スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
北海道から3頭が遠征してきた第58回平和賞。キャプテンガールが競走除外で11頭。
新馬勝ち直後で果敢に挑んできたヒデサンジュニアの逃げ。アメイジアとハードデイズナイトが追いその直後にインサイドザパーク。前半の800mは52秒1でこれは超スローペース。
ピッチが上がったのは残り800m付近。前に位置していた馬はどれも力はある馬でしたが,ハードデイズナイトは後退し,残りの3頭が4番手以下を引き離すように直線に。まず逃げるヒデサンジュニアを交わしたアメイジアが先頭に立つも,さらにその外をインサイドザパークが伸び,1馬身の差をつけて優勝。アメイジアが2着。最終的には4馬身離されましたが,ヒデサンジュニアが3着を確保。
優勝したインサイドザパークは先々週の鎌倉記念に続いて南関東重賞2勝目。初対戦の馬もいましたが,それぞれに課題を抱えていまして,最有力と思われました。ペースがペースとはいえわりと前に位置してレースを進めることができたのは収穫だったのではないかと思います。父はタイムパラドックス,母の父はサッカーボーイで,距離は伸びるほどよいように思えます。祖母の従妹に2006年のエリザベス女王杯を勝ったフサイチパンドラ。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は第47回と第53回を勝っていて平和賞3勝目。管理している林正人調教師は第53回を制していて2勝目。
第二部定理九系の消極的意味に関しては,説明しておかなければならない事柄がいくつかあります。
まず最初に,僕がなぜこれを消極的というのかということです。僕の理解では,実はこの意味のうちには,ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念が,どのように神と結び付けられれば十全であるのかということが,十分には説明されていません。対象ideatumの中に起こることの観念が,対象ideatumの観念を有する神と関連付けられなければならないということははっきりしていますが,それ以上の具体的なことは不明であるからです。すなわちそれは対象ideatumの観念を有する限りでの神のうちにあるのかもしれませんし,あるいは対象ideatumの観念を有するとともに何かほかのものの観念を有する限りで神のうちにあるのかもしれません。もしかしたらそれこそ第二部定理九の無限連鎖という意味での無限知性を有する限りでの神のうちにあるのかもしれないからです。いい換えれば対象ideatumの中に起こることの観念の十全性を保証するパターンというのは,ひとつではないということになっているのです。なので実際にこの系の意味は,少なくともそれが対象ideatumの観念と関連付けられているということは必須であるということだけです。いわば対象ideatumの観念を有していない限りでは神のうちにはその対象ideatumの中に起こることの観念は神のうちにはないということだけが明らかになっています。つまりある種の限定,ないしは否定的要素を示した意味であるということになります。そしてこの点において,僕はこれを消極的であると考えるのです。
ただし,この場合にこうした意味になることは,必然であるともいえます。というのは,平行論からして,このことは,形相的にみられた場合の対象ideatumの中に起こることに対して,対象ideatumである個物がどのような原因,つまり十全な原因を構成するのか部分的原因を構成するのか,そして部分的原因であるならほかにどんな原因があるのかということと秩序が一致するですが,そのことが必ずしも一様であるとはいえないからです。
一昨日の第2回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
伊藤真吾四段の先手で迎えた将棋は先手の三間飛車に後手の永瀬拓矢五段が左美濃。しかしこの一局は中盤で先手の飛車と後手の馬が同じ動きを繰り返して千日手に。ここと新人王戦で永瀬五段が決勝進出を果たしたので,少なくともどちらかで一局くらいは千日手になるだろうと想定していましたので,ある意味では期待通りでした。
指し直し局で先手となった永瀬五段はまたも居飛車。伊藤四段の角交換四間飛車→向飛車に。先手が変わった手順で右の銀を繰り出していったのに対し,後手が対応を誤ったようで,明らかに先手の模様が優る将棋になりました。その後,飛車交換となり,後手にも勝負手があったようですがそれを指せず,先手がリードしたまま終盤に。
▲5六角などとは逃げずに▲7四角。△同歩に▲5ニ成銀と取り△同歩に▲7三歩。後手は△同玉と応じましたが▲7一金であっという間に大勢が決しました。
将棋というのはこのように攻められると受からないようになっているゲームですので,後手の活路は攻め合いにしかありません。しかしこの局面では明らかに先手の攻め足の方が早く,ここからほぼ一直線の攻め合いで先手が押し切っています。
連勝で永瀬五段が優勝。これが初めての棋戦優勝。ちょっと風変わりな将棋観の持ち主という気もするのですが,もしかしたらこれが主流となる時代がいつか来るのかもしれません。
このように考えた場合には,第二部定理九系の意味というものが,このブログにおいてこれまで理解していた内容から変容を来します。というのは,これまではこの系を,対象ideatumの中に起こることの観念は,その対象ideatumの観念を有する限りで神のうちにあるというスピノザの記述から,第二部定理七系の意味に依拠して,その観念をその限りで十全な観念であると理解していました。しかし,この対象ideatumの観念というのが,第二部定理九における現実的に存在する個物の観念の連鎖を前提としたものであれば,話は違ってきます。なぜなら,この場合にはある対象ideatumの観念というのは,むしろそうした原因と結果の無限連鎖を把握しいる神のうちにあるといっていることと同じですから,その対象ideatumの中に起こることの観念もまた,それと同様の意味でなければならないということになるからです。
しかるに,現在の考察は,第二部定理九というのを,神の無限知性を具体的に構成している個々の観念という仕方で理解しています。したがってこれでみるならば,ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念もまた,そうした意味における無限知性を有する限りで神のうちにあるということになるでしょう。
しかし実際には,このことはほとんど何も意味していないともいえます。というのは,それがどんな観念であれ,存在する,あるいは存在することが可能であるような観念であれば,それが無限知性の一部を構成しているということはきわめて当然だからです。ただ,それが十全な観念であるために,無限知性のうちでどのような条件が必須とされるのかという観点から,むしろこの系の意味を探るべきだと僕は思います。
