スぺイクHendrik van der Spyckはスピノザの死を看取った日のうちにアムステルダムAmsterdamに帰り,その後は自分の前に一度として姿を現すことがなかった医師に対して,悪意を抱いたとしても不思議ではありません。というか,スピノザに対するスぺイクの敬愛の情の深さからすれば,そのような気持ちをもつ方が自然であるとさえいえるでしょう。ですからこの医師に対して濡れ衣を着せることはあり得るのであって,ネコババの件自体が,実際にあった出来事であったかもしれませんが,スぺイクの作り話,あるいは作り話とまではいかなくても,勘違いとして作られた物語であったかもしれません。ですからこの部分を評価することによって,この医師がだれであるかを決定することは,僕には危険なことのように思えます。僕自身はスピノザの最期を看取ったのはシュラーGeorg Hermann Schullerであると解していますが,それが史実であったといいたいわけではありません。スぺイクのいう通りであったらシュラーであった可能性が高いでしょうが,それが勘違いであったら,マイエルLodewijk Meyerであった可能性も否定はできないでしょう。
ここでの物語では,たとえこの医師がマイエルであったとしても,シュラーには当該の書簡を抜き取る好機があったということはすでに説明した通りです。ですがここではこの医師がシュラーであった場合の物語を語っているのですから,その線で話を進めます。そしてこの場合は,シュラーは容易にこれらの書簡を抜き取ることができたでしょう。スピノザが死んだとき,スピノザの傍らにいたのはシュラーだけであり,しかもこの家にもシュラーとスピノザしか存在していなかったのですから,シュラーはスぺイクの一家のだれにも気付かれることなく,書簡を抜き取ることができたからです。そもそもこの物語においては,シュラーはスピノザが死ぬ以前から,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにその指令を受けていたということになっていますので,シュラーが指令を遂行するためにこれほどまでに絶好の機会を逃すわけがないといっていいほどだと僕には思えます。したがって当該のすべての書簡は,スピノザの遺稿がリューウェルツJan Rieuwertszの手に渡る前に,すでに抜き取られていたという可能性も大いにあるのです。
医師がネコババ行為に及んだとスぺイクHendrik van der Spyckが証言している部分は,この医師がだれかを特定するのに,研究者によってよく言及される部分です。コレルスJohannes Colerusはスぺイクの証言に基づき,この医師をL.M.と記述しています。スピノザの親友でこの頭文字に該当するのはマイエルLodewijk Meyerです。しかしマイエルがこのような行為に及ぶとは考えられないので,実際はこの医師はシュラーGeorg Hermann Schullerであったとするのが,スピノザの死を看取った医師がシュラーではないかという根拠のひとつとなっています。他面からいえば,研究者の共通認識として,シュラーであればこのような行為に及んだとしても不思議ではないというのがあることになります。もちろんこれは根拠のひとつであって,たとえばシュラーは後にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対し,自分がスピノザの死を看取ったという主旨のことを伝えていて,そうしたこともこの医師がシュラーであったことの根拠のひとつとされます。ただ,ネコババ行為に及んでも不思議ではない人間であると認識されているシュラーのことですから,チルンハウスに対して嘘をつくような人間でもあるということはいえるのであり,確実にこの医師がシュラーであったと断定できるわけではありません。
さらに次のような事情が加味されます。 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaはスぺイクの証言に基づくものですが,スぺイクはコレルスに対して,スピノザに好印象を抱いてもらうための証言をする理由があったと僕はみています。このために,コレルスの伝記は,たとえコレルスが反スピノザに立つ人物であったとしても,全面的に信用してはいけないと僕は考えているのです。したがってこのネコババの件も,スぺイクがスピノザに対して抱いていた印象から,スぺイクが誤って医師がネコババをしたというように認識したという可能性があります。つまり実際は医師は死ぬ前のスピノザの承諾を得てそれらの品を持ち帰っただけかもしれません。例えば形見として小刀をもらうとか,お礼として金を受け取るということがあったとしても何ら不自然ではないからです。ですからこれがスぺイクの勝手な判断であったとしたら,この医師がマイエルであっても不思議ではないことになります。
