スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第27回さきたま杯。
前にいこうとしたのは3頭。枠なりにギシギシの逃げとなり,2番手にスマイルウィで3番手にバスラットレオン。イグナイターとコンシリエーレがその後ろを併走。2馬身差でテイエムサウスダンとエアアルマス。3馬身差でビヨンドボーダーズとアポロビビ。シャマルは大きく離され,レースに参加することができないまま競走中止。最初の600mは35秒2のハイペース。
3コーナーを回るとスマイルウィが外からギシギシの前に出てギシギシは後退。スマイルウィの外からバスラットレオンが追い,内を回ったイグナイターの3頭がほかの馬たちとの差を広げました。直線はイグナイターがスマイルウィとバスラットレオンの間に進路を取り,粘り込みを図るスマイルウィを差し切って優勝。スマイルウィがクビ差で2着。伸びを欠いたバスラットレオンは1馬身半差で3着。
優勝した兵庫のイグナイターは1月に遠征した高知の黒潮スプリンターズカップを勝って以来の勝利。重賞は昨年のかきつばた記念以来となる3勝目。ここは実績で上位のシャマルとJRAで3連勝でオープンを勝ったコンシリエーレの争いとみられました。シャマルは何らかのアクシデントがあって競走を中止。コンシリエーレは結果的に1400mのレースに対応できず,共倒れに。イグナイターは重賞2勝馬で,このレベルのレースではほとんど崩れずに走っていましたから,その2頭が共倒れなら優勝しておかしくありません。やや人気がなさ過ぎたような気がします。父はエスポワールシチー。4代母がファーザの祖母にあたる同一牝系。Igniterは点火装置。
騎乗した大井の笹川翼騎手は一昨年のクイーン賞以来の重賞2勝目。管理している兵庫の新子雅司調教師は昨年のかきつばた記念以来の重賞6勝目。さきたま杯は初勝利。
たとえ過剰であったとしても,子どもを愛することは合倫理的で,子どもを過剰に躾けることは合倫理的であるどころか非倫理的であるといわなければなりません。その差異は明確にしておかなければなりません。しかし,それが理性的であると思い込んでいるという思惟作用だけに着目した場合には,どちらの場合も同様であり得るのです。ですから僕は,そのように思い込んでいる親が,過剰に愛している状態から過剰に躾ける状態に移行したとしても,それほど驚きを感じることはありません。自身が理性的であると思い込んでいる人間は,そのことによって合倫理的にもなるし非倫理的にもなり得るからです。

こうした思い込みというのは,この特定の事象の場合にのみ生じるというわけではありません。一般的に,ある受動感情が別の受動感情を抑制したり除去したりすることが起きる場合には,その人間はそれが自身の理性ratioによって生じると思い込んでしまうことがあるのです。そしてそれはおそらく,僕たちがそう思っているよりずっと多く生じていると考えておくのがよいと僕は思います。なぜなら,このことは『はじめてのスピノザ』でいわれている,オペレーションシステムの相違に由来しているといえるからです。スピノザのオペレーションシステムは,僕たちがあまり意識せずに使用しているオペレーションシステムとは異なります。ですからたとえ自分自身のこと,あるいは自分の精神mensのうちに生じる思惟作用のことであっても,僕たちはスピノザのオペレーションシステムに従って考えることを,得意としているわけではないのです。
スピノザの哲学では,理性が直接的に感情affectusを統御することは不可能であるとされています。そしてそれが可能であるとされているのが,僕たちが使用しているデカルトRené Descartesのオペレーションシステムです。だから第四部定理七は,デカルトのオペレーションシステムに対するアンチテーゼのひとつであるといえます。あるいは感情だけでなく観念ideaについていえば,第四部定理一もデカルトに対するアンチテーゼであるといえるでしょう。これは理性そのものが虚偽falsitasを抑制したり除去したりすることはないといっているからです。
28日に遊行寺で指された第16期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
甲斐智美女流五段の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車。先手が超急戦を仕掛ける将棋でそこから駒組に。急戦からの駒組は普通は居飛車が少し損で,この将棋も後手が有利になったのですが,攻めを焦ったために逆転。終盤は先手が勝ちの局面になりました。

ここで後手玉に詰みがあるとみて☗8六金と打ったのですが,打った桂馬が7七にきいているため詰まず,逆転で後手の勝ちになりました。第1図は☗同馬と取っておけば先手玉は詰まず,先手の勝ちでした。
3連勝で西山女王が防衛。第11期,12期,13期,14期,15期に続く六連覇で6期目の女王です。
不安metusは合倫理的であるためには有用な感情affectusです。ですから,理性ratioから生じる感情であろうと不安からであろうと,過剰な愛amorが抑制されて適性化されるのであれば,つまり合倫理的であることがより合倫理的になるのであれば,僕はそのことは否定しませんし,スピノザによって否定されることもありません。ただここには僕たちが留意しなければならないことが含まれています。たとえば僕が示したような不安によって子どもに対する愛が抑制されるとき,そうした思惟作用が生じる親には,それはある受動感情が別の受動感情によって抑制されていると理解するのではなく,自身の理性によって過剰な愛を抑制していると誤って認識するcognoscereことが往々にして生じるのです。
親が子どもの将来を案じて子どもに対する過剰な愛を抑制する,いい換えれば過保護に育てることをやめるというとき,僕たちはそれが親の理性的判断によってなされていると受け止める場合があります。このような第三者的な文章の意味さえそのように汲み取る場合があるのですから,実際に子どもの将来を案じている親がそう認識するのは,蓋然性としてより高いといえるでしょう。ところが子どもの将来というのは理性的な判断によって生じる十全な観念idea adaequataではなく,漠然とした表象像imagoなのです。いい換えれば混乱した観念idea inadaequataなのです。よってそれは第二部定理四〇により,理性から生じるということはありません。つまりこの判断は理性的判断ではないのです。むしろ子どもへの過剰な愛を抑制しているのは,この表象像から生じている何らかの感情であるといわなければなりません。
子どもに対して過剰な躾をする親,暴力や暴言などを用いて,明らかに虐待であると判断されるような躾をする親が,自分は理性的な判断からそのようにしていると思い込んでいるという場合があります。このこともまた,子どもの将来を案じることによって生じ得ることだからです。この場合は,将来の子どもの表象像から憎しみodiumの感情が生じ,その憎しみの感情が現在の対象である子どもに向けられるがために,過剰な躾に至るというのが一例でしょう。第三部定理一八は,そのようなことが生じ得ることを示しています。
宮古市で指された昨日の第8期叡王戦五番勝負第四局。
菅井竜也八段の先手でノーマル三間飛車。この将棋は序盤で千日手となりました。序盤での千日手は普通は先手の作戦失敗です。推測するに先手に何らかの研究があったのですが,後手の藤井聡太叡王の対応が想定していないものだったということだったのだと思います。
指し直し局は藤井叡王の先手で菅井八段のノーマル三間飛車から相穴熊に。この将棋は終盤で先手が穴熊に食いつく銀を打ち,後手が銀を打って受けるという手順で千日手となりました。後手が打開して正しく受ければ有望という局面だったので,先手としては命拾いした形。ただ終盤で時間が切迫している中でのこの種の千日手は,僕は後手にとっても仕方がないものだっと思います。
再指し直し局は先手の菅井八段のノーマル三間飛車から相穴熊に。