するとこの系の意味は,おそらく次のように記述するのが妥当であろうと僕は考えます。
ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,神がその対象ideatumの観念を有する限りでは神のうちにあるが,神がその対象ideatumの観念を有していないとみられる,あるいは説明される限りにおいては,神のうちにはあることにはならない。
これをとりあえず,消極的意味ということにします。
昨日の一宮記念の決勝。並びは佐藤に園田-小倉の西国がマーク,浅井-山内-笠松の中部と小嶋-加藤ー金田の中部近畿。
小倉がスタートを取って佐藤の前受け。4番手が浅井,7番手に小嶋で周回。残り2周のホームから小嶋が上昇,浅井に蓋をしてからバックで叩きに出ると一旦は佐藤が突っ張る構え。しかし打鐘を迎えると小嶋が叩き,佐藤はすんなりと中団に。引いた浅井はホームから発進。小嶋も抵抗しましたがバックでは浅井が捲って先頭。笠松が離れて佐藤が山内を追うような態勢に。直線では外から佐藤が鋭く伸びて優勝。浅井の番手から出た山内が2着。佐藤の外に行った園田と佐藤の間を割った小倉が3着。
優勝した岩手の佐藤友和選手は前回出走の熊本記念からの連続優勝で記念競輪7勝目。力量からは浅井が最大のライバルと思われましたが,4番手を確保できましたので優位に立てました。完全優勝ということで今はできも非常によいのでしょう。現時点では最強とも思え,本人としては早くグランプリが来てほしいというくらいの心境かもしれません。
今回の探求は,このように第二部定理九系における原因というのを,対象ideatumの観念とみなしたとき,それをどのように神と関連付けるのかという点に大きく関係します。スピノザはこの対象ideatumの中に起こることの観念は対象ideatumの観念を有する限りで神のうちにあると記述しています。なので前回はこれをそのままの意味で解釈し,まさに対象ideatumの観念を有する限りでの神という仕方で関連付けたわけです。スピノザの哲学ではあらゆるものが精神を有するということになっていますから,これは要するに,どんな精神もその精神の現実的有を構成する対象ideatumの中に起こることの観念を有するという意味です。そしてそれはただそれを有するということではなく,十全に認識するという意味であったわけです。ところがこの解釈を採用すると,第二部定理一二が意味できる事柄が,きわめて貧弱になってしまったのでした。
そこで今度は,対象ideatumの観念を有する限りでの神といわれるとき,神がその観念を有するということがどういうことであるのかということに,新しい操作を加えます。すなわち,第二部定理九系は,第二部定理九の系であるわけです。そのゆえに僕は第二部定理九系にも,具体的に原因と結果とが措定されていなければならないと考えるわけですが,さらに一歩進めて,これが第二部定理九の系であるならば,第二部定理九系で神が有するとされている観念は,第二部定理九で規定されているような観念と同様の意味をもっていなければならないと考えるのです。すると,第二部定理九は,それを積極的意味に理解するならば,神の無限知性の中にあるとみられる現実的に存在する個物の観念であったので,このことが,第二部定理九系で対象ideatumの観念を有する限りでの神といわれる場合にも該当するというように解釈してみます。いい換えれば,神は現実的に存在する個物の観念の無限連鎖を十全に認識する限りにおいて,ある現実的に存在する個物の観念を有していて,この前提のもとに,その個物の観念の対象ideatumの中に起こることを認識するというように解することになります。
天覧競馬となった第146回天皇賞。
シルポートの逃げは大方の予想通り。向正面からどんどん後ろを離していきました。2番手がカレンブラックヒル。開いてダイワファルコン。さらに開いてフェノーメノとなり,アーネストリーとジャスタウェイ,その後ろにサダムパテック,フェデラリスト,トランスワープ,トゥザグローリーの4頭が続き,ダークシャドウ。エイシンフラッシュとトーセンジョーダンが後方集団の最前列。前半の1000mは57秒3の超ハイペース。もっともこれは飛ばしたシルポートのみに該当するといえます。
直線に入ってダイワファルコンがカレンブラックヒルに並び掛け,そこからカレンブラックヒルもシルポートを捕えに。その間に直線に入ってすぐに開いたインから追い出されたエイシンフラッシュと外に回ったフェノーメノの2頭が伸び,最後はこの2頭の離れての争いとなりましたが,最内のエイシンフラッシュが半馬身差で優勝。正攻法のフェノーメノが2着。さらに外を通ったルーラーシップが1馬身4分の1の差で3着。
優勝したエイシンフラッシュは一昨年のダービー以来およそ1年半ぶりの勝利で大レース2勝目。僕はこの馬はスローペースの瞬発力勝負となったときに好走する馬と考えていて,シルポートが出走するここでは出番はないだろうと考えていました。しかしそれは見当違いで,脚を溜めていかれるなら,ハイペースであっても力を発揮できるようです。そうであるなら適性は中距離にあるのではないでしょうか。いずれにせよ注文がつくタイプの馬であることは間違いなく,今日はうまくいきすぎた感もありますから,今後も好走と凡走を繰り返すことになるのではないかと思いますが,一級の能力をもった馬であるということは間違いありません。
騎乗したのはイタリアのミルコ・デムーロ騎手で日本馬に騎乗しての大レース制覇は昨年のドバイワールドカップ以来。日本での大レースは一昨年の有馬記念以来で天皇賞は初勝利。管理している藤原英昭調教師は一昨年のダービー以来の大レース制覇で天皇賞は初勝利。
第二部定理九系のうちに具体的な原因と結果というのを見出すときに,なぜ僕が出したような結論になるのかということにことについては僕はまだ詳しく説明していません。今回はその点も分析しておきます。
まず,第二部定理九というのは,現実的に存在する個物の観念についての言及です。この点はさすがに異論も出ないでしょう。よって第二部定理九系が第二部定理九から帰結するのであれば,第二部定理九系もまた,現実的に存在する個物の観念に関するようなある記述であると理解しなければなりません。これに関してはそれ自体で明らかであるとだけいっておきます。
このことから,第二部定理九系のうちに具体的な原因と結果を措定するとしても,そのどちらも現実的に存在する個物の観念でなければならないということが,いわば大前提として出てくるわけです。スピノザは第二部定理九系の中では,各々の観念とか,個々の観念の対象ideatumの中に起こることとだけいっていて,とくにそれが現実的に存在する個物であるとはいっていません。第二部定理九系が平行論的証明のみによって論証されるならばこのことは考慮の外において構わないと僕は考えますが,いわゆる因果論的迂回を経て証明されるなら,それが現実的に存在する個物についての言及でなければならないというのが僕の見解です。
