スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

銀河戦&マント

2016-09-30 19:06:04 | 将棋
 27日に放映された第24回銀河戦の決勝。対局日は8月20日。対戦成績は藤井猛九段が4勝,広瀬章人八段が3勝。
 藤井九段の振り歩先で広瀬八段の先手。先手が誘導する形で四間飛車藤井システム。先手が角交換を受け入れる代わりに穴熊に組みました。
                                     
 第1図はそこまでの手順こそ違えど今期のEブロック8回戦で藤井九段が斎藤慎太郎六段を相手に指した将棋と同一局面。その将棋は△1三香▲5六角△8五桂と進んで後手が勝ちましたが,藤井九段はその進展には不満があったらしくすぐに△8五桂と跳ねました。
 広瀬八段もその将棋をベースにしていて,手が変わったところで大長考。▲5六角と打って似た将棋に。
 6七の金にヒモをつけた手ですが△4九角。先手はこのままでは角が動けないので▲6五歩△同歩と突き捨ててから▲4八飛と寄りました。ここから△2七角成▲4五桂△4四銀までは一本道だったと思います。そこで先手は▲6五角と取りました。桂取りですので△2二飛。先手も桂取りが残っているので▲4六銀。後手は△9六歩▲同歩と突き捨てました。
                                     
 ここでは△3六馬と歩を補充しておくのが最善でしたが後手は△9七歩と叩いていきました。やり過ぎとはいっても持ち時間の短い将棋ではこういう手が功を奏するのも往々にしてあります。
 これを▲同香は取られて6四に打たれますので▲同桂はこの一手。△同桂成▲同香でまた△8五桂と打ちました。
                                     
 香車を取られることは避けられず,取られれば6四に打たれますので,それを避けつつ攻めも含みに▲6六桂と打ちましたが,これが敗着に。黙って▲5六角と引いておけば後手もそうそう手段はなく,激戦が続きました。ただ,▲5六角のような手は相手に手を渡すので持ち時間の短い将棋では指し切れない面があります。ですから第1図は早指し戦ならば後手の方が勝ちやすい局面ということなのではないでしょうか。
 藤井九段が銀河戦初優勝。棋戦優勝は2005年の第26回将棋日本シリーズ以来の8回目。銀河戦最年長優勝となりました。

 あっぱれという声が上がった後,ディオニスが改心を表明すると,群衆から王様万歳という歓声が上がります。そして群衆の中にいたと思しき少女が,メロスに緋色のマントを捧げます。メロスは戸惑うのですが,そこでセリヌンティウスが,メロスが全裸であり,全裸のメロスを群衆に見られるのがこの少女にとっては悔しいことなのだと教えます。そしてメロスが赤面して物語は終わります。これはメロスと少女のその後を予感させるプロットであり,物語の結末としては相応しいものになっているといえるでしょう。
 このプロットはセリヌンティウスの方がメロスよりも他人の心情をよく理解できると解釈することもできますが,僕の読解は異なります。メロスは夢中だったから自分が全裸であることにさえ気付いていなかったということを強調しているというのが僕の解釈です。ですからたとえばセリヌンティウスの方がメロスよりも場の状況を客観的にみていたというようにも考えません。メロスの愚かしいほどの純真さがここにも表現されているだけだと解します。
 セリヌンティウスはすでに磔にされていたので,全裸にされていたとしてもおかしくはありません。ただ,セリヌンティウスがメロスにそれを教えるときのいい方からすれば,セリヌンティウスは何かを着せられていたと解する方が妥当だと思いますので,全裸だったのはメロスだけであったと解釈します。
 少女がなぜこのときにマントを持っていたのかはよく分かりません。それでも時代背景として,それ自体は不思議なことではなかったとしておきましょう。全裸だったのはメロスだけだったのですから,このときにもしも少女がだれかにマントを捧げるとすれば,それはメロス以外になかったでしょう。少女が本当にセリヌンティウスが口にしたような思いを有していたかは不明ですが,マントを捧げるという行動自体が,メロスに対する好意を意味しているということは疑い得ません。
 あっぱれという声と同様に,ここでもメロスに対してのみ第三者が何らかの行為をなしたことになっています。状況だけでいえば不自然ではありませんが,テクスト解釈には影響を与える筈です。
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日本テレビ盃&あっぱれ

2016-09-29 19:22:26 | 地方競馬
 昨晩の第63回日本テレビ盃
 どちらかといえばスピードタイプと思われるモーニンがハナへ。これをアウォーディーがぴったりとマークしていく形。3番手は内のタイムズアローと外のアンコイルド。1馬身差の5番手にスリータイタン。さらに1馬身差でウォースピリッツ。その後ろはインにサウンドトゥルーで外にハッピースプリントという隊列。最初の800mは49秒5のスローペース。
 3コーナーを回ると前の2頭が後ろとの差を離していって,ここからは2頭のマッチレース。直線に入って一旦は外のアウォーディーがクビほど前に出たように思いますがそこからモーニンがまた巻き返し,フィニッシュに向けて猛烈な競り合い。フィニッシュのところでは見た目にも外のアウォーディーが前に出ていて優勝。アタマ差の2着にモーニン。3コーナーを回ってから外に出して追撃を開始したサウンドトゥルーが5馬身差の3着。
 優勝したアウォーディーはここが4月のアンタレスステークス以来の実戦。昨年9月からダートを使い始めて5連勝。重賞も4連勝としました。実績的には4番手でしたが,これはまだ経験が少ないため。能力は最上位と考えていたので,最有力候補と思っていました。たぶん距離はもっと伸びた方がいいと思いますので,出走権利を得たJBCクラシックに進むなら有力候補でしょう。父はジャングルポケット。母はヘヴンリーロマンス。祖母がファーストアクト。半妹に昨年のエンプレス杯,ブリーダーズゴールドカップ,名古屋グランプリ,今年のエンプレス杯,ブリーダーズゴールドカップを勝っている現役のアムールブリエ。半弟に今年のUAEダービーを勝っている現役のラニ。Awardeeは受賞者。
                                     
 騎乗した武豊騎手は第46回,50回,53回,58回,60回を勝っていて3年ぶりの日本テレビ盃6勝目。管理している松永幹夫調教師は日本テレビ盃初勝利。

 メロスが刑場に戻ったとき,セリヌンティウスは処刑寸前でした。セリヌンティウスはすでに磔にされていたのですが,メロスは吊り上げられていくセリヌンティウスの足にしがみついたのです。
 このとき,刑場には多くの群衆が集まっていました。メロスがセリヌンティウスの足にしがみつくとその群衆からどよめきが起こり,あっぱれ,許せという声があちらこちらから沸き上がります。そしてセリヌンティウスの縄が解かれることになるのです。
 ここに集まっていた群衆は,ディオニスが支配する市の民衆であるとみるのが妥当です。すでにみたように,ディオニスを恐れる感情は市民に共有されていたと考えられますから,このプロットは解釈上は微妙なところもあります。そんなことを口にすればディオニスに睨まれることになり,かえって自身の身を危険に晒しかねなかったと考えられるからです。ですがそれに関しては,ディオニスにとってそうであったように群衆にとってもメロスが戻ってくることは驚きだったので,自身の危険などは忘れて思わずそういう声を上げてしまったというように解することにします。これでみれば実は市民もメロスが裏切ることの方を予期していたことになり,メロスが帰ってくると信じていたのはセリヌンティウスだけであったということになるでしょう。
 テクストをこう解釈する限り,ここであっぱれと称えられているのはメロスであることになります。信じて待ったセリヌンティウスが称えられていると解するのには無理があるからです。同様に,許せという声が発せられる理由も,メロスが戻ったのだから許せという意味にしか解せません。セリヌンティウスが信じて待ったのだから許せという声であったことはあり得ませんし,そもそもメロスが戻らなければ許せという声は上がらなかったことでしょう。
 メロスがあっぱれならセリヌンティウスもあっぱれでなければならないと僕は考えます。ただ,セリヌンティウスが人質になることを受諾したときは,群衆はいませんでしたから,あっぱれという声の上がりようはないです。つまり第三者があっぱれと言える場面が,ここだけに限定されているのです。
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王位戦&ディオニスの希望