ここで☗5二歩と打っての攻め合いを目指しましたが,敗着となりました。
☖5七歩成☗5一歩成とと金を作り合い,☖7九飛☗4一と☖8九飛成☗8一飛成で駒の取り合い。☖4七桂に☗4八金上はこのような形での手筋ともいえる力強い受けですが,そこで金を取るのではなく☖5六歩と打つのが好手でした。

この局面は歩を持っていれば☗5八歩で受かります。ですから第1図で歩を使ってしまったのが敗着となりました。仮に☗5八歩と受けておいても,そう簡単に先手が負けるような将棋ではありませんでした。
3勝1敗2千日手で藤井叡王が防衛。第6期,7期に続き三連覇で3期目の叡王です。
厳密にいうと,ある人間たとえばAが現実的に存在し,そのAが自分の子どもBに対して愛情を注ぐとき,Aが受動的な愛情によってBに注ぐ愛amorという感情affectusと,Aが理性ratioに従ってBに愛情を注ぐときの愛という感情は,一般的には愛という感情,すなわち第三部諸感情の定義六により,Bという原因causaの観念ideaを伴った喜びlaetitiaであるという点で一致しますが,個別の感情としてみた場合には別の感情とみなされなければなりません。僕は,理性から生じる愛によって受動的な愛が抑制されるというように説明していますが,もしスピノザの哲学を本来的な意味で正しく解そうとするのであれば,理性から生じる愛が受動的な愛を除去しているというのが適切です。
このことは第三部定理五六を援用することによって証明できます。ただしこのことは,むしろ第一の課題と大きな関係を有しますし,もしも愛という感情を一般的な感情として解するのであれば,理性から生じる愛が受動的な愛を抑制すると解しても,大きな問題となりませんから,ここでは詳しく説明しません。第一の課題を解決するときに,愛に限らず各々の感情が個別的なものとしてみられなければならないということがなぜ重要であるのかということが説明されます。後にされるその説明から,本来的には理性から生じる愛が受動的な愛を抑制するのではなく除去するとみられなければならないのかということも理解できる筈です。
なお,この種の愛の抑制ないしは除去は,理性から生じる感情のみによってなされるというわけではありません。別の受動感情によってそれが生じるという場合もあります。たとえば,自分の子どもに過剰な愛を注ぎ,いい換えれば甘やかし,子どもがとてもわがままに育ったとしましょう。もしも親が子のふたつの観念を因果関係によって結び付け,わがままになった子どもの将来を案じて,甘やかすことをやめたと仮定しましょう。このときこの親は,将来の子どもの表象像imagoから生じる不安metusという感情によって,甘やかしている愛という感情を抑制しているのです。ですからこのような場合にも,第四部定理五四備考でいわれているように,不安は有用な受動感情であることになります。
日本ダービーの第90回東京優駿。

ドゥラエレーデは発馬直後に躓き,騎手が落馬。ホウオウビスケッツが先頭でしたが,1コーナー付近から外からパスクオトマニカが前に出ての逃げ。向正面に入るところでリードは2馬身くらい。控えたホウオウビスケッツの外にシーズンリッチ。メタルスピードの外にタスティエーラ。ソールオリエンス,ノッキングポイント,べラジオオペラ,グリューネグリーンの順で続き,フリームファクシとシャザーンとファントムシーフは併走。スキルヴィングとハーツコンチェルトが併走で続き,サトノグランツ。2馬身差でトップナイフ。3馬身差の最後尾にショウナンバシット。最初の1000mは60秒4のスローペース。1頭が大きく離しての逃げでしたから,実質は超スローペースだったといっていいでしょう。
3コーナーでパスクオトマニカのリードは12馬身くらい。直線に入ったところで2番手以降はホウオウビスケッツ,シーズンリッチ,タスティエーラの順。徐々にパスクオトマニカとの差が詰まっていき,タスティエーラが先頭に。パスクオトマニカとタスティエーラの間からべラジオオペラ,タスティエーラの外からソールオリエンスでソールオリエンスの外からハーツコンチェルトが追ってきて,4頭の争い。先頭に立っていたタスティエーラが追撃を凌いで優勝。2着争いは写真判定でしたが,ソールオリエンスがクビ差の2着。ハーツコンチェルトがハナ差の3着でべラジオオペラがハナ差の4着。
優勝したタスティエーラは弥生賞以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。このレースはソールオリエンスが大きな支持を集めていたのですが,皐月賞の内容は大味なものでしたし,馬場の影響で持ち味を削がれた馬もいたと思われたので,混戦模様ではないかと思っていました。タスティエーラは皐月賞でも2着でしたから,混戦であるなら優勝候補の1頭。皐月賞の上位2頭が入れ替わっての決着ですから,順当な結果だったとみていいのではないでしょうか。上位馬にそれほど大きな能力の差があるというわけではなく,これからも接戦を繰り広げていくことになるのだろうと思います。父は2016年に香港ヴァーズ,2017年に宝塚記念を勝ったサトノクラウン。4代母がクラフティワイフ。Tastieraはイタリア語でキーボード。
騎乗したオーストラリアのダミアン・レーン騎手は香港ヴァーズ以来の日本馬に騎乗しての大レース9勝目。日本の大レースはマイルチャンピオンシップ以来の6勝目。日本ダービーは初勝利。管理している堀宣行調教師は南部杯以来の大レース22勝目。第82回以来となる8年ぶりの日本ダービー2勝目。
具体的な事例として,親が子どもに愛情を注ぐという場合を考えてみましょう。
親が子に愛情を注ぐことは,それ自体で合倫理的です。これは反対の場合から明白で,愛amorの反対感情は憎しみodiumです。よって親が子を憎む場合には第三部定理三九により,子に害悪を与えようとします。これは一般的には虐待といわれることです。このことが合倫理的ではない,むしろ非倫理的であるということに異論の余地はないでしょう。よって親が子に愛情を注ぎ,子に親切をなすということは,それ自体で合倫理的であるといわれなければなりません。このことはとくに親子関係にだけ該当するわけではありませんが,親子関係を具体的な事例とすれば,さらに容易に理解できるところだと思います。
親が子のことを過剰に愛する場合があるということは,多くの人が経験的に知っているところだと思います。そこである親が子にそうした過剰な愛情を注いでいるとして,理性ratioから生じる何らかの感情affectusがその愛を抑制し,適切に愛するようにするならば,これもまた合倫理的であることになります。つまり,受動的な愛が抑制されているのですが,合倫理的であり,かつより合倫理的であることになるのです。したがって,親が子になす親切も,受動的な愛による場合と理性から生じる愛の場合では異なるでしょうが,親切をなしている限りにおいてどちらも合倫理的であり,かつ理性による愛の場合の方がより合倫理的であるといわれなければなりません。
このことは,親が子を愛しているとしても,その愛が過少である場合を考えればより分かりやすいかもしれません。もしも親の子に対する過少な愛が,理性から生じる愛によって適切な愛にまで増加するなら,これは合倫理的としかいいようがないと思います。しかし過少であるとはいえ,子を愛している限りにおいてその親はやはり合倫理的であるといわれなければなりません。よってこの場合は理性から生じる愛によって,より合倫理的になったということがはっきりしていると思います。これと同様に,愛が減少するのであっても,適切になるのならそれは合倫理的なのです。愛は過少でもあり得ますが,過剰でもあり得るからです。
『なぜ漱石は終わらないのか』の序章で,石原千秋は『こころ』の先生と奥さんとの間には性的交渉がなかったという主旨の発言をしています。僕は以前にスメルジャコフとKとの間には類似点があるということをいいましたが,これでみればスメルジャコフと先生の間にも類似点があるということになります。

