スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
里見香奈女流王座の休場により,挑戦者決定戦に進出した加藤桃子女王と西山朋佳奨励会二段で五番勝負を戦い,勝者が新しい女流王座に就位することになった第4期女流王座戦 五番勝負の第一局は,29日に郡山で指されました。女流公式戦では初手合い。
郡山市長の振駒 で西山二段の先手。加藤女王の2手目が☖8四歩だったこともあり,中飛車 。後手から角を交換し,先手は向飛車に転換。先手からは手を出していきにくい展開になりました。
先手が6六の銀を引き,玉を固めようとしたところ。誘われている感もありますが,チャンスでもありますから☖5五歩と仕掛けました。☗同歩☖同銀のとき,先手は☗3七角と打ちました。
3六に歩が突いてあるのは違和感もありますが,この手を狙いとしたものでしょう。ただ,角を手放しますから,先手としては何らかの代償が得られる展開にならないとまずいものと思われます。
後手は☖5二飛 と飛車を回って受けました。☗5六歩と打ち,☖6四銀と引かせて☗6六歩と突いていくのは先手の反撃筋ですが,☖3三桂と跳ねて角銀両取りを狙われたときに,☗4六歩と受けることになりました。
これでは角を打ってしまっただけ先手が損をしたといわざるを得ません。第2図の☗4六歩では両取り覚悟で☗6五歩と突くか,それが嫌なら千日手になることも覚悟で第1図で☗5七銀ではなく☗3七桂と跳ねるべきではなかったのではないでしょうか。
この後,後手は馬を作りましたので,大駒の働きの差ではっきりとしたリードを奪いました。寄せ方に危ういところがあったものの,逆転の局面はなく,後手が勝っています。
加藤女王が先勝 。第二局は来月13日です。
結果からいえばサトノギャラント は5着でした。ただ,とても不思議なレースをしたのです。
このときの新潟競馬場の芝コースは悪化していました。このため,とくに外回りのレースは,各馬が馬場の外目に進路を取り,スタンドに近い位置で叩き合うケースがほとんどでした。そしてこのレースもそうなったのです。ところがサトノギャラントだけは,ほかの馬とは関係なしに最内に進路を取り,他馬と離れた位置からゴールを目指したのです。
馬は自分でコースを選択するわけではありません。騎手に導かれます。サトノギャラントは北村宏司騎手が主戦で,このときも騎乗していました。数多く勝っている騎手ですし,サトノギャラントのことを最もよく知っている騎手です。ですからこのように馬を導いたのは,僕には分かりませんが何かはっきりとした理由があったものと思います。そしてこのコース取りに,僕は非常に強い印象を受けました。
だれもが不利と思っているコースに進路を選択するのは,とても大きな決断だったと思うのです。しかし自分がそれがベストであると確信するなら,他者がどのようにそれを受け止めようと,その道を選択しなければならない。このレースは,僕にそのようなことを教えてくれるレースになったのです。ついでにいうなら,結果的に5着だったというのも,当時の僕にとってはまことに都合がよいものでした。というのもこうした選択が見事に当たって,勝つようなことがあったら,自分の置かれていた状況とのあまりの差異に,僕は思いを重ね合わせることができなかったでしょう。しかし惨敗していれば,自分の道を選んでもうまくはいかないというように思わされてしまったかもしれません。ぎりぎりで掲示板を確保するという5着という結果が,僕にとって最適であったと今は思えます。
エーピーギン。ブリンクマンシップ。ポンポーワ。ヤマニンリコール。思いつくままに書き連ねましたが,いずれも僕の人生の中で,何らかの決断に関与したり,力を与えてくれたりした馬たちです。たぶんレッツゴーキリシマ もそうだったのです。そしてサトノギャラントもそうした馬たちの仲間に加えられました。
26日の午前に加古川市立青少年女性センター で指された第4回加古川青流戦 決勝三番勝負第二局。
藤森哲也四段の先手で相掛り。先手が浮き飛車に構えたので,後手の石田直裕四段は引き飛車。先手が早繰り銀を目指したところで,後手が新機軸の対応を繰り出しました。
ここで△8八角成▲同銀と交換してしまい,△4二銀と上がるのが新対策。対して▲3四歩と打つのは,この戦型では部分的にある手筋なのですが,この場合の対応としてはまずかったのではないかと思います。後手は△4四歩と突いておき,▲4六銀の早繰り銀には腰掛銀で△5四銀。ここで▲3五銀と取れないといけない筈なのですが,△8五飛で困るようです。なので▲7七銀△4三銀▲6六銀 と,手得で上がった銀を使うことになりましたが,△3四銀と取られてしまいました。
第2図となっては後手の対策が最もうまくいったといえるのではないでしょうか。先手に別の指し方が求められる一局でした。
将棋は後手が勝勢に近いところまでいったものの,寄せの段階でミスを犯して逆転。しかし先手も寄せを誤ったため,再逆転で後手の勝ちとなりました。
連勝で石田四段が優勝 。棋戦初優勝です。
精神的限界 に達すると自分ではどうすることもできません。他人には頼れないので,こういう場合は馬に気持ちを託すことになります。まったく異なった限界でしたが,何度かそうしたことがありました。
9月14日,新潟競馬のメーンレースは京成杯オータムハンデキャップでした。出走馬の中から僕は1頭を選びました。サトノギャラントです。
今,なぜこのときに彼を選択したのかを思い出せないのです。忘れてしまったのは,この選択が劇的な効果をもたらしたからなのかもしれません。
彼は発走後の加速に難がある馬です。なので後方に置かれるレースがほとんど。それだけで不利です。さらにこのレースは逃げ馬が不在で,スローペースが予想されましたから,不利の度合いはさらに大きくなると考えられました。そして彼は,硬めの早いタイムが出る良馬場で持ち味を最も発揮できる馬です。雨が多かった夏の時期にずっと使い続けていた新潟の馬場は,むしろ彼の真価を殺ぐような状態でした。要するに勝つということは非常に困難であると想定できたのです。
僕は馬券の主力は今は三連単です。ただし,ひとつのレースにどんなに多くても20点までしか買わないという制約を自分で設けています。ですからかなり絞って馬券を勝っている方なのではないかと思います。サトノギャラントは,出走すれば上位人気になる馬で,馬券的な妙味という点では乏しい馬です。それが条件的には不利だったのですから,普段の予想スタイルというものを踏襲していれば,真先に馬券の対象から外すような馬でした。
もっとも,このときは自分の気持ちを鎮めること,精神的変調 から立ち直ること,そして精神的限界を乗り越えることを目的としていたのであり,馬券を的中させるということは二の次だったのですから,そういう馬を選んだこと自体は少しも不思議ではありません。ただ,選ぶなら選ぶだけの理由はあった筈です。そしてそれはおそらく,そのときの僕の心境を,彼に合致させることができたからだったのは間違いないと思うのです。でも最終的に決断したその理由,それが今になってどうしても思い出すことができないのです。
