スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&3種類の無限

2020-12-31 19:13:59 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた第44回東京2歳優駿牝馬
 ジェネシスムーンは発馬のタイミングが合わず2馬身の不利。逃げたのはケラススヴィア。2番手にセカイノホシで3番手にプレストレジーナ。4番手のサブルドールとレディブラウンの5頭が一団。2馬身差でソロユニットとムーンライトキッスとホーリーナイトキス。2馬身差でディアリッキーとカイカセンゲン。1馬身差でケープホーンとベツセタイ。1馬身差でギルランディ―ナとマニエクセル。4馬身差でジェネシスムーンで最後尾にファストトラベルという隊列に。前半の800mは51秒3のミドルペース。
 3コーナーを回るとケラススヴィア,セカイノホシ,レディブラウンの3頭が雁行。直線の入口でケラススヴィアは少し外に出し,セカイノホシは後退。開いたインコースを突いたのがプレストレジーナ。ここからケラススヴィアがこの2頭を引き離していき,楽に逃げ切って優勝。4コーナーを膨れるように回ったサブルドールがレディブラウンの外から伸びて3馬身半差の2着。その後ろからさらに外を追い上げたディアリッキーが4分の3馬身差で3着。内のプレストレジーナが半馬身差の4着でレディブラウンはハナ差の5着。
 優勝したケラススヴィアローレル賞に続いての南関東重賞制覇。デビューからの連勝を4に伸ばしました。ここは強敵となりそうだったのがソロユニットでしたが,距離の経験ではこちらが上回っていました。必ずしも距離だけが原因だったとは思いませんが,ソロユニットが凡走という結果になりましたから,この馬が快勝となったのは当然であるように思います。逃げなければいけないという馬ではありませんから,来年のクラシックはこの馬が中心になっていくことでしょう。父はサウスヴィグラス。母の父はネオユニヴァース。祖母の3つ下の半弟に2006年に武蔵野ステークスを勝ったシーキングザベスト。Cerasus Viaはラテン語で桜の道。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手ロジータ記念以来の南関東重賞41勝目。第35回37回に続き7年ぶりの東京2歳優駿牝馬3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞44勝目。東京2歳優駿牝馬は初勝利。

 同じものについてそれが無限infinitumでもあるし有限finitumでもあるということは,本来的にはあり得ません。しかしサルヴィヤチSalvyachiはそのような場合があると言っています。実はスピノザもこれと似たようなことをいっているのです。それはスピノザがマイエルLodewijk Meyerに送った書簡十二においてです。これは前回の考察の中でも触れたことですが,改めて確認しておきます。
                                        
 スピノザはこの書簡の中で,無限を3種類に分類しています。第一のものはその本性naturaの上で無限です。こうしたものはいかなる仕方でも有限であると考えるconcipereことができません。第二のものはその原因causaによって無限です。こうしたものはそれが原因から捨象あるいは抽象化されれば,部分に分割することが可能です。すなわち有限であると認識するcognoscereことが可能です。第三のものはいかなる数によっても算定され得ないがゆえに無限です。こうしたものの間では,一方が大で他方が小と認識することが可能になります。なぜなら,数で表現され得ないからといって,そのすべてが等しくなければならないというものではないからです。
 この書簡の中では触れられていませんが,第一のものはスピノザの哲学では神Deusおよびその属性attributumに該当します。つまり神あるいは各々の属性は,いかなる仕方でも分割することができません。スピノザの哲学では,物体的実体substantia corporeaは延長の属性Extensionis attributumに該当します。よってスピノザの哲学では,物体的実体といえどもそれを部分に分割することはできません。これはスピノザが第一部定理一三系でいっていることです。
 第二のものは各々の属性の無限様態modus infinitusに該当します。このことは第一部定理二一と第一部定理二二で,直接無限様態と間接無限様態は神の属性を原因として無限であるといわれていることと,第一部定理二三で,このふたつ以外に無限様態は存在しないといわれていることから分かります。つまり無限様態は,それが様態となっている属性を原因として無限であるのですが,もしその属性という原因から抽象化されれば,部分に分割され,有限であると認識されることになるのです。
 第三のものはスピノザも書簡でいっているように,実際には無限ではなく,無際限indefinitumあるいは無限定indefinitumを意味します。
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東京シンデレラマイル&連続体の部分

2020-12-30 18:58:26 | 地方競馬
 第14回東京シンデレラマイル。サラーブは右の前脚の蹄の底の内出血により競走除外となって15頭。
 ルイドフィーネは少し立ち上がって1馬身の不利。カラースキームが2馬身くらいのリードで逃げる形。2番手にレイチェルウーズ。3番手にラインカリーナとアクアリーブル。5番手にダノンレジーナ。6番手にポッドギルとルイドフィーネ。8番手にマルカンセンサー。9番手にペタルーダ。10番手にロイヤルビクトリーとナンヨーオボロヅキとサルサレイア。13番手にエースウィズ。14番手にゼットパッション。最後尾にサンルイビルという隊列。前半の800mは51秒0のスローペース。
 3コーナーからカラースキーム,レイチェルウーズ,ラインカリーナの3頭が雁行に。ダノンレジーナとアクアリーブルがその後ろ。直線に入る前にレイチェルウーズは脱落。カラースキームが少し外に出したので,ダノンレジーナはその内に進路を取り,アクアリーブルはラインカリーナの外へ。ダノンレジーナは直線の入口のところでは手応え十分で進路を探している感じでしたので,それが確保されて抜け出すことに成功し優勝。最内を回って追い上げてきたマルカンセンサーが,外で競り合うラインカリーナとアクアリーブルを内から差して2馬身差で2着。2頭の競り合いを制したアクアリーブルが半馬身差の3着でラインカリーナは半馬身差の4着。
 優勝したダノンレジーナは前走のこのレースのトライアルから連勝。南関東重賞は初勝利。この馬はJRAで1戦だけして佐賀に移籍。佐賀では5連勝して南関東へ。転入後も6連勝しました。2着を挟んで南関東重賞で3着。そこからまた連勝。2着の後に大レースが4着。前走を勝ってここに出走ということで,実績は下でしたが能力は上位。ですから順当な勝利といえるでしょう。現状は南関東の牝馬ではトップだと思います。父は2010年にラジオNIKKEI杯2歳ステークス,2013年にアメリカジョッキークラブカップを勝ったダノンバラードでその父はディープインパクト。祖母の3つ上の半姉がドバイソプラノ。Reginaはイタリア語で女王。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は京浜盃以来の南関東重賞18勝目。第2回以来12年ぶりの東京シンデレラマイル2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞43勝目。第10回以来4年ぶりの東京シンデレラマイル2勝目。

 有限finitumであるものの性質を無限infinitumであるものに押し付けてはならないというテーゼは,人間の性質を神Deusの性質に押し付けてはならないというテーゼに直結します。よってガリレイGalileo Galileiが数学について考えていることは,スピノザが哲学としてあるいは形而上学として考えていることに直結するのです。そしてスピノザは,哲学あるいは形而上学がその他のあらゆる学知scientiaを下支えすると考えているのですから,数学においても,有限であるものの性質を無限であるものに押し付けてはならない,いい換えるなら,無限であるものの本性naturaは有限であるものの本性によって説明されることはできないということを肯定するでしょう。したがって,河合はガリレイもスピノザも無限のパラドックスに気付いていたということに両者の一致をみているのですが,僕は両者の一致はおそらくそこだけでないだろうと推測します。
                                        
