二一を論証するときに,背理法を用います。すなわち,もしも神のある属性の絶対的本性からして,その中に有限なfinitumものが存在するという仮定をして,この仮定は不条理であるということを導き,よって神のある属性の絶対的本性から生じるものは,その属性によって永遠aeterunusかつ無限infinitumであるということを証明するのです。この論証Demonstratioはかなり複雑なのですが,現在の考察とは無関係なので割愛します。僕が注目するのは,ここでスピノザが示している例示です。スピノザはある属性の中に有限で定まった存在existentiaないしは持続duratioを有するものが存在すると仮定するときに,たとえば思惟の中に神の観念が生じると仮定する,という例を挙げているのです。この仮定からこの論証がどう進んでいくのかはもう明らかでしょう。思惟の中に存在する神の観念が有限であるということは不条理であるから,この神の観念は永遠かつ無限でなければならないという結論に至るのです。
 第一部定理二一というのは,直接無限様態が永遠かつ無限であるということを示しているのであり,したがってその論証というのは,そのことを導出することの訴訟過程であるといわなければなりません。これはそれ自体で明らかでしょう。そしてスピノザはその訴訟過程の中で,思惟の中の神の観念という具体例を示しているのです。ということは,いくらそれが例示にすぎないものであったとしても,ここでスピノザは思惟の属性の直接無限様態として神の観念を考えているのではないかという推理が成り立つことになります。
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自己原因&思惟の様態

2021-02-26 19:20:52 | 哲学
 最近まで自己原因論争に関して考察をしていました。そこで,スピノザの哲学における自己原因causa suiが何を意味するのかということをここにまとめておきましょう。
                                 
 自己原因は『エチカ』の冒頭,第一部定義一で示されています。それによれば,その本性が存在を含むものcujus essentia involvit existentiam,いい換えれば,その本性が存在するとしか概念することができないものcujus natura non potest concipiのことをいいます。他面からいえば,もしもあるものが概念されて,そのものが存在しないと概念することができないのであれば,そうしたものは自己原因といわれることになります。よってこの定義Definitioは,第一部公理七と少しばかりの関係を有していることになります。
 自己原因論争の考察の最後のところでいったように,その本性が存在を含むもの,という規定は,伝統的に神Deusの規定でした。したがってこの定義は実際には,自己原因というのは神のことである,いい換えれば神は自己原因であるということを,スピノザが実質的に宣言しているのだと解することができます。たぶんスピノザにはそのような意図があったのでしょう。僕たちはこの定義を読んで,神が自己原因であるということを宣言しているというようには読めないかもしれませんが,少なくともスピノザが生きていた時代に,思想や神学に詳しい人物がこれを読めば,スピノザは神が自己原因であると規定しているということが,たちどころに理解できるような定義であったことになります。
 第一部定理二五備考では,神は自己原因であるのと同じ意味で万物の原因だDeus dicitur causa sui, etiam omnium rerum causa dicendusとされています。万物の原因といわれる意味で,自己原因といわれるのではありません。これはスピノザの哲学の自己原因と原因の関係性を示すので重要です。つまりスピノザは自己原因こそが原因として第一のものだと考えているのです。もちろんこのとき,原因というのは起成原因causa efficiensのことを意味します。すなわち自己原因は起成原因であるとスピノザはいっているのです。つまり神の本性は,神が存在するために起成原因を有さない理由であるのではなく,起成原因そのものです。
 神が起成原因を有することによって,神は起成原因を超越する存在であることができなくなります。よって第一部定理一八でいわれるように,神は内在的原因causa immanensになるのです。

 僕は後に示す理由によって,神の観念idea Deiというのを思惟の属性Cogitationis attributumの能産的自然Natura Naturansと解することには懐疑的です。しかしここまでに説明したことから,神の観念を思惟の属性の能産的自然とみることについて,妥当性がまったくないというようには考えません。第二部定理七系には確かに神の観念という語が用いられています。そしてこの系Corollariumは第二部定理七の系ですから,この神の観念は,神の無限な本性naturaと同一個体であると解するのが適切でしょう。ですから神の無限な本性というのを能産的自然と解する限りは,神の観念も能産的自然と考えなければなりません。そして第二部定理七は,ある観念とその観念の対象ideatumの原因causaと結果effectusの秩序ordoと連結connexioが同一である,つまりある観念とその観念の対象は同一個体であるといっているのですから,神の観念はとくに思惟の属性の能産的自然に該当すると考えなければならないでしょう。逆にいうと,この系でいわれている神の観念というのを所産的自然と解するのであれば,明らかにその神の観念の観念対象と解せる神の無限な本性も,所産的自然と解するべきだということになると僕は考えます。
 先述したように,僕はそれでも神の観念を思惟の属性の能産的自然と解することに疑問をもちます。というのは,神の観念といわれる限り,それは神を観念対象とした観念という意味なのであり,観念というのはその対象が何であったとしても,思惟の様態cogitandi modiであると解するべきだと僕は考えるからです。そしてその根拠は,観念を定義した第二部定義三にあります。
 この定義Definitioでは,観念とは,精神が思惟するものであるがゆえに形成する精神の概念Mentis conceptum, quem Mens format, propterea quod res est cogitansであるといわれています。この定義は難解な定義にみえるかもしれませんが,以前にテーマと設定して考察しましたから,ここではそのことに関しては考察しません。ここで注目したいのは,ここで精神といわれているのは,思惟の様態にほかならないという点です。少なくともこの精神を何らかの絶対的思惟とみることはできません。したがって観念が思惟するものとしての精神が形成するその概念であるのなら,観念もまた思惟の様態でなければなりません。
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ファビラスラフイン&神の観念

2021-02-25 19:08:52 | 名馬
 先週の雲取賞を勝ったランリョウオーの祖母は,1993年にフランスで産まれ,競走馬として輸入されたファビラスラフインです。
 デビューは遅く3歳の2月。ダート1200mの新馬を7馬身差で圧勝。芝に転じて1600mの条件戦を5馬身差で勝つとニュージーランドトロフィー4歳ステークスも逃げ切り重賞初制覇。NHKマイルカップは1番人気に推されましたが先行して失速。14着に敗れました。
 秋はぶっつけで秋華賞に。先行して抜け出し,大レース制覇を達成。エリザベス女王杯ではなくジャパンカップに向うと外国馬が上位を占める中でハナ差の2着に健闘しました。有馬記念でサクラローレルの10着に敗れ,そのまま引退となりました。
 スピードは抜群でしたが,本来は長距離の方が向く馬だったのではないかと思います。間違いなく同世代の3歳牝馬の中では実力最上位の馬で,順調なら,古馬になっても牡馬を相手に大レースを勝ち負けする馬になり得たと思っています。
 繁殖牝馬としては,オルフェーヴルが逸走してしまった2012年の阪神大賞典を勝ったギュスターヴクライが輩出しています。