『愛するということThe Art of Loving』におけるスピノザの哲学に対するフロムの言及は,それ自体では適切なものです。しかしスピノザの哲学の観点からこの言及を読むときには,気を付けておかなければならない語句がふたつ含まれています。そのうちのひとつが活動です。 フロムErich Seligmann Frommは活動というのをごく一般的な意味で用いています。確かに寸暇を惜しんで働き回る人間は,その原因の如何に関わらず活動的な人間であるとみなされます。これはフロムがそこで指摘している通りです。
ところがスピノザの哲学で活動という場合には,このことは当て嵌まらないのです。スピノザが活動的という場合には,それは本来的には能動的である場合だけを意味しなければならないのであって,受動的な行為は活動的であるとはいわれてはなりません。いい換えれば,スピノザの哲学でXが活動するという場合に含まれる意味は,Xが働くagereということなのであって,Xが働きを受けている場合にはXは活動するとはいわれるべきではないのです。フロムのいい方に従えば,能動的な理由であれ受動的な理由であれ,あくせくと働き回る人は活動的であることになり,これは活動という語句を一般的に解すればおかしいことを何もいってはいないということになりますが,受動的な理由によって働き回っている人のことを,スピノザの哲学では活動的な人間であるというべきではないという点には気を付けておかなければなりません。
厳密にいうとこれは,スピノザの哲学の問題というよりは,スピノザが哲学において使用するラテン語の語句を,どのような日本語に翻訳するのかということと関連している問題です。岩波文庫版の『エチカ』では,能動actioと訳される語句が活動と訳されている場合があります。これはスピノザがこの語で必ずしも能動だけを意味せずに使用している場合があるからです。この観点からはフロムの活動もスピノザの活動も同じですが,使われている語の意味からすれば,そこには違いがあるべきであるという点には留意してください。
スぺイクHendrik van der Spyckの一家は総出で教会に出掛けたのですから,このときにこの家に残っていたのはスピノザとアムステルダムAmsterdamから来た医師のふたりだけだったことになります。
一家が帰宅したとき,スピノザはすでに死んでいました。スぺイクが午後に教会に行くとき,スピノザはスープに舌鼓を打っていたのですから,スぺイクからみたら,確かにスピノザは急死したようにみえたことでしょう。スぺイクは,医師はこの日の夜の船でアムステルダムに出発したとし,二度とスピノザのことを顧みなかったといっています。スピノザの葬儀は,スぺイクが喪主のような立場で行われましたから,スピノザを顧みなかったというのは,この医師がこのときを最後にスぺイクの前に姿を現さなかったという意味であり,したがって葬儀にも参列しなかったということなのだろうと思います。もっともスピノザの葬儀には6台もの馬車が随行し,多数の名士が参列したとされていますから,スぺイクが参列者のすべてを把握していたかどうかは分かりません。ただ少なくともこの医師は,仮にスぺイクの知らないところで葬儀に参列していたのだとしても,スぺイクに挨拶をするということはなかったのでしょう。
スぺイクは医師がこのような態度をとった理由として,アムステルダムに帰るときに,スピノザが机の上に置いておいたいくらかの金と銀の柄の小刀をポケットに入れて持っていったからだとしています。要するにスぺイクからみると,医師はネコババ行為に及んだため,もうスぺイクと顔を合わせることができなかったと認識しているわけです。ただスぺイクの証言はあまりに生々しすぎて,これが真実であったかどうかを疑わせる側面があります。たとえば,スピノザが置いておいた金銭と小刀がなくなっていたということに気が付いたというなら分からないでもないのですが,医師がそれをポケットに入れたということになれば,このネコババの犯行現場をスぺイクは目撃していたということになり,これは医師がスぺイクの目の前でそういう行為に及んだということを意味しなければならないことになりますから,著しく不自然であるということができるのではないでしょうか。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』によれば,スピノザは1677年2月21日の日曜日に死にました。スぺイクHendrik van der SpyckがコレルスJohannes Colerusに証言したその日と前日のことを,詳細に確認しておきます。 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,2月22日の土曜日に,スぺイクは妻を連れて牧師の説教を聞きに行ったとされています。ただし1677年のカレンダーを調査したところ,この年の2月は21日が日曜ですので,これは20日のことであったと思われます。スぺイク夫妻が教会から帰ったのは午後4時でした。スピノザはスぺイクの家の2階を借りていたのですが,夫妻が帰宅すると階下に降りて,煙草をふかしながらスぺイクと話をしました。スぺイクはこの日に行われた説教の話をしたとしていますが,以前にいっておいたように,スぺイクの証言というのはそのすべてを信じてはいけないのであり,この部分は聞き手のコレルスも牧師であったがゆえの発言であったかもしれません。
