スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
美獣 は引退後はレスリングスクールを開講。指導者としてプロレスラーを育てる立場に回りました。そうしてレイスの手によって育てられたレスラーの何人かは,NOAH に参戦しています。レイスは世代的に馬場や鶴田といったあたりとは戦っていますが,三沢とは対戦がありません。つまりレイスとNOAHとの間には何の接点もないように思えます。おそらくこれはジョー・樋口のルートでしょう。樋口は自著の『心に残るプロレス名勝負』の中で,私生活ではレイスとは無二の親友であるといっています。
NOAHの旗揚げ のとき,樋口は三沢に請われて監査役に就任。樋口は自分がこれを受けたのは,三沢の人間性にあったと後にインタビューで語っています。僕は三沢の評価の理由 に,慕って後を追った人間の多さをあげましたが,樋口もそうした中のひとりであったといっていいでしょう。
監査役に就任すると同時に,樋口はGHCのタイトル管理委員長も兼務しました。これはいわばNOAHのコミッショナー的存在。樋口の後,その地位を任されたのがレイスであるということが,レイスとNOAHの接点は樋口であったのだろうということのひとつの証となるかもしれません。
樋口は来日したレスラーの世話をする外国人係というのを長いこと務めました。これは日本プロレス時代のことで,樋口がレフェリーになる前の話。その後,馬場に誘われて全日本プロレス所属になって以降も,チーフレフェリーと外国人係を兼務していたようです。このために樋口が親しくなった外国人レスラーというのはレイスだけでなく,ほかにもいました。ただ,本人が無二の親友といっているくらいなのですから,レイスと樋口の関係は,特別のものであったと理解してよいのだろうと思います。
治療が必要というのですから,放置をしておくわけにはいきません。ただ,このときは直ちに処置をとるということをしませんでした。そのひとつには妹のこの後の予定が関係していました。いわば物理的事情とか外的事情といえるようなことです。もっとも,それだけが理由であったというわけではありません。
健康診断の結果として貧血 が判明しました。逆にいえばそれは,妹の日常生活から窺い知ることができなかったということです。つまり実質的な問題が生じていたわけではありません。それならば,新しく病院に行って診察してもらうよりも,遺伝科 の医師に相談する方が得策であるように思えました。広い意味で内科に属するような事柄については,遺伝科ではすべてに対応してくれることが分かっていたからです。なので次にこども医療センター へ通院したときに,主治医に診察してもらうことを選択しました。少なくともすぐに生命に関わるような緊急事態ではないということは,確かと思われたからです。
この18日というのは土曜日であったのですが,僕は本牧 に行く必要がありました。その後で,もうひとつ別の仕事をこなすために寄らなければならない場所も発生。帰宅したのは午後6時前でした。
翌週の木曜日は,作業所の三者面談。これは年度の初めと終りに実施されるもの。新年度は4月ですから,5月23日を年度の初めというのはおかしいかもしれません。面談をするためには,年度替わりの後,いくらかの時間を必要とします。そうでないと何か問題があるのかどうか計りかねるからです。妹の場合,作業所の担当者が4月から変更となりましたが,とくに問題は起こっていません。僕はこの日は長者町でした。
25日の土曜日は妹の土曜出勤。この日はクッキーを作って食べたようです。そして26日の日曜日はガイドヘルパーを利用。先月に続いて本牧でのカラオケでした。
さらに28日の火曜日から,面接を行った港南区での施設でのショートステイ。これは1泊で,29日の水曜に戻ったことになります。妹としては初の宿泊先ではありましたが,とくに問題となるようなことはありませんでした。
グローバルスプリントチャレンジの第8戦,第47回スプリンターズステークス 。
あっという間にハナを奪ったハクサンムーンの逃げ。スピード負けしたフォーエバーマークが2番手に控え,パドトロワが続き,抑えがうまく効かなかったように見えるサクラゴスペルがその外についてこの4頭が先行集団。内目にマヤノリュウジンが好位の先頭。出負けしたように見えたロードカナロアはこの直後まで追い上げ,その外にマイネルエテルネルとなりました。前半の600mは32秒9で,このメンバーならミドルペースといっていい程度のハイペース。
マイネルエテルネルが先に動き,ロードカナロアはその内からついていく形に。直線ではサクラゴスペルとマイネルエテルネルの間に進路が開き,坂を上がったところから抜け出して優勝。4分の3馬身差の2着に逃げ粘ったハクサンムーン。インコースで上手に立ち回った伏兵のマヤノリュウジンがクビ差まで迫っての3着。
優勝したロードカナロア は6月の安田記念 以来の勝利で大レース5勝目。このレースは第46回 から連覇。前走は2着馬に負けていましたが,それはあくまでも前哨戦。ここは本来の力を発揮しての優勝。日本競馬史に残る名馬の1頭で,ほかに何もいうことはありません。父はキングカメハメハ 。Kanaloaはハワイの伝説の神の名前。
騎乗した岩田康誠[やすなり]騎手は安田記念以来の大レース制覇。第46回から連覇でスプリンターズステークス2勝目。管理している安田隆行調教師も安田記念以来の大レース制覇。第45回 ,46回に続くスプリンターズステークス三連覇での3勝目。
翌5月12日はピアノ のレッスン がありました。この日は午後4時半から。レッスンは概ね1時間程度。ですからこの日だと午後5時半頃に終るということになります。遅いときですと開始が午後5時半ということがありますから終了は6時半。そういう場合でも終了後にはおやつの時間というのがあります。
この週の水曜日,15日に母がまたI歯科へ。この日から本格的な虫歯の治療に突入しました。この日は患部を削ったようです。削ると沁みますから,その部分はセメントで覆いました。もちろんこれは一時的なもの。後日,ブリッジを架けるということになりました。僕は以前は取り外し可能な部分入れ歯を装着していて,I歯科に通うようになってからブリッジを架けました。その経験からいえば,部分入れ歯よりはブリッジの方が,日々の生活という観点からは好ましいように思えます。部分入れ歯はなかなか違和感が消えませんし,後には締め付けがきつくなって,痛みを伴うようになりました。さらに加えれば,部分入れ歯の場合には,どうしても手入れが必要とされるからです。そういう意味では母がブリッジを選択したことは,僕も賛成でした。ただブリッジにはブリッジに特有の難点というのがあります。僕の場合,ブリッジの中で虫歯が進行するという事態に直面しました。こういうことが生じた場合には,治療のためにブリッジを外さざるを得ません。つまり治療にかなりの手間がかかることになってしまいます。この15日,僕は川崎でした。
妹の健康診断は,検査をしただけであって,その日のうちに結果が出たというわけではありません。たぶんそれも可能であったと推測されますが,その選択はせず,結果の郵送を依頼したのです。これは,当日に結果を入手しようとすれば,それが出るまで病院で待っていなければならないのですから,よほどすぐに結果を手に入れる必要があるという場合でない限り,だれでもそのようにするのではないかと思います。その結果が送付されてきたのが18日の土曜日。つまりちょうど一週間後であったことになります。そしてひとつの異常がありました。それは貧血。治療が必要という診断結果だったのです。