北海道から3頭が遠征してきた第60回平和賞 。
逃げたのは最内のナイキアフォード。フラットライナーズとドライヴシャフトは差がなく続き,直後に控えたのがジャジャウマナラシ。ここから間が開いてウインバローラスが5番手。その後ろはストゥディウム,コーズウェイ,ツルノヒトコエの3頭が集団。メジャーメアリーとコンドルダンスが続き,アンボワーズだけは取り残されました。前半の800mは50秒4でハイペース。
向正面でコンドルダンスが外から進出。前にいた馬で対応できたのはドライヴシャフトだけで,この2頭が並んで直線に。手応えはコンドルダンスの方が上回っていたのですが,ドライヴシャフトも懸命に食い下がり,コンドルダンスは振り切るのに手を焼きました。その間に内目から漸進していたストゥディウムが,直線は最内にいたフラットライナーズとドライヴシャフトの間から伸び,コンドルダンスを捕えて優勝。クビ差の2着にコンドルダンス。道中は最内から上昇し,直線で外に出したメジャーメアリーがドライヴシャフトを捕えて2馬身差で3着。
優勝したストゥディウム は南関東生え抜き。2戦目で初勝利の後,いずれも上級クラスで3着,2着,4着。安定した成績ですからチャンスはあった馬。ただ今日は展開とコース取りが大きな要因となっての勝利という印象で,このメンバーの中でも抜けた力があるというようにはいえないように思います。父は2007年のスパーキングサマーカップ ,2008年の金盃 と東京記念 ,2009年の東京記念 と南関東重賞を4勝したルースリンド。その父はエルコンドルパサー 。祖母の半姉に1998年のJRA賞最優秀2歳牝馬のアイドルマリー 。Studiumはドイツ語のスタジアム。
騎乗した船橋の石崎駿騎手 は5月の大井記念 以来の南関東重賞制覇。第51回,56回 に続く4年ぶりの平和賞3勝目。管理している船橋の矢野義幸調教師 は平和賞初勝利。
自分にとってある関係が,必然的に自分に悲しみをもたらすと理性が認識したとします。このとき理性は,この関係を継続しないように命じます。他面からいえば,理性が認識するこの観念は,この関係を否定する意志作用 です。これが第二の指針 です。
しかし,いくら理性がそのように認識したからといって,人生というのはそうした関係を簡単に絶てるものではありません。絶ちたいと思っても絶つことができないような関係が多く存在するということは,僕たちが経験によってよく知っているところだと思います。もっというなら,人間関係というものは,相手があってのものです。ですからこちらでその関係を絶つように努めたとしても,相手がそれに同意しない限り,この関係を完全に絶つことはできません。たとえばストーカーというのは,この極端な例であるといえるでしょう。ここに第二の指針の非現実性が存すると僕は思うのです。
僕の場合も,それが僕の悲しみを発生させる関係であるということは理解できていたのですが,それを絶つことはできませんでした。一般的な意味でいえば,この関係を継続していくことは,僕が生きていく上で必要であったからです。そしてそういう関係であったから,頻繁に現在化する関係でもありました。このゆえに悲しみの再生産 は続きましたし,生産量も大量になっていったのです。
さすがにこうした状態が続いていくと,精神的に倒れそうになります。あるいは倒れていたといっていいのかもしれません。いうまでもなく倒れるというのは運動であり,精神は思惟の様態ですから,これは比喩にすぎません。理解しやすい方を用いてもらえればいいです。
倒れそうになったときにだれかが支えてくれるとか,倒れてしまったらだれかが助け起こしてくれるといったような生き方には僕はなっていません。なので倒れそうなら自分でうまくバランスをとらなければなりません。倒れてしまったのなら,砂を掴んで自ら立ち上がらなければなりません。しかしそれがうまくいかない場合も当然ながらあるわけです。9月の中旬になって,その限界点に達しつつあった,あるいは達してしまったのです。
単発のエボリューションも併せて行われた防府記念の決勝 。並びは浅井-金子の中部,脇本-村上の近畿に福田,中川-岩津-桑原の西国で野田は単騎。
スタートは金子が取って浅井の前受け。一時的に中川が3番手でしたが,単騎の野田が上昇すると入れて,野田が3番手,中川が4番手,脇本が7番手という周回に。残り3周のバックで中川がまず動き,浅井を叩いて先頭に。これを脇本が追い上げ,ホームで中川を叩いて一列棒状となり,このまま打鐘。ホームから7番手になった浅井が発進すると,併せて中川も発進。浅井は岩津の牽制で失速。早くから車間を開けていた村上が中川に併せて発進。福田も続いたのでインが開き,中川マークの岩津が脇本と福田の間を縫うようにして直線入口で先頭に出るとそのまま優勝。桑原を弾くように岩津を追う形になった野田が4分の3車身差で2着。一番外を捲った中川が1車身差で3着。
優勝した岡山の岩津裕介選手は6月の川崎記念 以来の記念競輪6勝目。防府記念は初優勝。中川マークでしたので,捲りを差すという形は難しいかと考えていましたが,うまく開いたコースを突き,優勝するならこれしかないというくらいのレースになりました。記念6勝のうち3勝が今年に入ってからのもので,着実に力をつけているとみてよいでしょう。中国地区はあまり位置に恵まれないケースがありますが,今日のような混戦レースとなれば,ビッグまで手が届いておかしくないように思えます。
悲しみの再生産 のダイナミズムは,スピノザによる第二の指針の前提となります。悲しみを再生産するシステムを理性的に認識すると,その認識によって,再生産から逃れるためにはどのように行動すればよいのかということが理解できるからです。すなわちそれは,自分が悲しみを知覚すること,またかつての悲しみを想起することを,可能な限り避けるように行動することです。つまり理性が教えることにより,悲しみとの出会いを減らすことが人間には可能です。同じ理由により,喜びとの出会いを増やすということも可能だといえるでしょう。
ただし,この第二の指針もある難点を抱えています。最初の指針 の難点は,悲しみを完全に除去するには至らないというものでした。第二の指針の難点はそれとは違っていて,現実的でない側面があることです。いい換えれば,現実的に存在する人間は,必ずしもこの指針の通りに生きていくことはできないということです。
具体的に説明していきましょう。基本感情 のうち,喜びと欲望は人間の能動 であり得ます。よってそれはその人間の本性によってのみ説明できる場合があり得ます。他面からいえば,人間は自身の喜びおよび欲望に対しては,十全な原因であり得るのです。ところが,悲しみは必然的に受動 なので,人間の悲しみはその人間の本性のみでは説明することができません。つまり人間は自分の悲しみに対しては,必然的に部分的原因なのです。
