スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
28日に大阪で指された第5期女流王座戦五番勝負第三局。
この将棋はまず先手の伊藤沙恵女流二段が寄せ損なったため相手玉を上部に逃がし,加藤桃子女流王座の必勝に近い局面になったと思うのですが同じように寄せ損なって先手玉も上部に逃走することに。その後も点数勝負でなくお互いが相手玉の寄せも視野に入れた指し方をしたために異例なほどの泥仕合になり,結果的に持将棋が成立しました。これは一局として完結し,1勝1敗1持将棋で第四局が来月11日に指されるとのことです。
戦型は相矢倉☗3七銀☖6四角でした。最近の相居飛車で角換りが増加しているのはこの形で先手によい結果が出ないことが多くなっているため。その形をわざわざ選んだのですから,事前の研究があったものと思います。雀刺しに進みました。

ここから先手が☗2五桂と跳ねて戦いが始まりました。後手は☖同銀と取って☗同銀に☖3七角成。先手は☗1四歩と突き☖同歩☗同銀。後手はそこで☖2七馬と取り☗1二歩のときに☖1八馬と飛車を取りました。先手は☗1一歩成の一手。

このときに香車が1七にいると取られてしまいますが,1六なのでそれはなく,先手の工夫が生きていることになります。ここで☖3五歩と角筋を止めに出ましたが,普通に☗同歩と応接されて,明らかに先手の一手勝ちの手順に進みました。後手に別の手順が必要とされることが判明した一局だったといえるでしょう。
前にもいいましたが,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookにも水準以上の技術があったのは間違いないので,フェルメールがカメラ・オブスキュラについて抱えていた問題を解決できたとしておかしくありません。もしもフェルメールの依頼が「少女」を描いた後にあったとしたら,それを解決したのはレーウェンフックにほかならず,フェルメールとスピノザが相識であったこと,ならびに「天文学者」のモデルがスピノザであるとするマルタンの推理は誤りだと僕は思います。
「天文学者」のモデルに関しては諸説あるのですが,そのうちのひとつとして,それがレーウェンフックであるというものが『フェルメールとスピノザ』では紹介されています。ですがマルタンはこの説は否定しています。「天文学者」に描かれている人物とレーウェンフックは似ても似つかないからだそうです。マルタンは満足いくレンズを製作してくれたお礼として,その人物をモデルに「天文学者」が描かれたのだと考えていますから,モデルがレーウェンフックであることを否定することは,レンズの製作者がレーウェンフックであることを否定することに直結します。そしてこのモデルはレーウェンフックよりスピノザに酷似しているというのがマルタンの見解opinioなのです。
「少女」を描いた時点でフェルメールがカメラ・オブスキュラを使用していたのはおそらく史実で,しかしこのレンズの性能がそれほどよくなかったというのは僕にも納得できる見解です。そして「天文学者」を描く時点で満足いくレンズを入手し,その製作者がモデルになり,そしてそれがスピノザであるとするなら,僕は「少女」を描いた直後にフェルメールはスピノザに協力を依頼したのでなければならないと考えます。同時に,フェルメールはレンズに関してはまずレーウェンフックに相談したし,レーウェンフックはそれに協力を惜しまなかったと考えます。このためにはマルタンの物語には無理があるので,作り直す必要があるでしょう。
「少女」を描いた1667年の時点で,フェルメールはすでにレンズを使用していたのです。このレンズがレーウェンフックの協力によるものであるとしたらどうでしょうか。
イギリスから1頭,フランスから1頭,ドイツから2頭が招待された第35回ジャパンカップ。
逃げたのはカレンミロティック。向正面に入るところでリードは2馬身くらい。以下,1馬身ほどの間隔でアドマイヤデウス,イトウ,ワンアンドオンリー,イラプト。2馬身ほどあってラブリーデイ。その後ろはダービーフィズとサウンズオブアースの併走。ミッキークイーンとショウナンパンドラも並んで続き,ペルーサ,ラストインパクト,ナイトフラワー,ジャングルクルーズまでは差がなく追走となりました。最初の1000mは59秒3でハイペース。
3コーナーを回ってカレンミロティックのリードは5馬身くらい。アドマイヤデウスと3番手のイトウとの差が3馬身くらい。ここで外から動いた馬もいましたが,これらはすべて末脚を失いました。直線の入口では前を射程圏内に入れていたラブリーデイが残り300mを過ぎたあたりで先頭。これを追っていたサウンズオブアースは苦しくなり,その内からラブリーデイの外に出てきたショウナンパンドラと最内からラストインパクトが伸びてきて3頭の争いに。勝ったのは一番外のショウナンパンドラ。内のラストインパクトがクビ差で2着。ラブリーデイはさらにクビ差の3着。
優勝したショウナンパンドラは前々走のオールカマー以来の勝利。大レースは昨年の秋華賞以来の2勝目。秋華賞の時点では格下。それがいきなり大レースを勝ったのですが,今年に入って最初は苦戦していた牡馬との混合戦でも最近は好走できるようになっていましたから,ここでは勝つチャンスがある1頭とみていました。現状は古馬のレベルがあまり高くなく,その点に恵まれたのは事実でしょうが,この馬自身は昨年と比べたら格段に強くなっているのも間違いないところ。高い評価を与え続けるべき馬であると思います。父は第26回を制したディープインパクト。ロイヤルサッシュ系ダイナサッシュの分枝。伯父にステイゴールド,伯母に2004年のローズステークスと2005年のクイーンステークスを勝ったレクレドール。
騎乗した池添謙一騎手は一昨年の有馬記念以来の大レース制覇。ジャパンカップは初勝利。管理している高野友和調教師は秋華賞以来の大レース2勝目です。
1667年の時点でフェルメールが満足できるレンズを保有してなかったということは,当然ながらすでにその時点でフェルメールがカメラ・オブスキュラを絵画の製作のために生かしていたという前提を含んでいます。この前提自体は史実としてよいと僕は判断します。

