スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理二七の意味&ドゥサンティ

2020-03-31 19:07:26 | 哲学
 僕たちにとってどういった人間が羨望の対象となりやすいのかということを考えるときには,羨望が感情の模倣imitatio affectuumの一種として生じるということを踏まえておく必要があります。
                                   
 第三部定理二七は,感情の模倣が生じるシステムを一般的な仕方で説明しています。そしてここでは同類similisという語句が使われていますが,この同類というのは実は様ざまな意味を含み得るのです。
 この定理Propositioが一般的に感情の模倣を説明し得るのは,人間は人間である限りにおいて同類であるからです。したがって人間は,自分とは別の人間が何らかの感情に刺激されているのを表象すれば,それと同じ感情に刺激されるafficiことになるのです。とりわけこの定理は,その人間に対して何の感情も抱いていないということを前提としていますが,おそらくそこで念頭に置かれている感情は愛amorおよび憎しみodiumであると解するのが適切であると考えられます。というのは,人間はある人間を愛していたり憎んでいたりする場合は,感情の模倣のあり方が変わってくるからです。これは第三部定理二一第三部定理二三から明らかです。愛しているなら感情の模倣は強化される場合がありますし,憎んでいるなら感情の模倣が生じないケースもあるのです。
 一方,同類というのは,必ずしも僕たちにとって,単に同じ人間だけを意味するわけではありません。僕たちは愛している人間を愛しているがゆえに同類とみなす場合があるからです。そしてその場合には,単に同じ人間として同類として意識されるよりも強い同類意識をもつことになります。そしてその場合には感情の模倣のあり方が強化されることになるのですから,僕たちはほかの条件が一致するなら,愛している人に対してより羨望を感じやすいということが帰結することになります。
 したがって第三部定理二七は,単に同類に対して感情を模倣するということだけでなく,同類意識が強くなればなるほど,感情を模倣しやすくなったり,同じように模倣してもその度合いが高まるということが,潜在的に含まれているといえます。

 アルチュセールLouis Pierre Althusserをフランス共産党に勧誘したのはアルチュセールより4つ年長のドゥサンティです。
 ドゥサンティは哲学と医学に興味があり,進路には悩んだようですが哲学を選択。1935年に高等師範学校に生徒として入学しました。このときに教員だったメルロ=ポンティMaurice Melaeu-pontyとカヴァイエスJean Cavaillèsから直接的な指導を受けています。第二次世界大戦に兵士として動員されましたが,ドイツ軍に占領されて動員は解除に。カヴァイエスと同様にレジスタンス運動に身を投じましたが,逮捕はされませんでした。フランス共産党に入党したのは1943年です。ただしその後の路線の対立もあり,1956年には離党しました。
 1968年に博士号を取得。それ以後は高等師範学校で教鞭をとり,1971年からはパリ第一大学の教授に就任しています。
 ドゥサンティはスピノザの哲学の研究においてはあまり名前が出てくる人ではありません。ですから僕も『主体の論理・概念の倫理』を読むまではどういった人物であるのかということをほとんど知りませんでした。この略歴の中で僕に興味深く感じられるのは,高等師範学校の生徒であった頃に,メルロ=ポンティとカヴァイエスの両方から直接的な指導を受けていたという点です。というのもメルロ=ポンティというのはフランスの現象学を代表するような哲学者であるのに対し,カヴァイエスはフランスのエピステモロジーの草創期の一員,つまり現象学を敵対視するグループの草創期の一員であるからです。そして事実として,ドゥサンティはその両方からの影響を受けていたようです。
 近藤の関心がどこにあるのかということを説明したときにいったように,『〈内在の哲学〉へ』では,内在の哲学が,超越論的哲学ではなく意識の哲学への対抗馬とされていました。この意識の哲学を代表する哲学こそ現象学あるいは実存主義なのです。そして同時に,これはドゥサンティにとってそうであったかどうか定かではありませんが,アルチュセールにとっては実存主義というのはブルジョワジーの哲学でした。ですから共産党員だったアルチュセールにとって実存主義は,最も敵視するべき思想であったといえるでしょう。
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ウィナーズカップ&ゲルー

2020-03-30 19:28:38 | 競輪
 福井競輪場で争われた昨日の第4回ウィナーズカップの決勝。並びは高橋‐守沢の北日本,清水‐松浦‐柏野の中国で和田と吉田と古性と原田は単騎。
 守沢がスタートを取って高橋の前受け。最初は3番手に清水がいましたが,外から上がってきた和田に譲り,3番手に和田,4番手に清水。7番手に吉田,8番手に古性,最後尾に原田で周回。まるで動きがないまま残り2周を通過。バックから清水が動き,高橋を叩いて打鐘。4番手には吉田,5番手に古性。引いた高橋が6番手でこのライを追走した和田が8番手。最後尾に原田という一列棒状になりました。バックに入ると松浦が清水との車間を開けて後方を警戒。捲ってきたのは高橋。松浦は3コーナーから番手発進。高橋はよく追い詰めましたが松浦が粘り切って優勝。高橋マークの守沢が外から4分の1車輪差の2着。高橋は8分の1車輪差の3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は2月の高松記念以来の優勝。ビッグは昨年の競輪祭以来の2勝目。このレースは清水と松浦の脚力が上位。そしてそのふたりが連携しましたから圧倒的に有利。単騎の選手が多くいましたので,もつれることもあり得るかと思っていましたが,予想に反して単調なレースになりました。こうなれば番手から出られる松浦が優勝するのが当然。むしろ意外なほどに差を詰められてしまったという印象です。こういうレース内容になってしまったのは単騎の選手たちが無策であったからで,何もできないのならなぜ単騎での競走を選択するのか疑問に感じます。

 アルチュセールLouis Pierre AlthusserからノンポリとみられたゲルーMartial Gueroultは,哲学者というよりは哲学史家です。つまり自身が哲学者であるというよりは,哲学および哲学者の研究家といった方が正確です。アルチュセールは自身が哲学者かそうでなくとも思想家ですから,その点でそもそもアルチュセールとゲルーの間には立場上の相違があったとみておいた方がいいでしょう。
                                        
 アルチュセールとゲルーは同時代人であるといいました。確かに同じ時代を生きてはいますが,同世代というわけではありません。ゲルーは1912年には高等師範学校に生徒として入学しているのですが,アルチュセールはその時点ではまだ産まれていません。ふたりの間には27の年齢差があります。
 ゲルーは高等師範学校に入学した2年後に,兵役に服しました。これは第一次世界大戦の時代です。戦闘で銃弾を受けて負傷し,ドイツ軍の捕虜となったのですが,終戦後に解放され,1919年に復学しました。卒業後は哲学の教員となり,1945年に大学教授となりました。これはソルボンヌ大学です。そして1951年にコレージュ・ド・フランスという,フランスの国立の特別教育機関で教授を務めるようになりました。ここで1962年まで仕事をしています。同じ頃にここで教授を務めていた人物としてはメルロ=ポンティMaurice Melaeu-pontyがいます。またフーコーは1970年からここで教授を務めていますので,同じ時期に在籍はしていないのですが,その哲学史研究の影響,とくに方法論的な影響を受けています。ゲルーの影響を受けている思想家としては,フーコーのほかにドゥルーズGille Deleuzeも同様です。
 ゲルーは哲学史家なので,スピノザの哲学だけを特別に研究したわけではありません。アルチュセールがゲルーのスピノザ以外の哲学者の研究についてどういった感想を抱いていたのかということはよく分かりませんが,おそらくどの哲学者を研究するにあたってもゲルーの方法は同じだった筈でしょうから,そうした研究もアルチュセールからみればノンポリに映ったのではないかと思われます。ただそうしたアルチュセールの感想も,僕は政治的であるとはみなしますが,それだけで党派的であったとはいいません。
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高松宮記念&ノンポリ