 さらにこれと関連した言及が『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』にあると河合のコラムに指摘されています。弟子がサルヴィヤチSalvyachiに対して,連続体の部分は有限個であるのか無限個であるのかを問うている部分です。
 この質問に対してサルヴィヤチは,それは有限個でもあるし無限個でもあると解答しています。それは可能性においては有限であり,現実的には無限であるとサルヴィヤチすなわちガリレイは考えているからです。連続体の部分というのは分割される前は可能性として無限なのであり,分割されれば現実的に有限であるというのがこのことの具体的な意味です。
 ここでは数学において連続体というのが何を意味するのかは考察の対象から外します。これは僕には荷が重いですし,僕の関心もそこにあるわけではないからです。ここで着目したいのは,ガリレイがある同じものについて,それは無限でもあるし有限でもあるといっている点です。本来はあるものが無限でもあるし有限でもあるということはあり得ません。そんなことはガリレイだってよく分かっていた筈です。しかしあえてそのようにサルヴィヤチに言わせているのは,あるものが有限であるか無限であるかということが,人間がそれをどう認識するcognoscereかによって変わり得るとガリレイは考えていたからだと思うのです。
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農林水産大臣賞典東京大賞典&哲学的敷衍

2020-12-29 18:57:04 | 地方競馬
 第66回東京大賞典
 逃げたのはワークアンドラブ。向正面の入口までに4馬身くらいのリードを奪いました。2番手にカジノフォンテン。3番手にモジアナフレイバーとダノンファラオ。5番手にテーオーケインズとオメガパフューム。7番手にヒストリーメイカー。8番手にノンコノユメとミューチャリーとクロスケ。11番手にウェスタールンド。12番手にハナズレジェンドとデルマルーヴルとノーブルサターン。15番手にナイトオブナイツ。最後尾がエイシンスレイマン。15頭は一団でした。前半の1000mは64秒9の超スローペース。
 3コーナーではワークアンドラブのリードは2馬身ほどに。カジノフォンテンが差を詰めにいき,外からダノンファラオとオメガパフューム。直線に入るとワークアンドラブは一杯になってカジノフォンテンが自然と先頭に。ダノンファラオも一杯となり外からオメガパフュームが2番手に。この2頭の競り合いに,さらに内からヒストリーメイカーとテーオーケインズ,外からウェスタールンドとミューチャリーも追い上げてきました。しかし追い上げてきた馬たちは前で競り合う2頭までは追いつけず。粘るカジノフォンテンを外から捻じ伏せたオメガパフュームが優勝。早め先頭からよく粘ったカジノフォンテンがクビ差で2着。オメガパフュームの外のウェスタールンドが半馬身差の3着。最内のヒストリーメイカーがハナ差で4着。大外のミューチャリーがクビ差の5着でヒストリーメイカーとカジノフォンテンの間のテーオーケインズがハナ差の6着。大接戦となったのは,ペースの影響でしょう。
                                   
 優勝したオメガパフュームは平安ステークス以来の勝利。大レースは昨年の東京大賞典以来となる4勝目。東京大賞典は第64回も制していてこれで三連覇。ここは得意とするコースで実力は最上位。ですから順当な優勝といっていいでしょう。能力的に対抗できそうだったのはウェスタールンドでしたので,その間に入ってきたカジノフォンテンは大健闘といっていいでしょう。僕が思っていたよりずっと力をつけているようです。母の父は第48回を制したゴールドアリュール。従姉に一昨年の愛知杯を勝ったエテルナミノル
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手はNHKマイルカップ以来の大レース制覇。三連覇で東京大賞典3勝目。管理している安田翔伍調教師は昨年の東京大賞典以来の大レース4勝目。三連覇で東京大賞典3勝目。

 サルヴィヤチSalvyachiは,有限finitumであるものの性質を無限infinitumであるものに押し付けてはならないといっていました。ガリレイGalileo Galileiがサルヴィヤチにそういわせたとき,線の中の点の数の無限量は,長い線ほど大きくなり,短い線ほど少なくなるというパラドックスが発生する要因がそこにあると考えていたと思われます。僕はサルヴィヤチのこの発言は,その意味をどう解するにせよ,スピノザは肯定するaffirmareであろうといいました。実際のところ,有限であるものの性質を無限であるものに押し付けてはならないという言明,いい換えるなら,無限であるものの性質は有限であるものの性質によって解することはできないという言明は,単に数学的に解釈することができるような言明ではなく,哲学的あるいは形而上学的にも解釈することができる言明であるということができるでしょう。そしてこの言明を,哲学的に解釈したとき,スピノザはそれを肯定するであろうということが,僕がいいたかったことなのです。
 河合によれば,ガリレイとスピノザの無限の解釈の仕方には相違があるのでした。僕はこの相違を,ガリレイとスピノザの志向性の相違に由来するのではないかと想定しました。というか,ふたりの志向性の相違というものは明らかなのであるから,無限の把握の仕方にも相違が生じてくるのは当然であるといいました。もしガリレイがこの言明を,そのまま哲学的な方面に敷衍していったならば,そこではスピノザが解釈するのと同じような考え方が生じてくるのではないかと僕には思えるのです。僕はこの点において,実はガリレイとスピノザとの間に,概念notioの近似性があったのではないかと思っています。
 スピノザの哲学の重要なテーゼのひとつに,神Deusからの人格の剥奪ということがあります。有限なものの性質を無限であるものに押し付けてはいけないというガリレイのテーゼは,神から人格を剥奪すること,すなわち神に人格を付与してはならないというスピノザのテーゼを,肯定し得るようなテーゼであると僕は考えます。なぜなら,神は無限であって人間は有限なのですから,人間の性質を神に押し付けることを,ガリレイは禁じているのだと解することができるからです。
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有馬記念&実体としての量

2020-12-28 19:18:11 | 中央競馬
 グランプリの昨日の第65回有馬記念
 モズベッロは発馬のタイミングがまったく合わずに4馬身の不利。キセキは発馬後の加速が鈍く2馬身の不利。少しばかり枠に入るのを嫌っていたバビットの逃げ。2番手にブラストワンピースとオーソリティとフィエールマン。5番手にワールドプレミアとクレッシェンドラヴとオセアグレイトとカレンブーケドール。9番手にペルシアンナイトとラッキーライラック。11番手にラヴズオンリーユーとクロノジェネシス。13番手にキセキ。14番手にユーキャンスマイルとサラキア。最後尾にモズベッロという隊列。16頭が凝縮してのレースになりました。最初の1000mは62秒2の超スローペース。
 3コーナーではフィエールマンが単独の2番手。3番手にカレンブーケドールとクロノジェネシスとなり,キセキが外から5番手まで追い上げてきてその後ろにオーソリティとラッキーライラック。直線に入るとすぐにフィエールマンが先頭に。これを外からクロノジェネシスが追ってきて,フィニッシュを前に差し切って優勝。後方から大外を鋭く伸びたサラキアがクビ差で2着。一旦先頭のフィエールマンはクビ差で3着。
 優勝したクロノジェネシス宝塚記念以来の勝利で大レース3勝目。今年はジャパンカップの上位3頭が出走しなかったため,例年よりややレベルが下がりました。僕はワールドプレミア,クロノジェネシス,フィエールマンの3頭が優勝候補と見立てていましたが,ワールドプレミアは3コーナーでレースが動いたときに位置取りを下げざるを得ず,それが響いて5着が精一杯。フィエールマンとクロノジェネシスの勝敗を分けたのはおそらくペースで,フィエールマンにとってはもっとペースが速くなり,スタミナを問われる度合いが高くなった方がよかったのだろうと思います。2着のサラキアは無欲の追い込みといった感はあり,これもペースが向いた面はあるでしょうが,このメンバーでここまで走ったのは高く評価しなければなりません。ペースがあまり上がらないレースが増加していることと,斤量面で有利な牝馬の活躍が目立ってきていることの間に,いくらかの因果関係があるのではないかと僕はみています。母の父はクロフネ。3代母がラスティックベル。ひとつ上の半姉に一昨年の紫苑ステークス,昨年のヴィクトリアマイルと富士ステークス,今年の札幌記念と香港カップを勝っている現役のノームコア。Genesisは創世記。
 騎乗した北村友一騎手はJBCクラシック以来の大レース7勝目。有馬記念は初勝利。管理している斉藤崇史調教師は宝塚記念以来の大レース5勝目。有馬記念は初勝利。