マルタンの推理が示しているのは,実際に「少女」という絵を描いたフェルメールが,使用していたカメラ・オブスキュラのレンズの性能の悪さに閉口し,レーウェンフックを介してスピノザに協力してもらったというものです。そしてそれにより満足できるだけの性能をもったレンズを手に入れることができたから,お礼として,スピノザをモデルとして「天文学者」を描いたのだと結論しています。「少女」と「天文学者」が同じ大きさの絵画であること,そして「天文学者」は元々は「哲学者」というタイトルで描かれたことは,マルタンの推理に有利に働くことを僕も認めます。
ですが,僕はこの物語にはひとつだけ無理があると思うのです。というのは,もしもレーウェンフックがフェルメールからレンズの性能に関して相談を受けたら,レーウェンフックはそのために何らかの貢献,具体的には自分でより性能のよいレンズを作るという貢献をしないわけにはいかなかったと僕は考えているからです。もちろんレーウェンフックがそれを果たそうとしたものの,自身の技術力では無理であることを悟り,スピノザをフェルメールに紹介するということはあり得ます。でも「天文学者」が描かれたのが「少女」の翌年である1668年であることを考慮に入れるならば,レーウェンフックの協力があり,さらにスピノザの協力を経て「天文学者」が完成したとするなら,あまりに時間が足りなすぎると僕は思うのです。
「少女」を描いた後でフェルメールがレンズの性能に問題を感じ,それでレーウェンフックに相談して高性能のレンズを入手して「天文学者」が描かれたとストーリーを作るなら,このレンズはレーウェンフックによって作成されたと結論するのが妥当であると僕は判断します。したがってこの物語からは,フェルメールがスピノザに出会うための必然性は排除されます。
25日の兵庫ジュニアグランプリはサウンドスカイが勝ちました。父であるディープスカイにとって産駒の初重賞制覇でした。
父であるアグネスタキオンにとって,牡馬の最も優秀な産駒。デビューは2歳10月。なかなか勝ち切れず,翌年の1月に6戦目で初勝利。2勝目は9戦目の毎日杯で,これが重賞初勝利。
使い込んでいたこともあったでしょうが皐月賞はパスしてNHKマイルカップへ。これも勝って大レース制覇を達成すると返す刀でダービーも制覇。11戦目でのダービー制覇というのは,最近では珍しい記録といえるでしょう。
秋は神戸新聞杯で復帰して連勝を4に伸ばしました。距離適性を考慮して菊花賞ではなく天皇賞に。上位が大接戦となったレースで3着。敗れはしましたが古馬相手ということを考えれば上々の成績といえるでしょう。ジャパンカップでスクリーンヒーローの2着になり,この年のキャンペーンを終えました。JRA賞の最優秀3歳牡馬に。
期待された翌年は大阪杯で戦列に復帰。クビ差の2着に入って目標とした安田記念に。勝ったと思われたレースでしたが2着。次の宝塚記念で3着に入った後,屈腱炎を発症。アグネスタキオンが直前に死亡していたこともあり,後継種牡馬となるためそのまま引退しました。
一流馬なのですが,世代限定戦しか勝っていないため,種牡馬としての評価には微妙なところがありました。当初は多くの種付けを行っていましたが,近年は頭数も減少しています。サウンドスカイがもっと活躍するか否かは,この馬の種牡馬生活に影響を与えるかもしれません。
現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に展示されている,フェルメールJohannes Vermeer作の「少女Meisjeskopje」という絵画があります。1667年,すなわち「天文学者De astronoom」が描かれる前年に製作されたものです。サイズは「天文学者」と同じで,マルタンJean-Clet Martinは作品の母型も枠組みも同じであるといっています。
マルタンは,フェルメールがカメラ・オブスキュラcamera obscuraを使用していたことは,この「少女」という作品から明白であると主張しています。この絵のモデルとなっている少女のおぞましいほどのデフォルメがその証明なのだそうです。マルタンはこの絵に描かれている人物にはプロポーション上の欠陥があるとしています。それはモデルの腕が醜いほど異常に小さく描かれている点であり,もうひとつは顔が丸い小石のようになっていることだそうです。この丸い小石のような顔というのは,この作品に対するマルローAndré Malrauxの評価のようです。

僕は絵画に対する評価はできません。ただ,『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』に掲載されているこの絵を見る限り,これを人物を模写した絵画とするなら,どことなく不自然な点が含まれているようには思えます。この絵画が含んでいる特徴を誇大化していくと,魚眼レンズで人物を覗いてみたときの造形に収斂していくのではないかと思えるのです。
マルタンがこの作品をフェルメールがカメラ・オブスキュラを使用していたことの根拠にするのが,その不自然さにあります。マルタンははっきりとは書いていませんが,もし肉眼で見て描いたのであれば,完成品がこのような姿になることはあり得ず,作品が不自然な姿になったのは,フェルメールがレンズを通してモデルを見ていたからだというのが,主張の骨子であると僕は解します。そして僕が魚眼レンズを通して見た人物像に喩えたように,この不自然さがレンズに由来するという主張自体は,僕には納得がいくものです。
もしマルタンの仮説が正しいとするのなら,少なくともこの絵を製作していた時点,それが1667年なのかもう少し前なのかは不明ですが,その時点ではフェルメールは絵画を制作するために,十分に満足できるだけのレンズを有していなかったといえるでしょう。
23日に倉敷市芸文館で対局があった第23期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
甲斐智美倉敷藤花の先手でノーマル三間飛車からの石田流。里見香奈女流名人はここも二枚銀の急戦で対抗。一時的に抑え込みを果たしたかにみえましたが,先手がうまく隙をついて捌くことに成功。こうなると玉の堅さが違いますので,先手が有利な状況で終盤に入ったと判断してよいでしょう。

4六にいた飛車が回ってきたのに対し,成り込みを防ぐために歩を打った局面。ここから▲3五角△同歩と進んだのは必然でしょう。
先手は模様はよさそうなので飛車が逃げておく手が有力でした。とくに2六に回れば▲2四金とする手があり,桂馬を取ると5四にも打てますので,そう指すべきだったでしょう。しかし▲5一角と打ち込んでいきました。
これには△5一飛と逃げることになります。角が逃げていては何をやっているのか分かりませんから▲4二角成△同玉は必然。ここでも今度は4六に飛車を逃げる手があったと思うのですが▲5四銀と進出。後手が△7六歩と飛車を取る展開になりました。