2016-09-28 19:41:50 | 将棋
 一昨日,昨日と鶴巻温泉で指された第57期王位戦七番勝負第七局。
 振駒で羽生善治王位が先手となり木村一基八段の横歩取り。後手が1筋の位を取り,先手は8八に銀を上がる将棋になりました。
                                     
 ここから後手が仕掛けます。その手順は△1六歩▲同歩△7五歩▲同歩△8五飛。ここからは後手がよい形で7五の歩を取れるかどうかが焦点。
 ▲2五飛と受けるのはこの一手。後手は△7六歩と打って角を交換してくるように要求しましたが先手は▲5五角の一時停車。ここで△7五飛はそこで▲3三角成とされて困ります。
 後手は△同角と取って▲同飛。先手は7七に上がった角をまた5五に上がったので交換すること自体は手損にはなっていません。△6四角が目につきますが▲3五飛で切り返されます。したがって△3三桂は必要な一手。ですが▲5六飛と逃げられました。ここで△7五飛だと今度は▲8六角と打たれます。
 △6四角はそれを避けつつ香取り。▲3七桂に△2五桂と跳ねて好調のようですが▲4五桂の跳ね違い。後手は△6二金と受けたのですが,手順からいってここで△1九角成と取れないのはおかしく,この局面は先手の方がいいのだろうと思います。
 ▲4六歩と角成りを受けたところで△7五飛と取ることはできましたが,これはよい形で取ったとはいえず,先手は▲2六歩と催促しました。
                                     
 実戦のようにここで△4五飛と切らなければいけないのではさすがに後手が苦しいでしょう。先手はこの後やや攻め急ぎすぎたように思いますが,逆転には至りませんでした。
                                     
 4勝3敗で羽生王位の防衛。第34期,35期,36期,37期,38期,39期,40期,41期,42期,45期,46期,47期,52期,53期,54期,55期,56期と獲得しているので6連覇で通算18期目の王位獲得です。

 『走れメロス』に第三者的視点を適用する場合の難点を説明する前に,ディオニスに関して次のこともいっておきます。
 他人を簡単に信じてはいけないという戒めを有することで暴君になったディオニスが,メロスが処刑されると分かっていながらセリヌンティウスとの約束を守って,つまりセリヌンティウスからの信頼に応えて帰ってきただけで容易に改心してしまうのは,人によっては不自然であると感じられるかもしれません。けれど僕はその点に関してはそれほど不自然であるとは思っていません。なぜなら,ディオニスは何らかの論理的理由によって他人を信用しなくなったわけでなく,他人から裏切られた経験によって信用しなくなっただけであるからです。
 実際にはディオニスは他人を信用していなかったのですが,人間というものが信頼できる存在であってほしいという願望は有していたのです。『カラマーゾフの兄弟』ではイワンは神は存在しないということを半ば確信していながら,平和のイメージも具体的な形で有していました。つまりイワンは無神論者であった,神は存在しないと思っているという意味で無神論者ではあったのですが,神が存在してほしいという願望は有していたといえます。ちょうどこれと同じように,ディオニスは人間は簡単に他人を裏切るものであって,だから信用してはいけないものであるとは思っていたのですが,同時に人間は信用に足る存在であってほしい,あるいは信頼することができる人間が存在してほしいという願望は有していたのです。哲学的にいうとこれは不安と希望は表裏一体であるから,希望spesがないような不安metusは存在しないし,不安が皆無である希望も存在しないという意味なのであって,現実的に存在するひとりの人間の精神状態としては少しも矛盾するものではありません。人が他人を裏切るとか,人を信用してはいけないというのは,ディオニスが一般的に人をみるときの,人に対する不安です。それが意識化されているのですから,希望も確かに存在したのです。ただそれは意識化されていなかっただけです。そしてその希望が達成されたから,ディオニスはあっさりと改心することになったのです。
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国際自転車トラック競技支援競輪&ディオニス目線

2016-09-27 19:01:03 | 競輪
 被災地支援競輪として玉野競輪場で実施された,初めて外国人選手も参加する記念競輪扱いの国際競技の支援競輪の決勝。並びは渡辺‐伏見‐和田の北日本,原田‐岩津の四国中国,ブフリ‐パーキンスの外国勢に北津留で武田は単騎。
 前受けしたのは渡辺。4番手に武田,5番手に原田,7番手にブフリの周回。打鐘前のバックまでこの隊列のまま経過し,打鐘後のコーナーからブフリが発進。ホームから1コーナーにかけて渡辺と先行争いになりましたが,バックでブフリが前に。北津留は離れてしまったのでパーキンスの後ろに伏見がスイッチ。直線に入ると番手のパーキンスがブフリを差して優勝。途中からマークになった伏見もブフリは捕えて半車身差で2着。ブフリが半車身差の3着に粘り,伏見マークの和田が半車輪差まで迫って4着。
 優勝したオーストラリアのシェーン・パーキンス選手は記念すべき外国人選手による初のグレードレース制覇。過去に何度も来日していて競輪での強さは分かっていましたし,この開催も昨日まで3連勝。よほど展開が悪くならない限りはブフリが粘るかパーキンスが差すかの優勝争いになるだろうと思っていました。スプリント能力は高い渡辺が前受けから突っ張っての先行争いになったため,ブフリの消耗は激しく,その分だけパーキンスと伏見に味方したということでしょう。展開がばらけないでスムーズなものになると,純粋な脚力勝負になりやすく,その場合には外国人選手の方が優位に立てるのではないかと思います。

 ディオニスが過去に経験をしたであろうことを考慮すれば,メロスがセリヌンティウスを人質にすることを提案したとき,ディオニスがメロスではなくセリヌンティウスの方を処刑してやろうと思い立ったことも合理的に説明できます。なぜなら,簡単に他人のことを信用してはいけないというディオニス自身の戒めが正しいということを実証することに繋がるからです。さらにその戒めによってディオニスは暴君になったのですから,自分が暴君であることを民衆に弁明するよい機会となり得たであろうからです。
                                     
