スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&大きな主体

2022-09-30 19:07:44 | 将棋
 28日に指された第30期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳白玲・女王が4勝,香川愛生女流四段が1勝。
 振駒で先手になった西山白玲・女王の角道オープン三間飛車に後手の香川四段が居飛車を選択。序盤で後手に失着があったので先手が香車を得しながら馬を作りました。ただその後の展開で得した香車を馬を守るためだけに使うことになり,よりが戻ることに。このあたりは先手はもう少しやりようがあったのではないかと思います。
                                        
 第1図から後手は☖7六歩と攻め合いにいきました。☗7三歩成☖7七歩成で桂馬の取り合い。飛車取りなので☗6六飛と逃げます。後手も銀取りが残っているので☖7三銀。
 そこで☗4四馬☖同歩☗5六飛と進めたのがよい判断で,先手が優勢になりました。
                                        
 第1図で受けに回っていては後手はじり貧なので,攻め合いに活路を見出すのは正しい判断だったとしか思えません。ただすぐに☖7六歩は実戦の手順で拙いので,第1図では一旦は☖8九角成と馬を作っておくべきだったように思います。それなら☗7三歩成☖同銀の後,先手の指針も難しかったのではないでしょうか。
 西山白玲・女王が挑戦者に。倉敷藤花戦の三番勝負には初出場。第一局は11月2日に指される予定です。

 十全な観念idea adaequataの形相formaならびに本性essentiaは,どの知性intellectusのうちにあっても同一です。よってその観念ideaが観念である限りにおいて含む意志作用volitioも同一になります。なので,現実的に存在する人間が事物を十全に認識すればするほど,同一の意志作用がそれらの人間のうちに増えていくことになります。そうした意志作用の総体が意志voluntasといわれるのですから,本性と形相が同一の観念があればあるほど,共通の意志もまたそれだけ増加していくことになります。なので主体subjectumの排除とスピノザの政治論,とくに統治権imperiumあるいは自然権jus naturaeの思想とは関係があることになるのです。
 ただし,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがスピノザの哲学に主体が欠如しているのをみたときには,このように個々の人間が主体であるということが欠如しているという点にあったのではなく,もっと大きな意味で主体という概念notioが欠如していると解しているのではないかと僕は思います。ヘーゲルが絶対精神absoluter Geistといっている精神は,そのような大きな主体の精神であると解することができるからです。
 もっとも,スピノザの哲学は,単に個々の人間が主体であるということが欠如しているだけではなく,もっと大きな主体が存在するということも欠いているのは確かです。もしもスピノザの哲学において,最も大きな主体というものがあるのだとすれば,それは神Deusをおいてほかにないでしょう。そして神の無限知性intellectus infinitusのうちには,無限に多くのinfinitaものの十全な観念があります。ところが,十全な観念の形相ならびに本性は,どのような知性のうちにあっても同一であるということは,この無限知性の場合にも妥当するのであって,たとえば人間の知性のような有限なfinitum知性だけに妥当するというわけではありません。つまりXの十全な観念は,神の無限知性のうちにあるとみられようと,現実的に存在するAという人間の知性のうちにあるとみられようと同一なのです。というか,第二部定理一一系により,人間の知性というのは神の無限知性の一部なのですから,すべての十全な観念は神の無限知性のうちにあるとみられることになります。よって個々の人間が主体であることを欠いているのなら,神もまたそれと同様に主体であることを欠いているのです。
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日本テレビ盃&欠如

2022-09-29 19:18:12 | 地方競馬
 昨晩の第69回日本テレビ盃。フルデプスリーダーは枠の中で立ち上がり,負傷したために競走除外となって13頭。
 すぐにサルサディオーネが先頭に。ノットゥルノが2番手でマークし3番手にクラウンプライド。2馬身差でギガキング。5番手にペイシャエス。3馬身差でミューチャリーとフィールドセンス。2馬身差でマンガン。4馬身差でジュランビルとメスキータ。2馬身差でクレールアドレ。1馬身差でマイネルヘリテージ。4馬身差の最後尾にグレートコマンダーと縦長の隊列。最初の800mは48秒5のハイペース。
 3コーナーを回るとクラウンプライドも前の2頭を追いかけていき,サルサディオーネ,ノットゥルノ,クラウンプライドの3頭が雁行に。直線に入るとすぐにノットゥルノは脱落。クラウンプライドがサルサディオーネを競り落として抜け出すと,外からフィールドセンスの末脚が炸裂。クラウンプライドを差し切って優勝。クラウンプライドが半馬身差で2着。一杯になりながらもサルサディオーネが3馬身差の3着に粘り込みました。
 優勝したフィールドセンススパーキングサマーカップから連勝。重賞は初勝利。転入後はいい競馬を続けていましたが,JRA時代の実績から考えるとこのメンバーでは厳しいのではないかとみていたので,個人的には驚きの勝利でした。年齢的にもここにきて強くなるということは考えにくいので,JRA時代は何らかの理由で力を十分に発揮することができていなかったということなのだと思います。そういう意味では移籍して大成功だったということになるでしょう。母の父はスペシャルウィーク。母の従兄にゼンノロブロイ
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は2013年のテレ玉杯オーバルスプリント以来となる重賞2勝目。管理している船橋の山下貴之調教師は昨年のかしわ記念以来となる重賞3勝目。日本テレビ盃は初勝利。

 三木はスピノザの哲学には弁証法が欠如していると批判しています。このことは事実です。ただ,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがスピノザの哲学に見出した欠如というのは,弁証法の欠如であったかというと,実際にはそうではなかっただろうと僕は考えています。
 これは何度かいったことがあったと思いますが,ヘーゲルはスピノザについて,実に注目するべきことをいっています。ヘーゲルにとって哲学というのはふたつしかありませんでした。ひとつがスピノザの哲学で,もうひとつがそれ以外の哲学です。この発言から容易に理解できるように,ヘーゲルは自身に先行する,これは時間的な意味で先行するということなので,自身よりも以前の哲学者の中では,とくにスピノザに注目していたのです。これはデカルトRené Descartesではなくてスピノザという意味であり,またカントImmanuel Kantではなくスピノザという意味をもつので,とても重要です。
 しかしヘーゲルは,そのスピノザの哲学の中にも不十分なものがあると考えました。それはスピノザの哲学の中には主体subjectumという概念notioが一切みられない,つまり主体という概念が欠如しているという点にあったと僕は解します。そこでヘーゲルは,スピノザの哲学の中に主体という概念を取り込むために,弁証法を用いたというのが僕の見方です。したがって弁証法というのはヘーゲルにとってはスピノザを超克するための一種の方法論なのであって,確かにスピノザの哲学には弁証法はありませんが,弁証法自体の欠如よりも,主体という概念の欠如の方が,ヘーゲルにとっては重大なことだったと僕は思うのです。
                                   