逃げられる飛車を見捨てたのですから寄せなければなりません。そのためには第2図で▲3四金と打つべきだったようです。しかし▲6三歩成と△6四飛を嫌うような手を指したために△3三玉と早逃げされ,容易には寄せられなくなりました。まだ混戦という印象ではありますが,そこでは後手が逆転しているのかもしれません。
連勝で里見名人が倉敷藤花に復位。第16期,17期,18期,19期,20期と5連覇していて,3年ぶり6期目の倉敷藤花です。
もしもレーウェンフックの協力によってフェルメールが満足できるレンズを入手したとするなら,フェルメールはそのことでスピノザに助けを求める必要はありません。したがって,マルタンがいっているスピノザとフェルメールが出会う必然性,つまりカメラ・オブスキュラを契機とした出会いは,レーウェンフックの技術力によってはフェルメールが満足できるだけのレンズを入手することができなかったという場合に限定されることになります。もちろんそういう可能性が皆無であったとすることはできないでしょう。
僕がいっているレーウェンフックの技術的な援助がフェルメールに対して与えられたとマルタンが考えているかどうかは僕には分かりません。『フェルメールとスピノザ』の記述はどちらにでも読解できるようになっているからです。ただ,マルタンが断定的に示しているのは,スピノザとフェルメールを結びつけたのはレーウェンフックであったということだけです。マルタンはレーウェンフックがスピノザの製作したレンズを用いて赤血球を発見したのだと認識していますので,紹介すること自体は可能であったことになります。マルタンの記述自体はフェルメールの依頼に対して自分では何もせずにスピノザを紹介したというようにも読めるわけですが,僕はそれはあり得ない推理だろうと思います。でも,一定の協力をした上で,フェルメールを満足させるだけの技術がないということが自分で分かったので,もっと技術があると思われるスピノザを紹介するというのなら,その可能性があることを僕は否定しません。
ただし,マルタン自身の記述と僕がいっていることを整合的に説明するためには,僕はレーウェンフックの紹介によってスピノザとフェルメールが出会わなければならなかったとは考えません。むしろフェルメールが独自にスピノザに助けを求めたと想定してもいいのではないかと思います。
このことを詳しく説明するためには,僕がいったことと『フェルメールとスピノザ』の記述は,どのようにすれば最も一致し得るのかをまず理解しておかなければなりません。それは「天文学者」とは別の1枚の絵画に関係します。
昨晩の第7回勝島王冠。中野省吾騎手が月曜のレースで落馬して骨折したのでカキツバタロイヤルは内田利雄騎手に変更。
大外でしたがそんなに無理した感もなくトーセンアドミラルが1コーナーで単独のハナへ。向正面に入ったところで行きたがるのを押さえつつムサシキングオーが単独の2番手。3番手にファイヤープリンスで以下アウトジェネラル,スマートジョーカー,ファルコンクロウとほぼ一列の隊列に。最初の800mは51秒0のミドルペース。
3コーナーを回るとムサシキングオーがトーセンアドミラルを交わして先頭に。ファイヤープリンスと向正面のうちに後ろから追い上げていたガンマーバーストの2頭がその外を追い上げ,これらをやり過ごしてから進出したファルコンクローがさらにその外。アウトジェネラルは食い下がろうとするトーセンアドミラルとムサシキングオーの間を突きました。直線に入って先頭に立つムサシキングオーに迫ったのは大外のファルコンクロー。しかし並ぼうかというところからムサシキングオーがもう一伸び。ゴール前は逆に差を広げて2馬身半差で完勝。軽量を生かしたファルコンクローが2着。アウトジェネラルが1馬身4分の3差で3着。
優勝したムサシキングオーは南関東重賞初制覇。A2下やオープンではそこそこ走っていた馬ですが,この秋になって明らかに一皮剥けた感があり,ここも好走必至と思われました。今日のレースの感じからも距離は1600mの方がよいでしょう。力をつけているので今後の南関東重賞戦線でも注目馬と思いますが,大井でしか走った経験がありませんので,ほかの競馬場で同じように力を発揮できるかは課題として残っています。父はキングヘイロー。叔父に2005年の目黒記念を勝ったオペラシチー。
騎乗した大井の笹川翼騎手はデビューから2年8ヶ月弱で南関東重賞初制覇。管理している栗田泰昌調教師は勝島王冠初勝利。
レーウェンフックはただ研究をしていただけでなく,「豚のロケーション」でデルフト詣でと記述されているように,多くの来客との会見もあったと推測され,かなり多忙な人物であったと思われます。ですがフェルメールがカメラ・オブスキュラのレンズで問題を抱え,その相談を受けたなら,それには時間を作って協力した筈だと僕は考えます。

この根拠のひとつは,レーウェンフックとフェルメールは親友といえる関係にあったと推定できることです。単に時間がないということで,親友の依頼を無碍に断ることはしないだろうと僕は考えるのです。
もうひとつの根拠はこの関係を考慮に入れなくても成立します。レーウェンフックは一級の顕微鏡学者でした。この時代の自然科学者は,研究用の道具を自ら作製あるいは入手するという意味も含んでいました。顕微鏡学にはレンズが必須で,レーウェンフックも自分でガラスを磨いていたのです。それも含めて一級の顕微鏡学者であったと考えなければなりません。ですから,レンズのことで相談を受けて,それに対して何の協力もしないということは,顕微鏡学者としてのレーウェンフックのプライドを自ら傷付けるような行為であることになります。何もせずに断ったとしたら,何もできないから断ったと認識されかねず,それは顕微鏡学者として大したことはないという評価に直結してしまうでしょう。この意味において,レーウェンフックはこの種の相談ないしは依頼に協力しないわけにはいかなかったと僕は考えるのです。
レーウェンフックのレンズ製作の技術がどの程度のものであったかは僕には分かりません。ただ,ケルクリングやフッデ,ホイヘンスといった研究者のスピノザに対する評価を勘案したならば,スピノザの腕の方が上であったと解しておいた方が安全ではあるでしょう。とはいえレーウェンフックも自身で幾多の顕微鏡を製作した人物です。なので水準以上の技術は有していたと判断するべきだと思います。ですから,フェルメールの依頼に応じたレーウェンフックの協力により,フェルメールは満足できるレンズを入手することができたという可能性は大いにあると僕は考えます。
JRAから芝のオープンを勝っている馬が3頭も出走してきた第17回兵庫ジュニアグランプリ。
4頭ほどが前に行く構えを見せましたが,1コーナーに入るところではタケマルリートとコウエイテンマが並んでいて3番手にオデュッセウス。向上面に入るところでコウエイテンマが単独の先頭に立ち,2番手にオデュッセウス。サウンドスカイ,マイタイザンの順になり,タケマルリートは下がっていきました。それらの外からマシェリガールとジョーフリッカーが上昇。ミドルペースであったと思われます。
3コーナーでオデュッセウスとマシェリガールが上がっていくと逃げていたコウエイテンマも抵抗。この3頭の外からサウンドスカイも追い上げて,JRAの4頭が雁行で残りの馬を突き放していきました。直線に入り早めに追い上げたオデュッセウスとマシェリガールは脱落。コウエイテンマは粘りましたが,大外のサウンドスカイが交わして優勝。逃げたコウエイテンマが1馬身4分の1差で2着。5馬身差の3着にオデュッセウス。
優勝したサウンドスカイは8月デビュー。芝の2戦は結果を出せませんでしたが9月にダートの未勝利で勝ち上がると続く条件戦も連勝。3連勝で重賞初制覇。実績的にはオープンを勝っているほかの3頭には及びませんが,ダートで結果を出していたのはこの馬だけでしたから人気にも推され,順当な勝利といえるでしょう。最初は少し控えて勝負所から上昇していった騎乗も巧みであったと思います。相手関係からはどの程度のレベルにあるか,まだ把握できません。父は2008年のJRA賞最優秀3歳牡馬のディープスカイでその父はアグネスタキオン。
騎乗した戸崎圭太騎手と管理している佐藤正雄調教師は兵庫ジュニアグランプリ初勝利。
僕はヨハネス・ファン・デル・メールがフェルメールであるということについて懐疑的です。というよりその可能性はきわめて薄いだろうと考えています。また『フェルメールとスピノザ』の全体的な論述を検証すれば,スピノザがメールに宛てた手紙がスピノザとフェルメールが相識であったことの根拠としてマルタンは呈示できない筈だと考えます。しかしマルタンがスピノザとフェルメールの出会いの必然性として言及している事柄には,一定の説得力があるとも思います。