これらのことは,以下のようにいい換えることができます。人間は外部の物体と関係することなしに,喜びや欲望を感じることができます。しかし悲しみは,何らかの外部の物体との関係があることによって生じてくるのです。悲しみに対して人間が部分的原因であるというのは,悲しみを感じる人間以外に別の原因があるという意味ですが,その原因こそ,悲しみを感じる人間と関係する外部の物体なのです。
したがって,第二の指針を,悲しみに関してのみ具体的に示すならば,自身に悲しみをもたらすような外部の物体との接触を避ける,またそうした物体との関係を断絶するということです。でもここには非現実性があると僕は思います。
25日に加古川市立青少年女性センター で指された第4回加古川青流戦 決勝三番勝負第一局。対戦成績は藤森哲也四段が1勝,石田直裕四段が0勝。
加古川市長の振駒 で石田四段の先手。藤森四段のノーマル四間飛車 。先手が居飛車穴熊を目指したのに対し,後手が左銀を先手玉頭方面に繰り出す急戦。このあたりは後手がうまく指していたと思えますが,その後がまずく,本格的な戦いに入ったところではすでに大差という将棋になってしまいました。
先手が歩を打って中央を制圧しにいった局面。すでに先手は穴熊に囲うのは難しくなっているので,△7ニ銀くらいで後手が十分に戦えたよう。しかし△4五歩とさらに咎めにいこうとしました。先手は▲5六飛と,銀ではなく飛車で守りました。もっとも▲5四歩の突き出しがありますから,この場合はこの方が自然かもしれません。△4三銀と引いて守りました。先手は▲2四歩△同歩と利かしてから▲3七桂 。後手も桂馬を使うか桂馬を取るかしないとバランスが保てませんが,ここでは桂馬は使えないので△4四角。先手の▲4五桂は気分のいい二段活用。△3二飛と回れなかった後手は△5三歩と受けました。
先手が前進したのに対し,後手は自ら屈服してしまったような形。これ以降は一方的な内容で先手の完勝でした。
石田四段が先勝 。第二局は昨日の午前に指されました。
もしもある人が,かつてある事物を知覚したとき,それによって悲しみを感じたとします。他面からいえば,悲しみとともにある事物を知覚したとします。すると後にその人がその事物を想起するときには,やはり悲しみとともにそれを想起することになります。このことは,なぜその知覚が悲しみをもたらしたのかということを,当人が十全に認識したからといって,避けることができるというものではありません。まったく異なった例ですが,スピノザがいっているのは,人間の精神が,地球と月との距離を十全に認識したとしても,その精神は月を表象するときには,その十全な観念の有無とは無関係に,実際の距離よりも近くに存在するものとして月を表象するということです。悲しみについても,これと同じことが妥当します。第四部定理一 が悲しみに関連して述べている事柄は,具体的にいうならこのような事柄であることになります。
さらにいうと,このことは表象全般にわたって成立します。つまり,かつて悲しみとともに知覚した事物を後に悲しみとともに表象するというのは,別に想起の場合に限った話ではありません。というのは,かつて知覚した事物を,後にまた知覚するということは,いくらでも生じ得るからです。そのときにも人は,また悲しみに苛まれることになります。
僕に発生した事態というのは,まさにこのような事態であったといえます。僕は僕に汚名 を着せているのではないかと思っている相手に会うたびに,その汚名を表象し,不名誉 を感じました。それが飛び火 したと認識して,悪評を立てられた人に会うたびに,恥辱 を感じました。そしてそれらの悲しみがなぜ僕自身のうちに湧き上がってくるのかということ,そしてそれがなぜ止むことがないのかということは,僕は確かに十全に認識できていたのだと思うのです。だけどそれは悲しみの発生を制止することができるものではありませんでした。
このようにして,人は自分の悲しみを再生産していくものなのです。それが限定された再生産であるなら,さほど問題にはなりません。しかしこのときの僕の場合は,大量生産とでもいうべき循環に陥っていたのです。
牡馬クラシックの最終戦,第75回菊花賞 。
逃げたのはサングラス。続いたのがマイネルフロストとシャンパーニュの2頭。トゥザワールドが単独の4番手。トーホウジャッカルとゴールドアクターが併走で続き,その後ろのワンアンドオンリーは行きたがっているように見えました。さらにハギノハイブリッド,ワールドインパクト,サウンズオブアースの3頭。最初の1000mは60秒9で,スローペースといえるのでしょう。
3コーナーを回るとシャンパーニュがスパート。後退するサングラスの外からマイネルフロストが追いました。トーホウジャッカルはコーナーは内を回り,直線ではマイネルフロストの外へ。一旦は先頭に立ったマイネルフロストをトーホウジャッカルが交わして抜け出そうとすると,マイネルフロストの内を突いたサウンズオブアースが追い上げ,外を回った馬は伸びずに2頭の優勝争い。先んじていたトーホウジャッカルが最後まで譲らず,3分01秒0というこれまでの記録を1秒7も更新する大レコードで優勝。半馬身差の2着にサウンズオブアース。しぶとく伸びたゴールドアクターが3馬身半差で3着。
優勝したトーホウジャッカル は2歳のときに腸炎を患い,九死に一生を得た馬。そのために今年の5月31日にようやくデビュー。7月に3戦目で初勝利を上げ,連勝。1000万条件は2着でしたがトライアルで3着に入り出走権を獲得していました。生命力の強さがあり,このキャリアでここまで走るのですから,相当の大物である可能性もあるでしょう。長距離は意外とタイムの信用性が高いのですが,今週の京都競馬場はやたらとタイムが早かったので,それをどこまで評価してよいかは微妙。こういう馬場状態は外を回ると圧倒的に不利で,内目の枠を引けたのは幸いしたと思います。父はスペシャルウィーク 。半姉に今年のCBC賞を勝っている現役のトーホウアマポーラ 。
騎乗した酒井学騎手は一昨年のジャパンカップダート 以来の大レース2勝目。管理している谷潔調教師は開業19年半強で大レース初制覇。
第一部公理四 は,結果の認識が原因の認識に依存することを示しています。人間が悲しみを感じることにも必然的な原因があります。ですからその悲しみの原因が十全に認識され得たならば,悲しみ自体もまた十全に認識されることになります。
重要なのは,このような思惟作用からは,一切の悲しみが生じてこないということです。なぜなら,人間が事物を十全に認識するのは,その人間の精神の能動 にのみ属します。これに反して悲しみは,悲しむ人間の能動から生じることはなく,受動にのみ依存するからです。なのでこうした思惟作用からは,何らかの喜びや何らかの欲望が生じることはあり得るのですが,悲しみが生じることはありません。そしてそうして生じる欲望や喜びは,悲しみを軽減するのに役立つ余地があるのです。