ムイシュキン公爵 が白痴に戻る契機となったロゴージンによるナスターシャ殺しの告白。この告白の内容は意味ありげに描写されています。
ロゴージンが使ったのは鍵の掛かった引き出しにしまっておいたナイフ。犯行は午前3時頃。そのナイフをナスターシャの左胸の下部に突き刺しました。ナイフは7センチから9センチくらいの深さに達しましたが,出血はほとんどなく,小匙に半分くらいでした。
これがロゴージンがムイシュキンに語った内容の概要。この後でムイシュキンが出血が少なかったことの解説を,医学的見地からするという,考えてみれば不思議な受け答えのシーンがあります。
ナイフというのが,男性器のアナロジーになるのはごく一般的でしょう。するとこの告白は,ナスターシャとの間で肉体関係が発生したという意味に受け取れることになります。そしてそのときに小匙半分ほどの出血があったというのは,ナスターシャは処女であったということの象徴だと理解するべきでしょう。
この部分の描写をこう読解するのは,僕には自然なことであるように思えます。というよりもこういうイメージが発生しない方がむしろ不思議だと思えるくらいです。たとえば亀山郁夫 は『ドストエフスキー 謎とちから』において,この部分にこのような象徴性を読み込んでいます。亀山の読解はさらに別の方向に進んでいきますが,それに関しては本をお読みください。
でも,ナスターシャはトーツキイという実業家に囲われていたのです。なのに処女性を象徴するような描写がされているということが,僕には不思議でなりませんでした。
母 にとって従兄感覚であったというのですから,それは叔父にとっても同じようなものであったといえるでしょう。母の入院中には見舞いに来てくれたわけですし,祖母の納骨 のときにも来ています。そうした関係ですから,亡くなったと知ってそのまま放置するわけにはいきません。遅ればせながらといわざるを得ませんが,この日の訪問になったわけです。
ゴールデンウィークが明けて8日の水曜日。この日は妹の指定歯科 であるみなと赤十字病院への通院がありました。相変らず妹は歯の痛みは感じているようなのですが,とくに重大視しなければならないような状況でもありません。この時点では心配する必要はないということで,この日もクリーニングを施しただけでした。僕はこの日は羽田の整備場でした。
その2日後,10日の金曜日は今度は母がI歯科に。この日も歯石の除去だけをしたようです。先月の19日に施したばかりですから,おかしな話だと思われるかもしれませんが,おそらく上の歯と下の歯で,別々に行ったからだと思います。といいますのも実は母は歯科医に行ったということが20年ぶりだったのです。つまりそれだけの期間の歯石が残っていたということになりますから,治療時間の関係もあり,上下を両方とも一度でクリーニングするということが不可能だったのでしょう。年齢からすれば総入れ歯であってもおかしくはないわけで,20年も歯医者に行く必要がなかったということ自体がすごいことだとはいえると思います。僕はこの日は神奈川区の反町でした。
翌11日の土曜日に,磯子中央病院で妹の健康診断がありました。2月に面接をした港南区内の施設を利用してのショートステイがこの月に予定されていまして,その準備のひとつでした。予約時間が午前10時。検査は採血と採尿だけで済ませられるもの。ただし朝食は抜かなければなりませんでしたので,検査の後で食事をしてから帰ってきました。みなと赤十字病院は院内に食堂がありますが,磯子中央病院にはありません。ですから近くの店で食べてきたものと思います。帰ってきたのが午後1時頃でしたから,検査自体はそんなに大変ではなかった筈です。
昨日の夜に放映された第21回銀河戦 の決勝。収録日は8月16日。公式戦初対局。
稲葉陽六段の先手。橋本崇載八段は一手損角換り 4からダイレクト向飛車。相銀冠から持久戦と思われたところ,先手が意欲的な打開手順を繰り出しました。
ここで☗6五銀と出たのがその手。☖5三銀の受けに☗6六角と手放しました。☖4二金は最も自然な受け方。先手は☗7五歩☖同歩☗同角と一歩を入手。後手は☖7四歩☗6六角と一旦は収めてから☖6四銀とぶつけていきました。先手は☗同銀☖同歩に☗3五歩と強気の応手。後手は☖7五銀とこちらから打って角を召し取りました。
第2図から普通は☗3四歩☖6六銀☗同歩でしょうが,☗7五同角と取り,☖同歩に☗3四歩と進めました。後手が☖4五桂と跳ね出すと先手は☗3三歩成の成り捨て。☖同金に☗6六銀と打ちました。
この手は☖5五角を防ぎつつ7五の歩を狙った一手。これが狙い筋としてあったので,第2図で☗同角と指しておいたのです。この局面では先手がリードを奪っているようです。
第1図からの打開を許すのは後手として仕方がなかったとすれば,問題は第2図から第3図に至る途中の,☖4五桂にあったよう。ここは☖3一飛と寄っておくのが優りました。仮にそこで先手が☗6六銀と打てば,今度こそ☖4五桂と跳ねておき,☗3三歩成は☖同飛と取れるので明らかに得です。第3図となって一時的に駒得ですが,桂馬は取られることが確定的な上,飛車の働きが乏しくなり,後手がまずくしてしまいました。
先手が強気に勝つ順を目指したので,最後は後手にも見せ場はあったものの,届かずに先手が勝っています。
稲葉陽六段の優勝。これが棋戦初優勝です。
3人は白楽まで遊びに行ったというわけではありませんでした。そのような交遊関係は継続していたわけではないのです。実は母 が従兄感覚であったという人の奥さんが亡くなったのです。正確にいうなら亡くなっていたのです。それで白楽まで訪ねていくことになったのです。
亡くなった奥さんというのは,僕が知らない人ではありません。母が入院中には夫婦でお見舞いに来てくれたこともありました。つまり普段の交遊関係はほぼ皆無ではあったのですが,そのような特別の事情が発生した場合には,行き来があって,顔を合わせるような間柄ではありました。とはいえ,僕からしたらほぼ他人といえるような存在ですから,亡くなったからといって訪ねて行くほどではありません。それは妹も同様です。ただこの日は振り替え休日ではありましたが,僕は田園調布に出ていました。妹をひとりで残しておくわけにはいきませんから,本来なら母と叔父だけで訪ねれば十分なところ,妹も連れていったというわけです。
奥さんの死因は癌でした。僕は知りませんでしたが,奥さんが癌であるということは以前から分かっていたことでした。定期的に通院していて,検査のマーカーの値が上昇していたということも,母は知っていたそうです。ですから亡くなったということは,それ自体では驚くことではなかったようです。これはちょうど父の最期 が,それ自体では驚くようなことではなかったということと同様だといえるでしょう。ただ,亡くなったという報せが入ったのではなく,すでに亡くなっていたということは,母にとっては驚きではあったようです。
