スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドバイワールドカップデー&定義の不在

2024-03-31 19:34:17 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明にかけてドバイのメイダン競馬場で開催されたドバイワールドカップデー。日本馬の結果だけ簡単に紹介します。
 ドバイゴールドカップGⅡ芝3200m。このレースに出走した2頭の日本馬は見せ場を作れず,アランバローズが8着でリビアングラスが11着。
 アルクオーツスプリントGⅠ芝1200m。ジャスパークローネが出走して11着。
 UAEダービーGⅡダート1900m。5番手からのレースになったフォーエバーヤングが,前から抜け出した馬を目標とするように追い上げ,楽に差し切って優勝。バロンドールは6着でジョージテソーロは10着。
                                        
 優勝したフォーエバーヤングサウジダービーからの転戦。デビューからの連勝を5に伸ばして重賞4勝目。父はリアルスティール。3代母がローミンレイチェルでその産駒にゼンノロブロイ。日本馬による海外重賞制覇はリヤドダートスプリント以来。ドバイでは昨年のドバイワールドカップ以来。UAEダービーは昨年に続く3連覇で4勝目。騎乗した坂井瑠星騎手はサウジダービー以来の海外重賞4勝目。UAEダービーは初勝利。管理している矢作芳人調教師はサウジダービー以来の海外重賞14勝目。UAEダービーは初勝利。
 ドバイゴールデンシャヒーンGⅠダート1200m。このレースは逃げたドンフランキーが2着。リメイクが4着でイグナイターが5着。ケイアイドリーは9着。
 ドバイターフGⅠ芝1800m。後方からの追い込みになったナミュールが同様に差し込んできた馬に競り負けての2着。内目を追い込んだダノンベルーガが3着。ドウデュースは5着で逃げたマテンロウスカイは15着。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2410m。好位からの差しになったシャフリヤールが2着で大外を追い込んできたリバティアイランドが3着。ジャスティンパレスは4着。クリストフ・ルメール騎手がドバイターフで落馬し鎖骨を骨折したためランフランコ・デットーリ騎手に乗り替わったスターズオンアースは8着。
 ドバイワールドカップGⅠダート2000m。後方から追い込んできたウシュバテソーロが,先行策から抜け出した勝ち馬には離されたものの2着。ウィルソンテソーロが4着,ドゥラエレーデが5着でクリストフ・ルメール騎手からオイシン・マーフィー騎手に乗り替わったデルマソトガケは6着。

 どちらでも構わないので,國分がいうように,語の意味に忠実に他動的原因causa transiensといってもよいのですが,内在に対立するのは哲学的には超越で,かつ第一部定理一八が,明らかに内在的原因causa immanensに対立する原因に言及しているという事情を重視し,僕はこれからも超越的原因causa transiensという訳を用います。これは内在的原因に対立する原因であって,単にその結果effectusを外部に産出するproducere原因であるという意味しか有していないという点には注意してください。
 この定理Propositioは,内在的原因が超越的原因ではないということ,そして内在的原因が超越的原因に対立するような原因であるということは匂わせますが,内在的原因がどのような原因であるのかは説明していません。そして内在的原因がどのような原因であるのかということは,『エチカ』の全体を通しても定義されていないと國分は指摘しています。
 このことは,スピノザが内在的原因とか超越的原因というときに,その概念notioについてはヘーレボールドAdrianus Heereboordの分節に従っていたということを強く窺わせます。他人の分節に従っているのだから,そのことについては『エチカ』の中で特別の定義Definitioを付与する必要はないとスピノザは考えていたということが,内在的原因について積極的な定義が『エチカ』の中には与えられていないということの理由になっていると思われるからです。他面からいえば,スピノザは内在的原因であるのがどのような原因であるのかということについては,独自の考え方をもっていなかった,要するにそのことをそれほど重視していなかったから,自身による定義は『エチカ』の中に与えなかったということです。
 このことは,スピノザの哲学の理解に対して重大な影響を及ぼすかもしれません。分かりやすい例でいえば,『〈内在の哲学〉へ』という著書が近藤和敬にありますが,これはその題名からも分かるように,スピノザの哲学が内在の哲学であるということに注目しているわけです。神が内在的原因であって超越的原因ではないということだけが,スピノザの哲学が内在の哲学であるということを保証するわけではないとしても,内在を重視する立場からは,これは由々しきことだといえるのではないでしょうか。
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大森&超越

2024-03-30 19:00:55 | 歌・小説
 『虞美人草』の中に,小野と藤尾が大森に遊びに行く約束をしていたのに,宗近に説得された小野がその約束をすっぽかすというプロットが含まれています。遊びに行く先の大森というのは貝塚で有名な現存する地名ですが,この地名にはコードが含まれているということが『なぜ漱石は終わらないのか』の中で触れられていました。
                                      
 『虞美人草』が書かれていた当時の大森は歓楽街で,連れ込み旅館なども林立していたそうです。つまり大森に遊びに行くというのは,そうした旅館に行くということを意味するのであって,要するに小野と藤尾は密会して肉体関係を結ぶ約束をしていたという意味に解せるそうです。これは当然ながらその時代に『虞美人草』を読んだ人には,たちどころに理解できたのでしょうが,現在の大森はそうした歓楽街とは認識されていませんから,僕たちが読んでもそういう意味があるということはよく分からないということになります。
 この約束がなされた頃,小野と藤尾は相思相愛といっていい状況で,互いにできれば結婚をしたいと思っていました。ただ周囲の反対を受けていたため,結婚がかなわなかったのです。そこでふたりは,結婚することを周囲が納得するような既成事実を作ってしまおうと考えました。そうした既成事実として最もよいのは,ふたりの間に子どもができること,つまり藤尾が小野の子どもを妊娠するということだったのです。だから小野と藤尾の間には,ふたりの子どもを作るという動機が確かにあったのであり,なので大森に行って肉体関係を結ぼうと意図してもまったくおかしくありませんでした。だから確かにここで大森に遊びに行くというのは,ふたりで肉体関係をもとうとしていたという意味であって,そういう意味が大森という地名のコードに含まれていたわけです。
 地名がコードになるということは,文章表現としてはよくあります。ただそのコードは永続するものではないので,時代背景が変ずるとコードが通用しなくなる場合もあります。この大森というコードはそうしたコードのひとつといえそうです。