 観念ideaが必ず何かの観念であるということは,観念には必ず観念対象ideatumがあるということです。したがって,一般にXの観念といわれるとき,この観念の観念対象はXであるということになります。スピノザの哲学では思惟の様態cogitandi modi,たとえば観念も観念の対象となります。そうした観念は観念の観念idea ideaeといわれます。ですがここではそこまで考えるとややこしくなるだけですので,Xの観念といわれる場合のX,いい換えればXの観念対象であるXは,知性intellectusの外に形相的にformaliter存在するものである場合に限って考察します。ただこれは,Xが思惟の様態である場合は成立しない考察ではなく,同じ論理構成によって,Xが思惟の様態の場合も成立することになります。ただ煩雑さを避けるために,その場合については除外するということです。
 Xの観念の観念対象がXであるというなら,神の観念idea Deiといわれる場合には神が観念対象となります。これはそれ自体で明らかでしょう。僕がいうのは,このように規定してもなお,神の観念というのは多様な解釈をスピノザの哲学では許容するのではないかと思えるということです。どのような解釈が考えられるのかを,これから順に紹介していきます。
                                 
 第二部定理七系では,神の無限な本性infinita Dei naturaから形相的に,いい換えれば知性の外に生じることが,神の観念から客観的にobjective,つまり観念として発生するといわれています。なお第二部定理七により,これらの原因causaと結果effectusの連結と秩序Ordo, et connexioは同一でなければなりません。これはスピノザ自身がこの系Corollariumの中でいっていることです。このとき,神の本性から形相的に発生するすべてのものに対して,神の本性は起成原因causa efficiensであるということになります。したがって,神の観念から発生する客観的有esse objectivumすなわち観念に対して,神の観念は起成原因であるといわなければなりません。これは当然のことでしょう。このとき,神の本性というのが,能産的自然Natura Naturansに該当するのか所産的自然Natura Naturataに該当するのかといえば,能産的自然に該当し,この能産的自然から形相的に発生するすべてのものが,所産的自然に該当することになります。すると所産的自然である諸々の観念に対して,神の観念は能産的自然に該当することになりそうです。
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読売新聞社杯全日本選抜競輪&独自の考察

2021-02-24 19:34:01 | 競輪
 川崎競輪場で開催された昨日の第36回全日本選抜競輪の決勝。並びは平原‐諸橋の関東,深谷-郡司-和田の南関東,清水-松浦-園田の西国で守沢は単騎。
 平原がスタートを取って前受け。3番手に清水,6番手に深谷,最後尾に守沢という周回で,守沢はずっと南関東を追走するレースになりました。残り2周のホームに入ると深谷が踏み込み,一気に平原を叩きました。平原が5番手に入り,7番手に清水という一列棒状になってバックから打鐘。ホームに入って清水が発進。バックで清水が追いついてきたところで平原が発進。さらに平原が追い上げてきたところで郡司が番手から発進。郡司と平原は最終コーナーで併走。郡司自身が平原を止めに行ったこともあり,相互接触をして平原の自転車の前輪が故障。平原を振り切る形になった郡司が優勝。マークの和田が4分の3車身差の2着に続いて南関東のワンツー。このラインを追走した守沢が4分の3車身差の3着に続き,事実上のラインでの上位独占となりました。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は11月の競輪祭以来の優勝でビッグは4勝目。GⅠは2勝目。ここは郡司の地元ということもあり,深谷が早めに駆けて郡司の番手捲りという展開が濃厚。そうなると平原も清水も苦しく,郡司の優勝の確率がかなり高そうだとみていて,実際にそのようなレースになりました。平原はよく追い上げましたが,守沢が南関東を追走したので余計に不利になりました。深谷が叩きにきたときに,強引にでも4番手を取る競走をした方がよかったのかもしれません。西国勢はこういった展開が予測できただけに,この日は松浦が前で走った方がラインにとってはよい戦いができたのではないでしょうか。

 柏葉は第二部定理八の神Deusの無限な観念ideaの解釈を論文の論点の中心に据えています。そこで,一旦は柏葉の論文から離れ,神の観念idea Deiについて,ここで独自の考察をします。
                                        
 前回の『〈内在の哲学〉へ』の考察の中で,著者である近藤和敬が,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態について,それを諸観念の総体といっていることに対して,それは誤りであるという自説を僕は展開しました。そのときもいったように,僕は思惟の属性の間接無限様態が何であるかということについては,明確な考えを持ち合わせているわけではありません。ただ,スピノザが,書簡六十四の中で,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態と間接無限様態,思惟の属性の直接無限様態については明言しているのに対し,思惟の属性の間接無限様態については明示していないのにははっきりとした理由があるということについて,河合徳治が『スピノザ哲学論攷』の中で説明しているということを紹介し,この説明には合理性があるということも指摘しました。同時にそこで河合は,思惟の属性の間接無限様態について,人間が十全に認識するcognoscereことができないものとしての神の観念であるということを示唆しているということも紹介しました。そのときに僕は,思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということとの関係性を考えなくても,神の観念というのはスピノザの哲学の中で,多様な解釈ができるのではないかということを指摘し,このことについては別の機会に考察するといいました。ここで柏葉が神の無限な観念の解釈について問題にしていますから,この機会にこのことを,柏葉の論文よりも幅広い形で考察しておきたいのです。もちろん柏葉の論文とは直接的には関係しないとしても,それを考察するために有益ではあるでしょう。
 第一部公理六が公理Axiomaとして成立するためには,ある前提条件が必要とされます。それは観念には必ず観念されたものideatum,あるいは同じことですが観念対象ideatumがあるということです。もしこれが前提とならなければ,観念されたものと一致するか一致しないかによって,真の観念idea veraであるかそうでないか,いい換えれば真の観念であるか誤った観念idea falsaであるかということは決定し得ないからです、
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ユングフラウ賞&タイトル

