スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第三部定理一八の帰結として,安堵securitasと絶望desperatioは希望と不安からの派生感情でなければなりません。ですから歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusだけが希望spesと不安metusからの派生感情であるわけではないのです。このことは畠中が,安堵と落胆は希望からの派生感情で,絶望と歓喜は不安からの派生感情であると主張していることから,不自然ではありません。ある感情affectusからの派生感情はひとつであるとは限らず,複数の感情がある感情からの派生感情であるという場合があるのです。僕は畠中説そのものには同意しませんが,ある感情からは複数の感情が派生し得るという点については畠中と一致します。
これで考えれば,これとは逆のこともあり得る筈です。すなわちある感情Aが別の感情Bから派生するとき,AはBからの派生感情ですが,Bからの派生感情はAだけであるとは限りません。これとは逆に,Aを派生させる感情はBだけであるとは限らず,AはBからの派生感情ではあるけれども,それとは別のCという感情からも派生し得るという場合がある筈なのです。
僕は,歓喜と落胆は不安と希望からの派生感情でなければならないと考えますが,安堵や絶望からも派生し得ると考えています。ただし,僕がいう派生感情というのは,ある感情が発生するためには,その感情が前もって存在していなければならない場合のことです。歓喜も落胆も,希望と不安が前もって存在していなければ発生し得ないので,それらは希望と不安の派生感情です。一方,安堵や絶望から歓喜や落胆が派生する場合もあると僕はみているのですが,これは安堵や絶望が前もって存在していなければ歓喜や絶望は発生し得ないという意味ではありません。なので僕は歓喜や落胆が安堵や絶望からの派生感情であるとはいいません。ただ安堵および絶望から歓喜や落胆が発生する場合でも,安堵と絶望が不安と希望からの派生感情なのですから,歓喜と落胆が希望と不安からの派生感情であることには変わりありません。
ふたつの永遠の相species aeternitatisがあるのではないかという疑問については,僕はここでは確たる解答を与えません。ひとつだけ確かなことは,スピノザは永遠の相はひとつ,すなわち理性ratioの本性naturaに属する永遠の相と,第三種の認識cognitio tertii generisの本性に属するであろう永遠の相は同一の永遠の相とみていて,ふたつの永遠の相があるとは考えていないということです。
スピノザは第五部定理二九備考で,ものは,一定の時間tempusおよび場所に関係して存在すると把握されるか,神Deusの中に含まれて存在すると把握されるかのどちらかであるという主旨のことをいっています。このうち前者はものが持続するdurareものとして把握される場合であり,後者がものが永遠なaeternusものとして把握される場合であることは,説明するまでもなく明らかでしょう。したがって,ものの認識cognitioのされ仕方は,持続するものとして認識されるか,永遠の相の下に認識されるかのどちらかでなければなりません。他面からいえばそれ以外の仕方で認識されることはありません。よってふたつの仕方で永遠の相の下にものが認識されることはないのです。
ただしこの備考Scholiumは,ものが現実的なものとして把握される場合について言及されています。つまり,第三種の認識とだけ関連していわれているのであって,理性による認識については除外されていると解することは不可能ではありません。つまりここでは第一種の認識cognitio primi generisと第三種の認識についてだけいわれているのであって,理性による認識すなわち第二種の認識cognitio secundi generisについては何も言及されていないと解することもできるにはできるのであり,これだけで第二種の認識の本性に属する永遠の相と,第三種の認識の本性に属するであろう永遠の相を,同一の永遠の相であるとスピノザがいっていると解するための根拠としてはやや弱いかもしれません。
第五部定理二八は,第三種の認識への欲望cupiditasが,第一種の認識からは生じ得ないけれども,第二種の認識からは生じ得るといっています。こちらの方はより強い根拠になるのではないかと僕は考えています。というのはこの定理Propositioのスピノザによる証明Demonstratioは,永遠の相については言及していないものの,それと無関係であることはできないと思われるからです。
25日と26日に花の里温泉で指された第69期王将戦七番勝負第二局。
広瀬章人八段の先手で角換り相腰掛銀。僕には先手に華麗な決め手が出た将棋と思えたのですが,実際は途中で後手の渡辺明王将に選択ミスがあり,その前から先手がリードを奪っていたようです。
後手が6三の銀を上がったところ。ここで先手は☗5六桂とその銀取りに打ちました。後手は☖7五歩で攻め合い。先手は☗4四歩☖同歩の突き捨てを入れておいて☗6四桂と銀を取りました。これは☖同馬の一手。そこで☗6五桂とただのところに跳ねたのが,僕が最初にいった華麗な決め手と感じた一手です。
ここでは☖7六歩から攻め合えないといけないのですが,それは無理なのだそうです。よって☖同馬と取りましたが☗2四飛が継続の一手。☖同歩は☗4三銀ではっきり負けなので☖4二王と逃げ出そうとしましたが,飛車は見捨てて☗2二馬と取ってしまい☖2四歩に☗6二銀と打ちました。
先手玉に対しては攻め手がないため,これで大勢が決しています。
広瀬八段が勝って1勝1敗。第三局は来月8日と9日です。
第五部定理二九は,自分の身体corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に考えるconcipereことによって,現実的に存在する個物res singularisを永遠の相の下に認識するcognoscereといっていると解するのが適切です。この認識cognitioというのは,理性ratioによる認識ではなく,第三種の認識cognitio tertii generisです。すでに説明したように,理性による認識の基礎は共通概念notiones communesですが,この認識の基礎となっている,自分の身体の本性を永遠の相の下に考える認識というのは,共通概念ではないからです。いい換えれば理性による認識の基礎となるのが共通概念であるとすれば,第三種の認識の基礎となるのが,自分の身体の本性を永遠の相の下に考える認識であるということをこの定理Propositioはいっているのです。
この認識を基礎として,現実的に存在する個物を永遠の相の下に認識するのですから,ものを永遠の相の下に認識することは,第三種の認識の本性naturaに属するということができるでしょう。ですから第一部定理一六でいわれている無限に多くのinfinitaものは,必ずしも一般的なものの本性だけをいうのではなくて,現実的に存在するものの本性を含んでいると解することもできます。ただし第一部定理一六をどのように解するべきであるかということについては,ここでは結論を留保します。少なくともこの定理は,第一部定理二三や第二部定理八および第二部定理八系とも齟齬を来さないように解することもできますし,第五部定理二九とも齟齬を来さずに理解することができることは確かです。