 主体の排除は,スピノザの哲学の大きな特徴のひとつですが,このことについては何度も示してきましたので,ここで詳しく説明することはしません。ただこのことは政治論とも関係しています。たとえばスピノザは統治権imperiumを人びとの共通の意志voluntasに基づく権利と規定しますが,こうした規定が可能なのは,人びとに共通の意志,観念ideaが観念である限りにおいて含んでいる意志作用volitioの総体としての意志があり得ることを前提しなければなりません。そしてこれは,事物の十全な観念idea adaequataの形相formaならびに本性essentiaは,それを認識するcognoscere知性intellectusと無関係に同一だからです。
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王座戦&国家の普遍性

2022-09-28 19:25:29 | 将棋
 京都で指された昨日の第70期王座戦五番勝負第三局。
 永瀬拓矢王座の先手で角換わり相早繰り銀。後手の豊島将之九段が9筋の位を取って,その間に先手から仕掛ける将棋。
                                        
 第1図で後手は☖3三歩と受け,☗6五歩に☖4二飛と回りました。
 ☗6四歩から決戦に出る手もあったのでしょうが先手は☗3三歩成☖同桂としてから☗3五角と引きました。
 ここで後手は☖3四歩と打ったのですが今度は☗6四歩☖同歩☗3四歩と決戦に。
                                        
 第2図まで進むと先手が優勢で,後手は挽回するのが難しくなっているようです。なので第1図が互角であるなら第1図から第2図に進める過程で,後手は変化が必要であったということになるでしょう。とはいえ準備不足だったという後手の回顧がありますので,先手の作戦の選択がうまくいった一局だったという気もします。
 永瀬王座が勝って2勝1敗。第四局は来月4日に指される予定です。

 浅野がいうように,おそらく三木は,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがいう模範的公民であることを実践的に目指していました。もしスピノザがいう国家Imperiumの統治権imperiumが,共通の意志voluntasに基づくものであり,それによって市民Civesに義務を命令し,市民がその義務を果たすことが各々の市民の自然権jus naturaeであるとき,このときの市民の態度は,たぶん三木やヘーゲルがイメージしている模範的公民と大差ない,もっといえば一致するといっていいのではないかと思います。しかし,その原理はまったく一致しません。なぜなら,三木によれば国家という概念notioが個人という概念よりも普遍的であるがゆえに,個人は国家の中で模範的公民であることを求められたのでした。したがってこの場合には,統治権が市民の意志に基づこうが基づかなかろうが,一様に国家に対して模範的公民であることを命じられます。よってこの命令は,絶対に市民の共通の意志である,自然権の拡大に資すると断定することができません。三木の論法をとれば,たとえ国家が市民の自然権を迫害するとしても,国家という概念は個人という概念よりも普遍的であるがゆえに,自然権を迫害したり制限したりする命令にも従う必要が出てくるからです。これに対してスピノザの論法では,国家という概念が個人という概念よりも普遍的であるという主張は否定されます。少なくとも国家が市民に共通の意志によって市民に対して義務を課すとき,国家という概念の普遍性は,個人という概念の普遍性と同等に普遍的であるという結論になるでしょう。これでみれば明白なように,スピノザにとって国家というのは,個人にとってのあるいは市民にとっての,最終形態ではないのです。あるいは,仮に国家が最終形態であるにしても,それは特定のある国家だけが最終形態であるといわれなければならないのであって,それとは別の現にあるような国家が最終形態であるということはできません。
 このことは前に示しておいたように,スピノザが社会societasという概念と国家という概念を分けて考えていないということだけに由来しているのではなくて,スピノザの哲学には弁証法が欠如しているということとも関連します。なので僕は,この欠如についても,肯定的に評価します。
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平安賞&国家の自然権と個人の自然権

2022-09-27 19:16:59 | 競輪
 向日町記念の決勝。並びは坂井‐成田‐小原の東日本,脇本‐稲川の近畿,清水‐桑原‐筒井‐小倉の中四国。
 清水がスタートを取って前受け。5番手に坂井,8番手に脇本で周回。残り3周のホームに入る手前から坂井が小倉との車間を開けて脇本を牽制すると,脇本もホームでは小原との車間を開けて待機。長い一列棒状からバックに入って脇本が発進。打鐘後のホームの入口で清水を叩いてかまし先行。清水が3番手,坂井が7番手となりましたが,脇本のスピードがよかったために縦長の隊列に。バックでは完全に前のふたりが抜け出し,優勝争いは脇本と稲川に絞られました。ただ稲川も意図的だったのかもしれませんが一時的に脇本との車間が少し開いてしまい,直線に入ってまた差は詰めたものの届かずに逃げ切った脇本の優勝。稲川が4分の3車身差の2着で近畿のワンツー。清水の番手から直線で踏み込んだ桑原が4車身差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は前々回出走の立川のFⅠ以来の優勝。グレードレースは先月のオールスター競輪以来の優勝。GⅢは6月の燦燦ムーンナイトカップ以来で通算11勝目。記念競輪は3月の玉野記念以来で10勝目。向日町記念は昨年からの連覇で2勝目。このレースは脇本が脚力上位。清水のラインが4人になりましたが,ライン全体があまり強力ではありませんでしたから,脇本が相当の確率で優勝するだろうとみていました。残り2周のホームではかなり後ろに置かれましたが,そこから巻き返してかまし先行に持ち込み,さらにそのまま粘ったのですから,やはり力が抜けていての優勝だったと思います。

 スピノザの政治論では国家Imperiumが人間あるいは人類の最終形態ではないということは,別の観点から説明することもできます。
 国家の主権あるいは統治権imperiumは,その国家の自然権jus naturaeであるとみなすことができます。ただ,それが国家の自然権として規定されるのは,それが人びとの共通の意志voluntasに基づくからです。それが人びとの共通の意志に基づくから主権あるいは統治権というのは正統化されるのであって,その正統化された統治権による命令を人びとは義務として果たすことになり,それが人びとの自然権として,この場合の人びとというのは人びと全体というより人びとに含まれる一人ひとりの個人ですが,その個人の自然権が拡充されていくのです。いい換えれば,人びとが共通の意志を有するようになるのは,ひとえに諸個人の自然権の拡大,あるいはひとりでいるときにはほとんどないといえるような自然権を多く獲得していくからです。
 よってもし国家の統治権が,個人の自然権の獲得あるいは拡大に反する場合は,その国家の統治権は正統性を欠くことになります。なのでこの場合はその国家の人びとは,共通の意志によって正統性を有する別の国家を形成していくことになります。というか,人びとにはそうした権利が与えられているとみなければなりません。こうしたことは一般的には革命といわれるのであって,革命というのが生じ得るということは,人類の歴史が証明しているといっていいでしょう。もちろん革命そのものが正統化されるというわけではありませんが,国家の統治権は個人の自然権に対して正統的なものでなければならないのであって,そうでない場合にこの種の革命が生じるのは,個人のコナトゥスconatusに由来する自然権からして必然といえるのです。
 よって,国家の統治権は,人びとの共通の意志の範囲の中でのみ成立する国家の自然権なのであって,それを超越するような自然権ではありません。むしろ統治権は人びとの自然権の獲得あるいは拡大に資するべき権利なのであって,それを制限したり制約したりする権利ではありません。つまりこの統治権は人びとに義務を命令しますが,あらゆる義務を命ずることができるわけではないのです。
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黒澤明のドストエフスキー評&最終形態

