スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

完全性&政治論

2022-08-31 19:19:59 | 哲学
 スピノザが完全性perfectioと実在性realitasを等置する根拠について第四部序言でいわれている内容は説明できましたので,このブログで完全性というとき,僕が何を意味させようとしているのかということをまとめておきます。
                                   
 第二部定義六で完全性と実在性が等置されています。僕は第一義的にはこの意味で完全性といい,またあるものを完全といいます。現実的に存在するものはすべて何らかの実在性を有しているがゆえに存在することができるということはそれ自体で明白です。したがって僕は現実的に存在するすべてのものには完全性が備わっていて,その限りにおいて完全であるとみなします。また,現実的に存在していないとしても,実在性を有するものはかつて現実的に存在したか,そうでなければいずれは存在することになるので,そうしたものについても僕は完全であるとみなします。この場合の完全性は,その事物に備わった本性essentiaそのものといって構いません。完全性は実在性であり,実在性は力potentiaという観点からみられる限りでの本性であるからです。
 AとBを比較してAがBよりも大なる実在性を有していれば,第二部定義六によりAはBより大なる完全性を有することになります。したがってこのときにはAはBよりも完全であるといわれます。また逆にBはAよりも不完全であるといわれます。ただしこの場合の完全性は,事物に備わった本性というより,AとBを比較する知性intellectusのうちにある思惟の様態cogitandi modiであると僕はみなします。というのも,BはAよりも不完全であるとみなされるのですが,だからといってBが完全でないのかといえばそういうわけではなく,BはBの実在性を有する限りで完全であるといわれなければならないからです。
 実際にあるものが完全といわれ,また別のものが不完全といわれるのは,このように知性のうちでふたつの,あるいは複数の事物が比較されることによって生じるので,僕たちがものを完全といったり不完全といったりするのは,本来的には思惟の様態として,いい換えれば事物に備わった本性とは無関係にあるのです。しかし僕はこの本来性の方を完全性とみなすのではなく,事物の実在性として事物そのものに備わったもののことを第一義的に完全性というという点に注意してください。

 三木は何らかの誤解に基づいてスピノザを批判しているのではありません。ですから三木がスピノザについて言及しているふたつの点に関しては,僕は同意します。スピノザは確かに国家Imperiumという概念notioと社会societasという概念とを区別していません。そしてスピノザの哲学には弁証法が含まれていませんから,客観精神と絶対精神absoluter Geistの分節が弁証法の帰結であるとすれば,そうした分節はスピノザの思想に出てきません。ただし僕はこれらのことを批判的観点からみるのではなく,むしろヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelなり三木の思想が含むことができないものを逃さずにキャッチしているという,肯定的な観点から評価します。
 まず根本的にいうと,スピノザには『国家論Tractatus Politicus』という著書がありますが,これは岩波文庫版でこう訳されているから僕もそういっているまでであって,正確に訳するとすればこの著書は『政治論』です。つまりスピノザは最初から政治すなわち統治権imperiumとか主権に関しては論じようという意欲を有しているのですが,国家そのものについて何かを語ろうとしているわけではありません。他面からいえば,主権とか統治権を伴ったような人間の集団のことを便宜的に国家といっているのであって,それが社会であるというべきなのか国家であるというべきかということは,関心の外にあるのです。それがどのような形態であるのかということとは無関係に,統治権とか主権というのはそれが及ぶ範囲が限定されるので,それが及ぶ範囲がひとつの国家とみなされるまでなのです。現在の世界で分かりやすく説明すれば,台湾には台湾独自の統治権があるのであって,中国の統治権は台湾には及んでいないので,台湾は中国とは別のひとつの国家とみられなければならないというのが,スピノザの国家観あるいは政治論からの帰結であるということです。
 次に,スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においては,国家の発生のモデルを社会契約説によって説明しようとしていますが,『国家論』ではそうしたモデルが大きく後退しています。そのかわりにスピノザはそれを個人の自然権jus naturaeの拡充という観点から説明しようとしています。この点はここでは非常に重要なので,スピノザの論述を詳しく検討することにします。
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ヒューリック杯白玲戦&三木の批判

2022-08-30 19:18:34 | 将棋
 27日に台場で指された第2期白玲戦七番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳白玲が20勝,里見香奈女流五冠が21勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
 ヒューリックの会長による振駒で里見五冠の先手で中飛車。後手の西山白玲が三間飛車で相振飛車。この将棋は中盤で後手がかなりリードしていたように思えます。
                                        
 後の手順からするとたぶんここが後手にとって最後のチャンス。おそらくすぐに☖6六歩と打って飛車交換を狙うのがよかったのではないかと思います。もちろん☗同飛なら☖7七飛成です。
 実戦は☖7六飛と逃げ,☗9五歩に☖6六歩と打ちました。この交換が先手にとってかなりプラスになっているのでしょう。先手は☗6八飛と逃げ☖7四飛の角取りを無視して☗9四歩と取り込みました。
                                        
 この取り込みが大きく,ここでは逆転して先手がよくなっていると思います。後手としては勝たなければいけないような将棋だったように思えますので,先手にとって大きな逆転勝ちといえるでしょう。
 里見五冠が先勝。第二局は来月3日に指される予定です。

 三木の究極的関心が理念上の闘争にあったということは,三木が観念ideaだけでなく実践も重視していたということと矛盾するわけではありません。模範的公民であるということは三木の実践のひとつなのであって,そのこと自体が理念的闘争と不可分の関係にあったからです。他面からいえば,三木は模範的公民であることを実践するために,理念上の闘争に身を投じたというように解することも可能だと思います。
 とはいえこのような理念的な闘争には,そこから抜け落ちてしまう部分というのも当然ながら出てくるでしょう。個人と国家Imperiumの抽象的な概念notioの相互の対立をいかに調停するのかという点だけに注力するなら,これらふたつの項は,互いに還元不可能な形で分裂してしまうか,そうでなければ何らかの形で和解に至るかという,どちらかの結論しかないからです。これは三木が問おうとしていたこと自体がそのどちらかの解答を要請しているのだといってもいいでしょう。そしてその解答のためにヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの弁証法を援用するのであれば,そこでは第三項が第一項の高次元での復帰なるのですから,国家は自由主義的な個人を否定しつつも活用する形で,個人との対立という段階からそれを統合する存在として,弁証法の過程で不可欠な統一体として登場してくることになるでしょう。三木はおそらくこの論法に忠実だったのであり,そのゆえに現実的に存在するどのような国家についても.弁証法の一過程の上で正当化することになるのです。浅野によれば,三木は国家体制の内側から抵抗することを目指したのだけれども挫折することになった思想家であったわけではなく,それ以前の問題として模範的な公民であることに徹しようとしていたのだということとなるのです。
 このようなヘーゲルの弁証法に基づいた国家観から,三木はスピノザのことを批判しています。三木によれば,スピノザは社会societasという概念と国家という概念を厳密に区分していません。さらにスピノザには弁証法が欠けているので,ヘーゲルのように客観精神と絶対精神absoluter Geistとを区別する道が存在しなかったのです。
 僕は三木がスピノザに対していっていること自体は,とても的確で正しいと思います。
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ドーヴィル大賞&模範的公民