 『走れメロス』のテクストはこれに則して展開していき,最後にメロスが帰ってくるという事実でそれが覆されるという結末を迎えます。僕が本当の意味で作為を感じるのはその点です。つまり,ディオニスがセリヌンティウスが人質になることを受け入れるときには何も触発されず,メロスが帰ったときには大きく触発されるという不自然さのうちにも作為がないとはいえないと思うのですが,テクスト全体が,ディオニスが暴君として抱いている一般的な人間観から始まって,その人間観が覆されて終焉するという展開になっているという点にこそ作為を感じるのです。なぜなら,このディオニスの人間観が人間観そのものの中心であるなら,メロスもセリヌンティウスも,その人自身としてのメロスあるいはセリヌンティウスとして記述されているのではなく,ディオニスの視点からみられたメロスおよびセリヌンティウスとして記述されていることになるからです。そしてテクストの構成がそのようになっているので,読者もまたメロスとセリヌンティウスを,ディオニスという暴君の視線を通して評価してしまうのです。だからセリヌンティウスに対して無感動であったディオニスのように,実際の動機としてはメロス以上に英雄的行為をしていると思えるセリヌンティウスの行いが過少に評価されてしまうようになるのです。
 実際には読者はディオニスではないのですから,テクストに則してメロスとセリヌンティウスを理解する必要はありません。第三者的目線でそれを評価してもよいのです。ですがその面でも難点があると僕は思っています。
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ザ・グレート・カブキ&ディオニスの過去

2016-09-26 19:41:39 | NOAH
 『全日本プロレス超人伝説』の第9章はザ・グレート・カブキです。
                                     
 カブキというレスラーが誕生したのは1980年1月。これは僕のプロレスキャリアが始まる前。テキサスでのことでした。当時のテキサスのプロモーターはフリッツ・フォン・エリック。超獣がベビーフェイスとして戦っていて,そのライバルとして指名され,ペインティングを施したカブキが誕生しました。ブロディの全日本復帰にはカブキも尽力したそうですが,ふたりが知り合ったのはこの頃だったということになります。
 渡米する前は日本プロレスでのみ試合をしていて,全日本プロレスに初登場したのは1983年2月。日本ではカブキではありませんでしたから,これがカブキの日本初登場だったことになります。日本陣営ではありましたが,外国人選手の初来日に近い形だったことになります。その後もアメリカと日本で掛け持ちのような形でしたが,全日本に定着。コーチ役も兼ね,田上明を主に指導したのはカブキだったようです。天龍源一郎が退社した後,ジャンボ・鶴田とのコンビで世界タッグも獲得しましたが,1990年7月には辞表を提出。SWSに移籍しました。
 ペインティングをしたり毒霧を吹いたりと,ヴィジュアル面では派手でしたが,レスリングそのものは地味だったと思います。基本的にトラースキックとアッパーカットを主軸に試合を組み立て,そう多くの大技を出すことはありませんでした。そういった自身のスタイルも関係していたのかもしれませんが,若い選手が派手な技の応酬を繰り広げることには肯定的ではなかったようです。三沢が若手時代に指導にあたったのは佐藤昭雄で,佐藤もレスリングは派手ではありませんでしたが,三沢が飛び技を使ったりすることを肯定的に評価していました。もしその時代にすでにカブキが指導を担当していたら,日本のプロレスの歴史が変わっていた可能性もありそうです。

 セリヌンティウスが躊躇いなく人質になることを決断したことがディオニスの改心の動機にならず,帰って来れば処刑されると分かっていたメロスが逃げずに帰ってきたことはディオニスの改心の動機となり得たのは,おそらく次のような事情からです。
 セリヌンティウスは,人が他人のことを簡単に裏切るものであるという人間観を有していました。しかし同時に,人は他人のことを容易に信じるものであるという人間観も有していたのです。論理的にはこのふたつは両立しないので,プロットの構成として不自然であると考えることはできるのですが,ディオニスの精神のうちではこのふたつが両立し得たのです。なぜならディオニスはこの相反する人間観を論理的に導き出したわけでなく,経験から,それも自身の経験から導き出したからです。すなわちかつてディオニスは他人のことを簡単に信じ,その信頼のゆえに痛い目に遭ったことがあるのです。たぶん1度のことでなく,何度か経験していたのだろうと僕は推測します。そのゆえに,人は容易に他人を裏切るのだから,簡単に信用してはいけないということを自身への戒めとしていたのです。これならば,人間が容易に他人を信じるという人間観と,信頼された当の人間が相手のことを容易に裏切るという人間観は両立し得るでしょう。かつてディオニスは容易に他人を信じる人間であり,かつその信頼を裏切られた経験も有しているからです。こうした経緯でディオニスは暴君へと変貌したのでした。
 このために,『走れメロス』のテクストのうちには,具体的にではなくてもディオニスの過去を暗示するプロットの挿入が必須になりました。それが捕えられたメロスとディオニスの間での会話となったのです。メロスとセリヌンティウスがどういう関係であるかは説明不要ですが,ディオニスの過去はいくらかの説明が必要であったということです。
 ディオニスはメロスの提案を受けたとき,セリヌンティウスは容易にメロスを信頼するだろうと思いました。だからそれには疑問を呈しません。そしてメロスはセリヌンティウスを裏切るだろうと思ったのです。これでこれらのプロットは解釈可能です。
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印象的な将棋⑫-3&改心への触発

2016-09-25 19:25:16 | ポカと妙手etc
 ⑫-2の第2図は角が逃げる一手。観ていたときは僕は▲4六角と上がるのではないかと思っていたのですが,先手は▲3九角と引きました。
                                     
 4六と3九以外に6八と4八もあるので四択。そのうち3九は最もなさそうに思えたので意外でした。ですがもしかしたら先手はこの後の後手の指し方を牽制しようとしていたのかもしれません。
 後手は△1五歩と突き,▲同歩△同香で香車の交換を迫りました。これに対してはすぐに▲同香と取らず,▲1六歩△同香▲同香△1五歩と進めるのが部分的な定跡。これなら先手は一時的に香車を得することができますし,後手が香車を取り返す間にも好きな手を指す余裕が得られるからです。
 ですが先手は角を3九に引いたのを生かす指し方に出ました。それが▲1六歩△同香のときに▲同香と取らず▲1七歩とまた打つ手です。
                                     
 第1図は前に後手が6筋で歩を交換したために先手が一歩を持っています。さらに後手が桂馬を跳ねたのに乗じて先手が3九に角を引いていたため,部分的にこの手が成立しました。もちろん△1七同香成には▲同香ではなく▲同角と取り,完全に香車を得してしまおうという狙いです。これが成立するなら,先手が後手の動きをうまく咎めたことになるでしょう。

 ディオニスが暴君になったのは,他人を信じることができなくなったからでした。他面からいえば,人間はほかの人間のことを簡単に裏切ると確信するようになったからです。ですから自分が間に合わなければ処刑を永遠に免れ得るということを知っているメロスが,セリヌンティウスを躊躇なく裏切るであろうと思ったのは自然です。そして,それに反してメロスが帰ってきたとき,そのメロスの行為に触発されて改心するのも理解できなくはありません。
 このときディオニスは,メロスに対して特有の観想をしたのではありません。メロスとディオニスが会ったのもこのときが初めてであったからです。つまりディオニスは一般的に人間を信じることはできず,なぜなら人間は裏切る存在であるからだと思い込んでいたと解さなければなりません。その一般的な人間観を,ディオニスはメロスに対して適用したのです。
 ところがそのディオニスが,メロスが帰って来なければ自分が処刑されるという条件の下にセリヌンティウスが人質になることに同意することについては,無条件に前提しているのです。これはそれ自体で不自然であると考えることもできます。なぜならディオニス自身が抱いていたような人間観をセリヌンティウスも共有していたと仮定すれば,セリヌンティウスもその人間観をメロスに対して適用するのですから,セリヌンティウスは人質となることを拒否するでしょう。つまりディオニスは,メロスに対しては適用したような人間観をセリヌンティウスには適用しなかった,厳密にいえば,自分の人間観はセリヌンティウスの人間観には適用できないと無条件で信じていたのです。ディオニスはセリヌンティウスのことを知らなかったのですから,これを無条件に信じたのは明らかに不自然だといえなくありません。
 もしもディオニスがこのことに気付いていたら,メロスが提案した時点で,そのような条件の下に人質になるような人間が存在する筈はないと思ったでしょうし,そのようにメロスに対して言ったことでしょう。そしてセリヌンティウスが躊躇いなく人質になったとき,すぐに改心へと触発されていたとしてもおかしくありません。
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ロゴージンの愛&暗黙の前提

