スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

続・谷津の雑感①&補助定理の援用

2023-03-31 19:29:49 | NOAH
 カーンの雑感⑫の中で,厚生年金に関する谷津嘉章の証言を紹介しました。これは谷津の雑感の中には含まれていません。ほかにもそこに含まれていな雑感がまだありますので,改めて紹介していきます。
 谷津は新日本プロレスに入団した後,1980年10月30日の熊本県内の大会でリング上で観客に向けて挨拶をしました。このとき新日本プロレスは九州地方をサーキット中で,谷津も数日間はその巡業に同行したのですがすぐに帰京。その1週間後には渡米しました。この当時の新日本プロレスはWWFと業務提携していましたから,レスラーであり役員でもあった選手の家に居候をしながらプロレスラーとしての練習を始めました。この選手は元美容師のイタリア人のボーイフレンドと同居していたので,気まずい思いはあったようですが,親切にしてくれたようです。新日本プロレスのデビュー前のレスラーはカール・ゴッチの下に送られることが多かったので,谷津はそれとは違っていました。
 キラー・カーンはこの頃にWWFの本拠であったニューヨークに来たばかりで,このタイミングで居候先のレスラーから同じ日本人であるカーンを谷津は紹介されました。ところがふたりはこれが初対面ではありませんでした。まだ谷津がアマチュアレスリングをしていた頃,メキシコで開催された世界選手権があり,この大会をカーンとカール・ゴッチが観戦に来ていたので,そのときに会っていました。このニューヨークでの対面はそれ以来のことでした。
 カーンはすぐにWWFでの仕事が決まったのでニューヨークに住むようになり,谷津はそちらに移ってカーンと同居するようになりました。このときカーンはすでに結婚していて,ふたりの子どもがいましたので,谷津を含めて5人での同居になりました。これが1980年11月後半のこと。カーンと谷津の同居は,谷津がカーンの家に居候をしたということではなく,家賃等すべてが折半でした。ですからこれはシェアハウスの一種になります。一方が家族4人でもう一方は谷津ひとりですから,やや不平等なシェアハウスだったといえそうです。

 第二部定理三八および第二部定理三八系を合わせて考えたときには,そこに何らかの秩序が含まれていると考えなければなりません。ただそれを共通概念notiones communesの適用の秩序というべきであるかは僕には分かりません。ドゥルーズGille Deleuzeは第二部定理三九についてはそれを共通概念の形成の秩序といういい方で示していますが,それを形成の秩序というのであれば,ここにも形成の秩序が含まれているといえなくもないと僕には思えます。しかし第二部定理三八系と第二部定理三九の間にはある断絶があるとみることもできなくはありませんので,僕はここに含まれている秩序もまた共通概念の形成の秩序であるとはいいません。
                                   
 スピノザは第二部定理三八系においても,第二部自然学①補助定理二を援用しています。これは第二部定理三七と同様です。しかし僕の考えでは,この補助定理Lemmaは第二部定理三七には有効ですが,第二部定理三八系にはそこまで効果的ではありません。なぜなら,この補助定理から,すべての物体corpusに共通することがあるということは明らかですが,だからといってそのことの観念ideaが現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに客観的有esse objectivumとしてあるということは別のことでなければならないからです。現実的に存在する人間の精神のうちにそのことの観念が共通概念として発生するのは,あくまでもその人間が共通することを含んでいる物体,この場合はすべての物体に共通して含まれているということになっていますから,外部の物体であれば何でもよいことになりますが,その物体と関係を有するからです。これは第二部定理三八が,この共通概念は人間の精神が自分の精神を知覚するpercipere限りでも自分の身体corpusを知覚する限りでも外部の物体を知覚する限りでも十全adaequatumであるといっていることから明白です。人間がここに示したような事物を認識するcognoscereのは,人間が外部の物体に刺激されるafficiことによってそれらを知覚する,あるいは同じことですが表象するimaginariからなのであって,そしてこの様式以外の方法では自分の精神も自分の身体も外部の物体も人間の精神によっては認識されないことになっているからです。ですから第二部自然学①補助定理二は,この点では無効とさえいえるのです。
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京急電鉄賞京浜盃&第二部定理三八の位置づけ

2023-03-30 19:19:19 | 地方競馬
 昨晩の第46回京浜盃
 トノパーが前に出ましたが外からサグアロが追い掛けていって先行争いに。向正面に入るところではサグアロが前に出て逃げる形に。リードは2馬身。2番手に控えたトノパー。4馬身差でストライクとポリゴンウェイヴ。5番手にメーサンデュラントとトワシュトラール。2馬身差でオピニオンリーダーとサムタイムアゴー。9番手にタイガーチャージとリベイクフルシティ。11番手にグロリオサとサベージとルクバー。最後尾にシャープムスタング。2コーナーから3コーナーにかけては馬群が凝縮していく形になりました。ミドルペース。
 3コーナーを回るとサグアロにトノパーが並び掛けていき,さらにポリゴンウェイヴとトワシュトラール。後方から動いたサベージも大外から捲り上げてきて5頭が集団に。直線に入ると2番手だったトノパーが先頭に立ち,それを大外のサベージが追って2頭の優勝争い。差し切ったサベージが優勝。トノパーが4分の3馬身差で2着。直線で外から2頭目の位置から追い込んだオピニオンリーダーが3馬身差で3着。
 優勝したサベージはこれが3勝目で南関東重賞は初制覇。やや折り合いに難しいところがあり,前々走は向正面で行きたがってしまい2着。前走は勝敗度外視で最後尾から進めてよく追い込んでの4着。このレースは脚の使い処がレースにマッチしての優勝。こういうタイプの馬ですから,能力の上限は高いにしても,全幅の信頼を置くのは危険であるように思います。父はディープスカイ。母の父はアドマイヤムーン。母の6つ上の半兄に2007年の京成杯を勝ったサンツェッペリン。Savageは野蛮。
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は2019年の東京湾カップ以来の南関東重賞34勝目。第36回以来となる10年ぶりの京浜盃2勝目。管理している大井の森下淳平調教師は南関東重賞16勝目。第37回以来となる9年ぶりの京浜盃2勝目。

 先述したように,ドゥルーズGille Deleuzeの共通概念notiones communesの理論によれば,第二部定理三八が共通概念の適用の秩序で第二部定理三九が共通概念の形成の秩序を意味します。福居はこれに従ってドゥルーズの共通概念の理論を批判しています。僕がこれらの定理Propositioをどのように位置づけているのかということから説明していきます。
                                   