 スピノザは,神Deusは超越的原因causa transiensではなくて内在的原因causa immanensであるといっているのですが,この訳出について國分は不適切であると指摘しています。このラテン語には超越あるいは超越するという意味が含まれていないので,他動原因と訳すのがよいだろうといっています。ただしここでは内在的原因とのバランスから,他動的原因という訳がよいと國分は指摘しているとします。國分はこれとは逆に,他動原因とのバランスを図るため,内在的原因のことを内在原因といっています。したがって,國分が内在原因および他動原因というのを,僕は内在的原因および他動的原因というということです。
 この指摘について私見を示せば,僕は國分のような訳も畠中のような訳も,それなりの理由があると思います。國分がいうように,そこに超越するという意味が含まれていないということを重視するなら,それを超越的原因と訳すのは不適切であるということになるでしょう。スピノザはおそらくヘーレボールドAdrianus Heereboordの分節に倣ってそういっているのであり,それによればこれは結果effectusをその外に産出するproducere原因ということなのですから,そのような原因についてそれを超越的原因というのは,そもそも超越するということの意味からしていささかオーバーであるともいえるでしょう。
 畠中もそうしたことは理解していたのではないかと僕は推測します。それでもあえて超越的原因と訳したのは,哲学の世界では内在に対立するのは超越であるという事情があったからだと思うのです。この部分はすでにいったように,読者は神が超越的原因であると思っているかもしれないけれども実際は内在的原因なのであると解せるような文章になっていて,内在的原因と対立するものとしてスピノザが超越的原因,國分に倣えば他動的原因をみていたのは間違いありません。したがって内在的原因に対立するような原因を哲学的に示すとするならば,その語自体に超越するという意味は含まれていないとしても,超越的原因と訳出する,つまり意訳するというのは,意図としては理解できるものだと僕は考えます。
 なのでそれが内在的原因に対立するという前提があれば,訳はどちらでもよいと僕は思います。
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秋山準&内在的原因

2024-03-29 19:25:28 | NOAH
 三沢光晴小川良成をパートナーに指名し,アンタッチャブルというチームを組んだのは,それまでのパートナーであった秋山準が小橋建太と組むことになったからという理由でした。
 秋山は専修大学のレスリング部に在籍していました。当時の専修大学出身者は新日本プロレスに入団することが多かったのですが,秋山は全日本プロレスに入っています。この経緯はふたつ伝えられていて,秋山自身が馬場から直接のスカウトを受け,全日本に行ってもよいものかと悩んで当時のヘッドコーチであった松浪健四郎に相談したというものと,秋山の知らないうちに馬場から大学にスカウトがあり,松浪に連れられて馬場と面会したというものです。いずれにしても馬場からのスカウトがあったのは確かで,馬場は秋山のことを評価していたということでしょう。
 秋山はジャンボ・鶴田のファンだったので,そのスカウトにより全日本プロレスに入団しました。入団の発表があったのは1992年2月。3月に専修大学を卒業し,同年の9月にはもうデビューしています。入門からデビューの期間が短かったのは三沢も同様ですが,秋山はデビュー戦の対戦相手が小橋でしたから,デビュー当初から大きな期待が掛けられていたことになります。その直後に鶴田が肝機能障害により欠場。鶴田のパートナーであった田上明と組んで年末の世界最強タッグ決定リーグに出場しました。
 トップクラスで戦っていましたが,全日本プロレス時代はシングルのタイトルは獲得することができませんでした。2007年7月にNOAHの旗揚げがあって移籍。この旗揚げ興行で鮮烈な印象を残し,翌年の7月にGHCヘビー級の王者になりました。その後も何度か獲得しています。小川がGHCヘビー級王者になったときの相手は秋山でした。
 2012年でNOAHを退団。翌月からは全日本プロレスに参戦しました。古巣に戻ったともいえますが,この頃の全日本プロレスは秋山の退団時の全日本プロレスとは体制が大きく異なっていましたから,復帰したという感じは僕にはあまりありませんでした。

 真理veritasのしるしsignumに関する論考はここまでです。
                                        
 『スピノザー読む人の肖像』の第三章で,内在的原因causa immanensについて触れられている箇所があります。この箇所について気になった点がありましたので,僕の考えを表明しておきます。
 『エチカ』で内在的原因が最初に出てくるのは第一部定理一八です。そこではDeusが,超越的原因causa transiensではなく内在的原因であるといわれています。このとき,内在的原因といわれるのは,結果effectusを自己のうちに生ずる原因のことで,超越的原因というのは結果を自己の外に生じる原因のことです。岩波文庫版の訳者である畠中によればこれは,17世紀初めにライデン大学で教授を務めていたブルヘルスダイクおよびその後継者であるヘーレボールドAdrianus Heereboordによる分節であるとのことです。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の付録である「形而上学的思想Cogitata Metaphysica」の中ではスピノザはヘーレボールドに言及しています。これは意志voluntasに関連する箇所で,しかもスピノザはヘーレボールドの見解opinioを否定しているのですが,そのように触れているということは,ヘーレボールドのことを知っていたということは間違いありません。なので畠中はここでこの分節をヘーレボールドによるもので,スピノザはそれに従っているとみています。このことはたぶんその通りであって,スピノザは神は結果をそのうちに産出する原因であって,外に結果を産出する原因ではないということをここでいいたかったのでしょう。
 このこと自体は國分も否定していません。國分は当該部分で,一般的に原因と結果といわれる関係は,超越的原因であるけれども,神が万物の原因であるといわれる場合には,神は超越的原因ではなく,内在的原因であるということをスピノザはいいたかったのだと解釈できることをいっていますから,内在的原因が何を意味し,超越的原因が何を意味しているのかということに関しては,畠中と國分との間で,また僕との間で,何か相違があるというわけではありません。定理Propositioにおけるスピノザのいい回し自体が,神が超越的原因であると思っている人もいるだろうけれども,実際には内在的原因であると受け取れるようなものになっていますので,これは正しい解釈だと思います。
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努力&奇妙

2024-03-28 19:43:41 | 哲学
 フロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』で働きと目標とを関連付けて説明するとき,それ自体では誤りがあるとはいえません。というか,むしろフロムはスピノザの哲学を正しく解釈しているといえるでしょう。ただその妥当性の再考のときにいったように,スピノザの哲学において目標というものを考察する場合に第三部定理六を援用するときには,注意しておかなければならない点があります。
                                        
 この定理Propositioは,現実的に存在する個物res singularisはそれ自身の現実的有actuale esseに固執しようと努めるconariといっています。このことはその個物が能動的であるか受動的であるかに関係ありませんが,人間にとっての徳virtusとはその人間にとっての能動actioを意味することになるので,フロムがなしている限定では受動的である場合にもこの定理が成立するということを考慮する必要はありません。したがって,現実的に存在する人間は能動的である限りは自己の有に固執しようと努めるということがフロムがここでいっていることの意味になります。するとあたかも現実的に存在する人間は,自己の有に固執するperseverareことに能動的に努めるということになるようですが,これをそのままの意味で理解してしまうと,誤りに陥る危険性があります。ここで努めるというのは,自主的に努力するということを意味するよりも,そういう傾向があるconariというほどの意味だからです。
 ただし,現実的に存在する人間が能動的であるとは,その人間がある結果effectusに対しては十全な原因causa adaequataであるという意味ですから,人間が能動的に自己の有の維持に向けて努力をするといういい方が,全面的に誤りであるといえるわけではありません。人間がある事柄に向かって十全な原因として取り組むということを努力するというのである場合は,まさに人間は自己の有の維持に能動的に努力するということにほかならないからです。ただしこのようにいう場合は,人間が何事かに向けて能動的に立ち向かうことはすべて努力といわれなければならないので,能動的に何事かをなすならそれはそれはすべて努力といわれることになります。つまりこの努力は,自己の有に維持することだけに向けられる努力ではありません。いい換えればこの場合は人間はすべての事柄に努力するということになります。

