第三部定理四九は,愛amorと憎しみodiumについて記述されています。しかしこの定理Propositioは,僕たちが自己嫌悪humilitasという感情affectusを抱く場合とも関連しています。すなわち,僕たちは自分が自由libertasであると表象するimaginariなら,自分は自由ではないと表象する場合より,自己嫌悪を感じやすくなるのです。自己満足acquiescentia in se ipsoは自己嫌悪の反対感情ですから,同様のことは自己満足の場合にも生じます。すなわち自分を自由であると表象する場合には,自分を自由であると表象しない場合より,自己満足を感じやすいのです。
このために,自分の力potentiaの中にあることによって生じた喜びlaetitiaは,自己満足を伴いやすく,よってその喜びは正当であると判断されることになります。同様に,自分の力の中にあるけれどその力が及ばなかったことによって生じた悲しみtristitiaは,自己嫌悪を伴いやすく,この悲しみは不当であると判断されにくくなるのです。僕がこの感情を説明する例として,将棋の対局を採用したのは,この点と関連します。棋士の指し手はその棋士の力のうちにあると表象されやすい,いい換えればその棋士の自由の範疇にあると表象されやすいと思われるからです。
この第三部定理四九を受けて,第三部定理四九備考では,人間は人間が自由であると表象するために,自由ではないと表象されるものよりも相互に愛し合いまた憎み合うようになるということがいわれていたのでした。そして僕が排他的思想を産出しやすい感情のふたつめとして検討中の憤慨indignatioは,第三部諸感情の定義二〇でいわれているように,人間に対する憎しみの一種です。よって僕たちは僕たち自身が自由であると表象する限りにおいて,憤慨という感情をとても感じやすいといえることになります。第三部定理二一の様式で僕たちのうちに感情の模倣imitatio affectuumが生じるとき,その愛する者を悲しみに刺激するもののことを僕たちは憎みます。第三部定理二二は悲しみを齎すものが人間に限定されていますが,たとえ人間でなくとも同じ論理が成立しなければならないからです。しかし人間である場合には,その人間がその人間の自由の範疇で悲しみを齎したと表象しやすいのですから,憤慨は人間以外への憤慨に類する憎しみよりも生じやすいのです。
本題へ回帰します。
僕たちは,ある喜びlaetitiaが自己満足acquiescentia in se ipsoを付随させ得るような喜びである限り,それを不当な喜びとは判断しません。自己嫌悪humilitasは自己満足の反対感情なので,ちょうどこれと逆の関係が成立します。つまり僕たちがある悲しみtristitiaを感じたとき,その悲しみが自己嫌悪を付随させるような悲しみであるなら,僕たちはその悲しみについては正当であると判断する,あるいは少なくとも不当であるとは判断しないのです。
これは第三部諸感情の定義二六からも明らかだといわざるを得ません。なぜなら,自己嫌悪というのは自身の無能力impotentiaの観念ideaを伴った悲しみであるからです。要するに自己嫌悪を伴うような悲しみというのは,自分の力potentiaが足りなかったという認識cognitioを伴った悲しみです。いい換えればこれは,悲しみの原因として自分自身の観念を伴っているのです。別のいい方をすれば,自分が悪かったがゆえにこの悲しみに自分は襲われたという認識を伴っている悲しみなのです。ですからもしこの悲しみが不当であると判断されるなら,正当であると判断されるような悲しみは存在しません。自分以外の何かのせいで生じた悲しみは正当で,自分自身のせいで生じた悲しみが不当であるというのは,それ自体で不条理であるからです。
これも自己満足の場合と同じように,必ずその悲しみを僕たちは正当であると判断する,あるいは不当であるとは判断しないというものではありません。ですがそれが自分のせいであるという認識が伴っている限り,その悲しみは正当である,あるいは仕方がないものであるという判断は成立するのですから,このことが悲しみが正当であるのか不当であるのかを判断するときの材料を構成し得るということは明らかです。すなわち,自分が無能力であったということの認識が,悲しみを感じている人間の精神mens humanaのうちにあるかないかということは,その人間がその悲しみを正当であると判断するか不当であると判断するかの比較の材料になり得るのです。
なお,このことは第三部定理四九といくらかの関係を有します。人間は自分が自由libertasであると思い込むほど,自分が無能力であるということも表象しやすくなる筈だからです。
