スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

燦燦ダイヤモンド滝澤正光杯&別の疑問

2023-08-31 19:22:42 | 競輪
 29日の松戸記念の決勝。並びは平原‐諸橋の関東,岩本‐和田の千葉,川越‐深谷の南関東に大森,岩谷‐小川の福岡。
 大森がスタートを取って川越の前受け。4番手に平原,6番手に岩本,8番手に岩谷で周回。残り3周のホームから岩谷が上昇。バックで川越に接近しましたが,誘導との車間を開けていた川越が突っ張りました。岩谷は引いて周回中と同じ隊列に戻りました。突っ張った川越はホームから全力で駆けていきそのまま打鐘。ホームに戻って岩本が発進。これに対して深谷が番手捲りで応戦。岩本は浮いてしまい不発。平原が動けなかったのでこのままの隊列で直線に戻り,深谷が粘って優勝。マークの大森が半車身差で2着でこのラインのワンツー。大森マークのようなレースになった平原が1車身差で3着。平原マークから直線は内を突いた諸橋が微差で4着。
                                        
 優勝した静岡の深谷知広選手は先月の伊藤温泉でのFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は大宮記念以来の19勝目。松戸記念は初優勝ですが,2014年にサマーナイトフェスティバルを勝っています。このレースは南関東の4人が地元とそれ以外に分かれました。なので川越がどういうレースをするのかに注目していたのですが,前受けをして残り2周半から突っ張って先行というレース。番手も自力の深谷だったので,ほかのラインはほぼ何もできないというレースになりました。深谷は自力を使ったのは概ね1周ほどですから,わりと楽な形での優勝になったのではないでしょうか。最初に上昇していった岩谷の動きはやや中途半端だったように感じます。

 第二部定理三二は,僕が示したような,すべての観念ideaは神Deusに関係する限りで十全adaequatumであるということを経由しても証明することができました。ところがスピノザによる証明は,その手続きを省略しています。それは取りも直さず,スピノザがこの定理Propositioで証明したかったことが,僕が示したこと,すなわち,神に関係する限りで十全な観念idea adaequataは神に関係する限りで真の観念idea veraであるということではなかったからだと僕は考えます。つまり,本来的特徴denominatio intrinsecaからみた場合に十全な観念は,外来的特徴denominatio extrinsecaからみるなら真の観念であるということを,スピノザはこの定理によって示したかったのではなく,神に関係する限りですべての観念は真verumであるということを,直接的に,つまり観念の外来的特徴にも本来的特徴にも依拠せずにスピノザは示したかったのだと僕は考えます。
 すると今度は,次のような疑問が浮かんできます。第一部定理一五によれば,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのです。したがって,何らかの観念があるというのであれば,その観念は神のうちにあるのだといわなければなりません。そして第一部定理一八にあるように,神は神に内在するすべてのものの内在的原因causa immanensですから,そうした観念もまた神を内在的原因として存在するといわなければなりません。
 僕は河井の主張には受け入れ難い部分があるので,河井が示しているようなこの定理の主旨を修正しようとしています。しかし,河井が見当外れのことを主張していたのかといえば,そういうわけではありません。第二部定理三二が,平行論と関係しているという河井の指摘は正しいものですし,それが平行論を含んでいるということは,そのうちに何らかの因果関係が含まれているという指摘も間違っているわけではないからです。ただその因果関係を,神が観念に対して遠隔原因causa remotaであるかのように主張している点が,僕には受容することができないのです。それが受容できないのは第一部定理二八備考でスピノザがそれを否定しているからですが,この否定negatioは,この内在的原因の場合にも適用されなければなりません。つまりこの定理でいわれている観念に対して神は,内在的原因であり同時に最近原因causa proximaでもあるのです。
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NACK5賞ルーキーズサマーカップ&修正

2023-08-30 19:17:32 | 地方競馬
 第1回ルーキーズサマーカップ
 ライゾマティクスが2馬身ほど後ろを離しての逃げ。2番手はアークジャックとアムクラージュ。2馬身差でポッドマーフィーとシャイニーアイドル。ラシアス,スターサルファーと続きました。3馬身差でビッグショータイム。4馬身差でユウユウプルニーマ。4馬身差でカプローニ。3馬身差でユウユウアイリス。4馬身差の最後尾にユウユウプレストというとても縦長の隊列。最初の600mは36秒5の超ハイペース。
 ライゾマティクスを追っていったのはアムクラージュで,最終コーナーで外からライゾマティクスの前に出ました。さらにポッドマーフィーが追ってきたのですが,こちらは4コーナーでかなり外に膨れてしまいました。この間にリードを広げたアムクラージュが優勝。序盤は後方から直線でライゾマティクスとポッドマーフィーの間から伸びたビッグショータイムが5馬身差で2着。ポッドマーフィーが1馬身半差で3着。
 優勝したアムクラージュはデビュー戦は4着でしたがその後は連勝。これで3連勝での南関東重賞制覇となりました。このレースはライゾマティクス,ポッドマーフィー,アムクラージュの3頭が2勝以上をあげている馬だったのですが,いずれも逃げて結果を出していたので,どの馬が最も強いのかはよく分かっていませんでした。結果的にはほかより早いタイムで勝っていたアムクラージュが,おおよそそのタイム差くらいの差をつけて勝ちましたので,これが現状の力量差とみてよいのだろうと思います。父はホッコータルマエ。母の父はキングヘイロー
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は京成盃グランドマイラーズ以来の南関東重賞21勝目。管理している浦和の藤原智行調教師は南関東重賞7勝目。

 河井の第二部定理三二に関する主張には,僕には納得ができない点がふたつ含まれています。なのでこの定理Propositioでスピノザが何をいいたかったということについては,修正が必要です。どのように修正するべきなのかということを考えていきます。
                                   
 この定理の証明でスピノザが援用している第二部定理七系は,Deusのうちにある観念ideaは十全adaequatumであるという意味で援用される場合がほとんどです。この定理に関しても,そのように援用することで証明することはできたと僕は考えます。すなわち,この系Corollariumにあるように,神のうちにはすべてのものの十全な観念idea adaequataがあるのであって,この観念はこの系および第二部定理七から分かるように,観念対象ideatumの秩序ordoおよび連結connexioと一致します。よって第一部公理六によってその観念は真の観念idea veraであるという方法です。
 この証明方法はスピノザが示しているのと同じように思えるかもしれませんが,似て非なるものです。スピノザの方法は,第二部定理七系から直接的にすべての観念が神に関係する限りで真の観念であるということを導き出しているのに対し,僕がここに示した方法は,すべての観念は神に関係する限りで十全であるというステップを踏んだ上で,神に関係する限りで真であるということを導出しているからです。つまりスピノザの証明方法から理解することができるのは,僕が示したようなステップは,スピノザにとって不要であったということです。
 なぜ不要であったのかというのは,たぶん次のような事情によります。もしもすべての観念は神に関係する限りで十全であるということを通してすべての観念は神に関係する限りで真であるというならば,実際に証明されているのは,すべての観念が神に関係する限りで真であるということなのではなくて,神に関係する限りで十全である観念は神に関係する限りで真でもあるということになってしまうのです。つまり,このステップを入れることで証明されるべき定理として相応しいのは,神に関係する限りで十全な観念は同時に真の観念でもあるということ,もっと一般的にいえば,もしもある観念が十全な観念であるなら,その観念は同時に真の観念でもあるということなのです。
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印象的な将棋⑲-6&疑問点