2022-09-26 19:34:47 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中に,小泉義之による「ロバの鳴き声」というタイトルの論考が掲載されています。不思議なタイトルに思われるでしょうが,副題は「デカルト的白痴からドストエフスキー的白痴へ」となっていて,ドゥルーズの講義に関連する論考です。これはこれで哲学的観点から興味深いのですが,ここではその内容に立ち入ることはしません。この論考の中に,黒澤明によるドストエフスキー評が援用されていて,その点だけに着目します。初出はキネマ旬報の1952年4月特別号とのことです。
                                        
 原本については分かりませんが,これはおそらくキネマ旬報の特集号で,「黒澤明に訊く」というものだったようです。おそらく黒澤へのロングインタビューの記事が掲載されたのでしょう。この特集号の中で,ドストエフスキーのどういう部分に傾倒しているのかという主旨の質問をされました。この質問の前後の流れは不明ですが,おそらく黒澤の方からドストエフスキーに関する話が出て,それに対してインタビュアーの方が詳しく尋ねていった過程で出た質問と答えであったのではないかと推測します。
 この質問に対して黒澤は,ドストエフスキーは普通の人間の限度を超えていると思うと解答しています。そしてその例として,たとえば普通の人が優しいというとき,それはたとえばとても悲惨なものを目撃したときに,そこから思わず目を背けてしまうようなことであるとしたら,ドストエフスキーは,そうしたものから目を背けるのではなくて,むしろそれを凝視して悲惨なものが苦しんでいるのと共に苦しんでしまうということをあげています。つまりそのような,普通の人の限界を超越したような優しさを黒澤はドストエフスキーに感じていたということになります。そしてその点で,ドストエフスキーは人間ではなく,人間という限界を超越した神のような資質を有していると黒澤は言っています。
 『共苦する力』という著書を亀山郁夫は出版しています。亀山のドストエフスキー観と黒澤のドストエフスキー評には,相通じる部分があるといえそうです。

 実際に浅野が,スピノザは社会societasという概念notioと国家Imperiumという概念を明確に区分しているのだと主張しているとは僕は解しません。社会的地平から国家の問題を照射する道がスピノザにはあると浅野がいうとき,その主旨というのは主に次のようなところにあるのだと思います。
 ホッブズThomas Hobbesについてもそのようにいうことができないわけではありませんが,とくにヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelにとって,国家というのは人間にとってあるいは人類にとっての最終形態なのです。それはヘーゲルが,国家は自由主義的諸個人を否定しつつ活かしながら高次元で統合するものとして規定していることから明白です。そしてまたそのゆえに諸個人は,その国家における模範的な公民であることを求められることになるのです。浅野はヘーゲルのこの結論について,弁証法においては第三項が第一項の高次元での復帰なのであるから,当然のことである,つまり個人と国民を弁証法的に統合するという課題が与えられるなら,この答えは当然であるといっていました。つまりこのことは,三木がスピノザについて指摘しているもうひとつの点,つまりスピノザには弁証法が欠けているということと関連しています。
 スピノザの場合は国家は人間のまたは人類の最終形態ではありません。たとえば『国家論Tractatus Politicus』の第三章第一二節では,ふたつの国家が相互に援助を交わし合うことを欲望するなら,それら両国家は各々が単独である場合よりも多くのことをなし得るであろうという意味のことをいっています。これはちょうど,ひとりの人間が他の人間と協力することによって自然Naturaに対して多くのことをなし得るので,その分だけ自然権jus naturaeが拡充されるというのと同じ関係にあることになります。つまりふたつの国家が協力することで,各々の国家の自然権はその分だけ拡充されるのです。こうしたことは複数の国家が現実的に存在するのであれば成立することになります。したがってそれらの国家の中からある国家をひとつ抽出して,その国家がその国民にとっての最終形態であるということはありません。つまり現実的に存在する人間のすべてがいずれかの国家の国民であるとき,一般的に国家は人類の最終形態ではありません。
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印象的な将棋⑱-5&社会と国家

2022-09-25 19:43:08 | ポカと妙手etc
 ⑱-4で示した疑問に順に答えていきます。まず,その第1図ですぐに☗2七銀と受けてはいけない理由からです。
 ⑱-4の第1図で☗2七銀と打つと下図になります。
                                        
 この図は後手から☖3六歩と打つ手があります。☗同銀と取ると後手は☖3八金と打つことができるようになります。これは後手の勝ちです。
 なので先手は☖3六歩には角が逃げることになります。☗5五角が最も自然な手ですが,これが後手玉に対する詰めろになっていません。よって☖3七銀と打ってこれも後手が勝つのです。
 つまり先手は第1図の形で☖3六歩と打たれないようにしておかなければなりません。なので⑱-4の第1図ではまず☗2一飛と詰めろで飛車を打ち,☖3一歩と受けさせてから☗2七銀と受けに回る必要があるのです。これが⑱-4の第2図ですが,これなら後手からの☖3六歩が二歩のため打てません。つまり☗2一飛というのは,それ自体では詰めろなのですが,実際は後手玉を攻める手であるというよりは,☖3一歩と打たせて☖3六歩を打たせないようにするための受けの手という意味合いが強いのです。

 スピノザはホッブズThomas Hobbesと逆に,自然状態status naturalisでは人間には自然権jus naturaeはない,自然権を行使することがほとんど不可能で,社会状態になると共同の意志voluntasに基づいて自然権を有するようになる,自然権を行使できるようになると考えています。したがって,ホッブズもスピノザも,自然状態は人間にとってよからぬ状態で,社会societasは人間にとってよき状態であると解している点では一致しているのですが,ホッブズの場合,自然状態では各人が自然権を思うがままに行使するがゆえに悪しき状態であるのに対し,スピノザの場合は,自然状態が悪しき状態である理由は,各人が自然権を行使することがほとんど不可能であるがゆえなのです。つまり自然状態が悪しき状態で社会がよい状態であるという点ではスピノザもホッブズも一致するのですが,自然権がそれに対してどのような影響を与えるのかということについては,真逆の見解opinioを有していることになります。
 この見解の相違についてはここでは詳しくは探求しません。スピノザとホッブズの政治理論の相違を探求する場ではないからです。ここでは,スピノザが社会をよき状態であると解するときに,それは人間が自然権を行使することができるようになるからだという点に注目します。浅野は,もしも三木がスピノザの政治理論に従えば,国家的なものが発生する手前にある社会的地平に目を凝らすということができたであろう,よって,社会の側から国家Imperiumの問題性を照射する道が開かれていたであろうという意味のことをいっていましたが,それはまさにこの点と関連しているのです。
 三木は,スピノザは社会という概念notioと国家という概念を区別していないといっていました。それは正しいのだと僕は考えています。スピノザがいうよき状態,つまり社会状態は,社会でもあり国家でもあると考えることができるのであって,共同の意志に基づいて人間が自然権を行使できる状態というのは,社会と呼ばれようと国家と呼ばれようと関係ないからです。一方で,浅野は社会的地平というのが国家的なものが発生する以前の状態としてあるというように仮定しているので,これだとスピノザは国家と社会を分けているかのようにみえます。
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完全性と善悪&一致点