謙遜humilitasという語は,大抵の場合は自分についてではなく他人について用いられます。このことは,僕たちは「あの人は謙遜している」といういい方はしますが,「私は謙遜しています」とはいわないということから明白でしょう。そしてこのことは普通は他人の態度について用いられますが,ここではあくまでもそれが感情affectusであると仮定しておきます。
なぜ僕たちが自分自身について謙遜という語を用いないかといえば,「謙遜する」という語の中には,嘘をついているという意味が含まれているからです。つまり,「私は謙遜しています」というのは,「私は嘘をついています」といっているのも同じであり,そのことを表明するのは理に反します。このゆえに僕たちは他人については謙遜していると表現あるいは形容するのですが,自分についてはそうしないのです。逆にいえば,「あの人は謙遜している」というのは,「あの人は嘘をついている」といっているのと同じです。これは表象imaginatioなので,実際に謙遜していると表象されている人が嘘をついているとは限りませんが,それを表象している人は,その人は嘘をついていると判断しているのです。
それがどのような嘘であるかを感情によって示せば,第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoを感じているのに,それを感じていないふりをしているということになります。すなわち「あの人は謙遜している」という文章が有する意味は,「あの人は自己満足を感じていないように装っている」ということです。繰り返しますがこれは他人についての表象ですから,この文章のあの人が,本当に自己満足を感じていてそれを悟られまいとしているのか,本当は自己満足を感じていないのかは分かりません。しかし語の意味としていえば謙遜というのは,自己満足とともにあり,しかしそれを悟られまいとする欲望cupiditasであるというのが,これを感情としてみた場合の,的確な説明になると僕は考えます。
このゆえに,第三部諸感情の定義二六の感情を謙遜と訳すのは,日本語の語用として適切ではないと僕は考えます。なぜならそれは自己満足と相反する感情でなければならないからです。よって僕はこれを自己嫌悪humilitasと訳すのです。
Xに対する自己満足acquiescentia in se ipsoと,Xに対する自己嫌悪humilitasは,単に反対感情であるだけでなく,ひとりの人間のうちで相反する感情であるということは明白と思います。だれも同じ事柄に対して自己満足を感じると同時に自己嫌悪も感じるということは,第三部諸感情の定義二五と第三部諸感情の定義二六からあり得ないことが明白であるからです。それがあり得るなら,その人はある事柄に対して自身の働く力agendi potentiaを表象するimaginariと同時に自身の無能力impotentiaを表象していることになり,これはそれ自体で不条理であるからです。 第三部定理一七は,愛amorと憎しみodiumは反対感情であり,かつ同時にAに対する愛とAに対する憎しみは同一の人間のうちでは相反する感情であるけれど,同じ相手に愛も憎しみも感じてしまう心情の動揺animi fluctuatioが発生し得ることを示しています。自己満足と自己嫌悪の場合は,そういう心情の動揺が生じ得るということは『エチカ』では示されていませんが,やはり生じ得ると僕は考えます。たとえばAという人間がXという事柄について自己嫌悪に陥っているとき,他の人びとがまさにXがAに属するがゆえにAのことを称賛しているのを表象するなら,AはXについて自己満足を感じ得るからです。同様に,AがYについて自己満足を感じているとき,他の人びとがYがAに属するがゆえにAのことを非難するのを表象するなら,AはYについて自己嫌悪に陥ることがあり得るからです。第三部定理一七で示されているように,喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaの大きさについて細かい条件を付さなければならないのですが,Xに対する自己満足とXに対する自己嫌悪が,心情の動揺を起こす場合がないわけではないということは明らかではないでしょうか。
僕が岩波文庫版のように謙遜という訳語を用いず,それを自己嫌悪と訳すのには,ここまで示してきたように,自己満足と自己嫌悪は単に反対感情であるだけでなく,相反する感情でもあるという点にひとつの理由があるのです。僕たちは謙遜というのを感情affectusとしてよりは態度としてみなすのではないかと思いますが,仮にそれを感情であるとみなしたとしても,一般に謙遜は自己嫌悪ではなく,むしろ自己満足を意味すると僕は解するのです。