 第二部定理三八が共通概念の適用の秩序を意味するということについては,僕は肯定しませんが否定もしません。僕はこの定理はそれ単独でみたらとくに深い意味があるものではないと考えています。これは読者にとってというより,スピノザにとってさほど重要ではなかったと考えているということです。僕の考えではこの定理は第二部定理三七を受けたものです。そこではすべてのものに共通で,部分の中にも全体の中にもあるものは個物res singularisの本性essentiaを構成することはないといわれています。第二部自然学①補助定理二により,そうしたものが現にあることは前提されていますので,このことは実在的な意味をもっています。
 第二部定理三八がいっているのは,第二部定理三七でいわれている,個物の本性を構成することはないといわれているそのものが,知性intellectusのうちに客観的有esse objectivumとして発生する場合には,十全な観念idea adaequataとして発生するといっているのです。このことは論理的にそうなるといわれているのであって,それ以上の意味があるわけではありません。ですからこの定理のうちには何らかの秩序というべきものが含まれているわけではありません。これが共通概念の理論であるということまでは否定できるものではありませんが,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,個物の本性を構成しないようなあるものについて,その観念を形成することの秩序を示そうとする意図がスピノザにあったというようには僕には思えないのです。
 ただ,このことの帰結として生じること,すなわち第二部定理三八系でいわれている,現実的に存在するすべての人間の精神のうちに共通概念があるということは,スピノザにとってとても重要なことであったと思います。したがって第二部定理三八をそれ単独でみずに,この系Corollariumまで含めて解するなら,そこには秩序が含まれています。
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瀬戸の王子杯争奪戦&福居の射程

2023-03-29 19:30:09 | 競輪
 玉野記念の決勝。並びは森田‐坂井‐吉沢の関東,渡辺‐小原の南関東,太田‐松浦‐荒井の西国で佐藤は単騎。
 太田が前受け。4番手に佐藤,5番手に森田,8番手に渡辺で周回。残り3周のバックの出口から渡辺が上昇の構えをみせると,誘導との車間を開けていた太田がホームでスピードアップ。渡辺はまた8番手まで引きました。バックに入って森田が発進。それに太田が応戦して打鐘から先行争い。ホームで太田が制しました。森田は外から松浦の位置を取りにいきましたがここは松浦が番手を守りました。隊列は乱れて坂井の後ろが吉沢,荒井,佐藤,渡辺,小原に。ホームから渡辺が発進。バックで小原と共に太田を捲り切りました。松浦が小原の後ろにスイッチ。直線は捲った渡辺の番手から踏み込んだ小原が差して優勝。小原を追った松浦が4分の3車輪差で2着。直線の入口では松浦の後ろに取り付いた佐藤が8分の1車輪差で3着。捲った渡辺が半車輪差で4着。
 優勝した神奈川の小原太樹選手は先月の豊橋のFⅠ以来の優勝。2018年の川崎記念以来の記念競輪2勝目。このレースは松浦と坂井が脚力では上位。共に番手戦となりましたので,前の選手がどこまで頑張るのかが最大の焦点。太田の先行になりましたが,残り2周のホームからある程度は踏んだ上で,さらにその後で激しい先行争いとなったため,後方に構えた渡辺の捲りがものの見事に決まることになりました。渡辺が後方を周回した上で早めに上昇の構えをみせたのがうまかったということでしょう。渡辺も脚力で著しく劣るわけではありませんから,先行争いの激化があればこういう結果も考えられるところでした。もしかしたら太田は前受けはしない方がよかったのかもしれませんし,逆に叩けなかった森田は前で受けた方がよかったのかもしれないということになるでしょう。

 田島は明らかに,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにある混乱した観念idea inadaequataが十全な観念idea adaequataになると主張しています。少なくとも僕はそう解します。それと比較していえば,ドゥルーズGille Deleuzeはそのように明言しているというわけではありません。ただ,ドゥルーズの共通概念notiones communesの理論からは,結果的にそのようになるというように解さなければならないであろうと僕は思います。他面からいえば,ドゥルーズの共通概念の理論を精査すると,ドゥルーズは現実的に存在している人間の精神のうちにある混乱した観念が十全な観念になると主張していると僕には思えるのです。以前に『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』が未完のままに終わったことに関連するドゥルーズの見解を説明したことがありますが,それは『知性改善論』の段階では共通概念のインスピレーションをスピノザはもっていなかったのに対し,後にそれを思いついたので『エチカ』の執筆にとりかかったというものでした。これは,スピノザが結論について何の目途も立っていないのに『知性改善論』を書き始めたということになるので,僕は同意できませんが,ドゥルーズがそのように考えているということから,共通概念の理論がこのことと関連しているということは理解できるだろうと思います。
                                        
 福居は現実的に存在する人間の精神のうちにある混乱した観念が十全な観念になるということについては否定的です。そしてドゥルーズのその主張が,共通概念の理論と関係しています。というかドゥルーズの共通概念の理論からそのことが導かれているのです。このために福居はドゥルーズの共通概念の理論を否定しているのです。つまり福居がドゥルーズの共通概念の理論を批判するとき,その射程にあるのは,共通概念の理論そのものにあるというよりも,十全な観念と混乱した観念の関係にあるのです。
 僕は十全な観念と混乱した観念の関係については田島やドゥルーズよりも福居の見解opinioに同意します。なぜ僕がそう考えるのかということについてはすでに説明しましたからこれ以上は繰り返しません。しかしだからといってドゥルーズの共通概念の理論のすべてを否定する必要はないと考えます。なぜ僕がそう考えるのかは説明します。
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役割分担&発生の必然性

2023-03-28 19:21:54 | 歌・小説
 小説の中に作品内作者を設定すると,実際に小説を書いている作者と作品内作者の作意が異なってしまうということがあり得ます。『虐げられた人びと』にせよ『悪霊』にせよ,ドストエフスキーの作品ではこれがあまりうまくいっていません。作品に入ることと出ることというのは,このような観点からも考えることができるのでした。
                                        
 夏目漱石の作品にも作品内作者が設定されているものがあります。『こころ』は私が作品内作者です。下は大部分が私が受け取った手紙である先生の遺書によって構成されていますから,作品内作者は私であるとはいえないかもしれません。ただ遺書をひとつの作品としてみれば,先生が作品内作者になっています。そして上と中は明らかに私が作品内作者です。
 『こころ』にはドストエフスキー作品のような明らかな失敗というのはみられません。むしろうまくいっています。作品内作者は作品内作者が理解したことだけを記述していて,しかし読者にはそれ以上のことも理解できるように書かれています。たとえば下でKが先生を尾行していたというようなことは,先生には分からなくても読者には分かるようになっているというのが一例です。これはつまり,実際に作品を書いている漱石と,作品内作者である私や先生との役割分担がしっかりとできているからだといえるでしょう。もちろん『こころ』にも破綻している部分はあるのですが,これは作品内作者が設定されているのとは無関係な部分です。
 『こころ』は新聞小説で,最初の部分が読者に読まれたときには,小説の全体が完成していたわけではありません。この事情を考慮すれば,作品内作者を設定したことによる失敗がみられないだけでなく,漱石自身と私および先生との役割分担ができていて,読者には作品内作者が理解したこと以上のことが理解できるようになっているのは驚異的とも思えます。『こころ』を書いているときに漱石の作家としての技量はそれほど高いものだったといえるでしょう。