2022-08-29 19:21:04 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にフランスのドーヴィル競馬場で行われたドーヴィル大賞GⅡ芝2500m。
 ステイフーリッシュは外の方からゆっくりと上がっていき,1コーナーでは先頭に立って逃げるレース。出走した5頭が縦一列の隊形。向正面ではリードが1馬身半くらいに広がり,さらに3コーナーでは2馬身半くらいのリードに。直線の手前あたりから追われると,2番手を追走してきた馬が追ってきて,その馬とのマッチレース。競り負ける形で勝ち馬からおよそ1馬身4分の1差で2着でした。
 おそらく逃げることになるだろうと予測されましたので,展開は想定の通り。スタミナ面に不足がない馬ですので,早い段階でスパートするという,理想的な内容であったと思います。ヨーロッパはこの距離ではレベルが高いので,GⅡであってもステイフーリッシュよりも強い馬がいたということだったと思います。もっと長い距離のレースの方がよいのかもしれませんが,3着以下は離しているわけで,これだけ走ることができれば十分だと僕は思います。
 レース名はドーヴィル大賞と訳されていますので僕もそれに倣っていますが,ドーヴィルグランプリで十分に日本語として成立するのではないかと思います。

 三木の思想を検討するわけではないのですが,三木がスピノザを批判する文脈を解するときに必要ですので,三木の思想のうち観念的な意味でも実践的な意味でも公民を目指すという部分については,その内容をみておきます。正確にいえば,三木の思想のその部分を,浅野がどのように解釈しているのかをみておくことにします。
                                        
 三木は,国家Imperiumという概念notioは,個人という概念より普遍的でありかつ具体的であるといっています。なぜなら,個人というのは国家を構成する肢体であるからです。この関係において,国家は特殊である個人を要求し,個人は国家を離れて存在することができません。いうなれば国家は単なる普遍であるというわけではなく,普遍と特殊の綜合なのです。三木はこの点をヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの哲学に訴求します。ヘーゲルによれば,国家は普遍的意志と特殊的意志という,相対するものの統一なのです。これはヘーゲルの弁証法そのものだといえるでしょう。よって三木は,真の普遍というのは具体的普遍である,つまり特殊と普遍の綜合であるような普遍であると結論し,特殊は普遍の分化であり発展なので,それぞれは普遍的な精神,これは実質的に国家のことを意味しますが,それによって生かされているということになるのです。
 ここにはスピノザの哲学からみたときには否定されるべき内容が多く含まれているのですが,そうしたことについては後でまとめて論じることにします。浅野によれば,上述のようなことを理解しているような個人が,ヘーゲルが望んでいた公民の模範的な姿であり,そうした公民に担われることによって,ヘーゲル自身の国家の目的が現実的なものとなるのです。三木の思想の中には,全体主義を批判しようとする姿勢はみえるのですが,全体主義的国家を包括的に批判する視点がないことの理由を,浅野はこの点に求めています。だから三木は全体主義的国家であった,日中戦争から第二次世界大戦へと向かった当時の日本を批判するような姿勢をもち得なかったのです。
 これは,三木の究極的関心は,理念上の闘争にあったからだと浅野はいっています。それが三木が若い頃からの一貫した姿勢だと浅野はみているのです。
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北条早雲杯争奪戦&公民

2022-08-28 19:37:26 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは郡司‐和田‐松谷‐佐藤の神奈川,深谷‐田中の南関東,浅井‐坂口の三重で清水は単騎。
 前受けは浅井。3番手に清水,4番手に深谷,6番手に郡司で周回。残り3周のバックの出口から郡司が上昇開始。この後のコーナーで田中が深谷に接触してしまい落車。過失走行で失格。ホームで郡司が浅井の前に出てペースダウン。この間に清水が内から上昇して郡司の前に。ペースが超スローだったのを見計らい,単騎となった深谷が外からかまし先行を敢行して打鐘。清水が2番手で追いましたが,超スローペースからの追い上げとなってしまったため,深谷との差が大きく開いてしまいました。第二先行になった清水の番手になった郡司がバックから発進したものの時すでに遅し。元のリードが大きかった深谷が優勝。郡司が7車身差で2着。郡司マークの和田が4分の3車輪差の3着で,和田の後ろを奪った浅井が半車身差で4着。
                                        
 優勝した静岡の深谷知広選手は先月の静岡のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2017年9月の青森記念以来となる17勝目。小田原記念は初優勝。このレースは南関東が6人になったので,地元勢とそれ以外に分かれてのレース。先行しそうなのは深谷で,3番手にだれが入るかが注目でした。ところが田中が落車してしまったために深谷は単騎に。ほかの選手もそれを見ていたために,深谷の先行はなくなったとみて,ペースを落としてしまったのだと思います。ペースが遅すぎると一気にかまされたときには対応できませんので,そこを外からかましていった深谷がうまい走りをしての圧勝だったということになるでしょう。とはいえ深谷もそれほど隊列から離れていたわけではありませんから,ダッシュ力は素晴らしかったといえます。

 私見も述べましたので,『スピノザ〈触発の思考〉』の第6章に関連する考察は終了し,第7章に移ります。第7章の主題は三木清です。
 ご承知の方もいらっしゃるでしょうが,三木は一般的には思想的に転向した人物であるとみなされています。ごく簡単にいえば,日中戦争から第二次世界大戦へと至る日本という国家Imperiumに対して,批判的であったものが肯定的に変化して,その思想が戦前の体制を擁護しまた体制そのものから利用されるようになったという見方です。ただし浅野は三木の思想をそのような観点からは評価していません。それに対していえば,三木の思想は実際には終始一貫していたのであって,戦前の日本の国家体制と容易に結びつくものであったと浅野はみています。浅野はその理由として,三木の思想というのはマルクス主義というよりヘーゲル主義であった,他面からいえばマルクスKarl Heinrich Marxが否定したようなヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの思想についてそれを否定せず,むしろ深いレベルでそのヘーゲル主義を脱していなかったということをあげています。僕はここでは三木の思想については論じませんから,浅野の三木に対するそのような評価の妥当性の是非についても判断は保留しますが,もしも三木がヘーゲルの思想を深いレベルで脱していなかったのであるとすれば,そうした思想が当時の日本の国家体制と親和的になるであろうということは理解することができます。ヘーゲルの思想の中心をなすのは弁証法であって,そしてヘーゲル主義によれば,その弁証法の最終段階には国家があるからです。したがって現実的に存在する人間は,観念的な意味においてだけでなく,現実的な意味においても,国家に理念の実現を託すということになるでしょう。そのような人間のことを公民というとすれば,三木の思想は現実的に存在する人間が公民になることを最高の徳virtusとみなすような思想になるでしょう。そして浅野は,三木自身が思想的な観点,つまり観念的な意味だけでなく現実的な意味でも,そのような公民であろうとしたのだというように理解しています。つまり三木は思想としてだけではなく,実践として公民であることを目指したというのが,浅野の三木評の中心です。
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お~いお茶杯王位戦&運用

