スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
日本ダービー を勝ったロジャーバローズ は母が2008年にイギリスで産まれたリトルブック で,輸入基礎繁殖牝馬になります。ファミリーナンバー は16-f です。
リトルブックはイギリスで10戦して3着が1度あるだけであとは着外です。ですが最初の種付けをされた状態ですぐに繁殖牝馬として輸入されました。これには理由があって,5つ上の半姉でやはりイギリス産のドナブリーニ という馬が先に繁殖牝馬として輸入され,成功を収めていたからです。
ドナブリーニはイギリスでGⅠを勝っていますから,競走成績を評価されて輸入されたものでしょう。最初の産駒がドナウブルー で,2012年に京都牝馬ステークスと関屋記念を勝ちました。
さらに翌年に産まれた全妹がジェンティルドンナ 。2012年 に年度代表馬,2013年 が最優秀4歳以上牝馬,2014年 が年度代表馬と,3年連続でJRA賞を受賞。リトルブックの初仔が日本で産まれたのが2013年ですから,ジェンティルドンナの2012年の活躍が輸入の決め手となったといえます。ロジャーバローズはドナウブルーとジェンティルドンナの姉妹とは従弟になるわけです。
もう少し遡るとドナブリーニとリトルブック姉妹の3代母にあたるBeau Darlingという馬から分枝があります。昨年の埼玉新聞栄冠賞 を勝っている現役のトーセンデューク はその子孫。ほかに現役でオープンを連勝中の馬もいますので,こちらの分枝からも重賞の勝ち馬が出てくる可能性がありそうです。
スピノザが延長の属性Extensionis attributumを神Deusの本性essentiaに帰したことを発端とした論理は,神の無限知性intellectus infinitusであれその無限知性の一部である人間の精神mens humanaのうちにであれ,円の十全な観念idea adaequataが存在するなら,この十全な観念の対象ideatumである円が,無限知性ないしは人間の精神を離れて形相的にformaliter存在しなければならないということを帰結させます。そしてスピノザは,自身が示している,一端が固定しもう一端が運動する直線によって作成される図形である,という円の定義Definitioは,知性が円を概念するconcipereために資する定義であるということを認めているのです。したがって,たとえばある人間が精神の能動 actio Mentisによってこのように円を概念するなら,その観念は円の十全な観念であるということになります。よってその観念の対象である円は,その人間の精神の外に形相的有esse formaleとして存在しなければなりません。ところが一方で,スピノザはこの円の定義に虚構が含まれているということも認めるのです。いい換えれば,知性なり精神なりを離れて形相的にある円の起成原因causa efficiensは,このような直線の運動motusではない,少なくともそうでない場合もあり得るということを認めているのです。これらのことがなぜ両立し得るのか,そこには矛盾があるのではないかという主旨の疑問が生じて不思議ではないように僕は以前から思っていました。
これに加えて,次のような事情,デカルト René Descartesやスピノザ自身の哲学との関係ではなく,それを解釈する側からみた場合の事情というのが影響してきます。
デカルトの数学というのは,認識cognitioの世界の学問として限定されています。よってこれはきわめて認識論的に,あるいは観念論的に数学という学問を規定づけているといえるのではないかと思います。なので,もし唯物論的な思考に慣れている人がいたら,このような数学の規定というのを不思議に,あるいはとても奇妙なものと思ったとしておかしくありません。ものの思考の仕方には確かに慣れというのがあるのであって,僕自身もスピノザ哲学的な思考に対する慣れというものがありますから,そこから大きく逸れるような思考の仕方が記述されていたり主張されていたりする場合には,理解するのに時間が掛かるということがあるのです。
旧伊藤伝右衛門邸 で指された昨日の第30期女流王位戦 五番勝負第三局。
里見香奈女流名人の先手でノーマル三間飛車 。渡部愛女流王位はエルモ囲いから急戦を仕掛けました 。先手に苦労が多い展開ではありましたが適切に対応した結果,後手の仕掛けがやや無理だったという進展に。
先手が4六の銀で3五の歩を取った局面。この手は予定変更で,攻めというより玉を3六に逃げ出せるようにした受けの手です。
ここから☖1六歩☗1二歩と進みましたが,後の展開からするとこれは後手にとっては損だったようです。ただしこう進めたのには狙いがありました。それは☖1七歩成☗同香 で先手の香車を吊り上げることです。
継続手は☖1九飛なのですが,ここで打つと☗2九金☖1八角☗同金☖同飛成☗3六玉☖3八龍と進めたときに☗1六角の王手龍取りがあります。後手はこの局面でそれに気付いたので☖5三王と逃げたのですが,この手は負けを早めました。☖1六歩と打って阻止する方が優ったようです。
手番を得た先手は☗5六馬と香車を取りました。後手からはこの香車を5七に,さらに桂馬を4八に捨てて3九に角を打つ狙いもあり,それを阻止した一手です。
こうされると☖1九飛と攻めていくほかありません。これは☗2九金☖1八角☗同金☖同飛成☗3六玉☖3八龍まで一直線。そこで先手は☗4五桂打☖6二王と追ってから☗1六角と打ちました。
今度は王手龍取りにこそなっていないものの後手は龍を逃げるほかありません。先手が手番を得たことにより大勢が決しました。
里見名人が勝って2勝1敗 。第四局は来月13日です。
スピノザの哲学では,延長の属性Extensionis attributumが神Deusの本性essentiaを構成します。これをデカルト René Descartesの哲学と比較していうなら,神と別の実体substantiaであった物体的実体 substantia corporeaが,スピノザの場合は神と同じ意味になったということです。これはスピノザが無限infinitumとしての量という概念conceptusを導入するがゆえに可能になった変更であるという一面があります。よってこのことと,無限としての量という概念を導入するために必要であった幾何学をスピノザが数学であると考えていたということの間にも関連性があることになります。
第二部定理七系 でスピノザは,神の働く力agendi potentiaと神の思惟する力cogitandi potentiaの同等性を主張しています。ですから神が延長の属性としてみられる限りでの働く力は,神が延長の属性を観念の対象ideatumとして思惟する力と同等であるとみなければなりません。そしてこのことは逆の方向でも成立しなければなりません。つまり神がある属性を対象として思惟する力は,神がその属性としてみられる限りで働く力と同等でなければならないのです。よって,神の無限知性intellectus infinitusのうちにある属性の様態modiであるXの観念ideaが存在する場合は,その属性の様態としてXが神の無限知性の外に形相的にformaliter存在するといわなければなりません。これを一般的にいえば,神の無限知性のうちにある観念があるなら,その観念されたものideatumが無限知性を離れて形相的に存在しなければならないということになります。
次に,第二部定理一一系 では,人間の精神mens humanaは神の無限知性の一部 であるといわれます。ただしこのことは人間の精神だけに妥当するわけではありません。おおよそ知性 なるもの,すなわち個々の観念の集積体が有限なものとしてあるなら,それは神の無限知性の一部です。よってある人間の知性のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるなら,第二部定理七系の意味 から,それは神の無限知性のうちにあるXの十全な観念と同一です。したがってXは人間の知性を離れて形相的に存在することになります。