デルフトで絵を描いていたフェルメールは,そのためにカメラ・オブスキュラという装置を用い,その装置は精巧なレンズを必要としていました。スピノザはそのデルフト市の管轄区域内であったフォールブルフに住んでいて,フッデやケルクリングやホイヘンスといった一級の科学者が絶賛するくらいレンズの製作に超一流の技術を要していました。つまりここには,スピノザとフェルメールが出会うための歴史的条件と地理的条件が完璧に近い形で含まれているというだけでなく,さらにプラスアルファの要素があると思えます。
ただ,ここでひとつだけ問題としなければならないことがあります。やはり自身でレンズを研磨し顕微鏡学の一流科学者であったレーウェンフックは,フェルメールの死後に遺産管財人を務めたほどフェルメールと懇意の関係にありました。ですからフェルメールがレンズのことで何か困ったことを抱えたとしたら,まずはレーウェンフックに相談するであろうと考えなければならないからです。
もしも本当にフェルメールに満足できるレンズを入手するための困難があったのだとしたら,僕は実際にそうしたであろうと考えます。この点についてはマルタンも否定していません。マルタンはレーウェンフックによる赤血球の発見には,スピノザが製作したレンズが貢献したのだと考えています。だからそのレーウェンフックを通じてフェルメールはスピノザと関係を有するに至ったのだとしているからです。ただ,レーウェンフックもレンズの研磨自体に協力したことは疑い得ないと僕は思います。すぐにスピノザを紹介するのは変だと思うのです。
21日に放映された第37期女流王将戦三番勝負第二局。対局日は10月13日。
香川愛生女流王将の先手でノーマル三間飛車からの石田流。里見香奈女流名人は二枚銀の急戦策。結果的に棒銀のような形に進み,その銀が取り残された分,先手が優位に立ち,そのまま最終盤までいきました。

後手が桂馬を打った局面。詰めろなので受けなくてはいけません。感想戦で呟いていたように,▲5七歩と打っておくのが安全だったでしょう。しかし▲4七金と上がりました。後手は△1二玉と早逃げ。先手は▲1五歩と格言通りに踏み込みました。これ以上の受けは後手にはありません。△3六桂と王手で取り,▲同金に△4七銀と攻め合いに。この局面が勝負を分けました。

第2図の先手玉は一手の余裕があります。なので詰めろの連続で迫れば先手の一手勝ち。そこで▲1四歩と取り込んだのですが,これが敗着に。詰めろなのですが,△3六銀不成が詰めろ逃れの詰めろになっていて,先手の勝ち筋は盤上から消えました。第2図では▲3一馬と入っておけば詰めろが続き,先手が勝っていたようです。
連勝で里見女流名人が女流王将に復位。第32期,33期,34期に獲得しているので3年ぶり通算4期目の女流王将です。
『フェルメールとスピノザ』では,フェルメールが絵画を製作する際に,カメラ・オブスキュラという道具を使用していたことについて,フェルメールの専門家が一致しているとされています。「豚のロケーション」にもフェルメールのカメラ・オブスクーラという記述があり,これは間違いないところでしょう。
実際にカメラ・オブスキュラというのがどのような道具であったかは僕には分かりません。マルタンの説明も要領を得ないところがあり,これは一種の写真箱であるとされていますが,フェルメールの家にあったのは暗室だったとされています。ただひとつだけ確からしく思われるのは,この道具あるいは装置というべきなのかもしれませんが,どのように絵を描くことに役立ったかといえば,人物の特徴をきわめて忠実に再現することに対してであるということです。
マルタンは,この道具のために暗室にレンズが必要であったとしています。カメラという名称が与えられている装置ですから,レンズが必要であったのは当然のことと思えます。そしてその特徴として,顕微鏡や望遠鏡のレンズとは違った機能を必要としていたこと,そして大きなレンズでなければならなかったことというふたつが示されています。もちろんただそれだけを満たせばよいというわけでなく,人物の特徴を忠実に再現するという効果から類推すれば,それなりに精緻なレンズでなければならなかったことでしょう。
マルタンは,そうした精巧なレンズをフェルメールが必要としていたという点に,フェルメールがスピノザと出会う必然性があったとみなしています。要するにこのレンズを入手するために,フェルメールがスピノザに助けを求めたということです。ですからこの出会いの場は,デルフトのフェルメールの家にあった暗室でなければならなかったことになります。レンズの大きさから考えると,最終的な手直しは,その場でなければできなかったと思われるからです。そしてそうであるとするならば,スピノザがヨハネス・ファン・デル・メールに書簡を送ったことは,スピノザとフェルメールが相識であったことの証明にはなり得ないと思います。
ここで今年のグランプリに出走できるベストナインが決定する小倉競輪場での第57回競輪祭の決勝。並びは平原‐武田の関東に池田,竹内‐浅井の中部,村上義弘‐村上博幸‐稲川の近畿で渡辺は単騎。
少しばかり牽制状態になりましたが,単騎の渡辺がスタートを取って前受け。2番手に竹内,4番手に平原,7番手に村上義弘で周回。残り3周のバックから村上義弘が上昇。前までは進めず竹内の横に並ぶと残り2周のホームの入口で竹内が引き,渡辺を先頭に2番手に村上義弘,5番手に平原,8番手に竹内の一列棒状でホームを通過。バックに入るところから竹内が発進。しかし村上義弘が併せて打鐘から先行争いに。ホームで村上博幸の牽制があり,竹内は浮いて村上義弘の先行に。浅井は打鐘付近で竹内につけきれず,そこでインに潜ろうとしたため隊列が乱れ,村上博幸の後ろは平原‐稲川‐武田に。コーナーから稲川が内から位置を取り返しに行き,平原はバックで浮かされた感じになりましたが,そのまま前に踏むとつけ直した武田と共に捲りきって後ろを離しての優勝争いに。ゴール前で武田が差して優勝。4分の1車輪差で平原が2着。つけきれなかったものの外を追った池田が3車身差の3着に食い込みラインで上位独占。