2022-08-27 19:15:30 | 将棋
 豊島将之九段が新型コロナウイルスに感染したため,予定が延期となり,24日と25日に徳島市で指された第63期王位戦七番勝負第四局。
 藤井聡太王位の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋のハイライトは後手の豊島九段の封じ手でしょう。
                                       
 この局面で封じ手となり,開封された一手は☖8六銀。これは指された藤井王位も驚いたでしょうし,開封した立会人も驚いたのではないかと推測します。
 ☖8六銀の狙いは駒損をしても8筋を突破することです。手数はかかりましたがその狙いは達成されたのですが,駒損の方が大きく,先手有利となりました。
 後手は第1図の局面ですでに自信が持てず,勝負手のつもりで☖8六銀を選択したようです。ただ第1図で☖1五歩と突いておけば形勢は互角だったようなので,形勢判断を誤ったということになりますし,☖8六銀は暴発だったということにもなるでしょう。
 第1図で先手の玉が4七にいるのは,角換わりの将棋としては珍しい形です。ただ☖8六銀のような攻めに対しては先に逃げているともいえ,その手がプラスに働いていたといえそうです。玉の位置がたとえば5八なら,もっと攻めの響きが強くなりますので,そのような形でこの駒損の攻めが成立するというケースが生じ得るのかもしれません。
 藤井王位が勝って3勝1敗。第五局は来月5日と6日に指される予定です。

 『国家論Tractatus Politicus』は未完です。したがって,君主制と貴族制を論じるときに,支配する側と民衆との間を循環する欲望cupiditasの流通回路を制度として構築することに苦心しているようには,民主制を論じるときにその苦心がうかがえないとしても,それは後に書かれる予定だったとみることは不可能ではありません。またスピノザにとって民主制という政治体制は,最終的な政治体制の形態であったわけでなく,あくまでも君主制および貴族制とならぶ政治体制のひとつだったので,君主制や貴族制のために要されるほどの苦心が,民主制においては必要なかったという見方も可能でしょう。つまりそこでは政治体制の構築ということだけが重視されて,構築された政治体制が現実的にどう運用されていくかということはスピノザの関心の外にあったのかもしれません。しかし僕はここでは運用のあり方にについても考えておきたいのです。
 民主制では民衆が主権者ですから,民衆は主権者として民衆を支配するとともに民衆として主権者に支配される側であるという両面をもっています。このとき,主権者が決断を下すためには民衆自身が決断を下さなければなりません。このことはそれ自体で明らかでしょう。だから民衆は主権者としては民衆の欲望をすくい取りながら決断を下し続けなければなりませんし,被支配者としての民衆としては主権者が決断を下すように促していく必要があります。このように民主制の政治体制が運用されていくことで,民主制は民主制であり続けることができるのです。よってもし民衆が主権者に対して決断することを促すのではなく,主権者が命令を下すことを期待し,その命令に従うことを望むなら,実際に主権者は命令を下すようになるでしょう。よってこのような仕方で民主制が運用されるときには,民主制という政治体制は形骸化することになります。あるいはそれは欲望の流通回路を構築するための制度ではなくなるのです。したがって民主主義を守っていくためには,民衆が主権者に決断を促すように行動しなければならず,そして常にそのように行動しなければならないのです。だから僕は,命令と決断の相違は,民衆にも該当すると考えるのです。
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日刊スポーツ賞スパーキングサマーカップ&支配者と民衆

2022-08-26 19:14:16 | 地方競馬
 岩手から1頭が遠征してきた昨晩の第19回スパーキングサマーカップ
                                        
 発走後の正面では先行争いとなりましたが,最終的に先手を奪ったのはジョーパイロライト。2番手にスマイルウィで3番手にワイドファラオという並びに。2馬身差でファルコンビークとアヴァンティストとリネンファッション。2馬身差でトキノパイレーツとヴァケーションとフィールドセンス。10番手にリンゾウチャネルで11番手にメモリーコウ。2馬身差でライトウォーリア。2馬身差でトランセンデンス。2馬身差の最後尾にアランバローズ。前半の1600mは48秒8のハイペース。
 3コーナーで逃げたジョーパイロライトは一杯になり,スマイルウィが先頭に。ファルコンビーク,リンゾウチャネル,ヴァケーションの順で続きました。しかしこの追ってきた3頭はスマイルウィには追い付くことができず,迫ってきたのは直線に入って外から追ってきたフィールドセンス。残り50m付近でスマイルウィに並び掛け,そのまま差し切って優勝。3コーナー先頭のスマイルウィがクビ差で2着。内目から3番手に上がったアヴァンティストに外に出されたヴァケーションが迫ってきましたがこれは届かず,アヴァンティストが3馬身差で3着。ヴァケーションはアタマ差で4着。
 優勝したフィールドセンスは南関東重賞初制覇。前走のプラチナカップが南関東への転入初戦で3着でした。このレースは多士済々のメンバー構成で,スマイルウィが大きく崩れるケースは少なそうでしたが,それ以外の有力馬は優勝もあれば惨敗もあり得るというタイプに思えましたので,馬券的にはとても難しかったです。フィールドセンスはもう8歳馬ですから大きな上積みを見込むことはできないでしょうが,ここ2戦の結果から,南関東重賞で通用する能力があるということははっきりしたといっていいでしょう。母の父はスペシャルウィーク。母の従兄にゼンノロブロイ
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は東京ダービー以来の南関東重賞27勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。管理している山下貴之調教師は南関東重賞5勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。

 浅野によれば,スピノザは政治的論考をする上で,支配する側と民衆の間を循環する流通経路を制度として構築することによって,最終的に民衆のpotentiaが最も十全に展開する地点を探るという点で一貫していたという主旨のことをいっています。命令と決断の相違にスピノザが自覚的であったのは,命令によってはその地点に到達することができず,決断によってそこに到達することができるというようにスピノザは考えていたと解するのが適切でしょう。そのゆえにスピノザの観点からは,少数者による支配より大勢が討議や協議を積極的に行うシステムが有効だったのです。つまり君主制よりは貴族制が,そして貴族制よりも民主制が有効だったのです。
 僕はこの考え方は基本的に間違っていないと思います。とくに『国家論Tractatus Politicus』における君主制および貴族制に関連する論述を読む限り,確かにスピノザは支配する側と民衆との間を循環する流通経路をいかにして構築するかということに苦心しているように思えるからです。しかし民主制の場合はどうでしょうか。スピノザによれば民主制においては民衆自身が主権者であるということになっています。つまり民衆は,この経路でいえば単に民衆としてあるだけでなく支配する側でもあるのです。したがって,支配者の命令なり決断に従う立場であると同時に,命令なり決断なりを下す立場でもあるのです。つまり民主制では,支配する立場としての民衆と,被支配者としての民衆との間で循環する流通経路が構築されているのでなければなりません。浅野の主張に従えば,そこで重要なのは,大勢が積極的に討議や協議を行うということなのであって,それはシステムとして整備されていれば十分というものではないと僕は思うのです。もしかしたらスピノザ自身が,そのようなシステムが構築されてさえいれば,討議なり協議なりが自然発生すると考えていたかもしれません。ですが実際にはそうではないと僕は考えます。民衆が主権者として決断をするということは,個々の民衆は民衆として主権者が決断するように促すのでなければ成立しないでしょう。いい換えれば個々の民衆が主権者の命令を待っているなら成立しないのです。
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農林水産大臣賞典サマーチャンピオン&統治権