2016-09-24 19:14:18 | 歌・小説
 亀山郁夫模倣の欲望という概念を用いることによって,『白痴』におけるロゴージンの謎と僕が感じていたことを説明する仕方は,そう難しくありません。要するにロゴージンはムイシュキン公爵のナスターシャへの愛,その愛し方まで含めた意味での愛を模倣したのです。ムイシュキンはどうやら性的不能者であったようなので,性的魅力によってナスターシャを愛するということは不可能でした。だからロゴージンもそれと同じように,性的魅力を前面に出さないような仕方でナスターシャを愛することになったのです。僕はロシアのキリスト教に詳しいわけではありませんから,ロゴージンと去勢派の関係がどのようなものであったかはまったく分かりませんが,このような説明であれば,なぜロゴージンが性的な面ではムイシュキンと対立的に描かれなかったのかは理解できます。
                                     
 『こころ』ではおそらく先生はKへの感情の模倣affectum imitatioを生じ,神聖な恋という,どちらかといえばKに相応しいような仕方でお嬢さんのことを愛したのです。それと同じことが,ムイシュキンとロゴージンの間にも発生していたことになります。僕は『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフとKの間に近似性をみて,またスメルジャコフとムイシュキンの間にも近似性をみました。そしてここにはロゴージンと先生の間にある近似性があったことをみるのです。
 『白痴』の第一編16で,ナスターシャがロゴージンの持ってきた10万ルーブルという大金の入った包みを火の燃えた暖炉の中に放り投げてしまうという場面があります。実際には大金は燃えてしまうことはないのですが,このことによってロゴージンは,自分がムイシュキンとは違って金持ちであるということによって,ナスターシャから愛されるということはないということが分かったというように読解することができます。それならどうすればナスターシャからの愛を得ることができるのかとロゴージンが考えたとき,ムイシュキンのナスターシャへの愛を模倣すればよいと思ったとしておかしくありません。なので模倣の要望が僕にとって謎を解く鍵となり得たのです。

 『走れメロス』のプロットの構成に作為があると僕が感じる理由は,プロットの一部分に明らかに不自然なところがあるからです。
 捕えられたメロスは処刑までに3日の猶予を得るため,その間にセリヌンティウスを人質にすることを,相手の同意も得ぬままディオニスに提案します。このときディオニスは,メロスは戻っては来ないだろうと確信し,メロスに騙されたふりをして身代わりのセリヌンティウスを処刑してやろうと企み,その提案に同意するのです。このプロットはディオニスの目線からは,その直後に,もしメロスが間に合わなければセリヌンティウスは処刑するけれどもメロスのことは永遠に許してやると伝えるプロットへと接続していきます。
 これでみると,セリヌンティウスが人質になることに同意するということを,メロスもディオニスも暗黙の前提としていることが分かります。このゆえに,動機という観点からは実はセリヌンティウスはメロス以上になし難いことをしている筈なのに,テクストからはそのことが表面的には消えてしまいます。他面からいえば読者もまたセリヌンティウスが人質になることは当然であるという印象をもつようになっているのです。
 メロスはおそらくセリヌンティウスが自分に対して全面的な信頼を置いていることを理解していました。だから自分が詳しい事情を話したなら,セリヌンティウスが人質となってくれるであろうことは前提できたと思います。実際にセリヌンティウスは躊躇なく人質になったのであり,メロスのセリヌンティウス観は正しかったというのが,すでに述べたように僕の解釈です。なのでメロスのしたことはひどいとは思いますが,この前提については僕は何も問題だとは考えません。
 しかしディオニスの場合には違います。ディオニスはメロスがセリヌンティウスの名前を出した後で,その身代わりを城に呼んで来いと命令します。固有名詞を出さないこの命令の仕方から,ディオニスはセリヌンティウスを知らなかったと想定できます。つまりセリヌンティウスがどんな性格の人間であるかを知らなかっただけでなく,一度も会ったことのない人物であったと思われるのです。
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書簡三十四&動機

2016-09-23 19:07:49 | 哲学
 第一部定理八備考二でスピノザが示した定義Definitioの条件を含め,そこで示されていることとほぼ同じ内容が含まれている,スピノザがフッデJohann Huddeに宛てた書簡三十四を詳しく紹介しておきます。
                                     
 この書簡はフッデの質問に答えたもの。質問の内容は,神Deusの本性natura,essentiaに必然的存在が含まれていること,すなわち神が自己原因causa suiであるということを根拠として,神が「唯一」であるということがいかにして帰結するのかというものです。つまりスピノザはかつて神の本性に存在が含まれれば神は「唯一」であるということを,口頭か書簡かは不明ですがフッデに伝えたことがあり,しかしフッデはその論理的連結が分からなかったということになります。
 スピノザは証明の条件として,事物の定義が定義される事物の本性だけを含むことをまず示します。そのゆえに,定義が定義される事物の数量を含むことはないことが帰結するとしています。
 次に,ある事物が存在するためにはそれが存在する原因が必要であるという条件を示します。これは『エチカ』では第一部公理三に該当します。そしてその原因は,定義される事物の外部にあるか内部にあるかのどちらかであるとします。これは第一部公理二に該当するといえます。
 ここから,本性を同じくする多数のものが存在するなら,そのものが存在する原因は外部にあることが分かります。なぜなら,事物の定義には定義される事物の数量は含まれないので,もし20のXが存在するなら,20のXが存在する原因が必要で,しかしそれがXの本性すなわち内部に存在することができないからです。
 このことから,あるものが「唯一」でないなら,そのものの存在がそのものの本性に含まれることが不可能だと分かります。しかし神の本性には神の必然的存在が含まれてます。したがって神は外部に原因を有しませんから,複数の神が存在することはあり得ません。したがって神は「唯一」であるということが,単に神が自己原因であるということから帰結するのです。同様の手続きで,第一部定理七から第一部定理五が帰結することになります。