 このようにみれば,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』でスピノザが知るためには知っていることを知る必要はないというとき,國分がそれを奇妙な言い回しといっていることの意味がよく理解できるのではないでしょうか。國分はこのことをかみ砕いていうなら,何かを確実に知っているなら,そのことだけで確実性certitudoは明らかだから,自分が確実であるということをさらに知る必要はないということであると指摘しています。つまりここでは國分はこのことを,確実性とは何かということと関連させて考えています。つまり真理veritasのしるしsignumというのは観念ideaの確実性ということと同じであると國分は考えているわけで,その点は僕も同意します。ただ確実性そのものについての考察は,『スピノザー読む人の肖像』の中の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の考察で示したばかりですから,僕のこの点に関する見解opinioはここでは省きます。
 スピノザは当たり前のことをいっているように思えると國分はいっていますが,同時にここで立ち止まってはいけないのです。僕たちが何か確実なことを知ろうとする過程において,それに照合させればそれが真理であるとされるようなしるしを僕たちが追い求めるとすれば,実は僕たちは確実に知るために,自分がそれを確実に知っているということを知ろうとしているのだということをスピノザはいっているのです。なぜなら,すでに得ている何らかの観念について,真理のしるしに照合させて真理であることを確認するという行為は,自分がその観念について確実であるということを知ろうとすることと同じであるからです。
 自分がある事柄を確実に知っているということを知ることができるのは,そのことを確実に知っている場合だけです。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。したがって,真理のしるしを追究するということは,ある事柄を確実に知る前に,自分が確実であるということを知ろうとする営為であるといえます。そのようなことが不可能であるのはいうまでもないでしょう。このような意味において,真理のしるしはあるとすれば真理そのものであって,真理のほかに真理のしるしといえるものはなく,それを知ろうとするのは無駄なことなのです。
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農林水産大臣賞典桜花賞&方法論としるし

2024-03-27 18:59:00 | 地方競馬
 第70回桜花賞
 発馬でノースビクトリーは外によれてしまいました。1周目の正面はミチノアンジュとミモフレイバーとモノノフブラックが併走していましたが,コーナーワークでミチノアンジュが単独の先頭に立ち,ミモフレイバーとモノノフブラックは2番手の併走に。2馬身ほど開いてプリンセスアリーとミスカッレーラとパペッティア。4馬身差でファーマティアーズとシトラルテミニとトレイルリッジ。7馬身差でクロスレイジングとノースビクトリーで4馬身差の最後尾にアニモ。ハイペースでした。
 ミチノアンジュが先頭のまま3コーナーを回り,外からパペッティアが追い上げてきました。内を回ったのがプリンセスアリーで,直線はミチノアンジュとパペッティアの間に。4番手のミスカッレーラはこの時点で差があり,前の3頭で優勝争い。真中から抜けたプリンセスアリーが優勝。外のパペッティアが1馬身差の2着で,逃げたミチノアンジュが4分の3馬身差で3着。
 優勝したプリンセスアリーは南関東重賞初制覇。昨年10月にデビューした後,1月までに4戦して3勝。ただ前走のユングフラウ賞は離された4着でしたので,勝つまでは厳しいのではないかとみていました。ただそれは出遅れが響いたもので,普通にレースができていればもっと走れていたということだったのでしょう。ミスカッレーラが久々で力を出せなかったとするなら,力のある馬が上にきていますので,これくらいの能力はあるということだと思います。父はキズナ。母の父はスズカフェニックス。祖母の父はクロフネ。母の3つ下の半弟に昨年のマーチステークスを勝ったハヤブサナンデクン。3代母は2002年にフェアリーステークスを勝ったホワイトカーニバル
 騎乗した船橋の森泰斗騎手ネクストスター東日本以来の南関東重賞58勝目。第67回以来となる3年ぶりの桜花賞2勝目。管理している浦和の岡田一男調教師は南関東重賞4勝目。桜花賞は初勝利。

 ある知性intellectusのうちに真理veritasが存在しないのであれば,その知性は真理を獲得するのに前もって真理を獲得する方法methodusを知ることはできないということについては,これまでにも何度か説明してきました。なのでこのことについてはここではこれ以上は繰り返しません。つまりスピノザにとっての真理を獲得する方法というのは,真理を獲得するとともに得られるものなのですから,これは事実上は,真理を獲得する方法に関する方法論に関しては,スピノザは放棄しているということになります。
                                        
 このことが,真理のしるしsignumとは何であるのかということにも同様に成立しているのです。なぜなら,スピノザの哲学では真理のしるしというのは真の観念idea veraそのもののことなのですから,これは事実上は真理のしるしは存在しないといっているの同じことなのです。このことは,たとえばデカルトRené Descartesの哲学で,真理のしるしは明晰判明であることであるとされていることと比較すればよく分かるでしょう。明晰判明であるということは,観念について何らかの性質を意味します。したがって,たとえば僕たちが何らかの観念を形成したときに,その観念が僕たちの知性のうちで明晰判明であるならば,それは真理のしるしなのですから,僕たちはその観念が真の観念であるということを知ることができます。逆に,何らかの観念を形成したとしても,それが明晰判明でないとすれば,それは真理のしるしを有していない観念であるということになりますから,僕たちはそれが真の観念ではないということ,あるいは同じことですがそれが誤った観念idea falsaであるということを知ることができるのです。ところがスピノザがいうには,真理のしるしは真の観念そのものなのですから,それは真の観念の性質を意味するわけではありません。したがって,僕たちは真の観念を有すれば,とくにほかに何も必要とせずにそれが真の観念であると知ることができます。一方,誤った観念を有したという場合には,それが真の観念であるということを知ることができません。ただしこの場合はそう知ることができないということだけを意味しますので,それを誤った観念であると知ることができるというわけでもありません。
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農林水産大臣賞典黒船賞&放棄

2024-03-26 18:59:24 | 地方競馬
 第26回黒船賞
 シャマルの逃げになりました。2番手にサンライズホークとヘリオス。4番手にレディフォースとマルモリスペシャル。6番手のヘルシャフトまでが一団。3馬身差でガルボマンボとタイガーインディ。2馬身差でモダスオペランディとヒロシゲウェーブ。3馬身差でメルト。最後尾にルヴァンで発馬後の正面を通過。前をいく各馬が外を回ったので,向正面に入ると3番手が内を回ったヘルシャフト,レディフォース,ヘリオスの3頭で併走。さらに内の2頭はそのまま上がっていき,サンライズホークの内の2番手で並びました。最初の600mは36秒8のハイペース。
 サンライズホークは3コーナーを前に一杯。シャマルのリードが2馬身くらいになり,ヘルシャフトが単独の2番手に。このリードを最後まで保ったシャマルが逃げ切って優勝。ヘルシャフトが2馬身差で2着。3コーナー過ぎから大外を回って追い上げてきたタイガーインディが半馬身差で3着。
 優勝したシャマルは昨年の黒船賞以来の勝利で重賞5勝目。昨年はこのレースを勝った後,かしわ記念は4着だったのですが,さきたま杯で競走を中止するとプロキオンステークスも競走除外となり,今年の1月まで休養していました。今年の2戦はたぶんまだ馬体が太く,力を出せなかったようですが,ここは体重も絞れたことで,本来の力を出せたということだと思います。戦績からも分かるように,寒い時期は苦手とするタイプなのでしょう。父はスマートファルコン。母の父はアグネスデジタル。祖母の父はダンスインザダーク。母の従妹に一昨年のローズステークスと昨年の愛知杯を勝ったアートハウス。Shamalはペルシャ湾岸に吹く風の名称。
 騎乗した川須栄彦騎手は黒船賞初勝利。管理している松下武士調教師は黒船賞連覇で2勝目。

