スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

被災地支援平塚記念&属性の十全な認識

2011-05-30 18:27:04 | 競輪
 ゴールデンウィーク中に開催されていた平塚記念が今年は月末に移動。昨日が決勝でした。並びは根田-深沢の南関東に神山が番手戦を挑み,この後ろに大塚,松坂-林の神奈川,高城-山内-北野の近畿中部。
 前受けは松坂。3番手が高城で6番手に根田でこの後ろは周回中から並走。根田は残り2周で松坂を抑え,打鐘から先行態勢に。これを高城がかましていったのですが,山内が離れてしまい,根田が番手に嵌りました。根田の後ろは一旦は神山が奪ったのですが,再び深沢が取り返してバック。後方から松坂の捲りに林はついていけず。展開有利だった根田が番手から発進して先頭に出ましたが,松坂の捲り追い込みが届いて優勝。根田が2着で空いたコースをうまく突いた大塚が3着。
 優勝した神奈川の松坂洋平選手は連休開催の別府記念に続いて2度めの記念競輪制覇。メンバーの全体的なレベルは今回の方が高かったですから,より価値のある優勝かと思います。若い選手ですから日毎に強くなっているのかもしれませんが,現在の調子がよいということもあるのでしょう。今後も今月のような活躍を続けていけるのかどうか,目が離せないところです。

 AがBに対して本性naturaの上で先立つということの意味をこのように解したとき,物体corpusの存在existentiaに神Deusの延長の属性Extensionis attributumの存在が本性の上で先立っていなければならないということは,これで明らかになりました。そしてこれは一般に物体の秩序ordoないしは連結connexioというものを形成しているということになります。そこで再び第二部定理七を参照するなら,観念ideaの秩序と連結はこの物体の秩序と連結と同一でなければならないのですから,物体の観念がある知性intellectusのうちに現実的に存在するためには,神の延長の属性の観念がその知性のうちに,本性の上で先立って存在していなければならないということになるでしょう。いい換えれば,もしもすべての現実的に存在する人間の精神mens humanaが,スピノザが第二部定義一に示した事柄を共通概念notiones communesとして十全に認識するcognoscereのであれば,すべての人間はそれに本性の上で先立って,神の延長の属性を認識しているということになります。そして第二部定義一の内容に関しては,すべての人間がそれを共通概念として有するということがすでに明らかになっているのですから,すべての人間は延長の属性に関して,これを十全に認識しているという結論になると思うのです。
 こうしたことがどのようにして生じるのか,僕の考えを示せば,おそらく,第二部定義一に示されている事柄が現実的に存在するある人間の精神のうちに共通概念として生じるときには,実際にはそれは,延長の属性が共通概念として認識され,その認識から必然的にnecessario物体の認識cognitioが生じているということになるのだろうと思います。そしてこのことは,単に延長の属性についてのみ妥当するというわけではなく,人間の精神の場合についていえば,思惟の属性Cogitationis attributumについても妥当します。したがって,第二部公理五により,人間が認識する神の属性は延長の属性と思惟の属性のふたつだけですが,その両者について,すべての人間がそれを十全に認識するということになると思います。
 このことは,人間の精神による属性の認識の無謬性の確度というものをさらに高めることになるでしょう。したがって,少なくと属性の認識に関しては,認識論的なものを実在論的なものに置き換えることの根拠を,さらに高めているといえると思います。しかし,僕はもしかしたら『エチカ』はさらにこれ以上のことを示しているという仮説を立てられるのではないかと思っていますので,さらにその点に関する分析に進んでいくということにします。
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日本ダービー&先立つ

2011-05-29 18:37:16 | 中央競馬
 出走馬18頭すべての父が日本産,うち16頭は父の父がサンデーサイレンスで,残る2頭も母の父がサンデーサイレンス。現在の日本競馬の縮図のようなメンバーでの戦いとなった第78回日本ダービー
 いつも逃げているという馬は不在でしたので,展開面はやや微妙なところがありましたが,オールアズワンの逃げは戦前から予想できたもののひとつ。向正面に入ると後ろを引き離していきました。その後ろに13頭が固まり,その最後尾がオルフェーヴル。集団から離れて後方を計4頭が追走という形。最初の1000mは62秒4。これはスローに近いミドルペース。
 余力を残して直線に向いた馬がほとんどで,ずらりと馬群が広がる形。オルフェーヴルはサダムパテックとナカヤマナイトの間に進路を選択。そこをスパッと割って,やや内に切れ込むように先頭に。後方4頭の最も前にいたウインバリアシオンが大外から追ってきましたが,並ばれそうになってまた突き放し,オルフェーヴルの完勝。唯一迫ったウインバリアシオンが2着。7馬身差の3着争いは白熱しましたが,内寄りから伸びたベルシャザール。
 優勝したオルフェーヴル皐月賞に続く2冠を達成。そこで決定的な差をつけていましたので,能力上位は疑い得なかったところ。台風接近に伴う馬場悪化と,距離延長が課題でしたが,見事にクリアしました。今年の3歳は全般的なレベルはそうも高くないと判断していますが,この馬は世代のエースとして,長く活躍することが可能であるように思います。父はステイゴールド,母の父はメジロマックイーン,兄に大レース3勝のドリームジャーニー,曾祖母はグランマスティーヴンス。Orfevreはフランス語で金銀細工職人。
 騎乗した池添謙一騎手,管理している池江泰寿調教師のコンビは皐月賞に続く大レース制覇で日本ダービー初勝利。

 では,Aが本性natura,essentiaの上でBに先立つということを僕がどのように理解するのかといえば,それは,Bが存在するためには,別のいい方をするならBが存在するということが可能となるためには,Aが存在していなければならない,あるいはAが存在することが必要であるという条件を満たす場合です。仮にこのとき,Aの存在が必然的にBの存在を含むような場合でも,Bの存在にとってAの存在が不可欠であるなら,僕はAの存在はBの存在に対して本性の上で先立つとみなします。この場合,Aが存在すれば必然的にBもまた存在することになるわけで,もしもここに時間的な観点というのを導入するのであれば,AとBとは同時に存在するということになるでしょう。しかしたとえそうであっても,この条件の下においては,Aの存在はBの存在に本性の上で先立っているということになります。
 第一部定理一はスピノザの意図を汲む限りでは名目的です。したがってこの定理全体の意味は,そうしたものが実際に実在するかどうかは別として,様態modi,modusが存在するのであれば,実体substantiaも存在している必要があるということになるでしょう。そしてこれを実在的に理解しようとするなら,『エチカ』においては第一部定理一五が出てくるのだと僕は思います。確かにこの定理Propositioは,様態が実在するためには神Deusの存在が不可欠であるということ,つまり神の存在は本性の上で様態の存在に先立つということを示していると考えられるからです。
 一方,第一部定理一六は,神の存在から無限に多くの様態が必然的に存在しなければならないということを示しています。神は第一部定義六からして,永遠な存在ですから,本来はそこに時間的な観点というものを導入することはできません。しかしこれをあえて時間的に表現するなら,神と無限に多くの様態は同時に実在するということになるでしょう。しかし,神の存在は本性の上でそうした無限に多くの様態の存在に対して先立っていると僕は理解するのです。
 このことから理解できるように,物体corpusの存在に対しては神の存在が本性の上で先立ちます。これは第二部定義一により,物体が様態であることから明らかです。ただし,第二部定理六からして,実際の意味において本性の上で物体に先立っているといわなければならないのは,絶対に無限な神というよりは,神の延長の属性Extensionis attributumであるということになると思います。
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王位戦&第一部定理一の意味

