スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水戸黄門賞&ふたつの契約

2024-06-30 19:14:52 | 競輪
 取手記念の決勝。並びは小林‐坂井‐吉田‐吉沢‐芦沢の関東,脇本‐山口の近畿中部で守沢と松本は単騎。
 芦沢がスタートを取って小林の前受け。隊列が決まるのにかなり時間を要しましたが,6番手に守沢,7番手に松本と単騎のふたりが入って8番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなく,誘導が退避するタイミングから小林がスパートして打鐘。脇本は7番手の松本からも離されました。小林の番手の坂井は車間を開けていたのですが,残り1周のホームではそれが詰まってしまい,そのまま番手から発進。このラインの後ろを回っていた守沢は,最終コーナーで吉沢をどかして吉田の後ろに。直線に入ってから踏み込んだ吉田がそのまま抜け出して優勝。最後は吉田マークとなった守沢が1車身半差で2着。脇本がバックの入口手前で浮いてしまったので,そこから自力に転じて捲り追い込んだ山口が4分の1車輪差で3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は5月の小田原のFⅠを優勝して以来の優勝。一昨年9月の青森記念以来となる記念競輪6勝目。取手記念は初優勝。このレースは関東勢が5人で並びましたから,そこから優勝者が出ることが濃厚。吉田が優勝したので作戦が失敗したとまではいいませんが,同じラインから2着も3着も出せませんでしたから,成功したともいい難い面はあります。吉田自身は今年は好調で,FⅠでも4度の優勝があり,日本選手権でも決勝に進出しています。今はその好調を維持している状態で,それがこの快勝に結び付いたものでしょう。近況だけでいえば今後ももっとやれるのではないかと思います。

 現実的に存在する人間がDeusと契約pactumを結んだとしても,その人間は自然権jus naturaeを放棄したわけではないので,その契約に従わないこともできます。いい換えれば,神を愛さずに生きていくこともできますし,隣人を愛さずに生きていくこともできるのです。ただこの契約は,その契約に基づいて生きた方がよいことを人に教え,その人がそれを内面化する限りでは,その人は確かにその契約に従い,神を愛しまた隣人を愛するように生きていくことになるでしょう。
 このことから分かるように,この契約は神が現実的に存在するある人間と個別にする契約です。社会契約はそのようなものではなく,国民全体の自然権を社会societasに,たとえば国家Imperiumに委託する契約です。このために,神との契約と社会契約は矛盾することなく両立するとスピノザはいいます、そしてこのとき,社会契約は至高の力potentiaですから,力の強度を比較するなら,社会契約は神との契約を上回ることになるでしょう。よって社会契約によって形成された社会は,その社会自体が神との契約を無視するだけの力をもつことになります。つまり社会は神を愛さないこともできますし,隣人を愛さないこともできるのです。ただし,そうすることによって危険や損害が発生するのであれば,その危険も損害も社会で引き受けなければならないことになります。したがって,神との契約を内面化している市民Civesが多ければ多いほど,社会がその契約を無視することによって生じる危険も損害も,その分だけ大きなものになるでしょう。
                                        
 つまり,神との契約と社会契約は,実際には相互に規定し合う関係を保ちながら現実社会を構成していくと考えなければなりません。これが國分がいう社会契約の二重化が具体的に意味するところです。社会契約によって生じる至高の権力は,人びとの信託を得てはいます。だから社会は宗教religioについても様ざまな規定を行うことができますし,社会の構成員はその規定に従わなければなりません。しかし神との契約は,至高の権力がその個々の信託関係を破らないように命じています。ですからふたつの契約は,表面的には対立するのですが,補い合いながら円環を構成し,他方の独走を阻止し合うのです。

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