自己満足acquiescentia in se ipsoと自己嫌悪humilitasは反対感情であると同時に,相反する感情でもあります。つまりこの関係は愛amorと憎しみodiumの関係に同じです。ただし,ここでも次の点には注意が必要とされます。
僕がいう反対感情は,感情affectusを一般的に識別した場合の概念notioです。これに対して相反する感情は,ある感情がひとりの人間のうちにあると識別した場合の概念ですから,一般的概念notiones universalesではなく個別的な概念です。したがって,自己満足と自己嫌悪は反対感情でありますが,Aという人間のうちにある感情としてみた場合は,Xに対する自己満足とXに対する自己嫌悪は必然的にnecessario相反する感情ですが,Xに対する自己満足とYに対する自己嫌悪は,反対感情ではあっても相反する感情とは限りません。これは実際に僕たちは,ある事柄に対しては自己満足を得ることができるけれども,それとは別の事柄については自己嫌悪に陥る場合があるということを経験的に知っているでしょうから,これ以上の説明は不要でしょう。同様にXについては愛するけれどYについては憎むという場合はいくらでもあるのであって,反対感情であるからといって相反する感情ではない場合があるということは,その対象を個別的に識別するなら明白であるといえます。
このとき,Pという全体があって,そのPの一部はXとYによって構成され,かつXに対する自己満足とYに対する自己嫌悪が,同じ人間のうちで両立する,すなわち相反する感情ではないという場合はあり得ます。したがって,P全体についていえば,その一部が自己満足の原因となり,別の一部が自己嫌悪の原因となるということはあり得るのです。また将棋の例を用いれば,一局の将棋の中で指した手のうち,Xという手には自己満足を感じるけれどもYという手については自己嫌悪に陥るという場合があり得ます。これを一局の将棋全体に対する感情としてみたときに,自己満足と自己嫌悪が両立している,すなわち相反する感情ではないということができないことはないということは僕は認めます。ただ実際にはどちらかの感情が強力になるか,心情の動揺animi fluctuatioが生じるかのどちらかではあるでしょうから,現実的には相反する感情であると考えます。
スピノザは『エチカ』で相反する感情について説明するとき,反対感情によってそれを説明します。しかし反対感情が必ずしも相反する感情になるとは限りませんし,相反する感情を構成するのが反対感情だけであるわけではありません。このために僕はふたつを概念notioとして使い分けるのです。
希望spesと不安metusは明らかに反対感情です。ですが第三部定理五〇備考から分かるように,Xに対する希望とXに対する恐怖metusは,必ず同じ人間のうちで両立していなければなりません。ですからXに対する希望とXに対する不安は,反対感情ではありますが,相反する感情ではありません。不安と希望が表裏一体の感情であるというのは,それは反対感情ではあっても相反する感情ではあり得ないという意味なのです。
一方,Xに対する愛amorとYに対する愛は,同じ愛ですから反対感情ではあり得ません。ですがそれは同じ人間のうちでは両立し得ないという場合があるのであって,この場合に限っては相反する感情であることになります。たとえば『白痴』のムイシュキン公爵のうちでは,アグラーヤに対する愛とナスターシャに対する愛は両立していたのであり,相反する感情ではありませんでした。ですがエヴゲーニイのムイシュキン観のうちにあった誤謬errorは,それはムイシュキンのうちで両立し得ない感情である,すなわち相反する感情でなければならないという認識cognitioのうちにあったといえます。端的にいえばエヴゲーニイにとって,ふたりの女に対する愛はひとりの男のうちでは相反する感情であったのです。同様に,僕たちはカレーも好きだしラーメンも好きということがあり得ます。これは通常は両立し得るのであり,相反する感情を構成しません。しかしもしある食事に,そのどちらかを食べなければならないとなった場合には,一方を選択し他方を捨てなければならないので,途端にカレーに対する愛とラーメンに対する愛は相反する感情になります。このように,反対感情ではあり得ないけれども,相反する感情ではあり得るという例は,いくらでも存在するのです。 第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoと,第三部諸感情の定義二六の自己嫌悪humilitasは明らかに反対感情です。