詳細は不明ですが,この事情はおおよそ次のようなものだったようです。この奥さんが亡くなったということを,先方ではアパートの叔父に伝えたようなのです。ただそのときに叔父が不在であったため,その連絡は留守番電話に入っていました。そこには通夜や葬儀の日程も入っていたようです。ところが叔父がそれを再生しないでいたために,叔父が事実を知ったときには,すでに葬儀も終了してしまっていたとのこと。僕が知る叔父の性格からすれば,こうしたことは起きても不思議ではないようには思えます。
『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』には,僕が知らなかったことがたくさんありました。さらには間違って理解していたということもありました。そのうちのひとつが,スピノザとヨハン・デ・ウィットJan de Wittあるいはヤン・デ・ウィットとの関係でした。
ヨハンは1625年産まれ。若い頃は数学に大きな興味をもっていました。この当時のオランダは,総督派と共和派の政治的対立があり,ヨハンの父のヤコブは共和派。1650年にその父が総督派によって逮捕されるという一件がありました。ヨハンは大学では法律を学んでいたこともあり父のために奔走。父は釈放。その直後に当時の総督が急死し,ヨハンは市の法律顧問に任命されました。この後,ヨハンは総督の廃止を指導。政治的な意味でもその地位を高め,1653年には,法律顧問という立場でありながら,オランダの事実上の最高権力者になりました。スピノザが1632年産まれですから,これらはすべてスピノザが生きていた時代のオランダでの出来事であったことになります。
父と同様にヨハンも共和主義者です。このとき,共和主義者というのはふたつの意味があるというのが,僕の誤解の発端でした。共和主義者であるということのひとつの意味は,立憲制を支持し,君主制,これは総督や総司令官といった,事実上の君主が支配する政治制度を含めますが,その意味での君主制に敵対するということです。スピノザはこれに近い立場で,だからヨハンとスピノザは,良好な関係にあったと僕は思い込んでいたのです。
しかしナドラーSteven Nadlerによれば,共和主義者のもうひとつの意味は,民主主義者ではないということです。スピノザは政治制度としては民主主義者でしたから,この点ではむしろヨハンとは立場を異にしているといわなければなりません。そして実際に両者の間には,イデオロギー的な溝があったと理解するべきであったのです。
ここからは僕の想像です。
祖母が養女 に出た先というのは,赤の他人の家であったというわけではなく,何らかの親類筋であったと思われます。そしてその一家は,祖母の故郷である秋田か,そうでなくともその近辺に住んでいたものと思われます。なぜなら,後に祖母はまた秋田の実家に戻っている筈なのです。そうでないと,現在もこの秋田の実家から繋がる家系の人たちとの関係が継続しているということの説明がつかないように思えるからです。これは前に書きましたが,その中には米農家がいまして,僕の家ではそこから米を買っているのです。さらにいえば,いくら養女先で義理の兄ないしは弟としての関係があったとはいえ,他人であったとすれば,秋田を出た後も交友関係が継続するとは考えにくいように思えるからです。
祖母がいつどのような事情から秋田を出たのかは僕は知りません。養女先の人に関してはなおさらです。そもそも,僕が知る限りでは,祖母はその旦那,つまり僕の母 の父で,僕の祖父,そして今はアパート の叔父夫婦とその一人娘の5人で大和市内に住んでいました。つまりそれが母の実家なのであり,僕にとって母の実家とは大和なのです。しかし母によれば,母が子どもの頃は上大岡に住んでいたとのこと。近くにある笹下の拘置所で映画の君の名はの撮影があり,それを見学に行ったことがあるという話で,要するに少なくともその頃は上大岡にいたということになります。僕は産まれていませんから,経験としてそれを知らないのは当然ですが,詳しい話を聞いたこともないのです。つまり僕にとって,祖母の人生の大半は知らないことで埋め尽くされているといえるでしょう。僕の記憶の以前のことに関しては,僅かな事柄を断片的に教えられているという程度なのです。
この日,3人が白楽に行ったというのは,もちろんそこの家を訪ねたのです。白楽というのは僕がかつて火事を目撃した六角橋の近く。僕が散歩として歩いていったなら,おそらく1時間半くらいで行かれる場所です。普通は歩いていく場所ではありませんが,自動車で行くのですから,そんなに遠出をしたというわけではありません。
⑥-6 の第1図から先手が▲3三桂成と指した手は42分の長考。そこからは戦いになり,途中の指し手は省略しますが,第1図の局面になりました。
4五で銀の交換が行われた局面です。ここで後手は△8八歩。これは1分の考慮なので予定であったのでしょう。ただ,先手は△5四銀か△5四桂を予想していたので,意外だったと書いています。実際にここは先手の読みが正しく,後手の自戦記ではここは△5四桂とするべきだったとのこと。
△8八歩に対しては先手は6分の考慮で▲同玉と応じ,△6九銀に▲5四銀。これが厳しいので△8八歩は問題の一手だったのです。
この▲5四銀は18分の考慮で,かなり目算を立てた上で打たれたもの。この急所に利かされて飛車を逃げていては後手に勝ち目はありません。△5八銀不成は当然でしょう。
この局面での次の手が,この将棋の明暗を分かつ一手となりました。
上大岡にはバス1本で行くことが可能です。ですからこの日も母 は事前に先生から2枚のチケットを購入してありました。そして妹とふたりで観に行ったのです。ところが上大岡に到着してバスを降りたところで,妹が吐いてしまいました。何度か書いていることですが,妹の嘔吐 というのはよくあることです。なのでこれは驚くようなことではありませんし,それ自体で何か過大な心配をしなければならないようなことでもありません。ただ状況が状況でしたから,母はそのまま家に引き返すことも考えたようです。しかし妹に打診しますと,大丈夫だということなので,そのまま予定通りに観覧しました。実際にそれ以降は特別の問題はなかったようです。僕はこの日は長者町で,祝日だったからというわけではありませんが,とくに早く終りまして,3時半前には帰宅しました。その時点では母も妹もまだ戻っていませんでした。以上の話は母が帰ってから聞かされたものです。
この2日後,5月5日の日曜の午後に母と妹は美容院へ。
その翌日,5月6日は月曜ですが,振り替え休日で妹は休み。ふたりはアパートの叔父の運転で白楽に出掛けました。
実は祖母は,幼い頃,養女として他家に預けられていたことがありました。ただし,この養女先の一家に関しては,祖母は多くを語らなかったらしく,母や叔父,伯母も含め,詳しい関係は不明です。ひとつ確かなのは,その一家には男の子があったということ。普通に考えれば祖母の義理の兄か弟ということになるのでしょう。
祖母は秋田の出身ですが,養女先がどこであったのかも僕は知りません。ただ,その男の子,祖母の義理の兄か弟ですが,横浜に出てきたのだと思われます。この人と祖母の間の関係はその後も続きました。そしてその人は結婚し,子どもが産まれたのです。それが男の子。幼い頃は祖母の一家,つまり母たちと一緒に遊ぶというようなこともあったそうで,母からすると従兄のような感覚であったそうです。僕はこの人のことは知っていて,以前から白楽に住んでいたのです。もう相当に前のこと,たぶん僕が小学生の頃ですが,その家には祖母や母と行ったこともありました。