 メロスが自分が処刑されると分かっていながら帰還した動機は,セリヌンティウスを人質にしたこと,つまりセリヌンティウスが自分の身代わりに処刑されることを回避するためであったといえますが,そもそもその契機を作ってしまったのは自分なのですから,その分だけ余計に戻らなければならないという気持ちを強くさせたと思われます。要するに単にセリヌンティウスを助けるということだけが動機になったのではなく,自分自身で作ってしまった状況に対して,その責任を果たさなければならないということも動機になった筈です。
 これに対してセリヌンティウスは,その状況だけでいえばメロスに巻き込まれたにすぎません。それでも人質になることを迷わずに受諾した動機は,メロスに対する愛と信頼だけであったといえます。したがって単に各々の動機だけを比べてみたならば,メロスよりセリヌンティウスの方がよほどなし難いことをなしているように僕には思えます。メロスが帰らなければならない程の強い動機は,セリヌンティウスが人質になる動機には存在しないからです。
 僕が『走れメロス』のプロットの構成に難があると思うのは,その点が表面に出てこないようになっているからです。もしも戦闘に勝利した者だけを英雄というのであればメロスだけが英雄であり,ただ待っていただけのセリヌンティウスは英雄などではありません。しかしもしもなした行為の動機によってだれが英雄であるかが判断されるのだとしたら,メロスが英雄であることを僕は否定しませんが,セリヌンティウスも英雄であって,むしろメロス以上の英雄であると思うのです。ところがテクストが示しているのは,英雄というのをどのような意味に解したとしても,メロスだけが英雄であってセリヌンティウスはそうではないということなのです。実際にこの小説をあまり考えることなく通読すれば,そのような印象を受けるのが自然であると思います。これこそ各々のプロットの構成の産物なのであって,そこには作為的なものを僕は感じてしまいます。それはたぶんこの小説のモチーフがそうなっていたのであって,太宰治に作為があったのではないのでしょうが。
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農林水産大臣賞典東京盃&セリヌンティウス

2016-09-22 19:24:31 | 地方競馬
 第50回東京盃。アメージングタクトが筋肉の溶解を起こす病気で競走除外となって14頭。
 発馬がよかったのはゴーディーでしたが内からコーリンベリーが交わしていくとさらに内からダノンレジェンドも並び掛けていき,この2頭が並んで逃げるレースに。控えたゴーディーが半馬身差で3番手。さらに半馬身差の外にルックスザットキルが続いて4頭が先行集団。1馬身差でプラチナグロース,半馬身差でノボバカラ,1馬身差でロイヤルクレストとなりこの3頭が好位。2馬身離れた中団はメイショウパーシー,サトノタイガー,ミヤジエルビスの3頭。1馬身差でコウギョウダグラスとドリームバレンチノ。さらに1馬身差でキクノストーム。メジャーアスリートは置かれました。前半の600mは34秒1で超ハイペースといえるでしょう。
 3コーナーを回ると前の2頭が後ろとの差を一時的に広げました。ここで内に潜り込んだプラチナグロースが3番手。ゴーディーは苦しくなってその外にルックスザットキル。直線は最内に進路を取ったプラチナグロース,ダノンレジェンド,コーリンベリーの3頭が並んでの競り合い。ここからダノンレジェンドは脱落。しかし大外に進路を取ったドリームバレンチノが競り合う2頭を鮮やかに交わすと2馬身差をつけて優勝。2頭の競り合いはフィニッシュ直前まで続き,最後はねじ伏せるようにコーリンベリーが出て2着を確保。アタマ差の3着にプラチナグロース。馬場の中ほどを猛然と追い込んだキクノストームがクビ差まで迫って4着。
 優勝したドリームバレンチノは一昨年のJBCスプリント以来の勝利で重賞5勝目。そのレースを勝ったことで斤量を背負わされるようになり,勝ち星からは遠ざかっていましたが,入着は多くあり,極端な能力の低下があったわけではありません。今日は展開が向いたというのはありましたが,9歳馬が58キロを背負ってこの距離で2馬身も突き抜けたのですから,立派だったといってあげていいでしょう。勝つかどうかは別に,あまり人気にはならないタイプなので,この路線のレースでは馬券の対象からは外さない方がいい馬だと思います。母は2004年の小倉2歳ステークスを勝ったコスモヴァレンチ。その父がマイネルラヴ。Valentinoはイタリア語でバレンタイン。
 騎乗した岩田康誠騎手と管理している加用正調教師のコンビは第40回以来10年ぶりの東京盃2勝目。

 メロスは自分がセリヌンティウスによって全面的に肯定されていることは知っていたと思われます。そうでないとセリヌンティウスの同意を得ないまま,猶予期間の人質にセリヌンティウスがなるという提案をディオニスにすることはできなかったと思われるからです。それ自体はひどいことだと僕は思いますが,事情を話せばセリヌンティウスがこの条件を受け入れるということは,自分が約束通りに戻ってくるということと同じ程度にメロスは確信できていたのでしょう。実際にセリヌンティウスは何も言わずに人質となることを受け入れたのですから,メロスのセリヌンティウス観は正しかったというべきでしょう。
                                     
 このときセリヌンティウスが人質になるということを受け入れたのはなぜかということが,おそらくセリヌンティウスの物語の中心になります。状況的にいえばメロスはそのまま逃げてしまうことができました。つまり実際に生命の危険に晒されるのは,メロスよりもセリヌンティウスであったのです。しかしメロスの親友であったセリヌンティウスは,メロスが必ず戻ってくるということ,少なくともそのために最大限の努力をするということは分かっていました。そのメロスに対する信頼が,セリヌンティウスが人質になることを受け入れる理由であったのは確かでしょう。ですが,それだけであったとは僕には思えません。
 セリヌンティウスがメロスを親友のひとりに選別したのは,メロスの正義に対する愚直なまでの純真さであって,たぶんそこに畏敬の念を抱いていたのです。だからメロスから事情を聞かされたセリヌンティウスは,メロスがなした行為について,大して驚くことはなく,むしろメロスであればいかにもやりそうなことだと感じられたのではないかと思います。そしてセリヌンティウスはそういうメロスのことを肯定していたのですから,メロスが戻ってくるという信頼があるかないか以前の問題として,ただそれだけの理由で人質になることを受け入れたと考えることができます。要するにセリヌンティウスが人質になった動機は,単にメロスへの信頼だけではなく,メロスに対する自身の愛のゆえでもあったと僕は思います。
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王座戦&親友

2016-09-21 19:22:55 | 将棋
 京都で指された昨日の第64期王座戦五番勝負第二局。
 糸谷哲郎八段の先手で羽生善治王座の四間飛車藤井システム。先手が急戦を含みに穴熊を断念したので,後手も急戦には出ませんでした。難解な中盤が長く続くコクのある将棋に。
                                     
 先手が歩を取り込んで後手が4四から角を逃げた局面。ここから▲6五歩△同歩▲7七角と上がりました。これは狙い筋のひとつ。後手の△1二飛は仕方ないところ。
 そこで▲2二歩と打っておけばおそらく先手が有望で,局面自体は先手の方が少しよかったのかもしれません。しかし▲3三歩成としました。ただこれも大きな手のように思えます。
 後手は△6四角と出て▲3四とに△3七歩成▲2九飛△3八と▲5九飛と飛車を追って△4七歩と垂らしました。これが飛車の詰めろなので後手はまだ銀を取れず▲5八飛。以下▲4八歩成△6八飛まで必然の手順で進んだといえそうです。
 ここで△4六銀と出れば銀損は回避できそうですが▲4四歩と伸ばされたときに困るということで△1五飛で歩を入手し▲4四歩に△4二歩と受けました。
                                     
 この局面では先手は銀を取れますが,と金が2枚あり,後手の飛車は働く見込みが出てきたのに先手の飛車はその見込みがないので,釣り合いがとれているようです。そこで後手もすぐには取らず▲5五歩△同歩と角道を遮断して▲4三歩成△同歩▲4四歩とと金を作ることを目指しました。後手は△同銀と自ら捨て▲同と△同歩。先手もこれは読み筋だったようで▲4六銀。次に▲1六歩△同飛▲5五銀が狙いで後手は相手の打ちたいところに打てと△1六歩ですが,桂取りではあるものの局面だけでいえばただ受けただけともいえ,これは凄い手だと思いました。
 後手は▲5三歩と叩いて△同角に▲5五銀。5筋の歩を取られた後手は△5八歩。
                                     