定義 Definitioに虚構が含まれていても構わないのは,定義されたものが十全に認識されるのに資するためでした。よってその定義によって定義されるものが十全に認識されるのなら,その定義されたものは知性の外に形相的にあることになります。
第23回さきたま杯 。
主張したウインムートがハナに。キタサンミカヅキ,モーニン,サクセスエナジー,ブルドッグボスの4頭が2番手集団を形成。5番手にアンサンブルライフとコスタアレグレ。7番手にコウエイエンブレムとサンライズノヴァ。大きく離れてレヴァンタール。コスモマイギフトとミヤジマッキーはそこからさらに大きく離されました。前半の600mは36秒4のミドルペース。
3コーナーを回るとブルドッグボスが内でサクセスエナジーが外の2番手に並び,ウインムートを追う形。コーナーの途中でブルドッグボスは失速し,その内からキタサンミカヅキが進出。モーニンも後退して外からサンライズノヴァが捲ってきました。直線に入るところでサクセスエナジーがウインムートに並び掛けるところまでいきましたが,直線ではウインムートが再びリードを広げていき,そのまま逃げ切って優勝。サクセスエナジーが2馬身半差で2着。内を回ったキタサンミカヅキが2馬身差の3着で外を回ったサンライズノヴァが4分の3馬身差で4着。
優勝したウインムート は兵庫ゴールドトロフィー 以来の重賞2勝目。このレースは勝つ力がありそうな馬が6頭いて,そのうちの1頭。ただ,浦和コースは得手不得手が顕著に出るケースが多く,この馬は昨秋に大敗を喫していましたのでその点は気掛かりでした。2回目ということで慣れがあったのかもしれませんし,あるいは逃げの手に出たら楽なペースになったことがよかったのかもしれません。今年はこのコースでJBCスプリントが行われることになっていますので,そこに向けてという点では,コースに対する不安がなくなったのは大きいといえそうです。母は2004年に小倉2歳ステークスを勝ったコスモヴァレンチ でその父はマイネルラヴ 。6つ上の全兄に2012年に函館スプリントステークス,2013年にシルクロードステークスと兵庫ゴールドトロフィー ,2014年にJBCスプリント ,2016年に東京盃 を勝ったドリームバレンチノ 。Mutはドイツ語で勇気。
騎乗した和田竜二騎手はさきたま杯初勝利。管理している加用正調教師は第12回 以来11年ぶりのさきたま杯2勝目。
デカルト René Descartesのように幾何学を代数学に置き換えてしまえば,幾何学の対象も知性intellectusの外に存在をもたないとしてしまうことが可能になります。これはこれで利点もあります。数学は数学的原理だけですべて説明することが可能になり,形而上学に訴える必要がまったくなくなるからです。とりわけデカルトの哲学の場合,神Deusは思惟するものではありますが,物体的実体substantia corporeaは神とは別の実体と規定されます。ですから物体的実体を第一原因causa primaないしは最近原因causa proximaとして発生するものについて,それを数学の対象としなければならない必然性necessitasも欠いていえるでしょう。ですから,知性の外に存在する事物を数学の対象とすることができるか否かということは,スピノザの場合に特有の疑問であるわけではないといっても,その疑問がデカルトに投げ掛けられる場合とスピノザに投げ掛けられる場合とでは,意味合いには違いがあると考える必要はあります。
スピノザの場合はデカルトのようにはいきません。スピノザはそもそも計算とか解析といったことは,それが数学であることを認めるにしても,枝葉末節にすぎないと認識していただろうと思われます。ですから幾何学を代数学に置き換えるという手法自体を採用することができません。いい換えれば数学の原理だけで数学のすべてを説明するのは,最初からスピノザの念頭にはなかったのだと解する必要があります。デカルトが幾何学に代数学を導入することによって普遍数学を導入したことに照合させていえば,スピノザには普遍数学という種の考え方は当初から存在せず,むしろ普遍哲学とか普遍形而上学というのがまずあって,数学というのはそこに含まれるような学問でなければならなかったと解するのが適切ではないかと僕には思えます。もちろんこのとき,数学だけがそういう普遍哲学ないしは普遍形而上学に含まれるのではなくて,あらゆる学問,それは自然科学であるか社会科学であるかを問わず,すべての学問がそこに含まれなければならないとみていたのだと僕は考えます。スピノザが幾何学を数学だと考えていたのも,本来はこのような観点から説明されるべきなのだろうと思います。
もうひとつの理由はなお重大です。
「あほう鳥 」が収録されている「愛していると云ってくれ」というアルバムには「怜子」という楽曲も収録されています。この楽曲の中にも「あほう鳥」と同様に,僕が好きなフレーズが入っているので,口ずさんでしまうケースがあります。
この楽曲は歌詞に則して説明していくよりも,事前に楽曲の背景を知っておいた方が分かりやすいので,まずはそれを説明していきましょう。楽曲の主題となるのは情念なのですが,これは別れに関わる感情といよりも,羨望とか嫉妬という語で表される感情に近いです。
歌い手のほかにふたりの人物が登場します。ひとりはタイトルにもなっている,怜子という女です。歌い手とこの女は友人です。それもかなり親密な関係にあり,その親密な関係がかなり長く続いていると解せるようになっています。
歌い手は男であるとも女であるとも解せますが,たぶん女です。これは女の一人称が「私」であることからの推測です。この女は怜子のことを「おまえ」と呼びます。歌い手が男であったとすれば,女友達である怜子のことを「おまえ」と呼んでいることになり,そのような呼び方をする男が一人称に「私」を用いるのは不自然だと僕には思えます。なので僕の解釈では歌い手は女です。女が仲良しの友人である女のことを「おまえ」と呼ぶというのも,実は僕には不自然に感じられるのですが,そういうこともおそらくあるのでしょう。なのでここはそれくらい歌い手と怜子は仲が良いと解しておきます。
もうひとり,男が登場します。この男も歌い手とは古くからの知り合いだと思われます。少なくとも歌い手はこの男の女性遍歴を知っているのは間違いありません。
男のことを女は「あいつ」と呼びます。これも歌い手と男との関係性の手掛かりかもしれません。ですが,怜子のことを「おまえ」と呼ぶ歌い手なら,男との関係性に関わらず「あいつ」と呼んでもおかしくないように僕には思えます。なので僕はここからは歌い手と男との関係を探ることはしません。
スピノザによる円の定義Definitioは,虚偽falsitasではなく真理veritasですが,虚構を含んでいるということ自体はスピノザ自身が認めています。では円を対象として数学を学ぶとき,物体corpusとして存在する円はその対象となり得るのでしょうか。スピノザの定義は知性intellectusが円を概念するconcipereのに資する定義ですから,円の観念ideaを数学の対象とすることは可能です。ですがこの仕方で概念された円の起成原因causa efficiensは,知性の外に現実的に存在する円の起成原因を含んでいるわけではありません。ですから当然のようにそれを対象とした数学は成立するのかという疑問が生じてきます。この疑問の答えがyesであるのかnoであるのかということとは関係なく,そもそもこのような疑問を許してしまうという時点で,スピノザの哲学は数学者たちを当惑させる要素を含んでいるのではないかと僕はかねがね思っていたのです。