2023-08-29 19:29:40 | ポカと妙手etc
 ⑲-5の第2図で,先手は合駒をするか逃げるかの二者択一です。まずは合駒をする方からみていきましょう。☗5九桂です。
                                        
 これに対しては後手から☖5九同角成と取ってしまう手があります。先手は☗同金の一手ですがさらに☖5八銀と打ちます。これも☗同玉の一手ですが☖4七歩成☗6八玉☖5九飛成です。
                                        
 第2図まで進めば分かるように先手玉は詰みです。つまり第1図のように合駒をしてしまうと,先手玉が詰んでしまい,後手の勝ちなのです。よって後手は合駒をするのではなく,玉を逃げるほかありません。

 第二部定理三二証明平行論の定理Propositioの系Corollariumを前提にしているということ,そしてそのゆえに第一部公理四に遡ることができるという河井の主張は,僕も同意することができます。しかしその後で,個々の混乱した観念idea inadaequataも,遡れば起成原因causa efficiensとしての神の観念idea Deiまで行きつくと河井がいうとき,僕は疑問に感じます。これはスピノザの哲学にそぐわない解釈と考えるからです。
 河井は,ある混乱した観念を抽出して,遡ることによって神の観念に行きつくといっていますが,これは第一部公理四を前提としているので,結果effectusから原因へと遡っていくことを意味していることになります。一方,そのように結果から原因へと遡っていくことができるのであれば,そうした観念は個物res singularisの観念であると解する必要が出てきます。ところが,第二部定理九がいっているのは,個物の観念をひとつ抽出して,それを結果としてみたときにその原因へと辿っていくなら,この結果と原因の関係が無限に連鎖していくということです。いい換えればそれは,神の観念に辿り着くということはないという意味です。したがって,河井のいっていることはスピノザの哲学では成立しないと僕は考えます。
 さらに河井は,神の観念から出発すれば,十全な観念に立ち戻ることができるといっていますが,これも僕は疑問に感じます。ここで立ち戻るというのは,遡るとは反対の意味で立ち戻るといっているのでしょう。つまり河井は,混乱した観念も結果としてみれば,原因,その原因といった具合に第一原因causa primaとしての神の観念に遡ることができて,そして今度は神の観念を第一原因としてみることで,その結果さらにその結果と立ち戻り,十全な観念に至るといっていると僕は解します。このとき,遡るということだけでなく,立ち戻るという部分も,スピノザの哲学にそぐわない解釈だと僕は考えるのです。
 もしこのような仕方で十全な観念に立ち戻るのであれば,この十全な観念に対して神は遠隔原因causa remotaであるといわなければならず,最近原因causa proximaであるとはいえなくなります。ところが第一部定理二八備考でスピノザはそれを否定しています。この観念に対して,神は絶対的な最近原因でなければなりません。
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黒&一致

2023-08-28 18:54:06 | 歌・小説
 黒という色は,ドストエフスキーの小説の中で特別な意味をもっています。このことは『ドストエフスキー 黒い言葉』の中でも触れられているのですが,『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』の中でより詳しく説明されていますので,ここではそちらの方を資料として用います。
                                        
 カラマーゾフという苗字には,黒く塗られた者という意味があります。ドストエフスキーは意図をもってこの苗字をこの小説のために用意したのですが,それがどういう意図であったのかということはここでは考慮しません。ただこのことは,小説のタイトルが,『カラマーゾフ兄弟』ではなく『カラマーゾフの兄弟』となっていることからも理解できるでしょう。一般的にそれが苗字であるのなら『カラマーゾフ兄弟』といわれるのが自然で,『カラマーゾフの兄弟』というのはむしろ奇異に映るからです。たとえば飛行機を発明したのはライト兄弟といわれるのであって,ライトの兄弟とはいわれないでしょう。
 カラマーゾフという苗字は,チュルク語のカラとロシア語のマーゾフに分けることができます。カラはチュルク語で文字通りに黒という意味です。マーゾフはそれ自体で意味があるわけではないのですが,ロシア語にはマーザチという動詞があって,この動詞が元になっています。マーザチという動詞は,塗るという意味をもっています。
 ドストエフスキーは,カラマーゾフという苗字がこのような語源を有しているということを,小説自体の中で明らかにしています。第四編の第六章で,アリョーシャがスネギリョフという二等大尉の家を訪ねるシーンがあります。そのシーンで,この二等大尉の妻が,アリョーシャのことをチェルノマーゾフさんと呼びます。このチェルノというのはロシア語で黒を意味します。このことによって,カラマーゾフというのがどのような意味であるのかをドストエフスキーは明らかにしようとしているのです。
 『罪と罰』のラズミーヒンが本当はウラズミーヒンだと名乗るプロットと同様に,このチェルノマーゾフとアリョーシャが呼び掛けられるプロットも,ロシア語の素養がないとさっぱり意味が分かりません。これはドストエフスキーが,意図的に登場人物の苗字や名前をつけているからだといえるでしょう。

 第二部定理三二の畠中の訳業に関する河井の指摘は,その指摘そのものの中に考察したいことが含まれています。そのために,ここでは河井の指摘の内容と結論を,順に追いながら探求していきます。
 まず河井は,この定理Propositioのスピノザによる証明第二部定理七系を前提としているから,遡れば第一部公理四に依拠することになり,よって個々の混乱した観念idea inadaequataも,遡れば起成原因causa efficiensとしての神の観念idea Deiに行きつくことになり,その神の観念から出発すれば,十全な観念idea adaequataに立ち戻ることになるとスピノザはいいたいのだとして,第二部定理七系について,それを平行論の定理の系Corollariumであるといっています。
 この部分には僕は疑問を感じるところがあるので,ここで河井がいっていることの正当性をどう担保するのかということから考えていきます。
 第二部定理三二のスピノザによる証明は,ふたつの事柄に依拠しています。ひとつが河井のいう第二部定理七系で,もうひとつは第一部公理六です。このときスピノザは,第二部定理七系からは,神の中に存在するすべての観念がその観念対象ideatumと一致するということを導いています。僕は第二部定理七系の意味としては,神の中に存在する観念はすべて十全な観念idea adaequataであるということであるとみているのですが,ここではスピノザはそれとは違ったことを見出しています。この系は,神の無限な本性naturaから形相的にformaliter生じるすべてのことが,神の観念から同一の秩序ordoと同一の連結connexioで客観的にobjective生じるといっていて,そのうち,同一の秩序でありまた同一の連結であるという点に注視しているわけです。この,同一の秩序でありまた同一の連結であるということが,観念と観念対象は一致するということを意味します。このことは第二部定理七から明らかです。そしてこの定理は平行論の基本的な定理ですから,河井が第二部定理七系を,平行論の定理の系とみなすことは正しいといえます。そしてこの定理の証明は,第一部公理四だけに依拠しているので,第二部定理三二の証明が,この点で第一部公理四に遡るということも,正しいといえるでしょう。スピノザはこの一致の意味を前提に,第一部公理六に訴え,第二部定理三二を証明しているのです。
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悪の確知&目的論