優勝した茨城の武田豊樹選手は前回出走の函館記念から連続優勝。ビッグは6月の高松宮記念杯以来の15勝目。競輪祭は2012年以来3年ぶりの2勝目。村上義弘が竹内と先行争いをしましたので,関東ラインにとっては絶好の展開に。一旦はもつれて平原の後ろに稲川に入られる形だったのですが,稲川もラインを重視する競走に徹したので事なきを得ました。平原は明らかに掬われたと思うのですが,そのタイミングで発進して楽に捲りきるのですから,このラインはグランプリでも非常に強力だといわざるを得ないでしょう。
この当時のオランダで,現在でいう首都機能を有していたのは,アムステルダムではなくハーグでした。オランダ全体の国策を決定するための議会派の合議はハーグで行われていたからです。したがってフッデJohann Huddeとかヨハン・デ・ウィットJan de Wittなどの政治家は年に何回かはハーグを訪れていたことになります。そのときにフォールブルフVoorburgにいたスピノザと会ったというケースも何度かはあっただろうと推測されます。
ヨハネス・ファン・デル・メールが確率論の問題を解決したいと思ったのは,興味本位ではなく切実な事柄であったと僕は考えます。だからメールがフェルメールであったとして,デルフトもまたハーグとは近距離ですから,そうした機会に有識者の見解を尋ねに行くということはあったとしておかしくありません。そしてそうした有識者とスピノザが懇意にしているということもあり得ないわけではなく,メールが質問をした場にスピノザが居合せるということは,絶対にあり得ないとまではいいきれないでしょう。書簡三十八のメールがフェルメールであるというマルタンの仮説を成立させるための必要条件は,これだけのことを含まなければならないと僕は考えます。
『フェルメールとスピノザ』で説明されている,フェルメールがスピノザと会わなければならなかった契機というのは,確率論とは関係ありません。要するにマルタン自身も,賭けの倍率に関する問題のうちには,スピノザとフェルメールが出会う必然性があるとは考えていないのです。だからマルタンは,スピノザの書簡のテクストが具体的にどういったことを意味しているのか,いい換えるならこのテクストをどのように読解するべきであるのかということには,さほど真剣に取り組んでいなかったのかもしれません。というのも,マルタンが推定している両者が出会う必然性というのが,僕が読解したようなテクストの内容とは矛盾するからです。これは後で詳しく説明しますが,もしもマルタンが説明するような理由からフェルメールとスピノザが会ったのなら,それはデルフトのフェルメールの家でなければならないのです。つまりハーグで会ったことは否定されなければならないのです。
秋のマイル王決定戦,第32回マイルチャンピオンシップ。
イスラボニータは出脚が悪く,発走後に少し置かれました。前に行ったのは3頭で,レッツゴードンキとトーセンスターダムとクラリティスカイ。結果的にレッツゴードンキの逃げになり,2番手にクラリティスカイ,3番手にトーセンスターダム。その後ろはケイアイエレガントとアルビアーノとロゴタイプの3頭で併走。ダイワマッジョーレ,フィエロと続き,サトノアラジンとモーリス。追い上げたイスラボニータがカレンブラックヒル,レッドリヴェールの3頭で併走する隊列に。最初の800mは47秒1で超スローペースといっていいでしょう。
一気に動いていく馬はなく,直線での瞬発力勝負に。直線の入口ではフィエロの外あたりに接近していたモーリスが,競り合う馬群の一番外から伸びて優勝。直線に入って少し前が詰まった感のあるフィエロが何とか進路を見つけて伸び,1馬身4分の1差で2着。クビ差の3着は内と外で大きく離れて写真判定。最内に行ったアルビアーノの外に進路を取ったイスラボニータが,直線で外に出してモーリスの外から伸びたサトノアラジンをハナ差で制しました。クビ差で5着のアルビアーノまで接戦。
優勝したモーリスは春の安田記念以来の実戦。これで5連勝となる大レース2勝目。毎日王冠で復帰する予定でしたが,体調が整わずに回避し,ぶっつけ本番になった点が危惧されていました。まずうまく立て直した陣営の手腕が評価されるところでしょう。元来の能力の高さは明瞭でしたから,勝利自体は順当といえると思います。今後も多くの活躍を期待してよいでしょう。父はスクリーンヒーロー。祖母は1989年のクイーンステークス,1990年の金杯(中山)とアルゼンチン共和国杯,1991年のアメリカジョッキークラブカップを勝ったメジロモントレー。デヴォーニア系メジロボサツの分枝。Mauriceは人名。
騎乗したイギリスのライアン・ムーア騎手は昨年のドバイシーマクラシック以来の日本馬に騎乗しての大レース制覇。日本国内での大レース勝利は一昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来。マイルチャンピオンシップは初勝利。管理している堀宣行調教師は安田記念以来の大レース制覇。マイルチャンピオンシップは初勝利。
スピノザとヨハネス・ファン・デル・メールが会ったのが,アムステルダムかハーグのどちらかであるのなら,メールがフェルメールであるとするマルタンの説は,かなり根拠が薄弱になると僕は考えます。
スピノザが住んでいたフォールブルフという村は,デルフト市の管轄区域内にありました。そしてフェルメールはデルフトに住んでいたのです。ですからスピノザとフェルメールが会うとすれば,デルフトで会うかフォールブルフで会うかのどちらかの可能性がきわめて高いと考えざるを得ません。わざわざそれ以外の地で会うということは,ふたりにあるいはふたりのうちのどちらかに,不要な負担を強いることになるからです。現在のように気軽に遠出することができるような時代ではなかったことを考慮に入れれば,会うためにそのような手段を採用することは不自然だといわなければならないでしょう。とくに,ハーグはフォールブルフからもデルフトからもそんなに遠いというわけではありませんが,このふたりがかなり離れたアムステルダムで会うという可能性は,ほぼないといってしまってもいいだろうと僕は思います。
僕はスピノザとメールが会ったのはおそらくアムステルダムであったろうという見解ですが,ハーグの可能性を排除はしません。一方,メールがフェルメールであるとして,スピノザとアムステルダムで会うということはあり得ないと思いますが,ハーグで会うということであればまったくないとはいいません。したがって,まだ僅かながらですが,メールがフェルメールであると解する余地が残っていることになります。現実的にはこの僅かな可能性というのは無視してもいいくらいに思いますが,『フェルメールとスピノザ』でマルタンが示しているその他の仮説と比較すると,その僅かな可能性がさらに低くなると僕には思えます。

まず,フェルメールとスピノザがハーグで会ったとして,なぜ確率論に関する質問,賭けの倍率の設定に関する質問をしなければならないのかということが十分に説明できません。フェルメールがこの質問をスピノザにするためにハーグを選ばなければならない理由がないからです。
一昨日,昨日と穴原温泉で指された第28期竜王戦七番勝負第四局。
糸谷哲郎竜王の先手で角換わりを目指しましたが,後手の渡辺明棋王が変化球を投じました。

第1図の△9四歩がそれ。△8五歩なら角換わり,△3四歩なら横歩取りになったでしょう。
先手はこれに反応。▲5六歩と突き,△3四歩▲5五歩△8五歩▲7七角△6二銀▲6八銀△7四歩▲5七銀△7三銀▲5六銀△7四銀▲5八飛とすすめました。