綜合的方法と分析的方法の両方を用いることによって,普遍数学を導入したのはデカルト René Descartesです。デカルトにとってそれらの方法は,方法として普遍的であり,したがって単に数学にだけ導入されるべきものではなく,形而上学にも導入されるべき方法でした。このとき,デカルトは形而上学は知性の外にあるものを対象とするものなので,そうしたものの存在existentiaを証明する必要があると考えていました。それが成功しているかどうかは別に,デカルトはこれを神Deusの存在論的証明から証明していったのです。これに対して数学にその必要はないとデカルトは考えていました。デカルトにとっての数学の対象は知性のうちにある観念であって,数学の対象となるべき事物の存在は,そのものの本性essentiaのうちに含まれていたからです。デカルトは数学に代数学を導入していますが,デカルトにとってそれは,幾何学は代数学に還元することができるという意味をもっていたようです。代数というのは当然ながら知性のうちにのみ存在します。幾何学の対象については必ずしもそのようにはいえないと僕は考えますが,デカルトにとってはそれは代数学に還元できるのですから,幾何学の対象も知性の外に存在するというようには解する必要がありませんでした。つまりこの種の疑問はスピノザに特有ではありません。
香港のシャティン競馬場で行われた昨日のチャンピオンズ&チャターカップGⅠ 芝2400m。
北海道のハッピーグリンは大外枠からの発走。やや強引に内に入れようとしましたが,3頭が併走する5番手の外に。1コーナーから2コーナーにかけてのコーナーワークで6番手の外になりましたが,向正面に入ってまた元の位置に戻りました。ミドルペースのレースだったと思われます。3コーナーも外を回り,ここでは遅れをとりませんでした。しかし直線で大外になるとそこからは伸びがなく,8着でした。
発走後の直線はそこまで短いわけではないので,ややロスのある走りだったと思います。結果的に外を回らされることになりましたが,大きな差をつけられていますので,たとえば内枠からの発馬であっても厳しかったのではないでしょうか。この距離でもそれなりに走ってはいるのですが,本質的にはやや長いような気もします。
定義 Definitioに含まれているのが好ましい,定義されるものの起成原因causa efficiensが虚構 であって構わないというのは,幾何学的方法すなわち綜合的方法における定義の条件のひとつです。よってこれは数学だけに関係するわけではなく,何であれそれを幾何学的方法によって記述する,あるいは研究するという場合に妥当します。なのでこのことは哲学の場合にも妥当するのであって,本来は哲学の研究の場合にもこれから示すのと同じ疑問が呈されてもおかしくありません。ですが僕がこのことを,とりわけ数学者たちを困惑させるのではないかと思っていたことにも理由はあります。スピノザはこのような虚構としての起成原因を含む定義の例を,好んで円の定義として説明するからです。円は図形であり,それが数学という学問の対象であるということは,だれでも知っていることでしょう。
スピノザは円を,一端が固定し一端が運動する直線によって作成される図形である,というように定義します。これは厳密性を欠くので,ここでは平面上の図形のことだけを念頭に置いてください。平面上に1本の直線があって,この直線がスピノザの円の定義に含まれている運動motusをするなら,確かに円が作成されます。いい換えればこの定義は円の起成原因を含んでいるといえるでしょう。そしてこの定義がこのような起成原因を含んでいるがゆえに,たとえば中心からの距離がすべて等しい図形であるといった,円の諸々の特質proprietasのすべてを導くことができるのです。他面からいえば,中心からの距離が等しい図形であるという言明は,円に関する真の命題ではあるのですが,それは円の特質のひとつであり,円の定義ではあり得ません。この命題は真verumではあっても円の発生を何ひとつ含んでいないからです。いい換えればこの命題には円の起成原因は含まれていないからです。
これが円の定義であるとしても,知性intellectusを離れて形相的にformaliter,というのは物体corpusとしてという意味ですが,物体としての円が存在するとき,その円はスピノザが定義したような直線の運動によって発生したとは限りません。というよりそういう場合の方が少ないでしょう。だから円の定義は明らかに虚構を含んでいることになります。
日本ダービーの第86回東京優駿 。
サートゥルナーリアは立ち上がって1馬身ほどの不利。内からロジャーバローズとエメラルファイトが先手を窺うところ,外からリオンリオンが追い抜いて1コーナーで単独の逃げに。ここから2コーナーにかけて飛ばしていき向正面の入口で5馬身くらいのリード。ラップを緩めなかったので,さらに差は広がりました。2番手がロジャーバローズで3番手に上がったのがサトノルークス。エメラルファイトが4番手に。5番手以下は2頭ずつの併走で,ダノンキングリーとクラージュゲリエ。マイネルサーパスとヴェロックス。ランフォザローゼスとシュヴァルツリーゼ。ニシノデイジーとサートゥルナーリア。レッドジェニアルとナイママの順。この後ろにタガノディアマンテ,アドマイヤジャスタ,ヴィントの3頭が一団となり,最後尾にメイショウテンゲン。最初の1000mは57秒8の超ハイペース。
3コーナーを回るとリオンリオンとロジャーバローズの差は4馬身くらい。ここから3番手との差も4馬身くらいに広がりました。直線に入るところで3番手に上がったのはダノンキングリー。直線ではリオンリオンが一杯になり,ロジャーバローズが先頭に。やや離れた外から追ったのがダノンキングリー。その後ろから追ってきた馬は前の2頭に最後まで追いつけず,優勝争いは前の2頭。最後まで粘り切ったロジャーバローズが優勝。ダノンキングリーがクビ差で2着。3着は直線で脚を伸ばしてきた5頭の争い。外から2頭目のヴェロックスが2馬身半差で3着。大外のサートゥルナーリアが半馬身差で4着。最内のニシノデイジーがアタマ差で5着。真中のクラージュゲリエがクビ差で6着。内から2頭目のランフォザローゼスがクビ差で7着。
優勝したロジャーバローズ は重賞初制覇で大レース制覇。前走の京都新聞杯で2着になり,出走の権利を得ていました。このレースは皐月賞の上位3頭が強力とみていただけに意外な結果ではあります。ただダービーはなぜか5番から10番くらいの馬はなかなか勝てない傾向にあり,サートゥルナーリアとダノンキングリーはその傾向を覆せませんでした。ヴェロックスは発走前の消耗が大きかったのではないでしょうか。とはいえこのペースを先行して,ダノンキングリー以外の追随は許さずに優勝しているのですから,ロジャーバローズの能力も相当のものと考えなければなりません。父は第72回を制したディープインパクト で父仔制覇。
騎乗した浜中俊騎手は2016年のマイルチャンピオンシップ 以来となる大レース10勝目。日本ダービーは初勝利。管理している角居勝彦調教師は皐月賞 以来の大レース37勝目。第74回 以来12年ぶりの日本ダービー2勝目。
定義 Definitioに含まれているのが好ましい,定義されるものの起成原因causa efficiensは,知性intellectusがその定義されるものを概念するconcipereのに資することを条件としています。よってその起成原因によって定義されるものの十全な観念idea adaequataが知性のうちに発生するのであれば,定義されるものが知性の外に存在するとき,そのものの起成原因はそれと異なっていてもいいのです。こうした定義における起成原因の条件のことを,スピノザはその起成原因は虚構 であって構わないといういい方をします。どういう意味で虚構であるのかはこの説明から明白でしょう。Aの定義のうちにAの起成原因が含まれているとき,その定義がAを知性が概念するのに役立てばいいのであり,もし実際にAが知性の外に存在する場合の起成原因ではなくてもよいという意味の虚構です。