2022-08-25 19:40:23 | 地方競馬
 第22回サマーチャンピオン
 好発はラウダシオンでしたが,内からサクセスエナジーも出ていき,1コーナーからのコーナーワークで前に出ての逃げ。ラウダシオンが2番手。2馬身差でコンバスチョンとシャマル。3馬身差でコウエイアンカ。6番手にレディバグ。2馬身差でリュウノシンゲン。8番手にスーパースナッズ。2馬身差でナンヨーアミーコ。4馬身差でキタカラキタムスメ。11番手にユアマイラブ。5馬身差の最後尾にグレートコマンダーという縦長の隊列。前半の600mは35秒8のミドルペース。
 3コーナーを回ってサクセスエナジーにシャマルが並び掛けていきました。内から追い上げてきたのがコンバスチョンで外を回って追ってきたのがコウエイアンカ。直線の入口ではシャマルが前に出て,そのまま抜け出して優勝。外を回ったコウエイアンカが2馬身差で2着。逃げ粘ったサクセスエナジーがクビ差で3着。
 優勝したシャマルは前々走の東京スプリント以来の勝利で重賞2勝目。近況からは負けられないようなメンバー構成。前走のさきたま杯は3着だったので,コースを1周するレースと,斤量差があったので軽量の馬に足をすくわれるというケースを心配していたのですが,どちらも問題ありませんでした。とくにコースを1周するレースを克服したのは大きく,これからの活躍を大いに見込めそうです。父はスマートファルコン。母の父はアグネスデジタル。祖母の父はダンスインザダーク。Shamalはペルシャ湾岸地域に吹く砂塵を伴う強風
 騎乗した川須栄彦騎手と管理している松下武士調教師はサマーチャンピオン初勝利。

 スピノザは『国家論Tractatus Politicus』の第二章第一七節で,主権と政治体制のあり方を簡単に説明しています。ただしそこでは主権ではなく統治権imperiumという語が使用されていますので,ここでもそれに倣うことにします。
                                        
 スピノザがいう統治権とは,多数者の力potentiaによって規定される権利jusです。したがってそれは,人間の共同の権利というべき権利で,ある人間が単独で有する権利ではありません。人間は相互の援助なしには生活を支えるということができないので,共同で生活するようになります。そうすることで人間は自然権jus naturaeを拡張していくわけです。統治権というのは,人間がそのような仕方で自然権を拡張していく中で,生じてくるような権利,というか人間が共同で生活するために生じてこざるを得ないような権利のひとつであると解するのがよいと僕は考えています。
 この統治権は,共同の意志voluntasに基づいて共同する人間を統治する人間に与えられています。事実上はこのような統治権を有する人間の共同体が国家Imperiumといわれますので,これは共同の意志に基づいて国事の配慮をなす人間といっていいでしょう。ここでいわれる配慮とは,法律lexの制定や廃止,また法律の解釈,国防などの一切を意味します。つまり,行政権だけを意味するのではなく,立法権や司法権も含まれます。そして政治体制のあり方というのは,この国事に対する配慮をだれがなすのかということと関係します。
 もしもこの配慮が,すべての民衆からなる会議体に属するのであれば,この統治形態は民主制といわれます。またその会議体が,若干の選ばれた人びとのみから構成されるのなら,その統治形態が貴族制といわれます。そしてこの配慮がひとりの手中にあるなら,その政治体制は君主制といわれるのです。ただしこれは配慮のあり方についていわれるのであって,たとえばその統治権がひとりの君主にあるのだとしても,君主が補佐役の意見opinioを聞くことによって決定されるということはありますし,スピノザは君主制国家の統治形態としては,そのような形態が望ましいと考えています。これは前にいっておいたように,たとえ君主制であっても,民衆とのコミュニケーションを欠いてはならないからです。
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竜王戦&命令と決断

2022-08-24 19:00:37 | 将棋
 昨日の第35期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 広瀬章人八段の先手で後手の山崎隆之八段のノーマル四間飛車。先手の居飛車穴熊という戦型になりました。互角の中盤が長々と続いて第1図。
                                        
 ここで後手が☖8四角と逃げると先手にはふたつの手段があります。
 ひとつは☗7一歩成☖同飛☗8三銀成です。
                                        
 第2図になれば先手は角は取れそうです。ただ第2図で☖7七歩と打つ手があり,先手はその攻めを受け切らなければなりません。
 それが無理なら☖8四角には☗8五銀です。この場合は☖9三角☗9四銀☖8四角☗8五銀の手順で千日手に進むでしょう。
 実戦は第1図で☖7五角と逃げたので,☗7一歩成☖同飛☗7六歩と進み,角と銀の交換になりました。ただこの順は先手に分があったようです。ですから第1図では後手は☖8四角と逃げ,千日手でも構わないという姿勢で指すべきだったようです。
 連勝で広瀬八段が挑戦権を獲得。竜王戦七番勝負には第32期以来の出場。第一局は10月7日と8日に指される予定です。

 現実的にそうしたことが可能であるかは別として,もし君主がひとりですべてを決定するdeterminareとすれば,その決定determinatioが民衆の欲望cupiditasをすくい上げるのは困難になるでしょう。したがってそこで行われるのは,君主の命令であって,君主の決断ではないことになります。なるべく多くの補佐官が存在することによって,民衆の欲望を反映するような無数の決定の可能性が開かれていき,ひとつの事象に対して多くの問いが検討に付されるようになるでしょう。最終的にはそうした補佐官の意見opinioのうちのひとつを君主が選択するとしても,補佐官の総意に対しては君主は反対することはできません。つまり補佐官たちの諸々の意見のうちのどれかを選ぶ権利jusを君主は持っているとしても,補佐官たちの意向に反する決定をするとか,反する意見を述べるというような権利は君主には与えられないという状況が,あるべき君主制の姿であるということになるでしょう。
 ここまでのことを踏まえると,スピノザが民主制が最善の制度であると考えていたことがなぜなのかということが理解できるでしょう。少数者が支配するような政治体制より,多くの人びとが討議や協議を積極的に行う政治システムの方が,民衆の欲望をより多くすくい上げるのには有効だからです。いい換えれば,主権が命令を下すということをしにくく,決断を下すということをしやすくなる政治体制は,君主制や貴族制よりも民主制であるからです。
 ここからは僕の私見になるのですが,このときに重要なのは,民主制であれば主権が決断を下すようになるというわけではないということなのです。いい換えれば,主権者が民衆であるからといって,民衆が決断を下すということが現実的になるというわけではないのです。僕は前に,命令と決断の相違というのは,主権にだけ与えられた事象なのではなく,民衆にも与えられた事象であるといいました。このことはとくに民主制において妥当するといえます。というのは,君主制とか貴族制においては,政治的な権限が何も与えられていないような民衆というのが現に存在するわけで,そうした民衆は純粋に被支配者であることになります。しかし民主制ではそうではありません。
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瑞峰立山賞争奪戦&コミュニケーション