2021-02-23 18:52:51 | 地方競馬
 桜花賞トライアルの第13回ユングフラウ賞
 スセリヒメは挟まれて2馬身の不利。ケラススヴィアがハナを奪い,2番手にアングランとセカイノホシ。4番手にグロリオーソとプレストレジーナとウワサノシブコでこの6頭は一団。2馬身差でレディブラウンとサブルドールとアイカプチーノ。2馬身差でティーズアレディーとスセリヒメ。3馬身差の最後尾にホーリーナイトキス。最初の600mは36秒8のハイペース。
 3コーナーを回ると向正面で進出したウワサノシブコがケラススヴィアに並び掛けていき,プレストレジーナ,アイカプチーノの4頭が一団。コーナーでプレストレジーナが脱落し,残る3頭が雁行で直線に。競り合いからアイカプチーノが脱落し,残る2頭の競り合いに。外から競り落としたウワサノシブコが優勝。ケラススヴィアがアタマ差で2着。内を回って直線もケラススヴィアの内から脚を伸ばしたグロリオーソがクビ差で3着。
 優勝したウワサノシブコは前走のオープンからの連勝で南関東重賞初制覇。北海道で2勝し,昨年暮れから浦和に転入していた馬。北海道時代の実績がさほどではなかったために,このメンバーでは苦しいのではないかと思っていました。実績が断然だったケラススヴィアが56キロを背負っていたとはいえ,競り落としての勝利は価値があるといえます。桜花賞でも注目するべき存在になったと判断していいのではないでしょうか。母の父はダンスインザダーク。母の5つ上の全兄に2002年に兵庫チャンピオンシップを勝ったインタータイヨウ
 騎乗した大井の和田譲治騎手は2017年の東京記念以来となる南関東重賞2勝目。管理している浦和の岡田一男調教師は南関東重賞3勝目。ユングフラウ賞は初勝利。

 柏葉の論文の概要を最初に紹介したときにいったように,柏葉が存在するものといっているのは現実的に存在するもののことであり,存在しないものといっているのは神Deusの属性attributumの中に含まれているもののことです。これは第五部定理二九備考でスピノザが示している,人間の精神mens humanaによる事物の認識cognitioのあり方にそのまま重なるとはいえない面もあるのですが,基本的にスピノザが観念対象ideatumとして認識するcognoscereものに照合させるなら,人間の精神が事物を永遠の相species aeternitatisの下に認識するということは,人間の精神が存在しないものを認識するということであり,人間の精神が観念対象を時間tempusや空間と関連付けて事物を認識するという場合は,人間の精神が存在するものを認識するということになります。したがって,存在するおよび存在しないという観点からは肯定的に評価されるものを認識するときより,否定的な評価を受けるものを認識する場合の方に,スピノザはより高い価値を置いているということになります。僕が強く注意を促しておきたいのはこの点です。存在しないものの存在論,といわれる場合の存在しないものは,人間の精神がそれを認識する場合についていえば,それを認識することにより高い価値があるとみなされるもののことなのです。よって僕の見解opinioでは,この論文のタイトルというのは,誤解を生じさせやすいものだと思います。これも最初にいったように,存在論というのは本来的に存在するものについての論理なのですから,存在しないものの存在論というのが語義矛盾を含んでいます。なので論文のタイトルは,少なくとも現実的に存在しないものの存在論,とか,時間や空間に制約されないものの存在論,といった形にした方がよかったのではないかと感じます。
                                        
 それではここから柏葉の論文そのものの考察に入ります。これも最初にいったように,論文の対象となっている定理Propositioがあるとすれば,それは第五部定理二三で,柏葉はこの定理Propositioを正確に理解するためには,第二部定理八およびその備考Scholiumを正しく読解することが重要であるといっています。このとき柏葉がとくに重視するのは,この定理でいわれている,神の無限な観念をどう解するべきかということです。
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棋王戦&注意点

2021-02-22 19:02:08 | 将棋
 20日に北國新聞会館で指された第46期棋王戦五番勝負第二局。
 糸谷哲郎八段の先手で角換り。先手が1筋の位を取っている間に後手の渡辺明棋王早繰り銀から速攻。銀交換に持ち込み,先手は右玉にしました。
                                        
 先手が右玉を明示した局面。ここで後手は☖1四歩と突きました。
 ここは先手が手を掛けているところなので,ここから後手が攻めて局面が互角の分かれになれば,先手の作戦負けでしょう。したがって先手はこの仕掛けに対しては有利に持ち込まなければならず,そういう手順がないのであれば,すでに第1図で先手は不利に陥っていたということになります。
 ☗同歩に☖1七歩と垂らしたところで☗2七銀と打って受けました。これはいかにも苦しそうな手で,すでに先手には暗雲が立ち込めているといったところだと思います。
 後手は☖1四香と走り☗1六歩と受けた手に対して☖1八銀と打ちました。
 ここで☗同銀と取る方がよかったようですが,それでも後手には多くの手段がありそうです。実戦は☗同香と取ったために☖同歩成ではなく☖1六香と走られました。
                                        
 おそらく先手は第2図の☖1六香を見落としていたものと推測します。作戦負けと思われる局面の後で見落としも出ては,さらに差が開きました。
 渡辺棋王が勝って1勝1敗。第三局は来月7日に指される予定です。

 これは柏葉の論文の論考とは無関係ですが,僕はこの点には強く注意を促しておきたいのです。あるものについて,それが存在するとか存在し得るというなら,これはそのものについての積極的な肯定affirmatioです。これに対してあるものが存在しないとか存在し得ないというなら,そのものについての消極的な言明であり,否定negatioであることになります。スピノザの第一部定理一一第三の証明は,これに類することが前提となっていて,スピノザはそのことは自明であるといっています。
 第五部定理二九備考で,スピノザは人間の精神mens humanaによる事物の認識cognitioのあり方を,二種類に分類しています。すなわち僕たちは事物を一定の時間tempusや空間と関連付けて認識するcognoscereか,神Deusの本性naturaの必然性necessitasから生起するものとして神の中に含まれるものとして認識するかのどちらかです。このうち,僕たちが後者の仕方である事物を認識する場合は,僕たちはその事物を永遠の相species aeternitatisの下に認識するといわれることになります。第二部定理四四系二から分かるように,それは理性の本性natura Rationisに属する認識のありようです。また第五部定理二九から分かるように,同時にそれは第三種の認識cognitio tertii generisで僕たちが個物res singularisを認識するときのありようでもあります。したがってこれら二種類の認識のあり方のうち,事物を永遠の相の下に認識するあり方に対して,スピノザはより高い評価を与えていることになります。これはあくまでもより高い評価なのであって,前者の認識,つまり人間の精神が事物を一定の時間や空間と関連付けて認識すること,たとえば人間の精神がある事物を表象するimaginariということについて,スピノザが何の価値も認めていないという意味ではありません。
 現実的に存在するものを認識するというとき,それは現実的であるという点で,一定の時間の制約を受けています。いい換えれば人間の精神があるものを現実的に存在すると認識する場合は,そのものを永遠の相の下には認識していません。他面からいえば,このブログにおいては,事物を永遠の相の下に認識するというのとは別の認識のあり方として,事物を現実的に存在するものとして認識するといわれることになります。この点で柏葉の分類に注意をしたいのです。
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フェブラリーステークス&存在しないものの存在論