 これは確実だけどスピード感のない手。先手玉の方が固く手番も先手なのでこの垂らしもすごい手だったと思います。しかしここでも均衡がとれていたよう。この後,先手の方に小さなミスがあって後手の勝ちに。△1六歩と△5八歩の2手がとくに印象的な将棋でした。
 羽生王座が連勝。第三局は来月4日です。

 メロスには多くの友人はなく,友人といえる存在は同時に親友といえる存在になり得ました。メロスからみてセリヌンティウスが親友のひとりとなり得たのは,おそらくメロスがそうしたであろう些細な不正に対する糾弾さえ,セリヌンティウスにとって不要であったからでしょう。これを合理的に説明できる理由はふたつあります。ひとつはメロスからみたときのセリヌンティウスが,元から些細な不正さえも犯さない人間であったという場合です。もうひとつは,かつてセリヌンティウスはメロスに対して何らかの不正を行ったことがあるけれども,メロスに指摘されたセリヌンティウスはメロスの指摘が正しいと認め,反省することによってそうした不正を行わない人間になった場合です。どちらであるか確定できませんが,どちらの場合であれ,セリヌンティウスはメロスが嫌うような不正を行う人間ではなかったということ,最低でもメロスからみたときのセリヌンティウスはそういう人間であったことは間違いないでしょう。
 セリヌンティウスにはたぶん多くの友人がいました。その中の何人かがセリヌンティウスにとっての親友であったと思われます。セリヌンティウスが多くの中の友人から何人かの親友を選別するときには,おそらく選ばれる人間にセリヌンティウスからみたときに好ましいと思えるような強力な個性があったからでしょう。セリヌンティウスに親友というべき人物がどれほどいたかはまったく分かりません。ただメロスは間違いなくそのひとりでした。そのときにメロスが選ばれた理由というのは,メロスが正義を愛し不正を憎む愚直さを有していたからだと僕は思います。僕の考えではそのゆえにメロスにはそう多くの友人は存在しなかったのですが,セリヌンティウスにとってはむしろその点がメロスの魅力になったのだと思います。この場合にも考え方はふたつあります。それはメロスの愚かさをセリヌンティウスも心底では共有していたという場合です。もうひとつは自分はそこまで愚直にはなれないという一種の畏敬の念をメロスに対して感じたからです。確かなのはセリヌンティウスが愚直なメロスを全面的に肯定していたことです。
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共同通信社杯&セリヌンティウスの友人

2016-09-20 18:57:56 | 競輪
 被災地支援競輪として富山競輪場で実施された昨日の第32回共同通信社杯の決勝。並びは新田‐守沢の北日本,平原‐神山‐佐藤の関東,竹内‐浅井‐西村の中部で園田は単騎。
 守沢がスタートを決めて新田が前受け。3番手に平原,6番手に竹内,最後尾に園田で周回。残り3周のバックから竹内が上昇。平原も合わせて動き,浅井の後ろを狙う動きに出ました。あっさりと平原が奪い,西村は浮いて後退したので,先頭に竹内,3番手に平原,佐藤の後ろに園田,7番手に新田,最後尾に西村という一列棒状で打鐘前のバックを通過。このまま残り1周のバックまで進みました。やや車間を開けていた平原がここから発進。浅井が牽制すると平原が落車。乗り上げた佐藤も落車。うまく避けた神山はインを進みコーナーで浅井から竹内の番手を奪取。しかし直線で詰め寄ることはできず,逃げ切った竹内の優勝。1車身半差の2着に神山。落車のときに離れながらも神山を追った園田が半車身差で3着。
 優勝した岐阜の竹内雄作選手は2013年の優秀新人選手賞を受賞していますが,グレードレースはこれが初勝利。このレースは平原や新田が先行するとは考えにくく,先行1車のようなメンバー構成。なので浅井のガードの仕方次第では優勝という可能性もあるのではないかとみていました。そのガードがアクシデントという形になってしまいましたので複雑なところはありますが,わりと早い段階で前に出て,スピードをさほど緩めることなく走行して逃げ切ったのですから評価する必要があると思います。記念競輪であればいつ勝ってもおかしくない力がある選手でしょう。

 メロスは妹の結婚式の準備のためにセリヌンティウスが住む市に行き,そこで市を支配しているディオニスが暴君であることを初めて知ります。メロスがそれを知るのは市に住む老人に教えられたからです。メロスはこの老人の前に,若者にもこの地で何が起きているか尋ねていますが,その若者は口を噤んで教えません。老人の方も本当は言いたくないという気持ちをもっていることがテクストから分かります。なのでディオニスが暴君であり,その暴君を恐れているということはほぼ市民に共通の心情であったといえます。そしてセリヌンティウスもその市民のひとりなので,当然その思いを共有していたことでしょう。
                                     
 ある人を恐れるという思いとその人を憎むという思いは同時に生じると僕は考えます。なぜなら,ある人に対する恐怖metusを僕はその人を原因とした不安とみなしますが,これは第三部諸感情の定義一三により悲しみtristitiaの一種です。そしてこの場合はこの悲しみを齎す原因として特定の人間が意識されているのですから,第三部諸感情の定義七によりこれはその人に対する憎しみodiumであるからです。つまりセリヌンティウスをはじめこの暴君の支配する市の民衆は,ディオニスを憎むという点でも共通の感情affectusを有していたと僕は考えます。
 メロスもその憎しみを共有しました。ですがセリヌンティウスはメロスがしたようにディオニスを暗殺しようとは企てなかったと推定できますし,仮に精神のうちにはそういう心情があったとしても,それを実行には移しませんでした。こういうタイプの人間は別に友人としておいて厄介ではありません。少なくともメロスがそうと推測されるように,身近な人間の小さな不正を糾弾するようなことはしないであろうからです。
 メロスは城に帰還する直前に,フィロストラトスと一緒に走ります。これは石工であるセリヌンティウスの弟子です。弟子ですから友人というのとは違うでしょうが,単に師匠としてセリヌンティウスの技術を慕っているというより,人間としてセリヌンティウスに好意を抱いているのは間違いありません。このプロットからも,セリヌンティウスにはそれなりの数の友人がいたと思われます。
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農林水産大臣賞典レディスプレリュード&メロスの友人