2011-05-28 20:06:00 | 将棋
 水曜日の再戦となった第52期王位戦挑戦者決定リーグ白組プレーオフ。対戦成績は羽生善治名人の2戦2勝。
 この将棋は振駒で村山慈明五段の先手。羽生名人はごきげん中飛車を選択し③▲4八銀に。ただし流行の超速▲3七銀ではなく相穴熊になりました。後手は浮飛車から石田流のような形に。戦いは先手から仕掛け,飛車を角と交換して5筋にと金を作り,後手が2枚の飛車で反撃するという展開。今日はここから観戦。
                         
 見た瞬間,どうして▲5七金が直前の指し手なのか把握しかねました。取れる金を取らなかったのですから△6九成桂はこの一手と思いました。角が逃げては△7九成桂で一方的に剥がされますから▲6七金寄と活用するのは自然に思います。△6八成桂▲同金引(第2図)は予想手順。
                         
 後手は歩の攻めが効かないのに対し,先手はと金を使っての攻めができそうなので,ここは先手の方が指しやすいのではないかと思いました。予想は困難でしたが△5六角。交換は明らかに損ですから▲3五馬。△3四歩と打診して,▲3六馬かと思いましたが▲5七馬と引きつけました。△7八角成と切っていったのはびっくり。▲同金は当然でしょう。△6九金は一見すると重い感じですが,攻めるならこれしかなさそうです。ただ,厳しいことは厳しく,先手が容易ではないように思えてきました。▲6八銀打を主に考えていましたが▲3六角でした。あまり時間を使うことなく△5六歩が指され,先手もすぐに▲7ニ角成。△同金は当然。そこで▲6一銀(第3図)と打ち,いよいよ攻め合いに出ました。
                         
 僕のレベルでは難しいところで,まず△5七歩成▲7ニ銀成△6八とというのを考えるわけですが,以下を検討中に指されたのは△7一金。前の手順が負けならこう指すところと思います。▲6三桂は最も厳しい攻めに思えます。ここで△5七歩成と取りました。▲7一桂成△同銀は当然と思います。そこで▲7三桂という手が出ました。取ると▲7ニ金で先手が勝ちそう。ということで△7九金。▲8一桂成△同王(第4図)と進みました。
                         
 ここまで先手の読み筋だったと思われますが,ここで時間を使いましたので,誤算があったものと思います。▲同金と取った手は詰めろですが△4五角が詰めろ逃れの詰めろ。▲7ニ金△同銀▲7一金△9一王▲8二金△同王▲7ニ銀成△同角と角筋を逸らすのはここに至っては仕方なかったと思います。▲同金△同王(第5図)はほぼ必然。
                         
 この局面は,先手玉に即詰みこそないものの,駒をかなり渡したので王手か詰めろの連続で後手玉に迫らなければなりません。しかしそれに適した手段も残されてなく,後手の勝ちとなりました。
 勝った羽生名人が白組優勝で挑戦者決定戦に進出となりました。
                         

 ここでひとつ,考えておかなければならないことがあります。それは,第一部定理一というのが,どのような意味をもっているのかということです。というか,この定理自体の意味というのは明白だと思いますが,ここで実体がその変状に先立つといわれるとき,これをどのように理解するべきなのか,つまり,もっと一般的にいうならば,AがBに対して本性の上で先立つといわれる場合に,これをどのように解するのかということは,意外に重要なことだと思うのです。
 まず,僕はこのことを,AがBよりも時間的な意味において先行するというようには理解しません。この定理自体は名目的な意味しか持ち合わせませんが,とくに現在のように,これを実在的な観点から援用しようとする場合には,このような理解はほとんどそぐわないであろうと思います。なぜなら,時間というのは表象なのですが,たとえそれを何か意味のあるような表象,つまりスピノザがいう理性の有とか表象の有として理解するとしても,時間的な観点というのは,第二部定義五でいわれているような,持続的なものにとってのみ有意味なのだと思います。ところが,実体というのは,これも名目的な定理と理解するべきでしょうが,第一部定理七で示されているように,その本性に存在が含まれています。いい換えれば第一部定義一にいう自己原因なのであって,第一部定義八に示されているような永遠なる存在です。よって時間的な観点というのは,実体に関しては意味を有するということ自体ができません。なので第一部定理一自体が時間的な観点を含むことができないということは,それ自体で明らかだといえるでしょう。
 そして僕はこのことが,一般にAがBよりも本性の上で先立つといわれる場合にも通用すると考えるのです。というのは,事物の本性というものは,それがたとえ個物の本性であったとしても,やはり実体がそうであるように,持続ではなく永遠に関するようなものだと思うからです。たとえばその内角の和が二直角であるということは平面上の三角形の本性に属しますが,これは永遠から永遠にわたっての真理であり,昨日も今日も持続しているというようなものではありません。そのゆえに,現実的に存在するある三角形が消滅する,すなわちその持続が途絶えることがあるとしても,この本性までは消滅しないということになると思うのです。
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王位戦&属性の十全な観念

2011-05-27 18:39:19 | 将棋
 第52期王位戦挑戦者決定リーグの紅組は,一昨日の最終一斉対局の時点でふたりが3勝1敗で並んでいました。そのうちのひとり,藤井猛九段は谷川浩司九段と対戦。対局前の時点で谷川九段が17勝,藤井九段が15勝。
 谷川九段の先手で藤井九段の角交換四間飛車から向飛車穴熊。穴熊の将棋だと稀にあることですが,この一局は先手の構想がよくなかったようで,中盤の戦いが始まってわりと早いうちにはっきりとした差がつきました。
                         
 次に△3ニ飛で打った角の行き場がなくなるので先手はまごまごしていられません。▲6九飛と回って▲6四角成を用意。後手はその狙いを防ぎつつ攻め味も見せて△6五桂の絶好打。仕方なしに先手は▲5三銀と打ち込み自然な△6一飛に▲4二角成(第2図)と逃げました。
                         
 一応は馬ができたわけですが,こういう攻めでは穴熊の玉を攻略するのは困難で,ほとんど響いていないといっていいほどだと思います。この後は典型的な先手玉終盤,後手玉中盤のような将棋となってしまい,藤井九段の快勝に終っています。
 1敗で並んでいた戸辺誠六段の方は負けたので,藤井九段の優勝が決定。明日の白組プレーオフの勝者と挑戦者決定戦を戦うことになりました。