自己満足acquiescentia in se ipsoが付随する喜びlaetitiaは,その喜びを感じる当人にとっては正当であると判断されます。もしもこの種の喜びが正当であると判断されないのであれば,人は自分の働く力agendi potentiaによって感じることができた喜びを正当であると判断しないということになりますから,正当と判断される喜びが存在しなくなってしまいます。自分の活動能力agendi potentiaによってなした喜びが不当で,外部の力を受けてなした喜びが正当であるというのは,それ自体で不条理であるからです。
したがって,もしある人間が喜びを感じ,しかしそれを不当であると判断する場合があるとすれば,それはその喜びを自分の力で感じたわけではないと当人が認識している場合であるということになります。よって,それが自分の力のうちにあるか,それとも外部の力のうちにあるかということは,その喜びが正当であるか不当であるかを判断する際の材料になり得ます。あくまでもなり得るのであって,必ずそうなるというわけではありませんが,これが喜びが正当であるか不当であるかを認識する場合の比較の材料であり得るということは間違いありません。
すると悲しみtristitiaの場合にもこれと逆のことが成立し得ることになるでしょう。喜びの場合と同じように,その他の条件が完全に等しいと仮定するなら,相手に好手を連発されて圧倒されて負ける方が,最後に自分のミスで負けてしまうより,より大きな悲しみとなるのです。なぜなら,後者の場合は最後を除けば自身の働く力を表象するimaginariことは可能ですから,自己満足という喜びが付随し得るのであり,その分だけ大なる完全性perfectioから小なる完全性への移行transitioの量が減じるからです。前者の場合は自己満足が付随する余地はありません。むしろ自分の無能力impotentiaだけが表象されることになるでしょう。
後者の場合も,最後にミスをしたという仮定になっていますから,無能力は表象されます。しかしどちらがより強く自己の無能力を表象することになるかといえば,前者の場合であるということは明らかです。第三部定理五五は,その表象imaginatio自体が悲しみになるといっています。これは第三部諸感情の定義二六の自己嫌悪humilitasです。つまり自己嫌悪もより大きく付随するのです。
僕がその他の条件の等しさをいうのは,このような事前の感情affectusの揺らぎを考慮の外に置きたいからです。棋士は人間であるので感情の揺れ動きは必然的にnecessario生じます。ですからこれは現実的には無意味な仮定であるといえるのですが,対局中の感情の振幅が一切ないと仮定するなら,棋士は自ら好手を連発して勝つ将棋の方が,最後に相手のミスに助けられて勝つ将棋より大きな喜びlaetitiaを得ることができるでしょう。
なぜそれがより大きな喜びとなり得るのかということは,論理的に示すことができます。それを対局の勝利に対する喜びとみなすなら,その他の条件を同一とみなす限り,どちらも同じ大きさの喜びでなければなりません。この場合のその他の条件は,棋士の感情だけでなく外的な状況も意味します。つまり対戦相手がだれであるのかということや,それがどんな対局であるのかということなどです。一般に強いとみなされる相手に対する勝利はそうであると認識されていない相手に対する勝利よりも喜びとして大きくなるでしょうし,トーナメント戦の一回戦での勝利よりも決勝での勝利の方が勝利の喜びとして大きく感じられるであろうからです。こうした条件が一致しないと,これから僕が示そうとする喜びの大きさの比較は成立しないという点に注意してください。
勝利の喜びが同一である,すなわち第三部諸感情の定義二でいわれている完全性の移行transitio perfectionisの量が同一であるとしても,好手を連発して勝つ将棋には,相手のミスに乗じて勝つ将棋には付随しない別種の喜びが発生します。そしてこの喜びの分だけ,前者の喜びは後者の喜びよりも大きくなり,強く意識されるのです。
この喜びは,第三部定理五三で示されている喜びの一種です。自ら好手を連発して勝つ場合,そのような手を指すということはまさに自分自身の働く力agendi potentiaであると認識されます。よってこの種の喜びがこの場合は発生します。この喜びは第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoです。しかし相手のミスに助けられるのは自分自身の活動能力agendi potentiaではありません。よってこの自己満足は発生しないのです。なので自己満足が発生する分だけ,好手を指して勝つ方がより大きな喜びとなるのです。