2020-03-29 19:18:56 | 中央競馬
 第50回高松宮記念
 ダイアトニックが好発でしたが,外からモズスーパーフレアがハナを奪いました。セイウンコウセイが2番手となり,ダイアトニックとラブカンプーが3番手。5番手にクリノガウディー。この後ろはステルヴィオ,アウィルアウェイ,ダノンスマッシュ,ナックビーナスの4頭。さらにティーハーフ,タワーオブロンドン,ノームコアの3頭。あとはグランアレグリア,ダイメイプリンセス,グルーヴィット,シヴァージ,モズアスコットと続き,アイラブテーラーは大きく離されてしまいました。前半の600mは34秒2のミドルペース。
 直線に入ったところでモズスーパーフレアのリードは3馬身ほどに。セイウンコウセイとラブカンプーは追っていくことができず,クリノガウディーが単独の2番手に。さらにクリノガウディーの内からダイアトニックが進出。モズスーパーフレアとクリノガウディーの間に進路を選択。ここでクリノガウディーが内に寄ったため,ダイアトニックは減速。逃げたモズスーパーフレアも不利を被りました。クリノガウディーは外目に進路を取り直し,また3頭の競り合いとなったところに外からグランアレグリアが強襲。大きな不利を受けたダイアトニックは少し遅れをとりましたが,残る3頭の大接戦でフィニッシュ。写真判定の結果,入線順は1位がクリノガウディーでハナ差の2位にモズスーパーフレア,さらにハナ差の3位がグランアレグリアでアタマ差の4位にダイアトニックでしたが,各々の差が小さかったため,クリノガウディーは進路妨害のため4着に降着。1着がモズスーパーフレア,2着がグランアレグリア,3着にダイアトニックで確定しました。
 優勝したモズスーパーフレアは昨年のオーシャンステークス以来の勝利で大レース初制覇。そのときの内容から大レースを勝てる力がある馬だとみていました。武器は軽快なスピードで,今日はそれを生かしきっての繰り上がり優勝。スピードタイプなので重馬場がいいとは思えないのですが,差しが決まりにくくなるのは条件としては悪くないのかもしれません。2番手以下の馬は少しマークを外し過ぎたかもしれません。典型的なスプリンターだと思います。
 騎乗した松若風馬騎手はデビューから6年で大レース初勝利。管理している音無秀孝調教師はチャンピオンズカップ以来の大レース16勝目。第36回以来14年ぶりの高松宮記念2勝目。

 ゲルーMartial Gueroultが自身の宗教的立場や政治的立場について,スピノザの哲学によって基礎づけしようとしなかったという近藤の見解については,ここでは論評を控えます。こうしたことは各々の価値判断によって評価が分かれると予想されるからです。
                                        
 たとえば近藤は,ゲルーのように宗教的立場や政治的立場をスピノザの哲学によって基礎づけなかった人物として,カヴァイエスJean Cavaillèsの名前を挙げています。一方で僕は,カヴァイエスが銃殺されたことはその結果なので何ともいえませんが,レジスタンス運動に参加したということは政治的実践であり,この実践の根底にカヴァイエスのスピノザ主義があった可能性が大であるとみています。これでみると,僕と近藤は異なった見解を有しているとみえるかもしれませんが,実際はたぶんそうではないのです。むしろ,スピノザの哲学であるということに限定せず,宗教的立場や政治的立場を哲学によって基礎づけるということの何たるかということに,僕と近藤の見解の相違はあるのだと僕には思えます。なので,ゲルーについても,その立場をスピノザの哲学によって基礎づけなかったというのは,近藤がそのような僕とは異なった意味で政治的立場をスピノザの哲学によって基礎づけようとしなかったといっている可能性が大きいので,このことについて論評するのはむしろ考察の全体にとってはマイナスになってしまいます。
 また,この論評はする必要自体がありません。アルチュセールLouis Pierre Althusserは,ゲルーの立場を近藤と同じように解していました。つまりアルチュセールにはゲルーのスピノザの哲学の研究が,きわめて非政治的であるように、俗なことばでいえばノンポリに感じられました。これも重要なのは,アルチュセールにはそうみえていたということであり,実際にゲルーのスピノザ哲学研究が非政治的であったかどうかは関係ありません。僕は単に実践とだけではなく,論理的にもスピノザの哲学とは切断できないと考えていますから,スピノザの哲学の研究が非政治的であるということはあり得ないと考えます。しかし僕が政治的であるというのが僕に特有の意味なのですから,そのことを規準にこれを評価することは無意味です。
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おまえの家③&アルチュセールとゲルー

2020-03-28 19:06:25 | 歌・小説
 では,歌い手であるあたしと訪ねたあなたのふたりとも黙ってガス台の火を見つめていました。そしてお前の方が,何を飲むのかと尋ねてきたのです。そしてその後で,あたしの方からおまえに話し掛けます。

                                   

     ねえ 昔よく聴いた あいつの新しいレコードがと
     わざと 明るく きり出したとき おまえの涙をみる


 で,歌い手はおまえが聞いていた音楽がどういう音楽であるのかを知っていたことが分かっています。そしてその音楽は,おそらく歌い手自身が好んで聞いていた音楽だったのです。そしてそれは「あいつ」の音楽です。その「あいつ」の新曲が発売されたのです。この歌が歌われた時代のレコードは,文字通りのレコードでしょう。
 あたしはこのことをわざと明るく切り出したと歌っています。これはふたりが黙り込んだ雰囲気を打破するためでしょう。と当時に,この話題ならばおまえも明るく返してくれると想定していたのだと思います。ところがその思いに反して,おまえは涙を流しました。

     ギターはやめたんだ 食っていけないもんなと
     それきり 火を見ている


 おまえはミュージシャンを目指していました。そのことをあたしも知っていました。しかしお前はすでに挫折していて,そのことをあたしは知りませんでした。①と②で歌われていたおまえの変化の根底は,ここにあったということです。