2023-08-27 20:13:11 | 哲学
 第四部定理六六で示した例から,何がいえるのかをみていきます。
                                   
 ある人間が現実的に存在していて,その人間が100円をもらうことも喜びlaetitiaであり1000円をもらうことも喜びです。つまり第四部定理八により,それらはいずれも善bonumの認識cognitioです。もちろん,100円をもらうことよりも1000円をもらうことの方がより大きな喜びですから,100円をもらうことは小なる善で1000円をもらうことは大なる善になりますが,善の認識であることに違いはありません。善の確知は十全な認識であり得るのですから,これらはそれ自体でみれば,どちらもその人間にとっての十全な認識であり得ることになります。
 しかし,もしも100円をもらうことが1000円をもらうことを阻害するのであれば,小なる善が大なる善を妨害していることになるでしょう。よってこの場合は,第四部序言および第四部定義二により,100円をもらうという小なる善はmalumであるということになります。ところが,100円をもらうことは,それ自体でみれば善ではあるので,十全な認識であり得るのでした。したがって,それがより大なる善を妨害する限りでの小なる善は,悪であると認識されるのですが,十全な認識であり得るということになるのです。つまりこの場合は,悪の確知もまた善の確知と同様に,十全な認識であり得るということになります。
 これは不条理ではありません。100円をもらうことは,それ自体では善であって,1000円をもらうことを妨害するとみられる限りでは悪といわれているからです。いい換えればこれらふたつのことは両立し得ることになります。したがって,第四部定理六四でいわれているように,悪の認識というのは,それ自体でみれば混乱した認識ではあるのですが,大なる善を妨害する小なる善が悪といわれる場合には,悪の認識もまた十全な認識であり得るのです。よって悪の確知は,それ自体では十全な認識ではあり得ないのですが,第四部序言や第四部定義二に従う限り,十全な認識であり得ることになるのです。

 無限に多くのinfinita面積が等しい矩形を存在させるという目的finisのために円が存在するということはあり得ません。したがって,ユークリッド原論第3巻命題35が,何らかの目的論を示唆しているということはあり得ません。ですから,河井が指摘しているような仕方でカントImmanuel Kantがこの命題を援用しているのであれば,それは適切性を欠いた援用であるといえるのではないかと僕は考えます。
 このことは,おそらくこの命題に限定されたようなことではありません。ユークリッド原論そのもの,つまりその全体が,何らかの因果律を示しているというようには僕は思いませんが,目的論観点から記述されているということはあり得ないと思います。ですから,ユークリッド原論にあるどの命題を援用する場合であっても,目的論的観点からそれを援用するのであれば,そのこと自体が適切性を欠くことだと僕は考えます。
 スピノザの哲学は,目的論に関してはその一切を排除したような思想です。これは第一部付録から明白であるといわなければなりません。ですからスピノザの立場からユークリッド原論の諸命題を援用することは,そのことだけで適切性を欠いてしまうということはありません。第一部公理三から分かるように,スピノザは因果律を重視します。というか因果律だけを重視して,方法論としては原因causaから結果effectusへと辿る演繹法だけを肯定します。一般に公理系で書かれているものは,方法としては演繹法を採用しているといえるのであって,この観点からはスピノザの哲学と相性がいいといえます。これは『エチカ』が公理系で記述されているということからも明らかでしょう。ただ,だからユークリッド原論が因果律について何かを言及しようとしているとまではいえませんから,スピノザがユークリッド原論の諸命題を援用するとき,それがすべての場合で適切であるということはできないでしょう。ただ,そのことで適切性を欠くという事態に陥ることはないというようにはいえるでしょう。
 この部分に関する探究はここまでとします。巻頭言の中ではもうひとつ,畠中の訳出について言及されていますので,次にその考察をします。これは第二部定理三二の訳です。
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大成建設杯清麗戦&援用の適切さ

2023-08-26 18:55:23 | 将棋
 23日に指された第5期清麗戦五番勝負第四局。
 西山朋佳女流三冠の先手で三間飛車。先手から角を交換したので後手の里見香奈清麗は向飛車。先手も8筋に飛車を振り直して相向飛車の相振飛車になりました。
                                        
 第1図で先手は☗3六角と打ちました。これは角を打ってしまうので,攻めを凌がなければなりません。ところが☖2七歩成☗同角☖2六飛☗3六歩に☖2五桂と跳ねて後手が駒得する分かれとなり,後手の攻めが続く形になって大きな差がついてしまいました。
                                        
 第1図では普通に☗2六同歩と取った方が先手はよかったようです。何か誤算があったのでしょうが,先手が不甲斐ない内容の将棋だったように思います。
 3勝1敗で里見清麗が防衛第1期,2期,4期に続く連覇で4期目の清麗です。

 円が存在すれば,その円の中で無限に多くのinfinita仕方で線分が交差することになります。そのために無限に多くの面積が等しい矩形が形成されることになります。つまり円が存在すれば,円の本性naturaの必然性necessitasによって,無限に多くの面積が等しい矩形が無限に多くの仕方で存在することになるのです。
 第一部定理一六がいっているのは,Deusが存在するなら,神の本性の必然性から,無限に多くのものが無限に多くの仕方で存在するということです。このゆえに,ユークリッド原論の命題を援用することは,スピノザにとって適切であることになるのです。もちろん,円の中で無限に多くの仕方で直線が交差するということと,神の本性の必然性から無限に多くの仕方でものが存在するようになるというとき,たとえ比喩であったとしても,無限に多くの仕方ということには意味の相違があるのであって,比喩として成立しないということはできます。いい換えればこの説明は牽強付会であるかもしれません。ただ,円が存在するならばその中には無限に多くの面積が等しい矩形があるということと,神が存在するならば無限に多くのものが存在するということになるということは,前者は円の,後者は神の,本性の必然性から生じることですから,比喩として適切であるということは間違いありません。したがって,ユークリッド原論の命題を比喩として援用することは,第一部定理一五に対して適切であるというだけでなく,第一部定理一六に対しても適切であるということになります。
 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で存在するのは,神が起成原因causa efficiensとして結果effectusとして無限に多くのものを発生させるという意味です。つまりそこには因果関係だけがあるのであって,何か目的finisがあるというわけではありません。円の中に無限に多くの面積が等しい矩形が存在するという場合は,それと同じ意味で円が矩形の原因であるというわけではありません。ただ,円が存在するのが,無限に多くの面積が等しい矩形を形成するためであるのか,つまりそういう目的で円が存在するのかといえば,そういうわけではないということはそれ自体で明らかだといっていいでしょう。
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伊藤園お~いお茶杯王位戦&スピノザの援用