簡単にいえば指針はこういうことです。もしも悲しみを感じたならば,なぜ自分が悲しみを感じているのかということを,理性 によって能動的に考えるのです。そしてこれを考えている間は,人間はその悲しみから逃れていることができます。そして考えた末に結論を得るに至ったならば,その結論から生じる感情が,それまでの悲しみを軽減し得るかもしれません。
ただし,この指針は絶対的なものではありません。悲しみを軽減させることはできるかもしれませんが,悲しみを消滅させることはできないからです。第四部定理一 が悲しみという感情と関連して述べていることは,このことであるといえます。
ではなぜこれだけでは悲しみを除去するには至らないのでしょうか。このことも『エチカ』では論理的に示すことが可能です。その方法はまたいくつかあるのですが,第二部定理一七系 ,いい換えれば表象の種類 のうち,想起ということと関連させてここでは説明してみます。
この系が示しているのは,人間の精神は,かつて知覚したものを,後に想起し得るということです。これ自体は経験的に当然のことをいっています。ただ,人間は一般的に,かつてある事物を知覚することによってある感情に刺激されたならば,後にその事物を想起したときにも,それと同じ感情に刺激されるのです。
昨日の第45回新人王戦 決勝三番勝負第三局。
振駒 で阿部光瑠四段の先手で佐々木勇気五段が横歩取りへ。後手がうまく戦機を捉えた将棋であったようには思えます。
先手が反撃の飛車を打ち込んだ局面。後手はと金をうまく使いたいところ。△8八とを読んでうまくいかないので△8二銀と逃げたのですが,△7九とと使う手はあって,そう指すべきであったようです。先手は当然▲7ニ飛成。
そこで△7六飛と打ったのですが,これは疑問で,△7三飛と下から打って千日手を狙いにいくべきであったよう。▲同龍△同角のとき,先手から▲8四角と打つ手があったためです。
ここまで進むと△7三銀 ▲同角成△6六桂▲4八玉△7八桂成とするのは仕方ないように思います。そのときに先手は▲5一馬△同王▲7一飛と王手角取りを掛けました。
この角を取られて後手の攻めが細くなりました。しっかりと受けて駒を蓄えた先手が,最後は即詰みに討ち取って勝っています。
阿部四段の優勝 。棋戦初優勝です。
人間の現実的本性から避けることができない悲しみとの遭遇に,どのように対処するのが適当なのでしょうか。その指針のヒントはいくつかあるのですが,第三部定理四八はそのひとつであると僕は考えます。
「愛および憎しみ―例えばペテロに対する―は,憎しみが含む悲しみおよび愛が含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には消滅する。また両者[愛および憎しみ]は,ペテロがそのどちらかの感情[喜びあるいは悲しみ]の唯一の原因でなかったことを我々が表象する限りにおいて減少する 」。
愛は外部の原因の観念を含む喜びで,憎しみは外部の原因の観念を含む悲しみなのですから,この定理はきわめて当然のことをいっているにすぎません。喜びや悲しみの原因がペテロでなくパウロであったとしたら,ペテロへの愛はパウロへの愛へ変るでしょうし,ペテロへの憎しみはパウロへの憎しみに変ずるであろうからです。また,喜びや悲しみの原因が,ペテロだけでなくペテロとパウロのふたりであったとしたら,愛や憎しみの原因は分散されますから,ペテロへの愛は減少し,その分だけパウロへの愛が生じることになりますし,憎しみに関しても同様であるからです。
ではなぜこれが指針のヒントになり得ると僕が考えるのかといえば,そこに原因の観念が含まれているからです。もちろん僕たちがある悲しみとの遭遇 を経験したとき,その悲しみの原因としてAを表象したならば,これはAへの憎しみという,別の悲しみが発生してくるだけであって,悲しみを除去したり軽減したりできるわけではありません。また,念のためにいっておけば,この定理は愛,すなわち喜びに関しても,表象と結び付けられていますから,受動的な愛,受動的な喜びに関してのみいわれているのです。それでも,原因の観念が変化することによって,感情のありようが変ってくるということ,それが確かであるということは,この定理から明白になっているといえます。そしてこのことが,指針のヒントとなり得る要素を含んでいると僕は考えるのです。なぜなら,第一部公理三 から,僕たちの悲しみとの遭遇にも,必然的な原因というものがあるからです。
横浜で指された昨日の第62期王座戦 五番勝負第五局。
振駒 で羽生善治王座の先手。豊島将之七段の横歩取り 。後手が早めに飛車交換を挑むも 先手が拒否。持久戦になり,先手が矢倉,後手が中飛車で美濃囲いのような戦型。戦闘開始までは後手の模様がよかったと思いますが,中盤では先手が盛り返し,一時的には非常に大きなリードを奪っていたと思います。ただ,性急に決めにいったのが裏目となり,後手にも勝ち目がありそうな最終盤の争いへと展開しました。
部分的には受からない詰めろですが,△9八飛▲8八桂△9三飛成と抜く手があります。先手の感想では,この局面では勝ちかどうか怪しいとのこと。▲9三同飛成はこれしかなく,△8二銀の受けに▲同龍と取ってしまい,△同玉と進めました。
ここからの手順は▲9一銀△同玉▲9三歩△8二玉▲9ニ歩成△同玉▲9四歩△8二玉▲9三歩成 △7一玉▲9一飛。後手はすべて必然の応手。先手は銀を捨ててから歩で迫るという手順でしたが,第2図で▲9三銀と打てば,△同玉はないので△7一玉よりなく,実戦の手順は大きく損をしていたことになります。実戦の手順を読んで,銀を9一でなく9三に打つ手に気付かないというのはとても不思議な気がしました。
ここで△5一金寄だったので▲5四香で受けに窮することに。△5二金上の方が難解で,厳密には先手の勝ちらしいのですが,そこまでの流れからいえば逆転まであったかもしれません。最後の二拓で間違えるのは現状の力ですから仕方ありませんが,頑張ってかなりのところまで差を詰めただけに,豊島七段としては惜しい一手であったと思います。
3勝2敗で羽生王座の防衛 。第40期に初の王座に就くと41,42,43,44,45,46,47,48,49,50,51,52,53,54 ,55 ,56 ,57 ,58期 まで一九連覇。60期 に復位して61期 に続く三連覇で通算22期目の王座です。
僕の精神的変調 の主要因となった悲しみは,これですべてです。ここからまた一般的な記述を導入します。
第四部定理四系 から明らかなように,人間は受動に隷属することから逃れることができません。第三部定理五九 から分かるように,悲しみは人間の受動だけに関係します。したがって,人間は現実的に存在している限り,いくらかの悲しみから逃れるということは不可能です。他面からいえば,悲しみと遭遇せずに生きていくということは,人間にとって不可能です。
こんなことはだれでも経験的によく知っていることですから,改めて論理的に説明するまでもありません。しかし僕がここであえてそのようにしたのは,このことから,生きていくときの指針とでもいうべきものが発生してくるからです。
