スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典帝王賞&可分性

2016-06-30 19:17:23 | 地方競馬
 昨晩の第39回帝王賞
 まずアスカノロマンが先頭に立ちましたが,騎手は抑え気味。これを見て外から交わしたクリソライトの逃げになりました。2馬身差で控えたアスカノロマン。1馬身差でコパノリッキー。さらに1馬身差で発走後にすぐに内に入れたアムールブリエとホッコータルマエの併走。ここから3馬身ほど開いてサウンドトゥルー。さらに半馬身ほどでノンコノユメという隊列に。最初の1000mは62秒2のスローペース。
 3コーナーにかけて前の馬群が凝縮。この時点でアムールブリエは鞭が入って脱落。ホッコータルマエまでの4頭がほぼ雁行に。外から被されるのを嫌ったかコパノリッキーがコーナーで仕掛けていき前の2頭を交わして先頭に。ホッコータルマエが追って2番手。外を捲ったノンコノユメが3番手で直線に。コパノリッキーを追っていたホッコータルマエは苦しくなりノンコノユメが2番手に。しかしコパノリッキーはノンコノユメ以上に伸びたので最後は突き放す形で優勝。ノンコノユメが3馬身半差で2着。ノンコノユメに先に行かれたサウンドトゥルーが直線ではさらに外から脚を伸ばし5馬身差で3着。コパノリッキーに突き放されたホッコータルマエは3馬身半差で4着。故障したアウォーディーを除くと現ダート中長距離の最強メンバーが揃った一戦になり,ダートの力勝負らしい着差の開いた結果になりました。ペースの関係もあり時計こそ出ませんでしたが,これはメンバーランクの高さの証だと思います。
                              
 優勝したコパノリッキーは前走のかしわ記念に続く大レース7勝目。この馬の場合は自身のペースで走れるかどうかがすべて。向正面ではやや行きたがっていたようにも見えましたが,3番手で折り合いをつけ,ホッコータルマエが来るとみるやすぐさまスパートして相手の思い通りにさせず,同時に末脚を武器にする馬たちの追撃も封じることに成功。最も能力を出せたのがこの馬でしたし,能力の上限もこの馬が一番だったようです。ただしいつでもこのように力を発揮できるわけではなく,相手の動向次第で崩れてしまう可能性はまだあるとみておいた方がよいかと思います。父はゴールドアリュール。祖母の従弟に2002年の大阪杯,2005年の大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス
 騎乗した武豊騎手イスパーン賞以来の大レース制覇。国内ではかしわ記念以来。第28回,32回,34回,37回と勝っていて2年ぶりの帝王賞5勝目。管理している村山明調教師はかしわ記念以来の大レース制覇。帝王賞は初勝利。

 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第二部の内容に関して,スピノザが概ねデカルトの見解,正確にいうとこれはスピノザが解したところのデカルトの見解ですが,それに追随していたのだとしても,そこでカセアリウスに教えたことのすべてをスピノザが是認していたと解するなら,これは決定的な誤謬であるといわなければなりません。なぜなら,デカルトの延長論では,物体的実体という実体が必然的に存在しなければならないということが主張されていますが,それは神とは異なる実体であると規定されているからです。しかしスピノザの考えでいえば,物体的実体というのは延長の属性にほかなりません。したがって第一部定義六によってそれは神の本性を構成しなければならないからです。よってデカルトの哲学でいわれる物体的実体とは,スピノザの哲学においては延長の属性の下で認識される,あるいは説明される限りでの神にほかなりません。このことはカセアリウスにデカルト哲学を教授していた時期のスピノザのうちに明確にあった考え方だといっていいでしょう。
 デカルトが物体的実体を神とは別の実体とみなしたのは,物体的実体は可分的であると判断し,この可分性が神の本性には適合しないと考えたからです。対してスピノザは第一部定理一三系で,たとえ物体的実体ではあってもそれは可分的ではないということを示しています。だから『デカルトの哲学原理』の第二部のすべてについて,スピノザがデカルトの主張を肯定していたということはあり得ません。そしてこのことがカセアリウスに教授した内容に含まれています。したがってスピノザは,自身は誤りであると考えていた内容も,カセアリウスに対して教えていたことは間違いありません。
 物体的実体が可分的ではないとスピノザが考えていたことは,工藤が示している,スピノザのロバート・ボイルRobert Boyleの主張に対する誤解の遠因のひとつであったかもしれないと僕は考えています。ですがそれについては今は触れません。『スピノザ哲学研究』で示されているスピノザとボイルの間の論争に関して,『デカルトの哲学原理』と最も関係していると僕がみなす部分が別にあるので,そちらが先です。
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サンケイスポーツ盃優駿スプリント&カセアリウス

2016-06-29 19:36:05 | 地方競馬
 昨晩の第6回優駿スプリント
 シングンヴィグラスは発馬後の加速が鈍く一時的に取り残されました。まず先頭に立ったのはクラトイトイトイ。ですがこれを交わしてノーフォロワーの逃げに。クラトイトイトイとムサシトレジャー。それからラクテ。その後ろにオウカランブとヴェルミオン。クリルカレントが続いてケイエスソード,エイシンヒート,ジュンサザンクロスの3頭。ここまでが前の集団。かなり差が開いて後方集団の最前列に巻き返してきたシングンヴィグラス,リオヴァンクール,ビッグジャイアントの3頭という隊列に。前半の600mは35秒0のハイペース。
 3コーナー手前からヴェルミオンが上がっていき4番手に。一番内にいたクラトイトイトイは寄られるところもありコーナーで後退。前はノーフォロワー,ムサシトレジャー,ヴェルミオンの3頭の雁行になり,ヴェルミオンを先に行かせたラクテがクラトイトイトイを交わして4番手に。直線に入り前3頭の争いからヴェルミオンが脱落。その外から伸びたラクテが内の2頭を交わして先頭に。しかし2頭分外から追い上げたエイシンヒートがゴール前でラクテを交わして優勝。クビ差の2着にラクテ。大外から脚を伸ばしたビッグジャイアントが1馬身半差の3着に届き,逃げたノーフォロワーはクビ差の4着。逃げ馬をマークしていたムサシトレジャーは最後までこれを交わせず半馬身差の5着。
 優勝したエイシンヒートはこのレースが南関東重賞初挑戦。昨年8月に新馬を勝ったときからこのレースが目標と陣営が狙いを定め,1400mの1戦以外は1200m戦だけを使い続けていました。ここ2戦は57キロで2着,1着でしたから,56キロになったのもよかったのでしょう。競り合っての強さはありますが,持ち時計はさほどでなく,ここも勝ち時計があまり早くならなかったのもこの馬にとってはプラス材料だったと思います。ただいかに不良馬場とはいえ,このタイムでは全体のレベルにやや疑問を感じないでもありません。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は川崎マイラーズ以来の南関東重賞制覇。優駿スプリントは初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師も優駿スプリント初勝利。

 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』が成立した過程に注目するなら,スピノザは第二部に関しては,第一部ほどには異論を有していなかったと推定することはできます。
                                     