 第二部定義一でスピノザが示している内容が,共通概念として現実的に存在するすべての人間の精神の一部を構成し,かつ現実的に存在するすべての人間がそれを意識することができる,さらにいうならこれは十全な観念,すなわち真の観念であるわけですから,第二部定理四三により,すべての人間はそれについて疑いをもつことができないのだとすれば,このことからどのような事柄が帰結してくるのでしょうか。
 結論から先にいうならば,僕の考えでは,このことのうちには,人間の精神のうちには,神の延長の属性の十全な観念があるということが含まれているのです。一方,これは物体の認識に関する論考によって得られる結論ですので,個物の観念を利用した同様の訴訟過程により,神の思惟の属性についても,現実的に存在するすべての人間の精神の一部が,その十全な観念によって形成されているということになると思います。
 僕がそのように結論する最大の根拠は,第一部定理一にあります。様態の存在に実体の存在というのが本性の上で先立っているのであれば,物体はそれこそ第二部定義一にあるように延長の様態なわけですから,それには延長の実体が本性の上で先立っていなければなりません。ここには反論の余地がないと思います。しかるにそうであるならば,物体の十全な認識というものがあるためには,延長の実体の十全な認識が,本性の上で先立たなければならないと僕は考えるのです。これは,スピノザの哲学を大きく特徴づけるような平行論からの帰結ということもできると思いますし,より確実を期すなら,第二部定理七に訴えるのがいいと思います。すなわち,物体に対して延長の実体が先立つというのは,物体の秩序であると考えられますが,観念の秩序というのがこれと同一でなければならないのだとしたら,物体の観念には延長の実体の観念が本性の上で先立っていなければならないということになると考えられるからです。
 第一部定理一というのは名目的にしか考えられない定理ですから,ここではさしあたって名目的に説明しました。しかしこれを実在的な観点から考えるならば,延長の実体というのは神の延長の属性にほかならないと僕は思います。だから物体の十全な認識には,神の延長の属性の認識が本性の上で先立っていると僕は考えるのです。
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デイリー盃大井記念&共通概念の意識

2011-05-26 18:43:41 | 地方競馬
 南関東所属馬にとって,帝王賞へのステップレースと位置付けられる大井記念は,昨晩の大井競馬場で争われました。前日に町田直希騎手が大怪我を負ったため,ツルオカオウジは石崎駿騎手に変更。
 絶対に逃げたいというような馬はいませんでしたし,距離も長いだけに最初の1000mが63秒2というスローペースとなったこともあり,入れ替わり立ち替わりで隊列が落ち着くまでにはかなり時間がかかりました。1周目の正面を過ぎたところでようやくシーズザゴールドが先頭に立ち,これが逃げの態勢を作りました。しかし向正面に入るとマズルブラストが進出し,3コーナーでは先頭。さらにセトノギムレットが2番手に上がりました。
 早めの仕掛けでしたがマズルブラストの脚色は直線でも衰えることなく,むしろ後ろを離して抜け出しました。発走直後は先頭にいて,その後は控えたツルオカオウジだけは猛追し,ゴール前では並ぶところまでいきましたがわずかに届かず,マズルブラストの優勝。ツルオカオウジは惜しい2着で4馬身差の3着には後方待機から向正面で漸進を開始したタートルベイ。
 優勝したマズルブラストは昨年の金盃以来の南関東重賞5勝目。大井記念は2007年にも勝っていて2勝目。今年の正月にはオープンを勝っていて,最盛期ほどの力はないものの極端に能力が減退しているわけではないというところは見せていました。距離の適性ではこのメンバーでは上位と思われましたし,早めに仕掛けて粘り込む競馬をした鞍上の手腕も大きかったと思います。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は前開催の東京プリンセス賞に続いてまたも南関東重賞制覇。大井記念は初勝利。管理する船橋の川島正行調教師は2007年以来の2勝目。このコンビの勢いはどこまで続くのでしょうか。

 第二部定義一でスピノザが示している内容は,現実的に存在するどの人間の精神のうちにも共通概念として,いい換えれば十全な観念としてあるということについては,これで断定してよいと思います。ただ,これはこのブログの中においてたびたび指摘してきたことではありますが,ある人間の精神のうちにたとえばAの十全な観念があるということは,いわばその人間の無意識のレベルに関しての言及です。だから,現実的に存在する人間の精神のありようという観点からいうならば,このことは,第一部定義一の内容に関して,すべての人間が常日頃からそれを意識しているということを意味するものではありません。これもすでに何度か指摘してきたことですが,観念というのが人間の無意識のレベルを意味するとすれば,意識のレベルとしては観念の観念というのがそれに該当するからです。
 そうはいっても,現実的に存在するある人間がAというものを意識するために,つまりAの観念の観念を自身の精神のうちに形成するための必要条件は,Aの観念がすでにその人間の精神の一部を構成しているということだけであり,またこの条件は,必要条件にして十分条件でもあります。よって,もしもある人間の精神のうちにAの観念があるという場合には,そのことについて反省的でありさえすれば,この人間はそれを意識することが可能であるということになります。したがって,現実的に存在するどの人間の精神のうちにも第二部定義一に示されているような事柄が十全な観念としてあるのであれば,少なくとも現実的に存在するすべての人間は,それに関して反省的な考察を行うことによって,それを意識することができるということも,同時に断定してよいということになると思います。
 ところで,現在は人間の精神による物体の認識に関する共通概念をひとつの例材として探求を進めていますからこのような結論となるわけですが,同様のことが,人間の精神による観念,あるいは思惟の様態の認識についても妥当すると僕は考えます。というのも,第二部公理五が示しているところによれば,人間は物体を認識しますが,思惟の様態も認識します。したがってこれまでにしてきたのと同様の訴訟過程を経れば,第二部公理三により思惟の様態のうち第一のものである観念についても,物体と同じことがいえる筈だからです。
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王位戦&第二部定義一

2011-05-25 20:30:02 | 将棋
 紅白に分かれての第52期王位戦挑戦者決定リーグは今日が最終戦の一斉対局。白組で最も注目されたのは3勝1敗の羽生善治名人と4戦全勝の村山慈明五段の対局。過去は1戦のみで羽生名人の勝ち。
 先手は羽生名人。3手目に☗6六歩と角道を止め,相矢倉模様に進展。先手は早囲い,後手は飛車先不突きが主張点。先手の仕掛けに乗じて後手は玉頭に厚みを形成,先手がこれを目標に本格的な攻撃開始。その間に後手は攻めの銀を守りの金と交換することに成功。これは一応の成果といえると思います。そこから少し進んだ局面からの観戦。
                         
 飛車を取るのか馬を取るのかの二択。☗8二馬と飛車の方を取ったのは予想通り。☖2九馬☗8一馬☖5六馬☗7九銀(第2図)まですらすらと進みました。☗7九銀は考えていなかった手ですが,ここに銀を使って手番を渡すのでは先手が苦しいのではないかと瞬間的に思いました。
                         
 ここは飛車を打って攻めるかもしれないと思っていると☖5三歩で銀を受けたので落ち着いているなと感じました。ここは手が広そうな局面で長考となりましたが☗3四桂という最も厳しい手というか直接手が選択されました。☖同金☗同銀☖同馬までは一直線。さらに☗5四馬と切り,☖同歩に☗4三銀の打ち込み。☖同金もあったと思いますが☖4四馬の方が本線という感じはします。☗3ニ銀成☖同玉(第3図)は必然。
                         
 ここはだいぶすっきりした感じで,先手が攻めを続けるのは大変に思えました。なけなしの一歩を使って☗4五歩。取る一手に思えましたが十分な考慮の上で指されました。☗5三金は攻め続けるならこれしかないという感じ。☗4二飛を受ける必要がありますが☖4三金でした。☗同金☖同玉☗3五金までは予想通り。☖同馬か☖7八馬を想定していて,単に☖5六馬と逃げるのはあまり考えていませんでした。☗6三飛と王手して☖3ニ玉に☗4四金(第4図)の詰めろ。ここではまた大変になっているように思えました。
                         