2022-08-23 19:32:16 | 競輪
 富山記念の決勝。並びは吉沢‐宿口‐平原の関東に和田,山口‐竹内の岐阜,松浦‐小倉の中四国で荒井は単騎。
 平原と山口がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入ったのは平原。吉沢の前受けになり,上昇してきた荒井が5番手。譲った山口が6番手で8番手から松浦という隊列。残り3周のホームから松浦が竹内との車間を開け始めました。バックに入ると吉沢も誘導との間隔を開けて待ち受けましたが,松浦が一気に上昇して,誘導が退避したコーナーで吉沢を叩いて前に。ホームに入ると山口が発進。松浦を叩いてそのまま先行。3番手に松浦,5番手に吉沢,最後尾に荒井という一列棒状の隊列で打鐘。ホームに入ると竹内が番手捲りを敢行。巻き返していった吉沢は不発。竹内に乗ることになった松浦がバックで発進。自力に転じた宿口は小倉の牽制で失速。直線は抜け出した松浦に,宿口の後ろから追ってきた平原が迫りましたが,わずかに届かず,優勝は松浦。平原がタイヤ差で2着。最終コーナーから内を回り,竹内と松浦の間に進路を取った和田が4分の3車身差で3着。最後尾からの捲り追い込みになった大外の荒井が4分の1車輪差の4着で松浦マークの小倉は半車輪差で5着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は先月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝。記念競輪は4月の川崎記念以来で16勝目。富山記念は2019年以来となる3年ぶりの2勝目。このレースは関東勢の二段駆けがありそうで,それを松浦が捲れるかというのが最大の焦点だとみていました。ところが前受けした関東勢が突っ張ることができない形になったため,山口の先行となり,しかも竹内が二段駆けという予想外の展開に。松浦は竹内マークのようなレースになりましたので,結果的に展開有利になりました。これは松浦が周回中は後方を選択し,吉沢を一気に抑えにいったためといえ,作戦勝ちとみてもよいのではないでしょうか。関東勢は失敗になったといえるかもしれませんが,それぞれの選手が持ち味を出したよいレースだったと思います。

 君主制を例としたのは,理解が容易であるからであり,こうしたことが君主制だけに妥当するとは僕は考えていません。貴族制であれ民主制であれ,同じことが成立すると僕は考えています。浅野はこのことに関連して,スピノザは,主権の命令と主権の決断とは異なるということをスピノザはよく理解していた,これは逆にいえば,ホッブズThomas Hobbesはそのことに自覚的ではなかったということになりますが,そのようないい方で表現しているのでした。この,決断と命令の相違ということの要諦は,浅野はそのようにはいっていませんが,僕の見解opinioでは君主制だけでなく貴族制でも民主制でも妥当するのです。他面からいえば,この決断と命令の相違は,主権にだけに特有の事象というわけではなく,民衆にも該当する事象なのだと僕は考えています。しかしこの私見については後に詳しく説明することにして,浅野の主張をもう少しみていくことにします。
                                        
 たとえ君主制という政治体制であっても,君主が民衆に対して命令を下すだけでは,その存続が危うくなります。いい換えれば君主は民衆の欲望cupiditasをすくい上げるような決断をする必要があるのです。このとき,決断というのはその都度の決断というのを意味します。というのは,君主があるひとつの決断をしたとすれば,その決断によってまたすくい上げるべき民衆の欲望が発生し,そのためにまた別の決断が必要になり,その決断によってまた民衆の新たな欲望が喚起されるといった具合に,この関係は延々と続いていくものだからです。したがって,君主は民衆を無視して自分勝手に振る舞えばよいというものではなく,民衆との相互のコミュニケーションが必要なのです。
 ネグリAntonio Negriの項の考察でいっておいたように,スピノザは基本的に政治的決定に関与する人間の数が多ければ多いほどよいという考えを有していました。君主制という政治体制において,君主ひとりが政治的権力を保持してそれを行使するよりも,補佐役のような人間が何人かいて,その補佐役が定期的に入れ替わるのが望ましいとされているのは,この,君主あるいは主権と民衆の間での相互のコミュニケーションが必要だということとも関係しているといえます。
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印象的な将棋⑱-4&命令

2022-08-22 19:23:13 | ポカと妙手etc
 ⑱-3でいったAIが示した手順を確認します。
                                        
 第1図から☗2一飛☖3一歩☗2七銀で第2図になります。
                                        
 3でいっておいたように,第2図はAIによれば先手が有利という局面であって,それは正しく指し続ければ先手が勝つだろうという意味です。ですから第2図から人間が指すなら,強い方が勝つというほどの局面でしかありません。つまりこの図は先手が勝ちを見込めるというような局面ではありませんから,この順を指すということ自体が人間には難しいだろうと思います。勝ちを見込めないのに第2図に踏み込むのは,先手にとって怖さが生じるだろうからです。
 さらに,第1図から第2図までの3手一組の手順は,人間からみると不思議な点がふたつほど含まれているので,そもそもこの手順を発見するのが人間的には難しいという面があります。
 ひとつは,第1図の先手玉は詰めろになっていないので,先手が詰めろと王手の連続で後手玉を受けなしにい追い込めば勝ちで,それができなければ受けなければなりません。☗2七銀は☖3八金を受ける手ですが,第1図ですぐに受けるのではなく,一旦☗2一飛と詰めろを掛けて,☖3一歩と受けさせてから☗2七銀と受けなければならない理由を理解するのが難しそうです。
 次に,先手玉が5八にいて,☖3八金を受けるのに,たとえば☗4九銀と玉の近くに銀を打つのではなく,玉から遠いところに☗2七銀と打たなければならない理由を発見するのも困難に思えます。
 しかしこの3手一組は絶対の手順なのです。

 民衆全体が主権者になるということは,それ自体では非現実的とはいえません。ただ,その目的が主権の能動actioにある場合は,民衆の能動がその前提となり,そのことが非現実的なのです。『国家論Tractatus Politicus』の第一章第五節では,民衆なり国務に忙殺される人なりが,もっぱら理性ratioの掟に従って生活するように導かれ得ると信じている人は,空想物語を夢見ているのだという主旨のことがいわれていますが,このような批判はネグリAntonio Negriにも向けられているといってよいでしょう。
 とはいえ,主権の能動は民衆の能動によって規定されるわけですから,民衆の能動を無視して考えることはできません。それは非現実的なので,スピノザはあたかも能動といえる敬虔pietasという概念notioを提出しているわけです。しかしこのことは別の章の考察で検討済みなので繰り返すことはしません。ここでは,スピノザの哲学を形而上学的基礎とするような政治論では,民衆という存在者を無視することはできないという点を重視します。というのは,デカルトRené Descartesの哲学を形而上学的基礎としたホッブズThomas Hobbesの政治論では,主権者の能動が民衆の受動passioなので,主権が能動であるためには,主権が民衆に対して命令を下すだけで十分です。ところがスピノザの哲学ではそうはいきません。つまり,主権が民衆に対して命令を下すという形の統治形態は,政治体制の如何に関わらず成立しません。いい換えれば君主制であろうと貴族制であろうと民主制であろうと成立しないのです。浅野はこの点については,スピノザは主権が命令を下すということと,主権が決断を下すということには相違があって,その相違について自覚的であったといっています。
 このことは,とくに君主制を例にとれば分かりやすいでしょう。君主制で主権者といえるのは君主あるいは王だけを原則的に意味するからです。たとえそのような君主が統治する国家Imperiumであっても,君主が民衆に対して命令を下すだけの統治形態は,その君主制の存立基盤を脅かすことになります。なぜならこのような統治形態では,最も分かりやすいことばでいえば,民衆の福利厚生を無視することが可能であると前提されているからです。それがホッブズの政治論の最大の難点です。
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根拠&民衆