 第二部は,スピノザがレインスブルフRijnsburgのヘルマン・ホーマンHermann Homanの家に住んでいたときに,寄宿させていたカセアリウスへの講義録です。シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九においてスピノザは,カセアリウスは真理を求めているというより新奇を求めていて,スピノザにとっては厄介で用心しなければならない相手であると書いています。これはフリースがスピノザと同居していて,いつでもスピノザと話すことができるカセアリウスを羨んでいることに対する返信となっているので,まったく誇張がないとはいえないかもしれません。ですが全面的な虚偽とはいえないでしょう。そしてスピノザは,カセアリウスがそういう人物であるから,自身の思想については教えてはいけないとし,それをフリースをはじめとする友人たち,ここでは講読会のメンバーを念頭に置いていると思われますが,これを依頼しています。
 マイエルLodewijk Meyerによる『デカルトの哲学原理』の序文には,第一部はその講義録に含まれていたわけではなく,出版するにあたってマイエルが依頼し,スピノザが引き受けて二週間で完成させたという旨の記述があります。これは書簡十五でスピノザがマイエルに序文に書いてほしいと依頼したことのひとつです。ですからここから理解できるのは,スピノザは自分の哲学を教授するのはまだカセアリウスに対しては早すぎると認識したので,自分の哲学の代わりにデカルトの哲学を教授したのですが,その教授した部分というのは,第二部および第三部の中途までで,第一部は含まれていなかったということです。つまりスピノザは思惟の属性と関わるデカルトの哲学は教えず,延長の属性と関係する部分をまず教えたということになります。
 延長論の方を教えて思惟論は教えなかったというスピノザの選択には,何らかの理由があったと推測されます。そしてそれは,第二部に記述された範囲の延長論については,スピノザは第一部よりはデカルトの見解に追随していたからだと解することは可能でしょう。
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中野カップレース&デカルトの延長論

2016-06-28 19:13:20 | 競輪
 被災地支援競輪として開催された久留米記念の決勝。並びは新田‐守沢の北日本,古性‐村上の近畿,徳永‐松岡‐坂本‐園田の九州で木暮は単騎。
 前受けは新田。3番手に古性,5番手に木暮,6番手に徳永で周回。徳永は残り2周のホームから発進。一気に前を叩きにいったのですが,古性が応戦したため先行争いに。合わされたとみたか松岡は徳永を追わず,バックで村上の後ろに。打鐘の時点でもまだ先行争い。園田の後ろに木暮が入り,その後ろに新田という隊列で,徳永を除けば一列棒状。徳永は残り1周のホームに入るあたりで浮いて後退。すぐに松岡が自力で発進し,坂本までは出ましたが園田は村上に捌かれ,坂本の後ろに村上。木暮がこの後ろに入ろうとしましたがこれは園田が阻止。3番手になった村上はバックですぐに発進。木暮の後ろに続いていた新田も動いていましたが,村上の外を回されることに。坂本はコーナーで村上を大きく牽制。このために新田はさらに外に浮かされ,逆に松岡と坂本の間に進路ができて,そこを突いたのが新田を追っていた守沢。直線の入口では先頭に出て,そのまま優勝。半車身差の2着に坂本。守沢を追った園田が1車輪差で3着。立て直して大外を伸びた新田は8分の1車輪差の4着まで。
 優勝した秋田の守沢太志選手は記念競輪初優勝。ここは前を回る選手の中では新田の力がはっきりと上位。ただ守沢は昨日も新田マークのレースで離されそうになっていましたから,新田の発進にマークしきれるかどうか不安視していました。バックに入ったところでかなりごちゃついたため,さほど加速がついた捲りにならなかったこともあり,きちんとマーク。さらにその後の坂本の動きで漁夫の利を得たという感はあります。自力があるのであのように進路ができれば突き抜けることは可能。そのチャンスを見逃さなかったことが優勝に結実したということだと思います。

 僕には化学とか物理学に関わる知識が決定的に欠如しています。ですから粒子論について,ロバート・ボイルRobert Boyleと論争していた時代と,『エチカ』の自然学Physical Digressionを執筆していた時期に,スピノザには相違があるという工藤の見解opinioについても,そうした観点からは何も結論を出すことはできません。いい換えれば工藤の主張の是非について何らかの判断を下すということはできないのです。ただ,『スピノザ哲学研究』では,ボイルと論争していた時期のスピノザは,デカルトRené Descartesの立場からボイルを批判したとされていますので,その点との関係で,それを一般的にどう認識しておくのが妥当であるのかということについて,僕なりの見解だけは表明しておきましょう。
 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』は,第一部が思惟の属性Cogitationis attributumに関する議論で,第二部が延長の属性Extensionis attributumに関する議論であるというように,基本的にはなっています。この当時のスピノザが,第二部で示されているデカルトの延長論について,そのすべてを是認していたというようには考えておかない方が安全であるというのが僕の基本的な見解です。
                                     
 『デカルトの哲学原理』にはマイエルLodewijk Meyerによる序文があり,そこではこの著書の中には,スピノザ自身の考え方によれば誤謬errorであって排斥するべきものがあるという主旨のことが書かれています。書簡十五から分かるように,この序文はスピノザの指示のもとに書き直されたものです。マイエルが強調している事柄は第一部と関係していますが,だからといって第二部の中にもスピノザが誤謬であるとみなしている事柄がなかったというわけではないのです。
 スピノザがオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てた書簡三十二からは,少なくともスピノザがデカルトが示した運動motusの第六規則は誤謬であると考えていることが判明します。これはスピノザがフォールブルフVoorburgに移住した後に出された手紙で,『デカルトの哲学原理』について講義していた時期やボイルと論争していた時期よりは後になりますから,工藤の論考に対しては何も有効ではありませんが,スピノザがデカルトの延長論をすべて受け入れていたわけではないということの根拠のひとつにはなり得るでしょう。
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サクラチトセオー&粒子論

2016-06-27 19:12:07 | 名馬
 先週の京成盃グランドマイラーズを逃げ切って南関東重賞初制覇を達成したレガルスイの母の父はサクラチトセオーです。
 祖母はクレアーブリッジ。半妹にサクラキャンドル
 2歳10月にデビューすると新馬,特別と連勝。この後,レースを使うことができず3歳5月にダービーのトライアルだったNHK杯で復帰。3着で出走権を得てダービーに出走するも11着。ここから長期の休養に入りました。
 4歳2月に復帰。復帰戦は3着でしたが2戦目に勝つと中山記念に格上挑戦。見事に重賞制覇を達成しました。距離適性から天皇賞(春)は目指さず,オープンを連戦して2着,1着。そして春最大の目標とした宝塚記念に出走しましたがこれは6着でした。
 秋は京王杯オータムハンデキャップから復帰。レコードタイムで重賞2勝目。このまま天皇賞(秋)に直行するも6着。ジャパンカップではなくオープンに出走して勝つと有馬記念に参戦。これは6着でした。
 休養せず1月のアメリカジョッキークラブカップに出て重賞3勝目。連覇を狙った中山記念は2着。続く安田記念も外国馬の2着。宝塚記念は1番人気に推されましたが7着でした。
                              
 秋は毎日王冠からで4着。これは重馬場が影響したのかもしれません。良馬場になった天皇賞(秋)は先行して抜け出した馬を外から差し切り,大レースを手中に。ジャパンカップをパスして挑んだ有馬記念はマヤノトップガンの3着に入り,競走生活を終えました。この年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出されています。
 派手な活躍をした馬ではありませんが,成績が安定していたこともあり,100頭以上の種付けをした年もありました。ただ重賞の勝ち馬が2頭出ただけで,成功とはいえなかったかもしれません。産駒のうち1999年のラジオたんぱ杯3歳ステークスを勝ったラガーレグルスはかなり能力が高かったと思うのですが,ゲート難で競走馬生活を棒に振ってしまったのが残念です。

