スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&神学と哲学の区別

2015-12-31 19:29:28 | 地方競馬
 北海道から1頭,笠松から2頭が遠征してきた第39回東京2歳優駿牝馬
 8番より外の馬は総じて遅れ気味の発馬になりました。先手を奪ったのはスアデラ。2番手にオウカランブ。外の方で最も真面な発馬だったモダンウーマンが3番手。エメンタールベルン,マックスガーデン,エクレアオールまでほぼ1馬身の間隔で追走。カラオケスナック,スウィフトテーラー,ミスミランダー,リンダリンダの4頭がその後ろで集団を形成しました。最初の800mは50秒8のミドルペース。
 3コーナーを回るとオウカランブは騎手の手が動き出し,外からモダンウーマンに交わされると後退。直線の入口ではスアデラとモダンウーマンの併走に。さほど厳しいペースではなかった筈ですが思いのほかスアデラは抵抗できず,モダンウーマンが抜け出して快勝。中団から脚を伸ばした北海道のリンダリンダが1馬身半差の2着。その外を伸びた笠松のミスミランダーが4分の3馬身差で3着。
 優勝したモダンウーマンは先月のローレル賞に続いて南関東重賞を連勝。そのときはスアデラに対してキャリアで優った部分もあったと思え,あるいは逆転もあるかと思っていましたが,むしろ差をつけることに。前回は逃げ切ったのに対し,今回は控えて差したものなので,余計に価値が高いように思います。無事なら来年の牝馬クラシックの中心的存在となるでしょう。父はサウスヴィグラス。母の父は2000年のアンタレスステークス,2001年のアンタレスステークス,2002年の平安ステークス,2003年の平安ステークスとマーチステークスを勝ったスマートボーイ。祖母の半弟に2002年の阪神ジャンプステークスを勝ったミレニアムスズカ
 引き続いて手綱を取ることになった北海道の阿部龍騎手はローレル賞に続く南関東重賞2勝目。前走後から管理することになった川崎の佐々木仁調教師は東京2歳優駿牝馬初勝利。

 スピノザの考え方の特異さを形而上学的に示すなら,神学と哲学には「共通点」はないとした点にあります。『神学・政治論』にみられる神学と哲学の棲み分けの主張は,形而上学的にはこのことを論拠としているといえます。つまり神学と哲学は同一の属性には属さず,むしろ各々が別の属性であるというようにスピノザは認識していたといえるでしょう。
                                
 「共通点」がないというのは,あくまでも形而上学的な意味です。両者に共通する要素がないという意味ではありません。スピノザは神学が人を敬虔にすること,そして哲学もまた人を敬虔にするということは認めています。しかしそこには方法論における差異があるのであって,その差異は,また形而上学的にいうなら様態的区別に属する差異ではなく,実在的区別に属する差異であるというのがスピノザの考え方なのです。
 延長の属性と思惟の属性は「共通点」がないので実在的に区別されます。しかしふたつの属性を実在的に考えたなら,そこに共通する何の要素もないわけではありません。なぜなら延長の属性も思惟の属性も神という実体の本性を構成する属性なのであり,神の本性を構成するという意味においては共通であるといえなくもないからです。なのでこの関係をそのまま神学と哲学の関係に置き換えるなら,敬虔という実体が存在し,この実体の本性を構成する属性として神学属性と哲学属性というふたつの属性があるというのが,この点におけるスピノザの考え方を形而上学的に説明した場合の最終的な結論になるでしょう。
 第一部定理三によって,「共通点」を有さないなら一方が他方の原因であったり結果であったりすることはできません。他面からいえば一方の認識が他方の認識の原因にはなり得ません。だから神学を認識しても哲学を認識することはできないし,哲学を理解しても神学を理解することはできません。よって神学が哲学を従属させることはできないし,哲学が神学を従属させることもできないのです。なのでスピノザは両方の立場を批判することになります。つまりスピノザはブレイエンベルフを批判するだけでなく,マイエルのことをも批判することになるのです。
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東京シンデレラマイル&真理属性

2015-12-30 19:17:15 | 地方競馬
 3歳馬が古馬を相手にどんな戦いを見せるかに注目していた第9回東京シンデレラマイル
 マイネジェシカが挟まれるような形で後方から。ブルーチッパーがハナに立つと競り掛ける馬はなく,すんなりとララベルが2番手。その後ろは内にケンブリッジナイスと外にティーズアライズの併走に。最初の800mが51秒0と超スローペースといってもいいような,前の馬たちには楽な流れに。
 3コーナー手前でずっと内を回っていたジュウニントイロが後方から徐々に上がってきてララベルに並ぶような場面がありましたが,そこからララベルがブルーチッパーの外に並び掛けていき,コーナーでこの2頭と後ろの差が開いていきました。直線もこの2頭の優勝争いに終始。ララベルも迫りましたが最後の最後までブルーチッパーが抜かせず,逃げ切ったブルーチッパーが優勝。ララベルがアタマ差の2着で同一厩舎のワンツー。一旦は離されてしまいましたが直線は外に出されていい脚を使ったケンブリッジナイスが3馬身半差で3着。
 優勝したブルーチッパーは8月のスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞2勝目。この馬は牝馬重賞に出ても入着くらいは望める馬なので,南関東限定の牝馬重賞に出れば優勝候補。3歳馬とのはっきりした力量差は不明でしたが,順当な勝利といってもいいと思います。レースを見る限り,僕には距離に限界があるタイプと思えるので,距離の長い牝馬路線に出るより,牡馬相手でもマイルから短距離のレースに出た方が活躍できるのではないかという気がしています。叔父に2011年のさきたま杯を勝ち,南関東重賞も8勝したナイキマドリード。Blue Chipperは賢人。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手は正月の報知オールスターカップ以来の南関東重賞制覇。東京シンデレラマイルは初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師も東京シンデレラマイル初勝利。

 『神学・政治論』にみられるスピノザの神学と哲学の関係の考え方は,支配的だったふたつのどちらにも属さないものでした。現在でもそういえる可能性があると思いますが,当時としてはとてもユニークで,だから正確に理解するのは難しかったのではないかと思えます。ここでは形而上学的な説明を試みます。
                              
 一般に,XがYに従属するとしたら,YがXを限定していることになります。これに異論は出ないだろうと思います。したがってスピノザの哲学でこれを考えるなら,第一部定義二第一部公理五により,XとYには「共通点」があるのでなければなりません。ここでは支配的だった考え方のうち,哲学が神学に従属する場合,すなわち神学が哲学を限定する場合をブレイエンベルフ,逆に神学が哲学に従属する場合,すなわち哲学が神学を限定する場合をマイエルに代表させますが,ブレイエンベルフもマイエルも,この意味において神学と哲学に「共通点」が存在するということを是認する点では同じだったことになります。
 スピノザの哲学でいう「共通点」とは,同じ属性に属するということでした。したがって形而上学的にいうなら,ブレイエンベルフもマイエルも,神学と哲学は同じ属性に属する様態であると認識していたことになります。ブレイエンベルフは聖書の中で規定されている真理とは対立しないといっています。マイエルは理性を真理を発見するための知性の能力と規定し,この規定によってそれが聖書を解釈するための最良の道具であるという主旨のことをいっています。そこでブレイエンベルフもマイエルも存在すると暗にではあれ規定していた神学と哲学の間の「共通点」を示す属性を,ここでは真理属性ということにしましょう。つまり神学も哲学も真理属性の様態であるという形而上学的見解において,ブレイエンベルフとマイエルは一致していたとみなすのです。もちろんブレイエンベルフとマイエルは各々の考え方の代表にすぎないのですから,神学が哲学を従属させるべきだと考えていたすべての人が,また神学が哲学に従属するべきだと考えていたすべての人が,この形而上学的見解においては一致していたことになります。
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農林水産大臣賞典東京大賞典&神学と哲学