 スピノザの哲学では十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,何度もいっているように,前者が真理veritasで後者が虚偽falsitasであるということと同時に,前者が有esseで後者は無であるということも意味します。したがってある混乱した観念が十全な観念になるということは,虚偽が真理になるといっているのと同じでありまた無が有になるといっているのと同じです。これは不条理です。だから僕は混乱した観念が十全な観念になるということを否定します。なので観念を,同一の人間の精神mens humanaのうちにあるパズルのピースとして喩えることは,僕はできないと考えています。
 現実的にAという人間が存在していて,このAの精神のうちにXの観念があると仮定します。このとき,Xの観念が十全な観念である場合は,Aの精神の本性naturaを構成する限りで神DeusのうちにXの十全な観念があると説明されます。一方,Xの観念が混乱した観念である場合は,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があると説明されます。僕は第四部定理一から,これらふたつの観念がAの精神のうちに同時に存在する,厳密にいうと,混乱した観念は無なので.それについてあるといういい方をするのはおかしいのですが,そこのところは無視して,同時にあるということは認めます。そしてこのことは第二部定理三六と両立します。Aの精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念と,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念は,異なった必然性necessitasで生じると考えられるからです。いい換えればAの精神のうちにあるXの十全な観念とXの混乱した観念は,同一の必然性によって生じるのではなく,異なった必然性によって生じなければなりません。このことからも,Aの精神のうちにあるXの混乱した観念がXの十全な観念になるということは不条理であると僕は考えるのです。
 福居も僕と同様に,このような意味で混乱した観念が十全な観念になるということについて否定的な考えを有しています。しかしドゥルーズGille Deleuzeは,僕や福居よりも田島に近い見解opinioを有しているとみられます。福居はそれを批判するのです。
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高松宮記念&田島の比喩

2023-03-27 19:12:42 | 中央競馬
 昨日の第53回高松宮記念
 少しばかりの先行争いからキルロードが抜け出しての逃げ。2番手にウォーターナビレラとダディーズビビッドとオパールシャルム。5番手にメイケイエールとアグリ。7番手にトゥラヴェスーラとロータスランドとファストフォースとウインマーベル。11番手にヴェントヴォーチェとナムラクレアとピクシーナイト。14番手にナランフレグとトウシンマカオとディヴィナシオン。17番手にボンボヤージで最後尾にグレナディアガーズという隊列。前半の600mは35秒6のミドルペース。
 早めに外から捲るようなレースになったアグリが直線の入口では先頭に。そのすぐ内から追ってきたのがファストフォースで外から追ってきたのがナムラクレア。先に追ってきたファストフォースがアグリを差して先頭に立つと外からムラクレアもアグリの前には出ましたが,ファストフォースには届かず,優勝はファストフォース。ナムラクレアが1馬身差で2着。内を回って直線も内から伸びてきたトゥラヴェスーラが半馬身差で3着。
 優勝したファストフォースは一昨年のCBC賞以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。CBC賞を勝ったときはレコードタイムでしたが,軽い斤量を利した上で,絶好の馬場状態を生かしての逃げ切りでしたので,大きく評価できるものではありませんでした。その後は重賞で2着が2回,3着が1回あったものの二桁着順も目立っていて,ここでは伏兵。2回の2着が共に中京競馬場でのレースでしたから,コース適性は高かったのでしょう。馬場状態も味方したのかもしれませんが,この馬の優勝は僕には驚きの結果でした。父は第43回を制したロードカナロアで父仔制覇。母の父はサクラバクシンオー。6代母がコランディアで5つ上の半兄に2016年の新潟記念を勝ったアデイインザライフ
 騎乗した団野大成騎手はデビューから4年で大レース初制覇。管理している西村真幸調教師は開業から8年で大レース初制覇。

 『スピノザという暗号』の中で,田島正樹は観念ideaをパズルのピースに喩えています。パズルのピースはそれひとつだけでは何であるのか不明です。しかしパズル全体の中でひとつのピースとして嵌ると,そのピースが意味していることも判明します。田島はこれを十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの比喩に用いています。つまり,ある観念はそれ単独では観念対象ideatumと一致しない混乱した観念であるけれども,その他の観念と結合してひとつの全体を構成すると,観念対象と一致する十全な観念なのです。いい換えれば,十全な観念というのが完成したパズルのひとつのピースであるとすれば,混乱した観念というのはバラバラに放置されている状態におけるパズルのピースなのです。
                                        
 僕はこの比喩は,人間の精神mens humanaのうちにXの混乱した観念があって,第二部定理七系の意味によりその観念がDeusのうちにあるとみられる限りではXの十全な観念であるということの比喩としては,一定の理があると考えます。第二部定理三六はこの場合のXの観念について,まさにこの比喩でいわれようとしていることが示されているとみることができるからです。Xの観念は,神がある人間の精神の本性essentiaを構成する限りでは混乱した観念であったとしても,神がその人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでは十全な観念であるのであって,これはその人間の精神のうちではバラバラに放置された状態のピースが,神のうちでパズルとして完成しているとみることができるからです。
 しかし基本的に僕はこの比喩に対して否定的です。この比喩はある人間の精神のうちにある観念についての比喩であるからです。すると同じ人間の精神のうちで,バラバラな状態になっていたピースが,完成したパズルの中のピースとなるということを意味します。これは人間の精神のうちにある混乱した観念が,十全な観念になるという意味の比喩になります。第四部定理一により,同じ人間の精神のうちに,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同時にあるということは僕は肯定します。しかしそれは,混乱した観念が十全な観念になることを意味しません。パズルの同じピースではないのです。
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ドバイワールドカップデー&適用と形成

2023-03-26 19:30:09 | 海外競馬
 日本時間で昨晩から今日の未明にかけてUAEのメイダン競馬場で開催されたドバイワールドカップデーに27頭の日本馬が遠征し,26頭が出走しました。頭数が多いですから各馬のレースぶりは省いて結果だけを示します。
                                        