 後手はここで☖4二歩と受けました。☗3三金打☖3一玉。ここは☗5三飛成なのかなと思っていると☗6一飛成の王手。☖4一銀の受けに☗2二金を考えていたら☗9一龍と補充。☖3三桂☗同金☖3二歩と進みました。ここでまた☗4三桂を考えていたらひとつ横に☗5三桂。☖3三歩☗4一龍☖2二玉は一本道。☗4二龍と王手して☖3二桂に入手した銀を☗3一銀。☖2一玉☗2二香☖1二玉☗3ニ龍(第5図)と想定通りに進んで後手玉は必至。
                         
 あとは先手玉が詰むかどうか。桂馬を使って詰むならば,第4図から第5図の過程で☖4一銀と打った意味があったということで,そうでないなら敗着だったということだろうと想定。僕ならば詰まされてもおかしくないような先手玉ですが,羽生名人がそんなミスを犯す筈もなく,逃げ切って勝利。同じ1敗だった佐藤康光九段が負けたので,4勝1敗で並んだ両者が挑戦者決定戦進出を賭して再び相まみえることになりました。再戦は今週の土曜日です。
                         

 では物体corpusの何たるかが『エチカ』においてどう基礎づけられているのかといえば,それは第二部定義一に示されています。
 「物体とは,神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現する様態のことと解する(Per corpus intelligo modum, qui Dei essentiam, quatenus, ut res extensa, consideratur, certo, et deterninato modo exprimit.)」。
 第一部定理二五系によれば,神Deiの本性を一定の仕方で表現する様態deteaminato modo exprimuntur,すなわち有限様態のことを個物Res particularesというわけですから,要するにこの定義Definitioが意味するところは,物体とは神の延長の属性Extensionis attributumの個物であるということです。そしてもちろんこの定義は,名目的にそういわれているというわけではなく,実在的な意味を有します。したがってすべての物体は神の延長の属性を一定の仕方で表現するということ,ならびに個物であるということでは一致します。これが,岩波文庫版第二部自然学①補助定理二を形式的に証明する際の,具体的な意味になってくるのです。
 そこで今度は,再び第二部定理三八に注目してみましょう。これによれば,すべてのものに共通omnibus communiaであるようなものは,十全に認識されるということになっています。したがって,人間の身体corpusもまた物体のひとつであるわけですから,もしも現実的に存在する人間の身体がそれ以外の外部の物体によって刺激されるということが生じるならば,その外部の物体と共通であるような上述の要素というのは,この人間によって十全に認識されることになるでしょう。そして岩波文庫版117ページ,第二部自然学②要請三は,現実的に実在する人間は,好むと好まざるとに関わらず,こうした経験をすることについては不可避であることを示していると思います。
 なお,これは実際には,現実的に存在する人間についてのみ該当するのではなく,たとえば人間によって刺激されるような外部の物体に関しても同じようにいえなくてはなりませんし,僕はそのようにいえるのだと考えます。ただこれをいう場合には,外部の物体の精神mensというものをどのように理解するべきかということの分析が不可欠で,このこと自体は現在の考察とは無関係である上に,かなり煩雑ですから,ここでは省略します。したがってここの部分に関しては,もしも納得できないのであれば,単に人間の精神mens humanaにのみ妥当するというように考えてもらっても構いません。
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被災地支援豊橋記念&第二部自然学①補助定理二証明

2011-05-24 18:32:36 | 競輪
 全プロがあったために先週は競輪のグレードレースはなし。今日が豊橋記念の決勝でした。並びは菅田-平沼の北日本,深谷-金子-島野の愛知,村上-南の近畿で,木暮と浅井は単騎。
 近畿のふたりが前に出て村上の前受け。木暮が3番手,深谷が4番手,菅田が7番手で最後尾に浅井という周回。残り3周の3コーナーを回ったあたりから菅田が上昇。浅井は続きませんでした。北日本のふたりはバックで村上を叩くと打鐘から深谷が発進。これを平沼が牽制。ここでごちゃごちゃになり,金子は深谷から離れ,菅田の後ろに木暮。菅田と深谷は先行争いを演じ,バックの終りでようやく深谷が前に出て決着。自力で追い上げてきた金子が再び深谷の後ろに入りましたが,この追い上げを利して勢いを得た村上がその外を捲りきって優勝。続いた南が2着で近畿のワンツー。3着は接戦でしたが大外を伸びた浅井が金子を捕えていました。
 優勝した京都の村上義弘選手は東日本大震災直前の開催となった日本選手権を優勝。記念競輪はその前の高松記念以来で21勝目。菅田と深谷が激しく争ったことには恵まれましたが,しっかりと自分の力を出し切っての優勝。深谷はいつも以上に力を使わざるを得なかったと思いますが,捲りきったのは確かな力を示したといっていいだろうと思います。
                         

 慎重を期してまず,岩波文庫版111ページの第二部自然学①補助定理二を詳しく分析してみます。
 これは定理ですから,証明が必要なわけです。しかし一方でこの定理は,とくに『エチカ』の公理系とは関係なく,きわめて形式的なやり方でも証明することが可能であるように思えます。というのは,たとえばAとBというふたつのものがあるとして,このAとBがどちらも物体といわれるのであれば,それはAとBの両方が含んでいるようなある共通した要素によって物体といわれているに相違ないと考えることができるからです。そして当然ながらこのことは,物体といわれるようなすべてのものに該当するでしょう。そしてこのこと自体が,この補助定理でいわれている内容,すなわちすべての物体はいくつかの点で一致するということをすでに意味しているからです。
 ただし,ここで注意しなければならないのは,それが物体といわれるということ,別のいい方をするならそれが物体ということばによって指示されているということが重要であるのではないということです。とりわけスピノザの哲学の場合は唯名論の色が濃いのでなおさらです。むしろそれを指示するようなことばについては何であっても構わないのであり,同一のことばで指示されているということが重要なのです。物体ということばは,単にそういうことばとしてあるといううちは表象でしかありませんから,それが十全であるとみなされなければならないような事柄に対して,何か大きな意味を有するとか,大きな働きをなすというようなことはあり得ません。もちろんこれは物体に限らず,どんなことばであっても同じことです。
 したがって,このことを逆に考えてみれば分かるように,この形式的な訴訟過程において最も重要なことは何であるのかといえば,この訴訟がなされる公理系の内部において,物体なるものがはっきりとした形で基礎づけられているかどうかということです。いい換えれば,もしも物体なるものがきちんと定義されているのであれば,その範囲の内部で物体といわれるようなものは,すべてがその定義された内容に関してそれを有するということになります。よってすべての物体には共通する要素があるということに関して,単に形式的な仕方で証明することが,真の意味で可能になるということになります。
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オークス&属性の共通概念