よってここでいわれている観念は,現実的に存在する個物の観念です。そしてその個物の観念の対象ideatumの中に起こることの観念についても言及されているのです。ですからここで原因と結果として具体的に措定され得る何かがあるとしたら,その両者のどちらか以外ではあり得ません。この系はそのことだけをいっているのですから,これはきわめて当然でしょう。
するとこの場合には観念の方が原因であって,起こることの観念の方が結果であるとしかみなせません。これはそう考えなければ第二部定理九と第二部定理九系との間で齟齬を来すことになるからですが,それよりも,第一部公理三からして,結果の発生には原因が不可欠であるということから自明です。もしも観念がなければ,その観念の対象ideatumの中に起こることの観念は生じようがないからです。
関東所属棋士での対戦となった第2回加古川青流戦決勝三番勝負の第一局。公式戦初対局。
主催する加古川市の市長による振駒で永瀬拓矢五段の先手。作戦で居飛車を選択。伊藤真吾四段の角交換向飛車でしたが,先手がすぐにその角を打ったことから乱戦模様となり,後手は袖飛車に。結果的に相居飛車のような将棋になりました。先手から動いたのですが大きな戦果が上がったというわけでもなく,馬を作ることができたのが主張点でしたが,その馬も消える展開になったので,先手の作戦自体はあまりうまくいかなかったように感じられます。先手は後手に攻めさせて,その攻め駒に狙いをつけました。
ここで▲8五歩と蓋。後手は△7五歩▲同銀△8五飛と逃がしました。そこで力強く▲7六金。飛車を引いては完封されるとみた後手は△3九角と飛車取りに打ち,角成を受けつつ▲5八飛と逃げたのに対して△7五飛▲同金△4九銀と飛車を切って襲い掛かりました。▲6八飛と逃げたのに対して△5七角成の追撃。▲6七銀と逃げるのは当然で△6八馬▲同金に△2八飛と打ちました。対して先手も▲8二飛。
先手玉は上が広くて後手は持ち駒が歩だけで容易に攻めを継続できません。抑え込まれるとみての突撃だったのですが,先手に正しく受け止められて暴発となってしまったようです。この後,後手がずいぶんと追い込んだように思えますが,それでも捕えるまではいかず,ここでのリードを生かした先手の勝ちとなりました。
永瀬五段が先勝。第二局は明日の午前で,それに伊藤四段が勝てば午後に第三局も続けて指されることになっています。
さらなる操作が加えられるべき対象は,第二部定理九系であるということになります。ただ,この点についてはまた後で触れ直すということになるので,実際にそういった操作を加える前に,第二部定理九と第二部定理九との関係について,僕が理解している点を再確認しておくことにします。
まず基本的に僕は,第二部定理九系は平行論的証明によって論証されると考えています。しかしこの場合は第二部定理七に訴えるべきであるというのが僕の見解で,よってもしもこの系がこの方法によってのみ証明されるという場合には、第二部定理九にどのような操作,この場合では原因の十全性という観点の導入ですが,それに限らずどんな操作が加えられていたとしても,第二部定理九系には影響しないというのが僕の見方であることになります。したがってこれをいい換えるならば,第二部定理九から第二部定理九系が帰結されるという場合には,僕が因果論的迂回といっているスピノザによる論証のプロセスが不可欠であるということになります。この点に関しては今回も変更はありません。というかこれは少なくとも僕にとっては必要不可欠な前提のようなものです。
次に,もしも第二部定理九から第二部定理九系が導かれる場合には,第二部定理九系の中に,何らかの意味において原因なるものと結果なるものが規定されていなければならないというのが僕の基本認識です。実はこの点に関しては,異論が出ることも考えられるのですが,少なくとも僕は,第二部定理九は現実的に存在する個物の観念の原因と結果の無限連鎖について言及されていると判断しますから,この点も僕にとっては欠くべからざる前提となってくるのです。なおこの異論に関しては,少しだけですが後に考えてみるということにして,ここでは先に進みます。
このとき,第二部定理九系のうちに原因と結果を具体的に措定するとするならば,それは対象ideatumの観念といわれているものが原因であり,その対象ideatumの観念の中に起こることの観念というのが結果であるということで,前の考察は進んでいきました。なお,これは平行論的観点というのを導入するなら,対象ideatumが原因で対象ideatumの中に起こることが結果であるといっていることと同じです。
2歳ダート重賞は今年も牝馬戦で開幕。第15回エーデルワイス賞。
ハニーパイが逃げると思っていましたが,内からグランデタマの逃げに。ベストヒット,エールドランジュ,ニイカップクイーン,ハニーパイまで集団。好位はトチノスカーレット,シーギリヤガール,ヴェントスの3頭。
3コーナーでベストヒットとエールドランジュに並び掛けられるとどうやらグランデタマは一杯。その外をハニーパイが進出し,直線では抜け出し,最後は1馬身差で優勝。後方から最内を追い込んだ人気薄のピッチシフターが2着。勝ち馬を追うように外を回ったヴェントスが半馬身差で3着。
優勝したハニーパイは2戦目で初勝利を上げると8月にリリーカップを制覇。前走のフローラルカップは2着でしたが,これは距離が長いと思われむしろ健闘。ここは距離短縮もあって優勝候補の1頭と考えていました。逃げずに結果を出せたのは収穫でしょう。おそらくスプリンターだと思います。父はサウスヴィグラス,アストニシメント系アレグロの分枝で祖母の兄に1985年の札幌記念と1987年のフェブラリーハンデを勝ったリキサンパワー。
騎乗した北海道の桑村真明騎手はエーデルワイス賞初勝利。管理している角川秀樹調教師は第11回と第12回で連覇していて3勝目。
第二部定理一七で示されていることというのは,人間の精神による外部の物体の表象です。よってそれは神の思惟の属性に関する事柄であり,人間の身体に関して何らかの言及がなされているわけではありません。しかし第二部定理一七証明をみる限り,これは同時にある人間の身体が部分的原因となってその人間の身体の中に何かが起こるということをスピノザは認めているというように僕は考えます。そしてそうであるとするなら,表象というのは人間が現実的に存在する限り,必然的に,そしてきわめて頻繁に生じる事柄です。よって,もしも人間の身体が十全な原因となってその人間の身体の中に起こることだけを第二部定理一二が言及しているのだとしたら,それは確かに僕が示した第二部定理一二の意味には合致するのですが,同時にそれではこの定理が意味できる事柄というのが,きわめて乏しくなってしまうと思うのです。