 ゴドルフィンマイルGⅡダート1600m。Isolateが逃げて,直線の入口ではバスラットレオンとウインカーネリアンが2番手で並んで追う形。しかしそこからIsolateが引き離していき鋭く逃げ切って優勝。ウインカーネリアンは競り落としたものの後続に差されたバスラットレオンが4着。ウインカーネリアンは6着。ラウダシオンは11着。
 UAEダービーGⅡダート1900m。デルマソトガケが逃げてドゥラエレーデが2番手。この2頭が並んで直線に。逃げたデルマソトガケが再び突き放すとそのまま鮮やかに逃げ切って優勝。デルマソトガケには離されましたが3番手以下との差は広げたドゥラエレーデが2着。コンティノアールが3着でペリエールが4着。ゴライコウは12着。
 優勝したデルマソトガケ全日本2歳優駿以来の勝利で重賞2勝目。母の父はネオユニヴァース。母は2013年に関東オークスを勝ったアムールポエジー。日本馬による海外重賞制覇はサウジカップ以来。ドバイでは昨年のドバイシーマクラシック以来。UAEダービーは昨年からの連覇で3勝目。騎乗したクリストフ・ルメール騎手は昨年のドバイゴールドカップ以来の日本馬に騎乗しての海外重賞9勝目。管理している音無秀孝調教師はパートⅠの海外重賞は初勝利。
 ドバイゴールデンシャヒーンGⅠダート1200m。このレースはSound MoneyとHopkinsとGuniteの3頭が並んで直線に。この競り合いから抜け出したGuniteを外からSibeliusが差し切って優勝。リメイクが5着でレッドルゼルが6着。レモンポップは10着でジャスティンは12着。
 ドバイターフGⅠ芝1800m。このレースは積極的に逃げようという馬がなくEl Dramaがゆっくりと逃げる競馬。残り200mからは先行していたNations PrideとLord Northの競り合いになり,競り勝ったLord Northの優勝。後方2番手から追い込んだダノンベルーガが2着。セリフォスが5着でヴァンドギャルドは14着。ドウデュースが出走取消となっています。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2410m。このレースも積極的に逃げようという馬がなく,イクイノックスが逃げることに。直線で一旦は引き付けた後で追い出されると独走となり,フィニッシュ前に流してレコードタイムで快勝。シャフリヤールは5着。ウインマリリンは6着。
 優勝したイクイノックスはここが有馬記念以来のレース。3連勝で大レース3勝目。父はキタサンブラック。母の父はキングヘイロー。4代母がブランシュレイン。ひとつ上の半兄が2018年にラジオNIKKEI賞を勝ったヴァイスメテオール。Equinoxは春分と秋分。日本馬によるドバイシーマクラシック制覇は昨年に続いての5回目。騎乗したクリストフ・ルメール騎手は有馬記念以来の大レース制覇。UAEダービーに続く日本馬に騎乗しての海外重賞10勝目。管理している木村哲也調教師は有馬記念以来の大レース5勝目。昨年のネオムターフカップ以来の海外重賞2勝目。
 ドバイワールドカップGⅠダート2000m。パンサラッサが内のRemorseと並んで逃げる競馬。1000mが1分を切るハイペースになりました。残り300m付近からBendoogとAlgiersの競り合いになり抜け出したAlgiersを,最後尾から直線の入口までにやや漸進していたウシュバテソーロが差し切って優勝。テーオーケインズが4着。クラウンプライドが5着。パンサラッサが10着。ジオグリフが11着。カフェファラオが12着。ヴェラアズールが13着。ジュンライトボルトが15着。
 優勝したウシュバテソーロはここが川崎記念以来のレース。3連勝で大レース3勝目。父はオルフェーヴル。母の父はキングカメハメハ。母の7つ上の半兄に2003年の東京新聞杯を勝ったボールドブライアン。Ushbaはジョージアにある山の名前。日本馬は2011年以来のドバイワールドカップ2勝目。騎乗した川田将雅騎手は阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース36勝目。一昨年の香港カップ以来の海外重賞3勝目。管理している高木登調教師は川崎記念以来の大レース10勝目。海外重賞初制覇。

 『スピノザ「共通概念」試論』における福居の見解opinioでは,第二部定理三八共通概念notiones communesの一般的な相であるとすれば,第二部定理三九はその具体的な相です。したがって,現実的に存在する個物res singularisの関係の一般性のレベルに差があろうとなかろうと,この関係を通して現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに形成される共通概念は常に同一のレベルに留まることになるのです。
 この説明は分かりにくいかもしれませんが,福居はドゥルーズGille Deleuzeの解釈を批判するためにこのようないい方をしているのです。ドゥルーズによれば,第二部定理三八は共通概念が現実的に存在する人間の精神のうちに形成されるときの,形成される秩序を意味するのではなくて,共通概念の適用の秩序を意味します。これに対して,第二部定理三九がその形成の秩序を示します。前もっていっておけば,第二部定理三八が共通概念の適用の秩序であるのかどうかはともかく,第二部定理三九が共通概念の形成の秩序を示しているという点については,僕はドゥルーズの見解を支持します。このために,僕の見解でもドゥルーズの見解でも,共通概念には一般性のレベルに差がある,つまり一般性のレベルが高い共通概念もあれば,一般性の低い共通概念もあることになるのです。しかしこの点に関する僕の見解の理由に関しては,後に説明することにします。
 福居はこの見解自体を否定しようとしているのです。なので結果として,共通概念に一般性のレベルに差がないという結論に至るのです。ただここが重要ですが,福居はこういう見解によって,共通概念の一般性のレベルの有無について何かをいわんとしているのではありません。正確にいえばもちろんそれも福居の主張には含まれるのですが,福居がこのことでドゥルーズを批判しようとするとき,この批判の矛先はむしろ別の地点に向けられていると解するのが適切であると僕には思えます。そしてこのことに関して福居がドゥルーズを批判するとき,この批判は大いに意味があるものであって,しかもその矛先に関係する点だけいえば,僕はドゥルーズよりも福居の方を支持します。なのでこの批判がどこに向けられているのかを考えなければなりません。
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第四部序言&福居の見解

2023-03-25 20:10:27 | 哲学
 僕がスピノザが確知するcerto scimusというとき,それをどのように解するのかということと関連しては,まだいくらか考察しなければならないことが残っています。ただ,善の確知悪の確知が,僕が解する意味においてはどのようなことになるのかは説明することができました。第四部序言の中で確知するといわれていることをどう解すればよいのかということについては,それだけで十分といえますので,こちらの方の考察も先に進めていきます。
                                    
 考察するべき当該部分の全文は次のようになっています。
 「善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して,悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう」。
 人間の本性の型というのをいかに解するべきであるのかということはすでに示してあります。それによればここでいわれている人間の本性natura humanaの型というのは,人間が能動的である場合の本性のことでした。いい換えれば第四部定義八により,それは人間のvirtusを意味することになります。
 人間は能動的である限りでは,事物を十全に認識します。これは第三部定理三から明白です。すると,ここでいわれている人間の本性の型というのは,現実的に存在する人間によって十全に認識されていることになります。このとき,それに近づく手段の認識cognitio,あるいは逆に人間の本性の型に一致するのに妨げになることの認識もまた十全な認識であるのか,それともこれらの認識は混乱した認識でもあり得るのかということが重要な問題になります。どちらであるのかによって,確知するということの意味もまた決定されることになるからです。

 共通概念notiones communesに関する考察は,現在の課題である本性essentiaを巡る探求と直接的に関係するわけではありません。ただこの機会を逸すると,僕が共通概念には一般性のレベルに差があって,一般性が高い共通概念もあれば一般性が低い共通概念もあるという見解opinioを有している理由を説明することがないかもしれません。よってここでこれに関する考察もしておくことにします。僕は人間に共通の本性が現実的に認識されるときは,共通概念として認識されると考えていて,共通概念の一般性にはレベルの差があるので,人間に共通の本性を現実的に存在する人間は認識するcognoscereことができるのだけれども,何が人間に共通の本性であるのかということを正しく認識することはできない,あるいはできるにしてもきわめて困難であると考えているわけですから,このことをここで補足しておくことも徒労とはいえないでしょう。
 福居純は『スピノザ『エチカ』の研究』では,共通概念には一般性のレベルに差があると解釈することができるような記述をしています。しかし『スピノザ「共通概念」試論』ではそのことを否定するような見解を採用しています。『スピノザ「共通概念」試論』の方が後に書かれたものですから,福居は解釈の方法を変更したのです。このことは福居自身が明言しています。そして福居は解釈を変更した理由を,ドゥルーズGille Deleuzeの解釈と関連させて説明しています。この関連についてはここでの考察の中心的な課題になりますので,後で僕の方から詳しく説明します。
 『スピノザ「共通概念」試論』における福居の共通概念に関する解釈は,とても大雑把にいえば,共通概念というのは第二部定理三七でいわれているように,個物res singularisの本性を構成しないようなある概念なので,そこに一般性という考え方を持ち込むことができないというものです。これはここでの考察に合わせた僕の解釈,福居とドゥールズ,また福居と僕の解釈を理解しやすくするためのものですから,福居が共通概念の一般性のことを強調しているということではありません。ただ,このような解釈をする場合には,第二部定理三八第二部定理三九の関連性についての説明が必要になってくることになります。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&判別