2021-02-21 19:15:25 | 中央競馬
 船橋から1頭が遠征してきた第38回フェブラリーステークス
 最内のエアアルマスが押し出されるように逃げる形に。2番手にヘリオスとワイドファラオ。4番手にカフェファラオとオーヴェルニュ。6番手にアルクトス。7番手にワンダーリーデル。8番手にヤマニンアンプリメ。9番手にスマートダンディー。10番手にエアスピネルとレッドルゼルでここまでは一団。2馬身差でサクセスエナジー,ソリストサンダー,インティの3頭。ミューチャリーとサンライズノヴァが最後尾を併走という隊列。前半の800mは46秒5のミドルペース。
 道中でワイドファラオが単独の2番手に上がり,コーナーでは外からエアアルマスの前に出て,3番手以下との差が一旦は広がる形。3番手にはカフェファラオが内から上がってきました。直線に入るとカフェファラオはワイドファラオの外に。さらに外からアルクトスが追ってきて,道中で内に潜り込んだワンダーリーデルも捌きながら追い上げてきました。残り200mを過ぎたあたりでカフェファラオが先頭に。先に追い上げた2頭は引き離され,すぐ外から伸びてきたエアスピネルが2番手に。しかしカフェファラオを差し切るには至らず,優勝はカフェファラオ。エアスピネルが4分の3馬身差で2着。ワンダーリーデルが1馬身4分の3差で3着。
 優勝したカフェファラオはシリウスステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初制覇。この馬は3連勝でユニコーンステークスを勝った時点で,将来的にはトップクラスで戦えるということを証明していました。ここはそうも強力な相手がいない上に,良績を残しているコースでしたから優勝候補の筆頭と考えていて,順当な優勝。ダートのレースでは順調にレースを使えるということが最も大事で,そういうふうに出走していかれるようになれば,トップに立つことも可能でしょう。距離の延長は現時点ではプラスに作用しないでしょうが,これは慣れていくことで対応が可能になると思います。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はジャパンカップ以来の大レース勝利。第37回からの連覇でフェブラリーステークス2勝目。管理している堀宣行調教師は一昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース19勝目。フェブラリーステークスは初勝利。

 松田の論文についての考察の目的は果たせましたし,補足もできました。なので今日からは次の考察を開始することにします。
 『スピノザ―ナ10号』の松田の論文の次に掲載されているのは,柏葉武秀による「存在しないものの存在論」という論文です。「スピノザにおける精神の永遠性をめぐるひとつの論点」という副題が付せられています。まずこの論文の概要及びこの論文のここでの考察の対象を説明しておきましょう。
 副題から分かるように,論点の中心は精神mensの永遠性aeternitasについてです。つまり論考の直接の対象は第五部定理二三になります。ただし僕の考察では,この部分については扱いません。柏葉はこの定理Propositioを正しく理解するためには,第二部定理八と,その備考Scholiumを正確に把握することが不可欠であるとしています。僕の考察の対象はこちらの部分になります。というのも,この定理および備考に関する柏葉の主張には,僕が今まで気付いていなかったことが含まれていたからです。
 柏葉がこのような論考をするときに,「存在しないものの存在論」という表題にしていることは不思議に思われるかもしれません。あるいはそうしたことを抜きにしても,この論文のタイトルの意味は伝わりにくいのではないかと思います。そもそも存在論というのは存在するものについての論考であって,存在しないものの存在論というのはそれ自体でみれば不条理である筈だからです。ですが柏葉の考えによれば,スピノザの哲学においては,存在するものの存在論だけがあるわけではなく,存在しないものの存在論もあることになります。というのも柏葉は,ここでは存在するものと存在しないものについて,ある特殊な区分を与えているからです。
 柏葉がいう存在するものというのは,僕がこのブログで使用している語でいえば,現実的に存在するものという意味です。これに対して存在しないものというのは,現実的には存在しないもの,いい換えれば,第二部定理八系のいい方に倣うなら,個物res singularesがただ神Deusの属性attributumの中に包容されている限りにおいてのみ存在するといわれる場合のことを意味します。したがってそれは,文字通りに存在しないという意味ではありません。
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愛さず殺さず&第一部定理一八の意味

2021-02-20 19:17:06 | 歌・小説
 スヴィドリガイロフが自身に対するドゥーニャ愛と憎しみを見誤っていたのは間違いないところです。つまりスヴィドリガイロフは,ドゥーニャが自分のことを愛していると思っていたのだけれど,実際には憎んでいるということに気付いたのです。一方で,スヴィドリガイロフのドゥーニャに対する愛は,変わることがありませんでした。それは,たとえドゥーニャの自分に対する憎しみに気付いてもなお,いい換えればドゥーニャが自身に対してピストルの銃口を向けたときにさえ変わりませんでした。
                                        
 こうしたときに,スヴィドリガイロフはドゥーニャが自分を撃ち殺してくれることを願うのではないかということが『『罪と罰』を読まない』の鼎談の中で指摘されています。つまり,実際にはドゥーニャが自分を愛していないということに気付いたスヴィドリガイロフは,もしもドゥーニャが自分を愛してくれないのであれば,徹底的に憎んでもらうことを望むのではないかという指摘です。スヴィドリガイロフのこのような感情の変化は,僕にはリアルなものと感じられますので,確かにそういうことがあってもおかしくはないと考えます。すると,ドゥーニャがスヴィドリガイロフを憎むということに最も徹した場合には,銃口を向けたピストルの引鉄を弾くことになるでしょう。いい換えればドゥーニャはスヴィドリガイロフを殺すことになるでしょう。そしてスヴィドリガイロフは,ドゥーニャに徹底して憎まれることを望んでいるのですから,そのことも望むことになります。要するにこのときスヴィドリガイロフは,ソーニャにピストルで撃ってほしい,自分のことを殺してほしいと思っていたということになります。
 このときにスヴィドリガイロフがそのように感じていたということは大いにありそうです。ですがドゥーニャはそうすることができず,そのままスヴィドリガイロフの前を立ち去ります。愛してもらえず,しかし憎んでももらえなかったスヴィドリガイロフは,大いに失望したことでしょう。