第二部定理八や第二部定理八系は,理性による認識によって個物を一般的な意味で永遠aeterunusであるとみなすことができるということを示します。少なくとも第二部定理八備考の比喩が成功しているならそうです。それを永遠であるとみなすことができることは第二部定理四四系二から不自然ではありません。ですがそこでは永遠であるとみなすことができるという条件から外されている,現実的に存在する個々のものもまた,永遠の相の下に認識することができるのです。してみると,理性による認識の永遠の相と,第三種の認識における永遠の相は,理性と第三種の認識が区別されるのと同じように,本来的には区別されるべき永遠の相なのではないかという疑問が生じます。
第69回川崎記念。
かなり互いの出方を見合うような牽制状態に陥りましたが,ケイティブレイブが逃げることになりました。ミューチャリー,チュウワウィザード,ミツバ,デルマルーヴル,アナザートゥルース,オールブラッシュ,ヒカリオーソまでの8頭は一団。やや離れてメイプルブラザー。さらに離れてモズオトコマエ。また離れてコウエイワンマン。さらに離れてキタノイットウセイと残りの4頭はばらばら。ミドルペースでした。
3コーナーでミューチャリーが先頭に出てケイティブレイブは後退。楽についてきたのがチュウワウィザードで,こちらはコーナーの中間でミューチャリーの前に出て,先頭で直線に。ここからは後ろを離していき圧勝。大外から伸びてきたヒカリオーソが6馬身差で2着。中を伸びたデルマルーヴルが1馬身差の3着で一旦先頭のミューチャリーはクビ差で4着。
優勝したチュウワウィザードはJBCクラシック以来の勝利で大レース2勝目。ここは能力はこの馬とケイティブレイブがほかより上。ただケイティブレイブは復帰初戦は勝ったものの前走は案外でしたから,こちらの方が優勝の可能性は高いとみていました。実際にケイティブレイブはミューチャリーに前に出られたところで戦意を喪失。能力的な対抗馬がこのようなレースをすることになったので,圧勝になったのも自然でしょう。今年もこの路線のトップクラスの1頭として活躍していくことになると思います。父はキングカメハメハ。母の父はデュランダル。ファンシミン系ファンシーダイナの分枝で4代母が1986年に京成杯と牝馬東京タイムス杯,1987年にエプソムカップと新潟記念とオールカマーを勝ったダイナフェアリー。
騎乗した川田将雅騎手はチャンピオンズカップ以来の大レース20勝目。川崎記念は初勝利。管理している大久保龍志調教師はJBCクラシック以来の大レース5勝目。川崎記念は初勝利。
第五部定理二二は,明らかに現実的に存在する個々の人間の身体humanum corpusの本性essentiaが,神Deusの中で永遠の相species aeternitatisの下にそれを対象ideatumとした観念ideaとして表現されているということを意味しています。ですから,すべての人間に共通であるような人間の身体あるいは人間の身体の観念だけが永遠aeterunusであるということはできず,あの人間この人間といわれるような現実的に存在するすべての人間の身体の観念も永遠であるといわなければならないでしょう。つまり,第二部定理八でいわれている個物res singularisの形相的本性essentia formalisというのは,たとえばすべての人間に共通する人間の本性natura humanaと解するべきなのですが,それだけが神の中に,あるいは属性attributumの中に包容されていると解することはできないことになります。
なおかつ,第五部定理二九からして,そのような現実的に存在する身体の本性を神の中で表現するexprimere観念は,人間の精神mens humanaによって認識するcognoscereことが可能なある観念であるといわなければなりません。この定理Propositioでは単に身体の本性といわれていますが,これは自分の身体の本性と解するべきであって,そのことが基礎となって,僕たちはすべてのものを永遠の相の下に認識するといわれていることになります。
なお,ここでいわれているすべてのものというのは,現実的に存在しているすべてのものと解するべきだと僕は考えます。もしそうでなく,文字通りにすべてのものと解するなら,ここいわれていることと第二部定理四四系二は矛盾すると考えられるからです。第二部定理四四系二によれば,僕たちが理性ratioによって何かを認識するのであれば,それはその何かを永遠の相の下に認識しているということでなければなりません。よって共通概念notiones communesを基礎とした認識cognitioは,事物を永遠の相の下に認識する様式であり,第二部定理八や第二部定理八系は,この種の認識について言及していると解せるようになるからです。しかし第五部定理二九でいわれている認識は,共通概念を基礎とした認識ではあり得ません。第二部定理三七でいわれているように,共通概念は個物の本性を構成しないのですが,第五部定理二九は,明らかに個物の本性の認識について言及しているからです。というか,それが基礎となる認識だからです。
26日に出雲文化伝承館で指された第46期女流名人戦五番勝負第二局。
里見香奈女流名人の先手で谷口由紀女流三段のごきげん中飛車。①から角交換の持久戦に進み,先手の穴熊,後手の木村美濃という戦型に。
先手が歩を打って後手の桂馬を捕獲したところ。ここで☖4八銀と打っていますが,局後に後手はこの手を後悔していました。
先手は☗4五桂と跳ねて☖同桂☗同歩と交換。☖5七銀成のときにさらに☗4四歩と突きました。
ここで☖5七成銀と取れずに☖4一飛と寄っていますが,これは☖4八銀と打って先手に指させたような手順なので,これでは確かに銀を打ったのはよくなかったということになるでしょう。
先手は一旦は☗4六銀と逃げ☖5六成銀に☗4九飛と回りました。後手は☖6二金左と固めたものの☗3二角と打たれ☖3一飛☗4三角成となっては大差になりました。
戻って第1図でどう指せばよかったかというとこれも難しいのですが,桂馬と角を生かす意味では☖9五歩はあったのかもしれません。ただ成算がありそうな攻めとも思えず,すでに第1図で先手がリードしていた可能性もありそうです。
里見名人が連勝。第三局は来月11日です。
第二部定理八でいわれている個物res singularisの形相的本性essentia formalisが,理性ratioによる認識cognitioの対象となるような本性であるとしたら,この解釈が第一部定理一六にも影響を及ぼすかもしれません。
第一部定理一六では,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じるといわれています。このうち,無限に多くの仕方というのを僕は無限に多くの属性attributumと解していますから,神の本性を構成する無限に多くの属性の各々のうちに,無限に多くのものが生じると解したわけです。このとき,無限に多くのものの中には,個物も含まれなければなりません。これはそれ自体で明らかでしょう。そしてすでに示したように,その個物には現実的に存在する個物も含まれると僕はいいました。これもこの定理Propositioの文言をそのまま解すれば,当然の解釈だと思います。ですが,第二部定理八と同様に,ここでは理性による認識の対象となるようなものが無限に多く生じるといわれているのだと解釈する余地があるでしょう。とすれば,ここでいわれている無限に多くのものとは,たとえばあの人間とかこの人間といわれるような人間のことを意味しているわけではなく,一般的に人間といわれるものが生じるといわれているのかもしれません。そしてこのように考えたとしても,一般的に人間といわれるようなものがあるように,一般的に馬といわれるもの,一般的に猫といわれるものというように,一般的にXといわれ得るものは無限に多くあるでしょうから,定理自体の成立を阻むわけではありません。