台風による順延が生じたため,GⅠから中2日での開幕となった向日町記念の決勝 。並びは平原-木暮-浦川の関東,石井-武井の千葉,浅井-村上の中部近畿で山崎と松岡が単騎。
村上と武井が飛び出しスタートは取り合い。内の分だけ村上が誘導の後ろを取って浅井の前受け。3番手に平原,山崎を挟んで7番手に石井,最後尾に松岡で周回。残り2周のホーム手前から石井が松岡まで連れて上昇。しかし前には出ず,3番手の外で平原と併走。だれも抑えに来ないので浅井は誘導との車間を開けて待ちましたが,そのまま打鐘。浅井の成り行き先行になりそうでしたが,インを開けたので平原がホームでそこを突き,平原の先行に。バックから浅井が捲っていきましたが,木暮が執拗に牽制。直線の入口では力尽きた浅井が弾かれ,そのまま踏んだ木暮の優勝。半車身差の2着争いは接戦も逃げた平原。8分の1車輪差の3着も浦川で関東の上位独占。
優勝した群馬の木暮安由選手は昨年12月の佐世保記念 以来となる記念競輪3勝目。平原の動きはややトリッキーであったと思うのですが,きちんと追走できたのが大きな勝因。自力選手なのですが,このような動きについていき,さらに浅井の捲りもブロックしていますので,追い込み型としても十分にやっていかれそうな内容であったと思います。たぶん現状はこうした競走の方がより力を発揮できると考えてよいのではないでしょうか。
祝日ではあったのですが,僕はこの日も川崎まで出なければなりませんでした。帰宅したのは午後4時過ぎと,さほど遅くはならなかったものの,すでにおやつも食べ終え,先生は帰宅した後でした。
このピアノ の先生というのは,現在の方で確か3人目であったと思います。最初の方がどのような経緯で妹を教えることになったのかは僕は知りません。ただ,その方がピアノを専門にされている人でなかったことは確かです。専門は声楽で,オペラに出演されたこともありました。僕はこの先生が出演されたオペラを,まだ学生だった頃に観劇に行ったことがありますので,これはよく覚えています。
その方がいつまで妹を教えていたのかも僕の記憶にはありません。ただ,辞めるときに,代わりとなる先生を紹介してくれました。この方も専門はピアノではありませんでした。楽器は忘れてしまいましたが,クラリネットかフルートのどちらかであったことは間違いありません。この方もコンサートに出演されることがありましたし,クインテットの一員としてCDも出しています。
現在の先生はその2代目の先生が辞めるときに,代わって紹介してくれた人。この先生は初代の先生と同じく,声楽が専門です。そしてこの先生が出演するコンサートというのが,月が変わった5月3日の金曜日に,上大岡で開催されることになっていました。こうした場合,可能な限りチケットを購入し,観に行くようにしています。基本的に観に行くのは妹で,しかし妹はひとりでは行かれませんから,だれかが連れて行くということになります。つまり2枚のチケットを購入しておくわけです。もちろん僕たちにはそうしたコンサートがいつ開かれるかは分かりません。先生からお知らせがあり,チケットも先生から購入するという形式です。僕が学生の頃にオペラを観に行ったのもこういった理由から。ただしそのときは僕は妹と一緒に行ったのではなく,同じ大学の友人とでした。どうしてそうなったのかも古いことですからよく覚えていないのですが,このときのオペラは会場が有楽町で,わりと遠かったので,母 が先生から購入したチケットを僕に回してくれたからではなかったかと思います。
船橋では最も歴史の古い重賞である第60回日本テレビ盃 。
出鞭を入れてブレーヴキャンターが逃げる構え。ソリタリーキングが追っていき,スピードの違いからこちらが逃げることに。ブレーヴキャンターの外にワンダーアキュート。その後ろは内にランフォルセで外にトーセンアドミラル。この5頭はほぼ一団で少し離れてダイショウジェット。実質的にレースに参加したのはこの6頭。最初の800mは47秒5。一応はハイペースといえるでしょう。
ブレーヴキャンターは向正面で後退。トーセンアドミラルが上がっていく構えを見せたのでワンダーアキュートが対応してソリタリーキングに並び掛けると,ここからは2頭のマッチレースに。3コーナーからゴール前まで長いこと競り合いが続きましたが,最後はワンダーアキュートが前に出て優勝。ソリタリーキングがクビ差で2着。そつなくインを回ってきたランフォルセが6馬身差で3着を確保。
優勝したワンダーアキュート は昨年のJBCクラシック 以来の勝利で重賞5勝目。実績は最上位でしたから順当な勝利といえるでしょう。ややてこずりましたが2着馬も力はありますから,仕方がないところだったと思います。半兄に2008年のアンタレスステークスと名古屋グランプリ ,2009年の平安ステークスと東海ステークス,2010年の名古屋グランプリ を勝ったワンダースピード 。Acuteは鋭い。
騎乗した武豊騎手 は第46回,50回,53回 ,58回 と制しているので2年ぶりの日本テレビ盃5勝目。管理している佐藤正雄調教師は日本テレビ盃初勝利。
この日の診察 に関して,これ以上の特記事項はありません。いつものように帰り道の根岸駅の近くの薬局でインスリン と注射針を入手。それから家に向いまして到着したのが午後4時前でした。いかに順調に推移したかがお分かり頂けるでしょう。
4月24日の水曜日にまた母がI歯科へ。右上で歯が徐々に欠けていった結果,神経だけが残っている部分があるとのことで,この日はそれを抜いてしまい,一針だけですが縫合したそうです。
僕もここで抜歯をしたことがありますが,基本的にI先生は神経を除去することを好みません。後に疼痛が発生する可能性を考えるならば神経も除去してしまった方がよいのですが,神経を除去してしまうと歯茎が弱くなり,悪影響が及ぶおそれがあるようなのです。つまり歯茎のためには神経だけでも残っていた方が好ましく,このことがI先生が神経の除去を嫌う理由になっています。僕は僕自身の抜歯のときにI先生からこの話を聞きました。母も同じような説明を受けたとのことです。ただ,現実的に母の歯の痛みというのが発生していましたから,この日は止むを得ずという処置であったのでしょう。僕はこの日は川崎でした。
縫合しましたので抜糸をする必要があります。これが翌々日の26日の金曜日。もちろん単に糸を抜くというだけでなく,経過の観察も兼ねた通院です。経過は良好だったとのことでした。この日は僕は港南中央,港南区役所の近辺に出ています。
この週末,28日の日曜日は妹がガイドヘルパーを利用。この日はカラオケ。この場合のカラオケは本牧と決まっています。
週が明けて29日の月曜日。月曜とはいっても祝日です。なので妹にはピアノのレッスンが入っていました。月に2回というのが通例なのですが,4月は3回のレッスンがあったということになります。この日は午後2時から。なお,ピアノのレッスンの日は,レッスンをするだけで終了とはなりません。終了後に階下のリビングで先生とおやつの時間というのが,開始時刻に関係なく必ずあります。これも妹にとっての楽しみのひとつなのです。
三四郎の想起 について僕に示唆を与えてくれたのは蓮実重彦の『夏目漱石論』でした。書評は題名だけにするのが通例ですが,この題名の本はいくつかあると思われますので,著者名まで併記します。