2022-08-21 19:28:59 | 哲学
 完全と不完全判定の要素として,有esseを導入すると,あるものがほかのものよりも多くの有,いい換えれば実在性realitasを有すると認められる限りで,あるものはほかのものよりも完全であるということになります。また,あるものに限界とか無能力impotentiaのような否定的なものを含むということが認められるなら,そのものはその限りで不完全といわれることになります。このことから,完全性perfectioを実在性と等置する根拠が出てくることになります。
                                   
 ただしこのときに気を付けておかなければならないのは,あるものに限界なり無能impotentiaのような否定的なものが含まれるがゆえにそのものが不完全といわれるのだとしても,そのものに本来的に属するべき何かが欠けているというわけではないということです。たとえばあるものが現実的に存在するとして,そのものの存在existentiaあるいは存在の持続duratioに何らかの限界があるのだとしても,それはそれ自体では実在性であることには変わりはなく,それが実在性であるならば完全性でもあるのです。要するにあるものが不完全と認識されるというのは,それよりも完全なものと比較される限りにおいてそのようにいわれるのであって,もしもそのものがそれよりも実在性において劣るものと比較されるなら,そのものは完全とみなされることになるでしょう。
 このことは一般的にいえば,事物の本性essentiaに属するものは,そのものの起成原因causa efficiensから必然的にnecessario生じるものだけであり,またそうしたものはすべて必然的に属するということに帰すことができます。ですから,AとBとが比較され,Bの方が否定的なものを多く含んでいるがゆえに不完全とみなされるとしても,それはBの本性に本来的に含まれていなければならない何かが欠けているということを意味するのではありません。なぜならAの本性とBの本性は異なる本性なのですから,Aの本性に含まれているものがBの本性に含まれていないとしても,それはBの欠陥を意味するというわけではないからです。よって完全性と実在性が等置されても,完全性は思惟の様態cogitandi modiであることになるのです。

 人間の精神mens humanaを主権,人間の身体humanum corpusを民衆と仮定したとき,スピノザの哲学では人間の精神が能動actioであるときは人間の身体も能動なので,主権が能動的に働くagereためには民衆が能動的に働くのでなければなりません。したがって,主権が民衆にあるのが,主権が能動的であるための最適条件になります。つまり国家Civitasの主権者が民衆全体にあるのが最適条件となり,ネグリAntonio Negriが目指している政治体制はそういう体制であるといえます。ネグリ自身がどのように考えていたかは分かりませんが,ネグリ自身が目指そうとしていた体制は,確かにスピノザの哲学を形而上学的基礎としているとみることができるでしょう。
 それからこれも現状の考察とは無関係ですが,スピノザの政治論そのもので民衆といわれるときは,ある特殊な意味があると解しておくのが安全です。というのは,民衆という語は統治者とか政治的権力の保有者あるいは実行者に対して,統治される側,あるいは政治的権力を保有したり使用したりしない者というようなイメージで解される場合があると思うのですが,スピノザの政治論を解するときはそのような理解は危険です。スピノザの政治論でいわれるような民衆というのは,数多くの市民Civesとか国民といった,多数のものというのを意味するのであって,政治的権力を保有しまた使用するか否かということは考慮されていないと解しておく方が安全です。すごく極端にいえば,ある国家の国民の中からひとりを抽出して,そのひとりからみたときに,自分以外の国民のすべてが民衆といわれているというように解しておくのがよいでしょう。もちろん政治的権力を保有したり行使したりしない者について民衆と解したとしても,それが必ず誤りerrorになるというわけではありませんが,スピノザの政治論における民衆というのは,そのことが必ずしも留意されていないという点には気を付けておくべきだと僕は思います。
 それでは『スピノザ〈触発の思考〉』の考察に戻ります。
 ネグリの議論がそうであったように,民衆全体が主権者となることが,スピノザの哲学を形而上学的基礎に置いた政治論としてはベストです。ただしこのこと自体は非現実的といわなければなりません。
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天龍の雑感⑭&主権と民衆

2022-08-20 19:27:31 | NOAH
 ジャンボ・鶴田は無尽蔵のスタミナを指摘されることが多いのですが,天龍はそれは否定しています。鶴田は身体が大きかったので,自身よりも小さな相手と対戦する機会が多く,そのゆえに試合で全力を出さなくてもよかったためにそのように見えたのだというのが天龍の言い分です。身体の大きさまで含めてスタミナというなら天龍の主張は成立しませんが,身体の大きさから比較してのスタミナという意味であれば,天龍の主張にも理があるでしょう。
 プロレスでは身体が大きいというのはそれだけで有利な材料で,天龍自身がそのことは実感しているようです。天龍は鶴田よりは小さかったですが,自分よりも小さい相手と戦うときには楽だったといっています。そして鶴田はいつもそのような感覚で試合をしていたのだろうと推測しています。こうしたことは三沢光晴も証言していて,三沢は身体が小さかったですが自身よりも小さい選手,たとえば小川良成あたりと戦うときにはとても楽だったようです。
 で天龍がいっている1989年6月5日の鶴田と天龍のシングルマッチがベストだと天龍に思えるのは,身体が大きかった鶴田がこの試合では感情をむき出しにして天龍と相対したからです。とくに鶴田は単に身体が大きかったというだけでなく,自分には余裕があるというところをみせようという意識があったと天龍はみていて,そのためになおさらこの試合はベストマッチだと思えるのでしょう。
 ファンに対して余裕があるところをみせようとするのは,自身の強さをみせようとする意図としてなら,僕は必ずしも否定的には考えません。それもまたギミックのひとつと考えられるからです。しかし鶴田はそのことを必ずしもファンに対してだけみせようとしていたわけではなく,対戦相手にも誇示しようとしていたようです。必死に向かってくる相手をいなすときに,「はい,はい」と声を出すこと,対戦相手にだけ聞こえるような声を出すことがあったそうです。阿修羅・原は涼しい顔で鶴田がそのようにいうので,対戦していて闘志が萎えてしまうことがあったようです。天龍は鶴田のこのような態度は選手間で顰蹙を買っていたと証言していますが,このような態度をとっていればそう思われても仕方がないでしょう。