 僕がどういったことを政治的というのかということはある程度は分かってもらえたと思います。ここからは僕がどのようなことを党派的というのかということをじっくりと説明していきましょう。
 高等師範学校の哲学教師のひとりに,アルチュセールがいました。このアルチュセールはフランス共産党の党員でした。
 アルチュセールはスピノザ主義者というよりマルクス主義者という側面の方が強いので,アルチュセールがそういう選択をしたのは,アルチュセールのうちのスピノザ主義がそうさせたというより,マルクス主義者としてのアルチュセールがそういう選択をしたという意味合いの方が強いと思われます。ただいずれにしても,特定の政党に入党しているのですから,これを政治的な行為でないということは僕にはできません。一方,その理由がどうあれ,アルチュセールがフランス共産党の党員であったから,アルチュセールは党派的な人物であったとは僕はいいません。このことはすでに僕が何を政治的といいまた何を党派的というのかということを簡潔に説明したときにいっておいたことです。それがどんな政党であったとしても,ある特定の政党に入党するという行為を,僕は政治的とはいいますが,党派的とはいわないのです。
 同時代人にゲルーMartial Gueroultがいます。思想家としてなら別ですが,スピノザ哲学の研究者としていえば,アルチュセールより有名な人物ですし,スピノザの哲学の解明に果たした役割もアルチュセールより上だといっていいでしょう。『〈内在の哲学〉へ』では,ゲルーは自分の立場,とくに宗教的な立場と政治的な立場を,スピノザの哲学によって基礎づけようとしなかったとされています。そしてこうしたことが,この時代のフランスのスピノザ主義者たちを一枚岩とさせなかったという主旨のこともいわれています。なお,ここでいうスピノザ主義者というのは,文字通りにスピノザの哲学を信奉する人というより,現象学や実存主義に反感を持つ人たちのこと,そのためにスピノザの哲学を利用した人たちのことという,やや軽い意味で理解しておいてください。この目的は『主体の論理・概念の倫理』の考察でもいった通りです。
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大阪王将杯王将戦&哲学と政治

2020-03-27 19:01:19 | 将棋
 一昨日と昨日,佐渡で指された第69期王将戦七番勝負第七局。
 佐渡市長による振駒渡辺明王将の先手。相矢倉から後手の広瀬章人八段は右四間飛車に。先手から大駒をすべて切る強襲に出る将棋となりました。
                                        
 3六の歩を2五の銀で払った局面。ここから後手は攻め合いに出ます。それが☖6三角☗2五銀☖2七角成という手順。
 先手は☗2二歩と反撃。☖1三桂に☗1四銀と出て☖3六歩☗2三銀成☖3七歩成☗3二成銀☖同玉☗2一飛☖4二銀まで進めて☗5七銀と逃げました。さらに後手が☖3六馬と追撃してきたところで☗7九王の早逃げ。
                                        
 この早逃げが効果的で,後手はここから有効な攻め手を欠き,ほぼ防戦一方になってしまいました。おそらく第2図は先手がよい局面で,後手は第1図からは攻め合わずにもう少し受ける必要があったのではないかと思います。
                                         
 4勝3敗で渡辺王将が防衛第62期,63期,68期に続く連覇で通算4期目の王将位。通算で25期目のタイトル獲得となりました。

 カヴァイエスJean Cavaillèsがレジスタンス運動に参加したことが,カヴァイエス自身のスピノザ主義によるものであったということは,僕の想定なのであって,断定的にいうことができるわけではありません。ただ僕の想定が正しいのだとすれば,たとえそれで銃殺されることになったのだとしても,カヴァイエスにとっては必然であった,他面からいえばそうせずにはいられなかったのだと僕は解します。これは政治的であるということの意味としてはかなり極端な例なのであって,人はスピノザ主義者であればだれであってもカヴァイエスと同じように行動するというものではありません。それこそ近藤が「人新世」のプロセスを創出するシステムのひとつといっている議会制民主主義の下で,投票行動としてのみ自身のスピノザ主義を表明するだけであるという場合もあり得ると思います。ただいずれにしてもスピノザ主義は実践と切り離すことができないような思想なので,何らかの意味で実践をせざるを得ないのがスピノザ主義者であると僕は考えます。そして実践のうちには政治的実践が必ず含まれることになるので,スピノザ主義者は何らかの政治的実践を行うことになるのです。この意味において,スピノザの哲学は政治的なものと切断することができない哲学であると僕は考えます。他面からいえば,僕は政治的ということを,このようなスピノザの哲学と切り離すことができないある種の行動とみなしているのです。
 こうしたことは,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』とか『国家論Tractatus Politicus』を読んでみても理解できるでしょう。前者における聖書の解釈の部分を除けば,これらの著作はきわめて政治的な著作であるといえます。これは政治的ということを,僕のように特殊な意味に解するのでなくてもそうであるとしかいいようがないと思います。そしてそれについてスピノザがどのように語るのかといえば,哲学を基礎として論述するのです。これは端的にいって,哲学が政治論と直結しているということを示しているといえるでしょう。つまりこのような意味においても,スピノザの哲学は政治的なものと切り離すことができません。つまり実践としてではなく,論理的な面からも切断できないのです。
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チャームアスリープ&党派的と政治的

2020-03-26 19:24:19 | 名馬
 先週の京浜盃を勝ったブラヴールの母はチャームアスリープです。母の従姉にJRA賞で1991年の最優秀2歳牝馬,1992年の最優秀3歳牝馬と最優秀スプリンターを受賞したニシノフラワー
 2歳7月にデビューして新馬を勝利。2戦目は3着で南関東重賞初挑戦となったローレル賞は7着。3戦目が5着で東京2歳優駿牝馬は6着。成績からするとだいぶ格上のレースに出走していますが,それだけ素質を買われていたということでしょう。
 3歳初戦に予定していたレースは出走取消。事実上の初戦は3着で桜花賞トライアルは4着。3月に2勝目をあげると次戦は2着。賞金を積み上げて桜花賞に出走すると見事にこれを優勝しました。さらに東京プリンセス賞で南関東重賞2勝目をあげると関東オークスも制覇。南関東牝馬三冠を達成すると同時に重賞ウイナーとなりました。
 秋初戦はJRAに遠征し秋華賞トライアルのオープンに出走。これは大敗。ロジータ記念は負けられないメンバー構成でしたが2着に敗れました。ただ春の成績が素晴らしかったので,NARグランプリでは3歳最優秀馬と最優秀牝馬を同時に受賞しました。
 4歳初戦はマリーンカップで12着。しらさぎ賞が6着で大井記念は8着。スパーキングレディーカップも11着と,1年前からすると考えられないような戦績。
 暮れのオープンで復帰して8着。5歳になってTCK女王盃が8着でエンプレス杯は9着。最盛期の輝きを取り戻すことなく,競走生活を終えました。
 3歳クラシックシーズンを迎える頃に急激に上昇したのはブラヴールと似ています。ただ輝きがそのシーズンだけであったのは,ブラヴールにとってもやや不安な材料です。

 たとえばある人間がいて,その人間がある特定の政党を熱烈に支持していると仮定します。僕はこの人間のその行動を,政治的であるとは判断しますが,これだけでこの人間が党派的な人間であるとはみなしません。これはその政党がどのような政党であったとしても同じです。政党を熱狂的に支持するという行為を政治的でないということは僕にとっては不可能です。しかしその人間が支持している政党がどのような政党であったとしても,その人間はその行為によって党派的であるとは僕はいいません。それが民族主義的な極右政党であれ,また特定の宗教を信じる集団による宗教政党であれ,あるいは共産党であれ同様です。僕はどのような政党であっても,その政党を支持しあるいはその政党の党籍を有しているだけで,その人間のことを党派的とはいわないのです。
                                        