『こころ』の第八章で,先生と奥さん,そして私が先生の家で酒を飲みながら会話をする場面があります。そのときに,先生の家には夫婦のほかに下女がいただけでいつもひっそりとしていたということが語られ,奥さんが私に向かって,子どもでもあるといいんですが,と言います。この部分は,この手記を書いている時点で私の子どもが存在しているということを示すために指摘したことがある部分で,私は奥さんに対して,そうですなと言ったのだけれども,それは本心ではなかったということが告白されます。この会話を聞いていた先生は,ひとりもらってやろうかと提案します。これは酒席でのことであって,先生の本心ではなかった,つまり本気で先生がそのように提案したわけではないと僕は解します。奥さんはその提案に対して,貰いっ子ではと,私に言います。すると先生は,子どもはいつまでたってもできっこないと言います。奥さんが黙っているので私がなぜかを先生に尋ねるのですが,先生は天罰だからと言って高笑いをするのです。
この,子どもができっこないという先生の発言から,石原は,先生と奥さんの間では性的交渉がなかったのだと読解します。この読解はあり得るものだと思いますが,そのことは後回しにして,必ずしもそのように読解しなくてもよいということを示しておきます。
奥さんは子どもでもあるといいと私に対して言っています。これは子どもができる可能性があるがゆえの発言であると解することもできるでしょう。もしもそうなら,これは性的交渉があったことの何よりの証明です。また,先生が子どもはできっこないと言ったことも,その理由として天罰という,はっきりと明示されたものとはなっていません。ですから性的交渉をしても天罰で子どもはできないという意味に解することはできます。なので石原の読解が絶対に正しいとはいえないことは確かです。
ふたつめの課題が含んでいるふたつの観点というのは,他者に対する愛amorのゆえに親切をなすということが抑制されたり除去されてしまうということがひとつで,自身にとっての悪malumであるという認識cognitioが理性ratioによってなされるという観点です。順番は逆になりますが,ここではこのふたつめの課題の方を先に,そして順に考察していきます。
このひとつめの観点は,解決するのがそれほど困難ではないと僕は思っています。そもそも愛という感情affectusがそれ自体で合倫理的な感情といわれるのは,第三部定理三九の様式で,他者に対して親切をなすように仕向けるからです。そして有徳的であるなら合倫理的であるのですから,僕たちは理性に従っている限りでは他者に対して親切をなそうとするのです。このことは,理性によって愛が生じているかいないかということとは関係ありません。したがって,愛のゆえに他者に対して親切にすることを,理性はそれ自体で禁じたりはしないのです。よって,理性は他者に対して親切にすることを,抑制するということはあり得るでしょうが,除去するということはないのです。そして逆に,もしも他者に対して親切にすることが過少であった場合には,適性に親切にするようにその人を動かすことになります。
このとき,過少な親切を適正な親切にすることが合倫理的であるということにはとくに反論は出ないものと思われます。であるならそれと同様に,過剰な親切を適正な親切へと抑制することもまた合理利的なのです。つまり,過少であろうと過剰であろうと,他者に親切にすることは合倫理的ですが,それが適正な親切になるならより合倫理的になるということです。よって,受動的な愛のゆえに他者に親切にしようと理性に従うことによって他者に親切にしようと,同じように合倫理的であるのですが,どちらがより合倫理的であるのかといえば,後者の方であるということです。よって,仮に理性に従うことによって受動的な愛のゆえに親切にすることが抑制されることがあったとしても,それは合倫理的であり,抑制されていない場合でもそれは合倫理的であるということになります。つまりこのふたつのことはまったく矛盾しません。
飯塚市で指された昨日の第34期女流王位戦五番勝負第三局。
伊藤沙恵女流四段の先手で里見香奈女流王位のノーマル向飛車。先手が居飛車穴熊に組もうとしたところで後手から飛車交換を挑むと,先手がすんなりと応じて自陣飛車を打ちました。それに対して後手は角を切って猛攻。

後手は☖2六歩と垂らしました。先手は後手の飛車を排除する術がないので☗同飛と取り☖5九飛成☗同銀☖3五角の王手飛車を甘受。これには☗4六飛☖4五歩☗3六歩が一般的な手順で,苦しくてもそのように指した方がよかったかもしれません。実戦は☗4六飛打としました。これにも後手は☖4五歩。そこで☗2一飛成とし,☖4六歩に☗3六歩。