だから,僕はこうした方法によって,第二部定理一二に含まれている問題を解決する気にはなれません。確かにこれが解決法のひとつであることは認めますが,このような方法で解決してしまうくらいならば,むしろ第二部定理一二の意味を放棄して,たとえば上野修がそう示したように,この定理の中には人間の精神による混乱した観念も含まれるとした方がまだよいように思えるのです。
ただし,第二部定理七系の意味によって,神のうちにある観念はすべて十全な観念であるのでなければなりません。つまり,ある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,その観念の対象ideatumを有する限りで神のうちにあるといわれるなら,それは少なくとも何らかの意味においてはその限りで十全な観念であるという意味でなければならないという点に関しては,僕は譲ることはできません。そこではっきりと齟齬があるように思えるこのふたつの事柄に,どのような形で整合性をもたせることができるのかということを,改めて最初から探求していくことにします。
とはいえ,第二部定理九に十全な原因という観点を導入して得ることができた結論ですから,これ以上はこの定理には何の操作も加えられないということは明らかです。
秋に移設されてからは2度目となる第19回マイルグランプリ。
ピエールタイガーを制してブリーズフレイバーの逃げ。ピエールタイガーは抑えきれないような手応えで2番手に控え,少し開いた3番手にディアーウィッシュ。その後ろはスマートインパルス,マニエリスム,ラインジュエルが併走。ここまでが好位でまた水が開き,トーセンルーチェ,フジノウェーブ,ドリームライナーといったところが追走。前半の800mは49秒5のミドルペース。
ピエールタイガーは3コーナーで先頭に。追ってきた後続勢の中で手応えがよさそうだったのが外を回ったラインジュエル。しかしピエールタイガーはそのまま危なげなく押し切り,2馬身半の差をつける快勝。ラインジュエルが2着。4分の3馬身差の3着は3頭による接戦でしたが,中のフジノウェーブが内のマニエリスムと外を豪快に追い込んだボンネビルレコードを斥けました。
優勝したピエールタイガーは昨年の北海道ダービー馬。昨秋から南関東に移籍し,今年に入って7月まで5連勝。その後の南関東重賞2戦が2着,5着,重賞7着を挟んで前走のオープンは圧勝。実力的に南関東重賞制覇も時間の問題と考えていましたが,ここで達成しました。おそらく距離はこれくらいが最適で,現状では重賞ではまだ苦しそうですが,南関東重賞であればまたどこかでチャンスがあるものと思います。母の父がダイタクヘリオス。伯父に1997年の帝王賞を勝ったコンサートボーイ。
騎乗した真島大輔騎手は5月の東京湾カップ以来の南関東重賞制覇。第14回以来のマイルグランプリ2勝目。管理している荒山勝徳調教師は初勝利。
こうして第二部定理九に十全な原因という観点を導入することによって得られた第二部定理一二に関する結論というのは,僕が考えている第二部定理一二の意味と一致します。すなわちこうして考える限り,第二部定理一二でいわれていることは,人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumの中に起こることを,その人間は十全に認識するということであり,いい換えれば混乱して認識することはないということになるのです。
事情はこうなっているのですが,しかし一方で僕は,この結論に関して腑に落ちないものを感じもするのです。その理由というのは,こうした結論を得る前提として,ある人間の精神を構成する観念の対象ideatumをその人間の身体であるとしたときに,この身体の中に起こることに対して,その人間の身体が十全な原因となっているということが前提されているからです。しかしこうしたことがその前提として同時に導入されているならば,この定理が現実的な観点において意味することができることというのは,かなり狭い範囲になってしまうように思えるのです。
このときに僕が念頭に入れているのは,たとえば岩波文庫版でいえば117ページの,第二部自然学②要請三です。この要請からして,ある人間の身体が外部の物体と協同して,ある運動ないしは静止の原因になるということは,きわめて多く生じるように思われます。するとその運動ないし静止というのは,同113ページの第二部自然学②公理一により,その人間の身体の現実的本性と,外部の物体の現実的本性の両方を原因とするということになるでしょう。よって第三部定義一により,その人間の身体はこの運動ないしは静止に対しては部分的原因であるということになります。
もしもその運動ないし静止が,その人間の身体の外に起こるのであれば,このことは現在の考察とは無関係です。しかしそれが必ず外に起こるということを保証するような要素は何もありません。むしろそうした運動ないしは静止というのは,その人間の身体の中にも生じると考える方が自然に思えます。そして先述したように,それは頻繁に生じると考える方が妥当に思えるのです。
第一局から2週間。第43回新人王戦決勝三番勝負第二局。
藤森哲也四段の先手。少し趣向を凝らし,後手の永瀬拓矢五段の角交換向飛車に。先手が銀冠,後手が穴熊で持久戦。後手がひとり千日手を繰り返す序盤でしたので,先手の作戦成功だったのではないかと思います。もちろん先手から仕掛けて戦いに。
4二にいた金が上がったところ。先手は▲6一角と打ちました。もちろん△3四金と飛車を取った手に対して▲同角成ではなく▲4三角成。ここから△2七歩成▲5三馬△3七と▲6一角△2九飛成と足を止めての打ち合い。しかしそこで▲6九歩と受ければ先手は盤石。対して△5一飛ですが,底歩と自陣飛車では受けとしての効率に差がある感じ。▲6三馬△同金▲3四角成と二枚換え。対して△2二龍と引きました。
徹底抗戦の構えですが勝負という面からみればこれで勝とうというのはものすごく大変。落ち着いて攻めを継続した先手が攻め切りました。
藤森四段の勝利で1勝1敗のタイに。第三局は31日です。
第二部定理一二が第二部定理九系から直接的に帰結するという立場に立てば,これで第二部定理一二にも十全な原因という観点を導入することが可能になります。というよりも,第二部定理九系にそれが導入されているならば,第二部定理一二においてもそれは導入されなければならないということになるでしょう。
