ふたつのビッグの狭間となったこともあり,S班は不在となった松戸記念の決勝。並びは根田-鈴木の千葉に幸田,松坂-新田の南関東,高城-北川の近畿,北津留-浜田の西国。
北津留の前受けで,3番手が松坂,5番手に高城,7番手に根田という周回だった模様。根田の上昇に高城が続き,北津留と松坂は下げて叩いた根田が打鐘前のバックで先頭に立って一列棒状。このまま根田の先行。ホームから後方の松坂が発進したものの,バックで鈴木が番手発進して前には届かず。その後ろもそのまま続いて,ゴールまで態勢は変わらず,鈴木が優勝。マークの幸田が2着。4番手を確保していた高城が3着。
優勝した千葉の鈴木裕選手は記念競輪初優勝。昨年の1月に2班に上がり,まだ1班の経験はありませんが,今年の3月には前橋で完全優勝するなど,じわじわと力をつけてきていました。ここは根田という好目標がありましたし,競ってくるような相手もいない分,恵まれた面はありました。ただこうしたことが契機となって一気に上位に食い込んでくるというケースもありますから,今後には少しばかり注目してみたいところです。
第三部定義二の立場というものをこのように理解する以上,一般的に能動と受動というものがいかにして発生するのかということを明らかにしておくことは欠かせません。なぜならば,それが明らかではないとすると,第三部定義二というものが単に名目的にしか理解し得ないということになってしまうからです。僕は現実的に存在する能動と受動,とりわけ人間の精神の能動と受動についても考察しようと試みていますので,この定義自体が実在的な意味を伴っていなければ,その試みをなすこと自体が無意味に化してしまうおそれがあります。しかしその前の準備段階として,先にこの定義でスピノザが我々ということばで名指しているものがどのようなものであると理解するのかということを説明しておかなければなりません。そうでなければ何の能動と受動の発生について明らかにしなければならないのかということが明瞭ではないからです。
常識的に考えて,スピノザが我々というならば,それは一般に人間のことであると考えられます。これは読者に向って我々といっているわけで,スピノザが読者として想定しているのは,当然ながら人間であると考えられるからです。そして『エチカ』の理解においてはそれで正しいだろうと僕は思います。というのは,第三部の副題というのは感情の起源および本性についてとなっていますが,この感情というのは,人間の感情であると考えられるからです。したがって,第三部の全体が人間の感情についての考察であるわけですから,第三部定義二も,人間の能動と受動に関する言及であると理解するべきでしょう。
よって,第三部定義二がこのような解釈から意味している事柄というのを,現時点までで明らかになったことから暫定的に記述すれば,人間の能動の本性というのは,人間が十全な原因となってある結果を生み出すことであり,逆に人間の受動の本性というのは,人間が部分的原因としてある結果を生み出すことであるということになります。
とくにこの定義の探求には限定されませんが,僕は『エチカ』のことは『エチカ』に訴えて解決するという立場を採用しています。そしてその立場からの解釈はとりあえずはこの通りです。しかしここでは僕はあえて,それ以上まで踏み込みたいと思います。
北津留の前受けで,3番手が松坂,5番手に高城,7番手に根田という周回だった模様。根田の上昇に高城が続き,北津留と松坂は下げて叩いた根田が打鐘前のバックで先頭に立って一列棒状。このまま根田の先行。ホームから後方の松坂が発進したものの,バックで鈴木が番手発進して前には届かず。その後ろもそのまま続いて,ゴールまで態勢は変わらず,鈴木が優勝。マークの幸田が2着。4番手を確保していた高城が3着。
優勝した千葉の鈴木裕選手は記念競輪初優勝。昨年の1月に2班に上がり,まだ1班の経験はありませんが,今年の3月には前橋で完全優勝するなど,じわじわと力をつけてきていました。ここは根田という好目標がありましたし,競ってくるような相手もいない分,恵まれた面はありました。ただこうしたことが契機となって一気に上位に食い込んでくるというケースもありますから,今後には少しばかり注目してみたいところです。
第三部定義二の立場というものをこのように理解する以上,一般的に能動と受動というものがいかにして発生するのかということを明らかにしておくことは欠かせません。なぜならば,それが明らかではないとすると,第三部定義二というものが単に名目的にしか理解し得ないということになってしまうからです。僕は現実的に存在する能動と受動,とりわけ人間の精神の能動と受動についても考察しようと試みていますので,この定義自体が実在的な意味を伴っていなければ,その試みをなすこと自体が無意味に化してしまうおそれがあります。しかしその前の準備段階として,先にこの定義でスピノザが我々ということばで名指しているものがどのようなものであると理解するのかということを説明しておかなければなりません。そうでなければ何の能動と受動の発生について明らかにしなければならないのかということが明瞭ではないからです。
常識的に考えて,スピノザが我々というならば,それは一般に人間のことであると考えられます。これは読者に向って我々といっているわけで,スピノザが読者として想定しているのは,当然ながら人間であると考えられるからです。そして『エチカ』の理解においてはそれで正しいだろうと僕は思います。というのは,第三部の副題というのは感情の起源および本性についてとなっていますが,この感情というのは,人間の感情であると考えられるからです。したがって,第三部の全体が人間の感情についての考察であるわけですから,第三部定義二も,人間の能動と受動に関する言及であると理解するべきでしょう。
よって,第三部定義二がこのような解釈から意味している事柄というのを,現時点までで明らかになったことから暫定的に記述すれば,人間の能動の本性というのは,人間が十全な原因となってある結果を生み出すことであり,逆に人間の受動の本性というのは,人間が部分的原因としてある結果を生み出すことであるということになります。
とくにこの定義の探求には限定されませんが,僕は『エチカ』のことは『エチカ』に訴えて解決するという立場を採用しています。そしてその立場からの解釈はとりあえずはこの通りです。しかしここでは僕はあえて,それ以上まで踏み込みたいと思います。