気を付けておかなければならないのは,これは虚構であって虚偽falsitasとは異なるという点です。虚偽というのはスピノザの哲学では混乱した観念idea inadaequataのことを意味します。ですがこの定義の条件でいわれる虚構は,定義されるものが十全に認識されるということを前提としています。ですからこれは虚偽ではなく真理veritasです。虚構は虚偽ではなく真理なのです。
ただし,これが真理であるのは,起成原因によって定義されたものの十全な観念が発生するからなのであって,そこに起成原因とその結果effectusとしての定義されるものという因果関係が結ばれているからです。この結びつきのゆえにそれは虚構ではあっても真理なのです。もしこの結びつきを欠いてしまえば,というのは,定義に含まれている起成原因と定義されるものとが個別に認識されるならという意味ですが,これは虚偽です。少なくとも虚偽であり得ます。たとえばXの定義にAという起成原因が含まれているとき,Aは必然的にnecessario生じるとは限りませんから,XなしにAだけを認識するcognoscereならそれは虚偽であり得ます。これはスピノザ自身が,虚構といっている条件,つまり知性の外にXが生じる場合の起成原因はAでなくても構わないということからも明白です。この場合でいえばAとXが因果関係で結ばれることによって,AについてもXについてもそれは真理であるということが担保されるのです。
僕は希望と不安 は表裏一体の感情affectusであると解します。よってある感情が希望spesから生じるならばその同じ感情は不安metusからも生じるし,逆にある感情が不安から生じるのであれば,その感情は希望からも生じると解します。スピノザが第三部諸感情の定義一三説明 でいっていることからして,そのように解するのが妥当であると考えるからです。よって第三部諸感情の定義一四 の安堵securitasは,希望および不安を原因causaとして生じる喜びlaetitiaであり,第三部諸感情の定義一五 の絶望desperatioは,希望および不安から生じる悲しみtristitiaであると解します。
しかし岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,僕とは異なった見解を示しています。畠中によれば,安堵とは希望から生じる喜びであり,絶望は不安から生じる悲しみです。いい換えればそれらふたつの感情は,希望ないしは不安からのみ発生するのであって,前者は不安,後者は希望から発生するのではありません。ただし畠中は,希望を原因として悲しみは発生せず,また不安を原因として喜びは発生しないといっているのではありません。不安から発生する喜びもあるし,希望から発生する悲しみもあるということは認めています。ですがそれらは,安堵や絶望ではなく,それとはまた別の感情であるといっているのです。
畠中が不安から発生する喜びであるといっているのは,第三部諸感情の定義一六の歓喜です。
「歓喜とは恐怖に反して起こった過去の物の観念を伴った喜びである 」。
何度もいっていますが,恐怖metusと不安は同一語の別訳です。
第一部定理一五備考 から容易に理解できるように,実体substantiaとしての量を概念するconcipereためには,現実的に存在する量を表象するimaginariことは役には立ちません。では,もし実体としての量を概念して,これを学問の基礎とするなら,こうした学問は僕たちが表象しているもの,いい換えれば現実的に存在するもの,あるいは現実的に存在しているものを対象とした学問であり得るのでしょうか。これを数学に限定して問うなら,スピノザが目指すような,あるいはスピノザが必要としているような数学というのは,僕たちの知性intellectusの外に現実的に存在しているものを対象とした数学であり得るのでしょうか。このような疑問が,実体としての量を規定する数学に対して投げ掛けられることになります。そしてその答えが,そうであり得るであるのかそうではあり得ないであるのかということと関係なく,そもそもこのような疑問が投げ掛けられてしまうということ自体が,僕にはかねてから,数学者たちを困惑させる要素になるのではないかと思えていたのです。というのも,自然科学というのは,普通は知性の外に実在するものを対象とした学問であると認識されているからです。
こうした疑問というのは実体としての量を起点として生じるのですが,数学が現実的に存在する事物を対象とした学問であり得るのか,あるいは実際にそうであるのかという類の疑問は,別の観点からも投げ掛けることができます。それはスピノザが事物の定義 Definitioをどのように説明しているのかという観点です。
スピノザがあげる定義の条件のひとつに,ものの定義からそのもののすべての特質proprietasが導かれなければならないというものがあります。この条件を満たすためには,ものの定義にはそのものの起成原因causa efficiensが含まれているのが望ましいことになります。それがなぜ関連するのかということは,かつて定義そのものを考察の対象としたときに詳しく探求しましたからここでは繰り返しません。今は,ものの特質を導くためには,ものの本性essentiaだけでなく,ものの原因も必要とされている,あるいは必要とされる場合があるといっておきます。ただしこの場合の起成原因は,そのものが現実的に発生する原因を意味しません。
オークス を勝ったラヴズオンリーユー の母は2006年にアメリカで産まれたラヴズオンリーミー という馬で,日本への基礎輸入繁殖牝馬になります。ファミリーナンバー は20 。
種付けされた状態で繁殖牝馬として輸入され,最初の産駒が産まれたのは2010年。翌2011年産まれの産駒はオープン特別まで勝ちました。その後に輸出されています。
3番目の産駒がリアルスティール で,2015年に共同通信杯,2016年にドバイターフ ,2017年に毎日王冠を勝っています。
4番目の産駒は現役。2歳のときにオープンを勝ち,重賞2着2回3着1回ですから,重賞制覇のチャンスはまだありそうです。
ラヴズオンリーユーは7番目の産駒にあたります。ラヴズオンリーミーの繁殖牝馬としての優秀性を証明しました。
ラヴズオンリーミーの祖母は世界的名牝のMiesque。ヨーロッパとアメリカでGⅠを10勝しました。繁殖入りし最初に産んだのがKingmamboでフランスとイギリスでGⅠ3勝。種牡馬となりエルコンドルパサー やキングカメハメハ の父になりました。
2007年にファンタジーステークスを勝ったオディール は,祖母がMiesqueのひとつ下の半妹になります。
Miesqueの祖母のSanta Quillaから分枝があり,Santa Quillaの曾孫にあたる2000年にアメリカで産まれたパーソナルレジェンド も繁殖牝馬として輸入されています。その初年度産駒が2010年にレパードステークスとクイーン賞 ,2011年にレディスプレリュード とJBCレディスクラシック ,2012年にマリーンカップ とレディスプレリュード とJBCレディスクラシック ,2013年にエンプレス杯 を勝ったミラクルレジェンド です。さらにミラクルレジェンドのひとつ下の半弟は,2012年にエルムステークスとみやこステークスと東京大賞典 ,2014年にエルムステークスを勝ったローマンレジェンド です。
世界的な名牝が祖先にいるわけですから,日本の生産界にも,その一族を繁栄させていく責任があると思います。
その範疇をどれくらいまで広げることができるのかは僕には不明ですが,スピノザによって高い評価の対象となる数学者が存在するということは間違いありません。同時にそうした数学者にとってはスピノザの哲学が,自身が研究している数学を形而上学的に支えてくれるものとなるでしょう。