ここで☖2六飛と打つ手を先手は見落としていたようです。見落としていたのならここまでの手順は変更の余地がなかったことになります。第2図からの☖2六飛はいかにも振飛車らしい切り返しといえそうですが,見落とすような類の手とも思えず,飛車交換に応じたことも含めて,この将棋は先手がやや不調であったように感じられます。
里見女流王位が勝って2勝1敗。第四局は来月7日に指される予定です。
事情はこの通りではあるのですが,憎しみodiumが受動感情であるのに対し,愛amorは能動感情の場合もあるし受動感情の場合もあるので,さらに考えておかなければならないことがふたつあります。
ある受動感情が第四部定理七の様式によって理性ratioから生じる感情affectusによって抑制されたり除去されたりすることがあるならば,そのことは有徳的であるといわれなければなりません。これは第四部定理二四から明白です。したがって,受動的に発生した愛が,理性から生じた感情によって抑制されたり除去されたりすることがあるならば,それは有徳的なことが生じたということになります。有徳的でありさえすれば合倫理的であることができるということ,いい換えれば現実的に存在する人間は理性に従っていれば合倫理的であることができるということが前提となっているから,合倫理的であることは有徳的でなくても構わないというようにスピノザは推奨しています。ということは,受動的な愛が抑制されたり除去されたりすることが有徳的かつ合倫理的であるということになります。これは愛が一般的に合倫理的な感情であるということと矛盾するのではないかという疑問が生じ得るでしょう。これがひとつめの課題です。
もうひとつは,第三部定理三九で,自分自身に悪malumが生じる場合には,親切をなすことを断念するといわれているとき,悪が生じることが能動的に生じるなら,親切をなすことを断念するということが有徳的であるといわれることになるという点です。このことは,憎しみによって害悪を与えることを断念することが,不安metusという感情のみから生じるわけではなく,能動的にも生じ得るとしているわけですから,愛の場合にも同じように成立するといわなければならないでしょう。すると,親切をなすことを断念すること,あるいは完全に断念しないまでも,抑制されるとすれば,そのこと自体が有徳的であるといわれなければならないことになります。すると,親切をなすということが合倫理的であるといわれることと矛盾するように思えます。こちらがふたつめです。
このふたつめの課題はそれ自体がさらにふたつの観点を含んでいると考えなければなりません。
昨晩の第68回大井記念。
アナザートゥルースも逃げたかったようですが,一足先に内から前に出ていたカジノフォンテンの逃げとなり,アナザートゥルースは2番手に控えました。3番手はライトウォーリアとダノンファラオ。2馬身差でセイカメテオポリスとランリョウオーとエルデュクラージュ。3馬身差でエブリアンブラックとギガキング。4馬身差でカイルとミヤギザオウ。1馬身差でメイショウワザシ。4馬身差でサルサレイアとキャッスルトップが最後尾を併走。前半の1000mは61秒9のハイペース。
3コーナーを回るとカジノフォンテンがアナザートゥルースとの差を広げにかかりました。アナザートゥルースは必死に前を追い,内からセイカメテオポリスで外からライトウォーリア。直線に入るとアナザートゥルースが一杯になったので、内を回ったセイカメテオポリスがカジノフォンテンの外へ進路変更。じわじわと差を詰めていくと差し切って優勝。逃げ粘ったカジノフォンテンが2馬身差で2着。外から迫ったライトウォーリアは届かずアタマ差で3着。後方のほぼ同じ位置にいた2頭が併せ馬のように追い込み,外のミヤギザオウが1馬身差の4着で内のカイルが半馬身差で5着。
優勝したセイカメテオポリスは遠征したオグリキャップ記念から連勝。南関東重賞は一昨年の戸塚記念以来の2勝目。このレースは典型的な上位拮抗で,優勝しておかしくないと思われる馬の方が多数を占めました。結果的に内を回ることができたのが最大の勝因となっていますから,1番枠を引けたことが有利に働いたといえるでしょう。ただ戸塚記念以降は重賞以外はすべて入着していたものの勝つには至っていなかった馬が,ここにきての連勝ですから,馬が一皮むけてきたのも事実だろうと思います。母の父はディープスカイ。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は一昨年の金盃以来となる南関東重賞30勝目。大井記念は初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師は南関東重賞8勝目。第62回以来6年ぶりの大井記念2勝目。
他者に対する憎しみodiumによって害悪を与える行為は,倫理に反する行為です。現実的に存在する人間は,理性ratioに従っている限りでは憎しみという感情affectus自体を抱くことがありません。ですから憎しみによって害悪を与えるということは生じません。また,憎しみを感じたときでも,理性に従えば,その理性から生じる感情が憎しみを抑制しあるいは除去しますので,他人に害悪を与えることを断念することになります。これらの場合は単に合倫理的であるだけでなく,有徳的であるといわれることになります。しかし,憎しみとは別の受動感情が生じることによって憎しみが抑制あるいは除去され,他人に害悪を与えることを断念するのであれば,合倫理的ではあるけれども,有徳的であるとはいわれません。

愛amorは理性から生じる感情であり得ます。よってもしもその様式で現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに愛が生じ,その愛のゆえに他者に親切をなすなら,これは合倫理的であるのはもちろん有徳的であることになります。ただし愛は,理性に従う場合にのみ生じる感情ではありません。愛が受動的に生じた場合は,その愛のゆえに親切をなすことは,合倫理的ではあっても有徳的であるとはいえないことになります。
現実的に存在する人間が他者を愛したときに,親切をなすことによって,もし自分自身に害悪が生じることを恐れる場合には,親切をなすことを断念するという意味のことが第三部定理三九ではいわれています。これは,この文言をそのまま解するなら,不安metusによって親切をなすことを断念することになりますから受動passioです。よって,理性に従っていないので有徳的であるといわれないだけでなく,理性に従っていればなす親切をなさないようになるのですから,合倫理的ですらなくなります。いい換えれば,愛という感情は,能動的であるか受動的であるかに関係なく,その感情を抱くこと自体が合倫理的であると解してもさほど間違いではありません。なぜなら愛という感情は愛する対象に対して親切をなすように現実的に存在する人間を動かすのであり,他人に対して親切をなすことは合倫理的であるからです。よって倫理的には抑制される必要がありません。
22日に指された第5期清麗戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女流三冠が10勝,加藤桃子女流三段が10勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
振駒で西山三冠の先手となって5筋位取り中飛車。穴熊を目指しました。

ここで後手は☖7三桂と跳ねました。これは仕掛けを誘発する危険な一手でした。☖3三角から組み合って一局という将棋。ただ先手が香車を上がったところなので,そのまま攻めてくるのはやりにくいと判断するのは理解できます。
☗7五歩が機敏な仕掛け。後手は☖6五桂と跳ねました。ここは☗9五角も有力ですが,含みに残して☗6八角と引きました。
☖7二飛☗7四歩☖同飛としたところで☗9五角。