 人間の精神mens humanaと人間の身体humanum corpusの能動actioと受動passioの秩序ordoが一致するとは,人間の精神が能動状態にあるときにはその人間の身体も能動状態にあり,人間の精神が受動状態にある場合には人間の身体も受動状態にあるということです。もちろんこれは逆も真verumで,人間の身体が受動状態であるときにはその人間の精神も受動状態にあり,人間の身体が能動状態にあるときにはその人間の精神も能動状態にあるということです。したがって,人間の精神の観念対象ideatumがその人間の身体であるということ,あるいは同じことですが,ある人間の精神とその人間の身体が同一個体であるということに注意すれば,第三部定理二はやはりスピノザの哲学の形而上学的論理から帰結することになります。同一個体は連結と秩序が一致しますが,もしも同一個体間で一方が原因causaで他方が結果effectusという関係が成立するなら,原因である方が能動で結果である方が受動ということになり,それを同一個体間でいうのは不条理だということになるからです。
                                   
 デカルトRené Descartesの哲学では人間の精神と人間の身体との間で因果関係が成立することになっていたので,精神の能動が身体の受動であり,逆に精神の受動は身体の能動を意味していたのです。そしてこのうち,精神が能動状態にあり身体が受動状態にあることが,デカルトの哲学では倫理的に推奨されていました。ホッブズThomas Hobbesが政治学に利用したのはその点であったといわなければなりません。しかしスピノザの哲学を援用するなら,その種の主客二元論は援用することができません。主権と民衆を分けて,主権が精神で民衆が身体に該当させることは可能ですが,その場合は主権の能動とは民衆の能動を意味し,民衆の受動が主権の受動を意味することになるからです。これは主客二元論に対抗させていえば平行論ですが,平行論を政治論の形而上学的基礎として援用すると,ホッブズが示したのとは異なったタイプの政治論が帰結するということはこれで理解できると思います。
 余談になりますが,ネグリAntonio Negriが目指そうとした政治体制の形而上学的基礎は,基本的に主権と民衆の間に成立する平行論にあったということができると僕は思っています。とくに能動の平行論です。
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有罪&別の相違

2022-08-19 19:22:47 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中に「背後にドストエフスキーを感じながら」という表題の.亀山郁夫と中村文則の対談が掲載されています。その中で亀山が,『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のうち,アリョーシャもまた無罪ではあり得ないというマイケル・ホルキストというアメリカの研究者の話を紹介しています。僕はこの点には興味をそそられました。
                                      
 まず,アリョーシャが無罪ではあり得ない,つまり有罪であるとすればそれはどのようなものであるのかということを考える前に,なぜ僕がこの点に関心をもったのかを説明しておきます。
 『カラマーゾフの兄弟』のうち,カラマーゾフの一家を構成する男たちは,父であるフョードル,長男のドミートリイ,次男のイワン,三男のアリョーシャ,そしてリザヴェータを母とするスメルジャコフの父は,僕はフョードルではないと解釈していますが,物語の中ではフョードルはスメルジャコフの父であるということを否定していませんので,このスメルジャコフまで含めた5人です。
 このうち,スメルジャコフはフョードル殺害の真犯人ですから,無罪ということはあり得ません。また,フョードルとドミートリイは,日常的な生活面から無罪というのは困難です。フョードルは殺害されましたが,殺害されるのには殺害されるだけの罪があったということができるでしょうし,冤罪で有罪となったドミートリイは,真犯人ではないとしても有罪とされるだけの根拠があったといえ,このふたりは分かりやすく無罪ではないのです。
 イワンはフョードルやドミートリイとは異なり,理知的な人間で,生活面からは有罪というのは困難ですが,スメルジャコフはイワンの暗黙の意を汲んでフョードルを殺害しました。そこにはイワンのスメルジャコフに対する使嗾というものがあったことになります。この点からイワンは無罪とはいい難く,ある意味ではフョードルやドミートリイ,そしてスメルジャコフよりも罪深いといえます。
 しかしアリョーシャだけは有罪というのは難しいと僕は思っていました。なのでアリョーシャも有罪という見解に興味をもったのです。

 第三部定理二は,まさに人間の精神mens humanaはその人間の身体humanum corpusを運動motusなり静止quiesなりに決定するdeterminareことはできず,また人間の身体はその人間の精神を思惟作用に決定することはできないといっています。このことは,人間の身体が物体corpusであり,人間の精神は思惟の様態cogitandi modiであるので,その間にある区別distinguereは実在的区別であるということを念頭に置きさえすれば,スピノザの哲学の形而上学的論理から直接的に帰結するのです。
 さらに,ホッブズThomas HobbesがデカルトRené Descartesの哲学の形而上学的論理を自身の政治学のために援用したという点に関しては,より重要な相違がスピノザの哲学とデカルトの哲学の間に存在しています。
 第二部定理七は,ある観念idemとその観念対象ideatumは,秩序ordoと連結connexioが一致するといっています。このゆえにある観念とその観念対象は,同一個体であるとスピノザの哲学ではいわれることになるのです。もちろんある観念とその観念対象は,実在的にrealiter区別されなければならないがゆえに,その両者の間で因果関係は成立しません。つまりある観念がその観念対象の原因causaであったり結果effectusであったりすることはできませんし,逆に観念対象がその観念の原因であったり結果であったりすることもできません。他面からいえば,観念対象というのは観念がなくてもあることができるものですし,観念というのは観念対象がなくてもあることができるものです。ただしその両者の間で,秩序と連結は一致するのです。この原理がスピノザの哲学が平行論といわれる大きな理由となっているといえるでしょう。
 第二部定理一三は,ある人間が現実的に存在していると仮定したとき,その人間の精神の観念対象はその人間の身体であるという意味のことをいっています。したがってその人間の精神と身体は同一個体であり,秩序と連結は一致することになります。そしてこのことが,現実的に存在するすべての人間に妥当するので,一般的に人間の精神の観念対象はその人間の身体であるということになり,同様に一般的に人間の精神とその人間の身体の連結と秩序は一致するということになるのです。なので,人間の精神の能動actioと受動passioの秩序は,その人間の身体の能動と受動の秩序に一致しなければなりません。
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日刊スポーツ賞黒潮盃&第一部定理三証明