 最後に一点だけ,今回の考察の補足をしておきます。これは『エチカ』の定理Propositioと若干の関係を有します。
 カテルスJohannes CaterusやアルノーAntoine Amauld,またレヴィウスJacobus Reviusuにとって,自己由来性を積極的に解することは,正統的な神学の解釈に反するものでした。デカルトRené Descartesは,その点では正統的な神学の解釈を踏み越えたわけですが,神Deusが自己原因causa suiであるという主張や,自己原因が起成原因causa efficiensであるといった主張に関しては,奇怪な意見であるといっています。カテルスやアルノーまたレヴィウスにとっては,自己由来性を積極的に解することと,神を自己原因であると規定することならびに自己原因を起成原因と規定することは同じ意味を有していました。このことは,デカルトの欺瞞が,スピノザからみた場合の欺瞞だけでなく,カテルスをはじめとする伝統的な神学的観点を重視する立場の思想家や神学者からみた場合の欺瞞という二面性があったことを説明したときにいったことです。したがって,自己原因を起成原因とみなすことや,神を自己原因と規定することが,神学的観点に反することであるという点で,カテルス,アルノー,レヴィウス,デカルトの立場は一致していたのであり,スピノザだけがそこも踏み越えたのです。ですが,なぜ神を自己原因と規定することと,自己原因を起成原因とみなすことが,神学的観点に反するのかということは,考察の中では示しませんでした。ここで補足しておきたいのはそのことです。
 神学的観点における神というのは,超越的な神なのです。ところが,もしも神が自己原因であると規定すると,神の存在existentiaの原因が神自身にあるということになり,この場合は神が超越的な存在ではなくなってしまいます。ここでいう超越的というのは,因果的な超越性を意味しているのであり,もし何らかの起成原因によって神が存在するなら,それは超越的な存在ではなくなってしまうからです。そしてこの場合に,神が超越的存在でなくなるなら何になるのかといえば,それは内在的な存在なのです。
 このような意味で第一部定理一八は,神は内在的原因causa immanensであり超越的原因causa transiensではないといっているのです。内在の哲学は,形而上学的にはこのように開始されるのです。
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表彰選手&論争と定義

2021-02-19 20:18:29 | 競輪
 昨年の競輪の表彰選手は1月25日に発表されました。遅くなりましたがここで紹介しておきます。
                                        
 最優秀選手賞は福井の脇本雄太選手。高松宮記念杯寛仁親王牌でGⅠを2勝。福井記念も優勝。脇本は現役で最強の選手。グランプリを勝たないとなかなかMVPは獲得できないのですが,昨年は選出されました。僕は一昨年も脇本でよいと思っていたくらいで,これでいいのではないかと思います。MVPは初の受賞。
 優秀選手賞は3人。まず広島の松浦悠士選手。ウィナーズカップオールスター競輪でGⅠを2勝。和歌山記念,高松記念,武雄記念と記念競輪は3勝。賞金で脇本を上回っていますから当然でしょう。2019年に続き2年連続2度目の優秀選手賞。
 2人目は千葉の和田健太郎選手。グレードレースはグランプリを優勝しただけですが,グランプリの優勝選手が選出されないということはあり得ませんので,妥当な受賞。初受賞となります。
 3人目は神奈川の郡司浩平選手。競輪祭を優勝。玉野記念,取手記念,岐阜記念,熊本記念と記念競輪は4勝。脇本の出走が少ない中,昨年の競輪界を引っ張ったのは松浦と郡司。ですから当然の受賞でしょう。初受賞。
 優秀新人選手賞は神奈川の松井宏佑選手。ヤンググランプリを優勝。記念競輪は優勝できませんでしたが,対象となる選手の中では圧倒的な力量ですからこれも当然でしょう。国際賞は受賞していますが,それ以外の部門では初受賞となります。
 特別敢闘選手賞は山口の清水裕友選手。全日本選抜サマーナイトフェスティバルでビッグを2勝。久留米記念防府記念で記念競輪2勝。全体的な実績は和田より上で,和田がグランプリを勝ったので優秀選手賞からはじき出された形。なのでこれも当然の受賞といえます。2018年,2019年に続き3年連続3度目の特別敢闘選手賞。
 ガールズ競輪と国際競技はこのブログの管轄外ですので,割愛します。

 その本性essentiaがそれ自身の存在existentiaを含むもの,という規定が,神Deusの規定であったという僕の推測が正しいものであったとします。それを考慮して第一部定義一を読めば,そこでいわれているのは,自己原因causam suiとは神のことであるという意味になります。いい換えればこの定義Definitioは,神は自己原因であるということをスピノザが宣言している定義であると解することができるのです。
 松田の論文の主旨というのは,僕がこの論文を引用するときにたびたび用いる,デカルトの欺瞞を明らかにしようとしているものではないのであり,むしろ上述したような,この定義にスピノザが込めようとした意味あるいはその意義を明らかにしようという点にあります。つまり松田もまた,スピノザは第一部定義一,すなわち先述したような『エチカ』の全文の冒頭で,神が自己原因であるという自身の立場を明示したのだと考えているのです。僕もまたこの考え方に同意します。すなわちスピノザははっきりとした意図をもって,『エチカ』の冒頭で,本性が存在を含むものを自己原因という,といったのだと考えます。
 なぜスピノザがそのようにしたのかということは,スピノザが自己原因論争の目撃者であったからだというのが松田の推測です。スピノザはデカルトRené Descartesの哲学については詳しかったですし,何より『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』というのは,『省察Meditationes de prima philosophia』から多くのものを負っています。ですから少なくともスピノザが『省察』を読んでいたということは確実ですし,それに対する論駁と答弁,今回の考察と関連させていえば第一論駁と第一答弁,そして第四論駁と第四答弁のことは承知していたでしょう。そしてスピノザからみると,そこで交わされている論争というのが,自身の哲学からすると不毛に思えました。なのでスピノザはそうした論争に巻き込まれることを予め避ける狙いから,『エチカ』の冒頭で,神が自己原因であるということを肯定した,より正確にいうならそのことを肯定していると読解できるような宣言をしたのだと松田は説明しています。
 このように,自己原因論争と第一部定義一の間には,一定の関係があるのです。スピノザは論争の傍観者だったわけではありません。
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雲取賞&本性と存在