 『主体の論理・概念の倫理』で紹介されているひとりで,『〈内在の哲学〉へ』では内在の哲学の代表者としてスピノザおよびドゥルーズGille Deleuzeとともに名前をあげられているカヴァイエスJean Cavaillèsは,フランスでレジスタンス運動に身を投じ,ドイツ軍に捕えられて銃殺されました。このカヴァイエスの行動は,ある特定の政党を支持したというのとは異なりますが,政治的であったと僕はみなします。しかし党派的であったとはいいません。レジスタンス運動の参加者の中に党派的な人間がいたかもしれないことは僕は否定しませんが,カヴァイエスがそうであったとは僕はいいませんし,とりわけその運動に参加したというだけであれば,それがだれであろうとそれで党派的であるとは僕はいわないのです。
 カヴァイエスのこの行動は,カヴァイエス自身のスピノザ主義から発した政治的行動であった可能性を僕は肯定します。このことは『主体の論理・概念の倫理』で考察したときにもいいました。僕の考えあるいは実体験からいえば,スピノザの哲学というのは,それを学べばその実践を伴わずにいることができないような思想です。そして実践の中には当然ながら政治的実践というのが否応なしに含まれてしまいます。この意味において,僕はスピノザの哲学は,政治的であることから逃れられないと思っています。
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農林水産大臣賞典桜花賞&補足

2020-03-25 19:34:46 | 地方競馬
 第66回桜花賞。おそらく人の移動に制限が掛けられたために,スティローザは金沢の吉原騎手から保園騎手に,ミナミンは高知の赤岡騎手から今野騎手に変更。
 アンジュエトワールは立ち上がってしまい1馬身の不利。即座にボンボンショコラが先頭に立っての逃げ。2番手にテーオーブルベリー,アクアリーブル,ブロンディーヴァの3頭。5番手にルイドフィーネとレイチェルウーズ。2馬身差の7番手にスティローザとトキノノゾミ。9番手にアンジュエトワール。10番手にマッドシティ。3馬身差の最後尾にミナミンで1周目の正面を通過。向正面に入ると軽快に飛ばしていったボンボンショコラのリードが3馬身から4馬身に広がり,単独の2番手にテーオーブルベリー,3番手にルイドフィーネとアクアリーブル。5番手にレイチェルウーズとブロンディーヴァという隊列に。前半の800mは49秒8のミドルペース。
 向正面の半ばを過ぎてから,テーオーブルベリーがボンボンショコラとの差を詰め始めにいきました。アクアリーブルがそれを追い掛け,4番手にルイドフィーネ,内の5番手にレイチェルウーズ,6番手にブロンディーヴァ。ボンボンショコラ,テーオーブルベリー,アクアリーブルの3頭はコーナーで併走に。直線に入るとボンボンショコラは一杯になり,残る2頭が抜け出しての競り合い。最後は外のアクアリーブルが差して優勝。テーオーブルベリーが4分の3馬身差で2着。ボンボンショコラとテーオーブルベリーの間を突こうとしたものの,伸び脚に欠けたルイドフィーネが2馬身半差で3着。
 優勝したアクアリーブルはホッカイドウ競馬に在籍していた昨年10月に,盛岡に遠征しての岩手の重賞を勝って以来の勝利。このレースはレイチェルウーズの能力が断然で,枠順も6番なら何とかできるだろうと思っていました。実際に極度の不利があったわけではないのですが,結果的にいえばそれほど速いペースではなかったのに位置取りが後ろ過ぎたために,末脚不発という内容に。レイチェルウーズが精彩を欠けば,前走でその2着となっていたアクアリーブルにもチャンスが巡ってくるのは自然でしょう。実力上位馬の凡走による優勝と思われますので,あまり高い評価はしない方がよいかもしれません。母は2012年のNARグランプリで3歳最優秀牝馬に選出されたアスカリーブル。その父は1999年にセントライト記念に勝ったブラックタキシード
 短期免許で騎乗している山本聡哉騎手は2017年の大井記念以来となる南関東重賞2勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は南関東重賞40勝目。第52回以来14年ぶりの桜花賞2勝目。

 近藤がどのような考えの下にスピノザの哲学,内在の哲学としてのスピノザの哲学に可能性を見出しているのかということは理解してもらえたものと思います。そして同時に,僕が『〈内在の哲学〉へ』の中に,僕の能力では十分に把握し得ない箇所が多々あったとしても,それについて詳しく検討するということを,あえてしなかった理由というのも,同時に分かってもらえたのではないでしょうか。それではここからは僕がこの書籍を読んだ本来の目的,すなわち『主体の論理・概念の倫理』について考察したときによく分からなかったことの補足に関する考察に移ります。
                                        
 『主体の論理・概念の倫理』は,パリの高等師範学校と,エピステモロジーサークルに属する学者たちの論述を研究の対象としていました。近藤によれば,このグループの中には党派的なものがあったそうです。このことは『主体の論理・概念の倫理』を対象とした僕の考察と直接的に関係するわけではありませんが,大なり小なりの影響があると思われますし,何よりも僕自身にとって無視することができないことなので,少し詳しい説明を与えておきます。ですがその前に,以下のふたつの点に注意しておいてください。
 僕がいっているのは,高等師範学校なりエピステモロジーサークルなりが党派的なグループないしは集団であったということではありません。その集団の中には,確かに党派的な思想を有しているといえる学者も存在していたということです。他面からいえば,党派的な学者もいたけれどもそうではない学者もいた,おそらく党派的ではない学者の方がずっと多数でした。ですから学校やサークルが党派的であったわけではありません。このことは注意点としては簡単でしょう。
 おそらく問題となるのは,もうひとつの注意点です。僕は党派的であるということと,政治的であるということとは厳密に分けて考えます。これは多くの人がそうではないかと思うのです。ただ,僕が何をもって党派的であるといったり,どういうことを政治的であるといったりするのかということは,たぶん特殊だろうと思うのです。その特殊な意味で,党派的な学者がいたと僕はいっているのです。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&意識の哲学

2020-03-24 19:17:57 | 将棋
 22日に放映された第69回NHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝。収録は2月17日。その時点での対戦成績は深浦康市九段が3勝,稲葉陽八段が4勝。
 振駒で深浦九段が先手となり,矢倉を目指しましたが,後手の稲葉八段が居玉のまま中央に戦力を集中させて仕掛けていくという相居飛車の乱戦に。
                                        
 先手が中央の逆襲を目指して2八の飛車をぶつけた局面。☖同飛成☗同金と進めば後手が先に飛車を打てるので大胆な一手に思えますが,飛車で王手されてより困るのは歩がない後手であるのも事実。ということでここは☖5三銀として交換を避けました。
 先手は☗3七桂と跳ねて戦力を足しにいきました。後手は☖9四歩☗8四角としておいて☖4二銀と,今度は自分から飛車交換を挑みにいきました。
                                        
 第1図と第2図を比べると,飛車を交換したときの状況に大きな差があるわけではありません。ということは第2図で銀を引いたのは予定変更だったのではないかと思います。こうなるなら第1図で自分から交換してしまった方がよかったのではないでしょうか。
 先手はすぐに交換せず☗4五桂と跳ねました。後手はここでも☖5八飛成とできましたがそうせず☖4四歩。これは開き直った手のように思えます。先手は☗5二飛成☖同玉☗7四歩☖同銀として☗8二飛と打ちました。
                                        
 第3図まで進んでしまうと後手は収拾困難で大差になっています。結果的に第1図で思い切って飛車をぶつけていったのが先手に勝利を呼び込むこととなりました。
 深浦九段が優勝。2015年の銀河戦以来となる9回目の棋戦優勝で,NHK杯は初優勝となりました。