2011-05-22 18:41:21 | 中央競馬
 3歳の牝馬にはやや過酷と思える条件での戦いとなるのがオークス
 好発から一旦はライステラスが先頭に立ちましたがこれを交わしてピュアブリーゼの逃げ。シシリアンブリーズを含めた3頭が後ろをやや離す展開になりました。最初の1000mは60秒5でこれはミドルペース。
 直線に入るとこれらの後ろに位置していたスピードリッパーが内に切れ込むような形となり,真中団から追い上げてきたエリンコートと接触。この不利をはねのけたエリンコートが逃げ粘るピュアブリーゼに並び掛け,その外に後方から追い込んできたホエールキャプチャが加わって3頭の争いに。ゴール前で抜け出たエリンコートがクビ差で優勝。ホエールキャプチャの追撃をハナだけ凌いだピュアブリーゼが2着で,ホエールキャプチャが3着。
 優勝したエリンコートは7月の函館デビュー。3戦目に初勝利を飾ると昇級後も崩れなく走り,ここにきて500万,オープンと連勝。今日はその上昇度を生かしての勝利。ただ,本当の意味でトップに立ったのかといえば,まだそうはいいきれないような面があると思います。父は2003年と2004年のJRA賞最優秀短距離馬のデュランダル。曾祖母の妹がバレークイーンですので同じ一族です。Erin Courtはアイルランド宮廷。
 騎乗した後藤浩輝騎手は昨年の安田記念以来の大レース制覇でオークスは初勝利。管理している笹田和秀調教師はこれが大レース初勝利。

 有限な知性による属性の認識の無謬性は明らかになったと思います。
 さて,有限知性が虚偽を真理から分かつためには,その有限知性のうちにたったひとつで構わないから十全な観念があるということだけで十分なわけですが,もしもある属性についての認識を真理と虚偽とに分かつというときに,その属性の十全な観念がその知性のうちにあるとするならば,この無謬性はさらに強化されることになるものと思います。実は僕はこうしたことがどんな有限知性の,認識し得るどんな属性の認識にもいえると考えているのです。そこでここでは,人間の知性による延長の属性の認識というのを例材に探求していくことにしましょう。そのための鍵となるのが共通概念です。
 ドゥルーズが示したように,共通概念というのは,第二部定理三八に示されているような一般性のとても高いものから,第二部定理三九でふたつのものにだけ適用されるような,一般性がきわめて低いものまで多々あります。そして現実的に実在する人間というのが第二部定理四〇のような仕方で多くの十全な観念を獲得していくためには,一般性の低い共通概念の方が実際には重要となってきます。しかし属性,ここでは延長の属性ですが,延長の属性の認識というものが共通概念としてあり得るのだとすれば,これは一般性としては非常に高い,というかそれ以上に高いものはないといっていいほど高いでしょうから,前者の方をここでは用いるということになります。
 すでに別の観点から説明したように,この定理は,実際に共通概念が人間の精神のうちに現実的に実在するということを意味しているわけではありません。しかしそのことは第二部定理三八系で示されていますから,それを利用することにします。
 ここではすべての人間に共通の観念が存在するといわれていますが,延長の属性の観念というのはこれに該当すると思います。なぜなら,この証明でスピノザが示しているように,岩波文庫版の111ページ,第二部自然学①補助定理二によりすべての物体というのはいくつかの点において一致しますが,そのことのうちには,物体というのが延長の個物であるということが当然ながら含まれていると考えなければならないと思うからです。これは当然といえば当然のことかもしれませんが,一応はもう少し考察しておくことにします。
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エイシンサニー&無謬性

2011-05-21 18:56:49 | 名馬
 みどりの日の兵庫チャンピオンシップで初の重賞制覇を成し遂げたエーシンブラン。この馬の曾祖母となるエイシンサニーは,僕の競馬キャリアの初期の頃に走っていた馬でした。
 2歳8月に小倉デビュー。9月に4戦目で初勝利を飾ると11月に7戦目で2勝目。年明けのオープン特別2戦を続けて好走し,桜花賞トライアルの4歳牝馬特別で重賞を制覇。桜花賞は4着だったものの,続くオークスでは桜花賞馬で後にアグネスタキオンの母となるアグネスフローラを2着に降して優勝しました。
 14戦目でのオークス制覇というのはキャリア的に異例といえるでしょう。秋は神戸新聞杯で復帰した後,ローズステークスからエリザベス女王杯と,当時の3歳牝馬の王道路線を歩みましたが,あまり見せ場がなく大敗。鳴尾記念を挟んで有馬記念にも出走。これはメジロライアンが2着となったオグリキャップの引退レースですが,14着。翌年も1戦したもののやはり大敗で,引退となりました。
 早い時期からたくさんのレースを使った関係で,競走馬としてのピークを3歳の春に迎えてしまったという面は否めないと思います。もっとも,年上の世代や牡馬が相手では,どちらにしても苦戦を強いられたのかもしれず,そういう意味ではオークスを勝つことができたのですから,レースの使い方が失敗だったとはいいきれないかもしれません。子孫からの重賞の勝ち馬は,エーシンブランが初めてです。

 この前提からどんな事柄が帰結するのかといえば,人間の知性による属性の認識に関する無謬性ではないかと思います。あるいはもっと広くいえば,こうした前提というのは,人間の知性にのみ妥当するというわけではなくて,どんな有限知性にも該当するという側面も帯びていますから,一般に知性による属性の認識の無謬性といってもいいかもしれません。
 『エチカ』において,あるいはスピノザの哲学において,第二部定理三五というのは非常に重要な定理であって,そこでは虚偽と誤謬とが異なるものであるということが示されています。すなわち,混乱した観念は虚偽ですが,ある知性の一部が何らかの虚偽によって現実的に構成されていたとしても,それだけでその知性が誤謬を犯しているとはいえないわけです。むしろそうした場合に,その知性が虚偽が虚偽であるということに気付くならば,そうした虚偽によって自身の知性の一部が構成されるということが,むしろその知性にとっては力にすらなり得るということは,かつて主題として探求した第二部定理一七備考に示されているほどです。虚偽はそれが虚偽であると気付かれない場合,より積極的にいうならそれが真理であると思いこまれる場合にのみ,誤謬であるといえるのです。
 すでに考察したように,僕たちは真理と虚偽とを分つ術というものを現実的に有しています。さらに属性の認識の場合には,仮に属性についての虚偽が構成され得るのだとしても,それを真理から分かつための判断基準というものは,単にそれがそれ自身によって認識されているのか,それともほかのものの観念に依拠して認識されているのかということのみでよいのです。したがって,どんな有限な知性も,少なくとも属性の認識に関してならば,仮にその混乱した観念,つまり虚偽をもつということがあるのだとしても,それを真理であると信じ込んでしまうことはない,つまり誤謬を犯すことはないということは,断定してしまっても構わないだろうと僕は考えます。
 このことは,記述としては認識論的にしか読解できないような第一部定義四を,実在論的に理解してもよいということの,ひとつの大きな根拠となるように思われます。しかしさらに,この根拠を強化するような要素が『エチカ』の中にはあると僕は考えていますから,引き続きそのあたりのことを考察していくことにします。
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東日本大震災復興支援東京スポーツ賞川崎マイラーズ&前提

2011-05-19 18:23:10 | 地方競馬
 川崎競馬も今週から夜の競馬に突入。昨晩がこの開催のメーンとなる第3回川崎マイラーズでした。
 好発を決めたザッハーマインを制したのはヴァイタルシーズ。しかし外からマグニフィカが追っていくとこちらに譲り,マグニフィカの先導。2頭の直後にディアーウィッシュがつけ,ザッハーマインはインの4番手。前半の800mは49秒9のミドルペース。
 ヴァイタルシーズは3コーナーあたりで脱落。ディアーウィッシュがマグニフィカに並び掛けていき,ザッハーマインがこれを追い,その後ろはやや離れました。直線ではディアーウィッシュがマグニフィカを交わして先頭に。満を持して外に持ち出されたザッハーマインが鋭く伸び,これを捕えての優勝。ディアーウィッシュが2着で同厩舎のワンツー。後方から向正面で少し押し上げた後,直線勝負に徹したコスモフォースが3着。
 優勝したザッハーマインは先月のしらさぎ賞からの連勝で南関東重賞4勝目。斤量関係はやや有利と思われ,課題は南関東限定とはいえ牡馬相手であったこと,そして川崎が初コースであったことの2点でしたが,難なく克服。断然の人気であったように順当な勝利ではありますが,今後のレース選択の幅が広がるような勝利であったと思います。母系一族からはグラスワンダーなどが輩出しています。
 騎乗した大井の的場文男騎手もしらさぎ賞に続く南関東重賞制覇。このレースは今年が3回目で,管理している船橋の出川克己調教師ともども初勝利です。