 僕の考えでいえば,スピノザが実体substantiaとしての量といういい方をするとき,ここまでに示してきたこと,すなわち実体と別の実体の区別distinguereは,理論の上で実在的区別であるという点に気を付けておかなければならないのです。それは単に無限infinitumとしての量というのを意味するわけではなく,あくまでも実体としての量なのです。すなわち,無限様態modus infinitusは無限であったとしても,同じ属性のほかの様態とは様態的に区別されます。そして様態的区別は数的区別であり得るのです。実際には第一部定理二一と第一部定理二二から分かるように,各々の属性attributumの直接無限様態も間接無限様態もひとつしかないのですから,ある属性の直接無限様態がほかの直接無限様態と数によって区別されるということはありませんし,このことは間接無限様態の場合も同じです。しかし少なくとも論理的には数的区別は様態的区別なのですから,実体としての量ということの中には,それが数的な意味ではないものとしての量ということが含意されていると考えるべきなのです。僕は前に,実体としての量といわれているからにはそれは量であることは否定できないけれども,一方で数ではないといういい方をしましたが,そこで僕がいいたかったことは,概ねこのようなことだったのです。
                                   
 数というのは必ず分割することが可能なものです。このことを僕たちは直観的に理解することができるでしょう。また逆に,数というのは必ず別の数と組み合わせてより大きな数を構成します。しかし実体としての量というのは,このどちらにも該当しません。実体としての量というのは分割することが不可能な量のことを意味していると同時に,それを超越する,いい換えればそれを限定するような量というのが存在しないような量のことをいうのです。これは,数というのは無際限に分割できるしまた無際限に増加させていくものであるのに対し,実体としての量は無限であるという意味において,無限と無際限indefinitumの相違も同時に意味しています。
 これがスピノザの無限のパラドックスの解消の仕方です。しかしサルヴィヤチSalvyachiすなわちガリレイがいっていることは,単に数学的意味に限定されるわけではないと僕は思います。
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ホープフルステークス&実体の区別

2020-12-27 19:02:59 | 中央競馬
 昨日の第37回ホープフルステークス
 マカオンドールは立ち上がってしまい1馬身の不利。かなり口向きの悪さを露呈しながらランドオブリバティがハナへ。2番手にはオーソクレースとタイトルホルダー。4番手にダノンザキッドとバニシングポイント。6番手にホールシバン。7番手にヴィゴーレとアドマイヤザーゲ。2馬身差でヨーホーレイクとシュヴァリエローズ。2馬身差で゙テンカハル。1馬身差でアオイショー。4馬身差でマカオンドール。2馬身差でセイハロートゥユー。6馬身差の最後尾にモリデンアローという隊列。前半の1000mは61秒9のスローペース。
 3コーナーでランドオブリバティとバニシングポイントが並び,3馬身差でオーソクレースとタイトルホルダーとダノンザキッドが追う形に。逃げたランドオブリバティはここでも口向きの悪さを露呈し,最終コーナーで大きく外に逃避してしまい,外埒にぶつかりそうなところで落馬。残る4頭の争いとなり,大外のダノンザキッドが先頭に。内から2頭目をオーソクレースが追い上げてきたものの届かず,ダノンザキッドが優勝。オーソクレースが1馬身4分の1差で2着。勝ち馬を追うようにその外から伸びてきたヨーホーレイクが半馬身差で3着。
 優勝したダノンザキッドは6月に新馬を勝って休養。先月の東京スポーツ杯2歳ステークスで重賞制覇を達成。これで3戦全勝での大レース制覇。ここは無敗馬が3頭いて,1頭は外に逃避したため競馬にならず,もう1頭が2着でしたから,完走した馬だけでは能力通りといえそう。こちらの方が外を回ったわけですから,着差以上の評価が必要かもしれません。来年が楽しみになる1頭で,この時期に2000mを克服したのなら,2400mまでは大丈夫ではないかと思います。父はジャスタウェイ
                                        
 騎乗した川田将雅騎手は先週の朝日杯フューチュリティステークスに続いての大レース24勝目。第31回以来6年ぶりのホープフルステークス2勝目。管理している安田隆行調教師は先々週の香港スプリントに続いての大レース17勝目。国内ではJBCレディスクラシック以来。ホープフルステークスは初勝利。

 スピノザの哲学では,第一部定理一四から分かるように,自然Naturaのうちに存在する実体substantiaというのは神Deusだけです。いい換えれば複数の実体が存在することはありません。ですからこれから考えることは実在的な意味としては無効なのですが,論理的にはここで示したい事柄に対してきわめて有効ですから,その限りでの考察であると理解しておいてください。
 もしも複数の実体が存在すると仮定した場合,ここでは分かりやすくふたつの実体AとBが存在すると仮定しますが,この場合には実体Aと実体Bの区別distinguereは実在的区別です。いい換えるなら,実体Aと実体Bは数によっては区別することができません。ふたつの実体が存在するといっておきながら,それらが数によっては区別することができないというのは矛盾していると思われるかもしれませんが,これはいい回し上のことにすぎません。実体Aと実体Bが存在すると仮定した場合は,本来的な意味においてはふたつの実体が存在するといういい方は不可能なのであり,あくまでも単に実体Aと実体Bが存在するというだけのことなのです。
 なぜそのようにいえるのかというと,第一部定理五により,この場合には実体Aと実体Bは異なった本性naturaによって構成されることになるからです。実体の本性のことを属性attributumというのですから,これは実体Aを構成する属性と実体Bを構成する属性は,異なった属性であるといっているのと同じです。よって実体Aと実体Bは共通点を有しません。僕は同じ思惟の属性Cogitationis attributumに属するものであっても,もしも観念対象ideatumの属性が異なればそれらは実在的に区別されると考えていますが,属性が相違したものの間の区別は一様に実在的区別です。したがって,もしもどんなに多くの実体が存在すると仮定されても,それらは一様に実在的に区別されなければならないのです。いい換えればどれほど多くの実体の存在を仮定しても,それらは数によって区別されることはありません。第一部定理八が示しているように,どのような実体も無限infinitaでなければならないのですが,同様に無限である無限様態modus infinitusが,ある場合には様態的に区別されるのに対し,実体と実体が様態的に区別されるということはないのです。
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農林水産省賞典中山大障害&数的区別でない区別