 近藤は内在の哲学の意義については,意識の哲学と対立させる形で説明しています。すなわち「人新世」のプロセスを構成するよっつのシステムの根底には意識の哲学があって,それを克服するためには意識の哲学と対抗する内在の哲学が必要であるという主旨です。ですから僕のように,内在の哲学を超越論的哲学との対立軸で解することについては,『〈内在の哲学〉へ』では触れられているわけではありません。ただ,第一部定理一八で,Deusは万物の内在的原因causa immanensであることを示すときに,スピノザがわざわざ超越的原因causa transiensではなく内在的原因であるといっているように,一般的に内在と対立するのは哲学の世界では超越なのであって,したがって内在の哲学に対立するのは超越論的哲学であるということになります。
 近藤が示したよっつのシステムと超越論哲学との間に何らかの連関があるかどうかは僕には分かりません。ただ,スピノザの哲学の内在の意味,具体的にいえば人間が自然Naturaを超越することは不可能であるということの意味は,単に人間が所産的自然Natura Naturataとして能産的自然Natura Naturansのうちに内在するということだけでなく,所産的自然の一部として所産的自然の全体をすら超越することができないという点にもあるということを踏まえれば,そのことを肯定する内在の哲学に対して,よっつのシステムの根底に何らかの超越論的な思想が存在しているという可能性は否定できないと僕は思います。
 たとえば,科学技術によって人類は自然を統御することができるというような考え方があるとすれば,それは内在の哲学に反する考え方になります。これは第四部定理四に明確に反するからです。人類が人類以外の自然,所産的自然を原因causaとした変化を受けないということは不可能であるからです。同じように,資本は無限に拡大していくというような考え方があるのなら,それもやはり内在の哲学には反することになります。第二部定理一〇系は人間の本性essentiaは有限finitumであるといっているのと同じことだからです。
 近藤がこうした考え方に同意するかは分かりません。ただその主張を補強する材料にはなり得ると思います。
 近藤の関心事についてはここまでとし,次の考察に移ります。
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ライオネス・飛鳥&ふたつの内在

2020-03-23 19:04:39 | NOAH
 長与千種のパートナーとしてクラッシュギャルズを結成していたのがライオネス・飛鳥です。
                                        
 飛鳥はジャッキー・佐藤に憧れてプロレス入りを決意しました。全日本女子プロレスに入団したときにも佐藤は現役で,練習を教えてもらいました。ただ佐藤は当時の飛鳥からすると身分としてすごく上の先輩だったので,自身より3年先輩のジャガー・横田の方が身近に感じられたそうです。横田は佐藤の付き人で,飛鳥は入団して1年目に横田の付き人となったため,このグループの一因となりました。飛鳥はこのグループを,新人時代のセメントの押さえ込みで強かったグループと表現しています。飛鳥が押さえ込みで負けたのは1回だけ。このあたりはセメントは弱かったと告白している長与とは対照的です。
 飛鳥は1980年に新人王トーナメントで優勝。年が明けて全日本ジュニア王者に。このタイトルはセメントで,飛鳥はセメントでは負けなかったために返上。返上後に全日本シングル王者となり,挑戦者として長与を迎えました。このときに長与から,今までにない試合がしたいと言われて承諾。張り手の打ち合いから始まるハードヒットの内容になりました。試合は体格に優る飛鳥が勝利。この試合を観た会社側からタッグを組めという命令が下り,クラッシュギャルズが結成されました。これはふたりの意志とは無関係の会社命令だったそうです。
 クラッシュギャルズのスタイルは長与と,当時はフロントにいたロッシー・小川のアイデア。このふたりはプロレスか女子プロレスかのプロレス派で,UWFの影響を受けたスタイルでした。飛鳥は女子プロレス派で,男子のプロレスはまったく見なかったし,魅力を感じたこともなかったと言っています。馬場や猪木に会ったときはオーラを感じたけれども,すごいレスラーだと思ったことはなく,飛鳥にとってのすごいレスラーは,ジャッキー・佐藤でありまたジャガー・横田でした。飛鳥は筋金入りの女子プロレス派だったといえそうです。

 無限知性intellectus infinitusは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。様態modiであるからには能産的自然Natura Naturansではなく所産的自然Natura Naturataです。第一部定理二一から分かるように,直接無限様態は無限infinitumです。無限であるものを部分に分割して考えることは好ましいことではありません。ですが分かりやすく説明するためにあえてそのような説明をするなら,直接無限様態である無限知性は,思惟の属性の所産的自然の全体を意味します。したがって,無限知性を超越する思惟の属性の所産的自然というのは存在しません。いい換えれば,思惟の属性の所産的自然というのは,無限知性を別とすれば,無限知性に内在する所産的自然なのです。第二部定理一一系で,人間の精神mens humanaが無限知性の一部であるといわれているのはこのような意味です。すなわち個々の人間の精神というのは,無限知性という所産的自然の全体に対していえばその一部を構成する部分です。したがって人間の精神は無限知性に内在し,それを超越することは不可能であるということになるのです。
 このことは,思惟の属性にのみ特有に妥当するというわけではありません。どのような属性にあっても同一です。もっともすでに述べたように,現在の考察においては思惟の属性以外には延長の属性Extensionis attributumについてだけ考えれば十分です。つまり思惟の属性でいわれているのと同じことが,延長の属性にも該当するということだけ踏まえておけば構いません。第四部定理四は,人間の身体humanum corpusについてだけでなく人間の精神にも妥当するのですが,人間の身体が自然の一部でないということは不可能であるということは,とくにこの定理Propositioの証明を経ずとも僕たちは知っているところでしょう。
 したがって,人間の精神であれ人間の身体であれ,それが自然のうちに内在する,自然を超越することはできないということのうちには,事実上はふたつの意味があるのです。ひとつは,人間の精神であれ身体であれ,それは所産的自然に属するので,能産的自然に内在し,能産的自然を超越することはできないということです。そしてもうひとつは,人間の精神も身体も所産的自然の一部なので,全体としての所産的自然に内在し,それを超越することはできないということです。
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国際自転車トラック競技支援競輪&自然の一部

2020-03-22 18:58:16 | 競輪
 久留米競輪場で開催された第10回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは桜井‐菅田の宮城に岡村,藤井‐南の近畿,竹内‐久米‐阿竹の中国四国で志村は単騎。
 スタートは牽制となり,阿竹が取らされる形に。竹内の前受けとなり,4番手に桜井,7番手に藤井,最後尾に志村という周回に。残り3周のバックを過ぎると藤井が上昇開始。志村も続きました。藤井はホームで竹内に並び,誘導が退避したところで竹内も突っ張る構えをみせたものの,さらにスピードを上げた藤井が前に。後方になった桜井がバックから発進。打鐘からのかまし先行に。4番手に藤井,6番手に志村,7番手に竹内の一列棒状に。ホームの出口から藤井が発進。菅田は桜井との車間を開け,十分に引き付けバックで藤井が並んできたところから発進。岡村が被ってしまい続けず,藤井マークの南が菅田にスイッチ。結果的にこのライン追走のレースになった志村までの3人が抜け出す形に。直線では差は詰まったものの順位は変わらず,優勝は菅田。南が4分の3車輪差の2着で志村が4分の3車身差の3着。
 優勝した宮城の菅田壱道選手は一昨年の大宮記念以来のグレードレース制覇でGⅢ3勝目。2009年6月に当地の記念競輪で優勝があります。この開催はGⅡが間近に迫っているため,GⅢとしてはやや弱体メンバー。しかも実績で上だった武田や村上が敗退したため,決勝はなお混戦模様になりました。菅田はメンバーの中では脚力上位で,同県の後輩の番手を得ましたから,ポジションとしては有利。それを生かしきって優勝に結び付けました。ただレースぶりとしていえば,車間を開けたのはよかったのですが,発進のタイミングはもう少し早い方が安全だったような気がします。