序章で蓮実は自著について,作品論ではなく作家論であるという意味のことを書いています。ただ,これは蓮実による分類で,僕の作家論と作品論 の分類では,これは典型的な作品論のひとつです。実際,この序章の冒頭で,漱石といわれる人影との遭遇を回避することが,この本の仕事のひとつと書かれていて,これは僕のいう作品論的態度にほかなりません。
最大の特徴は,これも蓮実自身のことばを借りていえば,作品の境界を超越して,大がかりなことばの戯れが可能になる場を準備しているという点。この本は序章と終章を除くと十章から成立していますが,作品ごとに章が分けられているのではなく,各々の章にテーマが設定され,それに沿って作品が縦断的に語られています。各々の章は独立していますが,無関係ではなく,徐々に進展していくという形式です。
内容をいえばこれは相当にヘビーです。漱石の小説を1度だけ読んだという程度では,理解することは不可能だと思えます。もしこの本の内容を十全に把握できたとしたら,それは相当に深く漱石を読み込んでいるということの証拠でしょう。僕はおそらく一般的なレベルと比較するなら,漱石の作品に触れた時間というのはかなり長い筈だと思いますが,読み直さなければ理解できないという箇所が頻出しました。
蓮実の視点も独特で,漱石ファンでなおかつ僕のように作品論を好むという人にはこれ以上はないというくらい面白いものだと思います。ぜひ推薦したい一冊です。
クレアチンキナーゼの検査結果が初めて検査項目に入っていたのは昨年の10月22日。健診の依頼 をしたためでした。そのときの数値は144でした。これ以降,今年の2月の検査の項目にも入っていまして,そのときは181と,上昇はしていましたが,正常の範囲内。今回の検査ではさらに上昇して,上限を少しオーバーしてしまったものでした。ただ,これ以降,すでに2回の通院 を僕は済ませていまして,その2回とも検査項目に含まれていたのですが,また正常の範囲内へと戻っています。つまりこれまでのところ,検査をして値が異常であったのはこのときだけ。どういった理由でそうなったのかは不明ですが,こうした状況からして,何か心配しなければならないようなことが僕の身体の中に生じていたというわけではないのだろうと思っています。実際,これについては何の話もありませんでした。
最後に,U先生からふたつほど話がありました。新しい血糖値測定器具一式のうち,測定器は性能がアップしています。結果の記録が内部に保存できるようになっているのです。ですのでこの測定器を渡すと,前回の通院との間で僕の血糖値が概ねどのように推移していたかを出すことができます。そのことは僕も承知していましたので,この日の診察には測定器も持っていき,U先生に渡しました。ただ,内部の記録は診察の前に出しておいた方が便利です。なので次回からは,内分泌科の受付に来たときに,先に受付の担当者に手渡すように指示がありました。本当はこの日もそうすればよかったのですが,僕はこの話は聞いていないことでしたので,この日に実行することは不可能でした。
もうひとつ,次回の診察の前に,管理栄養士による栄養指導を受けるようにという指示もありました。栄養指導は予約制ですが,予約は僕がする必要はなく,U先生の方で手配してくれました。栄養指導は入院中,2009年の1月15日に受けています。そのときは僕の食事の支度をする場合があるということで,母も同席することを求められましたが,今回は僕だけでよいとのこと。通院のついでに行えるのですから,何も面倒に感じるようなことがない指示でした。
『ある哲学者の人生 』を紹介したおり,英文の直訳というのが選択されているがために,日本語として読解の困難な文章が,僕にとっては頻出したということを書きました。ここでは仮に,そうした文章のことを悪文といっておくことにします。しかしこれは必ずしも悪い意味ではないのです。むしろ僕は,悪文には悪文の効能とでもいうべきものが含まれると思っているくらいです。
僕は読書というのは,ただ単に本を読むということだとは少しも思っていません。紙の上に印刷されたインクによる記号を目で追う作業は,読むということではあるでしょうが,読書とはいえないと思っています。読書というのはただ文字を目で追うことなのではなくて,それについて考え,また理解したり疑問を抱いたりすることを伴っていなければならないと思っています。逆にいえばそうした作業を必要としないような書物は,読書をするには値しないような書物であるといえるでしょう。
この考えるという作業に対して,悪文というのは実に効果的なのです。一読しただけでは何を意味しているのか判然としないような文章というのは,そもそも文章の意味を理解するというだけのために考えるという作業を必要とします。つまり悪文というのは,読者に対して考えるという作業を強要するような文章であるといえるのです。おそらくこのことのために,わざわざ筆者や訳者が悪文を用いる場合があるだろうと僕は信じています。また,僕自身が,意図的にそういう文章表現を用いる場合があります。
すらすらと読み進めていけるということは,悪いことではありません。しかしそうであるがゆえに考えるという営みが疎かになってしまうのであれば,元も子もありません。悪文である限り,そのような事態は回避することができます。だから僕は悪文というのも一概に悪いものではないと思っているのです。
中央検査室 で採血を行う技師の数は,最大の場合で4人です。物理的に採血をする場所が4ヶ所しかありませんから,これ以上の人数の技師がいても無意味です。ただ,その4ヶ所のすべてに技師が待機している,つまり4人の患者が同時に採血している場合というのはあまり多くありません。もちろんそういうときもあるにはありましたが,頻度でいうならば,3人の技師で採血を行っているというケースが最も多かったと思います。また,過去にはふたりだけという場合もありました。ただ,この日のようにひとりしかいなかったというのは初めて。そしてこういうケースはこれ以降にも経験していませんから,今までのところはこの日だけであったということになります。ただし,この日は採血を待っている患者の数も,僕の前にはひとりだけでしたので,ひどく待たなければならなくなったというわけではありませんでした。
この日は診察 の予約が午後2時半。これですと時間的な余裕がありますので,院内の食堂ではなく,外食のために小港まで出ました。食事を終えてまたみなと赤十字病院に戻ったのが予約時間の近く。そしてこの日はほとんど待たず,ほぼ予約の時間に診察が開始されました。
この日のHbA1Cは7.2%でした。上限が6.2%ですから異常ではありますが,これはなかなか正常にはなりません。むしろ前回,2月18日の通院のときには7.8%まで上昇していましたから,いくらかの改善があったということになります。
この日はオーダーの項目がここ最近にしては少なかったのですが,もうひとつの異常値がありました。それはCKという項目。CKというのはクレアチンキナーゼないしはクレアチンキネーゼの略。U/Lという,1リットル中の国際単位で示した数値が結果として出ます。この上限が197のところ,検査結果では200でした。大したオーバーではありませんから,その点では問題ないとはいえます。ただ,この値というのは,筋肉の量に比例して大きくなる傾向があるようです。僕はそんなに筋肉はありませんから,むしろ小さい数値が出るべきであるとはいえますので,通常の場合と比べれば,僅かなオーバーでも異常性は高いといえるかもしれません。