2022-09-24 19:46:30 | 哲学
 完全性perfectioが思惟の様態cogitandi modiであるということと比較すれば,善と悪が思惟の様態であるということは理解しやすいと思います。
                                   
 完全性は実在性realitasと同じですから,Aの実在性がBの実在性より大なる実在性であるなら,AはBよりも完全で,BはAよりも不完全と認識されるのです。しかしBの実在性はAの実在性よりも小なる実在性なのですから,その限りにおいてBは完全です。よってBが不完全であるというのは,BをAと比較した知性intellectusのうちにのみある思惟の様態であるということになります。しかしこのとき,Aの実在性がBの実在性よりも大なる実在性であるということ,同じことですがBの実在性がAの実在性より小なる実在性であるということは,そのことを認識するcognoscere知性を離れても事実である,つまりそれらの命題は真verumであるということが前提されています。よってその限りでは,これらのことはAおよびBの各々の本性essentiaに属することだといえなくもありません。
 これに対して善bonumと悪malumは明らかに思惟の様態です。たとえばある人間がAとBを比較して,Aが善でありBが悪であると認識したとしても,それはその人間に限ったことなのであって,別の人間はBが善でありAが悪であると認識するかもしれません。それどころかその同じ人間が,それとは別のときにはAの方が悪でありBの方が善であると認識する場合もあり得るのです。したがって,何が善でありまた何が悪であるのかということは,知性によって善であるあるいは悪であると認識されるものの本性のうちにはまったく属することはなく,単にそのように認識する知性のうちにのみあることになります。
 このように,完全性も善と悪も同じように思惟の様態であるとスピノザはいうのですが,善と悪が思惟の様態であるということはそのように認識される事物の本性とはまったく関係ないのですが,完全性は事物の本性とも関係し得ます。いい換えれば,善と悪の認識cognitioは事物の本性の十全な認識ではありませんが,完全性の認識は事物の本性の十全な認識でもあり得るのです。

 前もっていっておいたように,これは乱暴な要約であり,なおかつホッブズThomas Hobbesがそう主張したということではなく,スピノザがホッブズの政治理論をこう解釈したということです。このような事情から,ホッブズが自然権jus naturaeについて主張したことは本当はこのようなことではないという類の反論については受け付けません。
 『国家論Tractatus Politicus』の主張が,ホッブズの理論,あくまでもスピノザが解したホッブズの理論ですが,その政治理論と全面的に一致しないかといえばそういうわけではありません。二点だけですが,一致する部分はあります。それは自然状態status naturalisすなわち,人間がひとりでいる状態にあるときは,各人は各人の敵であるという状態,すなわち万人の万人に対する戦いという状態にあるという点では,ホッブズもスピノザも一致しているのです。ところがそのときホッブズは,各人が思いのままに自然権を行使するのでそのような状態が生じると解するのに対し,スピノザは逆に,この状態では各人は思うがままに自然権を行使することができないと解するのです。この部分ですでに両者の間で,自然権という権利がいかなる権利であるのかという解釈上の相違があるとみてよいでしょう。
 次に,人間が社会societasを形成するのは,自然状態を解消するためであるという点でも,ホッブズとスピノザの間にある種の一致があるとみて僕はいいと思います。各人が各人の敵であるような状態,万人の万人に対する戦いの状態というのは,それを個人とみるのか人類とみるのかという点では相違が生じ得るとしても,人間にとってはよからぬ状態であるという点では,ホッブズもスピノザも一致した考えを有しているのは明らかだといえるからです。ところが,自然権がいかなる権利であるのかという点では元からの相違がありますので,社会状態,自然状態と反対の意味での社会状態の形成のために自然権がどうあらなければならないのかという点では,両者の間には差異が出てきます。ホッブズによれば,各人が思うがままに自然権を行使するのが自然状態ですから,社会状態においては各人は自然権を放棄しなければなりません。すべてではないにしても,一部は放棄する必要があります。
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東京モノレール賞ゴールドジュニア&ホッブズの主張

2022-09-23 19:01:46 | 地方競馬
 昨晩の第3回ゴールドジュニア
 ピノホホッア,サンドエンプレス,ポリゴンウェイヴ,枠入りを嫌っていたポーラチュカが出ていき,この4頭が先行集団。3馬身差でナックサンライズ。6番手にグリーリー。7番手にキュアドリーム。発馬が一番よかったジンステージは8番手。9番手にリベイクフルシティ。3馬身差でロアリングルックスとブルマリンシェールとラドリオの3頭が最後尾を追走。前半の600mは34秒2のハイペース。
 先行争いに決着をつけたのはサンドエンプレスで,それにポリゴンウェイヴ,ポーラチュカの3頭が雁行で直線へ。ピノホホッアは内の4番手。直線に入るとポリゴンウェイヴがサンドエンプレスの前に出て先頭。外から追うポーラチュカも振り切りました。追ってきたのは後方に控えていたリベイクフルシティで,強烈な差し脚で抜け出したポリゴンウェイヴを差し切って優勝。ポリゴンウェイヴが半馬身差で2着。内で一旦は控えたピノホホッアが直線はまた巻き返して3馬身差の3着。
 優勝したリベイクフルシティは6月にデビューしてから3連勝でこのレースへ。デビューからの連勝を4に伸ばしての南関東重賞制覇。このレースはこの馬と連勝中だったナックサンライズ,そして北海道からの移籍初戦を勝っていたポリゴンウェイヴの3頭が上位。そのうちの2頭で決まりましたので,順当といってよいでしょう。ペースの関係もあり,控えたリベイクフルシティの方が有利になったという面がありますので,はっきりとして能力の差があるというわけではないと思います。
 騎乗した大井の和田譲治騎手はプラチナカップ以来の南関東重賞10勝目。ゴールドジュニアは初勝利。管理している大井の宗形竹見調教師は南関東重賞3勝目。ゴールドジュニアは初勝利。

 『国家論Tractatus Politicus』では,人間がひとりでいるときは自然権jus naturaeがない,自然権を行使することがほとんどできないのであって,社会societasが形成されることによって社会の一員としての人間が自然権を有するようになる,自然権を行使することができるようになるということになっていますから,国家Imperiumにおいても自然権をそっくりそのまま残しているといういい方は,解釈上は成立しません。そっくりそのまま残っているというなら,人間がひとりでいるときに有している自然権と同じだけの権利が,社会の一員としての人間にも与えられているというように解釈するのが妥当であるからです。ただ,書簡五十の主旨は,自然権がいかなるものかという点にあるのではなく,それについてスピノザがどの点でホッブズThomas Hobbesと違った考えを有しているのかを説明する点にあります。つまりここでは自然権そのものというより,スピノザが解する自然権とホッブズが解する自然権について記述されているのです。したがってここから理解することができるのは,社会の一員としての人間には自然権が与えられていないというようにホッブズは考えているということです。より正確にいえば,ホッブズはそのように主張しているとスピノザは解しているということです。
                                        