ここで☖7二飛と引いたのですが☗7四歩と打たれ,これ以降は先手の一方的な将棋になりました。第2図は☖7三歩と打っておけば,そんなに簡単ではなかったように思われます。
西山三冠が勝って挑戦者に。清麗戦五番勝負は初出場。第一局は7月12日に指される予定です。
第二部定理一六系二でいわれていることのうち,より多くということに何か特別の意味があるというように解する必要はありません。この系Corollariumで最も重要なのは,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに生じるXの表象像imagoは,Xの本性naturaとその人間の身体humanum corpusの状態の双方を表示しているということです。そしてこの系ではいわれていませんが,現実的に存在する人間の精神のうちに自分の身体の表象像が生じる場合も,それはその人間の身体の状態だけを表示しているわけではなくて,自分の身体の状態と,自分の身体を刺激している外部の物体corpusの本性をも表示しているということです。つまり,人間の精神のうちに生じる外部の物体の表象像が表示しているのは,自分の身体を刺激している限りでのその物体です。同様に,人間の精神のうちに生じる自分の身体の表象像は,何らかの外部の物体に刺激されている限りでの自分の身体なのです。僕たちの精神は,外部の物体に刺激されなければその物体を表象するimaginariことはありません。これは第二部定理二六でいわれていることです。同様に,僕たちは外部の物体に刺激されないのであれば自分の身体を表象するということはありません。これは第二部定理一九でいわれていることです。つまりこれらのことは,僕たちが自分の身体および外部の物体を表象する場合には,そのすべての場合に妥当することになります。
第二部定理一六系二をこのように解すれば,第二部定理一一系を援用して僕がいったこと,つまり,ある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念ideaを有する限りで神Deusのうちに十全な観念idea adaequataがあるという場合に,その人間の精神のうちに混乱した観念idea inadaequataが生じるとき,ほかのものの力potentiaが人間の精神の力より多く表現されているからそれは受動passioであるということも,何らの矛盾なしに成立するといえるでしょう。僕は僕自身の見解opinioが誤っている可能性があるということは認めますが,両立すると解することができるのは間違いないので,人間の精神が何らかの混乱した観念を形成することに関する力の比較については,この路線で解釈します。
それでは第三部定理三九の愛amorと憎しみodiumを合わせてまとめておきましょう。
書簡六十二の冒頭には,往復書簡が再開されたことが書かれています。ひとつ前の書簡六十一が1675年6月8日付で,久々にオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたものでした。『スピノザ往復書簡集Epistolae』に残されているもののうち,1665年12月8日付でオルデンブルクからスピノザに宛てられたものです。本当にこれ以外に書簡がなかったのだとすれば,9年半にわたって文通は停止されていたことになります。

書簡三十三というのは書簡三十二への返信です。最初の部分がとくにそれに該当し,スピノザが自身の学説,これは哲学のうちとくに自然学と関連を有する部分に言及したことに対するものです。ただしその内容からして,オルデンブルクはスピノザの哲学を十分に理解することができなかったことを窺わせます。たとえばスピノザはデカルトRené Descartesの運動motusの規則の一部は誤りerrorで,そのスピノザの考えにホイヘンスChristiaan Huygensも同意しているという主旨のことをいったのですが,オルデンブルクはそれを,スピノザが,デカルトとホイヘンスの運動の規則が誤りであるといっているという意味に取り違えています。
ホイヘンスはこの手紙が書かれる前にロンドンに行って,実験を行ったようです。オルデンブルクはそれには立ち会っていなかったようですが,実験の内容については説明しています。実はこの時代はヨーロッパでペストが流行していました。スピノザも一時的に友人の家に避難していたのですが,イギリスの王立協会も一時的にロンドンを離れていたようです。それが下火になったのでロンドンに戻ることになったとされていますので,オルデンブルクがホイヘンスに会えなったのはこの事情によるものでしょう。
この後にロバート・ボイルRobert Boyleからオルデンブルクに報知されたふたつのことが書かれています。ひとつは羊や牛の器官が草で詰まっているという解剖学上の発見で,もうひとつは血液の中に乳があるという医学上の発見です。
最後に政治上の問題として,ユダヤ人のパレスチナへの帰還に関する噂が記されています。オルデンブルクはこのことに関心を抱いていたようで,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人がどう受け取っているかを知りたいので,教えてほしいということをスピノザに依頼しています。この部分は僕には不思議に感じられますので,いずれその不可解さを説明することにします。
現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusに刺激されるafficiと,その人間の精神mens humanaのうちには,その物体が現実的に存在するという観念ideaが生じます。これは第二部定理一七でいわれていることです。そしてこれは混乱した観念idea inadaequataです。こちらは第二部定理二五でいわれていることです。
ただし,現実的に存在する人間の身体が外部の物体から刺激を受けたとき,その人間の精神のうちに生じる表象像imagoは,その外部の物体の表象像だけではありません。この人間は自分の身体も現実的に存在すると知覚します。これは第二部定理一九でいわれていることです。そして当然ながらこの表象像も混乱した観念です。これは第二部定理二七でいわれていることです。
もしも第二部定理一六系二で,僕たちの身体の状態をより多く表示しているということのうちに何か意味を見出すのであるなら,このことは外部の物体の表象像にだけ関係することになります。そこに意味があるのであれば,自分の身体の表象像についてはそれとは逆のこと,すなわちそれは自分の身体の本性naturaよりも外部の物体の状態をより多く表示しているといわれなければならないからです。
しかし,現実的に存在する人間の身体が外部の物体に刺激されたときに,その人間の精神のうちに生じる表象像を,別々の秩序ordoで考えることはできません。この事象が生じたときには,その人間の精神のうちには,外部の物体の表象像と自分の身体の表象像が同時に生じるのであって,それは同じ秩序の下で生じることになるからです。よって,自分の身体の状態をより多く表示する場合と,外部の物体の状態をより多く表示する場合が,別々に存在するということはないのです。いい換えれば,外部の物体を表象しようと自分の身体を表象しようと,表示されているものは同じであると考えなければなりません。そうでないのなら第二部定理一六系二は,第二部定理一七とだけ関係して第二部定理一九とは関係しないといわなければなりませんが,それをいうのは無理があります。
よって,第二部定理一六系二で,僕たちの身体の状態をより多く表示するというとき,より多くということに特別な意味はないというべきです。
昨日の宇都宮記念の決勝。並びは山田‐真杉‐佐々木悠葵の関東,浅井に内藤‐佐々木雄一の東日本,久田‐松浦‐岩津の四国中国。
真杉がスタートを取って山田の前受け。4番手に浅井,7番手に久田で周回。残り2周のバックで山田が誘導との車間を開けました。それから久田が発進。打鐘で山田が突っ張って先行争い。この後のコーナーで真杉が久田を牽制。これで久田は浮いてしまいました。浅井が佐々木悠葵の後ろに続いていたので,久田の番手の松浦は下りるところがなく,7番手になっての一列棒状に。この隊列がバックまで続き,バックの出口から真杉が番手捲り。浅井は直線の手前から踏み込み,3人での優勝争い。差はそれぞれ詰まりましたが順位が変わるには至らず,優勝は真杉。マークの佐々木悠葵が4分の3車輪差の2着で関東のワンツー。浅井が半車輪差で3着。浅井マークから佐々木悠葵と浅井の間を突こうとした内藤が4分の1車輪差で4着。
優勝した栃木の真杉匠選手は2月に宇都宮のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は昨年7月の小松島記念以来の3勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは真杉と松浦が番手戦を選択しましたので,山田と久田のどちらが先行することになるのかが最大の焦点。前受けをした山田が叩きにきた久田を突っ張ることに成功しましたから,前を取った関東ラインの作戦がうまくいったというところでしょう。直線の手前で佐々木悠葵が浅井を十分に引き付けてから踏んでいったのも見逃せないところで,この走りが関東勢のワンツーに大きく貢献したと思います。浅井は自力で発進するよりも真杉の番手捲りを待って直線勝負に賭けました。届きはしませんでしたがこの選択も間違ったものではなかったと思います。
僕の見解opinioは第二部定理一六系二と矛盾するのではないかという疑問が出るかもしれません。この系Corollariumは,外部の物体corpusの本性naturaの力potentiaより身体corpusの状態の力の方がより多く表現されていると読解できないわけではないからです。もしその通りで,この系が僕の見解と齟齬を来すのであれば,僕の見解は誤りerrorであることになるでしょう。僕はそういう可能性があることは否定しません。ただ僕は,僕自身の見解とこの系が真向から矛盾するわけではないと考えています。なのでその理由を説明していきます。