2020-12-26 18:54:56 | 中央競馬
 第143回中山大障害
 発馬直後はストレートパンチとビッグスモーキーが並んで逃げる形。ストレートパンチの方が単独のハナに立ち,ブライトクォーツ,シンキングダンサー,ビッグスモーキーという順になりました。大竹柵でシンキングダンサーがストレートパンチに並び掛け,その2頭で3馬身くらいのリードに。3番手にはケンホファヴァルトが上がってきて,4番手にブライトクォーツ。その後の逆回りコースでシンキングダンサーが単独の先頭になり,4馬身くらいのリードで大生垣に。2番手はケンホファヴァルトで内からメイショウダッサイが3番手まで進出。
 最終周回の向正面に入るとシンキングダンサーとケンホファヴァルトは併走となり,4馬身差でメイショウダッサイ。4番手にブライトクォーツ。最終コーナーの手前でケンホファヴァルトが単独の先頭に立ち,そのまま直線に。追い上げてきたメイショウダッサイは勢い余って最終コーナーで外に膨れましたが,直線は馬場の中央からよく伸び,粘るケンホファヴァルトを差し切って優勝。ケンホファヴァルトが1馬身4分の3差で2着。外埒に近いくらいの大外から一気に追い込んできたタガノエスプレッソがクビ差で3着。最終コーナーでやや不利を受ける形になったブライトクォーツは1馬身半差で4着。
 優勝したメイショウダッサイは重賞3勝目で大レース初制覇。ここはこれまでのレースの内容から,この馬とブライトクォーツの2頭が有力ではないかとみていました。昨年の中山大障害ではブライトクォーツが,今年の中山グランドジャンプではこちらが先着していたのですが,昨年の中山大障害が良馬場で今年の中山グランドジャンプは不良馬場でしたので,今日の馬場状態からはまたブライトクォーツが先着するというケースもあり得るとみていたのですが,この結果からみる限り,今年に入って力関係が逆転していたとみるのがよさそうです。ただこちらの方が年長ですから,この関係が来年以降も続くかどうかは微妙なところもあるかもしれません。父はスズカマンボ。母のふたつ上の半姉に2002年にフェアリーステークスを勝ったホワイトカーニバル。獺祭は日本酒のブランド名。
 騎乗した森一馬騎手はデビューから9年9ヶ月半で大レース初勝利。管理している飯田祐史調教師は開業から6年9ヶ月半で大レース初勝利。

 スピノザはシュラーGeorg Hermann Schullerに宛てた,事実上はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに宛てた書簡六十四の中で,延長の属性Extensionis attributumについては直接無限様態と間接無限様態を示しています。それによれば,延長の属性の直接無限様態は運動motusと静止quiesで,間接無限様態は同一に止まる全宇宙の姿facies totius Universiです。このとき,運動と静止が全宇宙の姿といかなる区別distinguereによって区別されるのかといえば,様態的区別です。これは,同じ属性attributumに属する様態間の区別を様態的区別であるということから明白ですが,ここでは次のように説明します。
                                        
 第一部定理二二が意味しているのは,ある属性の間接無限様態の起成原因causa efficiensはその属性の直接無限様態であるということです。したがってこれを延長の属性に当て嵌めれば,全宇宙の姿の原因は運動と静止であることになります。次に,第一部公理四が意味しているのは,結果effectusの認識cognitioは原因の認識に依存している,いい換えれば,結果を十全に認識するcognoscereためにはその結果の起成原因が十全に認識されていなければならないということです。よって,全宇宙の姿の十全な観念idea adaequataが何らかの知性intellectusのうちにあるとした場合は,その同じ知性のうちに運動と静止の十全な観念があるのでなければなりません。また逆に,運動と静止をある知性が十全に認識した場合には,その知性は全宇宙の姿を十全に認識するということになります。このとき,全宇宙の姿と運動と静止の関係は,第一部公理五には該当していないということになります。いい換えれば,全宇宙の姿と運動と静止との間には,ある共通点があるということになります。共通点を有する様態間の区別は実在的区別ではなく様態的区別でなければなりません。そしてこの関係は,延長の属性にだけ該当するわけではなく,すべての属性に該当します。したがって一般的に,ある属性の直接無限様態とその属性の間接無限様態の区別は,実在的区別ではなく様態的区別であるということが帰結します。
 直接無限様態も間接無限様態も,有限finitumではなく無限infinitumです。したがって,無限であるものの間の区別,いい換えれば数的区別ではないような区別のすべてが実在的区別であるというわけではありません。ですが,実体substantiaの場合にはこのことは妥当しないのです。
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ウェイブウインド&数的区別

2020-12-25 19:08:52 | 血統
 先週の阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったソダシの基礎輸入牝馬は,ソダシの3代母でアメリカ産のウェイブウインドです。ファミリーナンバー2-w
                                        
 繁殖生活は日本でのみ送りました。初年度からサンデーサイレンスを種付けされましたが,白い馬が産まれました。サンデーサイレンスは青鹿毛でウェイブウインドは鹿毛。この場合は葦毛が産まれる可能性はなく,白い馬が産まれたのは突然変異。白毛として登録されました。この馬は繁殖牝馬となった後も,3年連続で白毛馬を産みました。その3番目の産駒がユキチャン。2008年に関東オークスを勝ち,翌年に川崎に移籍。その年の暮れにクイーン賞で重賞2勝目をあげ,翌年のTCK女王盃も勝ちました。この年のNARグランプリの最優秀牝馬を受賞。今年の小倉2歳ステークスとファンタジーステークスを勝っている現役のメイケイエールは,ユキチャンの孫になります。
 ユキチャンの4つ下の全妹も白毛。この馬の産駒に昨年のレパードステークスを勝っている現役のハヤヤッコがいます。
 ソダシの母はユキチャンの7つ下の半妹で白毛。ソダシも白毛に出て,白毛馬としては初めて日本の大レース制覇を達成しました。
 ウェイブウインドは1991年産まれで,初産駒が産まれたのは1996年。一族の歴史は概ね25年くらいで,ユキチャンが初めて重賞を勝ってからだと12年。大レース制覇を達成したように,活力はむしろ増しているとみられる牝系なので,これからも活躍馬が出るのではないかと思われます。

 スピノザは第一部定理八備考二およびその基となったと僕が想定しているフッデJohann Huddeからの質問に答えた書簡三十四の中で,同じようなことを主張しています。それはある事物の定義Definitioは定義された事物の本性essentiaだけを含んでいるということです。ですから,もしもその本性のうちにそのものの存在existentiaが含まれているのなら,これはつまりそのものが自己原因causa suiであるのならという意味ですが,その場合はそのものの定義からそのものの存在が必然的にnecessario帰結しますが,そうでないならば,そのものが存在するためにはそのものの外部にそれが存在する原因というのがあるのでなければなりません。そこでもしも同一の本性を有する複数のものが存在するというのであれば,そうしたものは自己原因ではあり得ないのですから,それら複数のものが存在する原因がそれら複数のものの外部にそれぞれ存在していなければならないことになります。たとえば10人の人間がいるというのであれば,10人の人間が存在する原因は人間の本性のうちには存在し得ないので,この10人の外部に原因がなければならず,しかもその10人のうちたとえばAが存在する原因はAの外部にあり,Bが存在する原因はBの外部にあるといった具合に,ひとりの人間が存在する10の原因がこの10の人間の外部に求められなければならないのです。
 ところで,ある人間とそれとは別の人間の区別distinguereは,当然ながら実在的区別ではなく様態的区別です。そしてこれらのことから,一般的に同一の本性を有する複数のものが存在するのであれば,そうしたものは様態的に区別されなければならないということが理解できます。上述の例の10人の人間というのは,10という数でなくても成立しますし,人間でなくとも成立するからです。したがって,もしもあるものと別のものが何らかの数によって区別され得るのであれば,その区別され得るものは何らかの意味で共通点を有しているのであり,その区別は必ず様態的区別であるということが分かります。つまり数的区別というのは必ず様態的区別なのです。
 無限infinitumであるものの区別が様態的区別である場合もないわけではありません。それは無限様態modus infinitusが区別される場合です。
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ゴールドカップ&数