ここからは僕が『主体の論理・概念の倫理 』を読む前から漠然と感じていたことを考察の対象にします。
上述したように,スピノザと,いってみれば相思相愛であるような数学者が確実に存在します。他面からいえばスピノザの哲学とウインウインの関係にある数学が確実に存在します。ですがこの理由だけで,そういった数学者がスピノザの哲学に満足するかどうかが僕には不確実に思えるのです。いい換えれば,そうした数学者をもってしても,スピノザの哲学に対してある種の違和感を覚えることがあるのではないかと僕には思えるのです。それは,なぜスピノザが幾何学的方法すなわち綜合的方法を必要としていたのかということと関係します。
第一部定理一五備考 が示すように,スピノザは実体substantiaとしての量を概念conceptusとして必要としていました。これは哲学的にいうと物体的実体 substantia corporeaを必要としていたということになるのですが,それだけでは説明の半分しか適合していません。スピノザは単に物体的実体を必要としていたわけではなく,計測することが不可能で部分に分割することができないものとしての物体的実体を必要としていたからです。物体的実体の存在existentiaを認める哲学者はスピノザのほかにも存在しますが,そうした哲学者がおしなべて物体的実体をそのような実体として規定したというわけではありません。スピノザが第一部定理一三系 で,わざわざ物体的実体に言及しているのは,この系Corollariumの内容がすべての哲学者の共通見解ではなかったからです。むしろ時代的にいうなら,スピノザのような主張は異質なものだったのであり,スピノザが無神論者といわれるのは,このことが一因となっているといっていいくらいです。スピノザはこの物体的実体を延長の属性Extensionis attributumと等置し,延長の属性は神Deusの本性essentiaを構成すると主張したのでした。この主張の前提が,実体としての量です。
昨晩の第64回大井記念 。的場文男騎手が21日の6レースで落馬した際に顔面を強打し負傷したためシュテルングランツは川島正太郎騎手に変更。
15番枠から真直ぐに出たシュテルングランツが,ほかの馬より前に出てから内に寄せていっての逃げ。2番手にディアデルレイ,3番手にジャーニーマンと追い上げていったセンチュリオンが並び,この4頭が先行集団を形成。4馬身差でタービランスとサウンドトゥルー。7番手にモズライジン。8番手はモジアナフレイバーとリッカルドで5頭が好位集団。2馬身差でウマノジョーとチャイヤプーン。1馬身差でヒガシウィルウィンとサブノクロヒョウ。1馬身差でワールドレーヴとヤマノファイトでこの6頭が中団から後方集団。ワンフォーオールは大きく離されました。前半の1000mは61秒4のハイペース。
3コーナーの手前でセンチュリオンが単独の2番手。タービランスが3番手に。外を回ってシュテルングランツとセンチュリオンを追ったタービランスは押しながら。内を回って追ってきたモジアナフレイバーの方は楽な手応え。直線に入るところでセンチュリオンはやや外に膨れる形。タービランスが追いきれなかったのでモジアナフレイバーはセンチュリオンの外に出し,ここから2頭で競り合いながらシュテルングランツを抜き去って優勝争い。残り100m付近でモジアナフレイバーが前に出るとあとは差を広げる一方となって快勝。センチュリオンが3馬身半差で2着。粘るシュテルングランツは何とか差したタービランスが6馬身差で3着。
優勝したモジアナフレイバー は勝島王冠 以来の南関東重賞2勝目。このレースは能力の基準はタービランスで,それを負かすことができる馬がいるかどうかが焦点。可能性が高かったのは,古馬相手にいきなり勝島王冠を勝ったモジアナフレイバーと,JRAからの転入初戦のオープンを3馬身差で勝っていたセンチュリオンで,結果的にその2頭がタービランスに対して大きな差をつけることに。タービランスはこれまでの走破時計に近いタイムで走っていますので,この2頭の能力の方が上だったと判断できる結果だと思います。センチュリオンはレースの序盤でロスがありましたが,それでも3馬身半というのは大きな差ですから,センチュリオンよりもモジアナフレイバーの方が強いとみてもいいのではないでしょうか。大レースは厳しいでしょうが,重賞くらいなら勝負になる力をもった馬だと思います。3代母はパテントリークリア 。母の6つ下の半弟に2017年に高松宮記念 ,2018年に函館スプリントステークスを勝っている現役のセイウンコウセイ 。Mogianaはブラジルの地名。
騎乗した浦和の繁田健一騎手は勝島王冠以来の南関東重賞8勝目。大井記念は初勝利。管理している大井の福永敏調教師は勝島王冠以来の南関東重賞2勝目。
集合論を数学として認めるか認めないかということと関係なく,公理論者といわれる一群の数学者が存在することは間違いないようです。このとき,公理論者のすべてが,スピノザがいっているような実体substantiaとしての量という概念conceptusを必要とするかどうかも僕には分かりません。そもそも僕は,集合論と公理論が方法論的観点から対立しなければならない理由がないように思っているわけですから,実体としての量を否定する公理系を記述することは可能であると思っているのです。ですから,分析的方法に固執する集合論者というのが存在するなら,公理論者は当然ながら幾何学的方法すなわち綜合的方法を重視することになるので,その観点からその集合論者を否定するでしょう。けれどそのゆえに集合論という数学が形而上学的に誤っていると主張しなければならないというようには僕には思えません。
一方,概念として無限infinitumとしての量というのが数学には必須であると解する数学者がいれば,この数学者は公理論者であるかないかと無関係に,集合論を否定することになるでしょう。と同時に,そういう数学者が,その数学を支える形而上学的背景に自覚的であったとしたら,スピノザの哲学は自身の数学と親和性が高いということを直ちに発見する筈です。ここから分かるように,僕は計測可能でないような無限という量の是非に対する数学者の態度が,スピノザの哲学に対する是非と直結するのだろうと推定します。これは逆の面からいえば,分割が不可能で計測が不可能である無限という概念を取り入れている数学というものをスピノザは肯定し,それを否定するような数学については否定するだろうということです。そのとき,スピノザは数学ということで,初めからそういう無限を概念として導入している学問についてのみ語り,そういう数学についてだけ,それは真理veritasを明らかにしまた真理を獲得する方法を明らかにすることに貢献していると考えているかもしれないのです。つまりスピノザの数学に対する評価というのは,そのような数学に対する評価に限定されているのであり,そうでない数学は最初から数学から排除されている可能性を想定しておく必要があります。
第12期マイナビ女子オープン 五番勝負第四局。
里見香奈女流名人の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車。先手が急戦 を挑みました。ノーマル三間飛車に急戦を仕掛けると,この将棋もそうであったように振飛車に飛車を4筋に振り直す手損を強要できるケースが多いので,とくに居飛車が先手の場合は先手がよくなる分かれが多く,戦法としては優秀です。ただ対抗形の急戦策はどうしても後手の方が玉が固いので,分かれがよくなっても居飛車が勝つまでは大変というジレンマも抱えています。
先手が5四に歩を垂らして後手が受けた局面。
ここから先手は☗9五歩☖同歩☗9三歩☖同香 と端に手を付けてから☗2二歩と打ちました。これは桂馬を入手できれば☗9四歩~☗8六桂が厳しくなるとみたもの。ですが後手はそれを避けるために☖4五銀☗同歩と先に桂馬を取って☖3三桂と逃げました。