2015-12-29 19:20:41 | 地方競馬
 地方競馬の年末の大一番,第61回東京大賞典
 ナムラビクターは出負け。先手を奪ったのはコパノリッキー。ホッコータルマエが2番手でマーク。3番手はワンダーアキュートとハッピースプリントの併走。サミットストーン,グランドシチー,サウンドトゥルーの隊列で最初の正面を通過。向正面に入ると順位こそ変わらなかったものの,前の4頭とサミットストーンの間が4馬身くらい,グランドシチーとサウンドトゥルーの間も2馬身くらいと,隊列は長くなっていきました。最初の1000mは61秒3のミドルペース。
 3コーナーを回ると前の2頭と3番手との差も開いていき,直線の入口ではコパノリッキーとホッコータルマエが雁行。直線でホッコータルマエが競り落として先頭に立ちましたが,大外からサウンドトゥルーが猛然と追い込み,1馬身4分の3差をつけて差し切り勝ち。ホッコータルマエが2着。ゴール直前でワンダーアキュートがコパノリッキーをクビだけ捕えて6馬身差の3着。
 優勝したサウンドトゥルーは10月の日本テレビ盃以来の勝利で大レース初制覇。そのときは展開の利があってのもので僕自身はその時点では半信半疑だったのですが,その後の2戦の内容から,大レースを勝てるだけの力があるということは分かっていました。今日も能力の高い2頭が前で競り合った分の有利さはあったかと思います。自分で動いて勝ちにいくというレースはまだしてなく,この点はとくにダートの競馬では弱点になります。高い能力はあっても,取りこぼす可能性もある馬というように考えておいた方がいいかもしれません。母の父が昨日死亡したフジキセキ
 騎乗した大野拓弥騎手と管理している高木登調教師はJBCレディスクラシック以来の大レース制覇で東京大賞典初勝利。

 神学と哲学の関係については,当時は以下のふたつの考え方が支配的で,双方が対立していたといえます。
 ひとつは哲学が神学に従属しなければならないという考え方です。プロテスタントのカルヴァン派はもちろんこのスタンスです。自由思想を危険思想とみなし,それを敷衍するような書物が発売禁止になったのは,カルヴァン派の影響があったのは間違いないと僕は考えます。議会派が実権を握っていた時代から,そのような運動を起こしていたのは確定できる史実であり,王党派が支配するようになれば,その運動の効果は表出してくると解するのが妥当だからです。
 ブレイエンベルフWillem van Blyenburgはスピノザへの書簡の中で,自身の自然的認識が聖書に示されている神のことばと矛盾した場合には,後者に権威を認めるのだといっていました。これは明らかに哲学を神学に従属させることを選択しているといえます。ブレイエンベルフは牧師であったわけではありません。同じ書簡の中では自身のことをキリスト教徒的哲学者としています。おそらくデカルト主義者の中にも,この種のキリスト教徒的哲学者が少なからず存在していたと思われます。つまり支配的といったふたつの考え方のうち,圧倒的多数がこちらに属していたのではないかと僕は考えています。
                                    
 デカルト自身についていえば,僕は必ずしもこちらに属していたとは考えません。デカルトは表立って対立することを避けようとしていたのは間違いないと思いますが,信念として哲学が神学に従属しなければならないと考えていたわけではないと思います。むしろブレイエンベルフがいっているような神のことばの中に,理性的認識から外れているようなことがあるとするなら,そちらの方に権威を置こうなどと少しも考えてはいなかったのは間違いないと思います。ただそうした考えを表明はしなかったというだけのことでしょう。少なくともデカルト主義者のうちには,デカルトよりよほど反動的な思想家が存在したと僕は判断します。
 マイエルLodewijk Meyerの立場はこれと逆です。すなわち神学が哲学に従属しなければならないというものです。少数派でしたが,こういう思想家も間違いなく存在しました。
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リコー杯女流王座戦&発禁処分の理由

2015-12-28 19:06:52 | 将棋
 25日に指された第5期女流王座戦五番勝負第五局。
 規定で振駒が行われ加藤桃子女流王座の先手。伊藤沙恵女流二段のうそ矢倉。序盤は先手がうまく指して作戦勝ちに。後手が局面を動かすために仕掛けると,先手はすぐさま反撃に転じました。その判断自体は問題なかったようなのですが,方向を誤ってしまったようです。
                                   
 後手が3三の銀を進めたところ。感想戦ではここで▲7五歩と突くべきだったという結論が出ました。この局面ではそうかもしれませんが,総合的にいえば玉を囲わないまま反撃に転じたのが問題だったように僕は思います。
 実戦は▲5四歩と突きました。ここから△同銀▲7三角成△同桂までは一本道。先手は▲5五歩と叩きました。これに対して△同銀と取ったのはなかなか強気な一手に思えます。先手は▲3五歩。
 △4四銀▲同銀△同歩と進めるのは後手としては仕方ないところでしょう。先手は▲2四歩△同歩と突き捨てて▲5一角と打ち込みました。
 △6四角は当然とはいえ反撃含みの好手。次の▲6五銀は△同桂▲同歩で駒損になりますが,ここに至っては仕方なかったと思います。もっとも,第1図で▲5四歩と突くならこのあたりまでは読んでいる筈で,先手としては予定通りだったのでしょう。しかし△5二飛と回られて困ったようです。
 ▲2四角成△7三角というのが常識的な進行だと思うのですが,それではいけないとみたらしく▲6四歩△5一飛で角を取り合い▲6三歩成とと金を作りました。手番を得た後手は△6六歩。
                                   
 と金ができているので駒損の分は相殺されていると思いますが,この手番の攻めがうるさく,結果的に振りほどくことができませんでした。この後,攻め合いに出られそうなところでも受けに回ってしまい,後手の快勝のような将棋になりました。
 伊藤二段が勝って2勝2敗1持将棋に。五番勝負ですが異例の第六局が年明け6日に指されることになりました。

 意外に思われるかもしれませんが,1670年に発売された『神学・政治論』は売れ行きが好調で,増刷されています。処分を受ける直前,1673年から翌年にかけて出たのが第3刷でした。ですがこのときは『神学・政治論』が単独で出版されたのではなく,『聖書解釈としての哲学』との合本だったのです。こうしたことが可能になったのは,マイエルの著作の出版者も『神学・政治論』と同じリューウェルツであったからでしょう。
 『ある哲学者の人生』では,知られていなかった『聖書解釈としての哲学』の著者がスピノザであると誤解していた人がいたとされています。その誤解を生じさせた要因のひとつに,この合本としての発売というのがあったのではないかと思います。『神学・政治論』の方は,少なくともこの第3刷が出た時点では,伏せられていた著者がスピノザであるということは,ほとんど公然の秘密と化していたからです。
 発禁処分を下した当局が,どのように認識していたのかは分かりません。『聖書解釈としての哲学』は,明らかに神学を理性ないしは哲学に従属させているといえますから,そうした内容の面が問題になったと考えることもできます。また,王党派はカルヴァン派と深く結託していたのですから,同じプロテスタントとはいえルター派に属していたマイエルの著書を,カルヴァン派の牧師たちの後押しを受けて発売禁止にしたというのもあり得ない想定ではないでしょう。そして『聖書解釈としての哲学』の著者がスピノザであるという誤解から,同時に発売禁止にされたという可能性もないわけではありません。このとき,ホッブズの『リヴァイアサン』のオランダ語版も発売禁止処分を受けているのですが,『神学・政治論』に示されている政治理論と,ホッブズの政治理論との間には,はっきりとみてとれるような関係があるからです。
 実際には,『神学・政治論』の著者と『聖書解釈としての哲学』の著者が異なるということは,両方を熟読すれば理解できた筈です。フェルトホイゼンは要約の中で,『神学・政治論』では『聖書解釈としての哲学』でされているような方法が否定されているといっています.
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有馬記念&セラリウスの批判