第二部定理九系において原因として措定されていると推測できる,客観的にいえば観念,形相的にいえばその観念の対象ideatumとは,第二部定理一二においては,客観的にいうなら人間の精神であり,形相的にいえばその人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumであるということになります。一方,第二部定理九系の中に結果として措定されていると推測される,客観的には観念の対象ideatumの中に起こることの観念とは,第二部定理一二では人間の精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念ということになりますし,形相的にいえば第二部定理九系における観念の対象ideatumの中に起こることというのが,人間の精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることとなるわけです。
第二部定理一二はあくまでも仮定の話ですが,このままではややこしいですから,ここでは第二部定理一三を参照して,人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumのことをその人間の身体であるとした上で考察を進めます。するとこの定理がいっていることは,現実的に存在するある人間の身体が十全な原因となってその身体の中に何事かが起こるときには,その何事かの観念をその人間の精神は十全に認識するということになるでしょう。これは現実的に存在するある人間の精神と身体は合一しているのだということに注意するなら当然の帰結です。すなわち身体が十全な原因であるというのは第三部定義二によりこれはその人間の身体のある能動を意味しますが,その人間の身体の秩序は精神の秩序と一致しますから,このときにはその人間の精神もまた能動という状態にあることになります。よって第三部定理一からこのときの人間の精神は十全な観念によって説明されなければなりませんが,第二部定理四〇により,十全な観念を原因とする場合には十全な観念だけが結果として生じなければならないからです。
昨日の千葉記念の決勝。並びは小埜-海老根ー石毛-大木-勝瀬の南関東と三宅-小川の中四国に十文字で,稲村は単騎。
フライングじゃないかと思えるような発走で三宅がスタートを取って前受け。4番手が小埜で稲村は最後尾で周回。小埜が上昇して三宅を抑えたのが打鐘前のバック。これでは三宅も引くことができず,海老根のインで粘ることになりました。流していた小埜がこのまま先行。番手は併走のままバック。最後尾の稲村が捲りあげて,挟まれる形となった海老根がひとりでに後退。労せずして番手を得た三宅が直線で発進し,小川と直線勝負。きわどい差になりましたが凌いでいた三宅が優勝で小川が2着。3着にも十文字で結果的にはこのラインの上位独占でした。
優勝した岡山の三宅達也選手は2009年2月の奈良記念以来となる記念競輪2勝目。このシリーズは候補とみられた選手の脱落が多く,メンバー全体のレベルはあまり高くなりませんでした。とはいえ圧倒的に地元勢に有利な構成で,遠慮せずに番手戦を挑んだのが勝因でしょう。もっともそうなったのは小埜の抑え方がまずかったからともいえ,相手ラインの作戦のまずさに助けられたという面もあったかとは思います。
続いて第二部定理九系です。実はこの系は,それ自体でみるならば,原因と結果というものが,具体的に措定されているとはいえません。ただ,第二部定理九の系としてこれを配置したスピノザの意図からすれば,実際にはこの中には,ある原因と結果とが含まれているのだと推測できます。そしてその場合には,ある観念が原因であり,その観念の対象ideatumの中に起こることの観念が結果であると考えるほかないだろうと僕は考えます。実際にこの系に原因と結果とを措定することが可能であるかどうかを問うのであればまた話は別ですが,それが措定されるということを前提条件とするならば,おそらくこのこと自体には反論はないものと思います。
そしてこのことは同時に次のことを意味しなければなりません。すなわち,スピノザの哲学においては,平行論における同一個体の間では原因と結果の連結は一致します。これは第二部定理七でいわれていることそのままであると考えてよいでしょう。したがって,ある観念が原因であってその観念の対象ideatumの中に起こることの観念が結果であるとするならば,要するにそれは,形相的にみられた場合の観念の対象ideatumが原因であり,その観念の対象ideatumの中に起こることというのが結果であるということでなければならないわけです。
第二部定理九に十全な観念という観点を導入し,そのことから第二部定理九系を読解するならば,つまりそれはこの原因とされている事柄,つまり客観的にいうなら観念が十全な原因となってその観念の対象ideatumの中に起こることの観念が結果として発生するということになりますし,形相的にいうなら観念の対象ideatumが十全な原因としてその対象ideatumの中に起こることを結果として発生させるということになるのです。
このとき,結果として生じる観念,つまり観念の対象ideatumの中に起こることの観念が十全な観念であるということは必然的な帰結です。これはまず第二部定理四〇からそうでなければなりませんし,第三部定義二と第三部定理一からもそうであるということになるからです。
故障や回避もあり,春のクラシックとは一変といっていいメンバーでの争いとなった第73回菊花賞。
一斉の発馬から最内のゴールドシップは位置を取りにいっているように見えましたが,行き脚がつかず結果的に最後尾。正面に入ってからダノンジェラートを内から抜いて17番手の追走。逃げたのはビービージャパンで最初の1000mは60秒9。これはミドルペースですが,スローペース並みに馬群が固まってのレースでした。
向正面に入り中ほどからゴールドシップが外を進出。4コーナーでは逃げたビービージャパンと中団からゴールドシップに合わせて進出したマウントシャスタの2頭の外までとりつきました。直線に入るとすぐに先頭。外からベールドインパクトが勝負を挑んできましたがこれを突き離し,最後は中を割って追い込んできたスカイディグニティを1馬身4分の3抑えて優勝。スカイディグニティが2着。勝ちにいって苦しくなったベールドインパクトを内からアタマ差だけ差し込んだユウキソルジャーが2馬身差の3着。
優勝したゴールドシップは皐月賞に続き大レース2勝目。ここは実績的に抜けていて,秋も前哨戦の神戸新聞杯を快勝していましたので,断然の人気に推されていましたが,その通りの順当な優勝。結果からいえばもう少しゆっくりと動き出せばもっと差をつけていたような気もしますが,横綱相撲での勝利は十分に強さを表現したものだったと思います。長距離戦はわりとタイムがレベルを反映する傾向にあり,ここはかなりいい時計ですので,相当なレベルにある馬と考えてよいと思います。父はステイゴールド,母の父はメジロマックイーン。星旗系風玲の分枝。