一時的に駒損ですが,1九の香車は取り返せます。第2図となっては端攻めが空振りとなった上,☖4五桂と跳ねる手も生じてしまい,先手がやり損ねた感があります。
手順中,☖4五銀のときに☗2一歩成と出来るのでなければいけないのでしょうが,さすがにそれは無理そうです。よって第1図で端に手を付ける前に☗2二歩と打っておいた方がよかったのではないでしょうか。そこで☖3三桂なら桂馬を交換して端を攻められますし,実戦と同じ手順なら,一時的とはいえ駒得がもう少し生きる展開にできたかもしれません。
3勝1敗で西山女王が防衛 。第11期 からの連覇で2期目の女王です。
もし集合論を公理系で記述することができた場合,いい換えれば集合論は綜合的方法に置き換えることができない分析的方法であるわけでなく,綜合的方法に置き換えることが可能な分析的方法であるという場合には,スピノザは公理論を展開すれば必然的にnecessario無限infinitumが定義されると考えていたわけではないということになります。そしてそういう可能性がまったくないというわけではないでしょう。ですがこの場合の綜合的方法は,スピノザが示そうとした綜合的方法と,方法の上で一致するだけであり,内実は相容れないほど相違を有することになります。ですから結果的に,方法論的観点から集合論が否定されることはなくても,形而上学的に否定されることになるでしょう。ですからスピノザは最初から集合論を数学とは認めないような考え方を有していた可能性もありますし,そうでなくても形而上学的には否定することになるのです。たとえそれが数学であるということは認め得るにしても,その数学は精神mensの受動passioである表象imaginatioと,精神の能動actio Mentisである概念 conceptusとを区別することができないような数学であるということになってしまうでしょう。
実際にはこうしたことは,スピノザの側から生じるのではなく,集合論者の側から生じてくるものだといえます。すなわち,もし集合論にはそれを背後から支える形而上学が必然的に存在しているということを弁えている数学者が存在するとしたら,その数学者はスピノザの哲学が集合論とは相容れないということを直ちに理解する筈だからです。ですから僕はスピノザからみて集合論は数学であるのかどうかという観点からこのことを追求しましたが,集合論者からみれば,スピノザの哲学は否定されなければならない哲学であるという結論が出てくる筈なのです。そうであるなら集合論者はむしろ,集合論がスピノザが認めるような数学ではないということを,喜んで受け入れることになるでしょう。これはスピノザがどういう学問を数学であると認識していたかということとは関係ありません。
ただし,すべての数学者がスピノザの哲学を受け入れないわけではありません。むしろ公理論者は積極的にそれを受け入れることになります。
② で1番は終りです。ここからは2番です。
生まれた時から好かれたことがない
冴えないあたしに聞かせた 浴びるような恋の歌
① では,「あんた」は産まれたときから飲んでいたように思えるという意味のことが歌われていました。それに対して「あたし」は,産まれたときから好かれたことがなかったのです。その「あたし」に「あんた」は恋の歌を浴びるほど歌って聞かせました。これはカラオケで歌ったと解することも可能ですが,僕は「あんた」はギターで弾き語ったというような感じを受けています。
あたし嬉しかった 好かれたかと思った
あんたは本気の時には あの娘にゃ素面だってね
産まれたときから好かれたことがなかったのですから,恋の歌を浴びるほど歌われれば,好かれたかと勘違いして嬉しくなるのはごく自然でしょう。ですがその後に悪気なく聞かされたことのうちには,「あんた」は「あの娘」には恋の歌を素面で歌っていたということが含まれていたのです。だから②で歌われていたように,「あたし」は「あの娘」のおこぼれで夢を見ていただけだったと知ることになったのです。
僕の疑問自体は的外れかもしれませんが,この点について結論を出すことは僕の能力では不可能なので,公理論と集合論は,必ずしも方法論的な観点から対立するものではないとしておきます。僕にはその可能性を排除することができないからです。
ただし,仮に集合論を肯定する公理系を作成することが可能であるにしても,その公理系がスピノザの哲学の公理系と齟齬を来さないということは,上野の説明から類推する限りではあり得ないのは確かです。集合論が上野の指摘しているような理論であるとしたら,第一部定理一五備考 でスピノザがいっているように,量を実体substantiaとして考えることは不可能な筈だからです。ですから『エチカ』の定義Definitioでいえば第一部定義六 に類する定義を立てることは集合論ではできませんし,定理Propositioでいうなら第一部定理一五 に類する定理が証明されることも集合論ではあり得ない筈です。
上野がいっているように,スピノザが公理論を必要としたのは,数学的にいうなら無限infinitumとしての量を学問の対象としようとしていたからでした。そこでもしもスピノザが,単にそれは必要であるというだけでなく,公理論を用いれば必然的にnecessario無限としての量を学問の対象とすることが可能になると考えていたのだとしたら,集合論の体系を公理系にすることは不可能であるという結論を有することになります。僕がここでいっているのは,実際に不可能になるという意味ではなく,スピノザは不可能であると認識するcognoscereということです。ですからこの場合には,少なくとも公理論と集合論は,方法論的観点から対立することになるでしょう。いい換えれば,スピノザにとっての集合論は,分析的方法においては成立したとしても,それを綜合的方法で示すことはできない論理であるということになるでしょう。よってこの場合には,この点から集合論がスピノザにとっては数学ではないということになるでしょう。すでに示したように,スピノザにとってはもし分析的方法が数学であり得るのだとしたら,それは綜合的方法に置き換えることが可能であるという点にのみその理由があったからです。
これはひとつの仮定で,別の場合も考えておかねばなりません。
昨日の宇都宮記念の決勝 。並びは長島‐神山の栃木,渡辺‐近藤‐小埜‐勝瀬の南関東で菅田と浅井と村上は単騎。
小埜との取り合いを制して長島がスタートを取って前受け。3番手に村上,4番手に菅田,5番手に渡辺,最後尾に浅井で周回。残り2周から渡辺が上昇。長島を抑えはしたものの抑えられた長島が番手に飛びつき,近藤との競り合いで打鐘。渡辺はペースを落とし,残り1周のホームに入ってからまた踏み込みました。番手の競り合いはバックに入るまで続きました。隊列が短くなったところで最後尾にいた浅井が発進。バックの出口では渡辺を捲り切って先頭。7番手からスイッチしてうまく続いたのが村上。直線を前にして浅井の速度がやや鈍り,村上が楽に差し切って優勝。村上マークのレースになった菅田が4分の3車身差で2着。捲った浅井が1車身半差で3着。
優勝した京都の村上義弘選手は昨年10月に松戸で行われた千葉記念 以来の記念競輪35勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは南関東がラインとしては有利でしたが,渡辺の後ろを回る3人に主軸となるような選手が不在のため,渡辺が捨て身で駆けることはない可能性もあるとみていました。内枠が有利なので前受けができなかったのは仕方ありませんが,自分も勝てるような競走をするにしても,渡辺はもっと早い段階で抑えにいくべきだったように思います。個人の脚力だけでいえば単騎の選手が上でしたので,浅井が捲って村上が差すというのは,それだけでみれば順当な結果だったといえなくもありません。