この系は,現実的に存在する人間が何らかの外部の物体,たとえばXを表象するimaginariとき,その人間の精神mens humanaのうちに生じるXの表象像imagoは,Xの本性よりもその人間の身体humanum corpusの状態を表示するといっています。したがって,この表象像は,その人間の身体の状態の方を多く表示しているのであって,Xの本性を表示していないわけではありません。つまりXの表象像は,それを表象する人間の身体の状態とXの本性との両方を表示していることになります。そのとき,より多く表示されているのは,その人間の身体の状態の方であるということです。よってこの系が何をターゲットにしているのかといえば,現実的に存在する人間の精神のうちにある表象像であって,その表象像が形成されるにあたっての力関係がどうあるのかということではありません。つまり僕の見解とこの系は,そもそも何を説明しようとしているのかという点で相違があると僕は考えます。
ではこの系が具体的に何をいっているのかといえば,現実的に存在する人間の精神のうちに生じる表象像は,それを表象する人間の身体の状態の方を多く表示しているのだから,たとえそれが表象されているものの本性を表示しているとしても,本性そのものを表示していることにはならないということです。したがって,一般に表象像は十全な観念idea adaequataであることはできず,混乱した観念idea inadaequataなのであるということです。これがこの系に含まれる意味であって,なぜそれが混乱した観念であるのかということを,表象像そのものに着目して説明しているといえるでしょう。これに対して僕は,それを表象像の形成の観点から説明しているのです。
オークスの第84回優駿牝馬。
ライトクオンタムが逃げて向正面に入るところで2馬身ほどのリード。2番手はラヴェルとキミノナハマリアの併走となり,2馬身差でイングランドアイズ。2馬身差でゴールデンハインド。2馬身差でリバティアイランドとレミージュ。1馬身半差でハーパーとシンリョクカ。1馬身差でヒップホップソウルとペリファーニア。1馬身差でソーダズリング。2馬身差でコナコーストとミッキーゴージャスとドゥーラ。1馬身差でキタウイング。1馬身差でドゥアイズとエミューが最後尾を併走。最初の1000mは60秒0のスローペース。
3コーナーを回ってからライトクオンタムとキミノナハマリアが併走。ラヴェルとイングランドアイズが直後に並び,その後ろは4馬身ほど離れてゴールデンハインド。さらに2馬身差でリバティアイランドとレミージュというようにまだ縦長。直線に入るとライトクオンタムのすぐ外に出てきたラヴェルが楽にライトクオンタムの前に出て,抜け出しました。イングランドアイズの外から追ってきたのがリバティアイランドで,楽々と2番手まで上がると追われてさらに伸び,一旦先頭のラヴェルをあっさりと差し,そのまま抜け出して快勝。馬場の外目からハーパーとドゥーラが競り合うように伸び,この2頭もラヴェルを差し,ハーパーが6馬身差の2着でドゥーラがクビ差の3着。ラヴェルが4分の3馬身差で4着。
優勝したリバティアイランドは桜花賞以来のレース。これで大レース3勝目。能力が突出していることはこれまでのレースからはっきりしていました。桜花賞のときのレースぶりが懸念材料で,同じようなレースになると厳しいところもあると思いましたが,今日はすんなりとよい位置を取ることができました。そうなれば前走でも勝ったくらいなのですからこの楽勝も当然でしょう。今日のような位置取りでのレースを続けることができるなら,相当の活躍を見込んでよい馬だと思います。父はドゥラメンテ。

騎乗した川田将雅騎手は桜花賞以来の大レース38勝目。第73回以来となる11年ぶりのオークス2勝目。管理している中内田充正調教師は桜花賞以来の大レース7勝目。オークスは初勝利。
僕たちの精神mensのうちに混乱した観念idea inadaequataが発生する場合の力potentiaの対比については,次のように説明するのがよいと僕は考えます。
第二部定理一一系にあるように,僕たちの精神は神の無限知性の一部partem esse infiniti intellectus Deiです。よって,神が現実的に存在するある人間の精神の本性essentiaを構成する限りでXの観念が十全adaequatumであるといわれるとき,その人間はXを十全に認識します。これに対して,神がある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでXの観念が神のうちで十全であるといわれる場合は,その人間はXを混乱して認識するcognoscereのです。このことはスピノザの哲学における重要なテーゼのひとつである主体の排除との関連でこのブログでは指摘されますが,今はこのことは関係ありません。
神がある人間の本性を構成する限りで神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるといわれるとき,何らかの力が表現されているとすれば,その人間の本性を構成する限りでの神の力です。ある人間の本性を構成する限りでの神というのはその人間の精神と同じ意味ですから,これはその人間の精神の本性の力が表現されているというのと同じです。よってこれはその人間の精神の能動actioであることになるでしょう。その人間の精神の力に対抗するような力は何も表現されていないからです。したがって,現実的に存在するある人間が何らかのものを十全に認識するなら,一般的にそれはその人間の能動であることになります。これは第三部定理一に合致しています。
これに対して,神がある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでXの観念は神のうちで十全であるといわれる場合は,その人間の精神の本性を構成する限りでの神の力と同時に,ほかのものの観念を有する限りでの神の力も表現されています。そして,ほかのものの観念を有する限りでの神の力の方が,ある人間の精神の本性を構成する限りでの神の力よりも,より多く表現されていると解するのが適切と僕は考えるのです。そしてこのように解すれば,現実的に存在する人間が事物の混乱した観念を有するときには,その人間の受動passioであるということを,一般的に示すことができます。これも第三部定理一に合致します。
NHKマイルカップを勝ったシャンパンカラーの輸入基礎繁殖牝馬は2015年にイギリスで産まれた母であるメモリアルライフです。このメモリアルライフが輸入されたのには理由があって,メモリアルライフの祖母,シャンパンカラーの三代母である,1998年にフランスで産まれたバルドウィナという馬が輸入されていて,繁殖牝馬として日本で成功を収めていたからです。Baldwinaは姓のひとつ。英語だとボールドウィナです。ファミリーナンバーは1-n。