 『スピノザ哲学研究』は膨大な量を有しますから,僕が気になった点についてそのすべてを説明するわけにはいきません。ですがこれを手掛かりとして考えておきたいいくつかの事柄がありますので,ここからはそれらについて詳しく探求していくことにします。
 まず,この本には,ほかのスピノザの哲学の論考とははっきりと一線を画すような特徴があります。それはオルデンブルクHeinrich Ordenburgを介して交わされたロバート・ボイルRobert Boyleとスピノザとの間の論争について,ひとつの章を割いて綿密に考察しているという点です。少なくともこの論争をここまで多量に考察した論考というのを僕はほかに知りません。
 このことについてほかの研究者がさほど重視しない理由というのは僕には理解できます。科学者という観点からみるなら,ロバート・ボイルは一流のプロです。ボイルと比較していうならスピノザはアマチュアといって過言ではないでしょう。論争のテーマは硝石に関するものですが,硝石に関する研究に関しては,やはりボイルとスピノザとの間にはプロとアマほどの違いが存在するのであり,それを殊更に探求する必要はないからです。むしろその論争の中で,スピノザが哲学的見解を表明している点にだけ多くの研究者が着目するのはいわば当然といえると僕は思います。
 ただ,スピノザはアマチュア科学者であるといっても,実験に関して創意工夫はしているのであって,その点だけは評価の対象にしてもよいと思います。これは『ある哲学者の人生』などに典型的にみられる評価です。けれど工藤がこの論争を重点的に考察している理由というのは,そういう点にあるのではありません。スピノザの哲学にはスピノザに特有の粒子論というものがあるのであって,しかしその粒子論というのは,ボイルと論争している時代にはまだ確たるものとはなってなく,後に『エチカ』で自然学について言及するようになったときに完成したのだというのが工藤の見解です。いい換えればスピノザの粒子論というのは,ボイルと論争している時代と,『エチカ』を執筆している時期では,異なったものになっているということを工藤はここで論証しようとしているのです。
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宝塚記念&客観的

2016-06-26 19:01:38 | 中央競馬
 第57回宝塚記念
 キタサンブラックが逃げることになりました。2番手にワンアンドオンリーでその後ろがアンビシャスとトーホウジャッカル。この4頭は集団。好位にシュヴァルグラン,カレンミロティック,サトノノブレスの3頭。中団の最前列にラブリーデイとラストインパクト。その後ろにフェイムゲーム,ステファノス,マリアライトの3頭でドゥラメンテは単独でその後ろに。最初の1000mは59秒1で最近の芝のレースの傾向からしたら超ハイペースでしょう。
 3コーナーを回るとワンアンドオンリーはついていかれなくなり,サトノノブレスが2番手に。ラブリーデイはいい手応えでその外から前に接近。さらにマリアライトが押して一番外から進出。直線の入口でサトノノブレスも苦しくなりラブリーデイが単独の2番手に。ですが見た目の手応えほどの伸び脚がなく,むしろ押していたマリアライトが交わして2番手に。馬群を捌いて外に出してから伸びてきたドゥラメンテもこれに急接近して逃げたキタサンブラックと3頭が接戦での優勝争いに。最後までしぶとく脚を伸ばした中のマリアライトが優勝。クビ差の2着に外のドゥラメンテ。ハナ差の3着が内のキタサンブラック。
 優勝したマリアライトは昨年のエリザベス女王杯以来の勝利で大レース2勝目。その後は牡馬相手のレースばかり出ていてすべて入着していましたから,牝馬とはいえ能力でそう劣ることがないのは分かっていました。やや力を要して上りが掛かる馬場が得意。宝塚記念はそういうレースになりやすい上,今日は馬場も悪くなったのも味方したと思います。条件が整えば今日のように強力な牡馬を相手にしても勝つというシーンはありますが,瞬発力を要する軽い馬場になったときには牝馬同士でも苦戦しかねないというタイプの馬であると思われます。父は第47回を制したディープインパクトで父娘制覇。母の父はエルコンドルパサー。祖母がキャサリーンパー。半兄に2013年のジャパンダートダービーを勝っている現役のクリソライト。半弟に昨年の神戸新聞杯を勝っている現役のリアファル。Marialiteは宝石の名前。
 騎乗した蛯名正義騎手は皐月賞以来の大レース制覇。宝塚記念は初勝利。管理している久保田貴士調教師はエリザベス女王杯以来の大レース2勝目。

 用語の注意をしておきます。
 僕はスピノザが事物がobjectiveにあるというとき,客観的にあると訳します。これは事物が知性intellectusのうちに,あるいは思惟の様態としてあるという意味です。したがって事物Aの客観的有realitas objectivaとは,Aの観念という意味です。ですから僕たちが使い慣れたことばでいえば,この語はむしろ客観的の対義語である主観的にあるというのに近いことになります。岩波文庫版の『エチカ』では,この混乱を避けるために想念的にあると訳されていますが,想念的という語は僕の語彙にはないので,客観的とそのまま訳しています。『スピノザ哲学研究』ではたとえば231ページでobjectiveに客観的にという日本語があてられています。つまりここでは工藤は僕と同じように訳していることになります。
                                     
 174ページで工藤は一般的概念notiones communesについて説明するとき,それは客観的な認識ではないと記述しています。このとき工藤が客観的な認識でないということの意味は,主観的認識であるという意味です。『エチカ』ではobjectiveの対義語に該当するのはformalisで,これを僕は形相的と訳しています。つまり174ページで工藤がいいたいのは一般的概念は客観的なものではなく形相的なものであるという意味ではありません。むしろ事物の形相的本性の認識ではないという意味に近いことになります。
 工藤がこのようにいっているのは,一般的概念は十全な観念ではないという意味を含ませるため,というかそのことの意味を強調するためです。ですからこのような記述方を用いた理由は僕にはよく理解できます。ただ,結果としてこの本では,客観的という語が有する意味が,ふたつに分離されてしまうことになりました。工藤がどのような意味で客観的という語を用いているのかということは,その語が出てくる各々の文脈に照合して解釈すれば容易に理解できる筈です。ですから別の意味でひとつの語を使っていること自体が難点のひとつであるとはいえないと思います。けれどこの点にはよく注意しておく必要があるでしょう。
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印象的な将棋⑫-1&『スピノザ哲学研究』

2016-06-25 18:59:01 | ポカと妙手etc
 第37期女流王将戦本選トーナメント1回戦より。この将棋は中盤で変わった応酬が出たので印象に残ったのですが,まずその伏線となった部分から。
                                     
 第1図は後手が4筋の位を取ったところ。僕は村田女流二段の将棋はそんなに多く鑑賞していませんが,このような相居飛車の右玉は得意戦法のひとつのようです。
 先手はすぐさま☗4六歩と反発していきました。取るのは明らかに後手が損なので☖5四銀左。以下☗6八角☖8四歩として先手から☗4五歩と取りました。これには当然☖同銀。
 本来なら☗4六銀とぶつけたいところですが☖3六銀と交わされてしまいます。仕方がないので☗7九王と寄ったのですが☖4一飛と回られ☗4六歩☖5四銀引で4筋を巡る攻防は一時的に収束しました。
                                     
 第2図となっては先手から動いたのに後手だけが一歩を持ち駒にしたことになりますから明らかに先手の失敗。つまり第2図は後手の作戦勝ちとなっています。この後の動きはこれが両者の共通認識であったために発生したと推測されます。