 國分はスピノザのこのような真理veritasのしるしsignumについての考え方を奇妙であると表現しています。これは,國分自身がそれを奇妙であると思い,そのことについて読者に同意を促しているという意味もありますし,一般的に哲学的な観点からみてこのような考え方は奇妙である,すなわちたとえばスピノザの同時代の哲学者からみて,スピノザのこのような考え方は奇妙なものと感じられたであろうというふたつの意味が含まれているように僕には思えます。
                                       
 なぜこのような主張が奇妙であるといえるのかということは,それほど難しくはないといえます。というのはこの考え方は,真理のしるしを考察することを,事実上は放棄しているといえるからです。なぜなら,もしも真理それ自身が真理のしるしであるのならば,どのような知性intellectusであれ,真理を獲得するまでは真理のしるしも獲得することができないことになります。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。したがって知性は,真理を獲得していない場合には真理のしるしが何であるのかということを知ることができません。よって,もしも知性のうちに一切の真理がないという状態を仮定するならば,その知性は真理のしるしが何であるのかということを知らないということになります。このことから,僕たちは真理を獲得する前に,前もって真理のしるしが何であるのかということを知ることはできないということが結論されることになります。すると,哲学が真理を追究する学問である限り,というかこれは哲学に限らないのであって,一般に学問が真理を追究するものである限り,獲得された観念が真理であるのか虚偽falsitasであるのかということについてはこれを前もって知ることができないということになりますから,どのような方法で真理を追究していけばよいのかということを知ることができないということになるでしょう。つまりこの考え方は,単に真理のしるしとは何かということを追究することを放棄していると同時に,真理を獲得していく方法がどのような道であるのかという探求についてもそれを放棄しているということになるでしょう。
 國分がそこで指摘している通り,これは実際にその通りなのです。
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令和6年能登半島復興支援・ウィナーズカップ&真理のしるし

2024-03-25 19:28:46 | 競輪
 取手競輪場で行われた昨日の第8回ウィナーズカップの決勝。並びは北井‐深谷の南関東,窓場‐脇本‐古性の近畿,清水‐河端の山陽で坂井と伊藤は単騎。
 古性がスタートを取って窓場の前受け。4番手に清水,6番手に北井,8番手に伊藤,最後尾に坂井で周回。北井は残り2周のホームを出てから上昇。窓場も突っ張っていき打鐘から先行争い。北井は窓場を叩けず,脇本の外で併走しましたが,脇本が窓場の番手を守りました。この間に伊藤が単騎で発進。窓場を叩いて先頭に出ました。窓場が叩かれたので脇本は自力で伊藤を追い,さらに外から清水の捲り。伊藤が先頭のまま直線を迎えましたが,すぐに脇本が差してそのまま優勝。最終コーナーで北井を弾いて脇本に続いた古性が4分の3車身差の2着で近畿のワンツー。外を捲り追い込んだ清水が4分の3車身差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は昨年4月の武雄記念以来の優勝。ビッグは一昨年のグランプリ以来となる10勝目。このレースは前受けをした窓場が北井に叩かせなかったので,展開は有利になりました。かなりごちゃついたレースになりましたが,脚は最後まで残していたようです。昨年後半は負傷の影響もあり,本人としても不本意な成績だったかと思うのですが,この開催はよい内容のレースが続きました。復調してきているとみてよいかもしれません。

 たとえばデカルトRené Descartesは,明晰判明であるということを真理veritasのしるしsignumであると措定しています。しかしそれが本当に真理のしるしであり得るのかといえば,そうではあり得ないと國分は指摘しています。前述したような真理のしるしの無限遡行は,真理のしるしをどのように措定したところで,成立するといえるからです。この場合でいえば,明晰判明であるということを真理のしるしと措定するのであれば,それが確かに真理のしるしであるというしるしが必要で,明晰判明であることを真理のしるしと措定できるような何らかの事柄についても,確かにそれが明晰判明であることを真理のしるしであると措定しているしるしが必要だという具合に,無限に連鎖していくからです。
 スピノザの哲学で真理のしるしとされているのは,真理それ自身です。スピノザの哲学でいう真理とは,真の観念idea veraの総体のことを意味するので,このことは第二部定理四三から論証することができます。知性intellectusは自身が真の観念を有すると知っていれば,それを真理であると知ることができるので,それ以上のことは何も必要とされないからです。
 真理のしるしが真理それ自体であるということは,すでに『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の中に示されています。第三三節がそれに該当するのですが,そこでは,私すなわちスピノザが,何かを知っているということを知るためには,必然的にnecessario何かを知っているのでなければならないといういい方で示されています。これは『エチカ』のように,真理のしるしとされるものをはっきりと措定しているとはいえないかもしれませんが,自分が何かを確実に知っているのであれば,それだけで確実性certitudoは担保されているのだから,それ以上に何かを知るという必要はないという意味に解せます。したがって,何かについて確実であるということはそのものの真の観念を有するということにほかなりません。これはそのものの真の観念を有するということが真理のしるしなのであって,確実性のためにそれ以上のことを知る必要は何もないということになりますから,確かに『知性改善論』を執筆している時点で,スピノザは真理のしるしというのは真の観念自体であると考えていたのです。
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高松宮記念&しるしの無限遡行

2024-03-24 19:18:02 | 中央競馬
 香港から1頭が遠征してきた第54回高松宮記念
 少し押したビクターザウィナーが前に出て,その後で内からマッドクールが出てきたのでやや牽制し合いましたが,そのままビクターザウィナーの逃げとなってマッドクールが2番手。3番手にはルガルが上がり,その後ろはウインカーネリアンとママコチャ。さらにビッグシーザーとトウシンマカオが並んで続き,8番手にテイエムスパーダ。以下はメイケイエール,ソーダズリング,ナムラクレア,シュバルツカイザーの順で続き,ロータスランドとウインマーベルが併走。2馬身ほど開いてシャンパンカラーとディヴィーナ。マテンロウオリオンが続いて最後尾にモズメイメイ。前半の600mは34秒9の超スローペース。
 ビクターザウィナーが先頭のまま直線に入りましたが,少し外に持ち出しました。その外に並んできたのはウインカーネリアン。マッドクールはそのまま内を進出。内を回ったマッドクールの方が外の2頭よりも前に。マッドクールを追うように内を回ってきたのがナムラクレア。1頭分だけ外に出し,マッドクールを追い詰めてフィニッシュ。しかし届かず,優勝はマッドクール。ナムラクレアがアタマ差で2着。逃げたビクターザウィナーが3馬身差で3着。
 優勝したマッドクールは重賞初制覇での大レース勝利。ただこの馬は一昨年の5月から12月にかけて4連勝してオープン入りし,CBC賞の3着を挟んでオープンを勝利。昨秋のスプリンターズステークスも2着でしたから,十分に通用する能力をもっているということは明らかでした。直線で逃げた馬が外を回ったのに対し,そのまま内を突いたという騎手の判断がよかったということになるでしょう。着差を考慮すると,ペースには恵まれたといえそうです。
 騎乗した坂井瑠星騎手は全日本2歳優駿以来の大レース8勝目。高松宮記念は初制覇。管理している池添学調教師は一昨年のホープフルステークス以来の大レース2勝目。