2015-12-27 19:13:15 | 中央競馬
 2015年の中央競馬を締め括る第60回有馬記念。田辺騎手の昨日の負傷が癒えなかったのでダービーフィズは大野騎手に変更。
 ゴールドシップは互角の発馬でしたがダッシュがつかず最後尾。好発をきめたのはゴールドアクター。これを外から2頭が交わしていき,逃げたのはキタサンブラック。2番手にリアファル。3番手が控えたゴールドアクターになり,ラブリーデイ,サウンズオブアース,マリアライトの3頭がその後ろに並ぶという隊列。超スローペースになりました。
 向正面の半ばからゴールドシップが一気に進出。前にいた馬のうちマリアライトが応戦。ここでリアファルが無抵抗にずるずると後退。ゴールドアクターは内を回り,マリアライトとゴールドシップの直後の形で直線に。粘るキタサンブラックにマリアライトが並び掛けていき,その外に出たのがゴールドアクター。残り100mの手前付近で内の2頭を捕えて先頭。マリアライトとゴールドシップの間に進路を選択していたサウンズオブアースがゴールドアクターのすぐ外から迫りましたが届かず,ゴールドアクターが優勝。サウンズオブアースがクビ差で2着。逃げ粘ったキタサンブラックが4分の3馬身差で3着。
 優勝したゴールドアクターは昨年の菊花賞で3着に入った後,体調を崩して今年の夏の条件戦からレースに復帰。連勝してから前走のアルゼンチン共和国杯も勝って3連勝で初重賞制覇。昨年の菊花賞はレベルが高いレースだったこと,デビュー戦以外は大きく負けておらず底を見せていないこと,中山コースに適性を見せていたことなどから,十分に勝つチャンスがある1頭だと考えていました。今日はうまく立ち回ってのクビ差なので,能力的に傑出していたわけではないと思いますが,これからも大きく負けてしまうようなことは考えにくい馬ではないでしょうか。父はスクリーンヒーロー。その父が第43回と44回を連覇したグラスワンダー
                                  
 騎乗した吉田隼人騎手はデビューから11年9ヵ月あまりで大レース初制覇。管理している中川公成調教師は開業から10年弱で大レース初制覇。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には,マイエルLodewijk Meyerの著作を批判した人物のひとりにピーテル・セラリウスがいたとされています。畠中はセラリウスについて風変りな人物という形容をしています。セラリウスはアムステルダムで,千年王国論を教義とするクエーカー教徒や,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelのようにメシアの再来を信奉するユダヤ人たちと深い関係を構築していて,風変りというのはそのあたりのことを指しているのではないかと推測します。ただ,セラリウス自身はコレギアント派collegiantenでした。哲学的見解は僕には分かりませんが,自由思想に対して不寛容でなかったことだけは確かだったと思います。そのセラリウスにして,マイエルの方法は行き過ぎたデカルト主義だと認識したということです。
 マイエルの方はコレギアント派の会合に出席することもあったとはいえ,信仰としてはルター派のプロテスタントであり続けたとみていいように思います。ただ,キリスト教の宗派内の争いには嫌気がさしていました。『聖書解釈としての哲学』は,キリスト教の派閥主義を終焉させる目的で書かれたようです。マイエルの方法は明らかに聖書解釈を理性ratioに従属させていると僕は解しますが,たぶんこの方法はルター派としての信仰と,少なくともマイエル自身にとっては相容れるものだったのでしょう。それをコレギアント派のセラリウスに批判されたのは,マイエルにとって戸惑うような出来事だったと僕は推測します。これはちょうど,スピノザがフェルトホイゼンLambert van Velthuysenのようなデカルト主義者に『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を批判されたときに感じたような戸惑いと同種のものであったのではないでしょうか。
 『神学・政治論』は王党派がオランダ政治の実権を握った後,1674年に発売禁止になりました。これと時を同じくして発禁処分を受けた書物があったのですが,そのひとつが『聖書解釈としての哲学』でした。ただ,この件に関しては以下の事情も考慮に入れておかなければなりません。
 『神学・政治論』が匿名で出版されていたように,『聖書解釈としての哲学』も匿名での出版だったのです。そして著者がだれであるのかは,あまり知られていなかったようなのです。
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農林水産省賞典中山大障害&マイエルの方法

2015-12-26 19:08:58 | 中央競馬
 以前の日程に戻った第138回中山大障害
 ほとんどのレースで逃げているドリームセーリングがここもハナへ。少し離れた2番手がサナシオンでそれをマークするようにアップトゥデイトが3番手。また差があってエイコーンパス,マキオボーラー,タマモショパン,ダンツミュータントといったあたりが一団で追走というレースが大障害飛越後の向正面まで続きました。この間にアポロマーベリックが競走中止。
 向正面でサナシオンが先頭に。ドリームセーリングは一杯でアップトゥデイトもすんなりと2番手。その後ろの集団からはエイコーンパスだけが追いついてきて,この3頭が雁行するように直線に。真中のアップトゥデイトが伸び脚で優り優勝。粘るサナシオンを捕えたエイコーンパスが半馬身差で2着。坂を上がって力尽きたサナシオンは2馬身差で3着。
 優勝したアップトゥデイトは春の中山グランドジャンプに続き今年のJGⅠを連覇。その後は8月に小倉サマージャンプを使ってこれも勝ち,今日はそれ以来の実戦。明らかに順調さを欠いたローテーションだったと思いますが,それでいて勝つのですから力を高く評価してよいでしょう。競り合いを演じた2頭とは,大障害コースの経験値で上回った部分もあったかもしれません。使い込めないタイプかもしれませんが,さらに活躍を期待してよいものと思います。父はクロフネ
 騎乗した林満明騎手と管理している佐々木晶三調教師は中山グランドジャンプ以来の大レース制覇で中山大障害は初勝利。

 マイエルの著作である『聖書解釈としての哲学』については,『ある哲学者の人生』では内容がもう少し詳しく紹介されています。ただ僕がそれを読む限り,畠中の簡潔な説明との齟齬はいっかなありません。マイエルは聖書の真理を理解するための最良の道具が理性であるという主旨の論述を展開したのです。詳細は別稿で説明しますが,これがスピノザの聖書解釈とは,方法論として異なっているのは間違いないでしょう。
                                  