2023-03-24 19:06:02 | 将棋
 19日に放映された第72回NHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝。対戦成績は藤井聡太竜王が3勝,佐々木勇気七段が1勝。放映日の時点で佐々木七段は八段に昇段していますが,収録した時点では七段だった筈なので,ここでは七段で表記します。
 振駒で佐々木七段の先手となって相掛り。この将棋は先手も後手の藤井竜王もなかなか飛車先の交換をせず,40手を過ぎてからようやく後手が交換する将棋。最近の相掛りはすぐに飛車先を交換しませんが,ここまで先手も後手も交換しないのは珍しいように思います。
                                        
 この将棋はここで先手が☗5六銀と歩を取ったために☖8六歩と取り込まれて一遍に差がついてしまいました。この手で後手はと金ができることが確実になり,先手としてはその代償となるような攻めが必要になりますが,それがなかったからです。第1図はとにかく☗8五歩と取っておかなければなりませんでした。
 藤井竜王が優勝。NHK杯は初優勝です。

 現実的に存在するAという人間が,同じように現実的に存在するBという人間と関係をもつことによってAの精神mensのうちに発生する共通概念notiones communesには,一般性のレベルが高いものから低いものまで,多種多様のものがあることになります。その中には,人間に共通の本性essentiaが必ず含まれているのであって,そのゆえにAはこの様式において人間に共通の本性を十全に認識するcognoscereということについては僕は否定しません。ただこのときにAの精神のうちに発生する諸々の共通概念のうち,どの共通概念が人間に共通する,より正確にいえば人間だけに共通するレベルのものであって,どの共通概念がそのレベルより高い一般性をもち,またどの共通概念がそのレベルより低い一般性をもつのかということは,Aの精神のうちに生じるこの思惟作用だけではAには判別はつかないと僕は考えます。よって人間の共通の本性についてAは十全に認識はしているものの,では人間に共通の本性とは何かと尋ねられたときに,Aがそれを正確に解答できないであろうとも僕は考えるのです。したがって,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには人間に共通の本性の共通概念があるのだけれども,人間に共通の本性が何であるかを知っている人間はいない,あるいはいたとしても多くはないというように僕は結論します。これも一般的にいえば,より多くの人間と関係をもてばもつほど,人間に一般の本性の共通概念はそれだけ多く生じることになるでしょうから,そうして経験を積んでいけばいくほど,何が人間に共通の本性であるのかということを理解することができる可能性は高まっていくでしょう。しかし経験を積んだから確実にどの共通概念が人間に共通の本性の共通概念であるかを理解することができるようになるとは,僕は考えません。
 これに関連していっておくと,共通概念に一般性のレベル差があるというのはドゥルーズGille Deleuzeが指摘していて,僕も共通概念はそのように理解されるべきであると考えていますが,これに否定的な論者がいないわけではありません。たとえば『スピノザ「共通概念」試論』における福居純の見解は,この点に関してはむしろ否定的であると読解することができます。
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棋王戦コナミグループ杯&一般性

2023-03-23 19:35:06 | 将棋
 19日に鬼怒川温泉で指された第48期棋王戦五番勝負第四局。
 渡辺明棋王の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋は先手が駒損での攻めになり,中央で駒が渋滞気味になった分,後手の藤井聡太竜王ががよくなりました。ただ反撃することができる局面で自重して受け続けることを選択したため,長くなりました。後手が悪くなったというわけではないので,自重したこと自体が悪かったとか疑問であったというのとはちょっと違うように感じられます。
                                        
 この局面からの選択が最終的に勝敗の分かれ目になったようです。実戦の指し手は☗3三桂成☖同桂☗6六銀☖同角☗7七桂。そこで☖7五桂が好手で後手の勝ちになりました。
 これは桂馬を渡したために発生した手段なので,第1図では単に☗6六銀と取る方がよかったかもしれません。また,☗7七桂のところで入手した銀を☗7七銀と打っておけば角に当たっているのですぐの☖7五桂はありませんでした。なので桂馬を打ちたいのであれば第1図ですぐに☗6六銀でしたし,桂馬を渡して銀を取ったからには桂馬でなく銀を打つべきだったということになるでしょう。もちろんそれで先手が勝てるというわけではないのですが,まだ長く続く将棋であったのは間違いありませんでした。
                                        
 3勝1敗で藤井竜王が棋王を奪取。棋王は初の獲得です。

 『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』で指摘されているように,共通概念notiones communesにはきわめて一般性の高いものから,きわめて一般性の低いものまで多種多様なものがあります。そしてドゥルーズGille Deleuzeがいっているように,この一般性の高低が,個々の現実的に存在する人間にとっての各々の共通概念の重要度を決定します。ごく単純にいえば,一般性が低い共通概念の方が,現実的に存在する人間にとって重要度は高く,逆に一般性が高くなるほど,その重要性は低下していきます。一般性が低いということは,特有性が高い,いい換えれば共通するといわれる範囲が狭いことを意味し,一般性が高いとは,特有度は低く共通性は広いことを意味します。すなわちより少ないものの間で共通するものの共通概念は現実的に存在する人間にとって重要度が高いものが多く,より多くのものの間に共通するものの共通概念は,現実的に存在する人間にとって重要度は低くなるのです。しかしこの重要度についてはここで考慮する必要はありません。一口に共通概念といっても,一般性が高いものもあれば低いものもあるということを理解しておけば十分です。
 このために,現実的に存在する人間Aが,同じように現実的に存在する人間Bと関係を有するとき,Aの精神mensのうちに発生する共通概念にも,一般性が高いものから低いものまで,いくつもの共通概念があるということになるのです。AとBに特有でかつ共通するものはすべて共通概念としてAの精神のうちに発生すると第二部定理三九はいっているわけですから,ただひとつの共通概念だけがAの精神のうちに発生するということはあり得ません。AとBに特有でAにもBにも共通することがひとつだけであるということは,現実的ではないからです。よって,一般性の規準を人間に共通の本性essentiaと設定すれば,その規準に見合った共通概念は,AもBも人間であるということから必ずAの精神のうちに発生しますが,Aの身体corpusもBの身体も物体corpusであるという観点からは,もっと一般性が高い共通概念も必ず発生します。そしておそらく,すべての人間には共通しないけれども,AとBには特有で共通することの共通概念もほとんどの場合で発生するのです。
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農林水産大臣賞典桜花賞&発生する共通概念