2020-12-24 19:08:17 | 地方競馬
 昨日の第58回ゴールドカップ。トロヴァオは左の膝蓋,左の後ろ脚の胴体に最も近い関節部を捻挫したため競走除外となり11頭。
 グレンツェントは躓いて1馬身の不利。逃げたのはファルコンウィングで2番手にノブワイルド。3馬身差でブルドッグボスとハルディネロ。5番手にコパノジャッキー。2馬身差でマイネルズイーガー。7番手にデイジーカーニバル。8番手にグレンツェント。9番手にブルーウィザードでこの4頭は一団。3馬身差でロードシャリオ。8馬身ほど離されてキングルアウという隊列。最初の600mは35秒9のミドルペース。
 ファルコンウィングは3コーナーまでもたずに一杯となり,ノブワイルドが先頭に。ブルドッグボスが単独の2番手に上がり,3番手にはコパノジャッキーとハルディネロ。直線の入口では早くもブルドッグボスが先頭に立ち,あとは後ろを引き離して圧勝。早めに差されて一杯になったノブワイルドを,内を回って追い上げてきたグレンツェントが差して4馬身差の2着。ノブワイルドが1馬身差で3着。
                                 
 優勝したブルドッグボスは7月のオープン以来の勝利。南関東重賞は昨年のゴールドカップ以来の2勝目。レースぶりからすると,相手をノブワイルド1頭に絞り,それさえ負かせば勝てると考えていたようです。こういう場合はさらに後ろにいる馬が漁夫の利を得るというケースもあるのですが,このメンバーではそこまで力がある馬が存在しなかったということだと思います。ノブワイルドが差し込まれたのは,ブルドッグボスに徹底マークを受けたからだということでしょう。父はダイワメジャー。3代母はバーブスボールド。母の5つ下の半弟に2009年に阪神ジャンプステークスを勝ったマヤノスターダム
 騎乗した大井の御神本訓史騎手はマイルグランプリ以来の南関東重賞43勝目。第57回からの連覇でゴールドカップ2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞42勝目。第51回,52回,57回に続く連覇でのゴールドカップ4勝目。

 無限定な継続が永遠aeterunusを意味するというわけではないというのは,おおよそ次のようなことを意味します。
 たとえそれが無限定indefinitumであるとしても,他面からいえばその限界が僕たちには認識するcognoscereことができないものだとしても,継続するものいい換えれば持続するdurareものには,必ずその始まりと終わりがあるのであって,それがいつ始まるのかとかいつ終わるのかということは分からないとしても,始まりがあって終りがあるということだけは,僕たちにも分かるのです。これに対していえば,永遠というのはその始まりも終わりもないものです。別の面からいえば,僕たちは時間tempusを表象するimaginariがゆえに,あるものがその時間のうちに存在する,要するにその存在existentiaには始まりがあって終りもあると認識するのですが,永遠というのは時間に捉われることがないのです。よって無限定な継続というのが,たとえそれが無限定な時間を含むものであったとしても,それは時間に捉われているという面において永遠ではありません。この相違が,永遠と無限定な継続を分化する最大の点になるのです。
 スピノザが無限infinitumと無際限indefinitumの差についていわんとしていることは,これに類似するといえます。すなわち,無限はこの場合の永遠に該当し,無際限というのは無限定に該当するのです。よってあるもの,たとえば線の部分を構成する点の数がどんなに無際限であったとしても,いい換えればその数の限界を僕たちが認識することができないのだとしても,それはあくまでも無際限なのであって,無限であるとはいえません。無限定な継続が時間に捉われるものであるとすれば,この場合の無際限は数に捉われているものなのであって,無限というのはそうした数に捉われないあるものなのです。実体substantiaとしての量というのが部分に分割することが不可能であるということは,こうした意味において,無限は数には捉われることがないということを意味しているのだと考えても間違いではないでしょう。それは実体としての量といわれる限りにおいて量であることは確かだというべきでしょうが,量ではあっても数ではないのです。
 このことは,数による区別distinguereがいかなる区別であるかからも補強できます。
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農林水産大臣賞典兵庫ゴールドトロフィー&似た例

2020-12-23 18:50:54 | 地方競馬
 第20回兵庫ゴールドトロフィー
 ラプタスは発馬直後に外によれてしまい2馬身の不利。ベストマッチョが先手を奪い,2番手にはゴールドクイーン。3番手にサロルンとツーエムマイスターとトップウイナー。6番手にナチュラリー。7番手にサクセスエナジーとナリタミニスターで,ラプタスは1周目の正面ではこの2頭の外まで追い上げました。10番手がイルティモーネで11番手にリョーノテソーロ。この11頭は一団。メイショウオオゼキだけは5馬身ほど離されました。ミドルペース。
 2番手のゴールドクイーンが向正面で一杯となったため,一時的にベストマッチョが2番手との差を広げる形に。3コーナーの入口にかけてトップウイナーとラプタスが追い上げてきて,3頭の雁行になりましたが,トップウイナーはコーナーの途中で脱落。直線は逃げるベストマッチョと追うラプタスの競り合いかと思われたところ,ずっと内を回ってきたサクセスエナジーが最内からこの争いに加わりました。ベストマッチョはラプタスは振り切ったものの,内のサクセスエナジーとはほとんど並んでフィニッシュ。写真判定の結果,優勝はサクセスエナジー。ベストマッチョがハナ差の2着。ラプタスはクビ差で3着。
 優勝したサクセスエナジーは前々走のオーバルスプリント以来の勝利で重賞は5勝目。ここはラプタスの力量が上位でしたが,発馬でミス。そのために力量2番手のこちらが勝つことになったといえそうです。接戦の末の優勝ですから,コース取りが大きくものをいったことになるでしょう。父はキンシャサノキセキ。母の父はジャングルポケット。母の8つ上の半姉に2002年にフィリーズレビューを勝ったサクセスビューティ
 騎乗した松山弘平騎手と管理している北出成人調教師は兵庫ゴールドトロフィー初勝利。

 線の中に含まれる点が無際限indefinitumであるというのは,無限infinitumではないという意味です。すなわち無際限というのは,本来的な意味においては有限finitumです。このように解すれば,線という有限であるものの部分が無限によって構成されなければならないというパラドックスは解消されることになります。
                                   
 このことは,点が面積をもたないという数学の定義Definitioから発生していることなので分かりにくいかもしれません。もう少し分かりやすい似たような例として挙げられるのは,第二部定義五です。そこでは持続Duratioが存在の無限定な継続indefinita existendi continuatioといわれていますが,この無限定というのは無際限と理解して差し支えありません。つまり実際には有限であるけれども,その限界を認識するcognoscereことができないために,有限であるということができない事柄という意味です。持続の場合でいえば,現実的に存在するものの限界,すなわちその事物がいつまで存在し続けるのかということは,その事物を十全に認識したとしても知ることができません。第三部定理四から分かるように,ある事物が現実的に存在することを停止するのは,その事物の外部を原因causaとするのであり,その事物の本性essentiaを原因とするわけではないからです。このあたりは,スピノザの哲学はある個物res singularisと別の個物が関係するということを与件として成立しているという観点から,スピノザの哲学は動哲学か静哲学かの二分法では,動哲学に該当すると僕がみなしたこととも関係しているといえるでしょう。
 しかしながら,現実的に存在する個物には,必ずその存在の終焉というものがあります。このことは第四部公理から明らかですし,第四部定理三からなお一層に明らかだといえます。確かにこの定理Propositioは人間homoに限定して言及していますが,この定理でいわれている事柄は,単に人間にだけ該当するというわけではなく,自然Naturaのうちに現実的に存在するすべての個物に該当するからです。そしてこのことから,無限定な継続というのは,本来的な意味で無限を意味しているわけではなく,実際には有限であるということが分かるでしょう。
 重要なのは,この無限定な継続というのが,永遠aeterunusを意味するわけではないということです。
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棋王戦&一致点