騎乗した内田博幸騎手と管理している須貝尚介調教師にとっては皐月賞以来の大レース制覇。内田騎手は第69回以来4年ぶりの菊花賞2勝目で,須貝調教師は初勝利。
まず最初に,個物の観念が現実的に存在するといわれるような仕方で存在する場合にも,その観念が神の無限知性のうちにあるということを確認しておきます。しかしこれは簡単でしょう。第一部定理一五によって,神のうちにはないような観念は自然のうちに実在することができないということは明らかです。よって現実的に存在するある個物の観念があるならば,それは神のうちにあることになります。そしてスピノザの哲学における知性とは,そうした個々の観念の総体のことを示すのですから,ある観念が神のうちにあるということは,直ちにその観念が神の無限知性のうちにあるということを意味するのでなければなりません。よって現実的に存在する個物の観念もまた神の無限知性を構成するようなものでなければならないということは明らかです。いい換えればそれは第二部定理七系の意味によって十全な観念として神の無限知性のうちにあるのであって,原因の十全性と観念の十全性との間にある関係から,この限りにおいては第二部定理九に原因の十全性という観点を導入したとしても,何ら問題は残らないということになります。
要するに,第二部定理九が,神の無限知性のうちにある観念であると理解すれば,当座の課題は解消できます。いい換えれば,それは神の無限知性のうちにはあることが可能ではあるけれども,たとえば人間の知性のような有限な知性のうちにはあることが不可能であるという視点で第二部定理九を読解すればよいわけです。
このときに,「無限に進む」ということばの積極的意味が鍵になるのです。すなわちそれが文字通りに無限に連鎖していくのであれば,それを認識することができるのは無限知性だけであるということは明らかだといえるからです。つまり僕はあるひとつの現実的に存在する個物の観念についていえば,第二部定理九の内容はたとえばある人間の精神のうちにある現実的に存在する個物の混乱した観念にも妥当すると考えますが,だからといって有限である人間の精神が,たとえ個物の混乱した観念であろうと,無限に多くの観念を有することが可能であるということは認めません。つまりこれが積極的意味の,現在の考察に関連した内容であることになります。
日本と中国の関係の悪化の影響で,上海で予定されていた対局が回避となってしまった第2期女流王座戦五番勝負第一局。公式戦初対局。
振駒で本田小百合女流三段の先手。加藤桃子女流王座は横歩取りに誘導しましたが先手はこれを拒否して浮飛車。対して後手が高飛車に構えたことが発端となり,早い段階から斬り合いの将棋となりました。
ここから後手は角交換して,飛車成りは受けずに△4五角。▲5三飛成△5ニ歩は必然。龍の行き場所がないので▲8六歩△同飛とどかして▲5五龍かと思いましたが,龍を逃げずに▲7七角と打ちました。これには△8八飛成▲同角としてから△5三歩。このままでは銀の丸損ですから▲1一角成として,△3三桂と逃げ,▲8五飛と打ちました。
この手では▲2一飛と打つ手もあり,たぶんその方がよかったのではないかと思います。手の善悪がどうこういうよりも,ちょうど角にヒモがついたところで8五に打つよりは,桂馬を跳ねた空間に打ち込む方が,勝負という面では優れているように思えるからです。
実際に第2図で差がついていないということはないでしょうが,どちらがどのくらいよいのかということは僕にはいまひとつ分かりません。ただ将棋はこの後の後手の迫り方が巧みで,圧勝と感じさせるような内容で終っています。
加藤女流王座が先勝。第二局は来月3日です。
こうした視点から第二部定理八系について考えるならば,少なくとも神の無限な観念がある限りおいてあるといわれている場合には,個物の観念の原因と結果の無限連鎖が,神の無限知性を構成しているということはもはや疑い得ないでしょう。いい換えれば,第一部定理二一によって神の思惟の属性の直接無限様態が発生するとき,その直接無限様態というのは,各々の個物の観念の原因と結果の無限連鎖からなっているということになります。そしてこのことが,「無限に進む」ということばの中に込められている筈のある消極的意味を,積極的にな意味として捕え直すことの第一義的内容であるということになるでしょう。
こうした事態を指して,福居純は『スピノザ「共通概念」試論』の中で,直接無限様態は個物であるという旨の主張をするわけです。前回の考察の中で述べたように,僕はそのような言い回しをすること自体には必ずしも賛同しかねますが,一方で福居が,個物の観念の原因と結果の無限連鎖というのを厳密な意味で支持するためには,このことを支持しなければならないという主旨の主張をするとき,僕は全面的にそれに同意します。
しかし,これではまだ第二部定理九に原因の十全性という観点を導入するという,現在の考察についての課題はまったくといっていいほど解決できていません。というのも,上述の事柄は,あくまでも個物の観念が神の思惟の属性に包容されている限りにおいてしかまだ成立していないのですが,第二部定理九は,わざわざスピノザがそのような断りを入れていることから分かるように,むしろ個物の観念が現実的に存在する場合についての言及であると理解するべきものであると思われるからです。
ただし,一方で,すでに最初にこの課題を立てた段階からは,かなりの程度まで前進することができているともいえます。なぜなら,この定理に原因の十全性という観点を導入するための条件というのは,現段階ではっきりと明らかになっているといえるからです。すなわちそれは「無限に進む」ということを積極的に理解することですが,そのためには,第二部定理九の無限連鎖もまた,神の無限知性を構成するというように読み取ればいいのだからです。
15日と16日に指された第25期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は渡辺明竜王が10勝,丸山忠久九段が7勝。
振駒で丸山九段の先手。角換り相腰掛銀で先手から同型を避け,飛車を4筋に。桂馬を2五に跳ね,角を2八に打つ,わりとよくある戦型に。戦いに入っても類例がある将棋で,先手が75手目にこれまで指されていない手を出しました。
ここで▲2三歩の叩き。王で取ると桂馬を取られるので△同金。対して▲1七角とぶつけ,△同角成▲同香と交換に。▲3一角を防いで△3ニ金と寄りました。先手から角を交換しにいったのですから,本当ならここで▲4四角の筈ですが▲8一龍。△7七歩成▲同金の後,△3三角と後手がこのラインに角を打つことになりました。
これはまだ1日目の局面なのですが,先手から角を交換したものの後手の方がそれを有効に使うことになり,少しリードしているようです。先手は入玉なども視野に粘り強く指す方法があったのではないかとも思えるのですが,2日目はやや淡白な指し回しとなり,一局を通しては後手の快勝といえるような内容で終っています。夜のうちに諦めてしまったのかと感じてしまうような将棋でした。