2016-09-19 19:25:29 | 地方競馬
 第13回レディスプレリュード
 逃げたい馬が2頭いてどちらが先手を奪うかが焦点のひとつでしたが,発馬のよかったトーコーヴィーナスの方がハナへ。ブルーチッパーは2番手に控えましたが,行きたがっている様子でした。3番手は内にディアマルコで外にララベル。この後ろも2頭で内がホワイトフーガで外にタイニーダンサー。さらに内のフォローハートと外のサンソヴールも並んで続き,タマノブリュネットが単独でその後ろ。最初の800mは50秒5で,どうも今日は走りにくい馬場だったようでこれでもミドルペースです。
 3コーナーを回るとブルーチッパーがトーコーヴィーナスに並び掛けていき,外から追ったのがララベル。ホワイトフーガは内に控えてこれらの後ろ。直線に入るとブルーチッパーの方が一杯に。ホワイトフーガは最内に進路を取ってトーコーヴィーナスを追いましたが,見た目の手応えほどの伸び脚はなし。その間にコーナーで徐々に外に出したタマノブリュネットが伸びて優勝。粘るトーコーヴィーナスにホワイトフーガが並び掛けたところがフィニッシュ。長い写真判定の末,2頭が1馬身半差で2着同着になりました。
 優勝したタマノブリュネットはこれが重賞初勝利。牝馬重賞でも善戦どまりだったので,今日のメンバーで勝つところまでいくとは思っていませんでした。前走の1000万条件はそのクラスでは強豪の牡馬を相手に勝っていましたので,力をつけたと考えることもできないではないですが,1分54秒8というタイムは異常と思えるくらい遅いです。2着同着の兵庫のトーコーヴィーナスはブルーチッパーやララベルに接近する能力はあると思いますが伏兵は伏兵で,そういう馬が2着になれるタイムだったとみることもできるので,今後のレースをみてみないと確たる評価はできないのではないでしょうか。父はディープスカイ。祖母の半妹に2001年のオークスを勝ったレディパステル。Brunetteはフランス語で濃い栗毛。
 騎乗した田辺裕信騎手と管理している高柳瑞樹調教師はレディスプレリュード初勝利。

 『走れメロス』はメロスがディオニスへの義憤にかられるところから始まり,そのディオニスが改心して終わります。テクストはそのほとんどがその間の出来事の記述です。物語終了後のことは何も書かれてなく,物語開始以前のこととして確実に分かるのは,ひとつはメロスがディオニスが暴君であることを知ることになる市民との会話の部分で,ディオニスが確実に何人もの人を処刑しているということであり,捕えられたメロスがディオニスと会話する部分で,ディオニスが暴君となったのは人のことを信じられないからであり,そして人のことを信じられなくなったのにはディオニスにはディオニスなりの理由があったということです。したがってメロスとセリヌンティウスの過去については何も分かりません。いわばふたりが親友であるということは,無条件の前提のようなものになっています。しかし人と人とが親友になるのには,何らかの経緯があったと考えるのが合理的でしょう。
                                     
 僕には,メロスにそう多くの友人があったというようには思えません。なぜなら,メロスのように正義を愛し不正を憎む心を持ち合わせていて,王の暗殺のために城に入っていくというくらいの愚かな純真さがある人間は,友人とするには厄介ではないかと感じられるからです。実際にメロスのような人間は,近しい人間の些細な不正もそれを糺そうという意欲を持ち,実際にそれを言動として表現すると考えるのが合理的だと思えます。しかし人は大抵はメロスが不正とみなすであろうことを完全に防いで生活することは不可能だと僕には思えます。なのでたぶんメロスにはそう多くの友人がいたわけではなく,数少ない友人はメロスにとってかけがえのない存在であったと僕は考えます。いい換えればそのすべてが親友という表現に相応しい存在であったと考えるのです。実際にセリヌンティウス以外にそういう存在があったかどうかは分かりません。もしかしたらセリヌンティウスだけがメロスにとっての友人であり,かつ親友であったという可能性も排除することはできないと思います。
 一方,セリヌンティウスにはそれなりの数の友人が存在したであろうと僕は考えます。
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試合までの過程&待てセリヌンティウス

2016-09-18 19:18:20 | NOAH
 『1964年のジャイアント馬場』の柳澤の解釈として僕が問題視するのは,試合内容の解釈というより,その試合の決着のつけ方に関する馬場のアドバイスにあります。これをみるためにはなぜその試合が組まれたかを復習しておく必要があります。
                                   
 1990年4月23日に天龍源一郎が全日本を離脱。次のスーパーパワーシリーズの開幕戦が5月14日の東京都体育館でした。そしてこの日にタイガー・マスクと川田利明が組み,谷津嘉章サムソン・冬木組と対戦。谷津の雑感⑤にあるように,試合中に谷津がタイガーのマスクに手を掛け,最終的に指示されたパートナーの川田がタイガーのマスクを外しました。素顔の三沢光晴に戻ったのです。
 これは最終的に馬場が決定したことだと僕は考えています。天龍の離脱でジャンボ・鶴田と戦う日本人のライバルが不在になりました。そういう選手が必要とされたために,三沢に白羽の矢が立ったということであったと考えます。この流れでシリーズの最終戦,6月8日の日本武道館大会で組まれたのが三沢と鶴田のシングルマッチでした。
 この時点では三沢には鶴田と伍していくための実績というものが決定的に欠けていました。体格差も大きかったので,ファンも三沢が天龍に代わって鶴田のライバルとなり得るのかという点に関しては半信半疑であった,あるいは無理と考えるファンの方が多かったとしてもおかしくありません。ですから三沢が天龍に代わり得る存在であるということを示すためには,この試合では三沢が勝つのが望ましかったことになります。そしてそれは会社として望ましいということですから,経営者としての馬場にとってもそうなった方がよいと思えたのも確かだと僕は思います。実際に試合は三沢が勝つわけですが,三沢が勝つことを最終的に決定したのも,やはり馬場であった筈だと僕は考えます。
 基本的に柳澤もこの流れで解釈していると思います。つまり試合が組まれる過程とその結果の決定については,僕は柳澤の解釈に同意できます。

 人質となったセリヌンティウスはただ城内でメロスが帰ってくるのを待っていただけです。それに対してメロスはかなりの距離を短期間で往復し,かつ暴君ディオニスの差し金であった山賊との戦闘にも勝利した上で期限ぎりぎりで城に帰ってきました。だからこれを物語にするときに『走れメロス』という標題の下にメロスの物語として記述するというのは僕には理解できます。ですがただ待っているだけだったとはいえ,セリヌンティウスもひとりの人間ですから,ただメロスが帰る動機となる道具として現実的に存在しているというものではありません。いわんやディオニスが改心するための道具にすぎないわけでもないのです。
 このことは,『走れメロス』を,ディオニスが改心する物語として読んでみれば明白であるでしょう。ディオニスの改心の動機となっているのは,もしも期限に間に合わなければ処刑を免れることができたメロス,したがって意図的にそのようにすることもできた筈のメロスが,セリヌンティウスが処刑されるのを防ぐために帰ってきたことでした。だからメロスがこの物語においてディオニスの改心のためのひとつの道具にすぎないということはあり得ないでしょう。それと同じように,セリヌンティウスもメロスが帰ってくるときの動機の道具にすぎないわけではない筈なのです。同様にディオニスが改心するときの道具のひとつ,実際のテクストはその道具のひとつにもなっていないように記述されているともいえますが,そういう道具のひとつではないのです。メロスにはメロスに,そしてディオニスにはディオニスに固有の物語があるように,セリヌンティウスにはセリヌンティウスの物語があるのでなければなりません。『走れメロス』に倣っていうならば,『待てセリヌンティウス』という別個の物語がある筈です。ですがそれはテクストの表面には出現していません。そこで『走れメロス』のテクストと齟齬を来さないような仕方で,セリヌンティウスの物語がどういったものであるか考えてみましょう。これを考えることによって,実際の物語のプロットの構成に難があると僕が感じる理由も明らかにすることができると思います。
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海と宝石②&メロス

2016-09-17 19:04:35 | 歌・小説
 海と宝石①の続きの部分の歌詞は次のようになっています。
                                     

     だから 愛してくれますか
     私の頬が 染まるまで
     だから 愛してくれますか
     季節を染める風よりも 甘やかに
     でも もしもあなたが 困るなら
     海にでも 聴かせる話だけど