2021-02-18 19:20:41 | 地方競馬
 第3回雲取賞
 ヒートアップハートは立ち上がってしまい2馬身の不利。逃げたのはノートウォージーで2番手にランリョウオー。3番手にタブラオで4番手にヴァヴィロフとシビックドライヴ。この5頭は一団。2馬身差でギガキングとトランセンデンス。この後ろは7馬身くらい離れてワールドリングとビバジャンボ。3馬身差でヒートアップハート。2馬身差でベニスビーチとノットリグレット。4馬身差の最後尾にブラックネロと後ろの方はばらばらの追走。前半の800mは51秒6の超スローペース。
 3コーナーを回るとノートウォージーとランリョウオーは雁行に。内からタブラオが3番手になり,外のシビックドライヴが4番手でさらに外から追い上げてきたトランセンデンスが5番手に。雁行の2頭は並んだまま直線に入りましたが,手応えはランリョウオーの方が明らかに楽。この手応えの通り,追い出されるとランリョウオーが単独の先頭に立ち,そのまま抜け出して優勝。2着争いは大外を回ったトランセンデンスと内から伸びて盛り返したタブラオの接戦、写真判定の結果は外のトランセンデンスが3馬身差の2着。タブラオがハナ差で3着。
 優勝したランリョウオーは昨年10月の2歳オープン以来の勝利で南関東重賞は初勝利。ここまで7戦して4勝,2着3回。南関東重賞と大レースでの2着がありましたから,実績では上位の存在。アランバローズには勝てなかったのですが,ここは不在で,それ以外の勢力に対しては差をつけて勝つことができましたので,今後は打倒アランバローズが目標になってきそうです。ただレースを多く使っていますので,上積みはほかの馬より少なくなる可能性もあるでしょう。母の父はシンボリクリスエス。祖母は1996年にニュージーランドトロフィー4歳ステークスと秋華賞に勝ったファビラスラフイン
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は東京シンデレラマイル以来の南関東重賞19勝目。雲取賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東46勝目。雲取賞は初勝利。

 松田の論文を対象とした今回の論考の目的は達成されました。本来なら次の考察に移行するところですが,この考察の内容は,『エチカ』の構成と大きく関係していますので,そのことを簡単にいっておきましょう。
                                   
 スピノザは第一部定義一,すなわち『エチカ』の冒頭で,自己原因causam suiを定義しています。『エチカ』は第二部は定義Definitioの前に説明があり,第三部から第五部には序言があります。しかし第一部はそうしたものがありませんので,第一部定義一というのは文字通りの意味で『エチカ』の全文の冒頭に該当します。そしてそこでは,本性が存在を含むものcujus essentia involvit existentiamのことを自己原因というといわれています。
 第一部定義六では,神Deumが定義されています。そこでは,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamのことが神といわれるとされています。
 第一部定理七では,実体の本性に存在が属するということが証明されています。いい換えれば実体は自己原因であるということが証明されています。したがってこれらのことを合わせれば,神が自己原因であるということが分かります。『エチカ』では神が自己原因であるということは論証Demonstratioの対象となっていませんが,もしも『エチカ』の公理系に準じて神が自己原因であるということを論証せよといわれたら,このような手続きが必要であると僕は考えます。
 しかし,少なくともスピノザが『エチカ』を著したときの実情からすると,このような訴訟過程は不要であっただろうということが,ここまでの考察から察せられるのではないでしょうか。なぜなら,第四論駁と第四答弁から分かるように,アルノーAntoine AmauldもデカルトRené Descartesも,神の本性と神の存在は区別することができないということ,つまり神の存在が神の本性に含まれているということについては,一致した見解opinioを有していたからです。したがって,第一部定義一の文言からして,神が自己原因であるということをいっているということは,仮にデカルトやアルノーが『エチカ』を読んだとすれば,たちどころに理解できることだったのです。
 本性が存在を含むもの,という規定自体が,神の規定であったと考えられます。それは起成原因causa efficiensをもたないものという意味と同一だったと思われるからです。
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東京中日スポーツ賞金盃&一致と相違

2021-02-17 19:11:06 | 地方競馬
 第65回金盃。シュプレノンは小杉騎手から笠野騎手に変更。
 すぐにハルディネロが先頭に立っての逃げ。例によって前半は縦長になりましたが,2周目の向正面では馬群が凝縮。2番手にストライクイーグルで3番手にテルペリオンとノンコノユメ。5番手にマイネルアンファンとサウンドトゥルー。7番手にシュプレノンとハセノパイロでここまでは集団に。3馬身差でマンガンとチェスナットコート。2馬身差でトーセンブルとフレアリングダイヤ。1馬身差でサブノクロヒョウ。3馬身差でナムラアラシとなり,アルーリングトーンは大きく引き離されました。最初の1000mは62秒7のミドルペース。
 3コーナーでストライクイーグルは一杯。ノンコノユメが2番手になり,外からサウンドトゥルーが3番手に。さらにその外から追い上げてきたマンガンは,勢い余って直線の入口で外に膨れましたが,ほかの3頭とはこのときの脚色が違いすぎ,直線に入ってすぐに先頭に立つと,あとは後続を引き離していくばかりの圧勝。前の争いから一旦は2番手に上がったサウンドトゥルーをすぐ外から差したトーセンブルが9馬身差の2着。サウンドトゥルーが半馬身差で3着。
 優勝したマンガンは前々走の3歳オープン以来の勝利。南関東重賞は昨年の東京湾カップ以来の2勝目。この馬はおそらく現4歳ではゴールドホイヤーに次ぐ実力の持ち主。ゴールドホイヤーと同様に,古馬との対戦では苦戦しましたが,前走は2着に追い込み,慣れてきたところをみせていました。なのでここも優勝候補の1頭とは考えていましたが,これほどの差をつけたのは驚き。長い距離が合っていたということはあるでしょうし,展開が最も向いたという面もあったでしょう。末脚勝負型なので,取りこぼしもあるでしょうが,ゴールドホイヤーと同様に,この馬も順調なら今後も大きな活躍が見込めそうです。母の父はアグネスタキオン
 騎乗したのは川崎の短期免許で騎乗している吉原寛人騎手で,昨年の雲取賞以来の南関東重賞29勝目。第61回以来4年ぶりの金盃3勝目。管理している川崎の田島寿一調教師は南関東重賞3勝目。金盃は初勝利。

 デカルトの欺瞞に二面性があったということが,この当時の哲学者の中で,スピノザの思想に最も近づいていたのがデカルトRené Descartesであったということを説明しています。そしてこのことが,ここで自己原因論争を探求することによって,僕が示したかったことです。デカルトの哲学がスピノザの哲学からみて欺瞞的にみえるのは,その中には,異なっている部分もあるとはいえ,確かにスピノザの哲学に近いものが含まれているからです。逆にアルノーAntoine AmauldやレヴィウスJacobus Reviusuからみてデカルトの哲学が欺瞞的にみえるのは,その中には一致した見解opinioが含まれてはいるものの,正統的な神学的観点を踏み越えている部分も含まれていたからなのです。
                                         