渡辺竜王の先勝。第二局は今月31日と来月1日です。
では個物の観念が現実的に存在するのではなく,神の思惟の属性に包容されて存在するといわれる場合には,第二部定理九で示されている原因と結果の無限連鎖は妥当しないのかといわれれば,僕はそうではないと考えています。このことは今回の考察よりも第二部定理九そのものに関係する考察であり,実際に前回のテーマの中で詳しく分析したことですから,ここでは繰り返しません。思惟の属性に包容されて存在している個物の観念の原因と結果の連結は,それが現実的に存在している場合の個物の観念の原因と結果の連結とは,異なった連結ではあるでしょうが,それが無限連鎖をするという点では同様であるというのが僕の見解です。
ここで再び第二部定理八系に注意を向けてみれば,実はスピノザは,僕がいっているように個物の観念が神の思惟の属性に包容されて存在するとはいってなく,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといっています。もう何度か指摘したように,スピノザの哲学では観念の総体のことを知性というのですから,これは神の無限知性が存在する限りで存在するというのと同じであると僕は理解します。いい換えれば,無限知性は思惟の属性の直接無限様態なのですから,第一部定理二一で神の思惟の属性の絶対的本性を原因とするような様態が存在する限りで,個物の観念も存在するということになります。
僕は,それが神の思惟の属性に包容される限りで存在するというのと,無限知性が存在する限りで存在するということの間に,意味の上で重大な差異があるとは考えません。しかしこれには疑問が生じる恐れもありますので,弁明しておきますと,この系をみれば分かるように,スピノザは観念の対象ideatumについては,神の属性の中に包容されて存在するといういい方をしています。これはこの系だけでなく,第二部定理八でも同様です。しかるに第二部定理七によって,観念の秩序と観念の対象ideatumの秩序は同一でなければなりませんから,観念の対象ideatumが神の属性に包含されて存在するするなら,その観念も神の属性,つまり思惟の属性に包容されて存在するというのも妥当だというのが僕の見解です。
北海道から2頭,笠松から2頭が遠征してきた第11回鎌倉記念。ミケネコが水野貴史騎手から金子正彦騎手に乗り替わり,ナスノキセキは競走除外で13頭。
大外からアイディンゴッテスが逃げました。ただしウィンゲイルはほとんど並び,向正面に入るとクラグオーも並び,3頭が雁行に。その後ろはヒカリワールドとミータロー。そしてマハッバとインサイドパーク。かなりの変則ラップですが,全体としてみればハイペースの部類でしょう。
3コーナーでアイディンゴッテスは一杯。ウィンゲイルが先頭で外にクラグオー。直線はまずこの2頭の競り合いで,これはクラグオーが競り落としました。その外からミータローが並び掛けましたが,これもクラグオーが凌ぎます。しかし大外からインサイドパークが伸び,ゴール前で差し切って優勝。クビ差でクラグオーが続き,1馬身半差の3着にミータロー。
優勝したインサイドザパークはデビューから連勝した後,2着が2回。ただその2回も1番人気に推されてのもので,南関東勢では有力と目された1頭。このレースは北海道勢が力を発揮すると上位というのが例年の傾向で,今年の2頭は逸走もせず力を出しました。それを抑えて勝ったのですから,わりと高いレベルにある馬と考えてもいいのではないかと思います。父はタイムパラドックス。祖母の従妹に2006年のエリザベス女王杯を繰り上がりで優勝したフサイチパンドラ。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は2009年末の東京2歳優駿牝馬以来となる久々の南関東重賞制覇。第6回と第7回を連覇していて,4年ぶりの鎌倉記念3勝目。管理している船橋の林正人調教師は第7回以来の2勝目。
第二部定理九の冒頭は,現実に存在する個物の観念となっています。これは諸定理の配置の意図から考えると,スピノザが直前の第二部定理八系を念頭に入れていると類推することができます。すなわち個物の存在,この場合には個物といってもとくに神の思惟の属性の個物である個物の観念のことですが,それにはふたつのあり方があるわけですが,そのうち,とくに個物の観念が現実に存在するといわれるような場合の原因と結果の無限連鎖を示していると考えられることになります。
ただし,個物の観念というのは,それが現実的に存在するようになったからといって,それは神の思惟の属性に包容される限りで存在するといわれている,もうひとつの存在のあり方を停止するというわけではありません。むしろ個物の観念が現実的に存在するといわれるようになれば,その個物の観念は,神の思惟の属性に包容されながら存在しつつ,また,現実的にも存在するようになるのです。
このことは,第一部定理一九からそうであるといわれなければなりません。この定理から神の思惟の属性が永遠であることは明白ですが,そうであるならその永遠である神の思惟の属性に包容されて存在している場合の個物の観念も永遠であるとみなされなければならないからです。いい換えれれば,個物は神のある属性に包容されて存在しているとみなされる場合には永遠に実在するのであり,現実的に存在するといわれる場合にはある一定の持続のうちに存在するということになるのです。要するに個物の存在のふたつの様式とは,一方は個物が永遠に存在する様式であり,もう一方は個物が持続のうちに存在する様式であるということになるでしょう。したがって,僕は個物の本性のうちには,それが現実的に存在するものであるということ,いい換えればある持続のうちに存在するということが含まれていると考えていますが,これは厳密にいうならば,個物が現実的に存在しているといわれる場合にのみ妥当するといえるかもしれません。少なくともそれが個物の本性として意味を構成し得るとすれば,それが一定の持続のうちに存在しているという場合に限られるようには思えます。
13日に開幕した熊本記念の決勝。並びは武田-神山の茨城栃木に海野,浅井-山田-坂上の中部,中川ー合志の熊本で佐藤は単騎。ただ,武田ラインをずっと追走しました。
前受けした浅井を打鐘前のバックで武田が叩きました。8番手となった中川がここから巻き返していき,ホームで武田を叩いてかまし先行。少し開いた3番手に武田,佐藤も続いてまた開いた7番手に浅井で一列棒状。バックから武田が捲りに出て,直線では番手から出た合志を捕えて先頭。しかし大外を佐藤が勢いよく強襲。このスピードが抜群で武田を捕えて優勝。武田が2着。合志と武田の中を割って神山が3着。