 アドリアン・クールバッハのふたつの著作に関しては,それがスピノザの方法と一致しているのか反しているのかについての結論を僕は出しませんでした。というのもクールバッハが聖書の中に真理が部分的には含まれていると考えていたのは間違いないと思うのですが,それが具体的にどういう部分を意味しているのかが不明であったからです。ただ,もしアドリアンが,聖書自体の意図するところが真理を示すところにあると認識して,それを理性によって批判しようと企てていたのだとしたら,その方法論はスピノザとではなくマイエルと一致します。マイエルとアドリアンは間違いなく顔馴染であったと推測できますが,両者は哲学と神学の間の関係についての考え方も一致していた可能性があるといっておきましょう。
 マイエルが採用した方法は,デカルト的な合理主義を神学の範疇まで推進したものであったと考えられます。ただし,デカルト自身は自分の合理主義をそこまで進めていくことに躊躇いをもっていました。これはちょうど,自己原因に関してデカルトが一線を超えないように努めていたこと,そしてそのために詭弁が発生してしまったのとパラレルな関係にあります。要するにデカルトはこの面でも表向きには神学者からの反論が生じないようにしていたのです。スピノザが自己原因に関してその一線を躊躇なく踏み越えたのと同じように,マイエルも聖書解釈においてその一線を越えたと考えて間違いないと思います。だからスピノザがカルヴァン派のような反動的保守陣営からだけでなく,フェルトホイゼングレフィウスのようなデカルト主義者からも論難されたのと同様のことが,マイエルの著作にも生じたのです。
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ひろしまピースカップ&ナドラーの説明

2015-12-25 19:23:16 | 競輪
 22日の広島記念の決勝。並びは早坂‐渡辺‐佐藤の北日本,近藤‐片寄‐岡村の南関東,竹内‐金子‐村上の中部近畿。
 村上がスタートを取って竹内の前受け。4番手に早坂,7番手に近藤という周回に。残り3周のバックの入口から近藤が上昇。竹内が4番手まで引くと早坂が発進。これに併せて竹内が上昇。早坂が叩くと4番手が内の近藤と外の竹内で併走に。残り2周のバックに入ったところで竹内が踏み込むと早坂が応戦。打鐘で先行争いになったのですが,渡辺が早坂から離れてしまい,竹内が早坂の番手に嵌り,渡辺は村上の後ろの5番手に入って一列棒状に。早坂の先行でしたがバックに入ると竹内が番手から発進。最終コーナーから渡辺が自力で追い上げていきましたが,車間を斬っていた金子が併せるように踏み出すと,追撃を凌いで優勝。渡辺が半車輪差で2着。7番手からの捲り追い込みになった近藤が半車身差で3着。
 優勝した愛知の金子貴志選手は6月の別府記念以来の記念競輪9勝目。広島記念は初優勝。このレースのポイントはいうまでもなく渡辺が早坂から離れてしまったこと。竹内は早坂との先行争いには敗れた形ですが,番手に嵌ることができました。展開有利にも関わらず末を欠いた印象はありますが,それ以前にかなり脚を使うようなレースになったためでしょう。金子があれだけ車間を開けたのも,それを見越していた上に,自身には余裕があったからだと思われます。できればワンツーを決めたかったでしょうが,うまいレースをしての優勝だったといえるのではないでしょうか。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,より詳しく,そしてやや異なった説明が与えられています。
                                  
 ナドラーSteven Nadlerはまず,スピノザとマイエルLodewijk Meyerはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenを介して知り合ったという説が多数派だということに触れています。ただし僕はそうした説が本当に多いのかは分かりません。スピノザとエンデンとマイエルの3人は自由思想家ですから,そういう可能性があり得ないわけではないことは分かります。ですがナドラーはこの見解に否定的です。その論説には説得力があると感じました。
 マイエルは1654年にライデン大学の哲学科に入学しました。1658年には医学部に移り,1660年に両方の学位を取得して卒業しています。したがってこの7年間はライデンに住んでいたと考えるのが妥当でしょう。この時期はスピノザがアムステルダムAmsterdamでエンデンのラテン語学校で助手をしていた時期と多く重なります。だからマイエルとスピノザがエンデンを介して会うことはできなかったというのがナドラーの論旨の中心です。そしてナドラーは,スピノザとマイエルはライデン大学で会ったのだと結論しています。
 どんなに遅くても,ライデンに滞在中のファン・ローンJoanis van Loonを急に訪問した1660年にはスピノザはレインスブルフRijnsburgに住んでいたと考えられます。そして『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の元はスピノザが同居させていたライデン大学の学生に口述筆記させたものです。つまりスピノザにライデン大学の学生の知り合いがいたことも確実です。なのでナドラーの説は有力です。でもそれが真実であるとまでは僕はいいません。というのもスピノザがアウデルケルクAwerkerkからレインスブルフに居を移したのは,コレギアント派collegiantenとの関係からだったと僕は推定しています。マイエルはコレギアント派の会合にも顔を出すことがあったとのことですから,こちらの関係から知り合った可能性も排除することはできないと思うのです。
 マイエルが医学を学んでいたとき,同じようにそこで学んでいたのがクールバッハ兄弟の兄のアドリアンAdriaan Koerbaghです。おそらく同じ講義に出席する機会も多かったと思われます。たぶんマイエルとアドリアンは知り合いであったでしょう。
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農林水産大臣賞典兵庫ゴールドトロフィー&マイエル

2015-12-24 19:22:05 | 地方競馬
 ちょっとハンデの差が大きすぎやしないかと感じた第15回兵庫ゴールドトロフィー。ラブバレットが出走取消で11頭。
 思いのほか前に行こうとする馬がなく,押し出されるような形から最内のルックスザットキルの逃げに。発走後はエイシンゴージャスとドリームコンサートが並んでいましたが,最初のコーナーを回ったあたりからドリームコンサートが単独の2番手に。向正面に入るとエイシンゴージャスの外にポアゾンブラックが並んで3番手は併走。ドリームバレンチノが外を追い上げていきました。3コーナーを回るとルックスザットキル,ポアゾンブラック,ドリームバレンチノの3頭は雁行。ドリームコンサート,ジャジャウマナラシ,レーザーバレットがその後ろで一団に。ミドルペースだったのではないかと思います。
 ポアゾンブラックはルックスザットキルを競り落としましたが,大外のドリームバレンチノの方が先頭に。ドリームコンサートとドリームバレンチノの間を割ったレーザーバレットがさらにドリームバレンチノを差し切って優勝。ドリームバレンチノが4分の3馬身差で2着。ドリームコンサートの追撃を凌いだポアゾンブラックが1馬身半差で3着。ドリームコンサートはクビ差の4着。
 優勝したレーザーバレットは前々走のオーバルスプリント以来の重賞2勝目。ラブバレットが取消になったので,近況と斤量から最有力候補と考えました。道中の位置としてはあれでよかったのかどうか微妙ですが,うまく捌いてこられましたので結果は出ることに。ただ,今日のレースぶりからするとトップクラスとは差がある印象で,これくらいのメンバーの重賞で勝利数を増やしていくことになるのではないかと思えました。伯父に1997年の中日スポーツ賞4歳ステークスを勝ったオープニングテーマ。Laser Bulletはレーザー銃弾。
 騎乗した戸崎圭太騎手と管理している萩原清調教師は兵庫ゴールドトロフィー初勝利。

 スピノザとの文通があり,遺稿集Opera Posthumaの編集者にもなった人物で,イエレスJarig Jellesと同じように自著があった人物に,ロデウェイク・マイエルLodewijk Meyerがいます。コレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaではスピノザの死を看取った医師としてイニシャルで記述されている人物です。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではこちらの説が蓋然性が高いような記述になっていて,しかしコレルスが指摘するような窃盗があったわけではなく,それは遺品の整理であったのだと推測されています。ただ,ナドラーSteven Nadlerも実際にスピノザの死を看取った医師がシュラーGeorg Hermann Schullerだったという説も完全に否定しているわけではありません。シュラー自身がそう証言しているので,僕はそちらの方が真実ではなかったかと思っています。
 畠中によれば,マイエルはスピノザの親友の中では最も学問的に優れていたとされています。ルター派のプロテスタントでしたが,コレギアント派collegiantenの会合にも出席していたとのことで,おそらくその関係でスピノザと知り合ったものと思われます。デカルトRené Descartesの哲学に深い造詣があり,スピノザに『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の出版を勧めたのはマイエルだとされています。少なくともその序文はマイエルが書いていますので,それ以前の段階で親友といえる間柄になっていたのは間違いありません。なおかつこの序文には,あくまでもこれはスピノザによるデカルトの哲学の注解なのであって,スピノザの考え方とは異なるという主旨のことが書かれています。したがって出版された1663年の時点で,マイエルはスピノザの哲学とデカルトの哲学の相違についても明瞭に理解していたといえます。
                                   