 12月22日,火曜日。この日は川崎で午後5時5分に帰宅したのですが,移動中に1冊の本を読み終えました。工藤喜作の『スピノザ哲学研究』です。
                                     
 工藤の著作としては『人と思想 スピノザ』があり,これは僕もだいぶ前に読んでいました。ですがこれは入門書というべきもので,工藤によるスピノザの哲学の読解が詳細に記述されているわけではありません。工藤の研究の代表的な著作が1972年に出版された『スピノザ哲学研究』です。僕はその本の存在は知っていましたが,何しろ古いものですから,ずっと入手することができずにいたのです。それがこの年,というのは2015年のことですが,復刻版が出版されることになり,僕も手に入れることができるようになったのです。原書は東海大学出版会から刊行されたもの。復刻版は学樹出版からの刊行です。ご承知の方も多いでしょうが工藤は2010年にこの世を去っています。復刻版には娘である工藤寿子の「父,工藤喜作のこと」という附録が収録されています。
 発行日は去年の5月10日になっています。長らく読みたいと思っていた本ですから,入手したのも発行からそれほど長い時間が経過した後ではなかったと思います。僕は入手はしてもそれをすぐに読み始めるとは限りません。いつ入手し,またいつ読み始めたのかということまでははっきりと覚えてはいません。ただ,この本は相当の量がありますから,簡単に読み終えるということは僕にはできない筈で,少なく見積もっても2ヶ月,場合によっては3ヶ月くらいは掛かっただろうと思います。なので昨年の秋に読み始め,冬になって読み終えたというのは間違いありません。
 構成は三部です。第一部が「汎神論的根源直観の形成」という標題。この部分はスピノザの哲学がどういった思想を源流として産まれたかという点の研究です。したがってこの部分は哲学的内容に関する研究とは少し異なっているといえるでしょう。第二部の標題は「体系の合理化」で第三部は「神の認識と宗教」です。これらはいずれも哲学的内容に関する論考になっています。ただし,部分的にいえば国家論や政治論に近い研究も含まれています。
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永源遥&2015年12月の通院

2016-06-24 19:05:12 | NOAH
 ラッシャー・木村が馬場を「兄貴」と呼び始めた流れで結成された義兄弟タッグ。世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場していますが,最終的にはファミリー軍団となり,悪役商会を相手に前座を盛り上げることになりました。僕は今でもあれはプロレスのひとつのスタイルの完成形であったと思っています。悪役商会の側で中心的役割を担ったのが永源遥。プロレスラーとして何か実績を残したとはいい難いかもしれませんが,間違いなく名レスラーだったと僕は思います。
 僕のプロレスキャリアが始まったとき,永源は新日本に所属していました。ただし前座レスラーであり,テレビ中継に登場することはありませんでした。そもそも当時の新日本プロレスのスタイルとは一線を画していたと思え,テレビに出てはいけないレスラーだったかもしれません。
 長州力ジャパンプロレスに参加し,必然的に全日本で仕事をするようになりました。長州が永源のスタイルを好んでいたとは僕には考えられません。ただ永源は営業の手腕があり,それを買われてジャパンプロレスに参加することになったのではないかと推測します。
 1987年のピンチのときに谷津嘉章らとともに全日本に残留。長州と袂を分かちました。新日本に復帰してもレスラーとしてはいい仕事場があったとは思えないので,これは賢明な選択だったといえるでしょう。ただ,営業手腕を馬場に買われたという可能性もあると思います。
 天龍源一郎がSWSに移籍した後も全日本に留まりました。すでに悪役商会は結成されていたのでこれは当然の判断。結果的に生前の馬場の最後の試合の相手を務めたひとりになりました。
 NOAHの旗揚げには参加。木村も参加しましたから,相手に困ることはありませんでした。NOAHでも営業を担当し,その部分での貢献もあった筈です。
 営業手腕があったというのは,同時にアイデアマンであったということだろうと思います。ファミリー軍団と悪役商会の試合があれだけ面白くなったのは,永源の才能による部分も大きかったのではないでしょうか。

 12月20日,日曜日。妹のピアノのレッスン。午後2時半からでした。
 12月21日,月曜日。内分泌科の通院の日でした。
 病院に到着したのは午後12時50分。この日は採尿を終えると採血の順番が回ってくるところでしたので,先に採血を済ませ,それを終えてから注射針を処理しました。診察の予約は午後2時半でしたので,この日も外食しています。
 採血を終えると包帯を巻かれます。僕は普段はこれを内分泌科の受付に行く直前に外して,受付に設置されている所定のごみ箱に捨てています。ところがこの日はいつになくきつく巻かれてしまったようで,締め付けに耐えられず,ずっと早い段階で外してしまいました。実際にはこれは5分ほど着用しておけばよいものですからそれでも問題はありません。ただごみ箱は所定のものを使わなければいけない規則ですから,持ち歩かなければならず,この面倒をいつもは避けているだけです。
 この日は待たされました。診察が始まったのは午後3時半でしたから,1時間も遅れたことになります。最近はひどく待つケースが減っていましたので,この日は何か特別な理由があったのだろうと思うのですが,何であったかは分かりません。
 HbA1cは7.0%でした。まだそれほど寒くなっていませんでしたから,これくらいの数値を保つことができていたということです。そしてこの日はこれ以外には何も異常が出ていませんでした。これは非常に珍しいケースで,2014年4月以来です。
                                     
 計測した血糖値を記入しておく自己管理ノートは1年で1冊を使いきるものです。年末でしたからもうすぐ記入欄がなくなります。ですので新しいものをもらいました。一方,K先生の方からは,来年,というのは今年のことですが,3月で退職することが決まったという話がありました。主治医は2年か3年で交代するというのがほぼ通例になっていましたから,僕もそんなに驚く話ではありませんでした。次の診察もやや間隔があり3月中旬になりましたが,それがK先生による最後の診察になるということです。この日も薬局にはすべての在庫があり,午後4時45分に帰宅しました。
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イワンの認識&市電

2016-06-23 19:15:25 | 歌・小説
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でスピノザが示した人間の神に対する服従の条件のひとつに,人が悔い改めた場合には神は許さなければならないというものがありました。スピノザによれば罪を犯さない人間はだれもいないので,悔い改めても許されないとするなら,だれも救いの希望をもてないし,神が憐れみ深いと信じる理由が欠如してしまうために,これが条件として必須になるのです。
 僕はこの条件から,いくつかのことを連想します。その代表的なものは,『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの苦悩です。このイワンの苦悩はあるいはドストエフスキー自身の苦悩とリンクしていたかもしれませんが,ここではだれの苦悩であるのかということは問わず,苦悩そのものに注目します。
                                     
 物語上に表出されるイワンの苦悩というのは,神の存在に関わるものです。端的にいえばイワンは神が存在するということに確信を抱けず,他面からいえば神の不在に対する疑念を抱かざるを得なかったのです。それは世界には,もしも神が存在するならば生じ得ないとしかイワンには思えないようなことが,現実的に生じていたからです。
 これはおそらくイワンの秘めた「父殺し」の願望とも関係しています。イワンはもしも神が不在ということになれば,どんな行いも許されるようになると認識していました。つまりもしも神が不在であるなら,父を文字通りに殺してしまっても許されると認識していたことになります。ですがイワンは神の不在についても疑念を抱いているだけで,それについての確信もありませんでしたから,スメルジャコフに対するイワンの使嗾があったとしても,自分の手でフョードルを殺すには至らなかったのです。
 スピノザの主張とイワンの認識には一見すると大きな懸隔があります。なので僕はスピノザの服従条件から,イワンの思想を連想してしまうのです。