 実をいうと,属性の観念について,それを真理と虚偽,すなわち十全な観念であるかそれとも混乱した観念であるかという判断を下すことは,第一部定理一〇があることによって,たとえば個物の観念に関して同様の判断を下す場合と比べて,かなり容易であるだろうと僕は考えています。なぜならこの判断の基準は,その観念がそれ自身によって概念されているのか,それともほかのものの観念に依拠して知覚されているのかという点にのみあるからです。したがって,属性の認識の場合に関しては,第二部定理四二からの帰結は,さらに強化されるだろうと思います。なお,このことは,第一部定義三により,実体の観念についても妥当します。また,神は第一部定義六により実体ですから,神の観念に関してもやはり同様であるということになります。
 ただし,この帰結の前提条件というのは,それを認識する人間の精神のうちに,ひとつでも構わないがすでに十全な観念が現実的に実在するということです。もしもこれがない場合には,その人間はそもそも真理とは何であり,また虚偽とは何であるかということさえ不明であるということになりますから,真偽を判定するということ自体が不可能になってしまいます。よって重要なのは,現実的に存在する人間の精神のうちに,何らかの十全な観念があるということがいえるのかどうかということになってきます。
 しかし,これに関しては、以前に別のテーマを考察した際に詳しく分析したように,あるということが前提できるのです。ここでは詳しく分析はしませんが,その根拠となるのは第二部定理三七であり,また第二部定理三八です。こうした共通概念というのは,すべての人間の精神の一部を構成する十全な観念なのです。確かにこれらの定理は,実際に共通概念が現実的に存在する人間の精神の一部を構成しているということについて証明しているわけではありませんが,岩波文庫版『エチカ』の117ページ,第二部自然学②要請三に示されているように,人間の身体というのは現実的に存在するならばきわめて多くの外部の物体から刺激を受けますので,多かれ少なかれ何らかの共通概念は,すべての人間の精神の一部を構成しているといっていいということになるのです。
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女流王位戦&帰結

2011-05-18 20:09:15 | 将棋
 白鷺城の城下町,姫路での対局となった第22期女流王位戦五番勝負第二局。
 先手は甲斐智美女流王位。中飛車から美濃囲い。清水市代女流六段は左美濃。先手から角交換して5筋を交換。そこで一段落となり,その後は後手から仕掛ける形で熱戦が繰り広げられました。観戦は最終盤のところのみ。
                         
 先手玉も怖い形ですが,後手は駒がないので,正しく指し進められれば先手が勝つのではないだろうかというのが第一感。▲4六桂が有力だったようですが▲3六銀と歩を払いました。ただ,これもそんなに悪い手とは思えませんでした。後手の指し手は難しく,△1五歩かなと思っていたら△4八馬。取るのはまずそうに思えたので▲2九金は予想通り。ここから△3八馬▲同金と進むと思っていたら単に△1五歩(第2図)。
                         
 すぐに▲3九金寄とはできないので角筋を遮断する必要があり,▲7五歩でした。△1六歩は詰めろで▲3九金寄はこの一手。歩が成ってもすぐには攻めきれないので△7五馬も予想通り。今度は△3九馬があるので▲2九玉と早逃げしました。△1七歩成はこれしかないように思えます。攻め合う手もあったみたいですが▲5七歩はこうやるのではないかと思っていた手。ただこれなら第2図のところで▲5七歩と打っておけばよかったかもしれません。△1八歩もこれしかないように思える攻めで▲4八金寄とこちらに脱出路を作りました。△1九歩成▲3八玉。ここで△4六香を考えていましたが△6六香でした。一旦▲2六桂と反撃し△3三歩と打たせて▲7七龍。すぐに金を取るかと思ったら△6四馬▲5六飛としてから△6八香成。▲同龍△6七歩▲同龍△6六歩までは予想通り。下に逃げると考えていたら▲7七龍(第3図)でした。
                         
 ここで△5五歩。▲4六飛なのかと思ったら▲6六飛。△同角▲同龍△6五歩までは予想通りで,今度こそ下に逃げると思いきや▲7六龍。△5九飛はまあ打ちたいところ。そこで▲1二歩というまったく考えていなかった手が出ました。挨拶はしないだろうと△1八と引を考えていましたが△5六歩。この手はいい手のように感じました。放置はできないので▲同龍は仕方なさそう。△4六金(第4図)と打ちました。
                         
 ここで▲3四桂△同歩。あるいは▲5五角かとも思いましたが▲7七角の方が自然ではあると感じます。△4四桂はこれしかありません。▲同歩は読み切れそうもなく,すぐに飛車を取ると思いましたが▲1四桂△2三玉としてから▲5九角。△5六桂は当然。▲同歩は仕方ないように思いました。△1八飛▲4九玉△2八と(第5図)はこう進むところではないでしょうか。
                         
 ここから▲2八同金△同龍と龍の筋を変えて▲1五桂△1四玉▲2二飛となり先手玉が詰むかどうか。しかしこの玉は詰まず,後手玉の詰めろが一旦は解けることにはなりましたがあまり問題なく,先手の勝ちになりました。
 甲斐女流王位が連勝で防衛に王手。第三局は来月15日です。

 第二部定理四二の意味がこのようなものであるとするなら,一般的に次のことが帰結します。すなわち,もしも現実的に存在するある人間の精神の一部が,十全な観念によって組織されているならば,そのことによってこの人間は,この人間の精神を構成する混乱した観念については,ことごとくそれを虚偽であると認識できることになるでしょう。つまり,ある人間にとって,一般的に真理と虚偽とを分つ力というものは,その人間の精神のうちに,たったひとつでも構わないから十全な観念があるのかどうかということにかかってくるということです。
 もちろん,これはあくまでもこの人間がそうした力を有しているという意味であって,必ず真理と虚偽とを実際に分かつということではありません。実際には,ある人間の精神のうちに十全な観念があるという場合でも,この人間が何らかの混乱した観念について,それを真理であると思いこんでしまうということはあるでしょう。というのは,僕たちは自分の精神を現実的に構成する観念について,逐一それらを真理ないしは虚偽として意識するというものではないからです。というよりも,第二部定理一四にあるように,人間の精神というのはきわめて多くのものを認識するわけですから,そのすべてについて真理であるか虚偽であるかを判断するような作業というのは,現実的には不可能なのだといっていいかもしれません。ただし,もしも人間の精神のうちに十全な観念がひとつでもあれば,この人間は真理の規範を有しているということは間違いなく,したがってもしもある観念について,それを反省的に判断する作業というのを行った場合には,それが真理であるか虚偽であるかは正確に判断できるということになります。
 こうしたことがあらゆる観念について妥当します。したがって,もしも人間が神の属性,といってもこれは思惟の属性か延長の属性のどちらかということになるのですが,それを混乱して認識するということがあるのだとしても,その人間の精神のうちに,何らかの十全な観念さえあるのならば,少なくともその人間は,それがまさに混乱した認識,すなわち虚偽であるということについてはこれを理解することができるということになります。
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グランマスティーヴンス&第二部定理四二の意味