 マイエルの著書は『聖書の解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』というものです。僕はこれは読んだことがないのですが,畠中が説明している内容から察する限り,スピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においては批判しているような方法で聖書を解釈しようとしたものです。このことが原因で,スピノザの晩年にはふたりの友情は冷却したのだという説があるそうですが,僕はその説には否定的です。マイエルが遺稿集の編集者であったことは確定できる史実であって,もし友情関係が崩れていたのだとすれば,それはあり得ないと考えるからです。
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農林水産大臣賞典名古屋グランプリ&イエレスの判断

2015-12-23 19:18:08 | 地方競馬
 今年もJRA勢の争いになるであろうと予想された第15回名古屋グランプリ
 逃げたのはエーシンモアオバー。2番手にニホンピロアワーズで3番手にアムールブリエ。この後ろがサイモンロード,エアマデレーン,ソリタリーキングの3頭。その後ろにキッズニゴウハンとカゼノコという隊列。超スローペースだったと思います。
 道中は目立った動きがなく,2周目の3コーナー手前からニホンピロアワーズがエーシンモアオバーに並び掛けていきました。最終コーナーでニホンピロアワーズが前に出るとエーシンモアオバーはギブアップ。アムールブリエも追い上げてニホンピロアワーズと並ぶように直線に。この時点でアムールブリエは騎手が後ろを振り返るほどの余裕。直線であっさりとニホンピロアワーズを捕え,1馬身の差をつけて優勝。ニホンピロアワーズが2着。アムールブリエを追ったソリタリーキングのさらに外からカゼノコが差して1馬身半差の3着。ソリタリーキングがアタマ差で4着。
 優勝したアムールブリエは8月のブリーダーズゴールドカップ以来の勝利で重賞3勝目。おそらく距離が長い方がよく,牝馬路線は長距離が少ないのでその後は苦戦していたもの。このくらいのメンバーなら牡馬相手でも通用するだろうと考えていましたが,やはりその通りでした。牝馬路線に固執するよりも,牡馬相手でも2000m以上のレースに出走する方が今後も好走の可能性は高いのではないかと思います。母はヘヴンリーロマンス。祖母がファーストアクト。半兄に今年のシリウスステークスを勝っている現役のアウォーディー。Amour Brillerはフランス語で愛の輝き。
 騎乗した浜中俊騎手と管理している松永幹夫調教師は名古屋グランプリ初勝利。

 書簡四十八の二は二通の異なった書簡から構成されていると考えられます。したがって,スピノザからイエレスに宛てられた書簡のうち,遺稿集から排除されたものが,最低でも二通はあったと確定できます。スピノザはレインスブルフに住むようになってからは,親友たちともそうしばしばは会うことができなかったと考えられます。おそらく私信といえるような書簡のやり取りもあった筈で,しかしそうしたものはすべてが排除されているのですから,それまで含めればもっとあったのは間違いないといえるでしょう。
                                   
 ただ,私信に類するものは相手がイエレスであるかどうかに関係なくすべてが遺稿集への掲載を見送られたと解するのが妥当ですから,仮にそういった書簡が存在していたとしても,それは掲載の価値はないと判断されて当然です。むしろたとえひとつだけでもイエレス宛の私信が掲載されていたとしたら,編集者の編集方針は一貫性を欠くことになりますから,なぜその書簡は掲載されるに至ったのかということの方が考えられなければなりません。いい換えれば,たとえスピノザがイエレスに宛てた書簡ならそのすべてが掲載に値する価値があると判断されていたと誤った仮定をした場合にすら,私信が排除されたことに関しては検討の必要性がないのです。
 イエレスからスピノザに宛てられたすべての書簡が遺稿集から排除されたことに注目するなら,四十八の二のふたつの書簡が掲載を見送られたのは,それがイエレスの著書を主題にしていたからではないかと推測されます。僕はイエレスとスピノザの間の文通の掲載に関しては,イエレスが編集者のひとりであった以上,イエレス自身が判断したと考えますし,少なくとも何の関与も果たさなかった可能性はきわめて薄いだろうと思います。そのときにイエレスが自分が出したものには何の価値もないと判断したとすれば,それは自分がスピノザに対して何らかの考えを述べても無価値だと判断したのと同じだと僕は考えます。なのでイエレスの著作に対してスピノザが何らかの言及をしたとしても,やはりそれは価値がないというように判断してもおかしくはないだろうと思うのです。
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ゴールドカップ&排除された著作

2015-12-22 19:17:37 | 地方競馬
 年末の浦和競馬は変則日程。火曜日に第53回ゴールドカップが組まれました。
 シンキングマシーンは出負け。まずレガルスイが前に出ましたが外からソルテが並んでいきました。一時的に3番手との差が開きましたが,レガルスイが引いたのでソルテの逃げになり,切り返してレガルスイが外の2番手。3番手のタイムズアロー,4番手のリアライズリンクスまでは向正面に入るところで差のない隊列に。ハイペースだったと思われます。
 向正面でレガルスイはソルテに並び掛けていったのですが,3コーナーを回ると手が動き出しました。これを外からタイムズアローが交わして2番手に。リアライズリンクスもレガルスイの外で3番手に並んだところで直線に。ソルテだけは手応えに余裕があり,ここから後ろを突き放し,結果的に5馬身の差をつける圧勝。早めに2番手に上がったタイムズアローが2着。自分の競馬はできませんでしたがリアライズリンクスが4分の3馬身差まで迫って3着。
 優勝したソルテは先月のマイルグランプリに続いて6連勝。南関東重賞は5連勝となる7勝目。100mでも距離が短縮するのは僕にはプラスには作用しないと思えたので,もしかしたら取りこぼすシーンもあるかと考えていましたが,まったく問題ありませんでした。逃げなくてもレースはできますが,先手を奪ったという判断もよかったのではないでしょうか。能力だけでいえばこのレベルの戦いならまだ連勝を続けられる筈です。父はタイムパラドックス。祖母のはとこに2003年の新潟ジャンプステークスを勝ったマルゴウィッシュ。Sorteはイタリア語で運命。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手はマイルグランプリ以来の南関東重賞制覇。ゴールドカップは初勝利。管理している大井の寺田新太郎調教師もゴールドカップ初勝利。

 少なくともアムステルダムに住んだことがあるオランダ人にとっては,リューウェルツがそうであったと推測できるように,都市という語句が示すのはアムステルダムであり,アムステルダム以外のどんなところも都市というには相応しくないという共通の認識があったとしましょう。この場合にはスピノザがフォールブルフという村と対比させようとした都市がアムステルダムであった可能性が大きく高まることになります。そしてこの可能性が高くなる分だけ,マルタンが示している,ヨハネス・ファン・デル・メールがフェルメールであるという仮説の信憑性は低くなるといえます。なぜなら,フォールブルフがデルフトの管轄区域であったなら,ふたりが会うのはそのどちらかか,そこから近郊にあったハーグであったと推定するのが妥当なのであり,遠く離れたアムステルダムで会うというのはきわめて不自然であるといわなければならないからです。
 ハルマンはリューウェルツゾーンからスピノザがイエレスに宛てた手紙を見せてもらったのですが,遺稿集の選別に関してもリューウェルツゾーンから聞き,報告しています。それによれば,発見された著作はそのすべてを出版するように計らったとあります。ですがこれは著作となっていますので,書簡は含まれていないとみるのが妥当でしょう。いい換えればこの報告自体が,書簡については編集者たちの意図的な選別があったということの証明であるといえます。
                                  