2020-12-22 19:08:47 | 将棋
 18日に指された第46期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は勝者組の広瀬章人八段が10勝,敗者組の糸谷哲郎八段が3勝。
 振駒で糸谷八段の先手。角換りとなり先手が早繰り銀で後手の広瀬八段が腰掛銀。僕には先手の攻めが無理気味に感じられたのですが,進んでみるとよくなったわけではありませんが,悪くしてしまったということもなく,仕掛けとしては成立していたようです。最後の先手の決め方が見事でした。
                                        
 先手が☗6四金と打ったので,後手の角が6三から逃げたところ。☗6四金は両取りで,先手は☗7三金と取りました。これは飛車取りなので☖8一飛と逃げたのは仕方がないところでしょう。
 先手はここで☗5六銀と上がりました。これは4七の地点を受けつつ玉の逃げ道も開けた一石二鳥の手。ここで☖4六歩と打ちましたが,この手はあまりよくなかったのかもしれません。
 ☗4八桂と打ったのが好手。☖4七角成☗同銀☖同歩成は仕方ありませんがそこで☗6三角が厳しい手。
                                        
 飛車取りですから☖8四飛と逃げますが☗4四歩☖同銀に☗3六桂と打った桂馬まで働き,先手の勝勢となりました。
 敗者組の糸谷八段が勝ったため第二局へ。28日に指される予定です。

 有限finitumでなければならない線の部分が無限infinitumの点によって構成され得るというのは一例であって,このように,有限な全体の部分が無限によって構成されるという矛盾は,ほかの場合にも生じ得ます。そしてそのために,線の長さの違いによって無限量に大きさの違いが生じるというような矛盾も発生してくるのであり,こうした矛盾も,線の場合は一例なのであって,もっと一般的な矛盾なのです。河合はこうした矛盾を無限のパラドックスといっていて,それについてガリレイGalileo Galileiもスピノザも同じように気が付いていたとしています。いい換えれば,『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』の中でサルヴィヤチSalvyachiが言及しているのは,一般的な意味における無限のパラドックスについてなのであって,そこで質問されている線と点の関係のみに限定されるというわけではないのでしょう。
 サルヴィヤチは,有限であるものの性質を無限であるものに押し付けてはいけないと答えていました。したがってガリレイは,この無限のパラドックスは,そのことによって発生するパラドックスであると考えていたと解してよいでしょう。ただ,このパラドックスをどのように解消するべきなのかということは,コラムの中では触れられていません。河合が指摘したかったのは,単にガリレイとスピノザが無限のパラドックスに気付いていたということで一致しているということにのみあるからです。ですから実際にガリレイがこのパラドックスに対して具体的にどう対処したのかということは僕には分かりません。しかしスピノザはこれに対して一定の解答を与えています。
 スピノザは,無限と無際限indefinitumを分別します。そして無際限というのは,実際には無限なのではなくて有限であるのだけれども,それが有限であることの限界が不明であるものであるとするのです。他面からいえば,第一部定義二から分かるように,有限であるものは,同じ本性naturaのほかのものによって限定されるのですが,それは確かに限定されなければならないのだけれども,どのように限定されるのかということについては不明である場合には,そのものは無際限であるといわれるのです。したがって,ある線の中に含まれる点は,無際限なのです。
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九十九島賞争奪戦&パラドックス

2020-12-21 19:22:23 | 競輪
 昨日の佐世保記念の決勝。並びは新山‐須永の北日本,吉田‐神山の茨城栃木,村上‐山口‐笠松の近畿中部,山崎‐小川の西国。
 やや牽制が入りましたが,笠松がスタートを取って村上の前受け。4番手に山崎,6番手に新山,8番手に吉田で周回。残り3周のバックを出てから吉田が上昇開始。新山が神山の後ろにスイッチ。前受けの村上は突っ張る構えをみせましたが,バックで吉田が叩いて前に。このラインを追っていた新山がさらに叩いて打鐘から先行。3番手に吉田,5番手に村上,8番手に山崎の一列棒状になり,この隊列のまま最終周回のバックに。村上の発進に合わせるように吉田が発進。横まできていた村上を吉田マークの神山が押し上げると,そのあおりで後方から捲り上げていた山崎が落車。さらに山口もこれに巻き込まれて落車。発進した吉田が前のふたりを飲み込んで優勝。逃げ粘った新山が4分の3車身差で2着。3着に入線した神山はふたりの落車の要因となったため失格。新山マークの須永が繰り上がって半車身差の3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手はこれが記念競輪初優勝。ここは山崎と新山が有力とみていましたが,山崎は後方に置かれてしまい完全に作戦失敗。新山の逃げは予想できたところで,3番手を取った吉田にとっていい展開になりました。初手の位置取りが新山ラインの後ろで,これがよかったということでしょう。まだ25歳の若い選手でですし,記念競輪の決勝にはそこそこ進出している選手。初優勝だったのが意外だったくらいで,これからもまだチャンスが巡ってくると思います。

 ガリレイGalileo Galileiとスピノザの間に,無限量の解釈の方向性にどのような違いがあったのかは定かではありませんが,河合がいうように何らかの相違があったことはおそらく確実なことでしょう。両者の志向性の相違からは,一切の相違が生じない方が不思議に思えるからです。しかしそれでも,サルヴィヤチSalvyachiすなわちガリレイが,有限finitumであるものの性質を無限infinitumであるものに押し付けてはならないと語っていることは重要です。この考え方はスピノザと一致するであろうからです。他面からいえば,サルヴィヤチのこのことばだけを抽出すれば,それがどのような意味合いをもつかということと関係なく,スピノザはそれを肯定することになるでしょう。
                                        
 そもそも,ある線の中に無限量の点があるということのうちには,あるパラドックスが含まれています。というのは,線というのは一端から別の一端を結ぶものであり,これは有限です。この線を超越する空間というのが,二次元で解するにせよ三次元で解するにせよ,必ず存在することになるからです。あるいはそうした空間が存在すると考えるconcipereことができるからです。したがって,そうした線の中に無限の点があるというテーゼは,有限なものの部分が無限によって構成されているといっているに等しくなります。これはそれ自体で矛盾しているといえるでしょう。なぜなら,部分は全体によって限定されますから,この場合は線の中に含まれる点は線によって限定されなければなりません。しかしもしあるものが限定を受けるのであれば,それは無限ではなく有限であるといわれなければならないからです。よって有限であるものの部分は必ず有限なものによって構成されているのでなければならず,無限なものによって構成されていてはならないのです。
 数学の世界では点というのは面積をもたないものなので,どのような線の中にも無限の点があるといういい方は成立します。逆にいえば,点というのが面積をもたないものとして規定されると,有限であるものの部分が無限によって構成されるというパラドックスが生じます。実際このパラドックスは,とくに線の中にあるものだけに適用されるわけでないことは明白だからです。
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朝日杯フューチュリティステークス&相違