さらに,こういったものが永遠の相species aeternitatisの下に認識されるわけですから,それは永遠であると解することが可能です。よってこの解釈を採用すると,第一部定理二一証明の末尾でいわれている,神の絶対的本性から各々の属性の中に生じることというのを,第一部定理一六に依拠して解したとしても,成立しているということになります。つまりこの解釈は,第一部定理一六,第一部定理二一証明,第二部定理八,そして第二部定理八系を,それぞれ矛盾なく解することができるといえます。
ただし,この解釈はこの解釈で問題を残します。たとえば秋保の説を補強するとした第五部定理二二はどうでしょう。
昨年の競輪の表彰選手は21日に発表されました。
最優秀選手賞は福島の佐藤慎太郎選手。昨年はKEIRINグランプリを優勝しましたが,ほかにFⅠを1つ勝っただけ。グランプリだけを勝った選手がMVPを獲得するのは,GⅠの優勝選手がばらけているかどうかが大きく関係するのですが,昨年はこのケースでの獲得となりました。2006年の特別敢闘選手以来の受賞でMVPは初。
優秀選手賞は3人。1人目は熊本の中川誠一郎選手。全日本選抜競輪と高松宮記念杯でGⅠを2勝。久留米での熊本記念も制覇。GⅠ2勝ですからMVPの候補でもありました。2016年の特別敢闘選手以来の2度目の受賞。
2人目は福井の脇本雄太選手。ウイナーズカップと日本選手権競輪に優勝。あまり多く走っていない中でさすがの成績を残しました。昨年に続き2年連続の優秀選手賞。
3人目は広島の松浦悠士選手。競輪祭に優勝。取手記念と富山記念も優勝しました。年間を通して出走し,最も安定した成績を残した選手といえるかもしれません。初受賞。
特別敢闘選手賞は山口の清水裕友選手。グレードレースは防府記念を優勝したのみ。ただこの選手も年間を通して安定した成績を残しました。昨年に続き2年連続の特別敢闘選手賞。
優秀新人選手賞は愛媛の松本貴治選手。ヤンググランプリを優勝。ヤンググランプリを優勝しましたので,対象選手の中で獲得賞金1位は当然。競走得点も2位でした。
ガールズ,国際賞,は当ブログで扱っていないので割愛。特別功労賞も競輪とは無関係なので割愛します。
すべての人間に共通する人間の本性natura humanaがどのような本性を意味し得るのかといえば,たとえば僕たちがほかの人間と交わることによって認識するcognoscereような,人間に共通の本性です。したがってこれは第二部定理三八とか第二部定理三九の仕方で僕たちに知られるような,共通概念notiones communesであることになります。こうした共通概念は第二部定理三七により,個物res singularisの本性essentiaを構成することはありません。人間の本性が個物の本性を構成しないというのは不自然に思われるかもしれませんが,実際にあの人間やこの人間という個別的な人間の本性を構成しているわけではないということは明白でしょう。他面からいえば,僕たちが一般に人間の本性といっているところのものは,実際には人間の本性というよりは,人間についてのある共通概念であるということができるのです。
共通概念は,理性ratioによる認識cognitioの基礎となる概念です。したがって第二部定理八でいわれている個物の形相的本性essentia formalisというのは,僕たちが理性によって認識するような個物の本性であるといい換えることもできます。この定理Propositioでいわれている個物の形相的本性というのは,第二部定理八備考の比喩が正しいのであるとすれば,個別的なものの個別の本性を意味するというわけではないからです。
一方,このように考えたからといって,そうした個物の形相的本性が,永遠aeterunusであるということが否定されるというわけではありません。むしろそれが僕たちの理性による認識の対象となるような本性であるのだとすれば,それが永遠であるということはむしろ補強されることになります。なぜなら第二部定理四四系二により,ものをある永遠の相aeternitatis specieの下に認識することが理性の本性natura Rationisに属しているからです。いい換えれば,ある事柄が理性による認識の対象となるのであれば,対象となっているそのものは永遠の相の下に認識されることが可能なものであるということになります。そして観念ideaと観念されたものideatumの秩序ordoは一致するのですから,あるものの観念が永遠の相の下に認識されるということは,観念されたそのものもまた永遠の相の下に,つまり神Deusのある属性attributumの中に,ないしはその属性の直接無限様態に含まれて,存在することになります。
いわき平記念の決勝。並びは高橋-山崎-佐藤慎太郎‐佐藤和也‐中村の北日本,小原‐山賀‐武井の南関東で鈴木は単騎。
佐藤慎太郎がスタートを取って高橋の前受け。6番手に小原,最後尾に鈴木で周回。残り3周のホームの手前から小原が上昇。山崎の外で併走。鈴木は隊列の短くなった最後尾に構えたままで1周はこのまま。残り2周のホームで誘導が退避するとそのまま高橋が発進。その後のコーナーで山崎があっさりと小原を捌いて番手を確保。前をみていた鈴木が6番手になり,山賀がスイッチして7番手。小原は最後尾の一列棒状のまま打鐘からホーム。バックに入って鈴木が発進。勢いはありましたが山崎に番手から発進されて一杯。展開有利に運んだ山崎が優勝。マークの佐藤慎太郎が4分の3車輪差で2着。佐藤和也が4分の3車身差の3着で中村も4分の3車身差の4着に続いて北日本の上位独占。
優勝した福島の山崎芳仁選手は昨年9月の西武園のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2015年9月の岐阜記念以来となる17勝目。いわき平記念は2007年,2013年,2014年と優勝していて6年ぶりの2勝目。さらに2010年に当地でのオールスター競輪の優勝もあります。このレースは高橋の先行が有力なので山崎か佐藤慎太郎の優勝になるとみていました。小原が番手戦にいったのは想定外でしたが,高橋がコーナーの手前といういいところから駆けていったので,競り合いは内が有利になり,簡単に番手を確保できました。高橋は自分のことだけを考えればもう少しペースを落としたまま進めた方がよかったわけですから,北日本の結束の末の勝利で,しかも上位独占という最高の結果が出たというところでしょう。
第二部定理八備考についてはひとつ注意しておかなければならないことがあります。
この備考Scholiumは,何らかの事柄についてそれを合理的に論証しようとしているわけではありませんし,何事かについて具体的に例証しようとしているわけでもありません。単に個物res singularisの観念ideaが神Deusの無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在するといわれる場合と,個物の観念が持続するdurareといわれる存在existentiaを含む場合を,それ自体とは何ら関係のない円と円に含まれる相互に等しい無限に多くのinfinita矩形との関係で喩えているだけで,しかもそれがすべてです。ですからこれをそのまま正確なものとして解釈することはできない可能性は,若干ではあるかもしれませんが残るのです。なぜならここでいわれていることについては,それを合理的に解釈するということはだれにもできないのであって,ただスピノザが自身のいわんとしていることを正確に喩えていると信じるほかないからです。ですがそれは信じているだけであり,それについて僕たちが確実性certitudoを有しているということにはなりません。スピノザがいわんとしていることを正確に喩えていることに成功しているとは限らず,実際には失敗しているかもしれないからです。