悲しみは必然的に受動 ですから,これを精神とだけ関係させて説明すれば,混乱した観念だけが関連して,精神の能動 に属する十全な観念は無関係であることになります。だから,混乱して認識している事柄を,十全に認識すればよいのかといえば,実はそうではありません。これはスピノザ哲学の指針にはなり得ないのです。なぜなら,第四部定理一 が示しているように,真なるものが真であるということだけでは,虚偽は消滅しないからです。別のいい方をするなら,Xの混乱した観念がある人間の精神の現実的有の一部を構成しているとき,この同じ人間が,Xを十全に認識したというだけでは,Xの混乱した観念は,Xの精神の現実的有のうちから除去されません。つまり同じ人間の精神のうちに,Xの十全な観念とXの混乱した観念が,一般的な意味において同時に存在し得るのです。
このことは,混乱した観念は混乱しているので,それを認識する知性の本性を十全には説明しないけれども,本性を含んでいる観念であるということに関係します。ごく簡単にいえば,悲しみは実在性 ,すなわち力という観点からみた本性が,より大なる状態からより小なる状態へ移行することですが,それでも実在性であるという点に変りはありません。人間が悲しみを感じる場合にも,そこには自分の本性が,部分的ではあっても必ず含まれているのです。
昨晩の第21回マイルグランプリ 。
好発はソルテ。1コーナーに入るところでは前にいたかと思われますが,最内のゴーディーが押して引かなかったので,ゴーディーの逃げに。2番手のソルテ,3番手のセイントメモリーまで斜めに並んで追走。少し開いて内からツルオカオウジ,ネコイッチョクセン,トーセンアドミラルの3頭が追走。さらに開いてセイリオス,インペリアルマーチ,グランディオーソ,ミラーコロ,ジェネラルグラントの5頭が集団で続きました。前半の800mは47秒8で,これはハイペース。
3コーナー過ぎからソルテとセイントメモリーは騎手の手が動き出しました。ソルテは直線でやや苦しくなりましたが,セイントメモリーはしぶとく食らいつき,ゴーディーを交わして先頭に。内から2頭目を追い上げ,直線ではトーセンアドミラルを弾くようにセイントメモリーの外に出したグランディオーソが伸びてきて,2頭がほぼ並んでのゴール。優勝は先に抜け出していたセイントメモリーでグランディオーソはハナ差の2着。逃げ粘ったゴーディーが2馬身差で3着。
優勝したセイントメモリー は前々走のサンタアニタトロフィー 以来の南関東重賞4勝目。重賞も勝っている馬で,ここでは能力最上位。ただ59キロを背負っていたので,厳しいかと考えていました。早くに手が動き出したのはその影響であったと思いますが,馬が一杯になっていたわけではなかったようです。底力の勝利といえるでしょう。叔父に1999年の北九州記念を勝ったエイシンビンセンス 。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手はサンタアニタトロフィー以来の南関東重賞制覇。マイルグランプリは初勝利。管理している大井の月岡健二調教師は第18回 以来3年ぶりのマイルグランプリ2勝目。
第三部諸感情の定義三一 の恥辱という感情にも僕は襲われることになりました。これは以下のような事情によります。
最初の出来事で,仮に僕が嘘をついたという汚名 を着せられていたのだとしても,僕はそれによって不名誉 を感じることはあっても,恥辱を感じることはありませんでした。なぜなら僕は実際に嘘をついたというわけではない,いい換えれば,非難の対象となるような行為をなしたわけではないからです。
ただ,そのような状況を発生させてしまったことに対する後悔というのはありました。事前に後の状況を勘案しておけば,これを避けることができたと思えたからです。つまり軽率に行動してしまったということに対する反省はあったのです。しかしそれは後悔なのであって,恥辱ではありません。感情の対応関係でいえば,すでに示したように,名誉が自己満足の一種であるというのと同じ意味において,恥辱は後悔の一種です。そしてここでは詳しくは説明しませんが,名誉と恥辱が反対感情 であるというのと同じ意味において,自己満足と後悔は反対感情であるというように理解してください。このようにいうのはスピノザの哲学においてそう説明されているからです。一般的には自己満足の反対感情があるとすれば,それは自己嫌悪とでも記号化するべき感情であると僕は考えます。スピノザによる後悔の定義には,意志の自由と関連するある特殊な面があって,それはここで説明すべき事柄ではないので省略しているのですが,この後悔を自己嫌悪といっても,別に差し支えはなかろうと思います。このあたりの哲学的詳細は,諸感情の定義よりも,第三部定理三〇の備考というのを参照してください。
いずれにしても最初の出来事においては,僕が恥辱を感じなければならない要素はありませんでした。しかしそれが飛び火 したと表象するようになると話は別です。このとき僕の精神のうちには,僕の軽率な行動によって,僕が愛する者を悲しませることになったという認識が発生してくるからです。そしてこれは十分に非難の対象になると僕には感じられました。だから僕は恥辱という悲しみにも苛まれるようになったのです。
16日と17日にハワイで対局があった第27期竜王戦 七番勝負第一局。対戦成績は森内俊之竜王が2勝,糸谷哲郎七段が1勝。
振駒 で糸谷七段の先手。角換り 相腰掛銀に。例によって細かい駒組から,先手が趣向を見せました。
ここで▲9八香と上がって穴熊を目指したのがその手。後手としては同じように穴熊を目指すのがバランスですが,後手は8五まで歩を突いているのに対し,先手は2六で保留しているため2五に桂馬を跳ねる余地が残っていてかえって危険な意味があります。しかしこのまま組まれては差をつけられることになるでしょうから,仕掛けていくことになりました。いい換えれば先手が後手からの攻めを誘ったともいえます。
ここから仕掛けるとなると△3五歩▲同歩△2四銀の筋になります。お決まりの▲3四歩に△2七角。部分的には王位戦第六局 と同じ。以下▲4七銀のときに△4三銀と引き,自陣へ馬を引きつける手を狙いました。先手は▲4五歩でそれを阻止。後手は△3四銀 で歩を取って△3六歩の狙い。相手の打ちたいところへ打てと▲3六歩 。△3五歩からこじ開けにいきますが▲2八飛と角に当て,△5九角成と馬を作らせて防御。▲4四歩と拠点を作りつつ取り込んで,△7五歩のときに▲9九玉と潜りました。
実戦はこの直後の後手の端攻めでまた出てくることになったので,善悪は分かりません。ただ攻め合って勝てる形になったので,一応は趣向が実を結んだといっていいのではないかと思います。
糸谷七段が先勝 。第二局は30日と31日です。
第三部諸感情の定義三一 の恥辱についても説明を加えておきます。