 横浜市の市電というのは僕が産まれたときにはまだ走っていました。廃止になったのは僕が1歳のとき。最後の市電は花電車として走り,は僕とそれを見に行って,僕を肩車したと話しています。ですが僕にはその記憶はありません。産まれたときには確かに走っていたのですが,僕は乗ったことはもちろん走っているのを見たという記憶もありません。
 現在の横浜市営バスの路線の中には,当時の市電の路線の名残があります。たとえば101系統というバスは,根岸駅から本牧,元町,桜木町,そして僕が11日に行った浅間町を経由して保土ヶ谷車庫まで行きます。僕は本牧にはよく行きますし,この系統は本数も多いのでよく利用します。しかしなぜこのような奇妙な路線のバスがあるのかは不思議に思っていました。ですが保土ヶ谷車庫を出てこれとまったく同じ経路を辿り,最後は根岸駅から八幡橋まで向うという市電の路線があったことを知りました。八幡橋でバスが引き返すということはできないので,現在は根岸駅までしか通っていませんが,これは明らかに往時の市電の路線をそのまま走るバスなのであり,こういう路線が現存する理由はここにあったのだと知ることになったのです。
 12月12日,土曜日。妹の土曜出勤でした。12月はクリスマス会です。
 12月13日,日曜日。ガイドヘルパーを利用しました。カラオケでした。
 12月14日,月曜日。妹の遺伝科の通院でした。この日も午後1時から。診察のほかに身体測定を行ったそうです。僕はこの日は長者町。帰宅は午後4時25分でした。
 12月17日,木曜日。施設で妹の認定面接というのがありました。これは2年に1度という頻度で実施されているものです。面接自体は大した内容ではないのですが,妹の診断書が必要になるので,それだけは準備しておかなければなりません。午後2時から母と施設の担当者および区の担当者で実施され,その後で作業所の方に行って妹にもいくつかの質問がされます。施設が実施するのではなく市が実施しているのですが,場所は施設です。施設の担当者の話も必要とされるからだと思います。僕はこの日は東神奈川でした。
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京成盃グランドマイラーズ&ガス警報器

2016-06-22 20:51:39 | 地方競馬
 第19回京成盃グランドマイラーズ
 逃げたい馬が何頭かいたのですが,案外すんなりとレガルスイが先手を奪いました。セイントメモリーが2番手でムサシキングオーがその後ろでしたが,向正面でずるずると後退してしまいました。自然と3番手になったのがプリンセスバリュー。ジェネラルグラントが4番手に。この後ろはリアライズリンクスとモンサンカノープス。その後ろにタイムズアローとサトノタイガー。ここから大きく差が開いてブロードソードとラヴィアンクレール,さらにカーティスバローズとグランディオーソとなり最後尾にポイントプラス。前半の800mは48秒2のハイペース。
 3コーナーを回るとレガルスイが2番手との差を徐々に広げていきました。コーナーで外を回って追い上げようとした馬たちは苦しくなり,追ってきたのは内を回ったプリンセスバリュー。しかしレガルスイは直線でもこの追い上げを許さず逃げ切って優勝。プリンセスバリューが2馬身半差で2着。中団から脚を伸ばしたタイムズアローを後方から追い込んだグランディオーソが捕えて2馬身差の3着。タイムズアローはアタマ差の4着。
 優勝したレガルスイは南関東重賞初勝利。これまで23戦して4着以下が3回という安定した成績。今年に入ってオープンを2勝していましたので,南関東重賞も手が届く位置まで来ていました。ここは相手が強化した印象だったのでどうかと思いましたが,持ち味のスピードが最大限に生きた形での南関東重賞制覇を達成。前に行けるのは強みなので,今後もチャンスはあるでしょう。距離が長くなるのはあまりよくないものと思います。まだ十分に能力を制御できていない感もありますから,成長の余地も残しているのではないでしょうか。母の父が1995年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬のサクラチトセオー。その祖母がクレアーブリッジ。祖母の従兄に1993年のダイヤモンドステークスと目黒記念,1994年のアメリカジョッキークラブカップ,1995年の高松宮杯を勝ったマチカネタンホイザ。Legarsiはイタリア語で絆。
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は昨年の羽田盃以来の南関東重賞制覇。京成盃グランドマイラーズは初勝利。管理している船橋の矢野義幸調教師も京成盃グランドマイラーズは初勝利。

 11月27日,金曜日。ピアノの調律がありました。午後1時半から。僕はこの日は東白楽で,帰ったのは午後5時半。さすがにその時間では調律は終わっていました。
 11月28日,土曜日。母と妹が美容院に行きました。
 11月29日,日曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。
 12月1日,火曜日。本牧からの帰りにI歯科に寄り,検診の予約を入れてきました。
 12月4日,金曜日。この日が歯科検診の日でした。午前9時半から。クリーニングだけで,午前10時20分には帰宅できました。その後で長者町へ。帰ったのは午後4時25分です。
 12月5日,土曜日。妹のピアノのレッスン。午後5時半からでした。
 12月8日,火曜日。午前中にO眼科へ行き,網膜症の検査を済ませてきました。最近の中ではこの日が最も順調で,午前11時35分には帰宅することができました。この日もその後で長者町。やはり帰宅は午後4時25分でした。
 12月9日,水曜日。妹の歯科検診がありました。午後3時から。僕はこの日は川崎で,午後5時5分に帰宅したのですが,そのときには母と妹はまだ家に戻っていませんでした。この日は通常の検診だけではなく,2階でのレントゲンの撮影も行ったのだそうです。レントゲンの撮影をしますとその仕上がりが担当の医師に届くまでまた待たなければなりませんので,いつもよりずっと時間を要することになります。それで帰るのもいつもよりずっと遅くなってしまいました。帰ってきたのは午後5時半でした。
 12月11日,金曜日。ガス警報器の交換をしました。少し前に部品を交換したガス台と同様に,この警報器もガス会社からリースで契約しているものです。これは故障したための交換ではなく,5年に1度の定期的な交換でした。僕はこの日は浅間町。競技場があることで知られる三ッ沢というのは丘の上にあって,横浜方面からそちらに向かうと,その丘のふもとの一部が浅間町という地名になっています。たぶんかつては横浜市の市電の車庫があった場所で,現在でも市営バスの車庫が存在しているところです。帰ったのは午後4時半でした。
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阿諛追従の徒&パソコン

2016-06-21 19:12:59 | 哲学
 第四部定理五七では,高慢な人間の特質proprietasとして,阿諛追従の徒adulatorを好むことと,寛仁generositasの人を憎むことが示されています。このとき,阿諛追従の徒というのが何を示すのかということは,実は『エチカ』でははっきりとした定義Definitioが与えられているわけではありません。そこでこれをどう考えるべきなのか,僕の見解opinioを示しておくことにします。
                                     