2004年にイギリスで1頭の産駒を出産してから輸入。日本での初産駒となったのがワンカラットで,2009年にフィリーズレビューを勝つと2010年には函館スプリントステークスとキーンランドカップ,2012年にはオーシャンステークスを勝ちました。
ワンカラットの7つ下のの半妹がジュエラー。2016年に桜花賞を勝っています。
メモリアルライフは2004年にイギリスで産まれたバルドウィナの産駒の娘。メモリアルライフは繁殖生活は日本で送っていて,シャンパンカラーは2頭目の産駒になります。まだ繁殖生活を送っていますから,シャンパンカラーの弟や妹も,いずれは競走馬として出走してくることになるでしょう。
重賞の勝ち馬はこの3頭だけですが,重賞の入着馬というのはほかにも何頭かいます。バルドウィナはおそらく日本の競馬に対する適性が高い繁殖牝馬で,バルドウィナを一族の祖とする馬たちからは,おそらくまだ活躍馬が出てくるものと思います。
愛amorという感情affectusは必ずしも理性ratioから生じるわけではありません。受動感情として現実的に存在する人間のうちに生じる場合もあります。第三部定理三九は,愛が能動的に生じようと受動的に生じようと同じように成立するわけですから,どちらにしても愛を感じた人間は,その愛の対象に,条件付きとはいえ親切をなすでしょう。この親切をなす行為自体は合倫理的な行為ではありますが,もしも受動的な愛によって愛する対象に親切をなすのであれば,それは有徳的であるとはいえません。理性に従って愛を感じ,その愛のゆえに親切をなすときだけ,その人間は有徳的であるといわれるのです。
このことは,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』のスピノザの主張と重なる部分があるのであって,あるいはスピノザはこの定理Propositioについて,そのことを想起していたかもしれません。スピノザによれば新約聖書の教えというのはふたつしかなく,そのうちのひとつが隣人を愛せということでした。隣人を愛するということはそれ自体で合倫理的であるといえます。この愛が隣人に対して親切をなす要因となるからです。しかしその聖書の教えに服従することによって隣人を愛し,また隣人に親切をなす人間は,合倫理的ではあっても有徳的であるとはいわれません。ただ理性に従って隣人を愛し,隣人に親切をなす人間だけが有徳的であるといわれるのです。隣人に親切をなすことは共同体や社会societasといった人間の集団に融和を齎すものであって,亀裂を生じさせるようなことではありません。ですからスピノザは新約聖書のこの教えを称揚し,それが合倫理的であるということは是認します。しかしある人間が人間集団に融和を齎すからといって,それだけでその人間が有徳的であるということにはならないのです。
受動passioというのは第三部定理一により,混乱した観念idea inadaequataに依存します。そして國分がいっている通り,現実的に存在するある人間の受動というのは,その人間の本性natura humanaのみによって説明される力potentiaに対して,その人間とはほかのものの力がより多く表現されている場合にいわれるのでした。したがって,僕たちの精神mensのうちに混乱した観念が発生するということも,力の対比によって説明できる筈です。
昨日の第64期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は羽生善治九段が3勝,佐々木大地七段が1勝。
振駒で佐々木七段の先手となり相掛り。後手の羽生九段が攻める展開になりました。

ここで☖4三桂と打ちました。
後手は☗6三歩成☖同銀と成り捨ててから☗6六銀と逃げました。
飛車取りになっていますので後手は☖5四飛。先手が☗7九銀と6八の金にヒモをつけたのに対して☖8二香。このあたりの後手の手順に問題があったようです。
先手は☗6五銀と上がり飛車取りなので☖5五飛。