 第四部定理四は,人間が自然の一部分Naturae parsでないことは不可能であるといっています。これはつまり,人間が自然に内在しないということ,いい換えれば人間が自然を超越することは不可能であるといっているのと同じです。内在の哲学が近藤の論調に対して有する最大の意義は,この,人間が自然を超越することは不可能であるという点にあるといっていいでしょう。そしてまたも注意を促せば,ここでいわれている人間とは,人間の身体humanum corpusだけを意味するのではなく,人間の精神mens humanaも意味しているのです。とくに人間の精神が自然を超越することは不可能であるということが,近藤の主張にとっては重要であるといっていいかもしれません。
                                   
 さらにいうと,この定理Propositioでいわれている自然というのは,必ずしも能産的自然Natura Naturansだけを意味するのではないのです。むしろここでいわれていることは,人間は所産的自然Natura Naturataの一部である,つまり,能産的自然に対して内在する所産的自然のさらに一部であるというように解するのが適切であるといえます。そしてこのことは,とくに人間の精神についていえば,第二部定理一一系でいわれていることと同じことだと解することができます。なぜなら,この系Corollariumでいわれている無限知性intellectus infinitusというのは,書簡六十四から,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態であると解さなければなりません。したがって無限知性は,第一部定理二一の様式で,思惟の属性を原因causaとして生起する様態modiです。よって第一部定理二九備考により,それは能産的自然には属さず,所産的自然に属するといわなければなりません。能産的自然に属するのはこの場合はDeusあるいは同じことですが神の思惟の属性なのであって,それを原因として発生する様態の方は所産的自然であるからです。すなわち第二部定理一一系は,人間の精神は所産的自然の一部であるといっていることになります。もちろん人間の精神が能産的自然である神の思惟の属性に内在する思惟の属性の有限様態すなわち個物res singularisであることは間違いありません。しかしそればかりではなく,思惟の属性の直接無限様態という所産的自然である神の無限知性にも内在する,思惟の属性の個物なのです。
 もう少し分かりやすく説明しましょう。
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個別の派生感情&自然と内在

2020-03-21 19:04:58 | 哲学
 複数の派生感情というのを個別に考える場合には,注意しておかなければならないことがあります。
 僕は派生感情というのを,ある感情affectusAが発生するとき,前もって何らかの感情Bが存在していなければならない場合に,AはBの派生感情であるといいました。このとき,たとえばXという感情がある人間のうちにあり,そのXという感情を原因causaとしてYという感情が発生するのであれば,YはXの派生感情であるといわなければならないことになります。第一部公理三からして,この場合にXが存在していなければYが発生することは不可能であることになり,同時に一般的に原因はその結果effectusに対しては前もって,いい換えれば本性naturaの上で先立って存在するものなので,YがXの派生感情であるという場合の条件を満たしているからです。
                                   
 一方,たとえば安堵securitasと絶望desperatio,あるいは歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusが希望と不安からの派生感情であると僕がいうときは,因果関係を考慮しているわけではありません。ただ単に,安堵と絶望そして歓喜と落胆がある人間に発生するときには,その人間のうちに前もって何らかの希望spesおよび不安metusが存在していなければならないという点だけに着目しています。この相違がどこから発生してくるのかというと,因果関係を考慮しないで派生感情ということをいう場合には,きわめて一般的にいっているのに対し,因果関係を考慮した場合というのは,それらを個別に把握しようとしているのです。つまり,どんな場合であっても安堵と絶望,あるいは歓喜と落胆を人間が感じるときは,その人間は前もって希望と不安を感じています。しかしたとえば希望とか不安というのを僕たちが感じるときには,このような意味で一般的に感じるのではなく,個別の希望あるいは個別の不安として感じるのです。端的にいえば,Aに対する希望とBに対する希望は,同じ希望すなわち第三部諸感情の定義一二に該当する感情であっても,実際には異なった感情です。これは第三部定理五六から明白でしょう。
 そして感情を個別に考えたときは,落胆が安堵の派生感情である場合や,歓喜が絶望の派生感情である場合があり得ると僕は考えているのです。

 第四部序言に倣って神Deusを自然Naturaに置き換えるなら,すべてのものが自然に内在するのであって,自然の外部あるいは同じことですが自然を超越し得る何ものも存在しないということが帰結します。つまりスピノザの哲学の徹底した内在論は,あらゆるものが神に内在し,神の外部は存在せず,神はあらゆるものにとっての内在的原因causa immanensであるということだけではなく,あらゆるものは自然に内在し,自然の外部は存在せず,能産的自然Natura Naturansは所産的自然Natura Naturataに属するすべてのものに対して内在的原因であるということも帰結させていることになります。
 このことから,人間もまた自然に内在するもののひとつであることが分かります。もう一度注意を促しておきますが,ここでいう人間というのは人間の身体humanum corpusだけを意味するのではありません。人間の身体が自然に内在するもののひとつであるのと同じ意味で,人間の精神mens humanaも自然に内在するもののひとつです。いい換えれば,人間の身体が自然の外部に存在したり自然を超越したりすることが不可能であるのと同じように,人間の精神もまた自然の外部に存在するということはできませんし,自然を超越するということもできないのです。
 次に,自然をふたつの種類,すなわち能産的自然と所産的自然の二種類に分類したとき,人間がどちらに該当するのかといえば,それは所産的自然です。第一部定理二九備考から明らかなように,もし人間が能産的自然であると主張するなら,それは人間は神であるとか,人間は実体substantiaであるあるいは属性attributumであると主張しているのにほかなりません。ですがこれが不条理であるのは明白でしょう。またこのことは,第二部定理一〇からも明白であるといえます。そして同時にこのことは,第一部定理一五からも明らかなのです。すべてあるものが神のうちにあるQuicquid est, in Deo estなら,人間は神のうちにあるといわなければなりません。そして神のうちにあるといわれるものが能産的自然に属するのではなく,所産的自然に属するということは,何が能産的自然といわれまた何が所産的自然といわれなければならないのかということから明らかだからです。
 このことは神の方からだけでなく,自然の方からも示すことができます。
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ディープブリランテ&自然

2020-03-20 19:05:48 | 名馬
 10日の黒船賞を勝ったラプタスの父はディープブリランテです。
                                        
 父はディープインパクト。4代母がバブルカンパニー。祖母の4つ下の半妹に2000年にサンスポ賞4歳牝馬特別を勝ったマニックサンデーで,7つ下の半弟に2002年にラジオたんぱ杯2歳ステークス,2003年に菊花賞に勝ったザッツザプレンティ。Brillanteはイタリア語で素晴らしい。
 デビューは2歳10月。新馬戦を勝つとすぐに東京スポーツ杯2歳ステークスに挑戦。これも勝って重賞ウイナーとなりました。
 賞金を加算できたのでこれで休養。3歳初戦に共同通信杯を選択すると行きたがってしまい2着。スプリングステークスも2着で皐月賞は3着でした。しかし日本ダービーは先行して抜け出すと追い込みをぎりぎりで封じて優勝。大レースの勝ち馬に名を連ねました。
 休養せずにイギリスに遠征。キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスに挑戦するも8着。菊花賞の前に右の前脚に屈腱炎を発症。完治せずにそのまま引退となりました。
 ダービー馬ですが,本質的にはもう少し短い距離の方が向いていたのだろうと思います。2016年から産駒が走り始め,これまでで芝の重賞勝ち馬が2頭。ラプタスは初のダートで重賞を勝った産駒となりました。重賞の勝ち馬はもう少し出るだろうと思いますが,大レースの勝ち馬が輩出するかどうかはやや微妙な気もします。