 スピノザの定義に倣っていうなら,第三部諸感情の定義二一の買い被りexistimatioという感情affectusを,高慢superbiaである当の人間に対して抱く人は阿諛追従の徒だといえます。ただしこの場合には,次の点に留意しておかなければならないでしょう。
 買い被りとは,たとえばAに対する愛amorが原因causaとなってAに対して生じる感情です。しかし高慢な人間は別に愛されることを必要としないと考えることができるのです。したがって阿諛追従の徒とは,高慢である人間に対して愛を感じているかいないかに関わらず,高慢な人間からみて,自分を正当以上に評価してくれる人間のことだといっておいた方が正確だといえるでしょう。高慢な人間の特質について説明した例でいうなら,たとえば高慢であるある政治家をその能力以上に評価する別の政治家は,別にその高慢な政治家を愛しているとは限らず,単に有力な政治家に取り入ることによって,自身の政治的な力をより強大なものにしようという欲望cupiditasをその原因としているからかもしれません。しかしこの場合にも高慢な人物からはその人間は阿諛追従の徒のようにみえる,いい換えればその人間を阿諛追従の徒と表象するimaginariということは大いにあり得るわけで,高慢な人物はそういう人間が現実的に存在するということを好むでしょう。他面からいえばその人間は自身の高慢という喜びlaetitiaを増大させてくれる人間であると表象するでしょうから,第三部諸感情の定義六により,そういう人物のことを愛するようになるでしょう。
 たぶんこれが高慢な人間は阿諛追従の徒を好むということの意味だと僕は考えます。したがって阿諛追従の徒とは,高慢な人間を正当以上に評価する人間であると定義できるというのが僕の見解です。

 11月18日,水曜日。母がI歯科へ。差し歯に問題はないかの確認です。母は何も言ってはいなかったのですが,少しばかり削ったとのことでしたから,実際には何か不都合が生じていたのだろうと思います。僕はこの日は川崎。帰ったのは午後5時35分でした。
 11月19日,木曜日。この日は午前中だけ本牧で,午後はオフでした。それでその時間に近くの家電量販店に行き,新しいパソコンを購入しました。パソコンというのは買うだけでは意味がなく,設定が必要になります。僕はそう多くの機能を使用するわけではなく,ネットとメールとワードが使えるようになれば最低限のことは大丈夫。それでもある程度の時間が必要とされますので,まとまった時間があるときでないとパソコンは買えないのです。さらにその日のうちに持ち帰って設定する必要がありますから,その場で入手することができる機種でないといけません。もっとも僕はWindowsであれば機種にはこだわりはありませんから,そのあたりはあまり問題とはならないです。運転ができませんから,持ち帰るというのは重労働なのですが,以前は本体と画面が分離していたものを持ち帰っていたわけで,一体型のパソコンならむしろ楽になったといえるくらいです。店員の説明もある程度は聞かなければならず,買って家に帰ることができたのは午後2時45分。設定などにもそれほどの時間は掛かりませんでしたから,この日のブログも問題なく投稿することができました。
 11月21日,土曜日。妹の土曜出勤。恒例の施設のバザーです。例年のことですが母と一緒でした。
 11月22日,日曜日。妹のピアノのレッスン。午後4時半から。午後5時半の予定が当日の電話で早まったものでした。
 11月24日,火曜日。母がバザーの後片付けのために施設に行きました。これがこの年の最後のボランティアでした。
 僕はこの日は午前中に長者町だったのですが,帰りのバスで以前から会うことがあった友人に出くわしました。その時間なので驚いたのですが,友人は買い物に出かけた帰りだったようです。友人の方もこの時間に会ったことにびっくりの様子でした。
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アンライバルド&清掃

2016-06-20 19:19:25 | 名馬
 東京ダービーは大井への転入初戦となったバルダッサーレが圧巻の勝利を飾りました。この馬の父のアンライバルドは,初年度産駒から南関東クラシックホースを出したことになります。
 Unrivaledは無敵。父はネオユニヴァース。母がバレークイーン。半兄にフサイチコンコルドと2001年の京成杯を勝ったボーンキング。一族に多数の活躍馬を有する牝系です。
 2008年10月26日に京都競馬場の新馬戦でデビュー。これは上位5頭がすべて後に重賞制覇を達成,しかも3頭は大レースを勝ったという伝説の新馬戦。これを勝ちました。11月のオープンは2着。
 3歳になり1月のオープンを勝つとスプリングステークスで重賞初勝利。続く皐月賞も後方から一捲りで前の馬をすべて潰してしまうという強い勝ち方。バルダッサーレの東京ダービーに似たレースぶりでした。ダービーは12着と大敗しましたが,これは馬場の影響が大きかったのではないかと思っています。
 秋は神戸新聞杯で復帰。この4着はさほど悲観する内容だったとは思いません。ですが菊花賞,有馬記念と連続して15着という大敗を喫してしまいました。そして故障。
 約1年半後に金鯱賞に出走。5着と休養を考えればまずまずの結果でしたが,これが現役最終戦になってしまいました。
 この成績ですと多くの繁殖牝馬を集めるのは難しく,競走馬登録に至った初年度産駒は23頭で,現時点で出走を果たしているのが18頭。その中からバルダッサーレのほかに,ファルコンステークスを制したトウショウドラフタも出ていますから,大成功に類するでしょう。牝系の優秀さは種牡馬としての魅力のひとつ。また,今から思うと皐月賞は力任せのレースという印象なので,自身もダート適性は意外と高かったのかもしれません。生産者の評価も変わる余地があるので,今後も活躍馬が出てくる可能性があるのではないでしょうか。

 10月30日,金曜日。この年も施設のバザーまでひと月をきりました。母はこの日からボランティアに参加しました。僕はこの日は本牧。帰ったのは午後4時35分でした。
 10月31日,土曜日。ガイドヘルパーを利用しました。カラオケでした。
 11月1日,日曜日。母と妹が美容院に行きました。
 11月3日,火曜日。祝日です。妹が通っていた養護学校のバザーが開催されました。母と妹が出掛けました。僕はこの日は梅屋敷。帰ったのは午後4時15分でした。どれくらい前でしょうか,テレビのコント番組を視ていた影響があって,梅屋敷というと僕はすぐにパンを連想します。
 11月4日,水曜日。母がI歯科へ。前週に型を取ったのですが,噛み合わせに問題があって,それだけでは差し歯を入れることができなかったようです。そのためにこの日にもう一度,歯茎の型を取りました。問題を解消するために,差し歯を入れる部分だけでなく,上下の歯形を取ったそうです。僕はこの日は川崎へ。帰ったのは午後5時半でした。
 11月6日,金曜日。業者による家の清掃がありました。これは母が依頼したものです。正確には分かりませんが,掃除が始まったのは午後2時前からだったようです。午後5時15分に終了しました。僕はこの日は伊勢佐木町で,帰宅したのは午後4時5分。ですから僕が帰宅した時点ではまだ清掃作業中でした。もっとも実際に清掃を依頼したのはキッチンとリビングと浴室。これらはすべて1階で,僕の部屋は2階ですから,作業中だったから僕に不便が生じたというわけではありません。清掃作業の業者への依頼というのはこれが初めてのことで,またこれ以降も現時点まではありません。
 11月7日,土曜日。妹のピアノのレッスン。午後4時からでした。
 11月11日,水曜日。母がI歯科へ。この日は問題なく差し歯を入れることができました。僕はこの日は川崎。帰ったのは午後5時25分でした。
 11月12日,木曜日。妹がショートステイへ。南区の施設を利用したのは10月と同じですが,この月は1泊になりました。僕はこの日は長者町。午後4時45分の帰宅でした。
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高松宮記念杯競輪&友人の訪問