そのような危険性が潜んでいるとはいえ,ここではこの比喩が正確で,第二部定理八の個物の形相的本性essentia formalisは,現実的に存在する個物の本性を意味するのではなく,したがって,神の属性の中に含まれている個物の形相的本性のうちには,現実的に存在する個物の本性は含まれていないと解しておきます。ですから秋保は第二部定理八系を根拠に,個物は永遠なaeternusものであるといっているのですが,これを根拠とするのであれば,現実的に存在する個物について,それを永遠aeterunusであるという意味には解することができなくなるでしょう。
それでは,第二部定理八でいわれている個物の形相的本性とは,どのような意味での本性と解するべきなのでしょうか。それはおそらく,現実的に存在する個物の本性,たとえばあの人間とかこの人間とかいわれるような個々の現実的に存在する人間の本性ではあり得ないのですから,すべての人間に共通するような人間の本性であることになるでしょう。
タイガー・戸口は多くのインタビューで,全日本プロレス時代のことを語っています。僕のプロレスキャリアの開始以前のことで,僕が知らなかったことも多くありますので,紹介していきます。
戸口は1967年3月に日本プロレスに入団。ジャンボ・鶴田が全日本プロレスに入団したのは1972年10月。戸口はこのときも日本プロレスに残留していて,この年の暮れに,大木金太郎の協力でアメリカに武者修行に出ました。1973年に鶴田は渡米していますが,このときにはふたりは会っていません。鶴田は秋に帰国して全日本プロレスでデビュー。日本プロレスは崩壊してしまったため戸口はアメリカに残って仕事を続けました。ただこの頃の戸口はギャラも安価で苦労したようです。
戸口はその後,インディアナポリス地区でトップまで登りつめ,1975年1月からはテキサスで仕事をするようになりました、この年の2月5日にサンアントニオで興行があったとき,馬場と鶴田も渡米していて,このときに戸口と鶴田は初めて対面しました。戸口によれば,日本テレビのクルーが一緒に来ていて,馬場が来ているといわれたから控室に挨拶をしにいったそうです。つまり戸口は馬場に挨拶にいき,そこに鶴田もいたという形での初対面だったようです。ただこのときは戸口と鶴田との間で会話らしい会話はなく,戸口の第一印象は背が高いということだけだったそうです。
1973年に鶴田が渡米したのは,アマリロのファンク道場で修業をするためでした。戸口は鶴田がアマリロに来ていることや,帰国して日本でトップクラスで活躍しているということは情報としては知っていたようです。ただ,この時点での戸口には帰国する意志はなく,アメリカで仕事を続けていくつもりだったので,そういうことには関心はありませんでした。この1975年2月5日のサンアントニオ大会では,バトルロイヤルがあり,馬場,鶴田,戸口の3人は同じリングに立ったのですが,絡むどころか馬場にも鶴田にも触れることなく試合は終了したそうです。
第二部定理八系の直後に備考Scholiumがあって,スピノザは個物res singularisが神Deusの属性attributumの中に包容されている限りで存在するということと,時間的に持続するdurare限りで存在するということの相費を,円と矩形の関係で比喩的に説明しています。
それによれば,円の中には相互に等しい無限に多くのinfinita矩形が含まれています。こうした矩形は円が存在する限りにおいて存在するといわれます。同時にまた,この矩形の観念ideaは,円の観念が存在する限りで存在するといわれます。したがってこれは,個物が属性の中に包容されて存在している場合の喩えに該当します。そしてその後で,それら無限に多くの矩形のうちで,ただふたつ,というのは一組という意味ですが,一組の等しい二本の矩形だけが現実的に存在するという仮定を要請します。それに続けて,その矩形の観念について次のようにいっています。
「それらの矩形の観念もまた,単に円の観念の中に包容されている限りにおいて存在するだけでなく,さらにまたそれらの矩形の存在を含む限りにおいても存在する。そしてこれによってそれらの矩形の観念は,他の矩形の観念と区別されるのである」。
この部分が,個物が持続する限りにおいて存在する場合の比喩であることはいうまでもありません。
これを分析すると,たとえば一組の矩形,AとBという二本の等しい矩形は,現実的に存在することによってはじめてほかの等しい矩形,たとえばCとDという等しい矩形と区別されることになります。したがって,現実的に存在する矩形の形相的本性essentia formalisというのは,第二部定理八でいわれている形相的本性ではありません。なぜなら,第二部定理八系のいい方に倣えば,この矩形の観念は神の無限な観念すなわち無限知性intellectus infinitusが存在する限りにおいて存在するといわれる観念ではなく,よって第二部定理八でもいわれている神の無限な観念の中に包容されている観念ではないことになり,同じ定理Propositioにより,その矩形の形相的本性は,神の属性の中に含まれている形相的本性ではないことになるからです。
つまり,現実的に存在する個物の形相的本性が,神の属性の中に包容されているということは,ここでは含意されていないことになります。
②の直後の部分は,この楽曲の主要部分です。ただしこの部分は何度かリフレインされますので,最後に回して2番に移ります。
2番ではスパゲティを食べている彼女と,ステーキを食べている彼が,ビールを飲みながら互いに互いの不平をぶつけ合います。
電話すると周りで聞いてる
友達のいない時はいつなのって彼女は訊く
彼女が電話すると彼の家にはいつでも彼の友人がいて,ふたりの話を聞いています。彼女は彼とふたりだけで話をしたいのです。それが彼女の彼に対する不満です。もちろんこの電話は,楽曲が完成した時代背景からして,自宅の固定電話だと考えなければなりません。
電話してもいつもいない
君の休みの曜日を変えちまえよと彼は言う
彼女が電話のことで不満をぶつけてきたので,彼もまた電話に関する不満を彼女にぶつけました。そして休みの日を変えてしまえと,おそらく彼女にとっての無理難題を要求するのです。
属性attributumと直接無限様態すなわち直接無限様態という様態的変状modificatioに様態化した属性の相違は小さなものではありません。しかし第二部定理八を第二部定理七の帰結として示すとき,それを適切に解釈するためには,このような解釈をするのが最もよいと僕には思えます。そしてこのように解するのであれば,個物res singularisの形相的本性essentia formalisなり存在しない個物の観念ideaなりは,属性ないしはその属性の直接無限様態に包容されていたり含まれていたりする限りで永遠aeterunusであることになるでしょうが,実際に永遠であるということができるのは,それを含んでいるあるいは包容している属性や直接無限様態であって,個物の観念や個物の形相的本性が永遠であるといわれているわけではないという解釈も可能になるように思われます。そしてそのように解するなら,第一部定理二三と第二部定理八および第二部定理八系との間には,必ずしも矛盾が含まれているわけではないということもできることになります。