 これは乱暴な要約ですが,スピノザはおそらくホッブズの考え方を以下のように解しているのです。
 人間はひとりでいるときには,個々の人間が思い思いに自身がなしたいことをなします。つまりそれが能動actioであるか受動passioであるかは関係なく,諸個人がそれぞれの欲望cupiditasに従って生きることになります。この状態をホッブズは,各々の人間が自然権を行使する状態と解し,この状態のことを人間の自然状態status naturalisと規定するのです。この状態にあるとき,ある人間の欲望と別の人間の欲望は対立的であり得ますし,現にそういう場合が多いでしょう。いわゆる万人の万人に対する戦いという状態がこれです。そこで人間はこの状態を解消するために社会契約を結ぶことになるのですが,そのときに諸個人が自らの自然権,つまり欲望に従って生きる権利を放棄するというようにホッブズは解します。よって社会の一員としての人間は,自然権を有しません。
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カーンの雑感⑫&ホッブズとの比較

2022-09-22 19:24:58 | NOAH
 カーンの雑感⑪の最後の部分でカーンが告白していることは,僕にとっては意外なことでした。全日本プロレスのオーナーである馬場が,選手の福利厚生について熱心であったという話を僕は聞いたことがなく,むしろそういうことは気に掛けなかったということの方が多く伝わっていたからです。ただ,カーンがいっていることはどうやら真実のようです。
 新日本プロレスに所属していた自身が年金を受け取ってはいないということについて,カーンが嘘をいう理由というのは見当たりません。ですからこれは真実で,カーンに限らず,少なくともその当時に新日本プロレスに所属していたレスラーは,厚生年金には加入していなかったとみていいでしょう。一方,全日本プロレスに所属していた選手が厚生年金に加入していたために,老後にそれを受け取っているということもまた真実です。これは後にケンドー・ナガサキとしてブレイクすることになる桜田一男が,自身は厚生年金に加入していたとは思っていなかったけれども,年金事務所によれば全日本プロレスに所属していた頃に支払われていたので,後の不足分を払うことによって年金を受け取っていると明言していますし,また谷津嘉章は,全日本プロレスのギャラは新日本プロレスのギャラよりも安かったのだけれども,それは年金に加入していることがひとつの要因であるという主旨のことをいっています。桜田が全日本プロレスに所属していたのは,全日本プロレスの創成期にあたる頃になりますし,谷津の方は最良の時代の直前に全日本プロレスで仕事をしていたわけですから,馬場がオーナーであった全日本プロレスということであれば,中期よりは後期に当たります。したがって,馬場がオーナーであった全日本プロレスは,創設の当初から最後まで,所属していたレスラー,つまり全日本プロレスの社員として仕事をしていたレスラーは,ずっと厚生年金に加入していたと判断してよいものと思います。
 厚生年金は半額を会社が負担することになっています。つまり全日本プロレスは会社として,選手の年金の半額をずっと負担していたことになります。ただそれは,選手のことを慮った馬場の意向であったのではなく,別の事情があったのではないかと僕は推測します。

 ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelはスピノザより後の時代の思想家です。ですから当然ながらスピノザはヘーゲルの思想を知りません。スピノザが自らの政治論を構築する際に,参考にしまた比較の対象としているのはホッブズThomas Hobbesです。そしてスピノザは,スピノザ自身の政治論とホッブズの政治論との差異を問われたときに,現在の考察と関連することを答えています。
                                        
 問うたのはイエレスJarig Jellesです。それに対してスピノザは書簡五十で,スピノザは自然権jus naturaeをそっくりそのまま保持させていると答えています。そしてなぜスピノザがそのようにしているのかということについては,自然状態status naturalisにおいてはそれが常道であるからだという説明を与えています。このことからして,国家Imperiumあるいは政府が市民Civesに対して有している権利というのは,力potentiaにおいて市民に勝っている度合いに相当する権利だけであるとスピノザは結論しています。スピノザは権利と力を等置するのですから,国家にあっても個人が自然権をそのまま保持しているのであれば,政府が市民に対して有する権利が,その力において勝っている分だけになるのは当然でしょう。よって,現実的にそのようなことが生じるかどうかは別として,市民の有する力が政府に対して勝る部分があるとすれば,その分の権利を市民が政府に対して有するといわなければなりません。
 この書簡が書かれたのは1674年で,6月2日付となっています。この時点ではスピノザはまだ『国家論Tractatus Politicus』の執筆に着手していません。一方で『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は1670年に匿名で刊行されています。よってこのスピノザの解答には,『神学・政治論』の方を多く参照しなければなりません。スピノザはそちらではホッブズが提唱した学説である社会契約説をモデルとして用いて国家の成立を論述しています。つまりこの部分は,直接的には社会契約と自然権の関係において,ホッブズとスピノザの間には相違があるということをスピノザはいっていると解する必要があります。ただここまでにみてきたように,スピノザは『国家論』でも,国家における市民が自然権を有するということは認めていますので,その点だけはこの時点と変更されていないと理解して構わないでしょう。
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テレ玉杯オーバルスプリント&社会的地平

2022-09-21 19:14:49 | 地方競馬
 第33回テレ玉杯オーバルスプリント
 バーナードループは加速が鈍く1馬身の不利。メスキータは立ち上がるような発馬で2馬身の不利。激しい先行争いにはならず,プレシャスエースが逃げて2番手にオパールシャルム。3番手のシャマル,4番手のリメイク,5番手のティーズダンクまでは一団。3馬身差でユアマイラブとダウラギリ。8番手にパーソナルマキ。9番手にバーナードループ。10番手にイバルで3馬身差の最後尾にメスキータ。最初の600mは36秒7の超スローペース。
 向正面から3コーナーにかけてプレシャスエースが2番手とのリードを広げていきました。3コーナー手前からシャマルが上がっていき単独の2番手に。オパールシャルムは苦しくなってリメイクも3番手に上がりました。直線にかけてプレシャスエースのリードが一気に縮まっていき,直線に入ってほどなくシャマルが先頭に。リメイクも追ってきましたが追いつくことはできず,優勝はシャマル。リメイクが1馬身半差で3着。直線の入口ではまだオパールシャルムの後ろの5番手だったティーズダンクが,一杯になったプレシャスエースを差して3馬身差の3着。
 優勝したシャマルサマーチャンピオンからの連勝で重賞3勝目。このレースは実績で上位のシャマルとティーズダンクに,オープンを2勝している3歳で軽量のリメイクが食い込めるかが焦点。きわめて順当な決着になりました。さきたま杯で先着を許していたティーズダンクを逆転することができたのは,小回りコースと浦和コースへの経験値を得たからだと思います。この路線では中心的存在であり続けるでしょう。父はスマートファルコン。母の父はアグネスデジタル。祖母の父はダンスインザダーク。母の従妹に18日のローズステークスを勝った現役のアートハウス。Shamalはペルシャ湾岸地域に吹く風。
 騎乗した川須栄彦騎手と管理している松下武士調教師はオーバルスプリント初勝利。