ラッシャー・木村 が本格的に全日本プロレスで仕事をするようになったのは,1984年の暮れ,世界最強タッグ決定リーグ戦からでした。1983年の夏にテリー・ファンクが引退。天龍の成長もあり,この時期から馬場のパートナーは鶴田からドリーに移り,鶴田は天龍と組むようになっていました。しかしこの年にテリーが復帰,ファンクスが再結成されることになり,馬場のパートナーが空白に。極秘パートナーとリーグ戦に参加すると発表されていましたが,その正体が木村だったのです。
しかしこのチームは長く続かず,早くもリーグ戦の最中に仲間割れ。そうして国際血盟軍 が結成されることになりました。ちょうどジャパンプロレス と全日本プロレスの提携が始まったシリーズで,長州たちが鶴田と天龍を,木村が馬場に相対するという形が,これ以降はしばらく続くことになります。この世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦は横浜文化体育館で,僕はライブで観戦しましたが,そのときにはすでに馬場と木村は戦っていたということになります。
ただ,仲間割れ自体は必須であったともいえます。木村はこれ以降は全日本で仕事をしていますが,もっと以前には単発で全日本に出場したことがありました。これは木村が国際プロレス時代のことで,僕のプロレスキャリア がスタートする前のこと。1975年には両団体のエースとして対戦。これは黒い呪術師 が乱入した影響で馬場がフォール勝ちしたとのこと。ただ,僕はこの試合のことはいっかな知りません。その後,1978年2月にもシングルマッチがあり,こちらは過去映像として視たのですが,非常に不可解な判定で,馬場のリングアウト勝ちということになっています。
そうした過去の経緯を考えれば,木村が馬場のパートナーとして全日本に参戦するというのはおかしな形。仲間割れして対戦することになるのは,おそらく織り込み済みであったのでしょう。木村を自然な形で全日本に参戦させ,また馬場のパートナー不在という事態を回避するための措置であったのではないかと思っています。
4月16日の火曜日。母 は妹を作業所まで送っていった帰りに,I歯科 に寄ってきました。これは母に歯の痛みがあったためです。予約を取っていたわけではないのですが,診察はしてくれたとのこと。年齢に相応した歯槽膿漏が原因であると診断されたそうです。薬品を注入した後,レントゲンの撮影をして帰宅しました。レントゲンの撮影を行ったということは,これ以降,通院するということになります。歯科はいろいろあるのですが,ここは根岸駅の近くで,母は妹の送りの際には必ず通りますから便利。また,僕も通っていて,推薦できる歯科医という印象で,それを母にも伝えてはありましたから,I歯科を選ぶことになったようです。この日であったか記憶が定かではありませんが,歯科助手の配慮 について母と話したことがありますが,やはり母にとっても,手の温かさは印象的であったようです。僕はこの日は磯子でした。磯子は近いですから,帰ったのも午後4時15分頃でした。
母の次の通院はこの週の金曜日。日付でいえば4月19日ということになります。ただ,この日は何も特別の治療はせず,歯石の除去作業を行っただけでした。僕はこの日は長者町で,早くに終りまして,午後3時45分くらいには家に戻れました。
4月22日の月曜日が内分泌科の通院の日。5日にインスリンの注射針の入手のために出向いていて,この月は2度目となりますから,保険証の確認は行う必要がありません。機械に診察券を通してすぐに中央検査室へと向いました。ところがこの日は中央検査室の受付に人が不在で,少しばかり待たなければなりませんでした。中央検査室に限らず,みなと赤十字病院の何かしらの受付に人が不在というのは,僕はこのときがただ一度の経験です。並んでいる患者があるために待たなければならないのはよくあることですが,こういうケースは非常に稀だといえるでしょう。人が戻ってきたとき,名札の部分に研修中とありましたので,まだ不慣れな部分があったのだろうと思われます。
ここでは採尿と採血ですが,この日は採血をするための技師もひとりしかいませんでした。これも珍しいことです。
神戸市で対局があった昨日の第61期王座戦 五番勝負第二局。
羽生善治王座の先手。中村太地六段は急戦矢倉を目指す立ち上がりから銀2枚を並べての雁木 。持久戦 になり先手は穴熊に。駒組は先手がうまくやったと思えますが,どちらも容易に手が出せない膠着状態が続きました。
後手としては千日手でも歓迎のような将棋に思えましたが,果敢に自玉の端から打開 。こういう指し方を選択したことは,大きな評価に値するのではないかと思います。この打開は自分から攻めていくというものではなく,相手に攻めてこいという意味で,これ以降は終局まで先手の穴熊は手つかず。つまり先手が攻めて後手が受けるという展開に終始したことになります。成り行きから後手は入玉を目指すことになり,後手が入れるか,先手が阻止できるかだけが焦点に。200手を超える将棋ですから,最善を続けられるわけもなく,双方にミスがあった筈です。それでもあからさまな失着と分かるのは,以下の部分だけでした。
この▲2二歩というのはあまりよい手ではなく,▲4七銀上と指すべきだったとのこと。ただこれに対して△2三香と打ったのははっきりとした失着。△3六玉ならダメだったという先手の感想が残されています。
実戦は△2三香に▲同成桂となってから△3六玉。これには▲2四龍ですが,第1図で△3六玉としても▲2四龍でしょうから,香車を1枚ただで与えてしまったのと同じことになってしまいました。
もっとも,先手もすぐに香車を使えるというわけではありませんから,入玉が不可能になったといえるほどではありません。というよりも入れるには入れたのです。ただその後で先手が穴熊の銀も使う形で押し返しにいきました。
第2図となってはどうやら押し返しに成功しているようです。駒が少ないのでまだ難しいところもあるように感じられますが,入玉の阻止には成功。先手の勝ちになりました。
羽生王座が勝って1勝1敗のタイ に。第三局は来月2日です。
今日からは糖尿病共生記の6回目です。僕は意図的に共生 ということばを用いています。
⑤ は昨年8月中旬,妹が夏季休暇に入った頃のことから始まり,今年の4月,僕がインスリンを注射するための針の入手を済ませた頃のことで終っています。なので今回はその続きから始めます。
4月7日の日曜日に妹のピアノのレッスンがあったことは⑤の最後に記しました。その翌々日となる9日の火曜日に,妹はこども医療センターへの通院がありました。この日も癲癇の発作を抑制するための薬の入手,正確には処方箋の入手ですが,それだけで,別の検査などはありませんでした。予約は13時半で,帰宅したのは15時50分頃。連れていった母に聞いたところ,この日はバスの接続が良好だったそうです。僕はこの日は長者町で,帰ったのは17時過ぎでした。
その翌日,10日から妹はショートステイに。2泊3日で,南区の施設を利用しました。帰ったのが12日の金曜ということになりますが,週末は14日の日曜に,この月2度めのピアノのレッスンがありました。これは14時から。