スピノザは,第一部定理二二では直接無限様態のことを,様態的変状に様態化した属性という主旨のいい方をしていますが,第一部定理二八を論証するときには定まった存在existentiaを有する有限なfinitum様態的変状に様態化した属性,もっと分かりやすくいえば個物res singularisという様態的変状に様態化した属性という主旨のいい方をしています。つまり直接無限様態や間接無限様態が生起する原因causaとしての属性と,個物が生起する原因としての属性とを,明確に分離しています。このことはその論証Demonstratioの中で,個物は属性の絶対的本性から生起することはできないし,直接無限様態という様態的変状に様態化した属性から生起することもできないと明言していることからも明らかでしょう。したがってスピノザは,基本的には個物がそれ自体で永遠であるということは否定していると解するべきです。ですから,第二部定理八系を論拠とすることによって,いかに個物が属性の中に包容されて存在しているといっても,それで直ちに個物を永遠のものとして解釈することには,いくらかの危険性が潜んでいることになります。
さらに,第二部定理八でいわれている個物の形相的本性は,現実的本性actualis essentiaをおそらく含まないのです。
日付が明記されていない書簡二が書かれた時期を想定するのに役立つ書簡三は,1661年9月27日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに出されました。遺稿集Opera Posthumaに掲載されたものです。
この書簡ではオルデンブルクは3つの質問をスピノザにしています。最初の質問は,神Deusの定義Definitioから神の存在existentiaが証明できるのはなぜかというものです。ただこのときオルデンブルクは,一般的にあるものに定義が与えられると,その定義によってそのものの存在が導出されるということと,神の定義から神の存在が導出できるということを明らかに混同しているといえます。
ふたつめの質問は,物体corpusが思惟Cogitatioによって限定されることはなく,また思惟が物体によって限定されることもないということがいえるのはなぜかというものです。
最後の質問は,『エチカ』の冒頭部分と明らかに関係性を有しています。この質問は,第一部定理一,第一部定理二,第一部定理三について,その正当性を問うているといえるからです。
オルデンブルクが『エチカ』の草稿を読んでいたということは考えられません。ただスピノザは,『エチカ』に記述したことについて,そのいくつかはオルデンブルクに明かしていたということが,このオルデンブルクの質問によって明白になります。最初の質問も第一部定義六と明らかに関係しているといえますし,ふたつめの質問も第一部定義二の内容をオルデンブルクが知っていなければ出てこないと思われるからです。ですから少なくともこの時点でのスピノザは,オルデンブルクにはこれくらいのことは伝えても問題ないであろうと考えていたことになるでしょう。
第一部定理二二では,直接無限様態のことが,様態的変状modificatioに様態化した限りでの属性attributumというように表現されています。同じようないい方は第一部定理二三ではもっと明瞭にされています。よって,ある属性の直接無限様態とは,その直接無限様態という様態的変状に様態化した限りでのある属性と解することができます。ですから,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性intellectus infinitusあるいは神Deusの無限な観念ideaとは,直接無限様態という様態的変状に様態化した限りでの思惟の属性と解することができます。あるいはある属性の個物res singularisの形相的本性essentia formalisがその属性の中に含まれているということを,実際にはその属性の直接無限様態という様態的変状に様態化したその属性の中に,その属性の個物の形相的本性が含まれていると解することもできることになります。そのように考えれば,第二部定理八でいわれていることが,第二部定理七からの帰結,すなわち観念と観念対象ideatumは秩序と連結Ordo, et connexioが同一であるということ,いい換えれば観念と観念対象は同一個体であるということからの帰結であるとしても,それほど不自然ではないということになるでしょう。
実際には,属性と直接無限様態は,同じように無限でありまた同じように永遠aeterunusであるとしても,その意味合いには大きな相違があります。すなわち属性はその本性によって無限かつ永遠であるのに対し,直接無限様態は属性の絶対的本性から発生するがゆえに無限かつ永遠である,いい換えるならその原因causaによって無限かつ永遠であるからです。この相違は無視することができない相違です。なぜなら属性は自己原因causa suiである,つまりほかのものがなくてもあることも考えるconcipereこともできるものであるのに対し,直接無限様態は自己原因ではなく外部に原因を有する結果effectusとして生起するもので,よってほかのもののうちにありほかのものによって考えられるものであるからです。この相違が無視できないということは,第一部公理一から明らかです。
さらにいうと,自然Naturaを分類化して概念するとき,属性は能産的自然Natura Naturansに該当するのに対し,直接無限様態は所産的自然Natura Naturataに該当します。これも第一部定理二九備考から,無視するわけにいかない重要な相違です。
第23回TCK女王盃。左海騎手が病気のためトーセンガーネットは的場文男騎手に変更。
サルサディオーネとクレイジーアクセルは逃げてこその馬なので,まず逃げ争いに注目していました。外のクレイジーアクセルの方が加速で優り,サルサディオーネを制してハナへ。サルサディオーネは外に切り返して2番手。2馬身差の3番手にマドラスチェック。3馬身差でミッシングリンク。あとはファッショニスタとメモリーコウが併走し,アンデスクイーン,エイシンセラード,ナムラメルシー,アルティマウェポン,トーセンガーネット,サンルイビルの順。最初の800mは49秒4のハイペース。
3コーナーを回るとクレイジーアクセル,サルサディオーネ,マドラスチェックの3頭が雁行。そのまま横並びで直線に。3頭の後ろは内からアンデスクイーン,外からメモリーコウ。直線に入るとマドラスチェックが内の2頭を振り切って先頭に。その外まで持ち出したアンデスクイーンが残り200mでマドラスチェックに並び掛けると,ここからフィニッシュまで2頭の競り合いとなり写真判定。優勝は先んじていたマドラスチェック。アンデスクイーンがハナ差で2着。この2頭の外から伸びたメモリーコウは3馬身差の3着。
優勝したマドラスチェックは重賞初勝利。昨年の関東オークスで2着になった後,古馬との2戦は共に1秒以上の大敗でしたから,ここも苦戦するのではないかと思っていました。ただ力ある馬を競り合いの末に降し,3着,4着も相応の力がある馬が入っていることから,ここにきて力をつけてきていたようです。なので今後も牝馬重賞路線では活躍することができるものと思われます。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は東京スプリント以来の重賞4勝目。第22回からの連覇でTCK女王盃2勝目。管理している斎藤誠調教師は第21回以来2年ぶりのTCK女王盃2勝目。