2023-08-25 19:06:36 | 将棋
 22日と23日に徳島市で指された第64期王位戦七番勝負第五局。
 藤井聡太王位の先手で佐々木大地七段の横歩取り。相振飛車のような形に進みました。
                                        
 形勢を分けたのは第1図で☖同金と取った手でした。ここは☖同歩が普通の手です。☖同金と取ると後手が角,先手が銀を取ってと金を作るという展開になるのですが,たぶん後手はそれでよいとみていたものの,実際はと金を作った先手に分がある分かれだったということでしょう。
 この将棋は第2図の☗2四歩と打ったのが名手で,この手を抜きには語れません。
                                        
 この手自体は制約こそ与えていますが詰めろではありません。だから後手から条件を満たした詰めろが続けば後手の勝ちです。後手にとってはチャンス到来と思える局面。そこで1時間半以上考えたのですが,その条件を満たすことができませんでした。ここに歩を打って勝ちというのはすごい読みだったと思います。
 藤井王位が勝って4勝1敗で防衛第61期,62期,63期に続く四連覇で4期目の王位です。

 第二部定理八備考で円に喩えられているのは,Deusあるいは神の属性attributumで,矩形,正確にいえば面積が等しい無限に多くのinfinita矩形に喩えられているのが個物res singularisでした。しかるにスピノザの哲学では,第一部定理一五にあるように,存在するものはすべて神のうちに存在するのであり,神がなければ何も存在することはできないし,何も考えるconcipereことができないのです。ユークリッド原論における命題では,これは説明しませんでしたが,面積が等しい無限に多くの矩形は円の中にあるのですし,円がなければ存在することも考えることもできないのです。これでみれば分かるように,スピノザは実に適切な仕方でユークリッド原論の命題を援用していることになります。そしてこの適切さは,おそらく『スピノザーナ11号』の巻頭言で河井がいわんとしていること以上の適切さを含んでいると僕は思います。スピノザによるこの援用は,円がなければ矩形はあることも考えることもできないという原理を援用していて,おそらく河井はこのことを念頭に置いてスピノザの援用とカントImmanuel Kantの援用を比較しているように僕には思えるのですが,そればかりではなく,面積が等しい無限に多くの矩形は円の中にあるということ,つまり円に内在しているということも含んでいることになるからです。円は神の比喩であることに再び注目すれば,これはスピノザの哲学の原理のひとつである内在の原理に関しても適切な援用であるといえるからです。
 援用の適切さは,これだけに留まるものではありません。ユークリッド原論の命題によれば,面積が等しい無限に多くの矩形は,円がなければあることも考えることもできないのですが,もし円があるのであればその円の中に必然的にnecessarioあることになりますし,よって考えることもできるということになります。つまりこうした矩形が存在しまた考えられるためには,円があるというだけで十分なのであって,それ以外の条件は何も必要ありません。よってスピノザがこの命題を援用するときには,第一部定理一五だけでなく,第一部定理一六にも合致していることになります。神さえ存在すれば,無限に多くのものが無限に多くの仕方であることになるからです。
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日刊スポーツ賞スパーキングサマーカップ&カントの援用

2023-08-24 19:22:47 | 地方競馬
 岩手から1頭,高知から2頭が遠征してきた昨晩の第20回スパーキングサマーカップ
                                        
 前にいこうとしたのはファルコンビーク,シゲルタイタン,ポリゴンウェイヴ,スマイルウィの4頭。ポリゴンウェイヴの逃げとなり,シゲルタイタン,スマイルウィ,ファルコンビークの順になり,アトミックフォースも直後まで追い上げてきました。2馬身差でタイムフライヤーとリンゾウチャネル。2馬身差でダノンロイヤル。ワールドリング,リーチアディール,ヴァケーション,コパノジャッキーという順で続き,3馬身差でアイアムレジェンドとダノンスプレンダーが最後尾を併走。前半の800mは49秒4の超ハイペース。
 3コーナーからスマイルウィが前の2頭の外から並び掛けていくと,コーナーのうちに捲り切り先頭で直線に。直線はさすがに一杯になっていましたが,追いついてくることができる馬はなく,快勝。スマイルウィをマークするように外からアトミックフォースが追ってきたのですが,こちらは直線で一杯。ポリゴンウェイヴとアトミックフォースの間を突いたリンゾウチャネルが2馬身半差で2着。後方から大外を追い込んだコパノジャッキーが1馬身差で3着。
 優勝したスマイルウィゴールドカップ以来の勝利で南関東重賞4勝目。船橋,大井,浦和,川崎の順で各地の南関東重賞を制することになりました。この馬は重賞で通用する馬ですから南関東重賞のここでは力量上位。かなりのハイペースを早めに動いて捲ったという内容は,その力を見せつけたといえるものだったと思います。目標は重賞制覇ということになるでしょう。父はエスポワールシチー
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手大井記念以来の南関東重賞31勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞11勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。

 河井によれば,カントImmanuel Kantによるユークリッド原論第3巻命題35の援用は,『判断力批判Kritik der Urteilskraft』の62節でなされていて,その内容は,相交わる二直線のそれぞれの部分からなる矩形の面積が等しくなるようにせよという課題があって,この課題を解決する目的が円であるというようになっています。これは河井もいっていますが,カントはちょうどスピノザと逆の観点からこの命題のことを考えていることが一目瞭然です。これは目的論的な観点に立つカントと,目的論を排除するスピノザの相違が浮き彫りになっていて興味深いと河井は続け,カントが示しているような課題に疑問を投げ掛けています。これはつまり,河井がカントによる命題の援用を不適切とみているということだと思われますが,そのことの証明は厄介だから省略するとしています。これはこれで意味のあることだと思いますから,別の形でそれを証明してほしいと僕は思います。
 ここではカントの哲学について深く追究はしません。というよりそうしたことは僕の手に負えません。ただ,カントによる援用が不適切であるということは,それと対照的であるスピノザによる命題の援用は適切であるということになるでしょう。そして僕はそのことはその通りであると考えますし,このことについてはそれほど時間をかけずに説明することができます。スピノザが命題を援用するとき,それを適切な仕方で援用しているということは,説明して意味があることですから,これは考察の対象とします。
 ユークリッド原論における命題は,円の内部でふたつの弦が交差するなら,一方の弦のふたつの部分に囲まれた矩形が,もう一方の弦のふたつの部分に囲まれた矩形の面積と等しい,というような主旨になっています。このことから明解に理解できるように,この命題において面積が等しいふたつの矩形があるのは,円ありきのことです。円の内部でふたつの弦が交差するから,等しい面積の矩形が形成されるのであって,もし円がないのであれば,そのような矩形は形成されようがないからです。したがって,命題に示されている矩形は,円がなければあることも考えるconcipereこともできないような矩形であることになります。
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戸口の雑感⑯&追及する根拠