僕は数学に詳しいわけでなく,集合論がどういう理論であるかよく分かっていませんから,これから示す疑問は的外れであるかもしれません。ただ,僕の疑問がどういう類のものであるかということは説明しておきます。
それが具体的にどのような内容であるのか知りませんが,集合論というからにはひとつの論理であり,体系化されたものであるのではないかと僕は推測します。するとその論理体系を肯定するような公理系を作成することが可能であると僕には思えるのです。現にそういう公理系が存在していたとしてもおかしくないし,仮に存在していないのだとしても,作成することが不可能であるとしたらなぜ不可能であるのかが僕には理解しかねるのです。単純にいえば,体系化することが可能であるような論理というのは,その論理がどのようなものであったとしても,いい換えれば数学に限らずどんな論理の体系であったとしても,公理系に置き換えることが可能であると僕は予想しているのです。
なので僕は,公理論と集合論が,方法論的な意味において対立するとはどうしても思えないのです。バディウAlain Badiouは集合論を分析的方法による数学だと思い込んでいる,というなら分かります。近藤の発言というのは確かにそのように解することはできなくもありません。公理論を理解していないというのは,分析的方法が唯一の方法であって,綜合的方法はバディウの眼中にはなかったというように解することができなくもないからです。ところが近藤は,バディウは集合論が数学だと思っていたという主旨のことを言っているのですから,これだと集合論は分析的方法でしか行うことができない理論である,他面からいえば綜合的方法には置き換えることができない理論であると言っているように思えるのです。
このことはそもそも近藤が集合論というのをどのような数学であると解しているのかという観点も必要になるでしょう。近藤自身が,集合論は公理系によっては記述することができないと考えているなら,集合論者であるバディウは公理論を理解していないという結論が,バディウの研究内容がどうであるかということと無関係に出てくるであろうからです。
オークスの第80回優駿牝馬 。
好発のジョディーがそのままハナへ。2番手がコントラチェックで,この2頭が向正面に入るあたりでは2馬身ほどのリード。3番手はエールヴォアで4番手がクロノジェネシス。この後ろはダノンファンタジー,カレンブーケドール,フェアリーポルカの3頭。その後ろはシャドウディーヴァ,シゲルピンクダイヤ,ラヴズオンリーユー,ビーチサンバの4頭。この後ろはノーワンとメイショウショウブ。以下はウインセノビア,ウィクトーリア,シェーングランツ,フィリアプーラ,アクアミラビリスの順。3コーナーにかけて2番手と3番手の差も縮まっていき,18頭が一団。最初の1000mは59秒1のミドルペース。
前3頭の順位は変わらぬまま直線。直線の入口では3頭の外まで追い上げていたカレンブーケドールが直線に入るとそのまま抜け出しました。これを内外から追い上げた馬のほとんどは追いつけなかったのですが,大外から伸びてきたラヴズオンリーユーだけはぐんぐん迫ってカレンブーケドールとの優勝争いに。カレンブーケドールもよく粘り,差し返そうとする根性もみせましたが,ラヴズオンリーユーがそれを許さずに優勝。カレンブーケドールがクビ差で2着。3着は内から差してきたウィクトーリア,カレンブーケドールを追って一旦は2番手まで上がっていたクロノジェネシス,クロノジェネシスの外から伸びたシャドウディーヴァ,さらにその外のダノンファンタジーの4頭で接戦。先に前に出ていたクロノジェネシスが粘り込む形で2馬身半差の3着。ウィクトーリアがクビ差の4着でダノンファンタジーがアタマ差の5着。シャドウディーヴァがクビ差で6着。
優勝したラヴズオンリーユー は昨年11月に新馬と500万,今年に入って4月にオープンと3連勝中。重賞初挑戦での大レース制覇。底を見せていませんでしたがトップクラスとの対戦は初めてで,通用する裏付けはなかったので,有力候補の1頭という見立て。これでトップクラスと遜色のない力があるということは証明されました。差しが決まりにくいレースになったと思われますので,2着馬とは着差以上の力量差があるとみてよいと思います。父はディープインパクト 。4つ上の全兄に2015年に共同通信杯,2016年にドバイターフ ,2017年に毎日王冠を勝ったリアルスティール 。
騎乗したミルコ・デムーロ騎手はNHKマイルカップ に続く大レース制覇。オークスは初勝利。管理している矢作芳人調教師 はエリザベス女王杯 以来の大レース9勝目。オークスは初勝利。
上野修は,量を実体substantiaとして把握するためには,綜合的方法が必要であったという主旨のことを言っています。
なぜかといえば,このような仕方で僕たちが量を把握するためには,現実的に存在すると観想するcontemplari量を把握するだけでは十分ではないからです。十分でないというより,有効ではないからです。なぜなら,僕たちが現在すると観想する量というのは,それがどのような量であったとしても,測定が可能な有限なfinitumものであり,有限finitumであるからには分割がいくらでも可能な量であるからです。すなわちスピノザが必要としていた量は,無限infinitumとしての量だったのです。いい換えれば,測定することが不可能でかつ有限な部分に分割し得ない量であったのです。スピノザは第一部定理一二 で,実体は分割することが不可能であるという意味のことをいっていますが,これは実体が無限であるからなのです。
よってこのような量は,僕たちが知性 intellectusの能動actioによって概念するconcipereほかありません。いい換えれば現実的に存在する個物res singularisを対象として,計算をしたり解析をしたりしても導くことはできないのです。このためにスピノザは定義Definitioと公理Axiomaを利用して,こういう量の概念conceptusを示すことを必要としていました。スピノザが公理系を利用して綜合的方法で自身の哲学を記述したのには,はっきりとした理由があったというべきでしょう。
鼎談の中では,この綜合的方法,数学的にいえば幾何学的方法が,公理論という数学の理論のひとつであるかのように語られています。実際にそうであったとしたら,スピノザにとっての数学は,公理論だけではなかったかもしれませんが,少なくとも公理論として記述することができないような論理があれば,それは数学ではなかった,あるいは数学ではないと認識されることになるでしょう。近藤和敬は,バディウAlain Badiouは公理論的方法を理解せず,集合論を数学だと思っていたと発言していて,この発言というのは,実際にスピノザからみれば数学とはみなせないような数学の理論が存在するというように読解することができます。
ただ,僕はこの発言には疑問も感じるのです。公理論と集合論というのが,理論として対立する理由が分からないからです。
第二部定理七備考 は,明らかにあらゆる属性attributumにおいて原因causaと結果effectusの秩序と連結の同一性 を主張しています。そしてそれを肯定する論理として僕が示したものは,おそらくチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausがそのように考えた論理と同じだったと思います。そしてこの論理を軸として,チルンハウスはさらに前に進んでいったのだと僕は想定します。
この論理が正しいとします。このとき,思惟Cogitatio以外のXという属性に,Aという様態modiが存在すると仮定しましょう。するとやはり思惟以外でXでもないYという属性があれば,というか第一部定義六 からしてそういう属性が存在するということはスピノザは認めるので,Yという属性は存在するのですが,このYの属性にはXの属性のAという様態と同一の原因と結果の連結connexioと秩序ordoで発生するA´という様態が存在することになります。これは第二部定理七備考からやはりスピノザは同意しなければなりません。