2020-12-20 19:01:01 | 中央競馬
 第72回朝日杯フューチュリティステークス
 好発のブルースピリットがハナに立ったものの,外からモントライゼが押さえきれずに前に。そのままぐんぐんとリードを広げ,7馬身くらいの差をつけることに。2番手にブルースピリット。3番手にショックアクションとバスラットレオン。5番手にグレナディアガーズとホウオウアマゾン。7番手にドゥラモンドとステラヴェローチェとレッドベルオーブ。10番手にビゾンテノブファロとロードマックス。12番手にアスコルターレとジュンブルースカイとスーパーホープでこの13頭は一団。3馬身差でカイザーノヴァ。6馬身差の最後尾にテーオーダヴィンチ。前半の800mは45秒2の超ハイペース。
 モントライゼのリードは3馬身くらいになって直線に。ブルースピリットの外にグレナディアガーズが上がってきました。そのままグレナディアガーズがモントライゼとの差を詰めていき,一杯になったモントライゼを差して先頭に。抜け出す形になったグレナディアガーズがレコードタイムで優勝。グレナディアガーズのすぐ外から追ってきたステラヴェローチェが4分の3馬身差で2着。大外から脚を伸ばしたレッドベルオーブが1馬身半差の3着。
 優勝したグレナディアガーズは前走で未勝利を勝ち上がったばかり。重賞初挑戦での大レース制覇。前走は3馬身の差をつける快勝でしたが,前々走の未勝利ではレッドベルオーブに7馬身強の差をつけられて負けていましたから,ここでは厳しいのではないかとみていました。実績上位の馬が2着と3着に入ってのレコードタイムでの優勝ですから,この馬の力も認めざるを得ませんが,1頭が大きく離して逃げる展開になったことが,この結果を大きく左右したという可能性もありそうです。Grenadier Guardsはイングランドの近衛歩兵第一連隊。
                                        
 騎乗した川田将雅騎手はJBCクラシック以来の大レース23勝目。第69回以来3年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス2勝目。管理している中内田充正調教師は一昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース3勝目。第69回以来3年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス2勝目。

 河合によれば,ガリレイGalileo Galileiの無限量の解釈と,スピノザの無限量の解釈には相違があるそうです。ただそれが具体的にどのような相違であるかは分かりません。僕はスピノザが無限量をどのように把握しているのかということなら分かりますが,ガリレイがそれをどう解しているかはまったく分かりませんし,河合のコラムの中でも,相違があるという記述があるだけで,それがどういった相違であるのかということについては言及がないからです。ただ,ガリレイとスピノザでは目指していた事柄が異なるのですから,無限量をどういう概念notioとして解釈するかということの相違が,両者のそうした志向の相違から発生するのはある意味では自然なことのように思えます。
 ガリレイはおそらく自然科学をそれ自体で自立した科学であるとみなし,それを究明することを目指していたのだろうと僕は推測します。しかしスピノザは,自然科学というものも哲学ないしは形而上学に下支えされなければならないと考えていましたから,哲学あるいは形而上学の究明を目指したわけです。もちろんスピノザは,単に自然科学だけが哲学あるいは形而上学に下支えされなければならないと考えていたわけでなく,社会科学をはじめとしてすべての学問を規定づけるものとしての哲学あるいは形而上学を希求していたのです。
 このためにスピノザは,無限量についても哲学的にあるいは形而上学的に概念づける必要がありました。そのために実体substantiaとしての量,いい換えれば不可分であるような,あるいは分割することが不可能な量というのを概念として規定したわけです。一方でガリレイが単に自然科学の究明だけを目指していたのだとすれば,このような規定はまったく必要がありません。仮に無限量というのを不可分な量として規定するのだとしても,いい換えればそのように解釈しようとするのであったとしても,それを実体として規定する必要はどこにもないからです。ですから仮にガリレイもスピノザも無限量は分割不可能な量であると解釈するにしても,相違が生じ得るのです。このようにみれば,ガリレイとスピノザに相違が生じない方が不思議だといえるのではないでしょうか。
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フーコー&無限量

2020-12-19 19:00:55 | 哲学
 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがいう蜘蛛の意志というのがどういう意志であるのかということを説明したときに,このような考え方に最も大きな影響を受けたのはフーコーMichel Foucaultだと思われるといいました。フーコーについて少しだけ紹介しておきましょう。
                                        
 フーコーはフランス人で,1926年に産まれました。1946年に高等師範大学に入学し,1950年に大学教員の資格試験を受けましたが不合格。高等師範学校の教員であったアルチュセールLouis Pierre Althusserからの支援を受け,フランス共産党に入党。しかし1953年には離党しました。ただしアルチュセールとの関係はその後も続きました。ニーチェを精読したのは1952年になってから。その後に大学教員試験に合格し,1953年にリール大学の助手に採用されました。フーコーには多くの著作があり,日本語で読めるものもたくさんあります。僕が代表作だと思っているのは『言葉と物Les mots et les choses』で,これは1966年に出版されています。そして1970年にはコレージュ・ド・フランスの教授に就任しました。
 こうした経歴から分かるように,『主体の論理・概念の倫理』の考察の対象となり得る人物です。実際にその中には何度も名前が出ているのですが,フーコーに関連したまとまった考察というのはありませんし,人物の略歴紹介にも登場していません。これはおそらく,フーコーの著作の中にはスピノザに対する言及というのが多くないということが影響しているのだと思います。つまりフーコーがニーチェから受けた影響と対比すればスピノザから受けた影響というのはごくわずかなものだということになります。よってこのブログでも,こうした機会がなければ紹介することはありませんでした。
 僕が代表作だといった『言葉と物』にはスピノザへの言及が2か所あります。しかしひとつはデカルトRené DescartesおよびマルブランシュNicolas de Malebrancheの思想と並べられる形であり,もう1か所もデカルトの思想と並列されています。こうしたことからも,フーコーがスピノザからはさほどの影響を受けていないということが分かると思います。
 スピノザの哲学を学ぶのには役立ちませんが,『言葉と物』は名著だと思います。読了するのは量的に大変ですが,興味があればチャレンジしてください。

 すでにいったように,僕は『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』を読んでいません。ですからこの部分は,河合がコラムに書いていることを,僕が再構成したものです。ただしコラムは『新科学対話』をそのまま抜き書きしているわけではありませんから,この部分が対話の中の弟子の質問として書かれているのか,それともこの当時の科学における無限infinitumという量の一般的な考え方として書かれているのかは不明です。それでも,こうした考え方,すなわち長い線の中にある点の無限量は,それより短い線の中にある点の無限量より大であるということは,確かにこの当時の科学における一般的な考え方であったようです。
 これに対してサルヴィヤチSalvyachiは,それを否定する考え方を示しています。サルヴィヤチはガリレイGalileo Galileiの分身なのですから,これはガリレイ自身がそれを否定していたと解して間違いないでしょう。河合はガリレイのいう新科学というのが,静力学から動力学への移行であるとみなしていて,この部分のガリレイの否定についてもそのラインで解することができるようですが,単純にこの点だけをみて,それまでの科学の常識をガリレイは覆しているという観点から,ガリレイの科学を新科学とみなしていいように僕には思えます。他面からいえば,ただこの一点だけをみても,ガリレイが自身の科学をそれまでの科学とは異なった新しい科学であると自負する理由となり得るように僕には思えます。
 これに関するサルヴィヤチの言及はおおよそ次のようなものです。もちろんこれも,河合がコラムの中に記していることの,僕自身による再構成です。
 まずサルヴィヤチは,長い線の中にある点の無限量とか短い線の中にある無限量というようなことを考えるconcipereこと自体をしてはいけないのだといっています。そしてこのような困難が生じてしまう理由というのは,有限なfinitumものにとっての性質,僕たちが経験的に知ることができるような有限finitumであるものがもっている性質を,無限であるものに対しても押し付けようとするからだとしています。そもそも大きいとか小さいとかあるいは相等しいといったことは,有限なものには通用する性質であるにしても,無限なものには通用しないのです。
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リコー杯女流王座戦&表象像の結合