2023-08-23 18:54:11 | NOAH
 戸口の雑感⑮でいったように,戸口が全日本プロレスでの仕事を終えたのは,1981年でした。この直前に,戸口はジャンボ・鶴田と一緒に会場で馬場に呼ばれ,もうすぐ身を引くのでふたりで会社を仕切っていくように言われたといっています。1981年3月31日のことだと推定されています。戸口はそのように言われたので,全日本プロレスのブッカーをやってもいいと思ったし,馬場もそれを望んでいたのだろうと語っていますが,これは一概に戸口が正しく判断しているとはいえない一面があります。
 これも⑮でいったことですが,この時期は全日本プロレスが経営的に最も厳しい時期でした。これを立て直すために,日本テレビから出向を受け入れたのです。馬場は本当はそんなことはしたくなかった筈で,これは仕方がなく受け入れたということでしょう。ですから,馬場は日本テレビから出向してくる人物が全日本プロレスの社長になるくらいであれば,鶴田と戸口に経営を任せてしまった方がまだましだと思っていたからこのように言ったという可能性がありますし,すでに出向してくるのが決まっていて,その場合には自身が選手として第一線を退かなければならないという覚悟があって,鶴田と戸口に対してそのように言ったという可能性もあります。このあたりのことは馬場がどう思っていたかを確認することができない以上は事実を確定させることができません。少なくとも馬場が本心からそうしたいと思って,鶴田と戸口にこのような話をしたという可能性は低いのではないかと僕には思えます。
 戸口はこの話を受けて,日本に定住しようと思い,当時はアメリカに住んでいた家族を日本に呼ぼうと思いました。そのために飛行機代を馬場に出してくれるように頼んだのですが,馬場はそれを断りました。戸口はこの一件が,全日本プロレスで仕事をすることをやめる契機になったというように言っていますが,これはさすがに誇張です。これが誇張であるということは,戸口自身の発言からも裏付けることができると僕は考えています。

 第二部定理八備考を記述するにあたって,スピノザがユークリッド原論第3巻命題35を念頭に置いていることは確実と僕は考えます。そこでもしそのことをあらかじめ知っているのであるとしたら,スピノザの記述がその命題に見合うように訳された方がよいと考えておかしくありません。したがってその場合は,無限に多くのinfinita相互に等しい矩形が含まれている,と邦訳した方が,相互に等しい無限に多くの矩形が含まれている,と訳すよりも,命題に見合っているのであるとしたら,前者の訳が適切で,後者の訳は適切ではないということになるでしょう。だから,河井がこの点に注意を促すのも,理由がないというわけではありません。河井自身がいっているように,無限に多くの,という部分の順序が入れ替わってしまうだけで,それが命題からの引用であるということに気付かなくなってしまう読者がいないとも限らないからです。なので,僕はそれでこの部分の意味が変わってしまうというわけではないから,この点を深く追求する必要はないと考えますが,河井がこれを追及する理由がないわけではないということも認めます。
                                        
 ゲプハルト版というのはスピノザの著作の原本として最も有名なもので,おそらく最も信頼に値するものでしょう。だからそれを利用して訳出された『エチカ』というのは,畠中による日本語版だけではありません。河井によれば,カイヨワRoger Cailloisは訳するにあたって,自身で図を加筆しています。アウエルバッハErich Auerbachは訳注として,ユークリッド原論への言及があります。カーリーEdwin Curleyも同じように,ユークリッド原論への指示をしているようです。こうした外国語の文献と比較した場合にも,岩波文庫版にも命題に関する訳注が入っているべきだと河井が考えてもおかしくないでしょう。つまりこうした各国語版との比較という観点からも,河井がこの点を追及する根拠はあるということになります。
 この命題は,カントImmanuel Kantも援用していると河井は指摘しています。そしてカントもそれを援用するときに,スピノザと同様に,それがユークリッド原論第3巻命題35の引用であるということには触れていないようです。この命題はそれだけ有名なのでしょう。
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人間らしさ&訳出の意図

2023-08-22 19:16:55 | 歌・小説
 Kがお嬢さんに,先生が感じていたのと同じ性的魅力を感じていたと先生が認識していたなら,天罰の条件は満たされます。僕は『こころ』のテクストはそのように読解することができると考えています。
                                        
 先生は奥さんの拒絶を振り切ってKとの同居を開始しました。この時点で奥さんは将来の悲劇を予期していました。まさかKが自殺するとまでは思っていなかったかもしれませんが,先生とKそしてお嬢さんが同居することは,先生にとってもKにとってもよくないことだと奥さんは思っていたのです。しかし先生はそのときには,自分と同居することが,Kのためになると思っていたのです。なぜならKにはどうにも人間らしいところが欠けていると先生はみていて,それが自分と同居し,奥さんやお嬢さんと日々接することで回復するだろうとみていたからです。
 このときのKは故郷からの送金を止められていて,経済的に困窮していました。だから経済的には余裕があった先生が,友人であるKの困窮を見かねて,自分と同居させたというようにこの部分は解釈することができますし,真相はそうであったかもしれません。ただ重要なのは,後に先生がこの当時のことを再構成して遺書に記述したときには,Kを自分と同居させた理由について,Kの経済的困窮よりも,Kの人間性の回復を主だったものとしている点です。つまり,実際にその時どうであったのかということは分からないのですが,少なくとも遺書を書いている時点の先生は,Kの人間性を回復させるためにKを自分と同居させたと認識していたのです。そしてこの認識は,Kが自殺をして以降は変わっていくような要因がありませんから,天罰ということばを口にしたときの先生も,同じように認識していたといってよいでしょう。
 この人間らしさの回復ということの中に,恋愛感情とか性的欲望といったものをKが有するようになるということが含まれていると僕は考えます。おそらく先生のうちにはそうしたものがあったと思うからです。