 前もっていっておいたように,僕はスピノザが国家Imperiumという概念notioと社会societasという概念を分けていないことを,肯定的な観点から解します。この点は浅野も同様です。浅野によれば,スピノザは国家的なものが発生する手前にある社会的地平に注目しているのです。この社会的地平というのは,諸々の様態modusが多層的に関係するその関係の連鎖から成立する物質的な過程のことであって,個々の様態がその他の様ざまな様態に遭遇することによって生じる異化と変成の場のことです。つまりスピノザの哲学からいわれるような社会というのを,浅野は,たとえばヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelや三木によって国家といわれるような,領土と国民をもつひとつの集団のように解しているのではなく,その内部で絶えず変化が生じつつも,ひとつの様態としては同一にとどまるような集団として解しているのです。いわばそれは人間の身体humanum corpusのような物体corpusなのであって,現実的に存在する人間の身体の内部では,絶えず様ざまな変化,最も分かりやすくいえば栄養の摂取とか不要物の排泄といったような変化が生じているのですが,そうした変化が生じつつも全体としての身体はその形相formaを失わず,その人間の身体として現実的に存在し続けます。社会というのもそれと同じなのであって,その内部で常に多くの変化が生じつつ,全体としては同一の形相でとどまるようなひとつの集団なのです。
                                        
 スピノザはこうした集団としての社会という概念を,国家という概念と区別していないのですから,スピノザにとっての国家というのは,浅野がいっているような社会と同様のものであると解さなければなりません。つまりスピノザは国家の内部では,様ざまな変化が生じるということは認めていて,それでもなお国家は同一の形相でとどまるというように解しているのです。もっといえば,そうした変化が生じなくなるとすれば,国家は同一の形相でとどまることはできないでしょう。よってそこでは,ヘーゲルや三木が国家と社会を分けるとき,社会の側から国家の問題性を照射するような道が開かれているのです。これが三木やヘーゲルにはなくスピノザにはある視点で,三木はそこを追う思考の枠組をもっていなかったのです。
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中立的な外界&国家と社会

2022-09-20 19:12:06 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中に,ロシアの現代思想家のヴァレーリィ・ポドロガによる「身体,肉体,触れること」という,ドストエフスキーの小説全般に関連する,非常に長い論考が掲載されています。おそらく多くの人にとってそうだと思いますが,この本の中で最も難解な文章になっています。僕についていえば,ポドロガのいわんとしていることの半分はおろか三分の一も理解できていないだろうと思います。その理由の一端は,ポドロガにもあります。論考の内容があちらこちらに移ってしまうことや,例証の少なさなどです。ただ,ドストエフスキーのことを深く理解していれば,そうした部分は乗り越えられるのでしょうから,僕が理解できないことの最大の理由が,僕の知識量の不足にあることは間違いありません。
                                        
 この難解な文章の中で,ポドロガは,物語の中に入ることおよび物語の中から出ていくことについて論述しています。この部分は僕にとって関心があります。ただ僕はポドロガがいわんとしていることについては理解できていないのですから,ここではポドロガの論述そのものに焦点を当てることはしません。いい換えればそれについて僕が考えていることを語っていきます。また,ポドロガはドストエフスキーの小説について何事かをいわんとしているのですが,僕はこうしたことはドストエフスキーの小説に限定して考えるべきことであるとは思いませんから,小説一般に関連するような事柄として探求していきます。
 ポドロガがいっているのは,たとえば「たそがれる」とか「夜が明ける」といわれるなら,それはそのようにいう人にとっては,自分を含めた出来事のひとつである外界の状態を確認しているのであって,それらの状態はそれ自体ではその人に対しては無関心なのでありあるいは中立であることになります。よってそれをいっている人は,そうした自分にとって無関心で中立である外界の内部に身を置いているのですが,そのようにいう限りではその外部に身を置いていることになります。なぜなら,自分にとって無関心で中立的な出来事のことを眺めてそれを言語化する,つまり言語によって表現するためには,そこからは外に出ていなければならないからです。
 これは言語学的な要素を含んでいるのですが,僕はその点は無視します。ただし哲学的には考えることにします。

 集団の成員に対してそれを遂行するように義務付ける共同の意志voluntasが,主権とか統治権imperiumといわれることになります。いい換えれば主権あるいは統治権というのは,集団が有する自然権jus naturaeのひとつということもできるでしょう。この集団はひとつの個物res singularisであって,すでに示したように,現実的に存在する個物はそれに固有の自然権を有するのであり,この場合にはその自然権が,主権とか統治権といわれることになるのです。したがって主権とか統治権といわれているような権利は,集団を構成する成員の各人に対して,その他の多数者によって決定される権利であるということができます。ただし,現実的に存在する国家Imperiumの統治権というのは,ひとりの手中にある場合には君主制といわれるのであって,この場合のその他の多数者によって決定される権利というのは,決定determinatioの過程を意味するのであって,現実的に存在する国家の主権ないしは統治権が,その国家の国民のうちにあるということを意味しているわけではありません。
 このような統治権とか主権を含むような集団が国家といわれ,その国家の成員が国民といわれることになります。ただしそれは,その権利が,共同の意志に基づいて法律lexの制定や解釈,あるいはその廃止をするような者に与えられている場合にいわれるのであって,それよりも狭い範囲でも成立します。そういう場合はそれは国家といわれずに社会societasとか共同体など,ほかの名目でいわれることになるのです。たとえば会社にも社則というものがあって,それがその会社の社員に対してその規則を守るように義務付ける共同の意志とみられる限りで,この会社はひとつの社会とみられるということです。つまりこの共同の意志に基づく自然権という観点からは,国家と国民の関係と会社と社員の関係は同じなのです。
 これでみれば分かるように,確かにスピノザは,三木がいっているように,社会という概念notioと国家という概念を厳密に区別していません。ただその相違は,その主権なり統治権が適用される範囲の大きさから区別されているだけであって,それが共同の意志に基づく自然権を規定しまた自然権に規定されるという点では変わるところがないからです。
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共同通信社杯&共同の権利

2022-09-19 19:13:23 | 競輪
 名古屋競輪場で開催された第38回共同通信社杯の決勝。並びは平原‐武藤‐神山の関東,郡司‐和田‐内藤の神奈川,松浦‐柏野の山陽で佐藤は単騎。
 平原と松浦と武藤の3人がスタートを取りにいきました。平原が誘導の後ろに入って前受け。4番手に松浦,6番手に佐藤,7番手に郡司で周回。残り2周のホームの出口から郡司が上昇。バックで平原を叩いて打鐘。4番手に平原,7番手に松浦,最後尾に佐藤の一列棒状に。ホームに戻って松浦が巻き返しにいきました。徐々に上がっていき,バックでは和田の直後に。これを和田が牽制。この牽制が最終コーナーまで続いたので内が開き,和田マークの内藤と松浦マークの柏野がそちらに進路を取り,内から内藤,柏野,和田,松浦の4人が併走。挟まれた和田がバランスを崩して落車。後ろにいた平原と佐藤も乗り上げて落車。後続がもつれる形になり,郡司が悠々と逃げ切って優勝。内藤が1車身半差の2着で神奈川のワンツー。落車を避けて外を回った武藤が4分の3車身差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は4月の川崎記念以来の優勝。ビッグは昨年2月の全日本選抜競輪以来の5勝目。共同通信社杯は2019年以来の2勝目。このレースはおそらく郡司が先行するので,番手の和田に大きなチャンスがあるのではないかと予想していました。郡司は後方に構えて残り2周を過ぎてから動きましたので,最初から先行するつもりだったのでしょう。松浦の巻き返しに対して和田が番手から合わせて出るのではなく,執拗に牽制するような走りになったので,結果的に落車のアクシデントが発生するなど,郡司の後ろはもつれました。和田が勝つのならそれでよいという意図の先行だったと思いますが,そのつもりで外連味なく先行したので優勝も手に入ったというところだと思います。