2023-03-22 19:09:02 | 地方競馬
 第69回桜花賞
 スギノプリンセスは発馬後の加速が鈍く2馬身の不利。逃げたのはアトカラツイテクル。2番手にワイズゴールド,3番手にサーフズアップ,4番手に内から巻き返してきたスギノプリンセス。5番手にフジコチャンでここまでが先行集団。2馬身差でメイドイットマム。4馬身差でデザートウインド。2馬身差でフークエンジェル。9番手にキャッツライズ。2馬身差でボルドーグリフォンとフェルベンゲート。最後尾にキモンツガルという隊列。ミドルペースでした。
 3コーナーからはアトカラツイテクル,ワイズゴールド,サーフズアップが雁行になり,4番手のスギノプリンセスとの差は3馬身くらい。コーナーで外を回ったサーフズアップが直線の入口では単独の先頭。この競り合いの後ろから追い上げてきたメイドイットマムが,一旦先頭のサーフズアップを直線で外から差し切って優勝。サーフズアップが1馬身半差で2着。粘るワイズゴールドを外から差したフークエンジェルが2馬身差で3着。ワイズゴールドがクビ差で4着。
 優勝したメイドイットマム東京2歳優駿牝馬以来の勝利で南関東重賞2勝目。東京2歳優駿牝馬でつけた着差からして,3歳の牝馬ではトップと目されましたから,順当な優勝。初となる浦和コースへの対応が不安でしたが,何も問題ありませんでした。次は東京プリンセス賞に出走するものと思われますが,最有力候補でしょう。距離の延長は不安材料にはならない馬だと思います。母の父はゼンノロブロイ。4代母がリンデンリリーで10代母がシュリリー。3代母の7つ下の半妹に2003年のフィリーズレビューを勝ったヤマカツリリー
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞31勝目。桜花賞は初勝利。管理している船橋の石井勝男調教師は南関東重賞2勝目。桜花賞は初勝利。

 現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにすべての人間に共通する人間の本性natura humanaが共通概念notiones communesとして存在するということ,かつそれは第二部定理三七に相反さないということは理解することができました。ただし,これは論理的にこうなっているだけで,現実的に存在する人間が,人間に共通する本性がどういうものであるかを正しく知っているということとは分けた方がよいと僕は考えています。その理由というのは次のようなものです。
                                    
 現実的にAという人間が存在するとして,Aの精神のうちに人間に共通する本性が発生するのは,Aが他の人間と関係を有する限りにおいてです。これは人間でなければ人間に共通の本性を有していないということから明白です。よってAが,現実的に存在する人間Bと関係を有するときは,Aの精神のうちには,人間に共通する本性が,共通概念として発生するのです。ところが,このときにAのうちに発生する共通概念のすべてが,人間に共通の本性であるのかといえば,そういうわけではありません。第二部定理三九によれば,AとBとに特有でかつ共通するならば,そうしたものは何であれAの精神のうちに共通概念として発生することになっているからです。ですから.すべての人間に共通しさらにほかのいくつかの物体corpusとも共通するようなものが特有であるのであれば,それはAの精神のうちに共通概念として発生しなければなりません。人間に共通の本性というのは,人間だけに特有の本性といわれなければなりませんから,この共通概念は人間の本性の共通概念であるということはできません。また,AとBには特有でかつ共通するけれども,ほかの人間たとえばCとは共通しないということも,AがBと関係を有する限りではAの精神のうちに共通概念として発生しますが,Cには共通しない以上,これは人間の本性の共通概念ではないといわなければなりません。このように,現実的に存在する人間Aは,同じように現実的に存在する人間Bと関係を有することによって,いくつかの共通概念を有することになりますが,その一部は人間に共通する本性の共通概念であって,その他のいくつかはそういう共通概念ではないことになります。
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ウィナーズカップ&第二部定理三七の解釈

2023-03-21 19:31:21 | 競輪
 別府競輪場で争われた第7回ウィナーズカップの決勝。並びは新山‐新田‐守沢の北日本,古性‐脇本の近畿,松浦に福田,嘉永‐山田の九州。
 山田がスタートを取って嘉永の前受け。3番手に古性,5番手に松浦,7番手に新山で周回。前との車間を少し開けていた新山は,残り2周のホームの出口から発進。バックでは嘉永が突っ張り,先行争いになりましたが,打鐘で新山が嘉永を叩くと,ホームの入口では北日本の3人が出きりました。ホームに入って古性が発進。バックで新田が牽制しましたが,雨でバンクが滑りやすくなっていた影響もあったか古性に返された新田が落車。それを避けるために守沢が内に進路を求めると,古性マークの脇本と守沢の間が開き,脇本の後ろにいた松浦がそこに突っ込みました。松浦はコーナーで今度はうまく外に持ち出し,直線で競り合う新山と古性の外から両者を差し切って優勝。古性マークから松浦のさらに外に持ち出すことになった脇本が半車身差で2着。アクシデントで松浦に位置を取られるような形となった守沢が4分の3車身差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は昨年の広島記念以来の優勝。ビッグは昨年のサマーナイトフェスティバル以来の7勝目。ウィナーズカップは2020年に優勝していて3年ぶりの2勝目。このレースは新山の先行が有力で,すんなりしたレースになれば新田ですが,古性が脇本の前を回るというのは近畿の両者に何か考えがあってのことでしょうから,一筋縄ではいかないだろうと思いました。新田の落車は残念な出来事でしたが,そこでできた空間にうまく突っ込んだ松浦の判断が優れていたということでしょう。脇本はいい展開でしたが,自力の選手であるがゆえに松浦に先を越されてしまった感があります。こういったところは番手を回るケースが増えてくれば改善していくのではないでしょうか。

 人間に共通の本性essentiaといわれるときの人間が個物res singularisであるかと問われるのであれば,個物であると僕は答えます。しかしそれが第二部定理三七で個物の本性といわれているときの個物であるかどうかと問われたなら,それは場合によって答えが変わり得るのであって,したがって場合によっては個物ではないということもあると答えます。そして現状の考察に合わせていう場合には,人間に共通の本性といわれる場合の人間は,第二部定理三七でいわれている個物には該当しません。なぜこのようなことになるのかということを説明していきます。
                                   
 『エチカ』の定理Propositioの配置には意味があると考えなければなりません。第二部定理三七についていえば,この定理以降に証明されていく共通概念notiones communesについて,それは個物の本性を構成しないということ,いい換えるならば,共通概念は個物の十全な観念idea adaequataではないということを前もっていっておきたいがためにこの位置に配置されているのです。よってこの定理でスピノザが個物の本性といっているときの個物が何を意味しているのかということは,後続の定理で証明されている共通概念がどのようなものであるのかという観点から決定されなければなりません。ここでは第二部定理三九を援用しているのですから,第二部定理三九を援用して論理的に帰結させている事柄から,第二部定理三七でいわれている個物が何を意味するのかということを解さなければなりません。
 現実的に存在する人間Aと現実的に存在する人間Bが関係することによって,Aの精神mensのうちに人間に共通の本性が共通概念として形成される場合,この共通概念が何の十全な観念を構成しないといえるのかといえば,現実的に存在するAの十全な観念でありまたBの十全な観念であるといわなければなりません。よって第二部定理三七でいわれている個物とは,この場合には現実的に存在するAでありまたBであるということになります。よって,人間に共通の本性といわれるときの人間は,第二部定理三七でいわれている個物には含まれないことになります。人間に共通の本性は,Aの本性にもBの本性にも含まれますが,AとBそれぞれの本性そのものではないからです。
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女流王位戦&人間に共通の本性

2023-03-20 19:22:02 | 将棋
 17日に指された第34期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は甲斐智美女流五段が5勝,伊藤沙恵女流三段が13勝。
 振駒で甲斐女流五段が先手となり,伊藤女流三段の雁木に対して速攻を仕掛ける力戦の相居飛車戦になりました。
                                        