 ゲプハルト版は『エチカ』の底本として,あるいは『エチカ』だけに限らず,『スピノザ往復書簡集Epistolae』も含めたスピノザの全著作の底本として,世界的に最も著名なものと思われます。世界的に最も著名であるということは,それだけゲプハルト版が底本として信頼に足るものであるということの証であろうと思います。ですから畠中尚志が『エチカ』を邦訳するにあたって,ゲプハルト版を原本として採用したのはごく自然なことであったといっていいと思います。そしてそれによって完成した岩波文庫版が,ゲプハルト版と同じ図を示しているのも,この流れからすれば当然といえるでしょう。
 一方,河井が指摘しているもうひとつの部分には,ゲプハルト版とは無関係な,畠中の何らかの意図が介在している可能性があることは否めません。河井によれば,この部分のスピノザによるラテン語の記述は,infinita inter se aequalia rectangula となっているそうです。そしてこれは直訳するなら,無限に多くの相互に等しい矩形が含まれている,となるのであって,畠中の訳のように,相互に等しい無限に多くの矩形が含まれていることになる,とはならないと河井は指摘しています。もし河井の指摘が正しいのであれば,畠中は訳の順を変更したということになりますが,変更したのであればそこには何らかの意図があったと考えるべきでしょう。しかし畠中は訳注ではこの部分については何も語っていませんから,どういう意図があったのかは不明です。不明であれば推測するほかありませんが,僕には見当がつきません。なので,河井の指摘が正しいのであれば,畠中は何らかの意図をもってこの部分を直訳ではなく意訳したことになるのですが,畠中の真意は不明であるとしか僕にはいいようがありません。
 僕は先述したように,河井が指摘するほどこのことが重要であるとは思わないです。ただ,僕はスピノザがこの部分を記述するにあたって,ユークリッド原論第3巻命題35を意図しているということは,ここで河井が指摘していることによって初めて知りました。このことが僕の見解に影響を与えている可能性はあります。
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オールスター競輪&等しい矩形

2023-08-21 19:34:25 | 競輪
 西武園競輪場で争われた昨晩の第66回オールスター競輪の決勝。並びは吉田‐真杉‐平原‐武藤の関東,清水‐山田の西国,犬伏‐松本の四国で古性は単騎。
 平原がスタートを取って吉田の前受け。5番手に古性,6番手に清水,8番手に犬伏で周回。残り2周のホームの入口から犬伏が上昇していくと,吉田が早めに誘導を追い抜いて突っ張りました。犬伏は引かざるを得なくなり,周回中と同じ一列棒状で打鐘。ホームから清水が捲り上げていくと真杉が早くも番手捲りを敢行。清水は平原の外を併走することになりました。この競り合いが直線まで続いたため,ふたりとも真杉を抜きにいくことができず,そのまま真杉が差を広げて優勝。競り合いに決着がつかなかったので,直線の手前で武藤を外に弾き,平原と清水の外から伸びた古性が3車身差で2着。古性に弾かれましたが立て直してさらに外から伸びた武藤も競り合う両者を差して4分の3車身差で3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は先月の静岡のFⅠ以来の優勝。グレードレースは5月の宇都宮記念以来の優勝でビッグは初制覇。このレースは残り2周を前に吉田が発進し,そのまま残り1周から真杉が番手発進。すぐ後ろが競り合いになり,この競り合いに決着がつかなかったため,真杉にはもってこいの展開になりました。関東勢の結束が導いた優勝といえるでしょう。吉田は規則に反する走行で誘導を追い抜いて先行したため失格になりましたが,僕はこれはいただけないと思います。犬伏も吉田が規則は守るという前提で叩きにいっているのですから,規則違反を覚悟で突っ張られてはレースにならないでしょう。

 スピノザがユークリッド原論第3巻命題35を念頭に置いて,第二部定理八備考を記述していることは明白です。そしてこれは読者にとって有益でまた重要な情報といえます。しかし岩波文庫版の『エチカ』では,このことについて何も触れられていません。畠中はいくつかの訳注を付していますし,また本文の中にも自分自身で語句を補ったりしているのですが,この箇所では何も触れていないのです。たぶんこれには次のような理由があります。
                                   
 岩波文庫版の『エチカ』のカール・ゲプハルトCarl Gebhardtが編集した,いわゆるゲプハルト版を元のテクストとして,それを邦訳しています。このゲプハルト版にはこの点に関する言及はありません。さらに,ゲプハルト版にも図が示されているようなのですが,その図ではスピノザが示している線分Dと線分Eが直交しているようです。つまりそれは岩波文庫版の図に一致しています。つまりこの部分を邦訳するにあたって,畠中はゲプハルト版に完全に依拠したのだと考えられます。
 さらにもう一点,河井は次のことをいっています。
 畠中の訳では,相互に等しい無限に多くのinfinita矩形が含まれている,となっています。しかしこの部分の原文からすると,無限に多くの相互に等しい矩形が含まれているとすべきだとのことです。これは原文に忠実に訳するか否かだけのことであるように僕には思えるのですが,河井にとってはそうでなく,原文に忠実な訳,つまり畠中の訳より河井の訳の方が,いらぬ誤解を招かないと主張しています。スピノザが参照しているユークリッド原論からは,矩形が等しくなる,これは面積が等しくなるという意味ですが,そのようにさせているのは矩形ではなく円であるのだから,無限に多くの相互に等しい矩形が円の中に含まれるというべきであって,相互に等しい無限に多くの矩形が含まれるというと円の中の,無限に多くの矩形のうちに相互に等しいものがあると解されるおそれがあるというのが,河井がいっていることの主旨と思われます。僕はそこまでこのことにこだわる必要があるのかいささか疑問に感じるのですが,もしも誤解を招きかねないのであれば,修正した方がよいのは確かでしょう。
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第四部定理六六証明&第二部定理八備考

2023-08-20 18:52:52 | 哲学
 第四部定理六六を証明しておきます。
                                   
 現実的に存在する人間は,理性ratioに従っている限りでは,認識された事物が未来と関係していてもまた現在と関係していても,それによって感情affectusに刺激されるafficiとするなら,同じように刺激されることになります。なぜなら,第二部定理四四系二にあるように,事物を永遠の相aeternitatis specieの下に認識することが理性の本性natura Rationisに属しているので,その事物が現在と関係しているのか未来と関係しているのかということとは関係なく,永遠の相の下に認識されているからです。よってその認識cognitioによって刺激される感情は,事物が未来と関係しているのか現在と関係しているのかということとは関連しないのであって,永遠の相の下に認識される事物から均一的な感情に刺激されるということになるからです。
 よって,大なる善bonumあるいは大なる悪malumといった認識から刺激される感情は,それが現在と関係しているのか未来と関係しているのかということとは無関係に,同一に刺激されます。同様に,小なる善あるいは小なる悪という認識から刺激される感情も,現在と関係するか未来と関係しているのかとは関連せず,同一の感情です。
 したがって,人間が理性に従っている場合に生じる感情というのは,認識された事物が現在と関係しているか未来と関係しているのかということを考慮しなくてもいいのです。他面からいえば,理性に従っている限りで生じる感情は,その認識がなされた時点で生じる感情として理解すればよいのです。それならば,それが現在と関係するか未来と関係するかということとは関係なく,小なる善よりも大なる善が選ばれることになりますし,大なる悪よりは小なる悪が選ばれることになるのです。
 したがって,人間は理性に従う限りでは,現在の小なる善よりも未来の大なる善を欲求します。同様に未来の大なる悪よりも現在の小なる悪を欲求するのです。なおこれはそれ自体で明らかなように,理性に従っている人間は,未来の大なる善より現在の小なる善を忌避しようとし,現在の小なる悪よりも未来の大なる悪を忌避しようとするというのと同じです。