 このフレーズは2番にも出てきます。同じようなことを僕は感じるので,まとめての説明だと思ってください。
 この部分が女の独白であることは,最初に聴いたときから僕には分かっていました。だから①の最初の部分をそれとは違って解釈したことを,今の僕は不思議に感じるのです。そしてこの独白からするとおそらく女が独白している時点は季節の変わり目なのでしょう。夏から秋への移行期であるように僕には感じられます。それでいえば秋風が季節を染め上げるより甘やかに私の頬を染めてほしいという願いを叶えてくれますかと尋ねたいのだけれども,そんなことを言えば相手は困るだろうから海に向かって独白しているのだと思われます。
 ですからその意味は判然としています。ただ分からないのはこの部分の冒頭の「だから」がどこから出てくるのかということです。
 論理的にいうとふたつ考えられます。歌詞をテクストと見た場合,その直前,すなわち女の独白を聞いたカモメが振り返り,身につけている宝石を見たから,愛してくれますか,です。女の独白だけ抽出するなら,抱き締めてほしいし温めてほしいから,愛してくれますか,です。前者は意味が通じません。後者も前者ほどではないけれど僕には意味が分かりません。というのは,女は愛してくれますかと尋ねているのであって,愛してくださいとお願いしているのではないからです。だからと続けるなら,お願いでなければ不自然で,疑問形は妙に感じられるのです。
 たぶん女の精神のうちには「だから」という接続詞を用いることができる確たる根拠があるのです。でも僕にはそれが何かが分からないのです。

 メロスが暴君への義憤にかられるのはいいでしょう。だからディオニスを生かしておいてはいけないと思い暗殺しようとするのは短絡的だといえますが,このような表象の推移は時代背景に影響を受けるでしょうから,僕はこの点も問題視しません。
 暗殺を決行するためにメロスが短刀を懐にのこのこと城に出掛けてあっさりと警吏に捕えられるのは,その行為としては愚かといわざるを得ないでしょう。ただこのプロットが実際に意味したいのは,メロスという人間が愚かしいほど正義を愛する純粋さをもっているということだと僕は解します。たぶんその愚かさは小説全体の中で重要な意味をもつと僕は考えますから,ここまでのプロットは僕にも納得はできます。
 しかし捕えられたメロスが処刑までの猶予を得るために,いくら親友であるからといって相手の同意もないままにセリヌンティウスを猶予期間の人質にすることをディオニスに提案するのは,いくらなんでもひどいだろうと僕は思うのです。メロスは自身が帰ってくることを当然の前提としているのでこのような提案をすることが可能になったわけですが,ディオニスが暴君であるということをメロスはこの時点で知っているのですから,ディオニスがセリヌンティウスを危機に晒す可能性があることくらいは分かっていなければなりません。さらに状況からすれば,メロスは処刑を免れるために逃げてしまうことも可能なのですから,これは親友を売ったというように解されかねません。たとえメロスが戻ることを当然と考えていても,これはあまりに自己中心的すぎると僕は思います。
 ですがこの自己中心性も物語全体の中では必要な要素ではあります。それは身勝手な約束をしてしまったメロスが,たとえどんな困難があろうとも猶予の期間内に城へ帰ることの動機になっているからです。そしてこの動機がまた物語全体の肝になるのです。ディオニスが改心するのは,処刑を免れることができたメロスが,親友の処刑を回避するために城に帰ってくるということが理由になっているからです。
 これでみれば分かるように,セリヌンティウスはこの小説の中では一種の道具にすぎないのです。
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第三部定理二七系一&走れメロス

2016-09-16 19:09:50 | 哲学
 第三部諸感情の定義一九の好意と第三部諸感情の定義二〇の憤慨は,僕たちが普通にそれらのことばを用いるときの意味とはやや異なって定義されています。そのことを踏まえた上で,『エチカ』でいわれる意味でのこれらの感情affectusがいかにして僕たちの精神のうちに発生するのかを示しているのが第三部定理二七系一です。
 「その人に対して我々が何の感情もいだいていないようなある人が,我々と同類のものを喜びに刺激することを我々が表象するならば,我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反してその人がそうしたものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば,我々はその人に対して憎しみに刺激されるであろう」。
 この系の論証の礎は一般的な感情の模倣affectum imitatioを示した第三部定理二七です。もっともその定理の系なのですからこれは当然でしょう。僕たちは同類が喜ぶと喜び,同類が悲しむと悲しむという傾向を有します。したがって同類を喜ばせるものは自分を喜ばせる原因となります。なのでそれまではそれに対して何の感情を抱いていなくても,自分を喜ばせる外部の原因と認識されれば第三部諸感情の定義六によりそのものを愛するようになるでしょう。このような愛amorの一種が好意といわれているのです。したがって好意の定義でいわれている親切をなした人というのは,同類を喜ばせた人という意味であることになります。
 悲しみtristitiaの場合も同様で,同類を悲しませるものは自分を悲しませる原因と認識されるので,その認識が第三部諸感情の定義七によりそのものに対する憎しみodiumであることになります。そしてこういう憎しみの一種が『エチカ』では憤慨といわれるのです。よって憤慨の定義でいわれている害悪を加えた人というのは,同類を悲しませた人という意味になります。
 この系から分かるように,僕たちはごく容易にあるものを愛したり憎んだりするようになっています。現実世界に愛と憎しみが満ち溢れている理由をこの系は示しているといえるでしょう。

 妹が主役を演じた『走れメロス』は太宰治の短編小説で,とても分かりやすい物語です。
                                     
 メロスは暴君ディオニスを暗殺しようと城に行きますがあっさりと捕えられ,処刑を宣告されます。しかし妹に結結婚式をあげさせたかったメロスは処刑まで3日の猶予を願い出て,期限までに自分が戻らなければ身代わりに処刑されるという約束で親友のセリヌンティウスを人質に差し出します。ディオニスは意地の悪い王で,もしも期限までにメロスが帰らなければ,セリヌンティウスは処刑するけれどもメロスの罪は許すとメロスに約束し,メロスを送り出します。王の望みはメロスが戻らずにセリヌンティウスの方を処刑することにあったので,山賊を利用して帰ろうとするメロスを邪魔するのですが,期限ぎりぎりでメロスは帰還。改心した王はメロスもセリヌンティウスも許すというのがそのストーリーです。
 たぶんにはこの程度の知識はあったと思います。だからイエスの生誕劇よりもこちらの方がよくできていたと感じることができたのではないかと僕は推測します。舞台の上で行われていることだけを観たら何が行われているのかが分からなくても,ある程度のストーリーというものを知っているならば,そこで何が行われているのかを推定することは可能だからです。そういう意味ではこうしたものを劇として演じるのはよいことかもしれません。
 この小説は中学校のときの国語の教科書に掲載されていたと思うのですが,授業の教材としては扱われませんでした。だから僕はそのときには読んでいなかったのではないかと思います。きちんと読んだのは早くとも高校生になってからで,あるいは大学に進学した後であったかもしれません。読んだ時点でそうでしたし現在もそうなのですが,僕はこの小説には大きな疑問を抱いています。これは太宰の純粋な創作ではなく,ギリシアのダーモンとフィジアスという古い伝説がまずあり,その伝説をモチーフとした詩をシラーが書いて,太宰はその詩をまたモチーフにこの小説を書いたということなので,勝手に筋書きを変えることは憚られたのだとは思いますが,プロット全体の構成がよくないと僕には思えるのです。
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