恥辱というのは悲しみそのものです。自分の行為によって他人を悲しませてしまったことから生じる恥ずかしさというのが恥辱なのであって,そうしたことを恐れることが恥辱なのではありません。するとここから分かるのは,こうした恥辱を極度に恐れる人間,他面からいえば,恥辱の反対感情 である名誉を過度に追及する人間は,自分の恥辱を表象するとき,決断と勇気 に関して最も躊躇するということになります。そして自分が憎しみを抱いている人間に対しては,恥辱を与えることを最も好むようになるでしょう。
ただし,ひとつだけ注意しておかなければならないのは,この種の躊躇は,社会的にみた場合にはプラスに作用することの方が多いであろうということです。というのも,自分のなす行為が他人から非難の対象になるという表象は,概ね他者からも実際にそのように表象されるものだからです。つまりその行為は,他者の非難の対象である場合が大部分を占めるといってよいでしょう。したがってこれを躊躇することによって,その行為が実際になされないとしたなら,そのことによって悲しむ人間が存在しなくなるということになります。つまりこの躊躇によって,他人へ害悪を与えることを防いでいるということになるのです。
ですから,決断することとか勇気を出すことというのは,それ自体で善であるというわけではありません。同様に,決断できないこととか,勇気を出せないということは,それ自体で悪であるというわけではないのです。むしろ場合によっては,勇気を出すよりも,臆病であることの方が,全体的にみれば善であるという場合もあるのです。
このことは,第四部定理五〇 で,憐憫という感情について,理性的には悪であり無用であるといわれていることと関連します。逆にいうならそれは,理性的でないなら有用であり得るという意味だからです。これと同様に,理性的であるなら決断と勇気の躊躇は無用であるといえるのですが,受動的である場合には,必ずしもそれは悪とはみなされないし,有用である場合も少なくないのです。
地元勢が大挙して進出した千葉記念の決勝 。並びは菊地に加藤,石井-海老根-成清-中村-鈴木の千葉で布居と荒井は単騎。
やや牽制になりましたが,スタートを取ったのは布居。ただ,バックで外から下がり,2番手にいた加藤が前を取る形になったので,前受けは菊地に。3番手に荒井,4番手に布居で5番手から石井という周回に。残り2周のバックになってようやく石井が上昇。すでに打鐘が入っていたので菊地は下げられず,海老根のインで粘りました。ここを布居が単騎でかまして先行。大きく離れながら海老根が追い,成清,石井,加藤,菊地という隊列に。徐々に差を詰めていった海老根が直線で布居を捕え,外から成清,ふたりの中を割った菊地での優勝争いに。成清が菊地の急襲を凌いで優勝。菊地が4分の1車輪差で2着。第二先行になった海老根は4分の3車輪差の3着まで。
優勝した千葉の成清貴之選手はこれが記念競輪初優勝。僕は石井が駆けて海老根が番手捲り,それで海老根と成清の争いになると推理していましたが,思ってもみない展開に。石井もさすがに自滅するような先行をする格の選手ではなくなっているということなのでしょう。揃った地元勢から優勝者が出てほっとしたところでしょうが,布居も大きな見せ場を作って素晴らしい走りだったと思います。
このブログの第一の主眼点は哲学的考察です。この観点から,第三部定理三〇 には,説明を加えておかなければならない点が残されています。そしてそれは,説明している事象との関連性からも必要です。
定理Propositioの前半部分,喜びlaetitiaに関していわれていることを,僕は第三部諸感情の定義三〇 の名誉gloriaという感情affectusとほぼ同一視します。ほぼというのは,例外が生じ得るからです。その例外はふたつあります。ひとつは,この観念ideaに,自身の行為の観念が伴っていないという場合です。人は,自分の存在existentiaそれ自体が,他者の喜びの原因になっていると表象するimaginariことが不可能であるとはいえません。この場合は第三部諸感情の定義三〇の要件を満たしません。よってそれを僕は,名誉ではなく,名誉もその一種であるとみることもできる自己満足acquiescentia in se ipsoとみなします。
もうひとつの例外が,行為の観念は伴っていても,それは称賛に値するとは認識していない場合です。このときは,場合によっては不名誉 という感情を抱くことがあるということは,すでに説明した通りですので,それに関してはここでは繰り返しません。ただ,たとえば自分にとっては別に何でもないような行為であったのに,それによって他者から感謝されて,喜びを感じるというような場合,このような場合というのは往々にして生じるように僕は感じますが,そのような喜びに関しても,別にそれが称賛に値するとは認識していない以上,名誉とは僕はみなしません。しかしこれが喜びであることは間違いなく,これもまた自己満足であると僕はみなします。
定理の後半部分でいわれている感情は,名誉の反対感情 に該当します。それは,称賛に対して非難であり,喜びに対して悲しみtristitiaであるからです。こうした感情をスピノザは第三部諸感情の定義三一で,恥辱pudorと命名しています。
「恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである 」。
僕はここまであたかも名誉の反対感情として不名誉といってきましたが,名誉の反対感情は恥辱であり,不名誉ではありません。不名誉は他者の精神mensのうちにある観念の表象imaginatioがないと発生しませんが,名誉と恥辱はそうではないからです。
17日に指された第45回新人王戦 決勝三番勝負第二局。
佐々木勇気五段の先手で角道オープン四間飛車から三間飛車。阿部光瑠五段は中飛車にして左穴熊を目指しました。
ここで先手は☗7六飛と浮いて石田流を目指しました。☖2ニ王☗6八銀☖1二香 と進んだところで☗7四歩。
先手は☗6八飛から☗7八飛と回り,さらに☗7六飛と浮いた後で☗7四歩ですから,仮に☖同歩☗同飛でもひどく手損をするので大胆な指し方と僕には思えました。とはいえその手順になると後手は3四の歩を守れないので,ここで取る手はなく,☖7ニ銀と受けました。☗3八銀☖1一王となったところで☗7三歩成と取り,☖同銀。そして☗8六飛と回り,☖7ニ金を強要。長考して☗9六歩 ☖2二銀のときに今度は☗3六飛と回って☖5四飛を強要。そして☗7六飛と定位置に戻りました。
進めた指し手だけをみると,先手の手損がかなりの数に上っています。相手に指させたというのが先手の主張ですから,それを生かすような展開にしなければなりません。しかしこの将棋は盤面左側で強要されて上がった後手の金銀が,先手の飛車角を抑え込むのによく働くことになり,先手は苦戦を招くことになりました。序盤の先手の構想がまずい将棋であったという印象が残っています。
終盤になってから後手がもたついたので,勝負の行方が分からないような展開になったのですが,何とか後手が勝ちきっています。
これで1勝1敗 。第三局は今週の金曜日です。