 スピノザが第二部定理八備考の当該箇所でいっている文言は,岩波文庫版では次のように訳されています。
 「円は,その中でたがいに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいような本性を有する。ゆえに円の中には,相互に等しい無限に多くの矩形が含まれていることになる」。
 ここでいわれていることの前半部分は,ユークリッド原論第3巻命題35でいわれていることと同じです。一方,円の中に相互に等しい無限に多くのinfinita矩形が含まれている,というのは,スピノザがこのことから導出している結論です。スピノザは,円の中で相互に交わるすべての直線の線分からなる矩形が相互に等しいということ,つまりユークリッド原論第3巻命題35でいわれていることを,円の本性essentiaとみなしています。これは備考Scholiumの文言から明白でしょう。事物の本性からはその特質proprietasが流出します。つまり,円の中に相互に等しい無限に多くの矩形が含まれるということは,円の特質,つまり円の本性から流出する特質であるとスピノザはみなしていることになります。これをいうためには,円の中で互いに交わる直線の線分というのが無限に多くあるということを前提しなければならないように僕には思われますが,とくに説明なしにそのことを前提することに大きな問題がるようにも思わないです。
 この検証から分かるように,スピノザはこの部分では明らかにユークリッド原論第3巻命題35を意識しているのです。そしてこれは重要な情報であるといえるでしょう。スピノザは第二部定理八備考の中で,神Deusの無限な観念ideaが存在する限りにおいて存在する個物res singularisの観念と,それが現実的に存在するといわれる場合の個物の観念のあり方の相違を説明するときに,ユークリッド原論を利用しているということは,『エチカ』の読者であれば知っておいた方がよい情報であるといえるからです。というのは,スピノザが論述を進めるにあたってどのような方法論を用いようとしているのかということや,スピノザが自然Naturaを原理的にどのように説明しようとしているのかといったようなことは,この一例だけをもってしても,おおよそ類推ができるようになっているといえるからです。
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伊藤園お~いお茶杯王位戦&ユークリッド原論第3巻命題35

2023-08-19 19:15:41 | 将棋
 15日と16日に嬉野温泉で指された第64期王位戦七番勝負第四局。
 佐々木大地七段の先手で相掛り。後手の藤井聡太王位が横歩を取る将棋になりました。
                                        
 第1図で☗6一飛と打たれたら,☖5三桂と受ける手を後手は考えていたようです。感想戦で並べられたのは☗6二銀☖同金☗5一角☖3一王☗6二角成☖2二王☗5三馬で,これは先手が勝ちそうです。
 実戦は☗2四歩と打って☖同銀上としてから☗6一飛と打ちました。
                                        
 後手が☖5三桂と打つなら,条件は第1図より第2図の方がよさそうに思えます。☗6二銀とは打てなさそうだからです。ところがこの局面では後手は☖5五桂と打って攻め合いにいき,この局面での☖5三桂は感想戦でも触れられませんでした。不思議だったのですが,どうも第2図から☖5五桂と打って勝ちという錯覚が後手にあったようです。たぶん先手は第1図で☗6一飛と打った方がよく,☗2四歩は最善手ではなかったのですが,そのために後手は☖5三桂という手自体は発見していたものの,錯覚が生じてそれを逃したということなのでしょう。
 佐々木七段が勝って1勝3敗。第五局は22日と23日に指される予定です。

 ここまでに説明してきたような事情になっているわけですから,第二部定理八備考において,第二部定理八系で触れられていない個物res singularisの観念ideaの区別distinguereのあり方について言及されているとしても,だから備考Scholiumにおいては現実的に存在する個物の観念についてとくに何かを言及しようとスピノザはしているわけではないと解してよいと僕は考えます。むしろこの備考では矩形という特定の個物を個物全般の比喩として用いたので,矩形の観念が現実的に存在するようになるとその観念はほかの矩形の観念と区別することができるようになるけれど,神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる場合は,そうした区別は不可能であるということをいい添えることができたと解するのが適切ではないでしょうか。
 河井のいわんとすることは,ここまでのことを前提としつつ,さらにその先にあります。
 すでにいっておいたように,円の中に無限に多くのinfinita矩形があるというとき,円の中で直線が交差するということを念頭に置けばよいのであって,ふたつの線分が直交する必要はありません。当該部分のスピノザのテクストは確かにそう解釈できるようになっているのであって,スピノザ自身がそのように考えていたということは疑い得ません。そして河井がいうには,スピノザがそのようにテクストを記述するときには,ある事柄を意識していたのです。それはユークリッド原論の第3巻の命題35です。僕はこの命題まで探求することはできませんので,『スピノザーナ11号』の巻頭言で河井が示している文章をそのまま記述します。ただしこれは,共立出版社から1971年に発行された,日本語版のユークリッド原論に示されている訳文のようです。
 「もし円において二つの弦が互いに交わるならば,一方の弦の二つの部分にかこまれた矩形は他方の弦の二つの部分にかこまれた矩形に等しい」。
 僕は円の中には無限に多くの矩形があるといういい方でも示してきましたが,スピノザがいっているのは,円の中には相互に等しい無限に多くの矩形が含まれているということなので,確かにそれはユークリッド原論のこの命題でいわれていることと一致しています。
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JBC協会賞ブリーダーズゴールドカップ&区別の条件

2023-08-18 19:12:01 | 地方競馬
 昨晩の第35回ブリーダーズゴールドカップ
 発走直後から鞭を入れていたテリオスベルが最初から逃げるレースになりました。向正面に入るあたりでリードは4馬身くらい。2番手はグランスラムアスクとパライバトルマリン。3馬身差でプリティーチャンス。1馬身差でネーロルチェンテ。3馬身差でカラフルキューブ。6馬身差でウワサノシブコ。ルージュジャドールは大きく取り残されました。ハイペース。
 3コーナーでもテリオスベルのリードは4馬身くらいだったのですが,ここからさらに差を広げていきました。2番手がパライバトルマリンで3番手にプリティーチャンス。直線に入ると差は縮まったのですが,追いつく馬はなく,テリオスベルが楽に逃げ切って優勝。パライバトルマリンが4馬身差で2着。直線でプリティーチャンスの外から伸びたカラフルキューブが2馬身半差の2着。プリティーチャンスは2馬身差の4着。
 優勝したテリオスベルクイーン賞以来の勝利で重賞2勝目。この馬はダートの牝馬路線では安定勢力。ここは強力な古馬が不在でしたので,大きなチャンスでした。常に安定した結果を残す馬で,勝つところまでいくかどうかは相手次第。逆にいえばこの馬に勝てないようだと,この路線でトップまでいくのは難しいという位置づけの馬だと思います。父はキズナ。母の父はクロフネ。7代母がフォルカーで母のひとつ下の全妹がJRA賞で2011年の最優秀短距離馬,2012年の最優秀4歳以上牝馬に選出されたカレンチャン。Teleosは古代ギリシア語で夢を叶える。
 騎乗した江田照男騎手と管理している田島俊明調教師はブリーダーズゴールドカップ初勝利。