 第1図は速攻を仕掛けた先手の攻めがうまくいっていないので,すでに後手が有利だと思われます。ここで☖3六歩とさらに攻めを催促するような手を指しました。
 ☗同角はさらに押さえ込まれそうです。なので☗3三歩成と成り捨てました。
 後手は☖同金と応じました。この場合は☗4五桂と跳ねる一手。そこで力強く☖4四金と上がるのが後手の狙いの一手。☗3六飛には☖3五銀と手厚く打ち,☗3九飛に☖3六歩と打ちました。
                                        
 これで先手は飛車角が使いにくい形。さらに銀取りも残っているので銀を逃げざるを得ません。第2図となっては後手の優勢がはっきりしました。
 伊藤女流三段が勝って挑戦権を獲得第28期以来6年ぶりの女流王位戦五番勝負出場。第一局は来月26日に指される予定です。

 現実的にAという人間が存在して,このAがやはり現実的に存在する人間であるBと何らかの関係を有すると仮定します。このとき第二部定理三九により,AとBに共通かつ特有であるものは,共通概念notiones communesとしてAのうちに発生することになります。人間に共通の本性essentiaは,AとBの間でのみ特有であるということはできませんが,AもBも人間であるという観点からは特有であるといえます。そしてAもBも現実的に存在する人間と仮定されているのですから,AとBに共通しているのはそれ自体で明らかです。よって人間に共通の本性は,この仕方でAの精神mensのうちに共通概念として生じることになります。したがって論理的には,現実的に存在する人間は,人間に共通の本性を十全に認識するcognoscereことになると僕は考えます。そして現実的に存在する人間が,他の現実的に存在する人間と関係をもたないということはそれ自体が非現実的なので,現実的に存在するすべての人間の精神mens humanaのうちに,人間に共通の本性が,共通概念としてあると僕は考えます。第二部定理三八系は,もっと一般的にいくつかの共通概念が現実的に存在する人間の精神のうちにあるといっていますが,人間に共通の本性は,そうした共通概念のひとつであると僕は考えるのです。
 ただしこれは論理的にこうなっているだけで,現実的に存在する人間の精神のうちにある特定の共通概念について,それを人間に共通の本性というように認識することができるのかということについては,僕はいくらかの疑問を有しています。ただこの疑問を解消する前に,僕が示した論理そのものについて反論があり得そうに思えますので,そちらを探求しておきます。これは,第二部定理三七によれば,共通概念は個物res singularisの本性を構成しないといってる点に関連します。僕が示した論理では,人間に共通の本性は共通概念として現実的に存在する人間が十全に認識することができるということになっているので,これを両立させるためには,人間は個物ではないといわなければなりません。ですがこれは第二部定理一〇系に反します。というか,人間は個物であるということは,『エチカ』に訴えるまでもなく当然だといえるでしょう。
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叡王戦&共通の本性の持続

2023-03-19 19:13:10 | 将棋
 16日にシャトーアメーバで指された第8期叡王戦挑戦者決定戦。対戦成績は永瀬拓矢王座が7勝,菅井竜也八段が3勝。
 振駒で永瀬王座の先手。9筋を突き合ってから後手の菅井八段のごきげん中飛車。①-Bの形に進みました。後手がすぐに5筋の歩を突いたので,角交換から互いに角を打ち合う乱戦に。一段落したところでは先手が歩得,後手が金を持ち駒にしていることが主張点になりました。その後に先手が地下鉄飛車で飛車を9筋に。しかし次の戦いは中央から起こりました。
                                        
 第1図まで進んだところで先手は☗9五歩と攻めていきました。☖同歩に☗9二歩☖同香☗9三歩☖同香☗8五桂☖9一香まで端を攻めて☗6一飛。後手はここで☖9六桂と王手を掛けました。
                                        
 先手の玉が下に逃げると王手飛車が掛かる形でこの王手が厳しかったようです。第1図で端を攻めると後手に逆用されてしまいます。もしも地下鉄飛車にしたことを生かすのであれば,もっと早い段階で攻めていかなければいけなかったということになるでしょう。
 菅井八段が勝って挑戦権を獲得。叡王戦の番勝負には初出場。第一局は来月11日に指される予定です。

 僕自身の見解opinioとしていえば,人間に共通の本性essentiaというのは,持続するdurareといわれるような存在existentiaを有することはありません。人間に共通の本性というのは形相的本性essentia formalisとしてみた場合はそれが観念対象ideatumとなるのであって,その観念対象は単一でなければなりません。ところがそれを単一の観念対象としてみた場合に,人間の本性natura humanaが持続するといわれるのと同じ間だけ持続するような観念対象ではあり得ないからです。ひとりの人間が生成しまた消滅したとしても,ほかの人間が消滅していない限りは人間に共通の本性は存在するといわれなければならないのであって,単一の観念対象が人間に共通の本性であることはできません。よって,人間に共通の本性は持続するという存在を有することはできず,延長の属性Extensionis attributumの中に含まれる限りでのみ存在する形相的本性であると僕は解します。
 ただしこれは僕の解釈です。人間に共通の本性が持続するといわれる限りでの存在を有することができるという見解にも一定の理はあるのであって,僕もそのことは否定しません。ですから仮にそのような見解を有するにしても,僕はそれに対して強く反論するということはありませんし,僕自身の見解に強く固執するというわけでもありません。ただ僕は人間に共通の本性,これは人間に限らず複数の個物res singularisに共通する本性というのがあるとすれば,それは持続するという存在は有さないという見解を採用するということです。
 もうひとつの問い,人間に共通の本性を,現実的に存在する人間が十全に認識するcognoscereことができるのかという点に関しては,僕は少なくとも理論上はそれが可能であることにスピノザの哲学ではなっているというように解します。ただしこれは理論上はそれが可能であるというだけであって,現実的に存在するすべての人間がそれを十全に認識しているというような意味ではありませんし,十全に認識された観念ideaが,人間に共通の本性であるということを直ちに断定することができるということをいいたいわけでもありません。ただ,現実的に存在するどの人間も,ほかの現実的に存在する人間と関係をもつので,その中で人間に共通の本性は,少なくとも部分的には認識される筈です。
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京成盃グランドマイラーズ&ふたつの問い

2023-03-18 19:35:45 | 地方競馬
 16日の第26回京成盃グランドマイラーズ
 エメラルファイトは右によれるような発馬で1馬身の不利。発走後の正面はホウオウスクラムとスマイルウィが並んで逃げるような形で3番手以下に4馬身くらいのリード。向正面でスマイルウィの方が前に出てホウオウスクラムが2番手となり,後ろとの差も詰まっていきました。3番手にティーズダンク。2馬身差でエメリミット。5番手にリッカルド。4馬身差でゴールドホイヤー。7番手にヴィーダ。2馬身差の最後尾にエメラルファイトという隊列。前半の800mは50秒6のハイペース。
 3コーナーを回ると2番手のホウオウスクラムの方が一杯に。ティーズダンクが3番手から差を詰めていきましたが,向正面の半ばからスパートしたゴールドホイヤーが外を捲って進出。逃げるスマイルウィに並び掛け,ティーズダンクとの差が3馬身くらいに。スマイルウィとゴールドホイヤーの競り合いは直線の半ばでゴールドホイヤーが制し,そのまま抜け出して優勝。スマイルウィが2馬身半差で2着。前の2頭を追うことはできませんでしたが,4着以下とは差をつけたティーズダンクが4馬身差で3着。
 優勝したゴールドホイヤーマイルグランプリ以来の勝利で南関東重賞5勝目。このレースは能力上位の3頭が上位を独占する順当な決着になりました。差がついたのは現在の船橋競馬場の馬場に対する適性の差が影響したかもしれません。スマイルウィが常に力を発揮するのに対して,ゴールドホイヤーは能力を出し切れたり出し切れなかったりするタイプですが,競走能力の上限値だけでいうと,ゴールドホイヤーの方がスマイルウィを上回っているのだろうと思います。こういうタイプは相手関係が強くなっても一発あるという傾向をもちますので,馬券面では常に警戒が必要でしょう。父はトランセンド。母の3つ上の半姉に1999年にフェアリーステークスを勝ったベルグチケット。Heuerはドイツ語で今年。
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は戸塚記念以来の南関東重賞20勝目。京成盃グランドマイラーズは初勝利。管理している川崎の岩本洋調教師は南関東重賞12勝目。京成盃グランドマイラーズは初勝利。