 スピノザはDeusが存在するということを証明するよりも,現実的に存在する人間の知性intellectusが,神を十全に認識するcognoscereということの方を重視していました。この姿勢は『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の時代にも同様です。ですから人間がいかにして神の十全な観念idea adaequataを有するのかということの方法論は『知性改善論』の主要なテーマになっています。スピノザはこのことについてかなり試行錯誤していて,『知性改善論』は未完のまま中断されています。ですからそこの部分でのトートロジーが『知性改善論』では目立っています。とはいえ,知性の道具instrumentumとしての真理veritasに関する無限遡行も,『知性改善論』の中では解決されているわけではないので,僕たちがそれを読む限り,スピノザは道具の無限遡行を解消するために,新たな課題としての真理の標識signumに移行したというように解せるようになっています。
                                        
 しかし一方で,國分自身が指摘している通り,道具の無限遡行についてはスピノザは軽視していたようにみえますので,もしかしたらスピノザはそれは解決済みであるとか,まだ済ませてはいないけれども簡単にけりがつけられることであると思っていた可能性がないわけではありません。もしその場合には,スピノザが真理のしるしsignumという課題を探求し始めたのは,道具に関する無限遡行を解消するためだったというわけでは必ずしもなく,単に道具とは別の課題であるしるしについて考察し始めただけであったかもしれません。そこのところにはっきりとした関係があったのかなかったのかということについては,スピノザの意図としては不明であると僕はしておきます。
 國分が指摘しているのは,実は真理のしるしを追い求めたとしても,道具と同様の無限遡行に至る筈だということです。これは次のように考えるとよいでしょう。もしもある何らかの事柄が真理のしるしになると仮定します。しかしその場合,それが確かに真理のしるしであるということを確証するためには,それが確かに真理のしるしであるというしるしが必要であり,それもまた真理のしるしのしるしであるということを確証するような別のしるしを必要とするといった具合に,この関係が無限に連鎖してくことになるのです。
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利子&別の問題

2024-03-23 19:20:59 | 歌・小説
 『夏目漱石『心』を読み直す』の中で,先生が下宿部屋にKを同居させる際の,先生の経済的事情が語られています。
                                       
 先生は叔父に相続した財産を騙し取られました。とはいえ先生は,自身が受け取ることができた財産の利子のみによって生活していくことができたのです。騙し取られてなおそれだけのものが先生に残されていたわけですから,これは先生の父がいかに財産家であったのかということを示すエピソードであって,このことは僕も理解していました。この当時はイギリスではこうした利子生活者というのが少なからず存在していたようで,イギリスに留学していた漱石はそのことを知っていました。だから『こころ』にも利子だけで生活する先生を登場させることができたのでしょう。
 僕が読みそこなっていたのは,先生は利子だけで生活することができたのですが,必ずしもその利子のすべてを使って生活していたわけではないということです。先生は洋書とか着物といった,日常生活には必ずしも必要でなかったものも購入していたのですが,それでも利子のすべてを使っていたわけではなく,利子の一部でそうした暮らしを送っていたのです。先生は利子の半分で生活していたと遺書の中でいっています。したがって残りの半額の利子はすべて預金の方に回り,預金額はさらに増大していくのですから,先生が生活していくための利子というのは,先生が生活していけばいくほど増えていったことになります。
 このゆえに先生は,Kの下宿代を自身で負担しても,預金の元金を減らさずに暮らしていくことができる余裕があったということになります。たぶんそれがなければ,いくらKが経済的に困窮していたとしても,Kを同居させるだけの決断はできなかったと思われます。むしろ先生は,使いきれずにいる利子の使い道を考えていたのかもしれず,そうなるとKを同居させるというのは渡りに船であったのかもしれません。
 利子の半分だけで生活していたということは,受け取る利子の額がさらに増額されていくということを意味します。このことを僕は見落としていました。

 ここでは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』が未完に終わった理由を探求しようとしているわけではありません。僕はドゥルーズの見解には賛同しませんが,このことについては繰り返して探求はせずに,先に進めます。
 『エチカ』では,知性intellectusの道具instrumentumとしての真理veritasに関する無限遡行は解消されています。所与のものとして現実的に存在する人間には共通概念notiones communesという真理があるということになっているからです。ただし,このことはこのことで別の問題を発生させます。僕たちのうちに所与のものとしての真理があるのだとしても,それが僕たちにとって真理として知られるのがなぜかということは,このことのうちに含まれていません。とくにスピノザの哲学の場合,現実的に存在する人間は必然的にnecessario諸々の事物を表象するimaginariことになっています。これは第二部自然学②要請三および第二部定理一七から明白であるといえます。つまり現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには,共通概念と諸々の表象像imaginesとが必ず存在しているのです。このとき,共通概念は十全に認識される思惟の様態cogitandi modiなので真理なのですが,表象像というのは混乱した観念idea inadaequataですから真理ではなく虚偽falsitasです。したがって,たとえ共通概念が所与のものとして僕たちの精神のうちにあるのだとしても,表象像もあるのですから,それらを選別して前者を真理,後者を虚偽として認識するcognoscereことができるのでなければ,単に所与のものとして僕たちの知性のうちに真理があるというだけにすぎず,僕たちはその真理を道具として用いることはできないでしょう。よって,真理にはそれを真理として教えるようなしるしsignumないしは標識が必要なのであって,それにより僕たちはそれを真理と認識し,真理であると知ることができるがゆえにそれを道具として用いることができるようになるのです。つまり,無限遡行の問題が解消されても,真理の標識ないしは真理のしるしという新しい問題が発生してくるのです。
 『知性改善論』では,無限遡行の問題が解消されていないので,それを解消する方法として真理のしるしが探求されるという順序になっています。ただ,無限遡行の問題をスピノザは軽視していましたので,その解釈でいいのかは微妙です。
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叡王戦&補完

2024-03-22 19:14:48 | 将棋
 19日に指された第9期叡王戦挑戦者決定戦。対戦成績は永瀬拓矢九段が1勝,伊藤匠七段が4勝。
 振駒で永瀬九段の先手となって角換わり。後手の伊藤七段は右玉に構えました。
                                        