 第四部序言を援用して神Deusと自然Naturaとを等置するとき,次のことに気を付けておいてください。
 第一部定義六から分かるように,神というのは無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されている実体substantiamのことです。ですから神を自然と等置するときは,自然がそれと同じように解される必要があります。もっともここでは,「人新世」を克服するための内在の哲学について考察しているのですから,人類が認識し得るような属性についてだけ誤らずに理解することができればそれで十分なので,無限に多くの属性についてはそこまで注視しなくて構いません。ただ,第二部公理五の意味から,人間は思惟の属性Cogitationis attributumと延長の属性Extensionis attributumのふたつの属性だけは認識するcognoscereので,これらふたつの属性に関しては,それらが同じ意味で自然を構成していると把握しておく必要があります。したがって神と等置される場合の自然というのは,延長の属性に属するものだけをいうのではなく,思惟の属性に属するもののことも含まれます。よって物体corpusだけを自然といっているのではなく,観念ideaとか意志作用volitioといったものもそれと同じ意味で自然というのであり,人間についていうなら,人間の身体humanum corpusのことだけを自然といっているのではなく,身体が自然に属するのと同じ意味で,人間の精神mens humanaもまた自然に属することになるのです。
 これはスピノザに独自の分類というわけではありませんが,スピノザの哲学では自然が二種類に分類されます。それが第一部定理二九備考で示されている能産的自然Natura Naturansと所産的自然Natura Naturataです。ここで重要なのは,自然なるものは必ず能産的自然であるか所産的自然であるかのどちらかなのであって,それ以外には自然は存在しないということです。
 この自然の分類を第一部定理一五に当て嵌めると,能産的自然に属するものは神であり,あるものすなわち存在するものといわれているのは所産的自然に該当します。つまり所産的自然は能産的自然のうちにあるのであって,能産的自然がなければ存在するesseことも概念するconcipiことも不可能なものです。したがって第一部定理一八がいっているのは,能産的自然は所産的自然に対して内在的原因causa immanensであり,超越的原因causa transiensではないということになります。
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棋王戦&内在の原理

2020-03-19 19:12:54 | 将棋
 17日に東郷神社で指された第45期棋王戦五番勝負第四局。
 本田奎五段の先手で先手の矢倉,後手の渡辺明棋王雁木という戦型。先手が角の動きで一歩を得した後,後手が角と飛車の交換に持ち込むという展開。
                                        
 後手が端歩を突いた局面。悠長な手にも思えますが,これは狙いを秘めた一着でした。
 先手は☗4六歩☖同歩☗3五歩と後手の桂馬を狙いにいきました。後手は☖4七歩成☗同馬と一時的に凌いでおいて☖9五歩。先手は再び☗5六馬と戻って当初の攻めの継続を図りました。
                                        
 実は第2図の☗5六馬は悪手で,☗3六銀としておくのがよかったようです。なぜ悪手だったかはその後の展開から判明します。
 後手は☖9六歩☗同歩☖同香と一直線に端を攻めました。これを☗同香は☖9八飛なので☗9八歩と受けるのは仕方ありません。そうしておいて☖6五歩と打って☗4八角とどかし,☖9四飛と回るのが後手の構想。☗7四歩にも構わず☖9八香成と攻め合います。
                                        
 部分的にいうと☗9五歩☖同飛☗9六歩☖同飛☗9七歩で受かるのですが,その途端に☖5六飛と取れば後手必勝。つまり5六の馬にヒモがついていないのが先手の泣き所で,このために☗5六馬は悪手だったのです。ただ先手がミスをしたというより,後手が上手に咎めたという印象の方が僕には強かったです。
                                        
 3勝1敗で渡辺棋王が防衛第38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期に続く八連覇で通算8期目の棋王位です。

 第一部定理一五は,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estといっています。あるもの,すなわち存在するものはすべて神のうちに存在するのであって,神の外部に存在するものはありません。つまり存在するものはすべて神に内在し,神を超越して存在するものはないことになります。このゆえにスピノザの哲学は,万物が神に内在する哲学であり,神を超越する存在existentiaを認めない,他面からいえば神の外部が存在しないという意味で,内在の哲学であることになります。このうち,神の外部が存在することを認めないということは重要です。そのために内在の哲学が徹底されることになるからです。
 神は万物の原因causa,第一部定理一五に倣っていうなら,あるものすべての原因でなければなりません。第一部定理一五は,あるもののすべてが神のうちにあるということと同時に,神なしには何もあることはできず,また概念することができないnihil sine Deo esse, neque concipi potestということもいっているからです。このとき,神なしに存在し得ないすべてのもの,神なしに考えることができないすべてのものは,神のうちに存在します。したがって神は原因として,その結果effectusを自身の内部に産出するproducereのであり,自身の外部に産出することはありません。これはスピノザが第一部定理一八証明の中でいっていることです。よって第一部定理一八にある通り,神は万物に対して内在的原因causa immanensであって,超越的原因causa transiensではないということになるのです。要するに,神が内在的原因であることと,あるもののすべてが神のうちにあるということは,ふたつでセットなのであり,このふたつの事柄が,スピノザの内在の哲学の原理,徹底的な内在の哲学の原理を構成することになります。
 しかしこれだけでは,なぜこのことが「人新世」を克服するための条件になるかはまったく分からないでしょう。そこでここでは,スピノザが神といっているものを,第四部序言を参照することによって,自然Naturaと等置してみましょう。もしもこのように神と自然を等置することができるのなら,第一部定理一五は,存在するもののすべては自然のうちにあるということになりますし,第一部定理一八は,自然は万物の内在的原因であるということになります。
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京急電鉄賞京浜盃&克服の方法