 人間がひとりでいるときには自然権jus naturaeはほとんどないとすれば,人間に自然権があるといえる状態がどのような状態であるのかということも明白です。いうまでもなく,人間に,あるいはこの場合には人類にといった方がよいかもしれませんが,人間あるいは人類に固有の自然権というのは,人間が共同の権利を有し,そのことによって自己を防衛しまた暴力を排除する限りで,いい換えればすべての人びとの共同の意志voluntasに従って生活する場合においてのみ,あることも考えるconcipereこともできるような権利です。多くの人びとが一致して力potentiaを合わせるような仕方で一体的に結合することによって,すなわち第二部定義七でいわれている意味でひとつの個物res singularisとして結合することによって,ますます多くの自然権をすべての人びとが共同で有するようになるのです。
                                   
 ただしこの自然権は,人びとが共同で有する権利なので,次のことも同時に帰結します。
 スピノザの哲学では,第二部定理七系によって,自然Naturaのうちにある個物が存在するなら,その個物の観念ideaも存在することになります。このときその個物と個物の観念が同一個体といわれ,それが同一個体という観点からみられる限りで,この観念がその個物の精神mensといわれることになります。よって,多くの人びとが一致して力を合わせる形で一体的に結合するなら,その集団はひとつの個物ということになるので,この個物にも精神があるといわなければなりません。つまりこの集団は,ひとつの精神によって導かれることになります。このとき,その集団の各人というのは,その他の人びとが強力であるほど,個人としては少なく権利を有することになるでしょう。ただしこれら各人は集団の成員なのですから,実際に有している権利は,共同の権利がその成員に認めている権利だけであって,それ以外の権利を成員はもたないということになります。というよりも,集団の精神が肯定するaffirmare意志が成員に対して命じることについてはそれを遂行するように義務付けられることになるでしょう。あるいは,この義務は,成員の立場からみた場合には,その義務を遂行するということがひとつの自然権として発生すると解さなければなりません。
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ヒューリック杯白玲戦&概念としての権利

2022-09-18 19:15:30 | 将棋
 札幌で指された昨日の第2期白玲戦七番勝負第四局。
 西山朋佳白玲の先手で三間飛車。後手の里見香奈女流五冠の方から角を交換して相向飛車になりました。先手の攻めが続くか否かが焦点に。
                                        
 第1図で先手は☗5四歩と打ちました。現状は最後の持ち歩なので思い切った一手という感じで,たぶん正しく受けることができれば後手が優勢という局面だったのではないかと思います。
 後手は☖6二玉と上がって受けたのですが,これは結果的に☗5四歩の勝負手を生かす手になってしまいました。
 先手は☗3四歩と突きました。これに☖同銀は仕方がありません。そこで☗1六香☖1五歩と歩を入手して☗6六飛。後手はここで☖7四歩と打ちましたが☗同角と角の方で取って攻めが繋がることになりました。
                                        
 実戦は☖7四歩が効果的な受けになりませんでした。☖6二玉と上がったところで先に☖7四歩と打っておくべきだったようです。
 西山白玲が勝って2勝2敗。第五局は来月1日に指される予定です。

 もしもスピノザがいうように,権利jusを力potentiaと等置するのであれば,人間が自然Naturaのうちにひとりでいるならば,その人間には自然権jus naturaeはないといっても構いません。全自然の力というのは,ひとりの人間の力に対しては圧倒的であるからです。あるいはひとりの人間の側からみるならば,ひとりの人間のコナトゥスconatusが全自然の力に対してなし得ることはたかが知れているからです。単純にいえば,全自然の力に抗ってひとりの人間が自己の有esseに固執するperseverareことなどはほとんど不可能なことであるといって差し支えありません。よってこの人間には自然権はない,まったくないとはいえなくともほとんどないのであって,この人間が自己の有に固執する力は,全自然の力の下にあるということになるでしょう。いい換えればこの人間の自然権は,全自然の下にあるのであって,この人間の下にはないということになり,よって人間が自然のうちにひとりでいるなら,その人間は自然権を有していない,少なくとも有していないに等しいということになるのです。
 しかしもしも自然権をそのような力,しかも可能的な力としてでなく現実的な力としてのみに解するのではなく,何らかの概念notioとして,それは倫理的な意味であっても法的な意味でも同じですが,そうした概念として理解するのであれば,たとえ人間がひとりで全自然のうちにあるときでも,そのような概念としての自然権は有しているのであって,単にそれを行使することができないだけであるというように解しておくのが安全です。僕は自然権というのを哲学的な概念として解しますが,一般的には自然権は法的な権利として解されるでしょうから,一般的にはスピノザがいっていることは,そうした人間には権利がないということではなく,権利を行使することが不可能になっているとか,権利を行使することがきわめて困難になっているという意味であると解する方が適切です。僕はあくまでも自然権を哲学的な概念として解しますから,ここではスピノザがいうように,そうした自然権がひとりの人間にはないといいますが,それはたとえば法的概念として自然権が認められないという意味ではない点には注意しておいてください。
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善と悪&力と権利

2022-09-17 19:17:15 | 哲学
 第四部序言の中で,完全性perfectioを実在性realitasと等置することの根拠を述べた後,スピノザは善悪についても語っています。『人間における自由Man for Himself』の中で,フロムErich Seligmann Frommはその部分も援用しています。今回は先にスピノザが序言の中で何を言っているのかということを検証し,フロムの援用が適切であるか否かは後で考察するという順にします。
                                   