中飛車にするのはいいと思うのですが,すぐに5筋の位を取って銀が5六まで出るのは序盤の構想としてはどうだったのかなと思います。この後,すぐに▲4五銀と出て5筋の歩を交換し,また5六まで戻って6四の銀と交換するというのもひどい手損で,変化球にうまく対応できなかったという印象が強く残りました。
渡辺棋王が勝って3勝1敗。第五局は来月2日と3日です。
スピノザとヨハネス・ファン・デル・メールのふたりきりで考えたのか,それとも第三者がいたのかに関しては,スピノザの書簡からは判断がつかないとしかいいようがありません。ですがマルタンの仮説を検証する目的からは,どちらであっても構わないでしょう。なぜならどちらの場合であれ,スピノザとメールが顔を合わせたことは確実なのであり,つまりメールがフェルメールであるのなら,スピノザとフェルメールは会ったことがあると考えなければならないことになるからです。
メールが何者であるのかということ,あるいはマルタンがいっているようにメールをフェルメールと理解してよいのか否かは,スピノザが田舎で考えたといっている部分の方がヒントになるだろうと僕は考えます。テクストのこの部分は,単にふたりが会ったのはフォールブルフではなかったということだけを意味していると読解しなければならないとは僕は考えていないからです。
スピノザはアムステルダムという都市出身者の立場として,辺鄙なフォールブルフを田舎と表現していたと推定できます。したがってまずこの部分が意味するのは,フォールブルフではなかったということよりも,田舎ではなかったということです。そしてスピノザにとっての田舎というのが都市との比較において規定されているのであれば,ふたりが会ったのは田舎ではなく都市であったと読解するのが妥当です。つまりスピノザとメールが会ったのは都市だったというのが僕の見解です。
スピノザがフォールブルフに住んでいた時代に,だれかと会う可能性があった都市というのは,何度か出掛けていたアムステルダムか,そうでなければ近郊のハーグであったかのどちらかです。スピノザがアムステルダム出身者としてフォールブルフを田舎と感じたのであれば,アムステルダムであると考えられます。一方,オルデンブルクに宛てた手紙で,悪天候でハーグに行くことができなかったということで田舎という表現を用いていることからは,ハーグであると考えられることになります。僕はアムステルダムの可能性の方が高いと思っていますが,そうでなければハーグだったでしょう。
15日に東京ビッグサイトで指された第36回将棋日本シリーズの決勝。対戦成績は深浦康市九段が20勝,三浦弘行九段が9勝。
振駒で三浦九段が先手になり角換り相腰掛銀。深浦九段は9筋を受けずに先攻。千日手模様を先手が打開し,金損の代償に飛車を成りましたが,さすがに無理で,受け切れば後手が勝ちという将棋になりました。

この王手を取る手はなく,どちらに逃げるかの二拓。△1三王と逃げましたが敗着になりました。▲3九香△5六と▲3八香と進んで第2図。

このとき後手玉が1二にいれば次に▲3二香成とした手が詰めろにならず,ここで受ける必要はありませんでした。ですがこの場合は金を取られたとき,▲2二角~▲1一角成で詰んでしまうので,先手玉に詰めろを掛けるか受けるほかありません。ですがまだ駒が少なく詰めろを掛けるのは無理なので受けに回ることに。この一手の差が大きく,先手の攻めが継続することになりました。
三浦九段が優勝。2002年のNHK杯以来3度目の棋戦優勝で日本シリーズは初優勝です。
スピノザが出された質問をひとりで考えたというとき,質問されたときにスピノザがひとりでいたのではないと解することもできますが,以前に考えたときにはひとりではなかったとも読解できます。僕は後者の意味に理解するのが妥当であろうと考えています。というのは質問者であるヨハネス・ファン・デル・メールは,純粋な知的好奇心からか何らかの必要性があってかは判断つきかねますが,この問いに対する正解を欲していたのであって,単にスピノザがこの問題に答えられるかどうかを試そうとして質問したのではないように思えるからです。つまり少なくともメール自身は,スピノザに質問する前からこの問題を考えていて,しかし解答を導出できなかったからスピノザに尋ねたのだと思うのです。
したがって,メールはスピノザに質問したときに,ふたりで議論し合って答えを出そうとしたという推測がひとつ成立します。そのときには答えが分からず,後にスピノザがフォールブルフでひとりで考えてみたら正解が出たのでメールにそれを書簡で伝えたとすれば,ひとりで考えたということの意味がメールにも伝わることになります。ですがこれとは別の可能性もあります。フッデとホイヘンスとヨハン・デ・ウィットは3人で確率論の共同研究をしていたのですから,その三者あるいはだれかも一緒にスピノザと考えたと解することもできるからです。あるいはこれ以外のだれか,スピノザとメール以外の第三者が加わっていたとしても同じことです。というのもメールはこの問題に対する正解を欲していたというのが僕の仮定なのですから,メールは別にスピノザだけにこの質問をする必然性があったのではなく,だれに対しても,といってもそれはメールにとって解答を出す能力があると思える人という限定はつけなければいけないでしょうが,そうした人に対してはだれかれ構わずに同じ質問をしたと推測する方が妥当だからです。なのでたとえばスピノザとフッデが一緒にいる場にメールが居合わせたなら,メールにとってはスピノザとふたりきりの場合より,質問するのにより都合がいい状況だったことになります。もちろんフッデは一例にすぎません。
北海道から1頭,兵庫から1頭が遠征してきた昨晩の第26回ロジータ記念。