僕が飛び火 したと認識した悪評は,やむことがありませんでした。むしろ強まっていったと思えるほどでした。このために僕は第三部定理二一 によって発生する悲しみtristitiaを,ずっと感じ続けなければならない状態に陥りました。そして僕の悲しみの原因となったのは,それだけではありません。僕はその前の出来事とこの出来事を因果的に連鎖させていました。つまり,この悪評の原因として,僕自身を意識せざるを得なかったのです。そのゆえに別の種類の悲しみも発生しました。これは第三部定理三〇で示されているものです。
「もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をなしたならば,その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう,すなわち自分自身を喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば,その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう 」。
この定理Propositioは,単にほかの人について言及されています。いい換えれば,自分が何の感情affectusも抱いていないような他者について言及されています。そのような他者の場合にも成立するのですから,自分が愛する者に対した場合には,よりその感情が強くなるというのは当然でしょう。つまり僕は,僕が愛する人を悲しませる原因として,僕自身を意識しました。そのゆえに強い悲しみに襲われたのです。悲しみの度合いだけでいえば,愛する人の悲しみを模倣する悲しみより,こちらの方が深いと感じられました。というのも,もし愛する人が悲しみに苛まれているだけであれば,何らかの慰藉をするということが可能です。もちろんそれで相手が癒されるというわけではないでしょうが,僕自身は何らかの納得感を得られた筈です。ところがこの場合,僕は相手の悲しみとして僕自身を意識してしまっているので,そうした行動をとることができなかったのです。その原因を隠して慰藉をするというのはずるい行動でしかありません。一方でその悪評の原因が僕にあると思っているということも言い出せませんでした。決断と勇気 。そうできなかった理由はすでに示した通りです。
3歳牝馬三冠の最終戦,第19回秋華賞 。レース直前にパシフィックギャルが右肩の跛行で競走除外になり,17頭。
ペイシャフェリスの逃げ。途中から2番手以降を引き離す形に。その2番手は3頭の集団で,内からバウンスシャッセ,リラヴァティ,ハピネスダンサー。さらにレーヴデトワールとマーブルカテドラル。そしてブランネージュとマイネグレヴィル。ここから5馬身ほど離れてショウナンパンドラ。あとは1馬身ずつの間隔でタガノエトワール,ヌーヴォレコルトと追走。前半の1000mが58秒0で,ハイペースでしょうがミドルペースに近いくらいです。
馬群がばらけていたこともあり,直線入口ではまだペイシャフェリスが先頭。すぐにリラヴァティが先頭に立ちましたが,内を追い上げていたショウナンパンドラが,ペイシャフェリスとリラヴァティの間を割って一気に抜け出しました。追ってきたのは横並びの外を追い上げてきたタガノエトワールで,その外からヌーヴォレコルト。ヌーヴォレコルトがタガノエトワールを交わしてショウナンパンドラを追い詰めたものの届かず,いち早く抜け出していたショウナンパンドラの優勝。ヌーヴォレコルトがクビ差で2着。力尽きたタガノエトワールは1馬身4分の1差の3着。
優勝したショウナンパンドラ はここまで8戦して2勝2着4回。あとの2戦も5着で,勝ち馬からは3馬身ほどの差と,きわめて安定して走っていた馬。実績は下位でしたが,上位人気に推されていたように,素質は買われていました。それが花開いたとみることもできますが,今日はコース取りの差という面もあり,トップクラスに入ったとはいえるでしょうが,トップに立ったとまではいえないかと思います。父はディープインパクト 。4代母がロイヤルサッシュ 。ステイゴールド の姪になります。
騎乗した浜中俊騎手は春のNHKマイルカップ 以来の大レース制覇で秋華賞は初勝利。管理している高野友和調教師は開業約4年半で重賞初勝利を大レースで達成しました。
第三部定理二一 は,僕たちが愛するということ,とりわけ人を愛するということが,具体的にどのようなことを意味するのかということを教えてくれる定理だといえます。すなわち,ある人の喜びが自分自身の喜びでもあるとき,また,その同じある人の悲しみが自分自身の悲しみでもあるとき,人はその人のことを愛しているのです。
愛していると言うこと自体は容易いことです。しかしもしも上に示したような条件が揃っていなかったならば,それはただそのように言っているというだけのことであり,本当にその人のことを愛しているということにはなりません。また逆に,愛を自覚などしていなくても,上に示した条件が整っているのなら,その人はその相手のことを愛しているということになるのです。第三部諸感情の定義六 というのは,愛という感情の定義として,まことによくできたものであると僕は考えています。しかしある外部の物体の観念を認識することが,自分自身の喜びになるという説明は,少なくとも人が人を愛するということの説明としては,やや具体性を欠いているというきらいがあることも否定はできません。第三部定理二一は,そこで欠いていると思われるような具体性を,よく示しているといえるでしょう。
第三部定理九 により,人は喜びを希求します。ある人の喜びが当人の喜びでもあるなら,人は必然的にその人を喜ばせようとします。逆にある人の悲しみが当人の悲しみなら,その人を悲しませないように努めるでしょう。こうしたことが,具体的な愛の証となるのです。
定理として示されている事柄ですから,論証すべき事柄ですし,実際に論証することも可能です。しかし,糖尿病共生記の一貫として記述している現在の状況からは,訴訟を起こすことは不要でしょう。他人の喜びが自分の喜びでもあるということ,また他人の悲しみが自分の悲しみでもあるということ,そしてその他人の喜びが大きいほど自分の喜びも大きくなり,他人の悲しみが大きいほどに自分の悲しみも深くなるという感情の模倣 は,すべての人が経験的に知っていることだと思うからです。愛を意識しているかどうかは別としても。
現地時間で今日の夕方,オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたコーフィールドカップGⅠ芝2400m。2頭の日本馬が遠征していたのですが,1頭がスクラッチしたので,1頭になりました。
全般的にオーストラリアの長距離戦がそうなのかもしれませんが,18頭が走ったわりに馬群がすごく密集したレース。アドマイヤラクティは前半の位置取りとしては後方5・6番手といったあたり。といっても前からそこまで離されていたわけではありません。外に位置したので少し行きたがっているように見えましたが,抑えきれないというほどではありませんでした。そのまま10番手くらいまでは上昇したと思いますが,直線の入口で馬群が広がり,外から2頭目となったので,先頭との差はむしろ開いたと思われます。そこからまっすぐに伸び,逃げ込みを図った2着馬を残り20m付近で差して優勝しました。