土曜日の説教は翌日,すなわちスピノザの死の当日の日曜の説教の予備の説教だったそうです。21日は懺悔節前の日曜日にあたっていたとのことで,特別の行事があったようです。ですからこの日も一家は教会にいくことになっていました。スピノザはその礼拝の時間の前,朝のうちに階下に降り,スぺイク夫婦と話をしました。そしてアムステルダムAmsterdamの医師を呼んでもらいました。この医師が,伝記ではL.M.とだけ表記されています。これはスピノザの友人としてはマイエルLodewijk Meyerを指します。ですがここでの物語では,これはスぺイクの勘違いで,シュラーのことだったとしておきます。この医師はスぺイクに対し,年老いた鶏を買ってきて,朝のうちに調理をして昼にスピノザにそのスープを飲ませるように言いつけたそうです。これがどのような意味の治療であるかは僕には分かりません。とにかくスぺイクは,というかスぺイク家の人はこの言いつけを守りました。
スぺイクは午前の礼拝を終えて帰宅しました。そのときはスピノザはそのスープに舌鼓を打っていたそうです。そして午後は一家が総出で教会に出掛けました。このときにはアムステルダムの医師すなわちここでいうシュラーは家にいました。
スピノザの死の状況を総合的に勘案すれば,実際にスピノザが死ぬ以前の段階で,その余命がそうも長くはないということを,シュラーGeorg Hermann Schullerが知っていたとしてもおかしくはありません。もちろんそれは医師としての自身の診断なのであって,スピノザは間もなく死ぬということを確実に知るということはだれにもできないことではありますが,そんなに長くスピノザが生きられる可能性はきわめて低いということくらいは,シュラーが分かってたとしてもおかしくはありません。そこでもしもそうした事情をシュラーがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに伝えていたとしたら,スピノザが死ぬ以前の段階,これはつまり遺稿集Opera Posthumaの編集に入る前の段階という意味であり,同時に編集者たちが遺稿を入手する前の段階という意味でもありますが,この段階において,当該の書簡を削除するという要求が,ライプニッツからシュラーに伝えられていたとしてもおかしくはありません。スピノザが死ねばその遺稿集が出版されるであろうということは,ライプニッツには容易に予見できることだったからです。なぜならライプニッツは実際にスピノザと書簡のやり取りをしていたわけですし,未出版の『エチカ』が存在するということも知っていたからです。いい換えればスピノザには未発表の原稿があるということを知っていたからです。
したがって,ライプニッツの指示がスピノザの死の前にシュラーに伝えれていた可能性はあるわけで,そうであるなら,スピノザが死ぬ前あるいは死の直後に,いい換えるなら遺構がスぺイクHendrik van der Spyckの作業によってリューウェルツJan Rieuwertszの手に渡る前に,シュラーは当該の書簡を抜き取ったとしても不思議ではありません。これがもうひとつの可能性として示す物語の,原理的な部分を構成します。
もしもスピノザの死を看取った医師が,スぺイクが証言しているようにマイエルLodewijk Meyerではなくてシュラーであったとしたら,おそらくシュラーはだれにも,というのはほかの遺稿集の編集者たちのことだけを意味するのではなく,スぺイクをはじめとするこの一家の人びとも含めた意味で,だれにも知られないように,遺稿の一部である当該の書簡を抜き取ることが可能であったと思われるのです。
スピノザの遺稿がリューウェルツJan Rieuwertszの手許に渡ってから,その編集作業が始まるまでにどれほどの時間があったかということ自体が不明なので,シュラーGeorg Hermann Schullerが当該の書簡を抜き取るだけの時間的余裕があったかということは分かりません。同様にそのための物理的条件,それはつまりだれにも気付かれずにそれらを抜き取るために必要な諸条件のことですが,そういう条件が整っていたのかどうかということも分かりません。ですがそれらの両方を否定することもできないのですから,確かにシュラーはそのような方法で書簡を抜き取ったという可能性はあるでしょう。
ここではもうひとつ,これとは別の方法もあり得たのではないかということも指摘しておきましょう。 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,スピノザの死を看取ったのはマイエルLodewijk Meyerであり,マイエルただひとりであったことになっています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』も,基本的にこの説を採用しています。ですがそこで別の可能性として指摘されているように,これはコレルスJohannes Colerusに対して証言したスぺイクHendrik van der Spyckの勘違いであって,実際にスピノザの死を看取ったのはシュラーであったという説もあります。スぺイクがスピノザの死に際して証言した内容は,その死を看取った医師がマイエルであるとするより,シュラーであったとする方が合理性が高いように思われるからです。そしてもしもこれが真相であったとしたら,シュラーは遺稿がリューウェルツの手に渡る前の段階で,当該の書簡を抜き取り得た,少なくともそういう機会を得ていたことになると思われます。