第2図となって打った4三の桂馬が狙われる駒になってしまい,後手が不利に陥りました。
佐々木七段が勝って挑戦者に。王位戦七番勝負には初出場。第一局は7月7日と8日に指される予定です。
第四部定理二四でいわれているように,現実的に存在する人間が有徳的であるといわれるのは,その人間が理性ratioの導きに従っている限りです。よってもしある人間が他者に対する憎しみodiumのゆえにその他者に害悪を与えることを断念するとき,もしその人間が理性に従って害悪を与えることを断念しているのであれば,その人間は有徳的であるといえます。しかしそうでない場合,たとえば憎しみとは異なった不安metusのような感情affectusによって害悪を与えることを断念するのであれば,その人間は有徳的であるとはいえません。スピノザが第四部定理六三でいっているように,不安に導かれて悪malumを避けて善bonumをなすとき,その人は理性に従っていないことになるからです。
これでみれば分かるように,スピノザの哲学では合倫理的であるということと有徳的であることとは異なります。合倫理的であるということは現実的に存在するある人間の行為だけで判定することができるのですが,有徳的であるということは行為だけでは判断できず,行為の原因causaによって判断されなければならないからです。もしある人間が有徳的であるのなら合倫理的であることができますが,合倫理的であるからといって有徳的であるとはいうことができません。いい換えれば,ある人間は合倫理的であるけれども有徳的ではないという場合があることになります。
この相違は,僕の考えでは,有徳的であるということは個人に帰せられるのに対して,合倫理的であるということは共同体とか社会societasといった人間の集団に帰せられるからです。つまり,共同体なり社会なりを円滑に進めていくことの手段としてあるのが倫理であって,徳virtusというのはそうした手段とは別の,諸個人の生き方と関連ささせられているのです。
よって,第三部定理三九でいわれていることのうち,他者を愛しているときにその人に親切をなすということも,それ自体で合倫理的ではあるのですが,それだけで有徳的であるとはいえないことになります。愛amorという感情は喜びlaetitiaの一種ですから,第三部定理五九によりその人間の能動actioであり得ます。つまりその人間の理性から生じ得る感情です。この場合は無条件で有徳的であることになります。
昨晩の第15回川崎マイラーズ。
アイウォールとアランバローズがハナを奪いにいきました。枠なりにアイウォールの逃げとなり,アランバローズが2番手。向正面に入るところで3馬身差の3番手にファルコンビーク。2馬身差でリンゾウチャネル。2馬身差でオーヴェルニュ。6番手にデュードヴァン。4馬身差でゴールドホイヤー。3馬身差でグランデラムジーとトランセンデンスが併走し,最後尾にスワーヴアラミスと,縦長の隊列。前半の800mは49秒8のハイペース。
3コーナー付近でアランバローズにアクシデントが発生。心房細動か鼻出血だったのではないかと推測しますが,このためにずるずると後退。後続はそれを避けなければならなかったので,アイウォールのリードが広がりました。コーナーで3馬身差の2番手まで追い上げてきたのがオーヴェルニュ。内のデュードヴァンが3番手で外のファルコンビークが3番手。その後ろにリンゾウチャネルとゴールドホイヤー。直線に入るとオーヴェルニュの外にデュードヴァンが並び掛けて2頭が競り合いながらアイウォールを追う形になりましたが,アイウォールがフィニッシュに向けてはむしろ差を広げていき,逃げ切って優勝。最後尾から向正面で動き出し,直線は大外から競り合う2頭を差したスワーヴアラミスが2馬身差で2着。2頭の競り合いはフィニッシュまで続き写真判定。外のデュードヴァンがクビ差の3着で内のオーヴェルニュがハナ差で4着。
優勝したアイウォールは南関東重賞初挑戦での優勝。前走はこのレースのトライアルレースを勝っていました。トライアルの勝ち馬は斤量で恵まれることもあり,そのまま好走するケースがこれまでも目立っていて,今年もその傾向通りの結果。逃げなくてもレースはできる馬なので,その点は心配することはありません。斤量がほかの馬たちと同じになったときに,同じくらい走れるのかということが,これからの課題となるでしょう。父はエスポワールシチー。Eyewallは台風の目の付近の積乱雲の壁。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は雲取賞以来の南関東重賞52勝目。第12回以来3年ぶりの川崎マイラーズ2勝目。管理している浦和の水野貴史調教師は南関東重賞10勝目。川崎マイラーズは初勝利。
もしスピノザの哲学から実践的な倫理を発見しようとするなら,他人に害悪を与えることを断念することが能動actioとして生じるか受動passioとして生じるかは問われません。ある人間の精神mens humanaの能動はその人間の理性ratioから生じ,第四部定理七によって,その理性から生じる感情affectusが受動感情を抑制しまた除去することになります。他人に害悪を与える要因となる感情がその人間の能動によって抑制されたり除去されたりするのは,すべてこの様式によります。他面からいえば,現実的に存在する人間は,理性に従っている限りでは他人に害悪を与えようとする受動感情を抑制したり除去したりすることになるので,実際に他人に害悪を及ぼすような行為をなすことはありません。スピノザの哲学の実践倫理においては,これと同じことが現実的に存在する人間に生じるのであれば,つまり他人に害悪を与えることを断念すること,また他人に害悪を与えることを生じさせるような受動感情が抑制されたり除去されたりするのであれば,それは能動である必要はなく受動であっても構わないことになっています。これはスピノザが新約聖書の教えを高評価することと関係していますが,そのことはこれまでに何度も述べてきたことなので,ここでは繰り返しません。

スピノザは第四部定理五四備考の中で,受動感情の有用性について語っています。そのとき,不安metusという感情を有用な感情のひとつとして提示しています。それはこの感情が,たとえば僕がこの考察の中で示したように,憎しみodiumという感情を抑制したり除去したりするのに役立つ感情であるからです。したがって,実践倫理の側面からは,不安という感情を抱くこと自体が受動であるにもかかわらず,その受動は有用な受動であり得るのです。このことは新約聖書についての見解opinioを詳しく示している『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』に訴えずとも,『エチカ』から汲み取ることができるものなのです。
ただしあくまでもこれは実践倫理の側面からいわれているのであって,能動であるか受動であるかということ,つまりその人間の徳virtusであるか徳でないかという観点を含むものではありません。徳であるかないかは,行為だけからは判断できないのです。
札幌で指された昨日の第34期女流王位戦五番勝負第二局。
里見香奈女流王位の先手で5筋位取り中飛車。伊藤沙恵女流四段が向飛車にしたのをみて,先手は左玉から飛車を2筋に戻しました。結果的に後手の向飛車銀冠に先手が5筋位取り左美濃のような対抗型に。ただ2筋の歩は後手が伸ばす形です。

後手はここで☖3五歩と突きました。ここは☖2六歩も有力で,そちらを選ぶべきだったかもしれません。
先手が☗4五飛と取ったとき,手の流れとしては☖4四銀だと思うのですが,やりにくかったとのことで☖4四歩と打ちました。なので先手は労せず☗3五飛と取れることに。
次に☗2五飛とぶつけられると困るので☖3三桂ですが,これはいかにも苦しげな感じを受けます。先手は☗5四歩☖同歩と角筋を通してから☗4五歩。☖2四飛の受けに☗2六歩と突きました。

これで飛車交換が避けられない形になり,玉の形の関係から先手が有利になりました。後手は攻め合いに出ましたが先手の攻めの方が早く,そのまま押し切りました。
里見女流王位が勝って1勝1敗。第三局は25日に指される予定です。
第三部定理三九によれば,ある人間に対して憎しみodiumを抱いている人間は,憎んでいる相手に害悪を与えようとします。しかし,その害悪を与えることによって,自分がより大なる害悪を被ると表象するimaginari場合は,この害悪を避けるために,憎んでいる相手に害悪を与えることを断念します。これは分かりやすくいえば,だれかを憎んでいて殺してやりたいくらいに思っていても,実際に殺してしまえば犯罪者として服役しなければならないので,その殺人を断念するというような場合です。この,自分の害悪を表象したときに感じるのは,第三部諸感情の定義一三の不安metusです。ですからこのときにこの人間のうちに生じていることを感情論として説明すれば,この人間のうちに生じた不安という感情affectusが,第四部定理七の様式によって,憎しみという感情を抑制しあるいは除去しているのです。
このとき,不安という感情は,ある表象像imagoから生じる感情なのですから,それを感じている人間の受動passioを意味します。これは表象像が混乱した観念idea inadaequataであることに注意すれば,第三部定理一から明白だといえます。よって,ある人間が憎んでいる相手に対して害悪を与えることを断念するということがあったとしても,それはその人間の能動actioであるとはいえません。この場合でいえば,害悪を与えることを断念する人間の力potentiaよりも,不安という感情あるいは不安という感情を生じさせる自分が被る害悪の表象像の力の方がより多く表現されているからです。
もちろんこの断念が,憎しみを感じている人間の能動によって生じる場合がないわけではありません。他人に害悪を与えることそのものが自身にとって悪malumであると十全に認識した人間がそのことによって害悪を与えることを断念するならば,これはその人間が十全な原因causa adaequataとして認識した事柄の力が表現されているといえますから,その人間の能動であることになるからです。よって憎しみを感じている相手に害悪を与えることを断念するのは常に受動であるということはできません。しかしだからといって受動によってその事態が生じないというわけでもないのです。
ただし,このことは力の表現すなわち能動と受動という観点での話です。