 第二部定理八備考がいっているのは,ある矩形の観念ideaは,その矩形が現実的に現実的に存在することによってほかの矩形の観念と区別されるということです。ですから,仮に矩形が円に包容される限りにおいて存在しているという場合にも,矩形の観念がほかの個物res singularisの観念,すなわち矩形とは本性essentiaを同じくしない個物との観念との間では区別されることになります。よって,これを円の比喩である神Deusあるいは神の属性attributumに直接的に適用するのであれば,ある矩形の観念はその矩形が現実的に存在するという場合にはほかの矩形の観念とは区別されるけれども,神の無限な観念が存在する限りにおいて矩形の観念が存在するといわれる場合には,ほかの矩形の観念とは区別されません。しかしたとえ矩形の観念が神の無限な観念が存在するといわれる限りにおいてのみ存在するといわれる場合でも,矩形の観念が矩形とは本性を同じくしないもの,たとえば円の観念と区別されないというわけではなくて,矩形の観念も円の観念もただ神の無限な観念が存在するといわれる限りにおいて存在している場合にも,矩形の観念と円の観念は区別されるのです。
                                   
 したがって,個物の観念は個物が現実的に存在する場合にはほかの観念と区別されるけれども,神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する場合にはほかの観念とは区別されないということは,誤ったことをいっているわけではないのですが,留保条件が必要なのであって,これは本性を同じくする個物の間でのみ成立することであって,本性が異なる個物の間では成立しません。第二部定理八系は,個物一般について説明しているので,留保条件が必要なことについては言及しにくいのです。このために,区別distinguereについては系Corollariumではいわれていないけれども,備考Scholiumでは触れられていると僕は考えます。ある人間の観念は,その人間が現実的に存在することによってほかの人間の観念と区別されることになります。しかしある人間の観念が,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれるときには,ほかの人間の観念とは区別されません。しかしその場合でも,その人間の観念は,たとえば馬の観念とは区別されることになるのです。
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日刊スポーツ賞黒潮盃&比喩

2023-08-17 19:20:45 | 地方競馬
 金沢から1頭が遠征してきた昨晩の第57回黒潮盃
 マンダリンヒーローは左によろけるような発馬。外から前に出たウインドフレイバーがそのまま内に切れ込んでいっての逃げ。マンダリンヒーローとヒーローコールが2番手で併走。タイガーチャージ,ショウガタップリ,ドラケン,メーサンデュラントの4頭が併走で続いてここまでが先行集団。3馬身差でスイフトランナーとアントレゾール。さらにドゥーロアバンティとルクバーが併走で続き,コルドゥアンがその後ろ。カッテニシヤガレとライズゾーンが最後尾を併走。最初の800mは50秒4の超スローペース。
 3コーナーではヒーローコールが単独の2番手に上がり,2馬身差でマンダリンヒーローとメーサンデュラント。直線に入るとウインドフレイバーとヒーローコールの競り合い。この競り合いは長く続き,残り100mを過ぎてからヒーローコールが競り落として先頭に。外に持ち出されたマンダリンヒーローが伸びてウインドフレイバーは差したもののヒーローコールには届かず,優勝はヒーローコール。マンダリンヒーローが1馬身4分の3差で2着。逃げたウインドフレイバーが1馬身差で3着。
 優勝したヒーローコール雲取賞以来の勝利で南関東重賞3勝目。このレースはヒーローコールとマンダリンヒーローが対決する図式。雲取賞と同様に,ヒーローコールが勝ってマンダリンヒーローが2着という結果になりました。ただ,ヒーローコールが順調に使われていたのに対して,マンダリンヒーローはアメリカから帰国しての初戦だったこと,またヒーローコールの方が多くのレースを走っていることを考慮すれば,将来的には力関係が逆転するということもあり得るかと思います。父はホッコータルマエフロリースカップサンマリノの分枝で母の2つ上の半兄に2001年の函館2歳ステークスを勝ったサダムブルースカイ
 騎乗した船橋の森泰斗騎手優駿スプリント以来の南関東重賞54勝目。第50回,56回に続く連覇で黒潮盃3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞63勝目。黒潮盃は初勝利。

 それでも第二部定理八系第二部定理八備考との間に何らかの相違を見出そうとするのであれば,個物res singularisがいかにしてほかの個物と区別されるのかという点です。系Corollariumではこのことについては何も触れられていないのですが,備考Scholiumではスピノザはそれを明示しています。すなわち,円の中にある無限に多くのinfinita矩形の観念ideaは,現実的に存在するといわれるようになると,ほかの矩形の観念と区別されるようになるのです。他面からいえば,もし矩形が円の中に包容される限りにおいて存在するといわれる限りでは,ほかの矩形の観念とは区別されないのです。ですからこの点に注目するのであれば,スピノザは系においては個物の観念について同等の評価をしているにしても,備考の方では個物の観念が現実的に存在している場合について,特別なことをいおうとしていると解することができないわけではありません。
                                    
 ただし,この解釈には難点があります。これは個物の観念がほかの個物の観念と区別されるようになるのは,その個物が現実的に存在するようになる場合だけであるということについては,第二部定理八系の中では示すことが困難であると思われるからです。それは,系は個物あるいは個物の観念一般について言及しているのに対し,備考では個物一般を矩形という,ある特定の個物に喩えていることと関連します。
 備考では,矩形が現実的に存在するようになると,その観念もほかの矩形の観念と区別されるようになるといっています。この備考における矩形というのは,系における個物の比喩ですから,これを直接的に解すれば,個物が現実的に存在するようになると,その個物の観念はほかの個物の観念と区別されるようになるということになります。しかし僕の考えでいえば,このような解釈は適切ではありません。備考でいっていることが成立するのは,矩形がほかの矩形と区別されているからなのです。いい換えれば,どのような矩形も一般的には同じ本性essentiaを有しているからなのです。つまり,矩形が現実的に存在することによって区別distinguereが可能になるのは,ほかの矩形の観念との間のことなのであって,矩形以外の別の個物の観念との間でのことではないのです。
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