スぺイクの証言では,スピノザは急死したと受け取れます。ですが,診察している医師からすると必ずしもそうではなく,スピノザは徐々に衰弱しているのであり,余命はそう長くないということが分かっていたとしても不思議ではありません。そもそもスピノザがスぺイクに対して,遺稿の処置の方法を伝えていたのは,スピノザ自身に自分の死が近いという判断があったからだと考えられます。それはもちろんスピノザ自身による自身の身体に対する認識から生じたものかもしれませんが,医師の診断を参考にしたものであった可能性もないとはいえないでしょう。
『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を主題としたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとスピノザとの間の書簡のやり取りと,そうしたやり取りがあったことを確実に証明してしまう書簡七十および書簡七十二は,遺稿集Opera Posthumaの編集作業に入る前の段階で,シュラーGeorg Hermann Schullerによって抜き取られいていたというのが,僕が作る物語の骨子になります。そしてもちろんシュラーはその行為を,ほかの編集者たちに知られないように遂行しなければなりません。というか,ほかの編集者たちに知られないうちに遂行したとしなければ,この物語は成立しないでしょう。この実行の方法は,ふたつ考えることができます。
遺稿集が発刊されたのである以上,スピノザの遺稿は編集者たちが入手できるような措置が実際に講じられたのです。それが,この遺稿集が収められた机を,スぺイクHendrik van der SpyckがリューウェルツJan Rieuwertszに送ったということです。送られた遺稿がどのように管理されていたかは分かりません。ただ,スピノザの遺稿集を発刊することは,そのこと自体が罪に問われかねない行為でしたから,作業自体は水面下で進められたと考えるのが自然です。もっとも,この作業に関しては,編集者たちに対する未必の協力者もおそらくは存在したでしょう。そもそもライプニッツ自身が,だれがこの作業を行っているかということは知っていたにも関わらず,そのことをステノNicola Stenoには秘密にしておきました。カトリックの有力者であるステノにこのことが伝われば,編集作業は中断あるいは中止を余儀なくされるからです。つまりライプニッツは遺稿集を読んでみたいと思っていたからそうしたわけで,そのように思っていた人がほかにいて,その作業自体に積極的に協力するのではなくても,その作業が中止に追い込まれることは避けるべく行動したということがあったとしても,それはそれで不自然な話ではありません。
少なくともシュラーは,編集作業が始まる前に,どんなに遅くとも当該のすべての書簡の存在がほかの編集者のひとりにでも知られる前に,それらを抜き取っておかなければなりません。遺稿がリューウェルツに送られてから,そのための時間がシュラーにどれほどあったか分かりませんが,それができた可能性も否定はできません。
スピノザとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとの間で交わされた文通が,スピノザの親しい友人たちにも知らされていなかった極秘事項であったとしたら,ライプニッツもその事実を,マイエルLodewijk MeyerやイエレスJarig Jellesと会ったときに伝えなかったと推測されます。ライプニッツはスピノザと接触を図るためにこのことをチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに伝え,チルンハウスを介してシュラーGeorg Hermann Schullerも知るところとなったのですが,アムステルダムAmsterdamでマイエルおよびイエレスと会ったときは,その目的すなわちスピノザと会見することは決まっていたのですから,そのことをマイエルにもイエレスにも伝える必要はないからです。したがって,マイエルもイエレスも,ライプニッツがスピノザに会うということ,事後的にいえばスピノザとライプニッツが面会したということは間違いなく知っていたと考えなければなりませんが,スピノザとライプニッツの間で書簡のやり取りがあったことは,知らなかった可能性があるということを想定しなければなりません。僕が作る物語は,この想定の下での物語です。したがって,書簡四十五と書簡四十六は,遺稿集Opera Posthumaを編集するときにスピノザの遺稿の中に残されていたので,それによってマイエルとイエレスは,スピノザとライプニッツが書簡を交わしていたことを初めて知ったということになります。同時に,これらの書簡からは,その後にも文通が継続したことを匂わせる記述があったのですが,そうした書簡は遺稿の中に残ってなく,さらに書簡七十と書簡七十二も残っていなかったために,マイエルもイエレスも,またほかの編集者たちも,実際にはふたりが計画していた秘密裏での文通は行われなかったのだと判断したのでしょう。よってシュラー以外の編集者は,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を主題としたやり取りがライプニッツとスピノザの間に存在したという事実を知らなかったのです。