 各々の一致点と相違点を簡単にまとめておきましょう。
 カテルスをはじめとして,自己原因論争においてデカルトの論敵となった神学者や思想家の見解では,自己由来性は消極的に解されなければならず,そのゆえに自己原因causa suiは起成原因causa efficiensではありませんでしたし,神Deusは自己原因でもありませんでした。一方,スピノザの哲学では,自己由来性は積極的に解されるべきものであり,その帰結として,自己原因は起成原因の一部をなすこととなり,神が自己原因であるという規定を受けることになります。このふたつは真逆の結論を導き出していますが,ひとつだけ一致点があります。それは自己由来性をどのように解釈するべきであるかということが,自己原因が起成原因であるか否かを結論づけ,ひいては神が自己原因であるか否かをも導出するという点です。
 デカルトは,自己由来性を積極的に解するという点で,スピノザに近付きました。しかし自己原因が起成原因であることと,神が自己原因であるということについては,類比的な意味においては肯定しているのですが,類比的な意味で肯定するということが含んでいる実際の意味は,それらの事柄を否定するということなのであり,この点ではまだ自身の論敵の側にとどまっています。しかし論敵の側の見解がスピノザの哲学と真逆であるというほどには,スピノザとの隔たりはありません。そしてその点において,デカルトはスピノザの先駆者であったといういい方も可能になるのです。
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品薄&欺瞞の二面性

2021-02-16 19:11:22 | 哲学
 僕たちの他人の欲望の表象は,他人の行動に左右されます。よって欲望cupiditasという感情の模倣affectum imitatioは,行動の模倣へ向います。なおかつ感情の模倣は,表象するimaginari頻度が多くなるほど強化されますので,多くの人間が同じ行動をとっているのを表象すると,自分のその行動へと向かう欲望は高まります。ですから何もなければ欲望していなかった行動に対しても,その行動をする人を多く表象すると,それを欲望すようになるという現実的本性actualis essentiaが人間にはあるということになります。
                                  
 さらにこれと異なった状況が,人にある行動へと向かわせる欲望を強化させます。それはその欲望を充足させるのが困難であると表象されるにしたがって,その欲望が強まるという人間の現実的本性です。人間にこうした現実的本性があるということは,第三部定理三二の意味として僕がかつて指摘したことから明らかだといえるでしょう。
 これらのことから,ある状況では,普段であればだれも強くは欲望しない事柄を,多くの人が欲望するようになる場合があるということが説明できます。あるいは,普段であればだれもそのような行動はとらないのに,ある場合には多くの人間が同じ行動をとる場合があるということが説明できます。多くの人が同じ行動をとると,その行動に向う欲望は強化され,かつ多くの人間が同じ行動をとることによって,強化されたその欲望を充足させることが困難になると表象されることにより,さらにその欲望は強まるからです。
 トイレットペーパーとかティッシュペーパーは,普段であればそれほどそれを入手する欲望を人間は強くは抱かないでしょう。なのでそれが品薄になるようなことは普通はありません。ところが昨年の緊急事態宣言が発出された時期にはそうした現象が生じました。それは上述したような人間の現実的本性が影響しているのです。多くの人間がそれを買い,そのことによってそれを入手することが困難になるために,それらを入手する欲望が普段に比べると格段に高まるからです。
 人間の受動状態の現実的本性は,その人間の外部の影響を受けて決定されます。こうした事情が,ある状況下では生じないような事象を発生させるということがあるのです。

 デカルトRené Descartesの主張がレヴィウスJacobus Reviusuからみるとどのようになるのかは,レヴィウスの立場とスピノザの立場が正反対なのですから,スピノザからみたのとは真逆になります。したがって,スピノザからみれば,デカルトは自己由来性を積極的に解しているのに,神Deusが自己原因causa suiであることを否定しまた自己原因が起成原因causa efficiensであることも否定しているので,きわめて欺瞞的だとみえているのですから,レヴィウスからすると,デカルトは神が自己原因であることを否定しまた自己原因が起成原因であるということも否定しているのに,自己由来性,とくに神の自己由来性について積極的に解しているので,きわめて欺瞞的だということになるのです。つまりレヴィウスにとって何が重要であったのかといえば,自己由来性を積極的に解するべきなのか,それとも消極的にすなわち起成原因を有さないという意味に解するべきなのかという点だったのです。いい換えれば,神が自己原因であるか否かとか,自己原因が起成原因であるか否かといったことは,すべてそこから発生してくるのです。そしてこの立場は,レヴィウスだけではなく,この自己原因論争でデカルトと対峙した,カテルスJohannes CaterusやアルノーAntoine Amauldにとっても同じだったといえるでしょう。
 もっというと,この点だけでいうと,スピノザともレヴィウスやカテルス,アルノーの立場は一致していたということができます。なぜなら,もしも自己由来性を積極的に解するならば,神は自己原因であって自己原因は起成原因であるということが帰結するという点で,スピノザとレヴィウスたちは一致しているといえるからです。その点で一致しているから,神が自己原因であることそして自己原因が起成原因であることを肯定する立場のスピノザからも,それを否定するレヴィウスたちの立場からも,デカルトが詭弁を弄しているようにみえることになるからです。
 これでみれば分かるように,僕が「デカルトの欺瞞」といっている欺瞞には,二面性があったということになります。つまりそれは,単にスピノザの立場からみて欺瞞的であったわけではありません。カテルスやアルノーそしてレヴィウスからみても,デカルトは欺瞞的だったのです。
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王将戦&レヴィウスの解釈

2021-02-15 19:27:33 | 将棋
 一昨日と昨日,立川で指された第70期王将戦七番勝負第四局。
 永瀬拓矢王座の先手で,先手が工夫を凝らした手順の末に,後手の渡辺明王将の雁木に先手の矢倉という戦型になりました。この将棋は中盤で先手が十字飛車で攻める筋を後手が見落としていたためにその手が決まり,差が開いてそのまま決着するということに。本人が代案をふたつ示していますので,ここでは60手目が☖7五角だった場合を考えてみます。
                                        
 これでも先手は十字飛車を狙うことはできます。☗2四歩は☖同歩の一手でしょう。そこで☗4四桂。ここで攻め合いを狙うのもありそうですが仮に☖同銀と取ってしまい☗2四飛の十字飛車が実現したとします。この場合はたぶん☖2三歩より☖3一王の方がよさそうなのでそう指したとして☗4四飛と進みます。
                                        