2022-08-18 18:57:46 | 地方競馬
 兵庫から1頭が遠征してきた昨晩の第56回黒潮盃
 ナッジが好発でしたが外からエスポワールガイが楽に前に出ての逃げ。一時的に2馬身くらいのリードを取りました。2番手にサンドファルコン。3番手にナインバイパー。4番手にナッジとクライオジェニック。5番手にロヴェンテ。6番手にライアンとラブリーホライズン。9番手をローグネイションとスティールルージュとコスモファルネーゼが併走し,最後尾にマイブレイブという隊列。最初の800mが51秒8という超スローペースとなったこともあり,馬群が凝縮してのレースになりました。
 3コーナーからクライオジェニックがエスポワールガイに並び掛けていき,2馬身後方にナッジとサンドファルコン。直線に入ると再びエスポワールガイがクライオジェニックとの差を広げ,鋭く逃げ切って優勝。早めに動いたクライオジェニックが1馬身半差で2着。直線でクライオジェニックの外に出されたナッジはさほど差を詰めることができないまま1馬身4分の1差で3着。
 優勝したエスポワールガイは南関東重賞初制覇。ここまではスプリント路線を歩んでいた馬で,前走の優駿スプリントは2着。ここは一気の距離延長が課題でした。スプリント路線を走っていた馬らしく楽に先手を奪い,そのままペースを落とせた展開面の利が大きかったことは確かですが,2着から4着までをこの距離では能力上位と目された馬たちが占めていますので,少なくともその馬たちと互角以上の能力があったとみるべきでしょう。父はエスポワールシチー。祖母の父がマンハッタンカフェ
 騎乗した船橋の森泰斗騎手川崎スパーキングスプリント以来の南関東重賞50勝目。第50回以来となる6年ぶりの黒潮盃2勝目。管理している大井の市村誠調教師は南関東重賞4勝目。黒潮盃は初勝利。

 第一部公理四によれば,結果effectusの認識cognitioは原因causaの認識に依存します。したがって,Xが生起する原因がYであるならば,Xの認識,これはXの真の観念idea veraという意味ですが,Xの真の観念はYの真の観念に依存します。つまり,Aという人間がXを十全に認識するcognoscereという場合には,そのAの知性intellectusのうちにはYの十全な観念idea adaequataも含まれていることにになります。また,Xの真の観念はYの真の観念に依存するのですから,Aの知性のうちにYの真の観念があるならば,Aの知性のうちにはXの真の観念も存在することになります。
                                   
 次に,第一部公理五によれば,AとBとの間に共通点がないならば,これは,AとBとが実在的にrealiter区別されるならという意味ですが,Aを認識することによってBを認識することはできませんし,逆にBを認識することによってAを認識することはできません。
 このふたつを合わせると,AとBが実在的に区別される場合は,AとBの間に因果関係が生じ得ないということが理解できます。なぜなら,AとBとが実在的に区別される場合には,Aを認識することによってBを認識することはできませんし,逆にBを認識することによってAを認識することもできないのですが,もしもAとBとの間に因果関係がある,たとえばAが原因でBが結果であると仮定するなら,Bの真の認識はAの真の認識に依存する,いい換えればAを認識することによってBを認識することができるのですが,このふたつは両立し得ないからです。第一部定理三は,まさに互いに共通点をもたないものの間では因果関係が生じ得ないということをいっていますが,この定理Propositioはこのようにして証明されることになるのです。そしてこれがスピノザの哲学で,実在的に区別されるものの間では因果関係が生じ得ないということの,形而上学的論理になります。
 人間の身体humanum corpusと人間の精神mens humanaとの間にある区別distinguereは,スピノザの哲学でいう区別の種類でいえば,デカルトRené Descartesの哲学で考えてもスピノザの哲学で考えても,実在的区別に該当するのでした。したがって,デカルトはその両者の間に因果関係があるということを認めていたのですが,スピノザの哲学ではそれが認められないことになります。
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オールスター競輪&方向

2022-08-17 19:35:51 | 競輪
 9日から西武園競輪場で開催された第65回オールスター競輪は,13日の準決勝が台風の影響で順延となったため,決勝も15日に争われました。並びは新山‐小松崎‐守沢‐成田の北日本,寺崎‐脇本‐古性の近畿で,吉沢と松浦は単騎。
 古性がスタートを取って寺崎の前受け。4番手に松浦,5番手に吉沢,6番手に新山で周回。残り3周のバックから新山が上昇開始。寺崎は誘導との車間を開けて突っ張る構え。ホームで誘導が退避して新山が叩きにいきましたが寺崎が突っ張りました。内から松浦が上昇し,外からも被される形になった脇本は連結を外して引いたので,バックでは寺崎の後ろに松浦が入り,3番手に新山,7番手に脇本,最後尾に吉沢という隊列になって打鐘。バックに入って松浦が番手捲りを敢行。先頭で直線に入りましたが,後方からの捲り追い込みとなった脇本が差して優勝。松浦が4分の3車輪差で2着。直線で松浦と新山の間を突いた守沢が半車身差で3着。
                                        
 優勝した脇本雄太選手は6月の燦燦ムーンナイトカップ以来の優勝。ビッグは5月の日本選手権以来となる8勝目。オールスター競輪は2018年以来の2勝目。このレースは脇本の脚力が断然。寺崎がすんなりと先行になれば絶対的に有利ですし,仮に寺崎が不発になったり分断されたりしても自力で何とかできるだろうと思っていました。松浦がうまく動いて番手に入ったのですが,その番手捲りを後方から捲り切ったのですから,やはり力が違ったということでしょう。松浦も脇本を待って合わせて発進というのは至難の業ですから,番手から出ていったタイミングは悪くなかったと思います。吉沢が松浦を追うことができていれば,また違った結果もあったかもしれません。分断されたわけではなく,自ら連結を外していますので,番手戦という意味では脇本には課題が残るレースだったでしょう。

 主客二元論を政治論の形而上学的基礎に据えれば,主体subjectumとしての主権と,客体としての民衆という構造が出現します。このとき,主体は能動actioを意味して客体は受動passioを意味するのですから,主権の能動と民衆の受動という国家像が,この政治論ではよき国家像になるでしょう。この政治論に欠点があるとすれば,民衆の欲望cupiditasをすくい上げるような回路あるいは方向性をもつことができないという点にあります。主権から民衆の方向に向かうときにのみ能動的であるのですから,この国家像が一方向的でしかないのは一目瞭然といえるでしょう。このとき,主権とは何であるのかとか,民衆とはだれを意味するのかということは問題として残るでしょうが,方向性が主権から民衆のみだけであり,民衆から主権という方向性をもっていないということは間違いありません。
 スピノザが政治論を組み立てるとき,その基礎として自身の哲学を援用していることは間違いありません。ただ上述のような意味での形而上学的基礎として援用されているかといえば,必ずしもそうとはいえないように僕は思います。ただ,スピノザの哲学を形而上学的基礎として政治論というのを構築することはできる筈で,浅野自身はスピノザの政治論がそのような政治論であるとみているようです。僕は実際にそうであるとは断定しませんが,スピノザの哲学を形而上学的基礎に据えれば,ホッブズThomas Hobbesが示したとされるような政治論とは異なった政治論が構築されることは間違いありませんので,ここではそのような観点からそれを検証していくことにします。
 スピノザの哲学とデカルトRené Descartesの哲学の大きな相違のひとつに,人間の身体humanum corpusと人間の精神mens humanaの間の因果関係の有無というのがあります。デカルトの哲学はそこに因果関係があることを肯定するから二元論といわれ,スピノザの哲学はその因果関係を否定するから平行論といわれるということはすでに示した通りです。まずこの部分の形而上学的論理を確認しておきましょう。
 スピノザの哲学では,あるものと別のものの区別distinguereが実在的区別であるなら,一方が他方の,また他方が一方の,原因causaであったり結果effectusであったりすることはできないことになっています。
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