『神学・政治論』を主題とした文通および書簡七十と書簡七十二がスピノザの遺稿の中に残っていなかったのは,遺稿集を編集する以前の段階で,それらすべてが抜き取られていたからです。もちろんそれは意図的に抜き取られたのです。だれがそれらを抜き取ったのかといえば,ここまでの物語から,シュラー以外にはあり得ないことになるでしょう。
書簡七十二でスピノザがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizについて言及するとき,手紙を通して私の知っているその人物,といういい回しとなっています。この手紙とは,書簡七十でシュラーGeorg Hermann Schullerが言及している,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を主題とした手紙のことに間違いありません。したがって,ライプニッツとスピノザの間に,『神学・政治論』を主題とした書簡のやり取りがあったことは史実です。ライプニッツとスピノザの双方が,それを肯定しているからです。そして同時に,このやり取りは極秘裏に行われていたというのも間違いないでしょう。というのは,シュラーはこのことを伝聞として書いている,すなわちそれが事実であるかどうかを知らないという前提でこのやり取りについて言及していますし,スピノザの返事も,もしもこのやり取りをシュラーが知っていたと仮定すれば,奇妙な表現であるといわなければならないからです。他面からいえば,手紙を通して私の知っている人物,という表現は,それを読む当の相手,この場合はシュラーが,その事実を知らないという前提で記述されていると解するのが適切でしょう。
ここから分かるように,スピノザとライプニッツが文通をしていたということは,ほとんど知られてはいないことだったのです。すでに説明したように,書簡四十五でライプニッツはスピノザに対し,秘密裏に文通をすることを要求し,書簡四十六ではスピノザはその提案に応じています。だからスピノザは,自身がライプニッツと文通をしていることをシュラーには明らかにしませんでしたし,文通が途絶えた後も,文通をしていたという事実を明かすことはなかったのです。そしてスピノザがそのことを明かさない限り,スピノザの友人たちはその事実を知ることはなかったでしょう。シュラーはライプニッツがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに話したことを契機としてこの事実を知ることとなったのですが,そうした機会を有さなかった友人たちは,それを知る機会がなかったと思われます。そしてスピノザは,シュラーにその事実を教えなかったように,マイエルLodewijk MeyerにもイエレスJarig Jellesにもおそらくそれを秘密にしておいたでしょう。よってふたりはそれを知る機会がなかったことになります。
ドゥルーズGille Deleuzeの『ニーチェ』には,「ニーチェ的世界の主要登場人物辞典」という章があり,その中に蜘蛛という項が含まれています。正確にいえば,蜘蛛(あるいは舞踏蜘蛛)という項です。ちょうどスピノザの哲学に対する僕の美的感覚を説明するのに,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheによる蜘蛛の比喩を例材として用いたばかりですので,ここでドゥルーズが指摘していることを紹介しておきましょう。
まずドゥルーズは,ニーチェが蜘蛛というとき,それは復讐あるいは怨恨の精神のことであって,蜘蛛が有する毒がその伝染力になるといっています。これが,ニーチェが蜘蛛という場合の最も基本的な意味であるとドゥルーズは捕えているということです。
次に,蜘蛛の意志というのをドゥルーズは説明しています。それによれば,蜘蛛の意志というのは処罰しようという意志,あるいは裁こうとする意志のことです。蜘蛛は怨恨あるいは復讐の精神のことですから,その精神は,他人を裁きまた処罰しようとする意志へと向かう精神であるということになります。
最後に,蜘蛛の武器は糸であるとされています。この糸というのは道徳の糸です。蜘蛛の糸は,蜘蛛が巣を張るための糸です。要するに蜘蛛が体内から紡ぎ出す糸によって,道徳の巣を張るのです。この部分はスピノザに対する蜘蛛の比喩と最も関連していそうです。そしてこの道徳の教えは,平等の教えであるとされています。ここでいう平等とは,すべてのものが蜘蛛と同類になるという意味での同類です。