これは秋保の見解opinioとは無関係ですが,ことのついでなので次のことも考えておきます。ついでとはいっても,現状の考察とまったく関係しないわけでもありません。
第二部定理八は,存在しない個物res singularisの観念ideaが,個物の形相的本性essentia formalisが属性attributumの中に含まれているように,神Deusの無限な観念すなわち無限知性intellectus infinitusのうちに包容されているといっています。僕はこのいい方には,以前からある疑問を感じていたのです。
存在しない個物の形相的本性が含まれているのは属性の中です。一方でそれを観念対象ideatumとした観念は,無限知性のうちに含まれています。すなわち,前者は属性のうちに含まれているのに対して,後者は直接無限様態とはいえ様態modiのうちに含まれているとされています。
もしもこの定理Propositioが,存在しない個物の形相的本性ではあったとしても,それは観念の対象となり得るということ,いい換えれば知性はそれを認識するcognoscereことが可能であるということを主張しているのであれば,それで問題ないと思います。ですがスピノザはこのことを,ひとつ前の第二部定理七の帰結,すなわち観念の秩序と連結Ordo, et connexioが,観念対象の秩序と連結に同一であるということの帰結として主張しているのです。このことはこの定理のスピノザの証明Demonstratioが,その第二部定理七から明白であるということだけをいっているということから明白です。すると,観念の秩序と観念対象の秩序は一致しなければならないのですから,存在しない個物の観念は神の思惟の属性Cogitationis attributumに包容されて存在しているというか,そうでないなら,存在しない個物の形相的本性は,その属性の直接無限様態のうちに含まれているといわなければならないかのどちらかであるように思えるのです。実際のところ,属性に含まれているものと,直接無限様態に含まれているものの秩序が一致する,いい換えれば,属性に含まれているあるものと,直接無限様態に包容されているそのあるものの観念が同一個体であるというのは,奇妙ではないでしょうか。
このことはこれまで考察したことはありませんでしたが,僕自身はこの奇妙さに対してはある解答を与えていました。他面からいえば,以前から感じていた疑問を解消はしていたのです。
昨年のNARグランプリは15日に発表されました。競走馬部門を振り返ります。
年度代表馬はJBCスプリントとゴールドカップを勝った浦和のブルドッグボス。昨年は大レースを勝った地方馬が2頭いました。2歳戦の勝ち馬と古馬戦の勝ち馬では後者の方が高い評価の対象となるでしょうから,順当な受賞といえそうです。部門別では4歳以上最優秀牡馬と最優秀短距離馬の2部門に選出。2017年の4歳以上最優秀牡馬と最優秀短距離馬に続いての受賞。JRAに戻りました。
2歳最優秀牡馬は平和賞と全日本2歳優駿を勝ったヴァケーション。大レースを勝ったのですから当然。
2歳最優秀牝馬は北海道重賞のフルールカップとエーデルワイス賞を勝った北海道のコーラルツッキー。これも唯一の重賞勝ち馬ですので受賞自体は順当。川崎に移籍しているので南関東のクラシックを目指すのでしょうが,本質的にはスプリンターだと思われます。
3歳最優秀牡馬は北斗盃,北海優駿,王冠賞の北海道三冠と遠征した園田の楠賞を勝った北海道のリンゾウチャネル。ヒカリオーソとかウィンターフェルといった馬の方が能力は高いかもしれませんが,三冠を制したということが評価の対象となったようです。船橋に移籍していますので,少なくとも冬シーズンは南関東で走るのでしょう。
3歳最優秀牝馬はニューイヤーカップ,桜花賞,東京プリンセス賞を勝った浦和のトーセンガーネット。この馬は昨秋からJRAに転入しました。
4歳以上最優秀牝馬は門別に遠征したノースクイーンカップ,水沢に遠征したビューチフルドリーマーカップ,クイーン賞を勝った大井のクレイジーアクセル。これも重賞の勝ち馬ですから当然の受賞。
ばんえいはこのブログでは扱っていないので割愛。最優秀ターフ馬は該当なしでした。
ダートグレード競走特別賞馬は帝王賞と東京大賞典を勝ったオメガパフューム。地方競馬場での大レースの2勝馬はこの馬だけなので,能力トップとはいえないかもしれませんが選出自体は順当でしょう。
第一部定理二一証明の末尾でスピノザがいっていることと,第一部定理二三でスピノザがいっていることの間に矛盾があるとか齟齬があるとみなすことは不可能と考えるべきでしょう。したがって,神Deusの絶対的本性から属性attributumのうちに生じることについて,それが永遠aeterunusかつ無限infinitumであるか,単に永遠であるのかは不分明であるとしても,少なくとも永遠ではあるということと,必然的にnecessarioすなわち永遠に存在する様態modiは直接無限様態であるか間接無限様態であるかのどちらかであるということは,両立すると考えなければなりません。したがってこの観点からは,個物res singularisについてそれが直接無限様態であるとか間接無限様態であるというようには解しにくいですから,個物が永遠に存在するということをスピノザは否定していることになります。よって,個物は神の絶対的本性から神の属性のうちに存在するものではないと解する必要があります。なのでこの場合には,神の絶対的本性から属性のうちに生起するものを,僕がそうしたように第一部定理一六に依拠して規定するのは誤りerrorであるということになるでしょう。
しかしそうであるなら,第一部定理二三と第二部定理八や第二部定理八系とは矛盾しないのかという疑問が生じます。とくに秋保が依拠しているのは第一部定理一六ではなく第二部定理八系の方なのですから,この疑問は重要になるでしょう。
まず,第二部定理八でいわれている神の無限な観念ideaというのは,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態のことであると僕は解します。スピノザはシュラーGeorg Hermann Schullerに,事実上はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに宛てた書簡六十四の中で,思惟の属性の直接無限様態は絶対に無限な知性intellectus infinitusであるといっています。ところでスピノザの哲学において知性とは,観念の集積です。よって無限知性というのは,無限に多くのinfinita観念の集積でなければなりません。それを第二部定理八でいわれている神の無限な観念と僕は等置しているのです。このように等置することに,少なくとも一定の合理性があることは理解してもらえるものと思います。よってこの定理Propositioは,存在しない個物の観念が,思惟の属性の直接無限様態である無限知性の中に包容されていると主張していることになります。
岡田美術館で指された昨日の第46期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が9勝,谷口由紀女流三段が1勝。
振駒で谷口三段の先手。里見名人の三間飛車,谷口三段の向飛車の相振飛車。途中で飛車交換になりましたが,互いに生飛車を打ち合うという展開に。
後手が5二の金を上がった局面。先手はここまで居玉です。互いに端の位を取っていますが,これは相手の玉に近い分だけ先手の方が得といえますから,なるほどこういう指し方もありそうだと思っていました。