 ただし,著作の中にもひとつだけ,出版しなかったものがあるという報告があります。ハルマンによればそれは,『神学・政治論』の前に完成していたものであり,内容はユダヤ教徒を反駁し,かれらを過酷に扱ったものだとされています。編集者たちは,スピノザ自身がこの完成作を未発表にしたのは,出版を望まなかったからだと推測し,遺稿集に含めなかったのだそうです。
 ハルマンの説明から推測すると,ここでいわれているのが「シナゴーグ離脱の弁明書」である可能性が低くないように僕には思えます。それはスペイン語で書かれたとされていますが,後にスピノザはそれをラテン語かオランダ語に訳していたのかもしれません。
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棋王戦&都市の認識

2015-12-21 21:41:20 | 将棋
 第41期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は佐藤康光九段が1勝,佐藤天彦八段が3勝。
 振駒で佐藤天彦八段の先手。角換わりを目指しましたが佐藤康光九段が拒否して相居飛車の力将棋になりました。後手の陣形はあまりに不自然でしたから,その分くらいは先手が指しやすいという展開がずっと続いていたものと思われます。終盤戦の途中から観戦できました。
                                   
 後手が飛車取りに金を打った局面。先手は無視して▲4三金と打ちました。後手はこのまま角を取られると5五の銀が浮いてしまうので△6六歩と突いて▲同銀右としてから△2六金と飛車を取りました。これには▲3三金の一手。桂馬で取る手もあったかもしれませんが,玉の逃げ道を広げる意味では△同金の方が自然であると観戦していたときには思っていました。そして▲5五銀も当然の手でしょう。後手としてはこの銀を角で取られてはたまらないということでこの手順に進めたということだと思います。ここから△3八飛▲6八歩△3七飛成までは予想していた通りでした。もし5五に角がいるとこの手は成立しません。
                                   
 当面の注目点は後手が入玉できるかどうか。先手は▲3四歩と叩きました。入玉だけを目指すなら△同王でしょうが▲6一角の王手飛車があり,それでは後手は入玉しても点数が足りなくなりますから△3二金と引くのは仕方ないと思いました。先手は▲3一と△同金と捨ててから▲4四銀と進出。次の△3二金は仕方ないと思いますので,先手はと金を犠牲に一手を得しました。
 ここでどう指すかはまったく分かりませんでしたが▲4一角と打ちました。後手は入玉を目指して△3四王。そこで▲6三角成と馬を作りました。飛車を取られてはやはり後手は負けになるので△9二飛と逃げるのも仕方ないところ。そこで▲5六銀と出ました。先手玉はやや危険になるので思い切りがよい手です。後手が△2五王と逃げ出すと▲1八桂。この手は少しも考えていない手でした。
 ▲4五馬と引かれないように何か受けると思っていましたが△9五桂と反撃に転じました。ただですが取ると△7九銀と打たれて怖いので構わず▲4五馬の攻め合いに。この判断は的確であったのではないかと思えます。
 ここで△8七桂成▲同玉としてから△3四金と受けに回ったのは,実戦のように▲5五馬の龍取りに△4六銀と打ったとき,一時的に銀がなくなるので交換を入れておかないと桂馬を取られる順が発生しかねないと判断したからではないかと推測します。そこから▲5四馬△4四金▲同馬△3三金▲5四馬までは後手としては仕方のない手の連続だったと思います。ここで△6六銀と打ったのも予想していた手でした。
 受ける手もありますけど弱い手を指しては意味がないので▲2六桂と金を取りました。こうされては△7七銀成▲同桂△6九角▲8六玉まではまた仕方ない手順だったと思います。入玉すれば点数で勝てる可能性が高まったので△3六角成と指すかなと思いましたが△7八角成でした。先手は寄せるほかなくなっていますがここで▲6七歩と受けたのは当然とはいえ冷静。詰めろがかけられないので△7四歩と打ちましたが▲2七銀という必殺の一手がありました。
                                   
 銀を取られて詰めろではいけませんがそういう局面ではありません。第3図は先手が勝ちの局面のようです。
 佐藤天彦八段の勝利。なので28日に第二局が指されることになりました。

 スピノザとヨハネス・ファン・デル・メールが会ったのがアムステルダムであった可能性が高いと僕が推測したのは,スピノザ自身の半生からでした。スピノザはアムステルダムで産まれ育ったのです。だからその後に住むことになったフォールブルフを都市との対比から田舎と形容するのであれば,対比されている都市はアムステルダムだと解するのが最適だと考えるからです。さらにスピノザは,実名で発刊した『デカルトの哲学原理』に,アムステルダムのスピノザと記述しています。しかし実際に執筆から出版に至ったのは,スピノザがレインスブルフからフォールブルフに移住する時期に重なっていたのです。
 スピノザがわざわざアムステルダムのと表記した理由のひとつとして,哲学する自由との関係が考えられます。すなわちスピノザはアムステルダムのユダヤ人共同体で産まれ育ったのですが,自身が自由に思索するためにはユダヤ人共同体は相応しくなく,むしろそこから解放されたアムステルダム市民になった方が有利だと思ったに違いありません。ですから処女出版のときに,アムステルダムのと意図的に表記したという可能性があります。
 しかし一方で,書き始めたときはレインスブルフ,出版したときにはフォールブルフ住んでいながらアムステルダムのスピノザと書くことのうちには,アムステルダムへの郷愁が含まれているとみることもできるでしょう。いい換えればスピノザにとってアムステルダムは特別の場所だったとみなすことも可能なわけです。そうであるなら後にフォールブルフと対比させられる場所も,ハーグであるよりアムステルダムであった可能性は高いのではないかと僕には思えるのです。
 一方,リューウェルツはハーグのことを都市の外といったわけです。ここから容易に推測できるように,リューウェルツにとっての都市とはアムステルダムだけであり,それ以外の場所はすべて都市の外と表記すべき場所であったのです。もしかしたらリューウェルツはアムステルダムを出たことがなかったのかもしれず,そうした理由からアムステルダムだけを都市とみなしたのかもしれません。ですがこれは,当時のオランダ人,とりわけアムステルダムに住み,あるいは住んだことがある人の,共通認識だったかもしれません。
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朝日杯フューチュリティステークス&都市の外