 第2図は後手が角を成ることもできますし,☖5三桂を狙った指し方もありそう。また先手から実戦のような後手の飛車を攻めていく指し方もありませんから,これは後手が互角以上に戦えるでしょう。なので先手は第2図に進めるのはあまりよくなさそうで,第1図では☗6六歩と受けておくのが穏当でしょう。それに対してはまた☖4二角ないしは☖5三角と引くことによって十字飛車を防ぐことができますので,まだまだこれからの将棋ということになりそうです。
 永瀬王座が勝って1勝3敗。第五局は来月1日と2日に指される予定です。

 デカルトRené DescartesとレヴィウスJacobus Reviusuの論争において,デカルトが神Deusを自己原因causa suiであると規定しているか否かという点に限れば,デカルトは神を自己原因であるとは規定していません。同時にデカルトは自己原因が起成原因causa efficiensであるということも認めていません。ですからこの部分が論争の焦点であるとみる限り,デカルトがいっていることが正しいといわざるを得ません。ですが,デカルトは神が自己原因であると規定しているとレヴィウスがいうとき,その解釈が絶対的に誤っているかといえば,必ずしもそうではないと僕は考えます。そしてこのことは,スピノザの哲学からみたとき,デカルトは詭弁を弄しているようにみえるということと関係するのです。
 デカルトは,神の本性essentiaの広大無辺性が,神が存在するための起成原因をもたない理由であるといっています。いい換えれば,神の本性と神の存在existentiaは分けて理解することはできないといっています。そしてこのとき,神が存在する理由であるとされている神の本性の広大無辺性は,たとえ人間には認識するcognoscereことができないものであるにしても,この上なく積極的なものといっています。つまり神の存在の自己由来性になっている神の本性の広大無辺性は,積極的なものなのです。したがって人間にはそれが何かは不明だとしても,それが積極的であると解することは許されるのです。つまり神の自己由来性を積極的に解釈することは肯定されます。
 このことから何が帰結するかといえば,本来は神の本性の広大無辺性が,神の存在の起成原因であるということでなければならない筈です。少なくともスピノザはそのように主張していて,そのゆえにスピノザの立場からすると,デカルトが神の存在の自己由来性について積極的な解釈を採用しているにも関わらず,神が自己原因であること,そして自己原因が起成原因であるということをデカルトが頑なに認めようとしない主張をすることに対して,デカルトはいかにも詭弁を弄しているようにみえるのです。
 しかし,このことは逆の立場,つまりスピノザからは正反対の立場からも,同じようにみえることになると僕は考えます。つまりレヴィウスからもそのようにみえると思うのです。
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春日賞争覇戦&奇怪な意見

2021-02-14 18:47:49 | 競輪
 奈良記念の決勝。並びは宿口‐武藤の埼玉,稲毛‐山田‐村上の近畿,中井俊亮‐中井太祐の兄弟,松本に佐藤。
 中井太祐がスタートを取って中井俊亮の前受け。3番手に稲毛,6番手に松本,8番手に宿口という周回に。残り3周のホームから宿口が上昇。松本が続きました。バックで稲毛が少し引き,3番手が宿口,5番手に内で稲毛,外に松本が併走という隊列に変化。残り2周のホームの入口から松本が動き,中井俊亮を叩いて前に。外の松本が動いたので稲毛も発進。松本を叩いて先行。打鐘前のバックでは先頭に稲毛,4番手に松本,6番手に中井俊亮,8番手に宿口という一列棒状に。最終周回のホームから中井俊亮が発進したのを見て,松本が合わせて発進。中井俊亮は浮いてしまい脱落。バックで松本が迫ってきたところで稲毛の後ろから山田が番手捲りを敢行。松本は山田の前には出られませんでした。そのまま先頭に立った山田が後ろを突き放していく形でのフィニッシュとなり優勝。捲れなかった松本も最後まで踏み続けて1車身半差の2着。外からよく伸びた武藤が4分の3車身差の3着。中井俊亮が浮いた後,内を回って最終コーナーで山田マークの村上をどかした中井太祐が1車輪差で4着。
 優勝した京都の山田久徳選手は昨年7月の富山のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2017年の佐世保記念以来となる2勝目。このレースは先行選手が記念競輪で優勝候補というクラスではありませんでしたから,展開次第で混戦と思われました。稲毛がわりと早い段階から駆けていき,松本の捲りに対して遠慮せずに番手から発進したことで,山田にチャンスが回ってくることに。中井太祐の動きも,結果的には山田の優勝を利するような影響を与えることになりました。とにかく予想が難解なレースだったという印象です。

 確かにデカルトRené Descartesは,神Deusが自己原因causa suiであるといっていませんし,自己原因が起成原因causa efficiensであるともいっていません。デカルトは自己由来性を積極的に解しますから,神は神自身の広大無辺性によって存在するというとき,この広大無辺性は神にとって積極的なもの,人間には認識するcognoscereことができない積極的なものなのですが,この広大無辺性は神の存在existentiaの起成原因ではなく,神が起成原因を有さずに存在する理由であるといっているのです。ですから確かにレヴィウスJacobus Reviusuがどれほどデカルトの著作を調べたところで,レヴィウス自身がいっていること,すなわちデカルトが神は自己原因であるといっていることは見出すことができないでしょう。
 このデカルトの反論からも分かるように,デカルトにとって何が重要であったのかといえば,神が自己原因であるか否かということと,自己原因が起成原因であるか否かということだったのであって,もしもそうした見解opinioがあるのであれば,それは奇怪な見解であるとデカルトはいっているのです。この奇怪な見解というときにデカルトが念頭に置いていたのは,哲学的に奇怪という意味ではなく,神学的に奇怪であるということだったと僕は推測します。つまりデカルトは,神が自己原因であるということと,自己原因が起成原因であるということを否定すれば,自己由来性を積極的に解しても,神学的観点を保守することができると考えていたのでしょう。
                                        
 しかし,レヴィウスやアルノーAntoine Amauldにとってはそうではありませんでした。かれらにとっては,自己由来性を積極的に解することと,神を自己原因であると規定することは,同じ意味だったのです。レヴィウスはこのデカルトの反論を受けた後で,デカルトの『方法序説Discours de la méthode』に対する反論の書を出版しているのですが,その中でも,デカルトは自己由来性を積極的に解することによって神を自己原因であると規定したという主旨のことをいっています。つまり,デカルトが神を自己原因であるということや自己原因が起成原因であるということが奇怪な意見であるといっているにしても,自己由来性を積極的にデカルトが解している以上,それ自体がレヴィウスにとって奇怪な意見だったのです。
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