その翌日,15日の月曜日の午前中,僕はО眼科へ眼科検診に行ってきました。この日はたぶん9時半頃には眼科に到着していたのではないかと思います。診察の順番が16番目で,これほど若い番号であったのはおそらく初めてであった筈です。いつものように眼圧測定をしてから視力検査。視力検査はまず裸眼での測定ですが,この日は左目が0.09で右目が0.04でした。もともと視力は左目の方がよいので,それは別にどうということはないのですが,0.09も見えたというのは珍しいこと。これくらいのレベルですと日によって差異は出てくるものなので,この日は好調であったということなのでしょう。その後で散瞳ですが,この日は1度では十分に瞳孔が開かず,2度の点眼となりました。みなと赤十字病院で検診を受けていたときは2回ともそうでしたが,ここの眼科の点眼薬はよく効く印象で,これも珍しいことです。検査結果は不変。つまり異常なしです。順番は早かったですが帰宅できたのは11時半前。午後はこの日も長者町でした。
岩手から1頭が遠征してきた第50回東京記念 。パワーストラグルが病気で競走除外となり,13頭。岡部誠騎手が骨折のため,パワーストラグルに騎乗予定だった和田譲治騎手が横滑りでアートサハラに騎乗。
外から先手を奪いにいったマグニフィカの逃げ。2周目の向正面に入る辺りまで後ろとの差を広げていくようなレース。2番手はピエールタイガー。ウインペンタゴンとテラザクラウド,アートサハラとアドマイヤシャトル,カネトシパサージュとトーセンルーチェとスターシップ,そしてフォーティファイドの隊列でしたが,この9頭はほぼ一団。イーサンジャンパー,インサイドザパーク,プレティオラスはそれぞれぽつんぽつんと前を追走。それでも最初の1000mが65秒3ですからスローペースです。
3コーナーにかけてマグニフィカと後続との差が縮まっていき,コーナーを回るとマグニフィカ,ピエールタイガー,テラザクラウドが雁行に。この3頭の中ではテラザクラウドが優勢でしたが,内目からウインペンタゴン,外からスターシップが追撃。これらがテラザクラウドを捕えたものの,最後尾にいたプレティオラスが大外を鋭く伸び,あっさりと交わして楽勝。スターシップが3馬身半差の2着。ウインペンタゴンがクビ差で3着。
優勝したプレティオラス は昨年の東京ダービー の優勝馬。その後は勝てずにいたのですが,前走のA2下特別でこの馬らしい末脚を発揮して勝利。今日の勝利と合わせて,いよいよ復調がなったとみてよさそうです。末脚勝負型ですが,楽に追走できるため,距離は長めの方が向くようです。母の父はダンスインザダーク 。従兄に昨年の京浜盃 を勝ったパンタレイ 。Pretiolasはラテン語で褒美。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手は先週のオーバルスプリント を勝ったばかり。東京記念は初勝利。管理している大井の森下淳平調教師 も東京記念は初勝利。
ここまでは第一義的意味 です。しかし積極的という語句は,広く一般に使用されます。スピノザの哲学と一切の関連がないという場合には問題はないでしょうが,スピノザの哲学に関連する内容を一般的に記述する際には,やはり何らかの規制が必要とされるでしょう。そしてもちろんそれは,第一義的意味に則した規制でなければなりません。そしてその規制の具体的な内容を考慮する際に鍵となるのは,限定と否定 の関係です。否定は常に限定を含み,かつそれより多岐にわたるからです。
ある事物について,その限定に関係する場合,それをその事物について積極的であるということは許容されません。これは第一義的意味から直接的に帰結します。そして限定ではない否定 の場合にも,同じことが結論されます。これにより,積極的ということばの使用条件 が確定されることになります。それは端的にいえば,ある事物について,その事物がその事物たる所以 を含まないような内容を有する場合には,それを積極的であるとはみなせないというものです。逆にいえば,それを満たす場合にのみ,それはその事物について積極的な内容を有するということになるでしょう。
ただし,このときに注意しておかなければならないのは,ことばと観念 は異なるというスピノザの考え方です。したがってある記述ないしは言明が,ある事物についての限定ないしは否定を含んでいるというだけでは,使用する条件を決定することができません。むしろそうした言明ないしは記述の内容が,観念対象ideatumとしてある知性のうちに十全な形相としてある場合に,それが限定あるいは否定を含んでいるのかどうかを,理性的判断 を用いることによって,把握しなければならないのです。
一方,そうして積極的であると認定される内容の範囲 がどこまで及ぶのかということに関しては,個々によって考え方の相違があると想定されます。そして僕の考え方としては,積極的といえるような観念から流出 してくるすべての観念まで,その範囲が及ぶのだというように理解しています。
考察の分量からすれば駆け足でしたが,これでまとめを終えます。明日からは糖尿病共生記になります。
京王閣競輪場 での開催となったこともあり,台風の影響が大きく,今日に順延となった第56回オールスター競輪の決勝 。並びは新田-成田の福島,後閑に勝瀬,吉田ー金子の愛知,藤木ー村上ー稲川の近畿。
迷わずに成田が飛び出してスタートを取り,新田の前受け。3番手に藤木,6番手に後閑,8番手に吉田の周回に。残り3周のバックから吉田が上昇。残り2周のホームで新田は引き,吉田が前に。吉田ラインに続いたのは藤木で,バックでは吉田を叩いて打鐘。藤木ラインに続いた後閑が4番手を確保し,6番手の内に吉田,外に新田。残り1周のホームに入ると新田が発進。藤木も踏んでいきましたがスピードが違い,新田のかまし先行に。ただ村上がうまく成田を牽制し,単独で後ろを離す展開に。藤木は2番手でしたがもう一杯だったようで差は詰められず。代わって追い上げてきたのが後閑。徐々に差が詰まっていき,直線ではついに新田を捕えて優勝。逃げた新田が4分の3車輪差で2着。後閑マークの勝瀬が1車身差の3着。
優勝した東京の後閑信一選手 は2011年10月の京王閣記念 以来のグレードレース優勝。ビッグは2006年の寛仁親王牌 以来で通算5勝目。オールスターは初優勝。2001年,これはまだ群馬の時代ですが当地の共同通信社杯を制覇。2007年に東京に移籍し当地をホームバンクにして以降は直後の2007年 ,そして2009年 ,2010年 ,2011年と記念競輪を三連覇したように,得意中の得意バンク。とはいえ,この年齢に達してからまた自力に転向し,GⅠを制覇したのは驚くべきこと。心の底から大きな拍手を送りたいです。
今回の考察のテーマに設定したのは第一部定理二六 です。そして考察の主題というのは,スピノザの哲学において,何らかの事柄が積極的であるといわれる場合に,それが具体的にどういったことを意味するのかを探求していくことでした。その主旨からは第一部定理二六自体は無関係であるといえます。これをテーマに設定した理由は,第一部定理二六証明 において,スピノザが積極的という語句を用いているからです。したがって,本来のテーマは第一部定理二六証明の方なのであったといえます。考察はこの証明を細かく分析していくという形式で進められました。