2015-12-20 19:20:29 | 中央競馬
 2歳の芝チャンピオンを決める第67回朝日杯フューチュリティステークス。四位騎手が右足の関節を捻挫したためコパノディールは小牧太騎手に変更。
 少し手間取るところもありましたがウインオスカーがハナへ。この後ろはショウナンライズ,アドマイヤモラール,シュウジの3頭で併走。3列目にサイモンゼーレとユウチェンジ。ボールライトニングが単独で7番手。ハレルヤボーイとエアスピネルが並び,ツーエムレジェンドとイモータルとシャドウアプローチの3頭。さらにタイセイサミットとスリラーインマニラ。最後列がコパノディールとリオンディーズ。最初の800mが47秒3のスローペースになったこともあり,先頭から最後尾まであまり差のない隊列になりました。
 直線の入口では短かった隊列がさらに凝縮してきました。ここで前を射程圏に入れていたエアスピネルが,自身より前に行っていた馬の外に持ち出され,よい手応えのまま先頭に。そして追われると抜け出しました。襲い掛かったのは最後尾から大外を回ったリオンディーズ。馬体を離した2頭が後ろを置き去りにしての追い比べ。追ってきたリオンディーズに軍配が上がって優勝。エアスピネルが4分の3馬身差で2着。4馬身差の3着はシャドウアプローチ。
 優勝したリオンディーズは11月22日に新馬戦を勝ったばかりでここが2戦目。それでいて最有力視された2着馬を豪快なレースぶりで差し切ってしまったのですから新しいスター候補の誕生です。たぶん距離は伸びた方がよい筈で,来年のクラシックの有力候補といっていいでしょう。差されはしたものの3着には大きな差をつけた2着馬も,よきライバルとして長く戦い続けていくことになるものと思います。父はキングカメハメハ。母はシーザリオ。祖母がキロフプリミエール。半兄に一昨年の菊花賞と昨年のジャパンカップを勝ったエピファネイア。Leontesはシェイクスピアの戯曲の登場人物名。
                                   
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は先々週のチャンピオンズカップに続く大レース制覇。第62回,64回に続く3年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス3勝目。管理している角居勝彦調教師もチャンピオンズカップに続く大レース制覇。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。

 リューウェルツが書いた序文には,僕の関心を惹く記述があります。それはスピノザが,都市の外に住むイエレスの友人と形容されている点です。
 岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集』の書簡四十八の二は,ハルマンがリューウェルツゾーンに見せてもらったAと,リューウェルツが序文に示し,それを読んだベールが自著で報告しているBに分かれています。各々の書簡の内容から,Aが先に書かれ,Bはその後,Aの指摘を受けたイエレスが論文を書き改めるのに十分な時間を経てから書かれたことになります。
 Aの手紙には日付があったことをハルマンは報告しています。1673年4月19日でした。スピノザは遅くとも1670年にはハーグに移住し,翌年の5月には終の棲家となったスぺイクの家に寄宿しています。ですからAもBも,スぺイクの家から出されたものであったという点では同じです。つまりリューウェルツが序文で記述している都市の外というのは,ハーグのスぺイクの家のことです。よってリューウェルツはハーグを都市の外とみなしていたことになります。ではリューウェルツがそこでいっている都市がどこを意味するのかといえば,自身が出版業を経営していたアムステルダムであったと断定できるでしょう。ここから分かるのは,少なくともリューウェルツにとって都市とはアムステルダムだけを意味し,それ以外の場所は都市とはいえなかったということです。リューウェルツがハーグに行ったことがあったかどうかは分かりませんが,栄えているということくらいは知っていただろうと推定します。
 スピノザはヨハネス・ファン・デル・メールに対して,出された質問を,そのときに住んでいた田舎のフォールブルフでひとりで考えたといったのでした。同じ頃にスピノザがオルデンブルクに宛てた書簡の中には,フォールブルフが田舎であることを殊更に強調している箇所もありました。僕はその田舎というのが,都市と対比された意味での田舎と解し,メールとスピノザが会ったのは都市だったろうと推測したのです。そしてその都市はハーグである可能性は残るけれども,アムステルダムだったのが濃厚だと解しました。
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自然権の拡張&書簡四十八の二

2015-12-19 19:15:22 | 哲学
 ライオンの自然権を考えることにより,スピノザの哲学あるいは政治学において,自然権の発生がどう考察されているか分かりました。ところで,自然権jus naturaleそれ自体が,現実的に存在する事物がなし得ることであるなら,自然権は実は名目上の権利とか,事物が生まれながらに付与されている不変の権利であったりはしないことになります。スピノザが考える自然権が,一般的に考えられている権利概念と著しく反するのは,この点にあると僕は考えています。
 ライオンAとライオンBが現実的に存在すると仮定します。どちらのライオンにも,シマウマを食う自然権が与えられています。そこでこの2頭が1頭のシマウマを巡って争いを起こし,結果的にAがシマウマを食うことになったとします。このとき,Bの自然権はAによって侵害されたことになります。正義justitiaとか不正injustitiaはここから発生してくるというのがスピノザの考え方ですが,ここではこのことは置いておきましょう。
 上述の事態は,2頭のライオンが1頭のシマウマを巡って争いを起こすがゆえに生じています。そこで2頭のライオンが争いを起こさず,協力して1頭のシマウマを襲って食べると仮定します。このとき,各々のライオンには1頭のシマウマを食う自然権が存在したと考える限りにおいて,双方の自然権が侵害されていると考えることはできます。仮定では協力することになっていますので,侵害されているというより,自然権を他方に譲渡しているというのが正確な理解の仕方かもしれません。
 一方,2頭が協力することによって,シマウマを捕えることが1頭で捕えるより容易になっているとすれば,これは双方の自然権が拡大しているという意味になります。なぜなら,なし得ることが自然権なら,1頭では容易になし得なかったことがもう1頭との協力でなし得るようになったなら,それはなし得ることがその分だけ増加したという意味だからです。
 こうしたことが現実的に存在する事物の自然権のすべてに妥当します。なのでたとえば人間は,単独の自然権の一部を他に譲渡しても,全体としては自然権が拡張するという場合もあることになるのです。

 イエレスJarig Jellesの著作へのリューウェルツJan Rieuwertszによる序文の中に,著者であるイエレスは都市の外に住む友人に原稿段階の本を送り,それを読んだ友人は,書き改めるべき点を発見しなかったという書簡をイエレスに送ったという主旨の記述があるそうです。
                                  
 ここでリューウェルツが友人といっているのがスピノザであることは断定して間違いないものと思います。それでこの部分も現行の『スピノザ往復書簡集Epistolae』の書簡四十八の二に含まれることになりました。畠中はその部分の訳注で,これについてはフランス人学者のベールPierre Bayleが報告しているという主旨の記述をしています。これはそのベールによる『批判的歴史辞典Dictionaire Historique et Critique』という大著の中に示されているものです。この著書のスピノザに関係する部分は『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』に訳出されていますから,当該部分も読むことができます。そしてそれを読めば分かることですが,こちらの著作は1702年に出版されたものであり,ベールがこの報告の典拠としているのはリューウェルツによる序文です。つまりベールは『一般的キリスト教信仰告白』を読んだ上で,この書簡について言及したのです。ともすると畠中の書き方はベール自身がスピノザがイエレスに宛てた手紙自体を読んだと解されかねないと僕は思うのですが,事実はそうではありません。
 『スピノザ往復書簡集』の訳者の畠中と『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺がそれぞれ指摘しているように,ハルマンがリューウェルツゾーンに見せてもらった手紙と,リューウェルツが序文で記述し,それを読んだベールが報告している手紙は,同一の手紙であるとは考えられません。一方で論旨に矛盾があることを指摘しておきながら,他方で書き改めるべき点が何もないというのは著しい矛盾を含んでいるからです。事実はおそらく両者が示しているように,まずイエレスは原稿を送り,それに対してハルマンが読んだ書簡をスピノザが送りました。イエレスはそれを読んで書き直し,改めてスピノザの講評を求めたところ,スピノザは改める点がないという書簡を送ったのです。つまり書簡四十八の二は,二通の別の手紙から構成されていると僕は考えます。
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叡王戦&一般的キリスト教信仰告白

2015-12-18 19:06:39 | 将棋
 13日に京都国立博物館で指された第1回叡王戦決勝三番勝負第二局。
 郷田真隆九段の先手で山崎隆之八段の横歩取り。後手が早い段階での飛車交換を目指す指し方。先手はそれを拒否。ですがゆっくりとした展開とはならず,むしろ先手の方から戦いに打って出る将棋になりました。ずっと激戦だったと思います。
                                  