 スピノザがまずいっているのは,完全性が複数のものの比較から知性intellectusのうちに生じる場合は,完全であるとか不完全であるといわれる事物の本性essentiaではなく思惟の様態cogitandi modiであるのと同じように,あるものが善bonumといわれまた悪malumといわれるのは,そのようにいわれる事物の積極的なものを表示しているわけではなく,思惟の様態であるということです。つまり知性が複数のものを比較することによって知性のうちに生じる概念notioであるということです。
 このことは,善と悪とは対立する概念であるということに留意するなら,きわめて当然のことといえるでしょう。仮にある知性がひとつのものだけを認識するcognoscereのであれば,そのものを善であると認識したり悪であると認識したりすることは不可能なのであって,複数のものが比較されることによって,一方が善で他方が悪であるというように認識されるのだからです。そしてこれは,『エチカ』における善と悪のそれぞれの定義Definitio,すなわち第四部定義一第四部定義二に合致しています。それらの定義では善も悪も,我々が確知するものquominus boni alicujus simus compotesといわれていますが,確知するとはまさに知性が事物を認識するあり方の一種なのですから,各々の定義は善も悪も思惟の様態であるということを明らかに示しているからです。
 このことから分かるように,善悪は普遍的な概念ではありません。あるものが,Aという人間には善とみなされるけれどもBという人間には悪とみなされ,それとは別のCという人間はそれを善であるとも悪であるともみなさない,つまり善悪という観点からは中間物であるというようにみなされることもあるのです。それがすべての事物に妥当するので,普遍的に善であるものや普遍的に悪であることというのは何もありません。

 スピノザは権利jusを力potentiaと等置します。存在し得ることは力であり,存在し得ないことは無力impotentiaなので,現実的に存在するすべての個物res singularisには自然権jus naturaeがあることになるのです。また,現実的に存在するすべての個物は,なし得るすべてのことを最高の自然権の下になすといわれることになるのです。当然ながら自然権は権利のひとつですから,スピノザが自然権というときは,ひとつの力として解さなければなりません。そして自然権に限らず,あらゆる権利について,それを力と解さなければなりません。
 このときに気を付けなければならないのは,スピノザは力というのを,可能的なものであるとは解さず,現実的なものと解しているという点です。他面からいえば,スピノザは力というのを現実的なものとしてのみ規定しているのであって,可能的なものとしての力があるということは認めていないのです。たとえばある人間が現実的に存在しているとして,その人間が受動感情に隷属した状態にあると仮定します。このときにスピノザは,この人間に理性ratioによって事物を認識するcognoscere力があるということを認めません。理性によって思惟している状態にある人間が受動感情に隷属しているということはあり得ないからです。もちろんこの同じ人間は,別のときには理性によって事物を認識することがあり得ます。そしてそのときにはスピノザも,この人間には理性によって事物を認識する力があるといいます。つまり現実的に理性によって事物を認識しているときにはその人間には理性によって事物を認識する力があるといわれるのですが,そうでないときには,たとえその人間が別のときには理性によって事物を認識することがあるのだとしても,理性によって事物を認識する力があるとはスピノザは認めないのです。これがスピノザは力を現実的なものとしてのみ認め,可能的なものとしては認めないということの具体的な意味です。
 この力が権利と等置されるのですから,スピノザは権利についても,現実的なものとしてのみ認めていて,可能的なものとしては認めていないと解さなければなりません。つまり受動感情に隷属している人間は,理性で事物を認識する権利がないのです。
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サンケイスポーツ盃戸塚記念&協力と対立

2022-09-16 19:14:01 | 地方競馬
 昨晩の第51回戸塚記念
 グッドボーイの枠入りに時間を要しました。マイブレイブは発馬が悪く1馬身の不利。発馬後は外の馬たちに前に出られていましたが,向正面のうちに内から前に出たショットメーカーの逃げ。アイウォール,ロマンスグレー,デルマアズラエルの順でこの4頭は一団。2馬身差の5番手にライアン。6番手にスピーディキック。7番手にコスモポポラリタ。8番手にグッドボーイ。9番手はマイブレイブとカイル。11番手にティーズハクア。12番手にファルコンソード。13番手がマーシテイクオンで最後尾にフレッシュグリーンという隊列。1周目の正面に入って馬群が凝縮しました。ハイペース。
 3コーナーから逃げたショットメーカーが後ろを引き離しにかかると,外からスピーディキックが上昇。2番手に上がると外からショットメーカーに並び掛けていきました。前にいた馬のうちデルマアズラエルだけが粘って3番手。マイブレイブが外から4番手に上がってきました。直線に入るとショットメーカーとスピーディキックの争いになりましたが,外のスピーディキックが楽々と差し切り,そのまま抜け出して優勝。ショットメーカーが逃げ粘って3馬身差の2着。デルマアズラエルも1馬身半差の3着に残りました。
 優勝したスピーディキック東京プリンセス賞以来の勝利で南関東重賞4勝目。南関東転入後は牝馬クラシック路線を走っていた関係で,牡馬とは初対戦。牝馬の中には牡馬と対戦するともっている力を十分に発揮できないというタイプがいます。この馬も転入前のJBC2歳優駿は負けていましたので,少しばかり不安はありましたが,現在は問題ないようです。逃げ馬が残るようなレースになったことはプラスに働いたと思いますが,この着差ですから,能力は圧倒的に上だったとみてよいでしょう。重賞制覇が見込める馬だと思います。父はタイセイレジェンド。母の父は2003年にシンザン記念と武蔵野ステークス,2007年に佐賀記念を勝ったサイレントディール
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手はマイルグランプリ以来の南関東重賞19勝目。第45回,48回以来となる3年ぶりの戸塚記念3勝目。管理している浦和の藤原智行調教師は南関東重賞4勝目。戸塚記念は初勝利。

 もしふたりの人間が一致してpotentiaを合わせるのであれば,このふたりの双方が,ひとりである場合より多くのことを自然Naturaに対してなし得るでしょう。すなわちこのふたりは,ひとりである場合よりも多くの権利jusを自然に対してもつことになるでしょう。つまり,ひとりでいる場合よりも自然権jus naturaeが拡充することになります。このようにしてより多くの人びとがこのような仕方で親密な関係を結ぶにしたがって,ますます多くの権利をそれぞれの人びとがもつようになるでしょう。つまり,より多くの人間が力を合わせることによって,それぞれの自然権がその分だけ拡充していくことになるのです。
                                        
 ただし,多くの人間が協力するということは,無条件に前提することができるわけではありません。前にもいいましたが,人間は他人に対して怒るとかねたむとかすることはありますし,また他人を欺くこともあれば他人を憎むということもあります。そうなれば人間と人間とが協力するということは不可能になるでしょう。むしろ第四部定理三四によって,対立し合うことになるでしょう。しかも第四部定理四系によって,現実的に存在する人間というのは,程度の差こそあれ,常に受動passioに隷属しているのですから,現実的に存在する人間というのは,本性上は協力するよりも対立する方に傾いていることになるのです。よってこの観点からいうならば,人間というのはほかの個物res singularisよりも多くのことをなし得るのですから,対立し合う限りにおいては最も脅威的な存在者であるということになります。いい換えれば現実的に存在する各々の人間は,本性上は敵であるといわなければなりません。
 現実的に存在する人間の本性natura humanaがこのようなものであるとしたら,人間の自然権というのは,個人のものでありかつ個人の力の下にある限りでは無に等しいとスピノザはいいます。この点については僕から補足しておきたいことがあります。
 ここでスピノザが自然権が無に等しいというとき,それは文字通りに各人の自然権はないに等しいというよりは,自然に対して何らかの権利を有していると仮定したら,その権利を行使することがほとんどできないという意味に解釈しておく方が安全です。
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