 先手が飛車を打ち込んだ局面。局後の話だとここまでは予定だったということですので,事前の研究があったものと思います。
 後手は☖2二角と打ちました。これは飛車を捕獲しにいった手。どうも先手の研究にはなかったようです。
 先手は☗2五桂と打ちました。これは☖3一金なら☗同飛成☖同金に☗3三角と打とうという意図。
 そう進んではいけないので後手は☖3一金打で飛車を捕獲しました。この場合は☗2二飛成☖同金寄で飛車角交換。ここで☖9八飛を避けて☗6八王と早逃げしたのですが,☖2四歩と突かれ☗7三角☖2五歩と打った桂馬を無条件で取られ,一気に悪化しました。
                                        
 第1図まで予定だったのに,☖2二角と飛車を捕獲しにくる手を研究していなかったのは僕にはすごく意外です。その局面で☗9一龍と香車を取るのが最善とされましたが,それなら飛車を打たずに取れたわけですから,研究に不思議な穴が開いていたという感じを拭えません。
 伊藤七段が勝って挑戦者に。叡王戦五番勝負には初登場。第一局は来月7日に指される予定です。

 ハンマーを作るための道具instrumentumが必要で,その道具を作るための道具が必要でといった具合に無限遡行するにしても,ハンマーによって人間は鉄を鍛えることができないということにならないというのはその通りというほかありません。現に人間はハンマーで鉄を鍛えているからです。しかしこれはあくまでも知性intellectusの道具の比喩なのであって,比喩である以上はそのまま知性の道具に適用することができるというわけではありません。ところがスピノザは,ハンマーに関するこの比喩をもち出すだけで,知性の道具についてこの比喩が成立する確たる理由を語っているわけではありません。つまり,ハンマーについて妥当するのだから,知性の道具についても妥当するであろうと推定しているのです。ですがこれは気楽な推定なのであって,事の重大さにスピノザは気付いていなかったというのが國分の指摘であるといえます。
 なのでこの指摘は,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』が未完に終わったことに関するドゥルーズの見解を補完するような内容になっています。ドゥルーズGille Deleuzeによれば,スピノザは『知性改善論』を書いている段階では共通概念notiones communesの理論を持ち合わせていなかったので,知性の道具に関する無限遡行を免れることができず,後に共通概念の理論を発見することでこの無限遡行を解消したのだけれども,その時点では『知性改善論』の議論があまりに錯綜してしまっていたためにそれを導入することができず,方法論の執筆は断念して『エチカ』に共通概念の理論を導入したのです。『知性改善論』を執筆しているときのスピノザが,知性の道具の無限遡行の問題の重大さに気付いていなかったということは,確かにそのドゥルーズの見解を補完する内容になっているといえるでしょう。
 ただしこれはあくまでも補完なのであって,國分がドゥルーズの見解に同意しているということではありません。國分は『知性改善論』が未完に終わった理由についてここで語ろうとしているわけではなく,知性の道具に関する無限遡行を『知性改善論』は逃れていないということを指摘しているだけだからです。僕はドゥルーズの見解には同意しませんが,そのことについてはここでは繰り返しません。
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京急電鉄賞京浜盃&解消

2024-03-21 19:19:35 | 地方競馬
 昨晩の第47回京浜盃
 マッシャーブルムの逃げとなって2番手にはティントレット。2馬身差でサントノーレとアンモシエラ。4馬身差でハビレ。4馬身差でシークレットキー。2馬身差でブラックバトラーとパッションクライ。フジマサテイオーは大きく引き離されるという前半はとても縦長の隊列。ハイペースでした。
 3コーナーからマッシャーブルムとティントレットは雁行。その後ろはサントノーレとアンモシエラがまだ併走し,外を回ってハビレも追い上げてきました。直線の入口ではティントレットが単独の先頭に立ち,マッシャーブルムはここで一杯。ティントレットの外に出たサントノーレが前に出ると,あとは後ろを引き離していく一方になっての楽勝。アンモシエラとハビレが並んでさらに外から追ってきて,ティントレットを差して2着争い。これはフィニッシュまで続きましたが,ずっと前にいたアンモシエラが凌いで7馬身差の2着。ハビレが4分の3馬身差の3着。大外から追い込んできたシークレットキーが2馬身差の4着で直線先頭のティントレットがクビ差で5着。
 優勝したサントノーレ鎌倉記念以来の勝利で重賞は初制覇。それ以降の重賞はどちらも3着でしたから,ここでも通用すると思われました。ただこれだけの楽勝になったのはこれまでの戦績からは意外で,もしかしたらレースのレベルが低かったのかもしれません。最大の前哨戦でこれだけの圧勝ですので,羽田盃でも有力なのは間違いないでしょう。父は2016年に北海道2歳優駿を勝ったエピカリスでその父はゴールドアリュール。母の父がサウスヴィグラスで祖母の父がサクラローレル。Saint Honoreはフランスの地名。
 騎乗した北海道の服部茂史騎手は2019年のエーデルワイス賞以来の重賞2勝目。南関東重賞時代も含めて京浜盃は初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師は2017年のJBCレディスクラシック以来の重賞2勝目。こちらも京浜盃は初勝利。

 『エチカ』は方法論を著したものではありませんが,道具instrumentumの無限遡行に関する問題は解消されています。これは共通概念notiones communesが導入されているからです。第二部定理三八系にあるように,現実的に存在する人間の知性intellectusのうちには,所与の道具として共通概念があるということになっているからです。この系Corollariumは当然ながら第二部定理三八の帰結であって,そちらの定理Propositioに依拠する限り,この道具というのはきわめて単純な道具なのであって,それ自体で多くのことを知性がなし得るわけではありません。ただこうした素朴な道具がある限り,第二部定理三九の様式でさらに複雑な共通概念すなわち道具を製作していくことができるわけですから,知性がより複雑な事柄についても考察して,諸々の真理veritasに到達することができるようになっているわけです。これをハンマーの比喩で説明すれば,現実的に存在する人間にはハンマーは所与のものとして与えられているわけではないけれども,ごく単純な道具はいくつか与えられていて,そうした道具を組み合わせていくことでついにハンマーを製作することができるようになるので,ハンマーを用いて鉄を鍛えることもできるようになるということです。したがって『エチカ』では,真理に到達するためには何らかの道具が必要で,その道具のために別の道具が必要でという関係があるということは否定されているわけではないとしても,所与のものとして単純で素朴な道具は知性に与えられているので,その関係が無限に連鎖していくということも否定されるのです。
                                   
 このことはこのことで別の問題を生じさせるのであって,それが真理のしるしsignumに関係します。しかしその前に,次のことをいっておきましょう。
 國分が指摘しているのは,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で方法論を示そうとした段階では,スピノザは道具の無限遡行については理解していたのだけれども,その問題の重大さには気付いていなかったのではないかということでした。これはハンマーの比喩をスピノザがもち出しているときに妥当するのであって,スピノザはハンマーに関する道具の無限遡行があるとしても,だから人間は鉄を鍛えることができないというだけで済ませています。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&道具