2016-06-19 19:04:32 | 競輪
 被災地支援競輪として名古屋競輪場で行われた第67回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは新田‐山崎の福島,平原‐諸橋の関東,浅井‐吉田‐金子の中部で郡司と村上は単騎。
 スタートを取った浅井の前受け。4番手に新田,6番手に平原,8番手に郡司,最後尾に村上の周回に。残り3周のバックから平原が上昇。郡司と村上も続きました。平原はコーナーで浅井に並び,ホームで叩きました。浅井は内で引かず,新田は外に。レースはこのままスローダウンして打鐘。だれも来なかったので平原の成り行き先行に。浅井は3番手を狙いにいきましたがホームで外の郡司に競り負け4番手を村上と併走するような隊列に。これを新田が一気に捲るとバック出口で先頭に立ち,そのまま後ろを寄せ付けずに優勝。山崎が離れたため前々から新田を追うような形になった郡司が1車身差の2着。郡司が追ったときに村上に封じられた浅井はコーナーで内を進出,直線は外に出して半車身差の3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は3月の玉野記念以来の優勝。ビッグは昨年9月のオールスター競輪以来の5勝目。GⅠは4勝目。高松宮記念杯は初優勝。このレースは徹底先行という選手が不在でしたし,おそらく雨の中のレースという影響もあり,打鐘でもまだペースが上がらないスプリント戦になりました。これは新田が最も得意とする展開で,山崎が離れてしまったのも雨の影響もあったでしょうが,急激にペースアップしたのも一因だと思います。脚力がトップで持ち味が生きる展開となりましたので,その強さが際立つレースになりました。

 町内の火事があったときに説明しましたが,僕の家の東側には小高い丘があります。この丘の上の一部も僕が通っていた小学校および中学校の学区になっていますが,やはり磯子区ではなく中区です。そしてこの丘の斜面の一部が墓地になっています。僕の家の近辺には小規模な墓地というのが意外と多くありますので,友人がどこへ墓参りに行ったのかまでは僕も特定できません。ただ,その墓地は僕の家からも見ることができる位置にあり,見えはしなくてもほかにもいくつかの墓地がそうも遠くないところにあるのですから,墓参のついでに僕を訪問したとしても,それがとても大変な労力を要することではなかっただろうとは思っています。
 友人は免許を持っていて,過去には僕もその友人が運転する自動車に同乗したことがありました。このときの墓参も自動車を利用してのもので,必然的に路上駐車をしていましたから,僕の家の玄関先で10分足らずの立ち話をしただけです。友人は僕が糖尿病に罹患し,インスリンの注射を打つようになったということは知っていた筈で,しかしそれ以降は会っていませんでしたから,僕が衰弱しているのではないかと予期していたようです。僕も体重こそは罹患前の水準まで戻ってはいませんが,当初から痩せてはいたので,そう目立つような変化があるわけではありません。学生時代の友人たちとは会っていますが,とくに外見上の変化について何か言われたこともありません。友人が予期していたよりもずっと僕は元気に見えたようで,友人は安心していました。
 10月25日,日曜日。伯母がアメリカに帰国しました。母と妹が横浜まで送り,一緒に昼食を摂りました。
 10月26日,月曜日。母がI歯科へ。16日に通院したときに,歯茎に異常が出ていないことは確認されていました。それでこの日は差し歯を入れるための歯茎の型取りをしました。僕はこの日は屏風浦。帰ったのは午後5時50分でした。
 10月28日,水曜日。妹がショートステイへ。南区の施設で2泊3日でした。最近は施設の利用者が多く,1泊が多くなっていますが,このときは2泊できました。僕はこの日は新川崎でした。
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棋聖戦&学区

2016-06-18 19:25:11 | 将棋
 豊田市で指された第87期棋聖戦五番勝負第二局。
 永瀬拓矢六段の先手で相矢倉。先手の早囲いに対して後手の羽生善治棋聖は通常の手順での囲いになりました。
                                     
 第1図は部分的には数多く指された局面ですが,その局面よりは先手が早囲いの1手を得しています。▲3八飛と寄るのが部分的な定跡と化した手ですが,▲5八飛△7三角▲5五歩△同歩▲同銀と5筋の歩を交換しました。この手順は第1図が部分的に出始めた頃によく指されていた順。1手の得を生かすために古い手順を採用したので意外性を感じました。
 △5二飛と寄るのはこの形の常套手段。▲4六銀と引いて受けるのが多いと思いますが▲6五歩で直接的に△6四銀を受けました。後手は△5一飛と待機。以下▲9八香△4二銀ですが,この2手の交換は結果的には先手の損になったと思います。
 ここから▲5四歩△同金▲同銀△3七角成というのは考えられる手順のひとつ。どちらもそれで指せると思っていたのではないかと推測します。ですが▲6二金△4七馬▲5一金△5八馬の飛車交換に進んでみるとどうも後手に分があったようです。
                                     
 第2図で▲5二飛と攻め合うのは先手が無理のようで▲6八金引と受けました。ですがこれは先手の角が働きませんから先手が苦しいのに変わりはないでしょう。
 羽生棋聖が勝って1勝1敗。第三局は来月2日です。

 小学校,中学校のときには互いの家に遊びに行ったこともありました。また,大学を卒業して,通学のために電車で会うということがなくなって以降も,僕が友人の家に,逆に友人が僕の家に来たこともあります。つまり僕の家の所在地は知っているので,訪問してきたのは急なことでびっくりはしましたが不思議ではありませんでした。
 友人は現在は独立して,磯子区内,僕の家からみると磯子と杉田の中間に住んでいます。僕はそちらには行ったことはありません。というか友人が結婚して以降は,年賀状のやり取りはありましたが会ってはいませんでした。つまり僕が遊びに行っていたのは友人の実家です。ここのところがややこしいのですが,僕の家は磯子区で,友人も今は磯子区に住んでいますが,実家というのは中区です。僕の家は磯子区といっても南区や中区との境界に近いところ。小学校と中学校は市立で,南区在住の生徒はいませんでしたが,中区の一部は学区に含まれていたのです。僕の家の最寄り駅はJR根岸線の根岸駅で,ここは磯子区内です。ですが横浜市には根岸町という町もあり,これは中区なのです。このような関係で,僕が通っていた小学校と中学校は,磯子区内にはありましたが,中区の一部も学区内でした。自宅から最も近い学校に通うことができれば,生徒やとくに児童にとっては有益ですから,横浜市立の小学校では,現在も僕の卒業校に限らず,複数の区が学区に含まれている小学校と中学校が含まれている筈です。また,ある特定の地域になると,市立のふたつの学校から通いたい,あるいは通わせたい方を選択できる場合もあると思います。少なくとも僕が小学生のときにはそうなっていました。なので友人は中区の実家を出て磯子区に新居を構えることになったのですが,磯子区内の僕の家からみると,むしろ遠くに行ったことになります。
 友人は目的があって訪問してきたのではありません。ただ僕に会うためでした。もっとも友人がこのときに外出した主目的が僕に会うことだったという意味ではありません。近辺に墓参りに来たので,そのついでだから僕の家を訪ねてみようと思ってくれたとのことでした。
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プリンスオブウェールズステークス&友人