2020-12-18 19:03:22 | 将棋
 14日に指された第10期女流王座戦五番勝負第五局。
 振駒で里見香奈女流四冠の先手。先手の中飛車,後手の西山朋佳女流王座の三間飛車の相振飛車から角交換となり相向飛車に。後手がそれでいけるとみたのか苦戦とみて勝負をかけたのかは不明ですか,大きく駒損をする攻めを敢行。このために先手がリードを奪いましたが,受け切って勝つのか攻め合って勝つのかの判断が中途半端で,後手が盛り返すという展開に。
                                        
 これは後手が1九の銀で香車を取った局面。先手は持駒が十分で,さらに3二の角も必ず取れる形なので,ここは急いで攻める必要はなく,☗6九香と打っておけばほぼ負けはありませんでした。しかしすぐに☗3二とと取ったために☖3九龍☗4七玉☖3七銀成☗同銀☖2七香成と攻められることに。
                                        
 第2図から☗3一と☖4二香と王手をしてから☗4八銀と受けたのが最終的な敗着。合駒に打たせた香車が先手玉への攻めに働いたために,簡単に先手玉が寄ってしまいました。単に☗4八銀なら先手が残していました。
 3勝2敗で西山王座が防衛第9期からの連覇で2期目の女流王座です。

 僕の結論としては,1675年にステノNicola Stenoが書簡六十七の二を書いたとき,『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』を意識してデカルトRené Descartesの哲学を新哲学といった可能性はきわめて低く,1638年にガリレイGalileo Galileiが『新科学対話』を出版したとき,デカルトの新哲学を意識して自身の科学を新しい科学といった可能性は否定できないということになります。とりわけ,『新科学対話』が出版されたのが,イタリアではなく,この時期にデカルトが活動していたオランダであったことも,この結論を補強する要素にはなり得るかもしれません。とはいえこれはあくまでも僕の見解opinioであって,史実がそうであったと主張したいわけではないという点は理解しておいてください。
 この部分の考察は,新科学から新哲学へ向かう僕自身の連想,いい換えれば僕の精神mensのうちの表象像imaginesの結合に由来します。僕はこれを,スピノザが第二部定理一八の備考Scholiumで具体的な事例をあげているような表象像の結合といいます。新科学にせよ新哲学にせよ,それはあくまでもことばから別のことばへの連想なのであって,ことばというものが一般的に記号である以上,それは十全な観念idea adaequataから十全な観念への移行と解するべきではなく,混乱した観念idea inadaequataから混乱した観念への,つまり表象像から表象像への移行であると解するべきだからです。そしてこの表象像の移行あるいは表象像の結合は,僕自身の精神のうちで生じたことなのであって,河合自身がコラムの中で言及しているというわけではありません。なのでこれに関する探究はここまでとして,河合自身がコラムの中で言及している事柄を対象とした考察に移ることにします。
 繰り返しになりますが,『新科学対話』というのは,ガリレイの分身と思しきサルヴィヤチSalvyachiという人物が,弟子の質問に解答するという形式で進められていきます。その中に,もしAとBという2本の線がある場合,線の中には無限に多くのinfinita点が含まれているがゆえに,もしも線Aの方が線Bよりも長いのであれば,線Aに含まれている点の無限infinitumの量は,線Bに含まれている点の無限の量よりも大きいという見解に対して,サルヴィヤチが答えている部分が含まれています。まず河合はこの部分に着目しています。
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農林水産大臣賞典全日本2歳優駿&逆のパターン

2020-12-17 19:14:54 | 地方競馬
 昨晩の第71回全日本2歳優駿
                                        
 内の方へ切れ込んでいったアランバローズの逃げ。向正面に入るあたりでリードは2馬身。2番手にはランリョウオーで3番手がルーチェドーロ。ほかの馬より半馬身ほど出遅れたデュアリストが4番手。3馬身差でラストリージョとバクシン。7番手にタイセイアゲインとトランセンデンス。2馬身差でラッキードリームとリーチ。11番手にアイバンホー。ここからは離れてアークエンジェル。また離れてギガキング。また離れてナインボールという隊列。前半の800mは49秒5のミドルペース。
 アランバローズはその後もリードを広げていって直線に入るところでランリョウオーとの差は5馬身くらい。直線に入ってもその逃げ足は衰えず,そのまま後ろを引き離したまま楽に逃げ切って優勝。2番手のランリョウオーもそのまま粘って5馬身差の2着。3着争いは一時的にデュアリスト,タイセイアゲイン,ルーチェドーロ,バクシンの4頭でしたが,デュアリストはすぐに脱落。さらに外のバクシンが脱落して残りは2頭。道中は3番手を追走していたルーチェドーロがそのまま粘り込む形で3馬身差の3着。タイセイアゲインがクビ差の4着でバクシンが半馬身差で5着。
 優勝したアランバローズはこれがハイセイコー記念以来のレース。デビューからの連勝を5まで伸ばして重賞制覇を達成するとともに大レースを勝利。今年はJRAからの出走馬の中に,優秀な記録を残した馬が少なかったので,地方馬にとって大きなチャンスとみていました。北海道勢と南関東勢の比較が難しかったのですが,結果的にハイセイコー記念の上位2頭がそのままの着順で入線しましたので,全体はともかくトップクラスは南関東勢の方が上だったということになるでしょう。来年のクラシックに向けては距離延長も課題のひとつになりますが,ここまでのレースぶりからみると,むしろ展開面の方がこの馬にとっては重要かもしれません。母の父はステイゴールド
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年のテレ玉杯オーバルスプリント以来の重賞11勝目。デビューから27年8ヶ月で大レースは初勝利。管理している船橋の林正人調教師は2003年のクイーン賞以来の重賞2勝目。開業から24年7ヶ月で大レース初制覇。

 ステノNicola Stenoが『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』を念頭に,デカルトRené Descartesの哲学を新哲学といった可能性はきわめて低いと僕は思います。ただ,逆のパターンはあり得ると僕はみます。
 すでに示したように,『新科学対話』はガリレイGalileo Galileiの最晩年の著作で,1638年に出版されました。デカルトの主要な著作のうち,『省察Meditationes de prima philosophia』は1641年,『哲学原理Principia philosophiae』は1644年に書かれていて,『新科学対話』より後のものになります。しかし『方法序説Discours de la méthode』は『新科学対話』より1年前の1637年に出版されていました。なお,『方法序説』はまとまった著作の一部分,とくに哲学に関する部分のことをいうのであって,出版された著作の全体の中には,自然科学も含まれています。
 デカルトはこれより前の1633年に『世界論Le Monde』という本を書いていました。この中に,地動説を肯定する内容が含まれています。このためにこの著作は出版されず,デカルトの死後に公刊されることになりました。デカルトが死んだのはガリレイが死んだのより後のことですから,ガリレイがそれを読んだということはありません。ただ,ガリレイの存命中に,すでにデカルトは地動説を肯定していたということは重要でしょう。そうした風評がどれほどの広がりをもっていたかは分かりませんが,ガリレイがそれを知っていたという可能性を完全に否定することはできないからです。
 一方,哲学に関していえば,デカルトの存命中,とくにガリレイも存命中のうちから,デカルトの哲学が一般に新哲学,それまでの哲学とは異なる哲学という意味で新哲学といわれていた可能性はあります。ステノがこの語を用いたことから類推したように,少なくともステノがカトリックに改宗したときには,カトリック世界では一般にデカルトの哲学は新哲学と呼ばれていたと思われるのですが,そういわれ始めた時代というのはさらに遡ることができる筈だからです。そしてそれが一般にカトリックの世界での事象であるのなら,カトリックの総本山であるイタリアでは当然ながらそういわれていたと解する必要があります。よって,ガリレイがデカルトの新哲学を意識して,自身の科学を新しい科学といった可能性はあるのではないでしょうか。
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