発走直後はトーコーヴィーナスとサチノマリアージュの逃げ争いで,ハナを奪ったのはトーコーヴィーナス。外からヴィグシュテラウスが追い掛けてきて,1周目の正面に入るところでは2番手に上がったヴィグシュテラウスと控えたサチノマリアージュの差が5馬身くらい。以下,ジュエルクイーンとララベル,少し下げたミスアバンセ,フジノドラマとラブディーバとティーズアライズという隊列に。ホームストレッチで馬群は凝縮。トーコーヴィーナスの単騎逃げになり,2番手にヴィグシュテラウス。サチノマリアージュとララベル,ジュエルクイーン,ミスアバンセでその後ろはフジノドラマ,トーセンマリオン,ラブディーバ,ティーズアライズの4頭が併走に。発走後の分もあり,超ハイペースでした。
向正面に入るとトーコーヴィーナス,ヴィグシュテラウス,サチノマリアージュ,ララベルという隊列でしたが,半ばでヴィグシュテラウスが一杯になるとララベルが外から押し上げ単独の2番手に。さらに外をジュエルクイーン,内をフジノドラマが追い上げました。最後の直線の入口でトーコーヴィーナスにララベルが並び,3番手に外を回ったジュエルクイーン。それより内目を回った4番手のフジノドラマがここでジュエルクイーンの外に進路を取りました。残り100m手前でララベルがトーコーヴィーナスを交わして抜け出し,そこから4馬身差をつけて優勝。トーコーヴィーナスは完全に止まりましたがぎりぎりで2着を確保。外を伸びたフジノドラマがハナ差まで迫っての3着。
優勝したララベルは桜花賞以来の南関東重賞4勝目。秋初戦の大井の3歳オープンを勝っての参戦。そのレースは異例なほどの超スローペースで,体力の消耗も少なかったのではないかと思います。本質的な距離適性はもっと短いところにあると思っていますが,最大の長所は競り合って強いところで,その持ち味が生きるようなレース展開だと,距離もこなすことになります。レースで頑張るタイプなので,疲労度も大きいのではないかと推測するのですが,それでいて大きく崩れないのは,競走能力の高さの証明でしょう。クイーン賞では入着級の評価かもしれませんが,東京シンデレラマイルなら古馬相手でも有力馬でしょう。父はゴールドアリュール。
騎乗した大井の真島大輔騎手はスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞制覇。ロジータ記念は初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師もロジータ記念初勝利。
スピノザが産まれ育ったのは,当時のヨーロッパを代表する商業都市のアムステルダムでした。生活の利便性は当時の平均値からしたら格段に高かったと思われます。ですから後にフォールブルフのような辺鄙な地に住むことになったとき,そこを田舎と感じる度合いも高かったろうと推測されます。スピノザが何通かの書簡の中で,フォールブルフを田舎と表現しているのは,スピノザ自身の半生が影響したと考えておくのが妥当でしょう。
ヨハネス・ファン・デル・メールに宛てた手紙の中で,フォールブルフを田舎といっているのもその表出です。しかし,出された質問を田舎でひとりで考えたというテクストから読解できるのは,単にフォールブルフが田舎であるということだけではありません。スピノザは田舎で考えたといっているのであり,田舎で質問されたといっているのではありません。同様にひとりで考えたといっているのであり,ひとりで質問されたといっているのでもありません。つまりこのテクストが示唆しているのは,質問が出されたのは田舎ではなかったか,そうでなければひとりで質問されたのではなかったかということの,少なくともどちらかではあるということです。仮にこの両方が充足されないとしたら,出された質問を田舎でひとりで考えたという記述は著しく不自然であるからです。とくにこの書簡は,質問をした当事者であるメールに対して書かれているのです。当然ながらメールは質問をした状況というのを理解していたことになります。メールが書簡でフォールブルフのスピノザに対してだけ質問をしていたのなら,田舎でひとりで考えたというスピノザの記述は,ごく当然すぎて意味の捕えどころがない文章だった筈です。
僕の見解をいえば,このテクストは田舎で質問されたのではないか,ひとりで質問されたのではないかのどちらかさえ満たせばそう不自然な記述ではないのですが,実際には両方とも満たされていたであろうということです。つまりメールのスピノザに対する質問の状況というのは,少なくともフォールブルフではないし,田舎といい得るような地でもなく,かつスピノザひとりでなかったということです。
北海道から2頭,笠松から1頭が遠征してきた昨夜の第15回ローレル賞。

好発はマックスガーデンで,主張すれば逃げられそうでしたがその気がなかったようです。外からモダンウーマンがハナにいき,スアデラが2番手でマーク。タワーオブクイーンが単独の3番手になり,控えたマックスガーデンは4番手。その後ろにシャイニーネームがつけました。前半の800mは51秒2のミドルペース。
3コーナー前付近から前の2頭と3番手以降の差が開き始め,ここからは2頭のマッチレース。直線に入った辺りの手応えはスアデラの方がよいように僕には見えましたが,並ばれそうになってモダンウーマンはもう一伸び。ゴール前ではむしろ差を広げての逃げ切りで優勝。力尽きたスアデラは2馬身差の2着。9馬身差の3着争いもマッチレース。コーナーで内からマックスガーデンを交わして前に出ていたシャイニーネームを,ゴール前で再びマックスガーデンが交わして3着。シャイニーネームがクビ差で4着。
優勝した北海道のモダンウーマンはここまで北海道重賞の2勝を含めて3勝。残りの3戦も2着。今年の北海道の2歳のレベルは高く,マックスガーデンと共に好勝負必至とみていました。1200mまでの経験しかなかったことと,左回りになることが課題でしたが,どちらも克服しました。おそらくスピードに優るタイプなので,重馬場になったのもプラスだったと思います。体重が大きく減っていたのは輸送の影響もあったでしょうが,前走は太め残りであったかもしれず,絞った分もあったかと思います。このまま川崎に転入するようなので,東京2歳優駿牝馬に出走することになるかと思われますが,有力馬でしょう。全日本2歳優駿で好走があってもおかしくないだけの力量はあると思います。父はサウスヴィグラス。母の父は2000年と2001年のアンタレスステークス,2002年と2003年の平安ステークス,2003年のマーチステークスを勝ったスマートボーイ。祖母の半弟に2002年の阪神ジャンプステークスを勝ったミレニアムスズカ。
騎乗した北海道の阿部龍騎手は南関東重賞はこれが初勝利。管理している北海道の角川秀樹調教師はローレル賞初勝利。
ライプニッツやフッデとスピノザの間の書簡の一部が,シュラーやイエレスらの編集者の配慮によって,価値はあったのに掲載を見送られたのは確実視して間違いありません。だとすれば,ヨハネス・ファン・デル・メールとスピノザとの間の書簡にも,同じような事情があった可能性を完全には否定することができません。もちろん,ライプニッツやフッデは現在にも名を残している著名人であり,メールは正体も知れない人物であることに目を向ければ,編集者が配慮を示さなければならなかった蓋然性が薄いのは事実です。とはいえ可能性が0ではない以上,単に遺稿集の編集者の意向だけを根拠にして,メールからスピノザへの質問状はなかった,他面からいえばメールはスピノザに会って質問したと推測するのは不十分だと思われるかもしれません。よって今度は,確かにメールとスピノザは会ったと推定できることを,別の根拠から説明します。僕はマルタンの意見には賛同しませんが,『フェルメールとスピノザ』に示されているように,メールがフェルメールであるのなら、ふたりは確実に会ったと考えなければならないことになります。
メールに送った書簡三十八の冒頭で,スピノザは,田舎で孤独な生活をしている間にいつか出された問題を考えたと書いています。ここでスピノザが田舎といっているのはフォールブルフのティードマンの家のことです。コンスタンティンの別荘がごく近くにあったこの村が,辺鄙な田舎であるということは,ほかの書簡からも確定できます。たとえばオルデンブルクに宛てた書簡三十二の最後の部分には,この手紙は先週のうちに書き終えたのだけれども,悪天候の影響でハーグまで行くことができなかったから発送するのが遅れてしまったと書いてあります。道路の状況や交通事情が現代とは格段に違っていたことは考慮に入れなければなりませんが,フォールブルフというのは天候の影響を受ければ孤立してしまうような地だったことになります。この書簡でもスピノザは田舎に住むとこのような不便が多く生じるといっています。つまりメールへの手紙でスピノザが田舎といっているのは,このような意味においてです。
先月の3日に霧島ファクトリーガーデンで指され,14日に放映された第37期女流王将戦三番勝負第一局。それまでの対戦成績は香川愛生女流王将が2勝,里見香奈女流名人が2勝。
振駒で里見名人の先手。3手目に▲2六歩と居飛車を明示すると後手は4手目に△7四歩と突いて袖飛車に。力将棋になりました。たぶん先手が仕掛けたところでの後手の対応が拙く,早い段階から先手が優位に立っていたものと思われます。