優勝した岩手の佐藤友和選手は7月の寛仁親王杯以来の優勝。その直前に小松島記念を制していて,記念競輪は通算6勝目。普通は武田に有利なレースだったのですが,バンクレコードを出すような素晴らしい伸びでした。調子がよかったということもあるのでしょうが,かつての力を完全に取り戻しているとみてもよさそうです。すでにグランプリを決めていますが,楽しみではないかと思います。
第二部定理一により思惟は神の属性です。そして第一部定理一一により神は必然的に存在します。このことから,思惟の属性の無限様態である神の無限知性が,実在的な意味においても必然的に存在するということは明らかです。そしてこのことが,無限知性と有限知性との間にある相違の,現状の考察と関係する第二の点を構成します。すなわち,無限知性も有限知性も同じように思惟の様態ですが,それがどのように発生するのかということ,いい換えれば第一部定理一五においてそれが神のうちにあるといわれるとき,どのような意味において神のうちにあるといえるのかということが,この両者では明確に異なるのです。
第一部公理三により,各々のものはそれが実在するためにはその原因を必要とします。ただしそれが思惟の様態である以上,第一部定義五によってそれが自分自身のうちにあるということはできません。つまり第一部定義一でいう自己原因ではないのです。なのでその存在する原因は,それ自身の外部に求められなければなりません。
このとき,人間の精神のような有限な知性は,少なくともそれが現実的に存在するといわれるためには,第二部定理九で示されているような仕方で存在します。しかし,個物の観念ではない無限知性の場合には,この定理は該当しません。神の無限知性は第一部定理二一の仕方で,神の思惟の属性の絶対的本性を直接的原因として発生するということになるのです。つまりここから理解できることは,神の無限知性が生じる原因と結果の連結は,第二部定理九では説明されていない,あるいはそこから漏れているということなのです。
福居純が『スピノザ「共通概念」試論』の中で行っている取り組みは,第二部定理九でいわれている原因と結果の無限連鎖と,神の無限知性とをどのように関連付けることができるのかという観点です。というか,それは福居自身の主題ではないとしても,こうした福居の視点が,ここでの僕の考察と大いに関係してくるのです。いい換えるなら,もしもそれを論理的に関連付けられるならば,「無限に進む」ということばの消極的意味を,積極的な意味に置き換えられるだろうということです。
ジェンティルドンナの牝馬三冠がかかった第17回秋華賞。
最内から鞭も入れてヴィルシーナの逃げに。メイショウスザンナはほとんど並ぶように続き,キャトルフィーユとアイスフォーリス,ダイワズーム,サンシャインとアイムユアーズ,さらにトーセンベニザクラが続き,その後ろにハワイアンウインドとジェンティルドンナ。この隊列はほとんど変わらなかったのですが,向正面に入ると後方からチェリーメドゥーサが進出し,一気に先頭を奪いました。前半の1000mは62秒2という超スローペースでしたのでこうした走行が可能になったともいえます。
チェリーメドゥーサは前走も2コーナーでは後方,そこから一気に動いて3コーナーでは先頭という競馬をしていたのですが,今日は向正面で先頭を奪った後もほとんどスピードを緩めず,ぐんぐんと離していき4コーナーでも5馬身以上のリード。最後は5着でしたが十分に見せ場を作りました。アイスフォーリスの進出に合わせてヴィルシーナも前を追い始め,控えていたジェンティルドンナが大外からそれに襲い掛かる形。ジェンティルドンナが一旦は完全に先頭に立ったように思えるのですが,そこからヴィルシーナが差し返しにいき,ほぼ並んでのゴール。それでもジェンティルドンナがハナ差だけ抑えていて牝馬三冠達成。一方のヴィルシーナは牝馬三冠いずれも2着。1馬身半差の3着に脚を溜めて追い込んだアロマティコ。
優勝したジェンティルドンナはオークスに続く大レース3勝目。秋の初戦となったローズステークスも完勝していて,春とは異なりここは挑戦を受ける立場。位置取りはやや悪くなりましたがそれを能力でカバーしたようなレース。もしもエリザベス女王杯に進むならば本命でしょうし,牡馬のトップクラスが相手でもいい競馬ができるだけの馬だと思います。父はディープインパクト。全姉に今年の京都牝馬ステークスと関屋記念を勝っている現役のドナウブルー。Gentildonnaはイタリア語で淑女。
騎乗した岩田康誠[やすなり]騎手はスプリンターズステークスに続いて今秋の大レース2勝目。第13回と第16回を優勝していて秋華賞は2年連続の3勝目。管理している石坂正[せい]調教師はオークス以来の大レース制覇で秋華賞初勝利。
第一部定理三一からも分かるように,神の無限知性もたとえば人間の有限な知性も,それが絶対的思惟ではなく,思惟の様態であるという点では何ら変わるところはありません。しかし,同じように思惟の様態といわれるのであっても,無限知性と有限な知性の間には,非常に大きな差異もまたあるのです。
これは,無限知性がまさに無限知性といわれている点に関係します。すなわち,たとえば人間の精神のような有限な知性は,第一部定理二五系でいわれているような,神のある属性,この場合には思惟の属性を一定の仕方で表現するような様態なのですが,無限知性はそうではありません。無限知性は無限様態なのであって,具体的にいうなら神の思惟の属性の直接無限様態であるということに,スピノザの哲学ではなっているのです。
このために,同じように思惟の様態とされてはいても,神の無限知性と人間の精神とでは,いくつかの差異があると考えなければなりません。ここでは,現在の考察と関連するふたつの差異を指摘しておくことにします。
第一に,もしもある知性が現実的にあるといわれる場合に,人間の精神のような有限な知性というのは,思惟の属性の有限様態,すなわち個物であるわけですから,第二部定義七によって,それはある一定の持続のうちに存在するということになります。ところが,神の無限知性の場合には個物ではありませんから,このことが該当しません。むしろこれは直接無限様態なので,第一部定理二一にあるように,一定の持続のうちに実在するというわけではなく,むしろ永遠から永遠にわたって存在するといわれなければならないのです。
したがって,思惟の属性の個物である有限な知性は,それが存在する原因が与えられなければ,第一部公理三によって現実的には存在しないということになります。しかし神の無限知性はそうではありません。それは様態ですから,第一部定理一により本性の上では思惟の属性の存在が「先立つ」わけですが,これは時間的な意味において先行するという意味ではありません。むしろ思惟が神の属性であるならば,必然的に存在するような様態であるということになるのです。