ここで先手は☗4九玉と居玉を解消したのですが,これが構想としてあまりよくなかったようです。☖8二王☗3八玉☖1三桂☗5七金上☖2五桂☗5五歩☖3六歩という手順で後手の攻めを誘発してしまい,また逃げ出さざるを得なくなりました。
先手の☗5五歩は☖同角なら☗6六金という狙いであったと思われます。ならばばらばらで怖い形ではありますが,第1図からすぐに6六の歩を除去しにいくのがよかったのではないでしょうか。
里見名人が先勝。第二局は26日です。
ここまでは秋保の説を補強することができる要素を『エチカ』の中から抽出してきました。しかし逆に,この説には弱みもあると僕は考えていますので,ここからはそちらについて説明していきます。
第一部定理二三は,必然的にnecessarioかつ無限に存在する様態modusは,直接無限様態であるか間接無限様態であるかのどちらかであるといっています。スピノザは必然という語をいくつかの意味に使い分けますが,この定理Propositioの冒頭で必然的necessariusといわれているとき,それは永遠aeterunusという意味でなければならないと僕は考えます。これはこの定理が,第一部定理二一と第一部定理二二を受けて主張されているという,定理の配置の意図からして明らかだと思います。先行するふたつの定理は,前者が直接無限様態は無限infinitumかつ永遠であり,後者は間接無限様態が無限かつ永遠であるということをいっているからです。したがって第一部定理二三でスピノザがいわんとしているのは,永遠かつ無限に存在する様態は,直接無限様態と間接無限様態のふたつであって,それ以外のすべての様態はそうではないということだと解せます。
当然ながら個物res singularisは直接無限様態でも間接無限様態でもありませんから,永遠かつ無限に存在する様態ではないということが,第一部定理二三ではいわれていることになるでしょう。これは秋保説の明らかな弱みであると僕は考えます。この定理でいわれていることと秋保説を両立させるためには,第一部定理二三が否定しているのは個物が永遠であり同時に無限であるということであり,秋保説は個物が無限であるということは否定した上で永遠であるということを肯定していると解することですが,第一部定理二三が,永遠であることと無限であることを別々にはいっていないと解釈できるとは限りません。というよりそうでないように思えます。永遠で無限な様態は直接無限様態か間接無限様態であると解するなら,それ以外の様態は,無限ではないけれども永遠ではあり得るというだけでなく,永遠ではないけれども無限ではあり得るという解釈も可能になる筈で,第一部定理二三の文言からそのような解釈を採用することは,僕には妥当であるとは考えられないのです。
大宮記念の決勝。並びは佐藤‐守沢の北日本,平原‐木暮の関東,岩本‐岡村の南関東,小川‐岩津の四国中国で村上は単騎。
守沢がスタートを取って佐藤の前受け。3番手に岩本,5番手に平原,7番手に小川,最後尾に村上で周回。残り2周のバックから小川が動き,続いた村上と3人で佐藤を叩いて打鐘。小川がペースを上げなかったので平原が動き,小川の前に。これを叩きにいったのが岩本。残り1周のホームで平原を抑えて先行。岩本が駆けるまでスローペースだったため,3番手に平原,5番手に小川,7番手に村上,8番手に佐藤という一列棒状がバックまで続きました。岡村は最終コーナーから岩本との車間を開けて後方を窺い,直後の平原が動いてきたところで踏み込みました。直線は岡村と平原のマッチレースになりましたが,外から捻じ伏せた平原が優勝。岡村が半車輪差で2着。小川の後ろから一旦はインを突き,フィニッシュ前で平原と木暮の間に進路を取った岩津が4分の3車身差で3着。捌かれた木暮が4分の1車輪差の4着で逃げた岩本が4分の1車輪差で5着。
優勝した埼玉の平原康多選手は8月の西武園記念以来の優勝で記念競輪21勝目。大宮記念は2008年,2010年,2011年,2013年,2015年,2017年と優勝していて3年ぶりの7勝目。脚力は落ちているのですが,それを位置取りの巧みさでカバーしているというのが僕の最近の印象。ここはそれでも脚力で最上位。いいところで前に出て,岩本の先行を誘うという巧みなレース運びで優勝をもぎ取りました。以前であればもっと楽に勝てる展開だった筈だと思うので,もっと上のレベルでの争いになったときはもうあまり過大に評価しない方がいいのではないかという気もします。
スピノザによる第五部定理二二証明は,まず第一部定理二五に訴求しています。岩波文庫版は旧版も新版も,神Deusは人間の身体humanum corpusの存在existentiaの原因causaであるばかりでなく本質essentiaでもあるとなっています。これは本質の原因でもある,でなければなりません。このことは訴求されている第一部定理二五の記述から明白です。よってこれは訳者の畠中のミスであるか,落丁です。
第一部定理二五というのは,一般にものの起成原因causa efficiensとものの本性essentiaの原因は神であるということをいっています。したがって,第五部定理二二というのは現実的に存在する個々の人間の身体について言及しているのですが,証明Demonstratioの内容からすればこのことは別に人間の身体についてだけ成立するというわけではなく,現実的に存在する各々の個物res singularisについてすべからく妥当することになります。つまり,現実的に存在する各々の身体の本性を永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神の中にあるだけでなく,現実的に存在するすべての個物の本性を表現する観念が神の中にあるのでなければなりません。そこでまずこのことから,個物の観念は永遠でなければならないことが分かります。そして,第二部定理七によれば,観念の秩序ordoと観念の対象ideatumの秩序は一致します。よって個物の観念が永遠であるなら,その観念の対象となっている個物もまた永遠であるといわれなければなりません。よって第五部定理二二からも,個物は無限infinitumではないにしても永遠ではあるという秋保の説を,補強することができます。
さらに,秋保が脚注の中で原理的に依拠しているのは第二部定理八系でしたが,このブログでは第一部定理一六を,神の絶対的本性から生起するものが何かということの原理としました。これを重視するなら,第二部定理三を援用することもできます。この定理Propositioは,神の本性および神の本性から必然的にnecessario生起するものの観念が神のうちにあるといっています。この神の本性から必然的に生起するものというのを,ここでは神の絶対的本性から生起するものと解しているわけです。よってそうした観念は神のうちにあるのですから,永遠であることにあります。ゆえにその観念の対象も,同じ理由によって永遠であることになるでしょう。
『ドストエフスキイその生涯と作品』で,埴谷が『悪霊』のキリーロフに注目するとき,その理由のひとつはキリーロフが癲癇の発作を起こすという点にありました。埴谷がキリーロフに注目するのにはもうひとつの理由があって,これはキリーロフが自殺をする点と関連します。『悪霊』というのは表向きだったかもしれないドストエフスキーの転向と大きく関連する小説であり,そのために登場人物の多くは死ななければならない運命に執筆の当初からありました。その中には自殺をする人物も含まれていて,キリーロフはそのひとりです。ですから単に自殺をするというだけでは何ら注目するに値しません。埴谷がとくにキリーロフの自殺に着目しているのは,キリーロフが自殺へと至るキリーロフ自身の考え方に,ある種の感慨をもっているからです。