 先手の金が8三に入り,7一にいた後手玉がひとつ寄った局面。ここまで双方が1度ずつ勝ちを逃していたようです。
 先手は☗2一馬と桂馬を取って次の☗4三馬を狙いにしました。後手は☖4二銀と受けます。
 ここで取った桂馬を☗3四桂と打てば,僕の棋力では精査しきれない部分が残ったのですが,どうも先手が勝てていたようではあります。しかし実戦は☗3二馬と引きました。元々は桂馬を取るより馬を活用する目的で2一に入ったので,こちらの方が読み筋に合致していたのでしょう。
 ☖5二玉は危険ですけどこの一手と思います。対して☗4一飛と打ちました。これに代わる手がなかったとすると,ここでは逆転しているのだと思います。
 ☖5一金は当然の手。逃げるわけにはいかないので☗同飛成☖同銀までは進みます。先手は☗4三金☖6一玉と追ってから☗4五桂と跳ねました。場合によっては右の方に逃げ出そうという意味も含まれていたと思われます。ですが☖8八飛と王手され,合駒を使うのでは勝ち目がないので☗4九王と引くほかなく,そこで☖4五歩と落ち着いて桂馬を払われた局面は後手がはっきりとした勝ちになっていました。
                                  
 連勝で山崎八段の優勝。2009年の最強戦以来6度目の棋戦優勝になります。

 遺稿集Opera PosthumaイエレスJarig Jellesの序文は,ハルマンが報告している書簡と関連性があるかもしれません。イエレスはコレギアント派collegiantenという自由思想に近い立場ではありましたが,キリスト教徒ではありました。だからスピノザ主義がキリスト教の教義に一致することを強調したのでしょう。
 ハルマンによれば,見せてもらった手紙の主題はイエレスの著作に対するスピノザの批評であったようです。その著作がキリスト教神学と関連が深いものでした。『一般的キリスト教信仰告白』という題名からそれは理解できるでしょう。ハルマンはスピノザはイエレスの見解自体には賛意も共感も示していないとしています。ただ否定的であったかどうかまでは分かりません。それとは別にイエレスの主張していることの中には明らかに論理矛盾が含まれているので,それは正した方がよいという助言があったようです。
 この本はスピノザの死後,そしてイエレス自身も死んでしまった1年後,1684年になってやはりリューウェルツJan Rieuwertszが出版者となって発刊されました。イエレスが元々は香料の商人であったということは,この本の序文に出てきます。序文を書いたのはおそらくリューウェルツだったとのことですから,それが真実であったと判断しておくのが妥当であると思います。
 僕はこの本自体のことは知りません。ただ『スピノザ往復書簡集Epistolae』のこの書簡についての畠中の訳注には,実際に発刊されたものの中にはスピノザが指摘したような論理矛盾は含まれていないとのことです。したがってイエレスはスピノザの忠告をもっともだと思い,書き直したと考えておくのが妥当でしょう。
 その他,この書簡にはケルクリングDick Kerkrinkへの言及があったとハルマンは記述しています。ハルマンはケルクリングに言及するとき,スピノザが解剖学のことで何事かを依頼したことがある医者と形容しています。ただこの部分に関しては,その依頼自体が書簡の中で言及されていたというようにも読解できますが,ハルマンはこの書簡を読む以前から,スピノザとケルクリングの間にこの種の交際があることを知っていたというようにも読解できます。この点に関しては僕は判断を控えます。
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農林水産大臣賞典全日本2歳優駿&編集者の仕事

2015-12-17 19:20:41 | 地方競馬
 昨晩の第66回全日本2歳優駿。ポッドガイが左肩の跛行で出走取消となり11頭。
                                   
 発走後の正面ではアンビリバボー以外の10頭がほぼ集団。このために隊列が決まるのに時間を要しました。押し出されるような逃げになったのがアンサンブルライフ。向正面に入るあたりでオーマイガイが単独の2番手に。コウエイテンマとスティールキング,サウドスカイとエネスクがほぼ併走で続き,5列目はマイタイザン,トロヴァオ,レガーロの3頭。前半の800mは50秒9のミドルペース。
 3コーナーを回ると隊列に変化が生じ,3番手が内にサウンドスカイ,外にエネスクの併走になり,これらの外からトロヴァオ,さらに大外をレガーロが追い上げる形。直線に入るとアンサンブルライフがオーマイガイを振り切ったものの,コーナーはインを回って直線でオーマイガイの外に出たサウンドスカイが絶好の手応えそのままにアンサンブルライフを捕えて抜け出すと後ろに1馬身半の差をつけて快勝。大外をよく伸びたレガーロがゴール前でアンサンブルライフを捕えて2着。アンサンブルライフはクビ差の3着。
 優勝したサウンドスカイ兵庫ジュニアグランプリに続く勝利。4連勝で大レース制覇。様ざまな路線から集結していたので,レベルの把握が難しかったのですが,重賞を勝っていたのはこの馬だけで,ここはその実績の差を見せつけての勝利。レース内容もよかったと思いますが,タイトなコーナーをロスなく回ってきた鞍上の手腕も光りました。メンバーのレベルが低かったとは思えず,距離には限界があるかもしれませんが,来年以降も活躍を期待してよいものと思います。父はディープスカイ
 騎乗した戸崎圭太騎手はスプリンターズステークス以来の大レース制覇。全日本2歳優駿は初勝利。管理している佐藤正雄調教師はかしわ記念以来の大レース制覇。全日本2歳優駿は初勝利。

 僕が示した見方と類似した見解は,工藤喜作の『人と思想 スピノザ』にみることができます。
 スピノザの死後,アムステルダムでスピノザの友人たちは,草稿を売るべきか迷ったが,遺稿集にして世に出すことにしたと工藤は書いています。根拠は示されていませんが,おそらくシュラーからライプニッツへの打診の手紙が少なくともそのひとつを構成しているのではないかと僕は思います。
 工藤によればまずスピノザのラテン語を,コレルスの伝記ではスピノザの死を看取った医師とされているマイエルが校訂したとされています。『宮廷人と異端者』では,スピノザのラテン語はときにスペイン語訛になるから書き直しが必要だったという主旨のことが書かれています。ラテン語がスペイン語訛になるというのがどういう意味なのか僕にはまったく分かりませんが,スピノザと言語の関係から,そうしたことが生じたとしても不思議ではないということだけは何となく分かります。
 それから遺稿集の序文をイエレスが書いたと工藤はいっていますが,これはオランダ語で書かれてそれをマイエルがラテン語に翻訳したとなっています。やはりイエレスにはラテン語を読み書きする能力がなかったということでしょう。
 工藤は書簡を整理したのはシュラーだったとしていますが,この点の根拠は僕には不明です。ただ,その後のシュラーとライプニッツのやり取りから察すると,書簡の選別にシュラーが関わっていたということだけは間違いないと僕には思えます。工藤の表現だとそれがシュラーだけの仕事であったというように読めますが,僕は必ずしもそうは考えません。したがってハルマンがリューウェルツゾーンに見せてもらったイエレスに宛てられた書簡を,遺稿集から排除したのはシュラーであったというようには断定しません。
 イエレスがオランダ語で書いた序文は,すでに示したように伝記に関係する内容は『スピノザの生涯と精神』に訳出されています。工藤はそれ以外の部分について言及していて,そこではスピノザ主義が無神論ではないということを証明するために,それがキリスト教の教説に一致することを強調しているそうです。
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