2011-05-17 18:54:11 | 血統
 東京開催となった今年の皐月賞オルフェーヴルが優勝しました。この馬の輸入基礎繁殖牝馬は1977年アメリカ産のグランマスティーヴンス。オルフェーヴルの曾祖母にあたります。ファミリーナンバー8-c
                         
 アメリカで1頭の産駒を産んだ後,社台が輸入。記録をみますと,種付けはされたものの産駒はなしという年も多く,体質的にはやや問題があったのかもしれません。ただ,輸入後に登録されたのは4頭続けて牝馬で,このために枝葉は伸びました。
 この4頭のうち,3頭目がオルフェーヴルの祖母になります。一族から重賞の勝ち馬はなかなか出てきませんでしたが,ついに2006年になって,オルフェーヴルの全兄にあたるドリームジャーニー朝日杯フューチュリティステークスを制覇。つまり一族の最初の重賞制覇が大レース制覇となったのです。ドリームジャーニーはその後も大レースを2勝するなど,近年の名馬の1頭になりました。
 オルフェーヴルはドリームジャーニーの朝日杯優勝の翌年に種付けされた産駒。配合相手にステイゴールドが選ばれたのは,ドリームジャーニーの活躍があったからでしょう。だからといって成功するというのは稀なパターンなのですが,この馬の場合は大成功。おそらくよほど相性の良い父と母の組み合わせなのだろうと思います。ドリームジャーニーもオルフェーヴルも牡馬ですから,一族をさらに繁栄させていくということはできませんが,この兄弟の間には牝馬が2頭いますので,そちらの子孫から活躍馬が出てくる可能性は大いにあるのではないかと思います。

 第二部定理四二は,個別の真理veritasについての言及ではなく,真理一般に関する定理Propositioであるというように僕は理解します。すなわちそこでいわれていることは,たとえばAの真の観念idea veraあるいは十全な観念idea adaequataがAについての真理と虚偽falsitasとを分つということではなく,むしろ何でもいいのですがあるひとつの真理は,すべての真理の規範である,いい換えればすべての真理と虚偽とを分つような力potentiaを有しているというようなことだと僕は考えるのです。
 僕がこの定理を上述のような意味に理解する根拠を説明しましょう。もしもこの定理が個別の真理に関する言及であるなら,たとえば人間の精神mens humanaは,Aの真理と虚偽を分かつために,Aの十全な観念を有していなければなりません。しかしこのAというのは任意のものですから,どんな場合にも妥当します。したがって人間の精神は,その十全な観念を有するものについてはそれに関する真理と虚偽とを分かつことができるけれども,そうでない場合にはそれが不可能であるということになります。しかし僕はこれをいうのは不条理なのではないかと思うのです。
 これは論理的に考えるよりも,経験的に反省してみた方がよく理解できるのではないかと思います。そしてこの場合には,人間の精神の一部を構成する混乱した観念idea inadaequataの代表である表象像imagoを例にするのが手っ取り早いでしょう。
 第二部定理一七の仕方で,ある人間の精神のうちに外部の物体corpusXの表象imaginatioが生じたとしましょう。もしも第二部定理四二が個別の真理に関する言及であるなら,この人間がそのXの十全な観念を有していない限り,この人間はXの表象像が真理であるか虚偽であるか,つまり十全な観念であるのか混乱した観念であるのか分からないということになります。しかしそんなことはあり得ません。たとえこの人間の精神のうちにXの十全な観念が現実的に存在しないのだとしても,この人間はXの表象像がXについての真理ではない,つまり虚偽であるということは知り得るでしょう。すなわち,Xの真理がどういうものであるかを知らない場合でも,このXについての表象像が虚偽であるということだけは,この人間は認識するcognoscereことができるのです。したがって,やはり第二部定理四二というのは,個別の真理と虚偽に関する言及というより,真理と虚偽一般に関連する言及だと理解するべきだと思います。
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ヴィクトリアマイル&第二部定理四二

2011-05-15 18:34:50 | 中央競馬
 春の最強牝馬決定戦という位置づけの第6回ヴィクトリアマイル
 オウケンサクラが1頭でかなり後ろを離しての逃げ。このラップは前半の800mが44秒6という超ハイペース。もっともほかの馬にはそんなに影響はなかったかもしれません。アパパネが中団よりやや後方でブエナビスタがその直後。
 暴走したオウケンサクラは坂下で一杯。満を持すように先頭に躍り出たのがレディアルバローザ。これに外からアパパネが迫り,さらに外から追い込んだのがブエナビスタ。3頭はそれほどの差がなく入線しましたが,優勝はアパパネ。2着がブエナビスタで3着にレディアルバローザ。
 優勝したアパパネは昨年の秋華賞以来の大レース5勝目。純粋な能力では2着馬の方が上だろうと思いますが,この距離であれば十分に太刀打ちできるところなのでしょう。猛追を凌ぎきり,古馬としても頂点に立ったわけですから,非常に価値が高い勝利であったと思います。父はキングカメハメハ。Apapaneはハワイに棲息する鳥。
 騎乗した蛯名正義騎手,管理している国枝栄調教師は秋華賞以来の大レース制覇で,ヴィクトリアマイル初勝利。

 一般に真理とは何かというならば,これは真の観念あるいは同じことですが十全な観念の総体のことです。いい換えれば真理一般に対してある十全な観念というのは,個々の真理であるということになります。ではこれに反して虚偽とは何であるかといえば,実は虚偽一般とは誤った観念ないしは混乱した観念の総体のことであるということにはならないのだと僕は考えています。むしろ虚偽とは真理から外れるすべてのもの,いい換えれば真理の否定のことであり,ある真理を否定するような力,それが力といえるのかは微妙ですが,そうした力というのがある知性のうちに現実的に存在する場合には,その混乱した観念も同時にその知性のうちに現実的に発生する,というか発生しているのだと僕は理解しています。これについては,当面の探求とはあまりにかけ離れてしまう上に,詳しく説明するためにはそれなりの量が必要になりますからここでは詳述しませんが,基本的には第二部定理四九と,混乱した観念のうちにもその観念を肯定するような意志が含まれているということに注意すれば,こうしたことが帰結されると思います。
 現在の考察と照らし合わせた上で重要となるのは,このゆえに,真理と虚偽とを分つのは,真理である,真理だけであるということです。『エチカ』においてこれを示しているのが第二部定理四二です。
 「我々に真なるものと偽なるものとを区別することを教えるのは,第一種の認識でなくて第二種および第三種の認識である」。
 書かれている表現は異なりますが,第一種の認識というのが事物の混乱した認識を意味し,第二種の認識と第三種の認識は前者が理性的で後者が直観的というように方法は異なりますけれども,ともに事物の十全な認識を示すというのは第二部定理四〇の備考二にある通りですので,いわれている内容は同一です。また,スピノザによるこの定理の証明というのは,真理と虚偽を分かつために必要なのは,真理と虚偽についての真の観念ないしは十全な観念であるということに訴えていて,虚偽がどういうものであるのかということに触れているわけではありませんが,どのようにして知性が真理を虚偽から分かつことが可能になるのかということを説明する方法としては,やはり同一であるといっていいでしょう。
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東日本大震災被災地支援SSシリーズ風光る&修復方法