2024-03-20 18:51:35 | 将棋
 17日に放映された第73回NHK杯の決勝。対戦成績は藤井聡太NHK杯選手権者が4勝,佐々木勇気八段が1勝。
 振駒で佐々木八段の先手となり,角換わり相腰掛銀。先手にまとまった研究がある進展になったように思われます。ただ後手の藤井NHK杯選手権者もうまく対応。終盤は後手の方が抜け出しました。
                                        
 ここで☖5五角成と詰めろを掛けたために,☗2四飛が詰めろ逃れの詰めろとなって逆転しました。王手の連続で詰めろを外すことはできたのですが,先手玉を詰ますためには駒が足りず,先手の勝ちになっています。ここは☖6六角成なら☗2四飛でも先手玉が詰むので後手の勝ちでした。
 佐々木八段が優勝。2013年の加古川青流戦以来となる2度目の棋戦優勝です。

 ハンマーは鉄を鍛える道具instrumentumそのものですから,そのハンマーを用いた喩えは,知性intellectusの道具が何を意味するのかを示すためには適切で分かりやすいといえます。だからスピノザも『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』ではこうした比喩を使用したのでしょう。一方,鉄を鍛えるためにはその道具としてのハンマーが必要で,そのハンマーを製作するためにはそのための道具が必要でといった具合の無限遡行があるとしても,だから人間は鉄を鍛えることができないという結論を出すことはできないのはその通りであるといえます。したがって,知性の道具として何らかの観念ideaが必要で,その観念を形成するためには別の観念が必要でといった具合の無限遡行が,知性の道具の場合にも成立することはスピノザは理解していたのですが,だから人間は鉄を鍛えることができないという結論を出すことはできないのと同様に,人間は何らかの真理veritasに到達することはできないという結論を出すことはできないと,スピノザはここではいいたいのです。
 ところが,『知性改善論』のこの部分は,このような無限遡行から人間は真理に到達することができないという結論を出すことができないということを示しているだけであって,その無限遡行をどのように脱出するのかということや,どのようにすれば真理に到達することができるのかということについては結論を出しているわけではありません。國分がいいたいのは,スピノザはこの無限遡行から脱出することについてあまりに軽く見積もっていて,だからここでは,無限遡行があっても真理に到達することはできないと結論することはできないとだけいって,真理に到達することができるということについては,容易に論証することができると考えていたのだろうということです。実際に『知性改善論』はこの種の無限遡行から脱出することができないような形で未完のまま終了してしまっているのですから,そうした歴史的な事実からみる限りは,國分の指摘は適切なものであるといえるでしょう。
 スピノザは無限遡行には気付いていました。この無限遡行もまた,スピノザの哲学に特有のことではなく,真理を目指すすべての哲学に妥当するといえるでしょう。
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棋王戦コナミグループ杯&無限遡行

2024-03-19 19:21:26 | 将棋
 17日に鬼怒川温泉で指された第49期棋王戦五番勝負第四局。
 伊藤匠七段の先手で角換わりを志向しましたが,後手の藤井聡太棋王が拒否して村田システムの立ち上がり。先手だけ飛車先を交換してから棒銀に。棒銀は銀が交換になれば成功ですが,この将棋は飛車先交換をしてからの銀交換でしたから,通常ほどの成功ではなかったかもしれません。それでも先手が歩を得する進展でしたので,失敗ということでもなかったのだろうと思います。
                                        
 後手が3五の歩に狙いをつけてきたところ。ここで先手は☗2六銀と打って受けました。これは棒銀で交換した銀を互いに打ち合うという進展なので後手の方が得をした筈で,先手にとっては雲行きが怪しくなってきたといえそうです。
 後手は☖5五歩☗同角と捨ててから☖3一角と引きました。これは先手に銀を打たせたことに満足して,角を別のところで使おうという意図で,この意図が見事だったと思います。
 先手は☗2五歩☖3三銀と引かせました。ただ引いた後手の銀を守備に効くのに対し,歩を打ってしまった先手は銀を働かせるのに苦労しそうですから,この二手の交換も先手にとって損だったように思えます。
 ☗7七桂と銀取りに跳ねましたが,5筋の歩を捨てておいた効果で☖5四銀。
                                        
 角取りですから角を逃げるほかありませんが,☖8六歩から角を転換した後手が,歩を損してはいるものの駒の働きで上回り,指しやすくなりました。
                                        
 3勝1持将棋で藤井棋王が防衛第48期からの連覇で2期目の棋王です。

 この部分は『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』を対象としている箇所なので,國分は『知性改善論』の議論に沿って進めていきます。ですからここでもそれに倣いますが,真理veritasのしるしsignumが必要であるということはスピノザに特有のことではないのですから,ここでいわれていることは,スピノザにだけ妥当するというわけではないという点に注意しておいてください。つまりこの種の問題は,真理獲得の方法methodusを示そうとするときには,常につきまとうものであるということです。
 『知性改善論』では,方法論の導入部分で,真理のしるしについて考察される前に,探求をしていくための道具instrumentumについての考察がされています。探求するのは知性intellectusですから,ここでいわれる道具というのは観念ideaのことを意味します。つまり探求を進めていくにあたってはその探求をするための道具としての観念が必要だということです。このこと自体は当然のことであって,方法について探求するためにはどのような思想であっても必要とされることです。ところがこの場合,この道具は方法そのものを意味することになってしまうので,ある種の無限遡行に至ることになってしまう危険性が伴っています。実際にスピノザはその危険の中に踏み入れてしまったといっていいと思うのですが,こうした危険性というのはやはりスピノザに特有のものではありません。
 何らかの道具を作るためには,その道具を作るために別の道具が必要とされます。しかしその道具を作るためには別の道具が必要で,その道具を作るためにも別の道具が必要で,といった具合に無限に連鎖していってしまうというのが,ここでいわれる無限遡行です。実際はこういう無限遡行があるということは,『知性改善論』を執筆している時点でのスピノザは気付いていました。スピノザはこのことを鉄を鍛えるという例を用いて説明しています。すなわち,鉄を鍛えるためにはハンマーが必要だけれども,ハンマーを製作するためには別のものが必要で,それを製作するためにさらに別のものが必要でといった具合に無限に連鎖してくけれども,だから人間は鉄を鍛えることはできないという結論を出すことはできないというのがその例です。
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花と海といで湯賞&真理獲得の過程

2024-03-18 19:07:11 | 競輪
 伊東温泉競輪場で行われた昨晩の花と海といで湯賞の決勝。並びは吉田‐雨谷‐神山の茨城栃木,道場‐岩本‐岡村‐萩原の南関東,川口‐井上の西日本。
 スタートを取りにいったのは岡村と雨谷。雨谷が誘導の後ろに入れそうだったのですが,内の岡村に譲って道場の前受け。5番手に吉田,8番手に川口で周回。残り3周のホームから川口が上昇していったのですが,誘導との車間を開けていた道場がうまく牽制しつつ突っ張りました。川口は引くことになり,周回中と同じ隊列の一列棒状に戻りました。残り2周からは道場が全力で駆けていき,そのまま打鐘から最終周回のホームも過ぎ,バックに戻りました。ここから岩本が番手捲りを敢行。4番手に続いていた吉田が捲りに出ました。岩本は直線でも後ろを離していくような形となって楽勝。岩本マークの岡村が1車身半差の2着に残って南関東のワンツー。捲り追い込んだ吉田が半車輪差の3着。
 優勝した千葉の岩本俊介選手は前回出走の京王閣のFⅠを完全優勝していて,2開催連続での完全優勝。GⅢは一昨年12月の松戸記念以来となる5勝目。このレースは脚力では岩本と吉田が上位。ただ岩本は道場の番手で,道場は先行意欲が高そうなので,岩本の方が有利だろうと思っていました。その展開予想通りのレースになりましたので,楽勝になったのも当然。前受けさせてしまえば突っ張られてしまうでしょうから,雨谷は誘導の後ろに入れたのであれば入った方がよかったのではないかと思います。