2016-06-17 18:58:59 | 海外競馬
 日本時間で昨日の未明にイギリスのアスコット競馬場で行われたプリンスオブウェールズステークスGⅠ芝1マイル2ハロン。
 エイシンヒカリは少しの間は2頭で併走のような感じでしたが,単独での逃げになりました。出走したのは6頭で,エイシンヒカリの後ろに2頭が縦列。エイシンヒカリの直後の馬の外に1頭いて,その後ろに残りの2頭が縦列という形でレースは進展。終始1馬身ほどのリードを取り,最後の直線の手前で1頭が追ってきて半馬身くらいのリードに。手応えはさほど悪そうには見えませんでしたが,直線に入ってから追われても伸びはなく,3着とはあまり差がありませんでしたが最後尾でのフィニッシュとなりました。
 勝ち時計が2分11秒38も要する馬場でしたが,前走は同じように時計が掛かったレースを制していますから,それがエイシンヒカリにとって極度の不利になったかは判然としません。ただ,抜け出して優勝争いを演じた2頭のうち,ほかの5頭とは関係のない大外から脚を伸ばした馬の方が勝ちましたし,この馬は道悪巧者とみられていたようですから影響がまったくなかったとも考えにくいところです。本質的にはスピードタイプであって,このような馬場でこの距離になるとややスタミナに不足した面があるのではないかというのが僕の見解です。

 10月14日,水曜日。ロサンゼルスの伯母が来日しました。僕はこの日は川崎で,帰ったのは午後5時50分。その少し前に日本に到着したという連絡が伯母から電話で入っていました。母と妹が渡米して帰国したときには,成田から横浜まではバスを使います。しかし伯母は電車に乗るのが通例で,連絡によれば午後5時40分に成田を出る電車に乗るということだったそうです。僕の家に着いたのは午後7時50分。これまではアパートを使っていましたが,叔父の移住に伴って解約しました。ですから僕の家で過ごすということになりました。父が最後に家で過ごすために退院してきたときに,医療用ベッドを置いた,玄関から最も近い部屋がさしあたって伯母の寝室になりました。伯母は日本の友人も多く,日中は大抵は出掛けていますから,寝室さえあれば十分なのです。
 10月16日,金曜日。母がI歯科へ。11時から。7日に欠けた歯の根元の部分を抜きましたので,この日はその部分に異常がないかを確認しただけでした。差し歯を入れることにしたのですが,問題なく入れられるという診断であったようです。
 10月17日,土曜日。妹のピアノのレッスン。午後4時からでした。
 10月18日,日曜日。母と妹,そして伯母の3人で旅行に出かけました。ツアーを使っての2泊3日。1日目が淡路島泊で2日目が小豆島泊という旅程になっていました。
 10月20日,火曜日。旅行を終えて3人が帰宅しました。僕はこの日は本牧で,午後3時5分にはもう帰宅していました。もっとも3人が家に到着したのは午後7時半を過ぎた頃でした。
 10月24日,土曜日。午後2時40分ごろに,小学校,中学校とクラスメイトだった友人が何の前触れもなく訪問してきました。この友人とは小学校5年と6年,そして中学校3年のときに同じクラス。中学生のときに同じ部活に所属していました。大学生になると学校は違いましたが乗る電車の方向が同じで,たびたび顔を合わせるようになり,何度も一緒に遊びました。その時代の友人で,中学卒業後も遊んだというのはこの友人だけでしたから,僕にとっては最も仲が良かった友人です。
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農林水産大臣賞典関東オークス&彼岸の墓参

2016-06-16 19:12:14 | 地方競馬
 昨晩の第52回関東オークス
                                     
 押していったのがアルセナーレ。これにエメンタールベルンが外から競り掛けていきました。1周目の向正面はこの2頭が後ろを離していく展開。結局エメンタールベルンは前に出ることができずにコーナーを迎え,アルセナーレが単独の逃げに。控えたエメンタールベルンが2番手。3番手は正面では外のタイニーダンサーに内からミスミランダーが並び掛け,この後ろにブライトリビングとディーズプラネットの2頭。競り合ったところは10秒台のラップがあるほど早く,その後は14秒台が4回も続くというかなり変則的なペースでした。
 2周目の向正面でエメンタールベルンの手応えが怪しくなり,外からタイニーダンサーが並び掛けていきました。ミスミランダーは行き場がなかったのかもしれませんが内で控え,2馬身ほどの差でブライトリビングとディーズプラネットの併走。ただブライトリビングはここでのペースアップに素早く対応できませんでした。3コーナーを回るとタイニーダンサーがアルセナーレに並び,直線の入口ではタイニーダンサーの方が先頭に。ここから余裕をもって抜け出したタイニーダンサーが2馬身半の差をつけて快勝。前の2頭の外から併走で追ってきたのがミスミランダーとディーズプラネット。伸び脚に優ったミスミランダーが2着。早めに前に出られながらもしぶとく粘ったアルセナーレがクビ差の3着。最後は一杯になってしまったディーズプラネットは1馬身差で4着。
 優勝したタイニーダンサー北海道2歳優駿以来の勝利で重賞3勝目。このレースは距離に不安がありそうな実績馬と,距離は保ちそうだけれども能力がどれほどかは分からない上昇馬の対戦という図式。結果的に実績最上位で能力も最上位と思われた馬の優勝になりました。精神面に難しさがないのでこの距離もこなしていますが,本質的な適性はもっと短い距離にあるのではないかと思います。3歳牝馬ではトップでしょうが,このレースの内容ですと古馬を相手にすぐに好勝負になるかはまだ疑問のように感じられました。父はサウスヴィグラスプロポンチスグランドターキンの分枝。半姉に2013年の桜花賞を勝ったイチリュウ
 騎乗した戸崎圭太騎手は関東オークス初勝利。今年からのJRA移籍に伴って管理することになった伊藤圭三調教師は第36回と38回を勝っていて14年ぶりの関東オークス3勝目。

 10月3日,土曜日。妹のピアノのレッスン。午後3時から。これは当日の電話によって決定された時間でした。
 10月4日,日曜日。母と妹は美容院へ。この日も午後1時からでした。
 10月5日,月曜日。午前中に母と日野公園墓地に墓参りに行きました。彼岸の塔婆を母と妹がお寺に取りにいったのが9月20日のこと。彼岸の墓参りというにはあまりに遅くなってしまいました。というのも,墓参りは母と僕で行きますので,ふたりの都合を合わせなければなりません。塔婆を受け取った週の金曜日,すなわち9月25日がその日で,当初はその日に行く予定でした。ところがこの日は雨になってしまったのです。雨の中の墓参りはなかなか大変なので,その日は中止にしました。次に都合をつけられたのはちょうど1週間後の金曜日。つまり10月2日でした。ところがこの日も雨が降ってしまったのです。仕方がないのでまた日延べすることにしました。土曜と日曜は妹がいるので無理でしたが,月曜は大丈夫でした。そしてこの日は天候も問題ありませんでしたから,ようやくの墓参りとなったものです。この日も帰途に昼食を済ませて帰宅しました。
 10月7日,水曜日。母がI歯科へ。欠けた歯の治療のためで,午前11時半から。前回はレントゲンを撮影したのですが,歯だけが欠けて根元が残っていましたので,それを抜きました。根元が残っているというのはレントゲン撮影時に判明していた筈ですから,当初から抜くという予定になっていたのだろうと思います。何度かいっていますが,この歯科は時間を要する可能性のある作業は午前なら最も遅い時間になり,11時半というのもそれに合致しているからです。I歯科ではこういう作業をした場合には痛み止めが処方されます。母もこの日はカロナール200という薬を処方されました。ただし痛みは出ませんでしたので,服用はしていません。僕はこの日は川崎。帰ったのは午後5時15分でした。
 10月10日,土曜日。妹の土曜出勤でした。これは運動フェスティバル。勝ち負けを競わないので,運動会ではなくフェスティバルという名称になっています。母も見学しました。
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