このうち,蜘蛛の意志に関する部分については,間違いやすい点が含まれていると思いますので,僕が改めて詳しく説明することにします。
書簡四十六の最後のところで,スピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対し,もし『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を所有していないのであれば贈呈するという主旨のことを書いています。これはこれで重要な部分です。というのは『神学・政治論』は匿名で出版されたものであり,著者はスピノザであることは噂にはなっていましたが,断定的にいえることではありませんでした。ところがこの部分ではスピノザは,私の『神学・政治論』という書き方をしていて,著者が自分であるということを認めているからです。つまりスピノザはこの手紙を書くときに,『神学・政治論』の著者が自分であるということをライプニッツに対して明らかにしてもよいと考えていたということになります。1通の手紙を受け取っただけの関係でも,スピノザはライプニッツに対してそれくらいの信用は置いたとみていいでしょう。
ライプニッツがどのようにして『神学・政治論』を入手したのかは分かりません。確実なのはライプニッツはそれを読んだということです。そしてその内容に関して,手紙のやり取りをスピノザとしました。それが分かるのが書簡七十です。この中でシュラーGeorg Hermann Schullerは,ライプニッツは『神学・政治論』を高く評価していて,その主題についてスピノザに手紙を送ったことがあるそうだが,それを記憶しているかという意味の問いをスピノザにしています。
僕がここで注目したいのは,シュラーは,ライプニッツがスピノザに手紙を送ったということについて,断定的にでなく,伝聞として記述しているという点です。これは直接的にはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからの伝聞であり,間接的にはライプニッツからの伝聞であるといえるでしょう。チルンハウスと出会ったライプニッツは,チルンハウスがスピノザと親しい間柄であるということを知り,自身もスピノザと接触したかったために,本心かどうかは別に『神学・政治論』を高評価しているとチルンハウスに伝え,同時にそれについて文通したことも伝えました。チルンハウスはライプニッツには『エチカ』の草稿を読ませたかったので,よい返事を得るためにこのエピソードをシュラーに伝えて,スピノザに取り次いでもらったということだと思われます。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがオランダを訪問した最大の目的は,スピノザとの面会であったと思われます。ライプニッツはそのための準備として,スピノザと面識があった人物を事前に訪ねたとするのが妥当な解釈だと思います。ですからそうした人物に対しては,その後でスピノザと会うということをライプニッツは伝えたとするのが妥当です。それを伝えることによって,ライプニッツはスピノザと面識があった人びとからの協力を得やすくなるからです。もちろんライプニッツは,事後にスピノザとの面会を否定したように,自身がスピノザと会うことについては,この時点でも秘匿しておきたいと思っていた可能性はあります。しかしスピノザと面識のある人物,とくに親しい人物に対しては,それを伝えたとしても,極秘の情報として守られる可能性が高いでしょうから,ライプニッツはスピノザと会うことは,面会の相手に伝えたと僕は推測するのです。したがって,スピノザとライプニッツが面会したという事実を知っていた遺稿集Opera Posthumaの編集者は,シュラーGeorg Hermann Schullerだけでなく,マイエルLodewijk MeyerもイエレスJarig Jellesも同様であったとしておきます。何度もいっていますが,これは僕が作る物語なのであって,歴史的事実がそうであったということを強硬に主張しようというものではありません。
ただしこのことは,ライプニッツとスピノザとの間で文通があったということが,シュラーやマイエル,イエレスの間で共有されていたということにはならないと僕は考えるのです。いい換えれば,シュラーはスピノザがライプニッツと手紙のやり取りをしていたということは知っていたのですが,マイエルやイエレスはそれを知らなかったのではないかと僕は推測します。スピノザを訪問するということは伝えたとしても,以前に文通をしていたということはライプニッツは秘匿しておいたのではないでしょうか。このことについてはとくに伝えなくても,スピノザに関する情報を提供してもらうということはできたと思われるからです。 書簡四十五を読む限り,ライプニッツは秘密裏にスピノザと文通をしたいと思っていました。そして書簡四十六から推測されるのは,スピノザはそれに応じたということです。