次に,無限知性intellectus infinitusのうちにはAの観念ideaもありますし,A´の観念も存在します。これは第二部定理七系 によってスピノザは同意しなければなりません。このとき,Aの観念とA´の観念の原因と結果の連結と秩序は同一です。なぜならAとA´の原因と結果の連結と秩序は同一であり,第二部定理七 によれば観念と観念されたものrerumの原因と結果の連結と秩序は同一なので,Aの原因と結果の連結と秩序はAの観念と原因と結果の連結と秩序と同一であり,A´の原因と結果の連結と秩序はA´の観念の原因と結果の連結と秩序と同一であることが帰結し,AとA´の原因と結果の連結と秩序が同一である以上,Aの観念とA´の原因と結果の連結と秩序も同一でなければならないことになるからです。つまりこれはA=BでA=CならB=Cでなければならないという単純な論理です。ですからスピノザはこれも認めなければならない筈です。
そしてAの観念の原因もBの観念の原因も思惟の属性Cogitationis attributumです。これは第二部定理五 によりスピノザは認めなければなりません。よってAの観念とA´の観念は,同一の原因から同一の連結と秩序で発生するのです。
計算とか解析あるいは分析が,数学でないとまでスピノザが考えていたとは僕は思いません。ですが,それがスピノザの数学に対する関心の中心ではなかったのは事実だと思います。中心ではなかったというより,それが数学であると認めるにしても,それは数学の枝葉末節にすぎないと考えていたのも確かではないかと思われます。おそらくそれは,スピノザは数学者である前に哲学者であって,スピノザの哲学的関心と関連しての考え方であったと推測します。
鼎談の中で上野はこのスピノザの哲学的関心を,実在論の問題と絡めた発言もしています。これもとても興味深いのですが,ここではそこには立ち入りません。それよりもその前提として,スピノザは絶対的にみられたある種の量,いい換えるなら形而上学的な量を相手にしようとしていたという発言の方を中心に考察します。これがスピノザの数学に対する関心の土台となっている哲学的関心と関連していると僕は考えるからです。
この発言に関連した言及は,『エチカ』では第一部定理一五備考 にあります。ここでは別の部分を示します。
「我々が表象においてあるままの量に心を留める(これはしばしばそしてより容易に我々のするところだが)なら,量は有限で可分的で部分から成るものとして現れるであろう。これに反してもし知性においてあるままの量に心を留め,そしてこれを実体である限りにおいて考える(これはきわめて困難なことだが)なら,それは,我々がすでに十分示したように,無限で唯一で不可分なものとして現れるであろう 」。
つまりスピノザは,量を表象imaginatioとして,あるいは表象されるexprimunturものとして考えようとしていたのではなく,実体substantiaとして概念されるものとして考えようとしていたのです。ですから計算とか解析といった行為が,表象されたものを相手にするような行為であるとみなされる限りにおいては,関心の外だったのです。当然ながらそれは哲学的関心でもあるし,数学的関心でもあるということになるでしょう。
そこで,量を実体として把握し得るような数学というのがスピノザには必要だったし,そういう数学に対しては多大な関心を寄せることができました。
日曜のヴィクトリアマイル を勝ったノームコア の基礎輸入繁殖牝馬は3代母のラスティックベル です。1990年にアメリカで産まれ,繁殖生活は日本で送りました。日本での最初の産駒が1995年産まれで,まだ四半世紀が経過していませんが,多くの活躍馬が輩出されています。Rustic Belleは田舎風のベル。ファミリーナンバー は20-a 。
2番目の産駒はフサイチエアデール 。1999年にシンザン記念と報知杯4歳牝馬特別に勝ち,2000年にはダービー卿チャレンジトロフィーとマーメイドステークスも勝ちました。マーメイドステークスの2着馬は同世代のトゥザヴィクトリー 。繁殖牝馬となり,最初の産駒がライラプス 。2005年にクイーンカップを勝ちました。さらに2番目の産駒はフサイチリシャール です。
3番目の産駒は未出走。この馬がノームコアの祖母になり,ノームコアのひとつ下の半妹が今年のクイーンカップを勝っている現役のクロノジェネシス になります。また,このクイーンカップの2着馬はフサイチエアデール産駒で,2頭とも,明後日のオークスへの出走が予定されています。
8番目の産駒も未出走。この馬は繁殖牝馬となり,2015年の札幌2歳ステークスを勝っている現役のアドマイヤエイカン の母になりました。
子孫の重賞の勝ち馬はこれだけですが,ほかにも重賞の入着馬やオープンの勝ち馬も出ています。牝馬が多く,牝系は広がっていますし,ノームコアやクロノジェネシスも無事なら繁殖牝馬となるでしょうから,活躍馬もまだまだ出てくるでしょう。
僕の競馬キャリア が始まる前の1983年に小倉3歳ステークスを勝ち,始まる直前の1986年には京王杯スプリングカップを勝った後,1988年にはCBC賞を勝ったトーアファルコン という馬がいました。この馬の祖母はラスティックベルの3代母になります。
ここまでの考察から,マイエル Lodewijk Meyerやスピノザにとっての数学的方法というのは,第一義的には幾何学的方法を意味していたと僕は解します。この幾何学的方法を哲学に応用するとそれは綜合的方法ということになり,それが哲学的方法として最善であるとマイエルもスピノザもみなしていました。ただしこの綜合的方法は分析的方法に置き換えるということが可能で,置き換えられる以上は,分析的方法もまた数学的方法であるということは,マイエルもスピノザも肯定すると僕は解します。なお,哲学的方法のうち綜合的方法が数学の幾何学的方法であるように,哲学的方法のうちの分析的方法もまた何らかの数学的方法に変換することが可能であるかもしれませんが,これについては言及されていませんので,ここではそういうものは存在しない,あるいはマイエルやスピノザのうちには,そういう方法は認識cognitioとして存在していなかったと解しておきます。また,分析的方法が数学的方法のひとつであるということが肯定され得るのは,この事情からだとそれが綜合的方法と置き換えが可能であるという点にのみ存することになりますから,もし綜合的方法には置き換えることができないような分析的方法というのが存在するのだとすれば,それは数学的方法すなわち幾何学的方法からは外れるものであるとマイエルもスピノザもみなすことになるでしょう。そういう分析的方法が実際に存在するのかどうかは不明としておきます。
『主体の論理・概念の倫理 』の三者鼎談の中で,上野修は,スピノザは幾何学的証明を数学的な学問だと考えていたと発言しています。ここでいう証明Demonstratioというのは,定義Definitioや公理Axiomaを前提とした証明のことです。そして上野は,スピノザはこのように考えていたがゆえに,経験を参照せずに対象を創出していくのが数学であるとみなしていたという主旨のことを言っています。このことは僕の中心的な論考とも繋がるのですが,今はそこには立ち入りません。スピノザと同じ時代でいえば,ホッブズThomas Hobbesは命題計算を考え,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは命題を記号化したり結合法を考えたりしていたのですが,スピノザにはそういった発想がなかったということの方を検討します。