キリーロフにとって,人神と神人の相違は重要でした。人類を救うのは神人ではなくて人神であったのです。これはキリーロフがスタヴローギンに言ったことですが,このときキリーロフは神人ということでキリストを意味させていたと亀山はみています。会話の流れからはそう受け取るべきです。なぜならキリーロフは自信が無神論者であるということ,キリストを信じていないということには自覚的であったからです。
では人神とはどういう存在であったのでしょうか。キリーロフは,死に対する苦痛と恐怖を克服した人間は自らが神になるという思想を抱いていました。それがいわばキリーロフの人神思想であったわけです。そして埴谷が着目するのはこの点です。そしてキリーロフはこの思想のゆえに自殺に至るのです。つまりキリーロフにとって自殺をするということは,死の苦痛と恐怖を克服し,自らが人神となる行為だったのです。
埴谷はキリーロフのこの思想のゆえに,『悪霊』の中でとくにキリーロフに焦点をあてました。ですが僕には,キリーロフの思想はきわめて凡庸にみえるのです。
末尾の部分が,証明Demonstratioの全体と関係するのか,それとも秋保がいうように,直接無限様態が永遠aeterunusであるということにだけ関係するのかということは不明です、ですから,この点に関する秋保の見解opinioが正しいのかどうかも不明であるとしておきます。ただ不明であるというのは,正しくないかもしれないけれど,正しいかもしれないということです。そこでまずはそれが正しいとして,探求を続けていくことにします。
神Deusの絶対的本性から神の属性attributumの中に生じることが何であるのかということは,ここでは第一部定理一六を参照して結論づけました。したがって,無限に多くのinfinita各々の属性のうちに無限に多くのものが生起するということがその意味になります。ところで,無限に多くのもののうちには個物res singularisも含まれます。もっといえば現実的に存在する個物も含まれるということになります。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。したがって,秋保の見解が正しいとするなら,個物は無限infinitumではないにせよ永遠のうちに存在するということでなければなりません。実際に秋保はそういう見解を示しているのですが,その見解の正当性を考えていきます。
第一部定理一六を援用したのはこのブログでのことであり,秋保はその部分については言及していません。これは前にもいった通りです。秋保が示しているのは第二部定理八系です。この系Corollariumでは,個物が神の属性の中に包容されている限りで存在するということが認められています。したがって,たとえば神の絶対的本性によってある物体corpusが生起するとして,その物体は延長の属性Extensionis attributumの中に包容されている限りで存在するということになるでしょう。そして属性は永遠に存在するのですから,属性に包容される限りでのその物体は永遠に存在することになるでしょう。確かにこのように考える限り,物体は無限ではないにしても永遠に存在するということが正当化できますし,もっと一般化して,個物は無限ではなくても永遠であるということを正当化できることになるでしょう。
さらにこのことは,第五部定理二二を参照しても正当化できるように思えます。ここでは現実的に存在する個々の人間の身体humanum corpusについて言及されています。
スピノザがオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てた書簡二十六は,オルデンブルクからの書簡二十五の返信です。これは1665年4月28日付でロンドンから出されたもの。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
まず冒頭で,スピノザがオルデンブルクのことを忘れてはいないということをピーテル・セラリウスPetrus Serrariusからの手紙で知ったと書いています。セラリウスとオルデンブルクが知己であったことがここからも分かります。そして文通がしばらく途絶えていたのは,オルデンブルクの用務の集積と家庭の不幸にあったと書かれています。ただ,スピノザのことについてはロバート・ボイルRobert Boyleと語り合っていたといっています。このあたりは社交上の挨拶と解してよいでしょう。
この後,ボイルの最近の仕事について書かれていて,これがこの書簡の主文を構成しています。それらの論文はイギリスでは英語版とラテン語版の両方で出版されていました。ただこの時期,具体的にいうとこの年の1月から,イギリスとオランダは戦争状態に突入したため,それらをスピノザに送る術がないという主旨のことが書かれています。さらに,おそらくボイルの助手であったと思われるロバート・フックRobert Hookeの,顕微鏡に関する注目すべき論文も出版されたと付け加えられています。スピノザはこの件に関しては返信には何も書いていませんが,ボイルの論文よりもこの顕微鏡の論文の方がスピノザには興味深く感じられたという可能性はありそうです。
最後に,スピノザが最近は何をしているのかを手紙に書いて送ってほしいと依頼しています。書簡二十六はその依頼に応じたものだといえそうです。
神Deusの絶対的本性から属性attributumの中に生起するものが何であるかということは,暫定的に無限に多くのinfinitaものであると解しておきます。基本的に,このような解釈は秋保の解釈と一致します。ただし秋保が参照しているのは,第一部定理一六とは別の箇所です。それにはある理由があります。それは証明の末尾の部分が,その証明Demonstratioのその前の部分のどこと関係しているのかということについての秋保の見解opinioと関係します。ですから,それを無限に多くのものと解してよいのかということの前に,末尾の部分が証明全体のどこと関係するのかを考えておきます。
考えられるのはふたつです。ひとつは,直接無限様態が無限infinitumであるということと,直接無限様態が永遠aeterunusであるということです。この場合,末尾でいわれている神の絶対的本性から属性の中に必然的にnecessario生起するものは,無限かつ永遠であるということになります。もうひとつは,直接無限様態は永遠であるということとだけ関係するという解釈です。証明の全体はまず直接無限様態が無限であるということを論証した後に,直接無限様態が永遠であるということが論証され,そして末尾に当該部分がありますから,当該部分は証明の前半とは関係せず,後半とだけ関係するという解釈も可能です。そしてこのように解釈した場合は,神の絶対的本性から属性の中に必然的に生起するものは永遠であるということになります。もう少し正確にいうと,無限ではないとしても永遠ではあるということになります。
秋保の解釈は後者です。つまり秋保は,第二の証明の末尾の部分がいっているのは,神の絶対的本性から属性の中に必然的に生じるものは,無限ではないけれども永遠ではあると解しているのです。この解釈の妥当性についていえば,僕には不明です。上述したように,この部分は直接無限様態が永遠であるということが証明された直後に記されているとはいえ,改行はされていますから,論証の全体と関連するのだという解釈が明らかに可能であるからです。そして秋保は,なぜこの部分が論証の後半とだけ関係するといえるのかということについては,それが証明の末尾にあるということ以外に何も示していないのです。