書簡四十五でライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizはフッデJohann Huddeとの仲介を求めています。書簡四十六は,スピノザがその要望に応えたというように読めます。つまりこの時点で,フッデとライプニッツは相識の間柄であったと思われます。ですからオランダを訪れたライプニッツがフッデと会うために,だれかの仲介を必要としていたとはいえません。もちろんそれがあった可能性は否定できないわけですが,フッデに関しては,それはなかったのではないかと僕は推測しています。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』と『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で,オランダを訪れたライプニッツがスピノザと面会するときに会った人として名前があげられているもうひとりのレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookは,『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』ではスピノザとフェルメールを結び付けた人物とされていますが,この面会はスピノザとは関係なかったと思われます。レーウェンフックは顕微鏡学者として著名であり,それに対して関心をもったライプニッツが,レーウェンフックを訪問したといったところではないでしょうか。スピノザが住んでいたハーグは,シュラーGeorg Hermann Schullerやフッデ,またマイエルLodewijk MeyerとイエレスJarig JellesがいたアムステルダムAmsterdamからは遠いのですが,レーウェンフックはアムステルダムよりハーグに近いところに住んでいましたから,アムステルダムからハーグへ向かう途中あるいは帰途に,ライプニッツがレーウェンフックにも会ったというのはおかしなことではありません。おそらくライプニッツの最大の目的はスピノザと会うことだったのですが,スピノザと近くに住んでいるレーウェンフックにもついでに会っておいたというところでしょう。もちろんこれはスピノザからみたからついでということになるのであって,ライプニッツの関心の広さからいえば,必ずしもついでのことであったとはいい難いかもしれません。
これでライプニッツがスピノザを訪問する前に会った人たちとの会見の理由の僕の推測はすべてです。そしてもうひとつ,レーウェンフックに関しては確実にそうだとはいいきれませんが,少なくともそれ以外の人びとは,自分と会った後に,ライプニッツがスピノザと会うということは知っていただろうと思われます。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは著名人ですから,面識はなくても,マイエルLodewijk MeyerもイエレスJarig Jellesも名前は知っていたと推測されます。一方,マイエルとイエレスはライプニッツと比べれば著名とはいえませんから,もしライプニッツがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからその存在を聞き及んでいなかったとすれば,名前すら知らなかった可能性があります。つまりライプニッツがオランダに着いたとき,マイエルのこともイエレスのことも,何も知らなかったという可能性は想定しておかなければなりません。
ライプニッツがパリからすぐにドイツに戻らずに旅をした最大の目的は,スピノザとの面会にあったと推定できます。ロンドンまで行ってオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会したのは,そのための準備の一貫であったかもしれません。実際にそこでライプニッツは,オルデンブルクとスピノザの間で交わされていた書簡を見せてもらっているからです。ですからオランダでシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったのも,スピノザとの面会の準備であったと思われます。そしてそうであれば,ライプニッツがシュラーに,ほかのスピノザの友人との仲介を求めたとしても不自然ではないことになります。シュラーはその求めに応じ,マイエルとイエレスをライプニッツに紹介したことによって,ライプニッツとマイエル,そしてライプニッツとイエレスの面会も成立したというのも,可能性のひとつとしてはあるでしょう。もちろん僕はこれが史実であったといっているわけではなく,このような物語を作ったとしても,成立はするといっているだけです。そして史実として確実であるといわなければならないのは,どういう経緯であったにせよ,ライプニッツがマイエルおよびイエレスに会ったということです。これはこれで重要なことなのですが,その重要性については後回しにします。
ライプニッツはフッデJohann Huddeにも会いました。これももしかしたらスピノザとの会見の準備の一貫だったかもしれません。書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六がフッデに宛てたものであったということが判明したのは,ライプニッツの研究家による発見によります。つまりこの3通の手紙については,このときのフッデとの面会でライプニッツは読んでいたと思われます。
