競技における公理系と,その競技における勝敗のつき方との関係についても少し考えてみましょう。
前回もいったように,公理系が複雑になると,戦術とか戦略といった要素が勝敗に与える影響というのがそれだけ増します。いい換えれば公理系そのものが勝敗を左右する要素がそれだけ大きくなるということになります。つまり競技者間で力の差がそうないならば,戦術や戦略といった要素で勝敗が決することになりますし,力の差があっても,この面でその差を乗り越えることが可能になります。したがって,公理系が複雑である競技ほど,絶対的な力というものが生じる要素がそれだけ少なくなるといえるでしょう。
これは逆に公理系の単純な競技を考えればさらによく理解できると思います。たとえば北京五輪の陸上男子100メートルのウサイン・ボルト選手は,自身の体調にさえ問題がなければ,何度やっても勝つと思われます。これが絶対的な力というものです。
これに反して,もう少し公理系が複雑な競技になると,別の事態も生じます。たとえば同じ北京五輪のソフトボールでは予選と決勝トーナメントで日本はアメリカに2度負けましたが,3度目の対戦となった優勝決定戦では逆に日本が勝ちました。こうしたことはもちろんそのときどきにおける競技者の体調とか気持ちのあり方にも影響されますが,そもそもソフトボールの公理系というのが,こうしたことを生じさせやすいとも考えることができます。つまり公理系が複雑になると,波乱というものはそれだけ起こりやすくなるといえるでしょう。
公理系というものが複雑になると,連戦連勝というのは非常に難しくなります。逆にいうとそうした競技で勝ち続けている競技者は,よほどその公理系の本質というものを十全に把握しているといえるのではないでしょうか。
明日は向日町記念の2日目優秀,朱雀賞です。並びは僕の予想。山崎-内藤で北日本。神山-兵藤の関東が東でここを追うのではないでしょうか。近畿は村上-前田-渡辺。小倉-加倉の西国が,西でこちらを追走と思います。たとえ予想がこの並びと違っても,これは山崎選手ですね。
なぜデカルトは,また多くの人は,自分の意志によって自分の身体を運動ないし静止に決定し得ると考えたのか。スピノザによるその答えは,人間は,自分の精神に関してならばそのなし得ることというのを知っていたけれども,自分の身体については,そうしたことを何も知らなかったからだというものです。いい換えれば,人間は自分の精神がいかにしてある思惟作用をするのかということについては,その原因を,正しいかどうかは別としても,説明することができるのに対し,自分の身体が運動し,また静止する原因については,そのはっきりとした原因を知らなかったのです。そこで人間の身体がある運動ないしは静止するときには,人間の精神のうちにある意志というものが実在するということに注目し,この意志こそが,自らの身体が運動ないしは静止に決定される原因であると考えるようになったということです。この,人間の身体が運動ないし静止に決定される場合に,人間の精神のうちにそのことに関連するような意志が実在するということについても,平行論という観点から,論理的にも経験的にも説明することが可能なのですが,これに関しては意志の問題により多く関係することになりますから,また別のテーマを立てて考察することにします。
実際には,人間の身体は,第二部定理六が示すように,延長の属性にのみ関連するような原因で運動したり静止したりするのです。すなわち,人間の身体には,自分の精神による決定などと無関係に,それ自体で運動したり静止したりする力があると考えていいでしょう。そこでいよいよ,そうした人間の身体に備わる力について,経験的な仕方で明らかにしていくということにします。
前回もいったように,公理系が複雑になると,戦術とか戦略といった要素が勝敗に与える影響というのがそれだけ増します。いい換えれば公理系そのものが勝敗を左右する要素がそれだけ大きくなるということになります。つまり競技者間で力の差がそうないならば,戦術や戦略といった要素で勝敗が決することになりますし,力の差があっても,この面でその差を乗り越えることが可能になります。したがって,公理系が複雑である競技ほど,絶対的な力というものが生じる要素がそれだけ少なくなるといえるでしょう。
これは逆に公理系の単純な競技を考えればさらによく理解できると思います。たとえば北京五輪の陸上男子100メートルのウサイン・ボルト選手は,自身の体調にさえ問題がなければ,何度やっても勝つと思われます。これが絶対的な力というものです。
これに反して,もう少し公理系が複雑な競技になると,別の事態も生じます。たとえば同じ北京五輪のソフトボールでは予選と決勝トーナメントで日本はアメリカに2度負けましたが,3度目の対戦となった優勝決定戦では逆に日本が勝ちました。こうしたことはもちろんそのときどきにおける競技者の体調とか気持ちのあり方にも影響されますが,そもそもソフトボールの公理系というのが,こうしたことを生じさせやすいとも考えることができます。つまり公理系が複雑になると,波乱というものはそれだけ起こりやすくなるといえるでしょう。
公理系というものが複雑になると,連戦連勝というのは非常に難しくなります。逆にいうとそうした競技で勝ち続けている競技者は,よほどその公理系の本質というものを十全に把握しているといえるのではないでしょうか。
明日は向日町記念の2日目優秀,朱雀賞です。並びは僕の予想。山崎-内藤で北日本。神山-兵藤の関東が東でここを追うのではないでしょうか。近畿は村上-前田-渡辺。小倉-加倉の西国が,西でこちらを追走と思います。たとえ予想がこの並びと違っても,これは山崎選手ですね。
なぜデカルトは,また多くの人は,自分の意志によって自分の身体を運動ないし静止に決定し得ると考えたのか。スピノザによるその答えは,人間は,自分の精神に関してならばそのなし得ることというのを知っていたけれども,自分の身体については,そうしたことを何も知らなかったからだというものです。いい換えれば,人間は自分の精神がいかにしてある思惟作用をするのかということについては,その原因を,正しいかどうかは別としても,説明することができるのに対し,自分の身体が運動し,また静止する原因については,そのはっきりとした原因を知らなかったのです。そこで人間の身体がある運動ないしは静止するときには,人間の精神のうちにある意志というものが実在するということに注目し,この意志こそが,自らの身体が運動ないしは静止に決定される原因であると考えるようになったということです。この,人間の身体が運動ないし静止に決定される場合に,人間の精神のうちにそのことに関連するような意志が実在するということについても,平行論という観点から,論理的にも経験的にも説明することが可能なのですが,これに関しては意志の問題により多く関係することになりますから,また別のテーマを立てて考察することにします。
実際には,人間の身体は,第二部定理六が示すように,延長の属性にのみ関連するような原因で運動したり静止したりするのです。すなわち,人間の身体には,自分の精神による決定などと無関係に,それ自体で運動したり静止したりする力があると考えていいでしょう。そこでいよいよ,そうした人間の身体に備わる力について,経験的な仕方で明らかにしていくということにします。