優勝したアドマイヤラクティ は昨年のダイヤモンドステークスを勝っているとはいえ,日本ではトップクラスとは差があります。ハンデ戦で58キロという最も思い斤量だったこともあり,いくら日本馬の芝の中長距離のレベルが高いとはいっても,厳しいのではないかと思っていただけに,驚きました。この後はメルボルンカップに出走の予定ですが,距離が伸びるのはむしろプラスに作用するのではないかと思いますので,無事にいけばそちらでも期待をもてるのではないでしょうか。父はハーツクライ 。Raktiは10年ほど前にヨーロッパでGⅠを6勝した名馬です。
管理している梅田智之調教師はこれが大レース初制覇。日本馬の海外GⅠ勝利は4月のオールエイジドステークス 以来。騎乗したのはオーストラリアのザカリー・パートン騎手で日本馬への騎乗では大レース初勝利。
この後で生じた出来事というのは,ある人に対する悪口を耳にするようになったということです。これはひとりの口から聞いたというわけではありません。その内容は広く流布していったのです。そしてその流布した内容と,それ以前の出来事というのを,僕は因果関係で結ぶことができました。
僕は他人の悪口を聞くということを快く思いません。たとえそれが僕が憎んでいる対象に向けられたものであったとしてもです。そういうことは当人に対して言えばよいのであって,僕に言われても困ると思ってしまうのです。さらにいうと,今回の場合は,僕が憎んでいる対象への悪口ではありませんでした。むしろ愛しているといえる対象に向けられたものだったのです。というか,ふたつの出来事を関連させることができたのは,その対象が僕が愛する対象であったからだといえます。
念のためにいっておきますが,僕がこのブログで愛amorという場合には,常に第三部諸感情の定義六 を念頭に置いています。いわゆる恋愛感情というのは当然ながら愛の一種ではありますが,そうした恋愛感情だけが愛であるというわけではありません。この場合の対象というのも,恋愛感情の対象ではありません。僕にとってはむしろ恋愛感情の対象とはなり得ないような相手でした。この部分はもっと詳しく説明するべきなのですが,明らかに差し障りが出る内容になってしまうので,今はここまでしかいえません。悪口を言われた人を僕が愛していた,あるいは愛しているということ,しかしそれは恋愛感情とは異なっているということだけ理解しておいてください。
当人の前で言われることがあったかは定かではありません。ただ,必ずや伝わっていただろうと思います。
このことが僕の悲しみtristitiaになるということは,第三部定理二一が明らかにしてくれます。
「自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は,同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて,この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう 」。
昨晩の第17回エーデルワイス賞 。ユメノヒトは黒沢騎手から石川倭騎手に変更。
フィーリンググーは出負け。その他はほぼ揃っていましたが,ダッシュ力の差でウィッシュハピネスが難なくハナへ。その後ろは混戦模様でしたが,ネガティヴが抜け出し単独で2番手。マイファンファーレとジュエルクイーンが続きました。前半の600mは34秒7でハイペース。
3コーナー手前からネガティヴがウィッシュハピネスに接近。しかし直線入口までウィッシュハピネスは先頭を譲らず,直線では逆に後ろを突き放していき,3馬身差で逃げ切って優勝。ネガティヴも頑張りましたが,内からジュエルクイーンが交わして2着。アタマ差で3着のネガティヴは,ここまでの戦績から考えれば大健闘といえるでしょう。
優勝したウィッシュハピネス は8月に小倉でデビュー。芝の新馬戦は敗れたものの,2戦目のダートの未勝利を1000mで58秒台という素晴らしいタイムで勝利しここに挑みました。今シーズンの門別は馬場が重たいのか,やたらと時計が掛かるレースが多かったのですが,この開催は雨の影響があったようで,わりと軽くなっていました。スピード能力に秀でた馬ですので,そうした馬場状態になったのは大きな味方であったことでしょう。距離が伸びてもこなす余地がある馬と思えます。父はゴールドアリュール 。母の従弟に一昨年の兵庫ジュニアグランプリ と昨年のシリウスステークスを勝っている現役のケイアイレオーネ 。
騎乗した戸崎圭太騎手,管理している沖芳夫調教師はエーデルワイス賞初勝利。
僕は,ある行為をなした場合に,嘘をついたと疑われる可能性が生じ得ると表象したならば,その行為をなす決断と勇気 を躊躇してしまいます。行為をなす前の段階でそうなのですから,なした後で,汚名 を着せられている可能性があると表象したときに,それを積極的に説明する決断をしたり,そのための勇気を出すことを躊躇ってしまうのは当然です。尋ねられてもいないのに自分の方から弁明するのでは,もしも本当は汚名を着せられていなかったとすれば,自分からそれを説明することでかえって疑われるということになりかねません。また,すでに疑われていたのだとしたら,その疑惑をかえって増すことになるだけだと思えたからです。いい換えれば,もしも僕が表象した汚名が存在していなかったのなら,それを存在させることになってしまいます。もしもそれが存在していたとしたら,その疑惑を確信に至らせかねません。つまり僕の不名誉 は,むしろ強くなるだろうと予測されたのです。
それで僕は自分からは何もできないという状況が続くことになりました。もしも相手の方から尋ねてくれれば,きっとそれを正確に説明したことでしょう。そして汚名を晴らし,不名誉も回復することができたのです。しかしそうした機会が訪れることはありませんでした。相手の様子を注意深く窺うということはしました。本当は何にも思っていないようにも感じられました。ただ怒りを飲み込んでいるだけのようにも感じられました。いくらそんなことをしても,他人の気持ちのありようを確実に理解できるわけはありません。
ところが,その後でこれがあらぬ方向へと飛び火していったのです。というか,飛び火したというように思えたのは,これも僕の精神のうちに生じたことです。ここまでの出来事と,これから説明する出来事との間に,確かな因果関係があったかどうかは僕には不明です。そもそも僕に対する汚名が存在したのかどうかも僕には不明なのですから,飛び火したということが正確かどうかが分かる筈もありません。ありもしないものから何かが発生してくることなどあり得ないからです。ただ,僕には関連させられる出来事だったのです。