 事物が永遠に存在するというのは,第二部定理八のいい方に倣えば,神の属性Dei attributisの中に含まれているのです。よってその観念Ideaeは,同じ定理Propositioにより,神の無限な観念Dei infinitia ideaの中に包容されていることになります。つまり,すべての人間に共通する本性essentiaは,神の属性の中に,この場合は延長の属性Extensionis attributumの中に形相的本性essentia formalisとして含まれているのであって,その観念は神の無限な観念の中に含まれていることになります。
                                   
 このときに問わなければならないことがふたつあります。ひとつはこの本性は,持続するdurare本性として存在するかということです。こちらは第二部定理八系のいい方に倣えば,時間的に持続するといわれる限りにおいて存在するかということであり,それを僕がいう意味での形相的本性と解するなら,持続するといわれる存在existentiaを,観念として含むのかということです。そしてもうひとつは,この種の人間に共通の本性は,現実的に存在する人間にとって,十全に認識するcognoscereことができる本性であるかということです。このふたつの問いについて順に考察していきます。
 まず第一の問いについては,どちらの考え方もあり得ると僕には思えます。というのは,人間は現実的に存在するので,すべての人間に共通の本性もまた現実的に存在するというのはひとつの考え方ですし,しかし,人間に共通の本性を有するある個物res singularisは,その本性が存在する間はずっと存在するのかといえばそういうわけではないのだから,現実的に存在するとはいえないというのもひとつの考え方であるからです。要するに,持続するといわれる限りで事物が存在するという場合は,その存在には開始があってまた終焉があるのでなければなりません。よって,人間に共通の本性についていえば,それが現実的に存在するようになるのは人類という種が存在するようになったときであり,現実的に存在することをやめるのは,人類が絶滅したときということになります。しかし一方で,人類の誕生から絶滅するまでの間に,人間に共通の本性を有するある単一の個物が存在を継続するのかといえばそういうわけではありません。むしろ数多の人間が生死を繰り返すことによって,人間に共通の本性は持続し続けているのです。
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中日新聞杯名古屋大賞典&永遠の本性

2023-03-17 19:25:34 | 地方競馬
 昨日の第46回名古屋大賞典
 逃げたのはアルサトワ。2番手にバーデンヴァイラー。3番手にケイアイパープルとジンギ。5番手にコンビーノ。6番手にハギノアレグリアス。7番手にコウエイスーシェフ。8番手にニューモニュメントとブラヴール。10番手にタニノタビトとナムラアラシ。最後尾にマウントゴールドの順で発馬後の向正面を通過。正面にかけてコウエイスーシェフが上昇していき,発馬後の正面では前からアルサトワ,バーデンヴァイラー,コウエイスーシェフの順になり,4番手にケイアイパープルとジンギ。6番手にハギノアレグリアスという順に。ミドルペースでした。
 3コーナーからバーデンヴァイラーがアルサトワに並び掛けていくと3番手にはケイアイパープルとハギノアレグリアス。この後ろは離れてジンギとニューモニュメント。直線の入口ではアルサトワ,バーデンヴァイラー,ハギノアレグリアスが横並び。ここからハギノアレグリアスが前に出ると,これら3頭の内を回ったケイアイパープルが追ってきて,直線は2頭の優勝争い。競り合いはフィニッシュまで続きましたが外のハギノアレグリアスが制してレコードタイムで優勝。ケイアイパープルがアタマ差で2着。3着争いは逃げたアルサトワとずっとこれを追っていたバーデンヴァイラー。そして外から猛然と追い込んできたニューモニュメントの3頭。真中のバーデンヴァイラーがこの争いから抜け出て3馬身差の3着。逃げたアルサトワが半馬身差の4着でニューモニュメントがハナ差で5着。
 優勝したハギノアレグリアスは重賞初制覇。昨年の10月にオープンを勝った後,重賞で2着,2着ときていましたので,実績は下でも近況からは優勝候補の筆頭とみていました。小回りコースが初めてでそれを克服したのは評価する必要はありますが,ケイアイパープルとの着差を考えると,より上のレベルで戦うためにはもう少し時間を必要としそうです。父はキズナ。母のふたつ下の半弟がタニノギムレット。Alegriasはスペイン語で喜び。
                                        
 騎乗した川田将雅騎手は第37回,43回,44回,45回に続く四連覇で名古屋大賞典5勝目。管理している四位洋文調教師は開業から2年で重賞初勝利。

 存在することをやめない共通の本性essentiaは,人間の本性natura humanaに限られるわけではありません。同じ本性を有する複数の個物res singularisが現実的に存在するのであれば,それらの個物には共通の本性があるのでなければなりません。第一部定理八備考二は,20人の人間について言及していますが,これは20人の人間でなければならないというものではなく,20個の個物であれば何であっても構わないからです。そしてそうした共通の本性は,人間の本性が存在をやめることはないというのと同じ論理によって,存在することをやめることはないでしょう。もっともこのことは,僕たちが恐竜の本性を考えることが現にできるということから,恐竜に共通の本性があって,かつそれは存在することをやめていない,恐竜は現に絶滅しているのに存在することをやめていないということから,実証的な意味で明白であるといえます。
 存在することをやめないものは,持続duratioのうちに存在することはできません。確かに第二部定義五により,持続は存在の無限定な継続Duratio est indefinita existendi continuatioといわなければなりません。しかしそれは,持続する事物の本性に持続の限界が含まれていないからそのようにいわれるまでのことであって,だからといって持続する個物が無限定に存在を継続するということではありません。このことは第四部公理から明らかであって,現実的に存在するどんな個物にも,それより強力な個物が存在するのですから,そうしたより強力な個物によって存在することを停止させられるからです。このことは現実的に存在する人間については第四部定理三でいわれている通りであり,このことは現実的に存在する人間にだけ適用されるというわけではなく,現実的に存在するすべての個物に適用できるということです。また,第三部定理四は,持続する個物はそれ自身によって持続を停止することはないという意味ですが,これは現実的に存在するどのような個物も,外部の原因causa externaによって滅ぼされるということを前提しているといってもいいでしょう。
 持続のうちに存在することができないものは,存在するのであれば永遠aeternumから永遠にわたって存在することになります。つまり共通の本性は永遠に存在するのです。
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