面識はなくても,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausを介することによって,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizとシュラーGeorg Hermann Schullerは互いの存在を知っていたのですから,スピノザに会いにいく直前にライプニッツがシュラーと会ったのは,チルンハウスの仲介によるものであったと思われます。
チルンハウスは『エチカ』の草稿を所有することをスピノザによって許されていた人物でした。マイエルLodewijk MeyerとイエレスJarig Jellesも同様でしたので,チルンハウスがオランダにいた時代に,マイエルやイエレスと会うということはあったかもしれません。ただし,マイエルやイエレスがオランダ人で,古くからのスピノザの友人であったのに対し,チルンハウスはドイツ人であり,留学のためにオランダにやってきたのはおそらく1668年です。その後でシュラーを介してスピノザを知ったのですから,スピノザとの交流が始まったのはもっと後になってからになります。スピノザとの間での知られている書簡の最初のものが遺稿集Opera Posthumaに掲載された書簡五十七で,これは1674年10月のものです。チルンハウスがオランダを離れたのはこの翌年の夏ですから,実際にスピノザと顔を合わせての交流があった期間はごく短い間だった可能性もあります。ですから,チルンハウスはマイエルやイエレスを知らなかったとしても不思議ではありませんし,知っていても会ったことはなかったという可能性も残ります。これらはいずれもそういう可能性があるということであって,僕は確定させることができないと思っています。
ライプニッツはアムステルダムAmsterdamで,マイエルおよびイエレスとも会ったのだと思われます。おそらく別々に会ったのではないでしょうか。そしてその仲介は,チルンハウスによるものであったかもしれませんし,そうでなかったかもしれません。そうでなかった場合は,シュラーが仲介したとするのが妥当です。シュラーはイエレスともマイエルとも面識があった筈だからです。また,チルンハウスはそもそもマイエルやイエレスと会ってなかっただけでなく,よく知らなかった可能性もあるのですから,ライプニッツもまた,アムステルダムに到着したときには,ふたりのことをあるいは片方を,知らなかった可能性もあります。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがパリに滞在していた頃,ホイヘンスChristiaan Huygensもパリにいました。そしてふたりは知り合っています。ホイヘンスはフッデJohann Huddeやスピノザの研究の成果を知るために,オランダに残っていた弟に手紙を送っています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,スピノザと本当に仲がよかったのは,ホイヘンスより弟だったとされています。ですからライプニッツがそうしようと思えば,パリにいた時期も,極秘裏にスピノザと書簡のやり取りをすることは可能であったと思われます。しかし書簡七十二でスピノザがいっていることの意味に,ライプニッツがパリにいることを知らなかったということが含まれているとすれば,ライプニッツがパリに移って以降は,スピノザとライプニッツの間で文通がなされていなかったことになります。この場合,ライプニッツが初めてスピノザに送った書簡四十五が1671年10月付で,先述したように翌1672年にはライプニッツはマインツの選帝侯の指示によってパリに行っているので,スピノザとライプニッツとの間で文通が行われていたのはきわめて短い期間であったということになります。ただし書簡七十二では,スピノザはライプニッツのことを,手紙を通して私の知っている人物,と表現しているので,書簡四十五と書簡四十六以外にも,ライプニッツとスピノザの間で手紙のやり取りがされていたことは確実です。 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはオランダを離れてからは,基本的にシュラーGeorg Hermann Schullerを介してスピノザと書簡のやり取りをしていました。ただし書簡七十の内容から,チルンハウスがパリに到着したのは1675年になってからです。ですからライプニッツがシュラーを利用してスピノザと書簡のやり取りをしていた可能性はきわめて低いといわなければなりません。ですがチルンハウスがパリに到着してライプニッツと出会ってからは,シュラーという存在のことをライプニッツは知っていたと考えられます。一方,シュラーは書簡でチルンハウスからライプニッツのことをきいていますから、ライプニッツとシュラーは,オランダでの初対面の以前の段階で相識であったと確定していいでしょう。ただし,マイエルLodewijk MeyerとイエレスJarig Jellesについては分かりません。