先手が前に飛車頭に打った歩を後手が取った局面。この銀は腰掛銀から5五に出たのが引いてきたもので,退却を余儀なくされている後手がすでに苦戦といえるでしょう。
先手は▲5六角と狙いの角を打ちました。このまま▲2三歩成とされてはいけないので格言通りの△3四歩。これは取らずに▲2三歩成としました。
銀で取ると▲2四歩と打たれて1二に引かなければならないので△同金。今度は▲6五角と出て桂取り。後手は△3五歩▲同銀△2七歩▲同飛△4七歩成とし,▲同角と取らせることによって回避。苦心の手順ですが,このあたりは離されずについていったのではないでしょうか。
ここから△7六歩▲同銀と形を乱してまた△4六歩と打ったのですが,▲6五角と出られたときに△1三桂と逃げたために▲4六銀と引かれました。

実戦のように指したのなら,4六の歩は後手が逆転するための唯一の手掛かりだった筈。それを払われてしまった第2図は大差になっているといえそうです。典型的なじり貧負けの順を選んだ結果になり,明確な終盤に至らぬまま後手の投了となりました。
里見女流名人が先勝。第二局は21日の放映です。
『暗闇で輝く光』を印刷所に持ち込んだヤン・クールバッハは,この本を発行することについてヨハン・デ・ウィットの許可を得ているという説得をエーデにしたと『ある哲学者の人生』にはあります。そのこと自体は出任せでした。ただ,そのように言ったとすれば,クールバッハ兄弟はウィットのような議会派の政治家は自分たちの味方であると思っていたのかもしれません。それに対してナドラーは,スピノザにはそのような幻想はなかったのだとしています。スピノザとデ・ウィットは思想的には隔たりがあるということ,かつウィットにとって最も重要だったのは,国内の安定であり,それを大きく崩してまで思想や言論の自由を守ろうとはしないということがスピノザには理解できていて,だからスピノザは『神学・政治論』を匿名で,しかもラテン語で出版したのだというのがナドラーの説明の大意です。
スピノザは哲学する自由を守ろうとしました。そしてクールバッハ兄弟は知った仲でした。だからアドリアンが出版したことで罪に問われ,獄死したこと自体は苦々しく思っていたことでしょう。ことによるとそのこと自体が,スピノザに『神学・政治論』の出版を決意させたと解することができないわけではありません。確かにその内容は,宗教的な理由によって著者が罰せられることへの批判を含んでいるからです。とりわけ第19章は,政治に口出ししようとするプロテスタントの牧師たちへの批判という観点と絡めずに理解することは難しいように思えます。
一方でスピノザは,主権者が騒乱を防止するということにも理解がなかったわけではありません。そのために定められた法規には国民は従わなければならないと主張しているからです。そしてこの点から察すると,『神学・政治論』を匿名のラテン語で出版したこと,そしてその蘭訳を望まなかったことについて,スピノザ独自の見解ではなく,デ・ウィットやフッデといった,実際に政治に携わっていた人たちからの助言があったと仮定することもできます。イエレスへの書簡で知人たちも望まないというとき,そうした政治家を知人というなら,蘭訳自体を望まないと解せる余地が生まれます。
豊橋競輪場で行われた昨日の国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは吉沢-芦沢の茨城,深谷-浅井の中部に柏野,小川-大塚-渡部の西国で小埜が単騎。
迷わずスタートを取った深谷の前受け。4番手に小川,7番手に吉沢,最後尾に小埜の隊列になり,小埜は茨城を追走するレースになりました。残り3周のホームから吉沢が上昇開始。深谷はなかなか下げず,残り2周になってから引き,吉沢が叩くと小川が小埜の後ろに入り,深谷が7番手の一列棒状で打鐘。小川が一旦は動く構えを見せたもののまた4番手に収まり,深谷は残り1周のホームから発進。しかしまったくといっていいほど進まず,小川の横までいけないうちに浮いてしまい圏外。前の争いとなり,絶好の番手から抜け出した芦沢が優勝。最終コーナーでインから小埜を掬い,吉沢と芦沢の間に進路を取った大塚が4分の3車輪差で2着。逃げ粘った吉沢が4分の3車身差で3着。
優勝した茨城の芦沢大輔選手は9月の青森記念以来の優勝。これは協賛競輪ではなく記念競輪の扱いのようなので,記念競輪3勝目と表記しておきます。ここは深谷と浅井が強いと思われましたが,吉沢がうまく駆けたこともあり不発に。結果的に番手を回った芦沢にチャンスが回ってくることになりました。本人が何もしていないという主旨のコメントを残しているように,吉沢の頑張りが称えられるべきでしょう。逃げて深谷の捲りを封じたのですから,吉沢にも自信がつく競走だったのではないかと思います。
『神学・政治論』がオランダ語に訳されて出版されない限り,発売禁止の処分を受けることはないという見立てをスピノザがしていた理由は何だったのでしょうか。その推測のひとつとして,アドリアン・クールバッハの著書をあげることができます。アドリアンの『百花繚乱の園』はオランダ語で書かれていました。また『暗闇で輝く光』についても,オランダ語での出版を企てていたからです。

当時のオランダの識字率がどの程度のものであったのかは僕には分かりません。ですがオランダ人が読むことができるとすればまずオランダ語であったことは疑い得ないでしょう。したがってオランダ語で出版された書物に関しては,一般大衆の中にもそれを読むことができた人びとが存在したことは間違いないといえると思います。これに対してラテン語というのは別に習得が必要な言語でした。これはファン・デン・エンデンがラテン語学校を開校し,おそらく一時的にはスピノザも助手を務めていたことからも明白です。日常的に使用されていた言語というよりは,教養のために必要な言語であったとみるのが妥当でしょうから,ラテン語で出版された書物を読むことができたのは,限られた一部の知識人だけであったと推測されます。
つまり一般的にいえば,オランダ語で書くということは大衆に向けて書くということを意味し,ラテン語で書くという行為は知識人に向けた行為であったことになります。アドリアンは単にラテン語の教養に乏しかったという可能性も排除はできませんが,少なくとも保守的な支配者層やプロテスタントの牧師たちからみれば,大衆に向けて自説を展開しているとみられても不自然ではなかったことになります。また,取り調べへの供述内容からすると,アドリアンにはオランダの一般大衆を啓蒙しようという意図があったように僕には思えるのです。
アドリアンは書物が発禁になっただけでなく,罪に問われ獄死しました。その理由のひとつにオランダ語で書いたことが影響していたとするなら,スピノザが『神学・政治論』の蘭訳を望まなかった理由のひとつになり得るでしょう。ナドラーもこれに似た見解を示しています。