2020-03-18 20:03:04 | 地方競馬
 第43回京浜盃
 ブリッグオドーンは両隣りの馬に挟まれて2馬身の不利、ストーミーデイが一旦は先頭に立ちましたが,外から押していったファルコンウィングが追い抜いてこちらの逃げに。2番手にストーミーデイとファルコンビーク。4番手にヴァケーションとファンシーアップ。6番手にコバルトウィングとティーズダンクと巻き返してきたブリッグオドーン。9番手はドイテーで10番手にブラヴールとチョウライリン。この11頭は一団。2馬身差でミリミリとピアノマン。3馬身差の最後尾にリバースメルローズ。スローに近いミドルペースでした。
 3コーナーではファルコンウィング,ストーミーデイ,ファルコンビーク,ファンシーアップの4頭が横並び。この4頭は雁行のままコーナーを通過。4頭の後ろは内にヴァケーション,外にコバルトウィングでしたが,ヴァケーションはあまり手応えに余裕がなさそうでした。直線に入ると前をいく4頭のさらに外に出したコバルトウィングが内の馬を差して先頭に。これに後方から脚を伸ばしたブラヴールが襲い掛かり,一旦先頭のコバルトウィングを差して優勝。コバルトウィングが4分の3馬身差で2着。ブラヴールのさらに外から脚を使ったティーズダンクが2馬身半差で3着。
 優勝したブラヴールは前走のクラシックトライアルからの連勝で南関東重賞初勝利。ここまで5戦して2勝,2着3回という成績でしたが,戦ってきた馬たちとの相手関係を考慮するとこのメンバーでは厳しいのではないかと思っていただけに,個人的には予想外の優勝でした。ヴァケーションが思ったほど動けず5着になったことを除くと,上位に入線した馬はそれなりの力量がある馬なので,ここにきて力をつけてきたということなのではないかと思います。末脚勝負型ですが,大きく崩れたことがないのは評価に値するでしょう。父は2009年に京成盃グランドマイラーズ勝島王冠,2010年に大井記念東京記念を勝ったセレンでその父はマーベラスサンデー。母は2006年のNARグランプリで3歳最優秀馬と最優秀牝馬に選出されたチャームアスリープ。Bravoureはフランス語で勇気。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は昨年の報知オールスターカップ以来となる南関東重賞17勝目。第41回以来2年ぶりの京浜盃2勝目。勝ち馬の管理だけでなく父も母も管理していた船橋の佐藤賢二調教師は南関東重賞39勝目。第24回,29回,40回,42回に続く連覇で京浜盃5勝目。

 どのようにすれば「人新世」を克服することができると近藤は考えているのでしょうか。それが内在の哲学による克服なのです。すなわち『〈内在の哲学〉へ』というのは,「人新世」の克服へ,ということを意味していることになります。したがって,内在の哲学とは,「人新世」を産出するプロセスとなっているよっつのシステム,それ自体が自律的な増殖運動を展開しつつ,相互にプラスのフィードバックを齎し合うよっつのシステムを克服する哲学であるということになります。もちろんそれは近藤にとってそうであるという意味であって,それが正しいのかどうかということは,僕はここでは判断を下しません。
                                       
 いずれにせよ近藤はそれを目指しているのですから,『〈内在の哲学〉へ』というのがどのような内容を有する書籍であるのかということも,何となく理解できるのではないでしょうか。すなわちそれは内在の哲学によって「人新世」をいかにして克服していくのかということを,多角的な側面から探求した著作であるということになります。すでにいったように,この本は実質的には論文集ですから,各々の論文は,何らかの仕方で,「人新世」を内在の哲学によって克服する方法を示したものということになります。
 近藤は内在の哲学という思想を示している哲学者として,3人の名前を挙げています。スピノザ,カヴァイエスJean Cavaillès,そしてドゥルーズGille Deleuzeです。順番が異なりますがこの本の副題は,「カヴァイエス ドゥルーズ スピノザ」なのです。このうち,カヴァイエスの著作は僕は読んだことがありません。ドゥルーズに関しては,スピノザの哲学を研究した2冊,『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』と『スピノザ 実践の哲学 Spinoza : philosophie pratique』は読んでいますが,ドゥルーズ自身の独自の思想に関しては僕はさほど詳しくはありません。なのでここでは,スピノザの哲学が内在の哲学であるといわれることの意味が,近藤の見解とどのように関係するのかということを,僕自身の仕方で説明することにします。
 まずスピノザの哲学が内在の哲学であるということの基本を確認しておきます。最根源になるのは第一部定理一五で,そこから派生してくるのが第一部定理一八です。
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明治時代の新聞&人新世

2020-03-17 19:40:29 | 歌・小説
 夏目漱石は読売新聞から入社の誘いを受け,条件が折り合わずに破断。その後に朝日新聞からも誘いを受けて,合意をして入社しました。当時は漱石に限らず,一流の作家が入社の誘いを受け,また社員として作品を紙上に掲載していました。こぞって作家に入社してもらおうとした新聞社の事情について考えるとき,まず現代に生きる僕たちの常識という面から,注意しておかなければならないことがいくつかあります。
                                         
 読売新聞とか朝日新聞というのは,現代でいえば日本を代表するような大新聞です。しかし,漱石が誘いを受けた頃はそうだったわけではありません。つまり漱石は読売からの誘いを断って朝日に入社したというと,いかにも大手の新聞から誘いを受け,また漱石が何らかの価値観の下に一方を選択したと僕たちは思ってしまいがちですが,そういうわけではないのです。むしろ現代的な感覚でいうなら,この当時は読売新聞も朝日新聞もタブロイド紙のようなものであったと把握しておく方が,この当時の事情については正確な印象をもつことができるでしょう。
 もうひとつ,朝日新聞であれ読売新聞であれ,現代社会でそういう一般紙を読んでいる読者の多くは,デジタル版を別とするなら,自宅に宅配された新聞を読んでいる筈です。当時はデジタル版などあろう筈がありませんから,新聞とは紙の新聞を意味します。ところが当時の紙の新聞の読者というのは,月間の新聞代を支払って宅配される新聞を購読していたわけではないのです。なぜなら,明治時代の新聞には宅配制度はなかったからです。今でもスポーツ新聞の場合は,宅配で読む人よりも駅の売店やコンビニエンスストアでその日のものを買って読むという人の方が多いのではないかと思いますが,当時は一般紙というのも,それと同じように,その日の新聞をどこかで買って読むものでした。なので,新聞を読むためには買いに行くという必要があり,基本的に家で過ごしているような人が,読みたいときに読むことができるようなものではありませんでした。
 これらふたつの事情は,今の僕たちにはすぐに理解することは難しいのではないかと思います。なのでここには留意しておかなければなりません。

 「人新世」が地質学会の中でどう評価を受けているのかということについて何も語らなかったのと同様に,近藤がそのプロセスとして示しているよっつのシステムおよびそれらのシステムの連関性についての妥当性についても僕はここでは何も講評しません。というよりそのような講評は今はする必要がありません。なぜならここでの目的は,近藤の関心の中心がどういう点にあるかを説明することであって,そうした近藤の関心事に関する見解が妥当であるかそうでないかは関係ないからです。
 これでみれば分かるように,近藤の関心の中心はきわめて現代的なこと,少なくとも「人新世」という地質学的な時代が開始されたと近藤が指摘している1950年代以後から進行形で継続している現代的なことであることが分かります。そして同時にそれは,思弁的なあるいは形而上学的な関心であるというわけではなく,科学技術産業,経済,軍事,そして政治という,きわめて幅の広い部門にわたる関心であるということも分かります。一方で僕についていえば,その関心はスピノザの哲学にあるのであって,それをより明確に解明するということに力を注いでいます。したがって,近藤の主張することの中には僕の力では理解することが困難な事柄が多数含まれているであろうということは,僕だけにではなくだれにでも容易に理解することができるでしょう。そしてまた,それを理解することに傾注することは,僕の関心にとってはそれほど意味がないことであるということも理解してもらえるだろうと思います。僕は最初に,『〈内在の哲学〉へ』については,『主体の論理・概念の倫理』の補足のためにだけ読んだといいましたが,それが具体的に意味しているのはこういうことです。
 近藤にとって「人新世」は,克服されるべきもの,あるいは揚棄されるべきものです。なぜなら「人新世」とは,人類の営みが地球環境に対して,大規模自然災害並みの影響を与える時代のことを指すからです。したがって「人新世」の最終地点は環境破壊であり,それは同時に人類の終焉を意味することになるでしょう。なので「人新世」が近藤にとって肯定的に評価される筈ありません。
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