そのことからまず帰結させたのは,ここでいわれている積極的という語句は,神の決定 と深く関連しているということでした。もっとも,神の決定とはいっても,それは神の意志に属するものではありません。そうではなくてこれは神の必然性そのもののことです。よって,僕たちが通常に意識するような形で,この「決定の重さ 」ということを,深刻に考える必要性はありません。これは神の必然性という場合の,必然の意味 からも明らかだといえます。
次に,福居純の証明 を利用することにより,ここでいわれている決定というのが,『エチカ』あるいはスピノザの哲学において,どのような位置を占めると考えられるのかを明らかにしました。それによれば,決定と限定 というのが,対義語的関係 にあるということになります。したがって,ある事柄についてそれが神の決定といわれるのであれば,それは一切の限定を意味しないと理解しなければなりません。そしてスピノザが第一部定理二六証明において,物が作用に決定されるといわれるならば,それは積極的なもののためであると主張する場合に,そのことがすでに含意されているのだと理解しなければならないことになります。
このことから,積極的ということの,第一義的意味 がどのようなものであるのかということが明らかになります。そして少なくとも,どのような事柄に関しては,それを積極的であるといってはならないのかということが,より明白となるのです。要するにそれは,事物の限定と関連するという場合です。
現地時間で10月6日に行われる凱旋門賞のステップレースが15日にあり,凱旋門賞を目指して渡仏した2頭の日本馬が出走しました。
3歳馬によるニエル賞 GⅡ芝2400mには,今年の日本ダービー馬キズナが出走。個人的には好発から前に行ってしまうようなケースを心配していましたが,そうはならず,隊列が落ち着いてからは後方2番手の内を追走。直線に入ってから外に出すとよさそうな手応えで前に接近。この時点で好勝負は間違いないと思いました。そこからすぐ内にいた人気のFlintshireを交わし,最内で先頭に立っていたOcovangoも捕えて先頭に。ずっと進路がなかったために脚を溜めることになったRuler of the WorldがFlintshireの内から急襲。2頭が並んでゴールイン。僕はグリーンチャンネルの生中継で視ていて,2着に思えたのですが,写真判定の結果はハナ差でキズナの優勝でした。
優勝したキズナ は東京優駿 以来の出走で重賞4連勝。相手もまずまず揃っていて,休養明けで初の海外遠征と厳しい条件でしたがそれをはねのけた形。常識的には上積みがあると考えられますので,本番にも期待を持てる内容であったと思います。父はディープインパクト 。母はキャットクイル 。半姉にJRA賞1998年の最優秀3歳牝馬,2000年の最優秀4歳以上牝馬のファレノプシス 。半兄に2002年のピーターパンステークスを勝ったSunday Break 。
騎乗したのは武豊騎手 。日本馬に騎乗しての海外重賞は2007年のドバイデューティフリー 以来。管理しているのは佐々木晶三調教師で,海外重賞初制覇。ニエル賞を日本馬が優勝したのは初めてです。
4歳以上のフォワ賞 GⅡ芝2400mには,JRA賞で一昨年 の年度代表馬,昨年 の最優秀4歳以上牡馬のオルフェーヴルが出走。ここはキズナの帯同馬であるステラウインドが出走。過去のレースぶりからこの馬は後ろを離して逃げることになると予想していましたが,逃げるには逃げたものの僕が思っていたほど後ろとの差は開きませんでした。オルフェーヴルはずっとインの3番手追走。直線に入ってステラウインドのすぐ外に出すことが叶うと持ったままで並び掛け,そこから追うと瞬時に後ろを離しました。騎手もビジョンを見たり後ろを振り返るほどの余裕があり,最後は流して3馬身差で楽勝でした。
優勝したオルフェーヴル は前走となる3月の大阪杯からの連勝で重賞は10勝目。フォワ賞は昨年 も勝っていて連覇。ここは能力だけで考えればこの馬に匹敵できそうな相手が不在で,馬場に問題はないこともはっきりしていましたから,楽勝は当然の結果ともいえます。この馬の場合は自身で勝利を放棄したりすることがありますので,課題はそうした点と,現地入りしてからちょっとしたアクシデントがあった点でした。今回はどちらも問題となりませんでしたが,本番も相手関係をどうこういう以前に,自身との戦いになるでしょう。父はステイゴールド 。母の父はメジロマックイーン 。曾祖母がグランマスティーヴンス 。全兄にJRA賞で2006年 最優秀2歳牡馬,2009年 最優秀4歳以上牡馬のドリームジャーニー 。Orfevreはフランス語で金銀のかざり職人。
騎乗したのはフランスのクリストフ・スミヨン騎手。日本馬に騎乗しては昨年のフォワ賞以来の海外重賞制覇。管理しているのは池江泰寿調教師で,やはり昨年のフォワ賞以来の海外重賞制覇。
フォワ賞に出走したステラウインドは5着。オルフェーヴルの帯同馬のブラーニーストーンはフォワ賞出走が叶わず,プティクヴェール賞GⅢ芝1000mに回り6着。日本馬全体での海外重賞制覇は昨年暮れの香港スプリント 以来。
今回はまとめに入る前に,お断りしておきたいことがあります。
一般に,Aについて考察するとします。その過程で,直接的にはAと関係はしないのだけれども,Aの論証のために,Bの論証が必要になるという場合が発生し得ます。これはBについても同様で,Bの論証のためにはCの論証が必須であるというケースがあり得ます。論証過程ですから,これが無限に連鎖するということはあり得ませんが,細かく分割していくならば,この連鎖がかなり長く続くという場合が発生することがあるということは,お分かりいただけるものと思います。
こうしたことは論証を必要とする考察については一般的に妥当します。ですからこのブログにおけるこれまでの考察においても,こうした場合というのが幾度となく発生していました。そのときに,たとえばBに該当する内容が,すでに考察されていたという場合には,そこに訴求すればいいのですから,さほどの手間を必要とはしません。しかしいつの場合でもそうであると限らないのは当然です。そしてその場合には,Aの論証にはBの論証が必須なのですから,A,つまりその考察の主題とは直接的には無関係であっても,Bの論証を行うということになります。そうでなければAを論証できないのですから,そういう手法を採用することは当然といえるでしょう。そしてこのことは,Bの論証に必要であるCの論証の場合にも該当します。そして,こうした論証を,さらにCの先まで,長いこと継続していかなければならない場合というのも生じ得るわけです。
今回の考察においては,こうしたケースというのが頻出しました。つまりそれだけ,まだ考察していない事柄に訴える必要があるという場合が多かったということになります。実際,今回の考察の大半というのは,むしろそちらの論証に充てられることになったというのが正しいくらいではないかと思えます。
そうした論証は必須であったのですから,避けることはできなかったわけで,そのために今回の考察が長くなってしまったのは止むを得ません。ただ,こうした事情がありますので,今回のまとめは,あくまでも今回の考察の主題に的を絞ることにします。