 『スピノザー読む人の肖像』のフーコーMichel Foucaultについて触れられた部分の少し後で,真理獲得の方法についての説明がなされている部分があります。この方法論自体は『スピノザの方法』の主要テーマのひとつですから,そのことについてここで考察することはしません。ただこの部分では,スピノザが真理veritasを獲得する方法というのを入手するための過程について簡潔にまとめられています。これはとても役立つことだと思いますので,ここで紹介するとともに,いくらかの補足を加えておくことにします。
                                        
 これは当然のことではあるのですが,まず踏まえておかなければならないのは,真理をいかにして獲得していくのかという問いは,スピノザの哲学に特有の問いではありません。これはおおよそ哲学一般に共通する問題です。デカルトRené Descartesの方法論的懐疑doute méthodiqueというのはまさにそうした方法をデカルトの仕方で示したものなのであって,少なくとも哲学が真理を探求しようとするためには,前もって解決されておかなければならない事柄であるといえます。一般的に考えて,真理でないこと,いい換えれば虚偽falsitasを獲得することを目指す哲学があるわけはないのであって,哲学はそれが哲学である限りでは真理を獲得することを目指します。しかし,何らかの事柄を獲得したとき,つまり哲学者の知性intellectusがある事柄を認識したとき,それが真理であるか否かが分からないのであるとすれば,真理を獲得するということは初めから無理であるといわなければなりません。したがってその認識cognitioが真理であるのかそれとも虚偽であるかという規準が前もって哲学者の知性のうちにあるのでなければ,その哲学者は真理を知ることができませんし,真理獲得の方法を示すこともできないでしょう。したがって,真理獲得の方法を示そうとするのであれば,哲学者が認識したことが,真理であるのか虚偽であるのかを判定する規準があるのでなければなりません。これは真理の標識とか真理のしるしsignumといわれるものです。ある認識すなわち観念ideaが,真理であることを示すしるしがあるのなら,そのしるしを有する観念は真理であり,そのしるしを有さない観念は虚偽であるということになり,その条件を満たせます。
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返信&強い決意

2024-03-17 19:42:38 | 哲学
 オルデンブルクHeinrich Ordenburgはスピノザの外見を知っていたのですから,少なくともスピノザがユダヤ人であるということは分かっていたのです。その上で書簡三十三では,ユダヤ人の帰還に関して聞いていることと,そのこと自体に関するスピノザの考えを尋ね,とくにアムステルダムAmsterdamのユダヤ人がこのことについて何を聞き,どう受け止めているのかを知りたくてたまらないといっています。スピノザがユダヤ人であるということをオルデンブルクは知っていたということを踏まえれば,オルデンブルクは当事者であるユダヤ人としてのスピノザの考えを知りたかったのでしょうし,当事者であるユダヤ人としてスピノザが聞き及んでいることを知りたくてたまらないといっていると解するべきなのではないかと僕は思います。しかし一方で,スピノザはユダヤ人であるにしても,アムステルダムのユダヤ人共同体から追放されていることをオルデンブルクは知っていた可能性がきわめて高いと僕には思えますので,この質問はいかにも不自然なものに僕には感じられるのです。
                                        
 この書簡の返信は遺稿集Opera Posthumaには掲載されていません。書簡三十三はユダヤ人の帰還だけを問うたものではありませんから,スピノザが返事をしなかったというようには僕には思えません。そしてスピノザは自分の書いた書簡についてはそのすべてを保管していたのですから,その返信の原稿もあったのではないかと推測されます。したがってそれが遺稿集に掲載されなかったのは,編集者たちが何らかの理由で掲載しなかったからではないかと思うのですが,仮にそうであったとしたら,その理由がどのあたりにあったのかというのは不明です。そもそも書簡三十三は遺稿集に掲載されたのですから,その返信を掲載しないというのは不自然すぎるようにも思えます。となると,そもそもスピノザが返信を書かなかったということになるのですが,そうするとオルデンブルクのほかの書簡には返事を書いているスピノザが,なぜこの書簡に限っては返事を書かなかったのかという疑問が生じることになります。
 スピノザが返事を書かなかったにせよ,僕が推定するように編集者たちが遺稿集への掲載を見送ったにせよ,何らかの理由があったのには間違いありません。何かそのヒントとなるものがほしいと僕は強く思っています。

 スピノザの哲学に狂気の居場所が残されているのは,直接的にはデカルトRené Descartesの哲学に対する批判であるといえるでしょう。しかし,現代社会のオペレーションシステムは,デカルトの創作したオペレーションシステムになっているということに注意を払えば,それは単にデカルトに対してだけ通用するものであるというわけではなく,現代社会を生きる僕たちに対しても向けられている批判であるといえます。つまりそれは,現代の僕たちの,理性への過信に対する警鐘であるといえるのであって,僕たちはその観点からスピノザの注意喚起を理解するのがよいと僕は考えます。
 僕たちはもしかしたら理性ratioによってすべての狂気を払拭した,あるいは払拭していると思い込んでいるかもしれません。しかし実際はそうではないのであって,第四部定理四および第四部定理四系の文脈から,人間というのは現実的に生きている限りは常に狂気に晒されているのであって,現に狂気を孕みながら生きているということになるのです。もしもそのことに気付かなければ,僕たちは容易に自身の狂気を自身の理性と勘違いしてしまうでしょう。狂気と共に生きている人間が現に存在していると感じることはあるかもしれませんが,そのように感じる人は,往々にして自分はそうではないと思い込んでいるものです。しかし実際には,現実的に生きている人間は多かれ少なかれ狂気と共に生きているのであって,それに例外はありません。そしてそのことを思えば,理性によって真理veritasを探求しようとするときに,強い決意decretumを必要とするのは,デカルトやスピノザの時代だけでなく,現代においても同様であるといえます。むしろ現代の方が,そうした決意が必要とされるのかもしれません。デカルトやスピノザの時代は,理性が確たる地位を築いていなかったがゆえに,真理の探究のためには強い決意が必要とされたのでした。それに対していえば,現代は理性の地位があまりにも確立され過ぎてしまったがために,真理を探究するために強い決意が必要とされるようになったといえるのではないでしょうか。
 フーコーMichel Foucaultの『狂気の歴史Histoire de la folie à l'âge classique』に関連する論考はこれだけです。次の考察に移ることにします。
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