2011-05-13 18:32:42 | 競輪
 来年からはS級S班が9名に減少するため,今年でラストとなるSSシリーズ風光るは,震災の影響で開催の目途が立たない取手競輪場から松戸競輪場へと舞台を変更し,こどもの日に決勝が争われました。並びは山崎-伏見-成田の福島,武田-平原-神山-兵藤の関東,海老根に大塚。
 大塚も出ていきましたが武田の前受けに。中団が海老根で後方から山崎という周回に。残り3周というあたりから山崎が上昇。武田を叩くと4番手を海老根と武田で取り合う形。山崎は残り2周から早くもスピードを上げて先行。4番手は海老根が確保して関東勢は後方に。打鐘過ぎに武田が発進するもホーム過ぎに伏見が番手発進。成田の牽制を受けた武田はここで失速。大塚が成田の後ろにスイッチしたため海老根も不発。平原も自力に転じて仕掛けましたが前には届かず。直線は粘る伏見に成田が迫ってゴール。かなりきわどくなりましたが,わずかに交わして成田が優勝。伏見が2着で3着に大塚。
 優勝した福島の成田和也選手は昨年のサマーナイトフェスティバル以来のビッグ2勝目。ここはどう考えても関東勢に有利なメンバー構成。その中で山崎が頑張りました。福島勢の結束が関東勢に一矢を報いたといったところ。競輪というのは個人戦であると同時に団体戦という面も大きいですが,このレースはその特徴が最もよく出たケースであったと思います。
                         

 この齟齬を修復するための最も簡単な方法として,第一部定理一〇というのを属性の認識に関する記述として解釈する場合には,あくまでもこの定理の内容は,属性の十全な観念についての記述だから,属性の混乱した観念については含まれていないとする考え方があると思います。実際に,スピノザの哲学において十全な観念と混乱した観念とが分かたれるとき,重要であるのは,十全な観念の場合には観念の対象ideatumが実在し,これに反して混乱した観念の場合にはそれが実在しないということであるというよりは,各々の観念というのを単に観念それ自体,いい換えれば思惟の様態として考えたときに,十全な観念は実在的であるのに対して混乱した観念は非実在的であるということ,すなわち十全な観念はそれ自体で有であるのに対し,混乱した観念は無であるということだと考えられますので,確かにこれは有力な方法であるとは思います。そこでまず,こうした考え方をした場合に,人間の精神による属性の認識,あるいはこの場合にはとくに人間の精神には限定せず,有限であるすべての知性にとっての属性の認識といってもいいかと思いますが,どんなことがいえるのかということを考えてみることにします。
 まず単純なことですが,人間の知性,あるいはすべての知性一般に関して同様ですが,ある知性が何らかの十全な観念を獲得した場合,これは属性の観念ではなくどんな観念であってもいいのですが,その観念の十全性,いい換えればその観念が真理であることについては,この知性はそれを疑うことが不可能です。これは第二部定理四三でスピノザが示していることと同じです。よって,たとえば人間がある属性,といってもこの場合には延長の属性か思惟の属性のどちらかということにはなりますが,その十全な観念を有するなら,その観念が真理であるということをこの人間はもはや疑いません。
 ただし,第四部定理一が示すように,一般的には十全な観念はただそれだけで,観念の対象を同じくするような混乱した観念を排除できるわけではありません。ですから,ただこの条件だけをもって,属性の混乱した認識を現実的な意味において除去できるというわけではありません。いい換えれば,属性の十全な観念と混乱した観念は,同一の知性のうちに同時にあることができると仮定しておかなければならないのです。
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農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&齟齬

2011-05-12 20:43:31 | 地方競馬
 今年は桜花賞が中止に追い込まれたため,牝馬クラシックの開幕戦となった東京プリンセス賞
 一旦はナターレが先頭でしたが外からダンスピースとオーゴンヒリツが交わしていきました。3番手にナターレとなり,リアンローズ,マニエリスム,マツリバヤシ,ラカンパーナといった有力視された面々がその後ろを追走。最初の800mは48秒7のハイペース。
 ナターレは3コーナーを回ってから後退。ラカンパーナがまず3番手に上がり,その外からリアンローズとマニエリスムが追ってきましたが,リアンローズはついていけなくなりました。直線はラカンパーナの外から逃げたダンスピースを交わしたマニエリスムが先頭。これに内からオーゴンヒリツが盛り返していき,最後は接戦となりましたが,先んじていたマニエリスムが凌いで優勝。オーゴンヒリツが2着でラカンパーナは3着まで。
 優勝したマニエリスムは北海道デビューで3連勝の後,重賞で8着。暮れに転入すると連勝で,前走の南関東重賞は6着。ただ,桃花賞を勝っていますので,前走は体調面が整っていなかったものでしょう。今日はおそらく復調していたと思われ,それならば能力は最上位と考えられますので,順当な勝利といっていいと思います。ただ,今後に関しては未知数な部分が残っているのではないでしょうか。父はゼンノロブロイ,曾祖母の産駒に2001年のマイルチャンピオンシップを勝ったゼンノエルシド
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手,管理する船橋の川島正行調教師のコンビは昨日の羽田盃と同じ。やはり同じコンビで一昨年のこのレースを制していて,揃って2年ぶり2度目の東京プリンセス賞制覇となりました。

 第一部定理一〇の立場が実在的であるか名目的であるかということは,現在の考察からはあまり関係ありません。というのは,今は実在的であると考えられる限りでの絶対に無限な実体である神の属性の人間の精神による認識,とくに混乱した認識について探求しているわけですが,そもそも神が絶対に無限な実体であると定義されている時点で,その無限に多くの属性がそれ自身によって考えられなければならないということはこの第一部定理一〇に示されていると理解するべきなのであって,このことは神が名目的なものにすぎないのであろうと,あるいは実在的なものであろうと,同様に妥当しなければならないからです。
 人間の精神によるその神の属性の混乱した認識のメカニズムというのが,第一部定理一〇と齟齬を来しているのは明白であるといえるでしょう。なぜなら,本来は神の属性というのはほかのものの観念には依存せずに認識されるべきものであるのに対し,それが混乱して認識されるということは,むしろほかのものの観念に依存して認識されているということを意味しているからです。そもそも第一部定理一〇が示していることは,神の属性というものが,ほかのものの観念によって認識されるような場合には,そのほかのものの観念が十全な観念であるのか混乱した観念であるのかということとは関係なく,混乱した観念であるということだからです。いい換えれば,僕たちは,もしも属性の観念というものが,ほかのものの観念に依存して認識される場合には,それ以上の一切の検討の必要なしに,それが混乱した観念であるということを理解することができるのです。
 なお,このことはとくに属性の観念に限らず,属性によってその本性を構成されている実体についての認識の場合にも妥当します。というよりも,このことは実体についての認識の場合の方が,より明瞭であるといえるでしょう。なぜなら,第一部定義三によれば,実体というのはそれ自身によって概念されるもののことだからです。したがって,あるものがほかのものの観念を原因として人間の精神のうちに結果として発生してくるならば,それはただそれだけの理由によって,少なくとも実体についての十全な観念ではないということが明らかだからです。
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